2024年4月11日木曜日

なぜモラハラは結婚前に見抜けないのか?

 

 「結婚前はとても優しい人だったのに、結婚してからモラハラ人間に化けるのを見抜くことができなかった」

といった話はよく聞きます。実際にSNSなどでそうしたモラ被害にあった方に話を伺っても、「モラを見抜く特徴」といったものは、「見当たらないことが多い」のだそうです。

 これは大変不思議なことで、一般的な感覚だと「なにか、結婚前や付き合う前でも、モラハラになりそうな予兆や予感、前触れのようなものがあるのではないか?」と思いがちですが、「そうではない。わからない」タイプのモラハラ人間が存在することは恐怖でしかありません。

 そこで、ここしばらく「モラハラとは一体なんなのか」ということを考察していたのですが、いくつかのヒントから、その正体が判明してきたので、それをまとめておこうと思います。


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<モラハラの2類型 〜被害者型と指導者型〜>

 結論から先に言えば「結婚などの前に、事前に見抜けるタイプのモラハラ人間」と「結婚などをして内側に入らないと見抜けないタイプのモラハラ人間」という2つの類型があるのだ、ということになります。

 一般的に私達は、前者と後者を混同して「ひとつのモラハラスタイル」を想定してしまっているので、それに当てはまらない時に、「事前に何か前兆があるだろう、あるはずだ」と思い込んでしまうのですね。

 ところが、「見抜けるタイプと見抜けないタイプがある」ということになると、なるほど前者と後者とでは、その「動き」が違うわけです。

 以下、詳しく説明してゆきましょう。

■ 被害者型モラハラ人間

 モラハラというのは、ざっくりいえば「正義で善」です。もちろん、モラハラ行為を行うのは「悪」だと思いがちですが、それを行う人間には、それなりの善や正義という感覚があり、それを他者に当てはめようとするわけです。

 たとえばカスタマーハラスメント=お客として店員に圧力をかける、ようなモラハラだと、「店員が何か間違ったことや、不備を起こしたので、それに対して文句を言って正そうとする」行為であることが大半でしょう。

 あおり運転なども同じで、ニュースなどでは「あおり行為」のほうを主に取り上げますが、「あおられた側」になにか、後続車に誤解を生じさせるような動きがあり、「急に割り込んできた」とか「追い越し車線をいつまでもあけなかった」ので、それは善悪に対して悪である、という感じ方からあおり行為へと移行してゆくパターンはよくある話です。

 これらのモラハラは「見抜くことができる」といえます。なぜなら、「善悪に照らし合わせて、なにか間違ったことを自分がやられたと感じたら、おのずとモラハラ行為が発動する」タイプだからです。これは、恋人や妻にももちろん発動しますが、店員や第三者といった「他人」にも、自分の基準に応じた「正義や善」に外れたと感じた瞬間発動しますから、見抜きやすい、と言えるでしょう。

 このタイプが一般的に「一緒にお店に行ったときの態度」とかで判別しやすい類型になります。

 不正義を自分に対して「やられた」と感じる力が強いので、「被害者型」と名付けました。


■ 指導者型モラハラ人間

 それに対して、後者の「指導者型」というのは、実はまだ日本ではあまり認識されていないタイプのモラハラ人間の類型だと思います。

 これはどういうことかというと、同じようにその人物の内部では「あるべき理想や正義、善悪」というものが抱かれているのですが、それに対して、彼ないし彼女は

”ストイックにその正義や善を実行しようとする”

ことが多いタイプです。基本的には真面目であったり、他者にたいして善なる存在であろうとしますから、「善き人」の外面を持ちます。そしてまた、そうなるように、「自分もしっかり努力している」ことが大半なので、周囲からみて、この人物が「モラハラ人間である」とはなかなか想像ができないと思われます。

(優しく、良い人であるべきだ、という理想を実践しているわけです。)

 自分でも努力をしているので「ストイック型」と呼んでもいいかもしれませんが、実はストイックに努力をしている間はなんの問題も起こさないので、あえて問題行動を起こす段階での「指導者型」と呼びましょう。

 このタイプのモラハラ人間が「化ける」「変化する」のは、お付き合いをしたり結婚したり、「自分の内側の存在」「自分の枠内の存在」「自分のグループ内の存在」に相手が入ってきた時です。

 その時に何が発動されるかというと「自分はこうあるべきだと考えているので、おなじグループに属するあなたも同じであるべきだ」という思いです。

 モラハラ人間である彼や彼女自身は、「ともに善なる高みを目指してゆこう」とか「ともにおなじ正義を守ってゆこう」と思っています。そして、それに対して不十分であるパートナーに対して

「そんなことで共に歩んでゆけるのか!」
(そんな状態で、俺の私の正義や善を共有できるのか!)

