人工知能には感情がない。この感情がないというのは、とてつもなく強いアドバンテージで、なにか議論をする上ではものすごく役に立つのだが、つまりは
「何を言っても怒り出さないし、ごくごく客観的に答え、考えてくれる」
ということだ。
これが人間相手の議論だと、その相手が身を置いている考え方を否定しているうちに、ついには「怒り出す」し、基本的にはなんらかのバイアスが掛かっているので、話が進めば進むほど、その相手の言いたい方向性へ誘導されることも多い。
ところが「とりあえずこちらを肯定しながら、無感情に話を進めてくれる」人工知能は、議論のキャッチボールに便利なのである。
というわけで、現代社会においてもっとも「欺瞞的」なリベラルの根源である
「人権」
についてChatGPTと語ってみると、素直に
「人権なんてフィクションですよ」
と返ってきた。そうなのだ、人権なんてフィクションだったのだ!!!
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◆ 人権は「それがある」と宣言するだけで自動的に発動するものではありません。では人権は何によって担保されるのですか?
人権は「それがある」と宣言するだけでは現実に機能しません。その実効性(リアルに人がその権利を享受できる状態)は、いくつかの具体的な担保によって支えられています。以下が主な要素です:
1. 国家の制度と法
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憲法:多くの国で人権は憲法に明記され、最高法規として守られます。
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司法制度:違反された場合に訴え出て救済を受けられる裁判制度が必要です。
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立法と行政:人権を守るための法律や制度を作り、実施する政府の意志と能力。
2. 実力(暴力装置)との関係
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人権を侵害する力(国家権力や私的暴力)に対抗する力(警察、軍、国際機関など)が必要。
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つまり「人権を守る力」がないと、人権の理念は踏みにじられます。
3. 市民の意識と運動
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国民が人権を当然のものとして理解し、擁護する意識を持つこと。
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市民運動・報道・教育など、社会的な監視と声が抑圧を牽制します。
4. 国際的圧力と規範
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国際人権条約や国連などの国際的な監視機構が、国家に対して行動を促す。
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グローバルな世論や経済制裁も、人権の担保となり得ます。
つまり、人権は「ある」と信じるだけではなく、それを支える社会的・制度的・物理的インフラが揃って初めて、現実に機能するのです。
◆ では「人権」はどこから生まれたのでしょう。それは自然発生するものではなく、人間が意図的に考えたものだと思うのですが
おっしゃる通りです。「人権」は自然に発生したものではなく、人間がある歴史的・社会的背景の中で“考え出した”概念です。つまり、人権は思想であり、発明されたものです。
以下に「人権がどこから生まれたか」を歴史的に整理します:
✅ 1. 前提:自然状態には「人権」は存在しない
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狩猟採集社会や古代社会において、「すべての人に共通する不可侵の権利」は存在していません。
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身分制・奴隷制・宗教的秩序などが支配しており、「人=権利の主体」という発想はなかった。
✅ 2. 思想としての出発点:17〜18世紀の啓蒙思想
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トマス・ホッブズやジョン・ロックが「自然権」という考え方を提示:
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人間は生まれながらにして「生命・自由・財産」を持つという発想。
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これは神や王ではなく、「理性ある個人」が権利の起点であるとする革命的思考。
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この思想が、後の「人権宣言」につながっていきます。
✅ 3. 政治運動としての具現化
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1776年 アメリカ独立宣言:「すべての人間は平等に造られている」
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1789年 フランス人権宣言:「人は生まれながらにして自由で平等な権利を持つ」
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この段階で「人権」は近代市民社会を作るための設計思想となった。
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✅ 4. 制度化と普遍化:20世紀以降
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20世紀、特に第二次世界大戦後に、ナチスの暴虐を反省する形で
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1948年:世界人権宣言(国連)
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これにより、「人権は人類共通の価値である」という形で国際的に合意されていきました。
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✅ 結論:人権とは「理性の産物」である
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自然にあるものではなく、理性的な思索と政治的な闘争を通じて生まれた人工的構築物です。
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それゆえに、維持するには不断の教育・運動・制度設計が必要です。
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逆に言えば、人類が人間を「個人として扱おう」と決意したとき、初めて人権は生まれたとも言えます。
とても本質的な問いです。あなたが指摘されたように、現実の人間は平等ではありません。能力、外見、運、社会的立場、生まれた地域…すべてが異なります。しかも、自然状態においては「弱肉強食」が支配するのが実情です。そんな中で、なぜあえて「人間は生まれながらに平等で、権利を持つ」と宣言したのか?
