2018年2月24日土曜日

悟りは知性である! ~誰にでもひらくことができる悟りの理論的正体~


 みなさんこんには。
 
 ムコガワは、自他共に認める「友達がいない」タイプ(ぼっち)の人間ではありますが、先日その中でも数少ない友人のところへ出向いていって、久しぶりにいろいろ話をすることができました。


 ちなみに、この俗世には「自分には友達がいない」ということで嘆いているタイプの人がたくさんいるようですが、SNSのフォロワー数じゃないんだから「友達が多いほうが勝ち組」なんてことはけしてありません。


 おおむね、普通の大人、社会人ともなれば、30歳過ぎ、40歳過ぎてゆく中で「友達と絡む、何かをする」ということは極端に失われてゆきます。


 元同級生の顔見知りが、近隣にいて、たまーに人が集るところで顔をあわせたりして「おう!」なんてやることが3年か5年に1回ある程度で十分なのです。


  なーんでか?



 それはそれぞれ生活があり、家族を持ち、社会の中でなにがしかの役割を与えられながらそれぞれの人生を生きていくからであり、友達100人できるかなの時代は、あくまでも学生時代に与えられた(それも教育行政によって強制的に)システムだからだったりするわけで。



 なので、ムコガワには友達がごくごく少ないのであります。えっへん!





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 さて、その友人は世を忍ぶ仮の姿のムコガワのことをリアルで知っている数少ない知り合いでもあり、また



 このブログを定期的にチェックしているファン



を公言してくれている方でもあるのですが、いつか私の正体をバラす!と息巻いています。


そ、それだけはやめてー!!!!






 ちなみに、ファンによる記事定点観測によると、ずっと読んでいる限り、


「ついに、ムコガワは本当におかしくなってしまったか」


という時期がなんどか訪れているようで、これはもうすぐ



宙に浮く



とか、



天に昇ってゆく



とか、そういう不可思議が起きる前触れかもしれません。 ぜひ学研「ムー」の編集部の方に取材してほしいものですね。






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 というわけで、今日は、自称解脱者である武庫川散歩が、けしておかしくなっているわけではないことを証明するために、



「悟り」とは知性である。それも、誰もがいつかは到達できる簡単な思考である



ということをお話しようと思います。



 で、今日紹介するのはこの記事。



 小中学校の教育方針が今春から変わる理由
 http://toyokeizai.net/articles/-/210017



東洋経済さんの記事です。話の内容は文部科学省がこれから未来のこどもたちに何を望んでいるか、という話ですが、ここにわかりやすい「知性」の話が出てくるので引用しました。



 ニュースなんかでAIがどうだの、人工知能が普及すれば仕事が失われるだの、いろんな話が出てきて、「ああ、なんだか社会が変化するんだろうなあ」ということは漠然とみなさんも知っていると思いますが、具体的に何が起こるかというと



「これまでの学校のように、画一的な人材を社会に送るだけでは、もう無理があるんだ」



ということが、教育界でもすでに気付かれているということなのです。



 これだけめまぐるしく社会が変化すると、「一つの仕事や常識、知識」だけでは到底対応できません。

 あるいは、これまでのように「ずっと努力し続けることの大切さ」なども、そうやって頑張っている間に世間から取り残されたりするわけで、美徳ですら変化する時代になってしまったということでもあります。



  そうすると、「知識や技量」を大量投入することで乗り切れてきた社会(これがいわゆる学歴社会や大卒者有利の社会)が終わり、次々に新しい状況へと変化する社会が生じているわけですから、当然教育内容もそれに合わせていかなくちゃね、ということだったりします。




 さて、この記事の後半に、これから「人生はマルチステージになる」 という話が出てきます。簡単にいえば、会社員人生をまっとうして終わり、とか、何か一つのことをやり遂げて終わりというのではなく、


 生涯で複数のキャリアを持つことになる/持たざるをえなくなる


ということなのです。


 武庫川も、その友人も、本業やら軸足となる活動以外にいろんなことをやっているタイプなのですが、まさにこのことを先駆けてやっているわけで、それは時代の流れであるとともに