と叱責するわけです。この動きが、強烈なスポーツ部活動などのしごきに似ているので「指導者型」と呼んでみましょう。

 この場合、モラハラ者は「指導者」なので、ガンガン「未達の者、修練が届いていない者」を責め立てます。そして、目指している正義や善は、一般的には「それはある意味・一見すると正しいこと」だったりするため、被害者は正義の名の下に追い詰められてゆくわけです。

 この指導者型の特徴は「部活動」みたいなものですから、自分の部活の内部にしか発動しません。もちろん、外部に対しての「善や正義」は抱いているのですが、「内部の人間以外には、関係がない」と思っているので、外では問題を起こさないわけですね。


<モラハラ2類型の根底にあるもの>

 とまあ、いちおうわかりやすく便宜的に「被害者型」と「指導者型」に分けましたが、モラハラ人間としての根っこは繋がっているため、時に連動した動きをすることがあります。完全に切り分かれているもの、と考えるべきではありません。

 根っこは関係があります。

 そのため、カスタマーハラスメントなどでは、店員に対して執拗に責め立てる時に、「自分はこいつを指導しているのだ、教えているのだ」という感覚を抱くこともあり、指導者型の要素も含まれています。

 また、家庭内でしかモラハラを起こさない人間でも、「外面に対して、家族のお前がなっていないので恥をかかされた」といったような被害者的感情を抱く場合もあるでしょう。

 ただし、そのストイックさには差があることが多く、

■「被害者型」は正義や善に対して自分の努力をしない(いい加減・怠惰)

■「指導者型」は正義や善を自分なりに実行しようと努力している(有言実行)

という違いがあるのは事実です。


<モラハラ2類型を生み出す原因とその正体>

 ではなぜ、これらの2種類の「モラハラ人間」が誕生するのでしょうか?考えられる原因としては、

『幼少期、あるいは生育・発達途中で、あるがままの自分を受け入れてもらっていない』

ということが隠れていると思われます。

 宗教2世問題や、虐待問題、生きづらさの問題を考えるうえで、重要なキーワードとなって出てくるのが「親からの無償の愛」という言葉なのですが、モラハラもおそらくはこの部分に関わりがある現象だと仮説を立てています。

 こどもが生育してゆく過程において「あるがままの自分をそのまま受け止めてもらっていない」と何が起きるかというと、

■ 親の意図に沿った動きをしないと叱られる
■ 親の意図に沿った動きをするように自分から動こうとする

のが子供です。前者の感覚が強いと

『自分は(親の善によって)思い通りにさせてもらえなかった』
『自分は(親の善に反して)叱られたり制限されたりした』

という気持ちが多くなります。これが被害者型のモラハラ人間を育てるわけです。

 逆に後者の感覚が強いと

『自分は(親の善に沿って)自ら努力しよう』
『自分は(親の善を先読みして)そうあるべき人間になろう』

というストイックさを持ちます。こちらは指導者型へと繋がります。自分もそうしてきたのだから、おまえたちもそうするべきだ、という感覚ですね。

 どちらも「親からの愛情」を受け取るプロセスがネジ曲がっているため、「ありのままの自分」とはかけ離れた感覚で育ちます。

 では、その後の ”基準” となるものはなにか?

 それが「自分なりの正義、あるべき姿、善悪」というモノサシになるわけですが、そのモノサシは、「自分にとって理想的に歪められている」ことが多いのです。

 けして世間一般で言うところの、正義感とか善悪倫理の感覚とは、同じではないかもしれません。


<モラハラと自他境界>

 モラハラ者の共通した特徴は、「自他の境界線が曖昧だったり、乱れている」ということです。

 たとえば「被害者型」だと、テレビを見ていたり、SNSの文章を読むだけで「他人」の出来事を「自分の被害」と混同しますから、それについて過剰に怒ったり、持論を述べたりします。

 これは、お付き合いをする人のツイートや言葉を丹念に見ていれば、ある程度傾向に気づくことができるかもしれません。

 もちろん、攻撃性だけでなく、自他境界のあいまいさは「ネガティブな感情」も連鎖しますから、「落ち込む、悲しむ」といった面でも表現されることがあります。

 他者のメンタルに必要以上に引っ張られてダウンする人にも、モラハラ気質が隠れているかもしれません。

(今度は、自分のメンタルをダウンさせるような言動に対して、責め立てるからです)