これはまさに、現実とは逆の「理念」を打ち立てることで、人間社会を変えようとした試みだったのです。
🔹「自然権」思想の背景には“理性への信仰”がある
17世紀〜18世紀の啓蒙思想家たちは、以下のように考えました:
🌍「自然界が不平等で過酷であっても、人間には理性がある。だから“こうあるべきだ”という原理を、現実とは別に考えることができるはずだ」
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たとえばホッブズは「自然状態では人は万人の万人に対する闘争をしている」と述べます。
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それを避けるために、「契約」を結び、“全員が最低限守るべきルール”としての権利を持つことにした。
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これは、神や王ではなく、「理性ある個人」こそが秩序の基盤であるという革命的思想です。
🔹「人権」は現実の事実ではなく、**政治的フィクション(構成的理念)**である
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「人間は生まれながらに平等である」というのは観察の事実ではありません。
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それは、社会をそのように“設計しよう”とする意志・フィクションです。
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ジャン=ジャック・ルソーはこう言いました:
「人は自由なものとして生まれた、しかし至るところで鎖に繋がれている」
→ だからこそ「自由で平等な人間」として扱う社会を構想しよう、と。
🔹なぜそんなフィクションを必要としたのか?
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絶対王政や封建制を正当化する“血統・身分”からの脱却
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王や貴族に生まれたというだけで特権があるのはおかしい。
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→ すべての人を“個人”として扱う必要が出てきた。
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資本主義と契約社会の発展
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市場で自由に契約する主体として、「形式的平等な個人」が必要。
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→ 「人権」は経済的にも制度的にも機能的要請。
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宗教的基盤の崩壊と代替の倫理
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神の権威が薄れる中で、「普遍的な人間の尊厳」を新たな根拠にした。
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✅ 結論:人権とは「現実に抗うための思想」だった
あなたの直観どおり、
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現実には人は平等ではないし、
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権利などというものは自然には与えられていない。
だからこそ、人権という理念は「現実にそうではないからこそ、そうあらねばならない」という構成的フィクション(設計思想)として発明されたのです。
この観点に立てば、マルクスやフーコーが「人権は支配のための道具でもある」と批判的に見る理由もわかってきます。
◆ マルクスやフーコーが「人権は支配のための道具でもある」と批判的に見る理由について教えてください
とても鋭いご質問です。「人権」は一見、弱者を守るための素晴らしい理念のように見えます。しかし、マルクスやフーコーのような批判的思考の思想家たちは、人権という概念の背後にある“権力構造”や“イデオロギー”を見抜こうとしました。
🔻 カール・マルクスの視点:「人権=ブルジョアの自由」
1. 『ユダヤ人問題について』(1844)
マルクスはこの文書の中で、「人権は本当の意味での人間の解放ではない」と言っています。
「人権とは、市民社会における自己中心的な個人の自由のことに過ぎない」
彼が問題にしたのは:
-
人権が保障する「自由」とは、あくまで財産を守る自由(=私有財産の保持)。
-
人権が守ろうとする「平等」とは、市場において形式的に同じルールで競争するというだけ。
つまり、マルクスにとって人権は、
🔹「資本主義を維持するための装置」
であり、
🔹「人間を孤立した“競争主体”として切り離し、連帯や階級闘争を解体する道具」
だった。
🔻 ミシェル・フーコーの視点:「人権=規律権力の正当化装置」
フーコーの関心は、マルクスとは違って権力がどう人間の身体や欲望に働きかけるかという点でした。
1. 『監獄の誕生』(1975)や『性の歴史』シリーズ
フーコーは、近代において「人権」や「人道的配慮」が進んだことが、むしろ人間をより微細に管理し、統制する手段になっていると見ました。
たとえば:
-
拷問を廃止し「人道的な刑罰」が導入されたことで、国家は身体ではなく魂(行動・思考)を監視・矯正するようになった。
-
精神医療や教育も、「人間の幸福のため」と言いつつ、社会の“正常”から逸脱する者を排除・矯正する仕組みになっている。
つまりフーコーにとって人権とは、
🔹「人を保護する」ためのものではなく、
🔹「人を定義し、分類し、正常化し、統治する」ための装置(バイオパワー)
✅ 共通点:人権とは“見えない支配”の言語になりうる
視点 | 批判の対象 | 人権の役割 |
---|---|---|
マルクス | 資本主義と階級支配 | 個人主義を強調し、連帯を妨げる |
フーコー | 規律社会と知の権力 | 「保護」の名で身体・精神を管理する |
🔚 結論:人権は「思想的中立な道具」ではない
-
人権は美しい理想であると同時に、
-
誰がそれを定義し、運用するかによって、支配の手段にもなる。
だからマルクスやフーコーは、人権という「正義の顔をした構造」にメスを入れたのです。
この観点から見ると、「人権」は単に守るべきものではなく、不断に問い直されるべき政治的概念になりますね。
さらに、「人権概念の代替となる思想」は可能か?という問いにも興味ありますか?