「食べて行くためには、いろんなことをやらなきゃならない」



という側面もあったりして、これはもうこのセカイの流れなのですね。





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  なんだか話が俗世を生き抜くために頑張る方向へズレていっているので、悟りと解脱の話に戻しましょう。



 記事の終盤に出てくる「知性には3段階ある」というのが、悟るということの本質を表しています。




 <第一段階> 環境適応型知性


 第一段階は「周りに合わせる」とか「ルールに従う」ことによって自己実現しようとする行動を意味します。集団や組織、あるいは環境に順応することを伸ばしてゆけば、成長し伸びてゆくことができる、というニュアンスです。

 これはたしかに知性のひとつですが、たとえばある学級のルールがあるとして、「いーけないんだー、いけないんだー、せーんせーに言うてやろー」と非難する女子がいるように、そのルールや集団、組織を絶対的に正しいものとして行動してしまうマイナス面もあります。


 ブラック企業から逃れられないことは、非知性ですが、まさにそういうことです。






<第二段階> 自己主導型知性


  集団の論理に頼るのではなく、自ら規範・ルールを決めて行動することが第二段階です。

 フリーランスや自営業の方はもちろん、企業の中にあっても経営や企画に携わる方はこうした動きをしなくてはならない場面が多々あることでしょう。


 第一段階が「誰かの判断」であるとすれば、第二段階は「自分の判断」ということです。






<第三段階> 自己変容性知性


 第三段階は、それまでの2つの判断基準やルールを客観視して、その限界を受け入れるということを示します。


記事を引用するなら

” あらゆるシステムや秩序、思想は不完全であると理解し、その限界を知り、矛盾や相反する考え方を受け入れ、対立を統合しながら1つの解を生み出していくのが最終段階なのである。”


ということです。


 これがすなわち、論理的に説明できる「悟り・解脱」の姿でしょう。



 まさに、般若心経でいうところの「色即是空・空即是色」です。すべては不完全で、誤りや矛盾をもともと内包するものであり、絶対的なものなどない、ということから、生き様を再構築することが第三段階なのです。





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 変化する時代の潮流を見極め、その都度変わる「ビジネスとしての正しさ」を変容させてゆく生き方と、実は「悟りを開いた生き様」は、本質的には似ています。



 それは時に、ビジネスそのものを超えます。



 たとえば、あるビジネスパーソンが「新しい時代時代に合わせて、自由自在に力を操って商品を売り続けることができた」とします。


 彼にとっては、そうして変化に対応しながらお金を稼いでいくことは、たしかに善なることで良きことに違いないでしょう。


 ところが、次の瞬間、「あれ?やっぱり自分はお金を稼ぐよりも、家族ともっと時間を過ごしたい」と思ったとします。それも、人生においてはまったくおなじ変化への対応なのですから、仮にすっぱり忙しいビジネスマンをやめて「家族中心の仕事に切り替えた」としても、それもまた善なることで良きことなのです。



 あるいは、また次の瞬間、「家族が絶対的正義なのではなく、もっといろんなことにいろんな人と関わりあいながら過ごしたい」と考えて、それを実行に移したとしても、それまた全然OKということになりますよね。



  このように、変容主義の知性とは、結果的に


「お金だけが全てでもないし、家族が全てというわけでもなく、この世にこれが全てというものはないんだ」


ということでもあり、


「全てのものは大事でもないし、逆説的に全てのものこそが大事だとも言える」


ということでもあるわけで、ここまでくると悟っている人と言ってることは全く同じです。





 結局、武庫川がいろんな名義を使い分けて、ありとあらゆるジャンルで好き放題しようとするスタンスも、あるいは世を忍ぶ仮の会社員として仕事に励むのも、あるいは家族と一緒に出かけるのも、時間があれば友人のところに出かけて行きたいと思うのも、全部「悟る」という行為と同一なのだ、ということなのです。



 そして、1人の女性を愛するのではなく、すべての女性は素敵だ、と言っているのも知性なのです。



 ・・・え?それは痴性だろうって?




 おあとがよろしいようで?



 ・・・え?おあとがやらしいようで? もうええっちゅうねん! 





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