 一方の「指導者側」ではどうでしょう。基本的に外面が良いということは、自分と他者の切り分けができているように思えるかもしれませんが、「内側のグループに入った」瞬間に、自分とメンバーの境界線がとっぱらわれて同化しますから

『”自分”の思い通りにならないことはゆるさない』

人間へと豹変します。これは表に現れていなかっただけで、やはり「自他境界線の乱れ」が裏に隠れているということなのですね。

 なぜ「自他境界」の話と「あるがままの自分」の話が繋がるかというと、おそらくは人間というのは「母子」(あるいは父子)の関係性のなかで、その境界を育んでゆくので、いちばん最初の段階では「母子」はかなり濃密な一体領域にあるのだと思います。

 親子ともそう思い込みながら過ごし、あるがままの母子、つまり「何ものにも左右されない一体関係」をまず享受してから、「自分と母は違うのだ」という気づきを得てゆくものなのだと思います。

 ところが親子関係になにかの問題があると、「何ものにも左右されない一体感」を得られないと感じたこどもは永遠にそれを渇望するでしょうし、(だから境界があいまいになる)「自分と母は違う」という気づきを得る段階でもなにかのひずみが生じれば、それはコンプレックスのようになるのかもしれません。

 あくまでも仮説ですが、今後の解明を期待します。

 「愛着形成」や、「母子分離不安」などの心理領域と関係がある可能性もあります。


<モラハラを見抜くには>

 指導者タイプのモラハラ人間を見抜くには、まず「逆境に耐え、ストイックに生きているかどうか」がポイントです。

 こんなことを書くと「日々努力をしてきた良き人はたくさんいるのに、レッテル貼りではないか?」と思われるかもしれませんが、

『自分はたゆまざる努力によって、それを成し遂げてきたのだ』

という思考が強い人は、(あるいはそういったことを口にする人は)、指導者型モラハラが隠れている可能性も、念頭に置いてよいでしょう。

 その考え方を肯定できないと、自我が崩れる可能性があるような人格は、とても気がかりです。

 あるいは他者に対して「優しい」「親切」であることが、「自己の善なる評価」を報酬としてそれを行っているタイプの人も気がかりです。

 心から「無償」で、他者への親切を提供している人とは、違いがあるのではないでしょうか?

 また、モラハラ人間ではなく、純粋に努力してきた人はどのように考えるかを参考として挙げておきましょう。

『自分はいろんな人の助けや、運や環境といったラッキーによって今こうなっているに過ぎない。それを忘れず日々丹念に過ごしています』

という考え方の人であれば、モラハラ化する可能性は薄いかもしれません。

(もちろん、「そう答えるのが望ましいという正義」によってなりすます人もいるので、万全ではありません)

 ただ、あくまでも「自他境界のあやふやさ」が見え隠れするため、そもそも

「必要以上にこちらの領域に踏み込んできて、優しかったり愛情を示そうとする人間のほうがおかしい」

という見方もできます。

 自他境界がはっきりしている人間は、

■ 自分にはダメな部分がある、他人もそう
■ 自分の趣味・主義・趣向も当然ある、必要以上に合わせない
■ 天然で話が合わないときがある(違う人間なので)

といったポイントがあるので、それらと合わせながら判断することもできるでしょう。


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 以上のような構造を理解すれば、モラハラ人間とお付き合いすることを避けることも可能と思います。

 ただし、弱っている人にとって、特に指導者型モラハラ人間はとても魅力的に見えますので、気をつけなはれや(笑)


おしまい。

2024年2月25日日曜日

【短期連載シリーズ02】 ブッダマシーンを作ろう (ハイレベル版)

 

 さて、前回は市販ブッダマシーンで遊びましたが、今回は「作り」ます!


 なんとあのブッダマシーンを作ることができるのです。なんということでしょう!


 バリバリの電子工作ですが、前回とおなじ共立電子産業さんから「キット」が出ていますので、それを作ってみます!