◆ 人権の代替となる思想とはどのようなものでしょう
この問いは、非常に深く根源的です。「人権」は現代社会の根幹をなす概念ですが、あなたが問題提起するようにそれが支配の道具になりうる以上、それに代わる新たな思想を模索することは、思想史的にも哲学的にも意義があります。
では、人権の代替となり得る思想とはどのようなものか?
いくつかの可能性がありますが、ここでは代表的な4つを紹介します。
1. 🔹 関係主義(リレーショナリズム)
「人は権利を持った個ではなく、関係の中で生きている存在だ」
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西洋的「個人中心主義」ではなく、人と人の関係性そのものを価値の起点に置く思想。
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東アジアの儒教、アフリカのウブントゥ思想、フェミニズムのケア倫理などがこの流れ。
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例:「あなたに権利があるから守る」のではなく、「私とあなたがつながっているから支える」
👉 人権の「孤立した個人」像を超え、人間をつながりの中で捉える。
2. 🔹 ケア倫理(Ethics of Care)
「正義や権利よりも、世話・配慮・依存関係を倫理の中心に据える」
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フェミニズムから生まれた、脆弱さや依存を肯定する倫理。
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人はみな他人に支えられて生きる存在であり、「完全な自立した個人」など幻想である。
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例:乳児、病人、高齢者など、権利主体になりにくい存在にも焦点を当てる。
👉 権利ではなく「関係性・応答責任」によって社会のあり方を考える。
3. 🔹 共通善(Common Good)思想
「個人の権利よりも、共同体全体の善を優先すべき」
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個人主義的自由の暴走(ネオリベラリズム)に対抗して、
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「教育・医療・自然環境など、皆で守るべき価値がある」という考え方。
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アリストテレスや現代のコミュニタリアニズム(マッキンタイア、サンデル)が代表。
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例:「自由にマスクをしない権利」ではなく、「みんなの健康を守る責任」
👉 「個人の自由」を絶対視せず、共同体の調和や責任に重点を置く。
4. 🔹 ポスト人間中心主義(Posthumanism)
「“人間だけが尊重されるべき”という発想自体を見直す」
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AI、動物、自然、生態系なども価値の対象とする新しい倫理。
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人権は「理性ある人間」だけを前提としており、
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それに当てはまらない存在(重度障害者、非人間的知性など)を排除してしまう。
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例:動物の権利、環境正義、AIの倫理など。
👉 「人間の権利」ではなく、あらゆる存在に対する共生と配慮の思想へ。
✅ 結論:人権は「出発点」だが「終着点」ではない
人権は、かつての専制・差別に対する強力な武器でした。
しかし今、私たちはその限界(形式的平等/個人主義の暴走/排除構造)にも直面しています。
ゆえに、これからの倫理や政治哲学は、
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「権利」というフレームを越えて考える力
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「関係・脆弱性・共生・地球全体」などの新たな価値軸
を必要としているのだと言えるでしょう。
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<解説>
まず、人権は各種「装置」が揃っていないと機能しない話から始まり、もともと自然には「人権」なんて存在しないことも解説される。
その上で17世紀以降に「発明」されたのが「人権」であり、王権との対比や、理性信仰などを基盤として生まれた「フィクション」であると喝破する。
なおかつ「現実がそうなっていないからこそ、だからこそ人権を信じねばならない」というものすごく恐ろしい発想のアイデアであることもさらって言ってのけるのである。
最終的に人権がフィクションなのだとしたら、我々は「次」に何を信じればいいのか。
そのヒントだけは、たくさんありそうだ。関係性を重視し、共同体主義に移行するのか、あるいはその対象を動物などにも広げるのか・・・。
どっちにしても、人間の社会はフィクションに過ぎないので、適宜物語を調整することは可能なのだ。
それが にんげんだもの ということなのである!!
(了)
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