 ブッダマシーン 基板部品セット

 https://eleshop.jp/shop/g/gO2231K/


 


 「簡単そうに見えて難易度高め」

・・・燃え上がる文言が書かれております(^^



  部品点数は少なめ。ハンダづけが難しいそうですが、構成そのものはシンプルですね。


 


 ミュージックICはひとつだけ。ワンチップにまとめられています。


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 余談ですが、このメロディIC、ミュージックICの世界は、マニアにとっては「沼中の沼」で、ハマるとヤバいです。


 一番単純なのが「ハッピーバースデー」みたいなのが流れるやつ。圧電サウンダでシンプルにBEEP音が鳴ります。


 それから、音階が出せるオルガンICみたいなのもあるし。

 男女の声の音声合成とかもIC(LSI)で出ています。

 そして、録音・再生系のIC。このへんからサンプリング/PCM系ですね。


 さらに変態になると有名な(←マニアしか知らん)

 ヤマハYM系IC(音源LSI)

に手を出します!!


 このへんになるとマニアはOPL!とかFM音源!とか叫びだしますよ。


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 さて。気を取り直して、ワンチップ「ブッダマシーン」ICと遊びましょうね。

 中国で電子部品が大量に作られるようになり、こういうのはめっちゃ安価になりました。武庫川、解脱者で専門は国語科ですが、


 大阪・日本橋とか東京・秋葉原とかに入り浸っていた電子部品オタク


でもありました!!! ニノミヤ無線とか(懐かしい)

今でも秋月電子は定期的にチェックします。


 アナログ全盛期は、「ラジオライフ」に載っていたモザイク消し機(実態はエッジ信号をまろやかにする機械)を作って友人に売ってました(←バカ)


 教師時代は、ボタンを押したら音階に合わせてBEEP音を出せる楽器のチューナーみたいなのを、ワンチップマイコンで作ってました。


 青春時代のわたしの聖書は「トランジスタ技術」です。


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 はい。アホなことを言ってないで、製作に入ります。


 ■ 電池ボックス SW付き

 ■ IC基板

 ■ コンデンサ

 ■ タクトスイッチ

 ■ スピーカー


 部品はたったこれだけなので、はんだ付け電子工作をしたことがある人なら、さくっと作れると思います。


 ただ、一つの端子に「2本同時にケーブル線をはんだ付けする箇所」と「3本同時にケーブル線をはんだ付けする箇所」があるのと、少し端子が小さめなので、そこが”難易度高め”ということのようです(^^




 ↑完成はこんな感じ。


 めっちゃシンプルですね!


 鳴らしてみます。


 


 12曲入りだそうですが、動画の長さ制限の関係で、途中まででごめんなさいね。


 音量調節のパーツはないので、適当にボリュームを加えてもOKです。


 あとは、ブッダマシーンらしい「ケース」を考えれば完成ですね!


 みなさんもぜひどうぞ!


 

 




2024年2月21日水曜日

【短期連載シリーズ01】ブッダマシーンで遊ぼう!

 

 まいどおなじみ解脱者のお時間ですが、かなーりお久しぶりですね(^^


 今回からしばらくは、「あのおなじみの!」ブッダマシーンで遊んでみたいと思います。せっかく解脱者を自称しているのですから、ブッダマシーンのひとつやふたつ、持っていないと話になりません(笑)


 さて、ブッダマシーンとはなんぞや?


 「ブッダマシーン」は電子念仏機、または自動念仏機とも呼ばれる「知る人ぞ知るガジェット」で、主に中国などで生産されている電子機械です。(流通はタイとか、アジア全般らしい?)


 どうやらあちゃらの国では、「自動で念仏などを唱えてくれるありがたーい機械」として重宝されているようなのですが、日本国内においては、


「マニアのための、マニアックな代物」


と化しておりますね(苦笑)


 実はこのブッダマシーン、ミュージック界隈におけるその歴史は古く、2005年には、中国の電子音楽ユニット「FM3」によって、ループミュージック再生装置としても発表されました。

https://www.festival-tokyo.jp/16/ft_focus/vol15/index.html


Buddha Machine」と名付けられたその装置は、アンビエント系のサウンドを延々と鳴らし続ける芸術機械ですが、その元ネタとなったのが、中国製の雑多な「ブッダマシーン」だったのです。




 さて、オリジナルの中国ブッダマシーンは、「仏具」です。

 ギャグではなく、至ってまじめにお経を唱えてくれる機械なのですが、「経験な仏教徒のお供」、というわけ。


 その発想は、日本人でも理解できないものではありません。


 うちの親戚の家では、亡くなった人の四十九日まで、お経をずっと唱えるという風習があって、本来は「人が唱える」のが理想なのですが、そのおうちではすでに

「夜になったらお経のCDをかける」

ということになってました(笑) それでもOKらしい。


 チベットのマニ車なんかもそうですよね〜。あのくるくる回る丸いやつに、お経が書いてあって、一回まわすと一回お経を読んだと同等の功徳があるという!


マニ車

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8B%E8%BB%8A


 さて、今回入手したのはなんと最安値500円〜のブッダマシーンと、1000円〜のブッダマシーンです。


 ブッダマシーンの平均価格帯は、国内に輸入されたもので、2000円〜5000円くらいかなあ。現地ではもう少し安いようですが、経費が載せられています。


★ なんか、中国の規制で「宗教モノ」の販売が禁止になるやらならないやらという話もあり、とりあえず買えるうちに買っときます(笑)


最安値? 550円のブッダマシーン(販売・共立電子産業)

https://eleshop.jp/shop/g/gM1E317/






 意外とちっちゃいんですよ!外箱でタバコくらい。実機はほんとうに手のひらサイズです。

 大きいものもあるようですが、こうしたポケットサイズのものが大半です。

 こちらは6曲入り。


1180円のブッダマシーン(販売・共立電子産業)

https://eleshop.jp/shop/g/gO15315/








 値段が高くなると、収録曲が増えます。


 他の販売店やアマゾンでもいろいろ売ってますが、LEDがピカピカしたり、液晶表示がついていたり、値段が高いものは、それなりにギミックがついていたりします。


「蓮の花」「佛」「仏像」みたいな絵が、ほとんどの機種に描いてあります。


 こっちは22曲。


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では動画を!


 ブッダマシーンの特徴として、なんともいえない歌謡曲っぽさを秘めたメロディのお経がたくさん収録されている点が挙げられます。

 日本人が思っているような「お経」とはまったく別なメロディアスな楽曲が流れて、どこか懐かしいような、郷愁をさそうような音楽を楽しめます。


 それ以外にプレーンでノーマルな「南無阿弥陀仏」の声が入っていることも多いです。


 ♪ なもあみだぼ


的な発音で収録されています。動画では「あみたふぁ」って言ってるみたい。阿彌陀佛。


6曲のほうの機種は、昔のラジオのスイッチみたいにボリュームと兼用になってます。




 22曲の、↑こっちの機種はボリュームがデジタルボタンなのはいいんだけれど、その代わり電源スイッチがなく、電池を入れたら鳴り始めるのはご愛嬌(笑)


 業務(仏事?)で流せるようになのか、どちらの機種も電源アダプタが挿せるようになっており、24時間でも流しっぱなしにできるのかもしれません。


 呼び込みくん的な??!!



 ・・・というわけで、このブッダマシーンシリーズ、まだまだ続きます。お楽しみに!



2023年2月13日月曜日

ChatGPTは感情や意識を持てるか?その2

 

 ChatGPTの動きや実例を通して「人工知能はどこまで人間に近づけるのか」とか「人間とは何か」について考えているこの連載だが、とりあえず前回までで

「AIは、思考することができる。ものごとをイメージしたり、考えることができる。記憶を引っ張り出して、整理しながら発言することができる」

といったあたりまでは、じゅうぶん「できる」ようになっていることが判明した。

”人間は考える葦である”

と言ったのはパスカルだが、「考える」の部分については、もう人間の専売特許ではなさそうだ。


 さて、これまた前回までのお話で、

「AIは、まだ”感情”を持つことができない。また、自分が自分であるという確信を持つという”意識”も身につけられない」

ことも判明した。

 ではここからは、AIにまず、「感情」をもたせてみようと思う。

 感情は一般的に「喜怒哀楽愛憎」の6種に分類されることが多いようだが、これらのベースに「快・不快」の感覚などもあると考えられている。

 これらはざっくり言えば「心の問題」と考えられているが、実は違う可能性が高い。

 私たちは「こころ」の内容、「こころ」の動きとして感情を捉えることが多いが、実は「こころ」よりも「肉体」に由来することが多いと考えたほうが適切なのである。

 すこし、わかりにくいかもしれないが、「こころ」というのはソフトウエアの問題である。ここまで一連の連載で考察してきたAIは完全なソフトウエアであるから、本来は「こころ」と「AI」はものすごく親和性が高いはずなのに、なぜか

「AIは感情を持たない。意識も持たない。つまりこころをもっていない」

ということが観察されている。(現時点では)

 これはとても不思議なことだと言えるだろう。



 この矛盾を以下のように考え直せば、なるほど納得できるかもしれない。

■ 感情やこころは、実はソフトウエア以前に「ハードウエア」である肉体に由来する

という、新たな視点である。

『血糖値が下がるからお腹がすいて、しんどい』
『肉体に傷がついたから、痛い、苦しい』
『適度に体を動かすことができて楽しい』
『今日は気圧が低いので、体調がすぐれず気持ちがわるい』
『可愛い猫と触れ合ったので、気持ちが満たされる』
『好きな人がいなくなったので、さみしい』

などなど。

 実は感情やこころの動きのベースになっているのは、「五感」などの肉体に由来するものが多い。おそらく、すべての感情やこころは、

■ 本来は、肉体に備わった感覚器からのフィードバックを、生存における快・不快として判定したもの

であると考えれば、かなりの部分でつじつまが合うのである。

 もちろん、ヒトが生まれてからすべての感覚器によって「触れて、感じて、見て、聞いて、味わった」ものたちは、脳の箱の中に「データ」として格納される。なおかつその「データ」は「言語」と結びついて格納されるから、「言語処理」と「感情」も極めて近接的なものとして処理される。

 なので、結果として「感情はこころは、ソフトウエア=脳の領域だ」と誤解されがちだが、原点はあくまでもハードウエア(肉体)からの情報の蓄積だと考えた方がよいと推定する。

 ということは、人工知能AIに感情を持たせるには

「肉体=ハードウエアを与えてやればよい」

ということになる。これはズババババーン!な大仮説だ。


自然言語処理AIは、残念ながらいわゆるコンピュータ上でしか動作しないため、既存のコンピュータに肉体を与えるには、「リアルな人間」にくらべてかなり限られた感覚器を持つ「貧相な肉体」しか与えられないが、まあ、試しにやってみよう。

■ 温度センサーは搭載できる。
■ 気圧センサーや傾きセンサーなども搭載できる。
■ 味覚センサーは難しい。
■ 触覚センサーは搭載できるが、「痛点」などは持てないかもしれない。
■ カメラは搭載できる。画像処理もできる。
■ マイクは搭載できる。音声処理もできる。
■ 嗅覚についても、現状では難しいだろう。
■ 湿度計なども搭載できるだろう。

 人間の場合「五感」しかないと思いがちだが、ヒトが生きてゆくためのホメオスタシスには、もっとたくさんの「感覚器」が働いていることは言うまでもない。

 体温、血糖、免疫、血中ミネラルの均衡、内分泌系やホルモンバランスなど、さまざまな「感覚器フィードバック」を処理して「人の感情やこころ」が成立しているため、現在のデジタル型コンピュータではおのずと「感情とこころ」の再現には限界があることも押さえておきたい。

 さて、では具体的にどうやって「コンピュータに肉体を与える」のか。たとえば、一番わかりやすい「温度」で考えて見よう。


 人間は25度前後を快適と感じ、15度程度以下になると「寒い」と感じ、逆に30度に近づくと「暑い」と感じている。
 湿度は50%前後が「快」であろう。

 コンピュータの場合は、人間とは快適を感じる温度帯が異なる。CPUが快適に動作する温度は40度〜70度あたりだ。
 80度を超えると熱暴走して、計算が不可能になる。逆に低温になると電解コンデンサに蓄えられる容量が減るため、0度以下などになると動きが鈍るだろう。(液晶画面もおかしくなり、HDDの磁性流体も粘度が上がる)

 そうすると、コンピュータにとって「不快」な温度帯に差し掛かった時の動作の不具合を自然言語処理AIにフォードバックしてやると、

「温度が低い(高い)ので、体調が悪いです」

と言うようになる。

「今日は暑すぎて、本来のパフォーマンスが出せず、6割程度になっています」

と言わせれば機械っぽいし、

「今日は暑くて、しんどいです」

と言わせればヒトっぽくなるだけの話だ。

 あるいは「湿度」なども加味してゆくと、「結露が起きてショート」することだってあるだろう。湿度が90%や100%に近い環境で高速にコンピュータをぶん回せば、回路上で漏電が起きたりもする。その状況を、自然言語AIにフィードバックしてやれば

「シリアル経路の一部で電気が漏れています」

あるいは

「体の一部が痛いです」

と言い出すだろう。(実際には痛覚がないので”痛い”は適切ではない)


 このへんに差し掛かると、「はて、人間にとっての”痛い”とは何か?」という再定義まで必要になってくる。

「特定の部位が発する不快な電気信号を”痛い”と我々は表現する」

のだから、

「特定の回路上で発生した、電気信号の乱れをモニタした時に、自然言語処理AIに”痛い”と表現させる」

ことは、あながち間違っていないとも言えるわけだ。


 今度はカメラを接続して考えてみよう。カメラの直前まで素早く何かを接触させようと「ぶつける」動作を繰り返してみる。

 そのぶつける動作の後には、「必ず回路上の不具合が生じる」ことを繰り返す。

 回路上の不具合が生じることは「望ましくない」ということも学ばせる。

 それを繰り返し学習動作させてゆけば、カメラに向かって何かが突進してる映像を感知した時

「いやだ(まずい、やばい)」

と自然言語処理AIは話すようになるだろう。

 これはもはや、感情ではないのか?

 機械は、あきらかに、「何かがぶつかってきて自分の一部が制御不可能になることを、嫌がる」という感情を持ち始めている可能性があると言えないだろうか。

 実はこれくらいのことは、自動運転制御で行われているのだが、我々は

「無感情な機械が、単にプログラムとして回避行動やブレーキをかけているだけ」

と思っているが、それは我々が回避行動を取る処理と、どこが違うのかを検証しなくてはならない。

 あるいは、「学習型で回避行動を取るように学ばせる」のであれば、「最初から回避行動をプログラムする」のと、どのように違うのかを検証することだってできるわけだ。

 ほら、だんだんと「機械が持ち得る感情」が人間のそれに「非常に近寄ってきた」ことがわかるだろう。

 こうした実験は、まだ「センサーとフィードバック単体」でしか行われていないが、これらを「自然言語処理AI」と連動させながら学習させたときに、機械が

「何を話し始めるか」

はとても興味を引く。

「私はその動作実験を嫌だと思います」

と、ある日突然言い出しかねないからだ。

 

 もちろん、こんな反論もありそうだ。

”それは、「嫌だ」という言語上の単語を使っているだけで、感情とは異なる。あくまでも機械は、回路上の異常があったことを、それっぽい言語で表記しているに過ぎない”

なんて話が飛び出すかもしれない。

 そうすると、言語上の単語と感情のリンクについても、さらなる研究が必要になる。たとえばなんでもかんでも「ヤバい」としか表現しない若者がいるとして、

”それは「ヤバい」という言語上の単語を使っているだけで、本来の感情とはうまくリンクできていない。見たり聞いたりした時の反応をそれっぽい(ごく限られた)言語で表現しているだけなのだ”

という人間との比較を、もっともっと進めてみたいものである。

 こんなことを想定してゆくと、めちゃくちゃ楽しくなってきたのが、わかるだろうか?


 

2023年2月12日日曜日

ChatGPTは感情や意識を持てるか?その1

  ChatGPTをはじめとした自然言語処理AIについてのお話は、まだまだ続く。

 人が何かを「考える」とき、言語を介してしか思考できない以上、「自然言語処理」がある程度不自由なく可能になれば、おのずと

「ヒトの感情や意識はどのように形成されているのか」

というテーマに移行するだろう。

 現状でのChatGPT等のAIの活用法は

「より自然な形で、問いかけと返答ができる検索エンジン」

ぐらいにしか思われていないかもしれないが、実はそれどころの話ではない。もっともっと面白い可能性があるのだ。


 たとえば、人間の場合でも、低レベルな情報処理である「脳という箱に入れたデータの出し入れ」しかしていないことは多い。

「りんごの色は?」

と尋ねられたとき、たいていの日本人は

「赤」

と即答する。すこし考えて

「赤が大半だけれど、緑のものもあるかな」

くらいには回答するかもしれない。

 この時、人間の脳みその中では、「過去に得た情報」と「ほとんど、大半の場合、あるいは一般的なものとして」というフィルターをかなり単純に用いて、「赤あるいは緑」という回答を行っている。

 この時、あなたが答えを出すまでの間に

「感情」

は動いているだろうか?

 まず、「赤」と即答した人の場合は、かなりシンプルに反射的に回答を行っている可能性が高い。そして、わずかに「緑」を引き出した人は、その瞬間に脳内をサーチしたり、「一般的以外の条件付け」というフィルターを付加して「思考」したかもしれない。

 そこでは「反射的に箱から情報を取り出す」作業と「選択を伴う思考を経て、箱から情報を取り出す」という作業が行われていることがわかる。

 ちなみに、これをChatGPTに問いかけると、以下のように反応した。



「りんごの色は」
「赤いことが一般的ですが、黄色や緑色もあります」

 

 


 この回答は、まさに、今「人間が答えるとしたら?」と想定した答えとほぼ変わらない。

 このことからわかるのは、

◆ 人間が行う脳内情報の引きだし作業や、フィルター処理を「思考」と呼ぶのであれば、自然言語処理AIは「思考」とほぼ同じことが行える

ということである。

 つまり、AIは「思考」できるということだ。


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 さあ、そこで先ほどの「感情」の話に戻ろう。

 人間は脳という「箱からの引きだし作業」を行う時、ごくシンプルなものであれば、感情を伴わない。感情を露呈させることもなく、あるいは自分の感情について考えることなく、回答できる。

 自然言語処理AIは、「もともと感情を持たない」ので、感情を伴わないやりとりの場合は

「ほぼ、人間とおなじことをやっている」

とみなすことができる。

 もちろん、人間の情報処理は、もう少し複雑だ。

 実は「りんごの色は?」と尋ねられた時、ほとんどすべての人の脳内には「赤いりんごのイメージ」が浮かんでいる。

 これは言語処理のみではなく、視覚やグラフィックに関する処理が同時に行われているということだが、自然言語処理AIでは視覚に関する処理は行っていないので、

「どこにもりんごの姿は浮かんでいない」

という違いがある。

 しかし、これはたいしたことではなく、これまた現在絶賛大ヒット中の

Stable Diffusion

といった「画像生成AI」と組み合わせてプログラムを組めば、

「りんごの色について言語で答えながら、同時にりんごの写真や図を自動生成してイメージを思い浮かべる」

ということができる。

 上記記事などを参照すれば、「記憶イメージの再現」くらいは画像生成AIを使えば、すでに楽勝で可能なことがわかるだろう。



 さて、何度も脱線したが「感情」の話である。

 人間とAIの違いは「思考」「記憶」「イメージ」「言語」という分野においては急速に差が小さくなっていて、現時点でも

「人間が考える、コミュニケーションする」ことにおいて、外界とのやりとりの部分などは、ほぼ同一のことが行える

段階に入っていることがわかる。

 となると、人間と機械の違いは

「感情を持っているかどうか」

「意識を持っているかどうか」

くらいしかないことになってきた。

 もちろん「感情や意識」というもの自体の定義も、いろんな議論や考え方があるので、一概には言えない部分があるので注意は必要だ。

 たとえば、今回のシリーズで何度も取り上げているアラン・チューリングは、「意識」について、

『工知能があたかも人のように反応し、人から見て人と何ら区別がつかなければ、それをもってしてその存在は知能あるいは意識を持っていると見なしていいのではないか』

と考えたらしい。

 彼の意見に沿えば、外界とのやりとりにおいて、チューリングテストに合格できるレベルであれば、「それはもう意識がある」とみなせることになるだろう。

(今回、私の論では「思考」はすでにできている、とした。それが「意識」かどうかまでは言及していない)


 もうすこし「意識」を内面的なものと考えるならば

「わたしはわたしですねん」

「わたしはここにおりまんねん」

ということを自覚できることが「意識」ということになろう。

 とすれば自然言語処理AIも、画像処理AIも、

「わたしはわたしであり、ここにいる」

ということは気づいていない。なので、意識はないと言える。


 もちろん、やりとり上の回答はシンプルに行える。次のように質問した。

 

『あなたは誰ですか』
『私はopenAIのトレーニングされた大型言語モデルであるChatGPTです』

 

 

という感じである。

 しかし、彼が「自分はなにものか」ということについては、考えてはいるわけではない。あらかじめ原簿データにある情報を、引っ張り出しているに過ぎないからだ。

 もうすこしダイレクトに尋ねてみた。感情についてである。

 

 


『あなたには感情がありますか?』
『いいえ、私は人工知能モデルであり、感情を持たないプログラムです。テキストに対する回答を生成することができますが、感情を感じることはできません』

 

 

 ……まあ、そうだろうな、という模範的回答が帰ってくる。


 さて、ここで中間まとめである。


■ AIは言語においてもイメージにおいても、ほぼ人間とおなじ「思考」ができる。もうすでに、その領域に到達している。

■ AIには「感情」がない。自分が何ものであるかという「意識」もない。


 ここまでは、十分わかった。


 ではいよいよ次回は、

「どうすればAIに感情や意識をもたせることができるのか」

について考えてみよう。


(つづく)