2025年12月28日日曜日

謎の「二王子伝説」を追え! 後編

 


 兵庫県の三木市に現存する謎の史跡「志染の石室」からはじまった古代皇室のミステリー不思議発見の後編である。


 前回までのお話で、雄略天皇の八つ墓村事件によって、多数の皇族が殺されてしまい、逃げ延びた2人の兄弟だけが生き残ったことがわかった。

 そしてその二人はなんとか無事に皇籍に戻り、それぞれ天皇として即位したわけだ。

 ところが、彼らの息子もまた、雄略天皇の呪いのように、暴虐の限りを尽くし子孫が絶えてしまう。


 そこで越後(あるいは近江)から招かれたのが、うわさの「継体天皇」だったのである。


 継体天皇は応神天皇の5世孫であり、前の帝とは4親等以上離れていることから「実は王朝交代があったのではないか?」という説もある。この論争については、王朝交代があった、なかったのいずれの側からもけっこう面白い傍証が挙げられているので、読む人にとってもかなりワクワクすること間違いない。


 古代史に残る大ミステリーのひとつ、として有名な話である。


 ところが今回の流れをじっくり検討すると、「王朝が途絶える危険性」というのは、実は雄略天皇のところからスタートしていることがわかる。


 ただ単に武烈天皇にこどもがいなかった、というシンプルな原因ではなく、雄略天皇が親族一同を殺しまくったのが悪いのだ。


 もっといえば、顕宗天皇と仁賢天皇の二王子が逃げ隠れていなかったら、その時点で皇統が途絶えていた可能性もあるし、王朝交代ネタで言うならば


「二王子はほんとうに皇室子孫だったのか?」


というところにもミステリーが隠れている。あるいは、そこの時点で、影武者に入れ替えられていた可能性も、なきにしもあらずだろう。


 皇室の謎が、雄略天皇後に始まっているというのは、女系をみてゆけばなんとなくわかる。


 ではここから、さらに不可思議なデータを挙げてゆこう。


■ 2王子のうち、まず最初に天皇になった顕宗天皇のほうの皇后は「難波小野王」という女性だが

■ この人物は祖父もしくは父が雄略天皇の息子だと考えられている。母は未詳。

■ ところが、この女性、顕宗天皇が崩御して兄の仁賢天皇が即位すると、なんと自殺してしまうのである。


難波小野王

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A3%E6%B3%A2%E5%B0%8F%E9%87%8E%E7%8E%8B


■ その理由は、これまたなんと「仁賢天皇に殺されるかも」ということだというから驚きである。


 もう、この段階で「いったい何があったんや!」とモヤモヤするのだが、さらに続けよう。


■ 今度は後で天皇になったほうの仁賢天皇の后だが、この女性は春日大姫皇女と言って、いちおう雄略天皇の娘ということになっている。

■ しかし、ただ単に「娘」というのには不可解な伝承がくっついている。


春日大姫皇女

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E6%97%A5%E5%A4%A7%E5%A8%98%E7%9A%87%E5%A5%B3

■ 雄略天皇は、たった一夜で童女君という女性が妊娠したので、「これは俺の子か?」と疑って生まれた春日大姫皇女を養育しなかったという。

■ そこで大臣が「いや、天皇に非常に似ておられますよ」と取りなしたのだが、その時、「いったい何回Hしたのですか?」「7回だ」「そりゃあ、妊娠しやすい人は男性のパンツに触れただけでも妊娠するのに、7回もしたら確実に妊娠しますわな」と諌めて、なんとか雄略天皇も納得したのだそうだ。


 なんじゃそりゃあ!!という伝承である。そして、ここも怪しい。


 こんな伝承がくっついているということは、春日大姫皇女は「雄略天皇の子ではない」という噂が出ていたということでもあろう。ましてや本人が疑っているのだが、そこは雄略天皇の絶倫パワーでなんとかクリアした、ということになっているのが面白い。


 そうすると、仁賢天皇が影武者なのであれば、その妻も雄略天皇の血を引いておらず、もうこの段階で「王朝交代」が起きている可能性だってあるわけだ。


 仁賢天皇とその妻が「皇室外」の人間であれば、難波小野王が自殺した理由もなんとなく見えてくる。「あいつらはわたしを殺して、皇室を乗っ取ってしまうつもりだわ」という恐怖を抱いたのかもしれない。


 さらに不思議なことに


■ 古事記には、春日大姫皇女とそのお手付きになった母・童女君のことが書かれておらず、抹殺されている。

■ そして春日大姫皇女の娘である橘仲皇女のことも、古事記ではあっさりと「宣化天皇の妻」としか書かれておらず、来歴をカットしている。

■ 春日大姫皇女の母と娘について書いているのは、日本書紀だけである


ということなのだそうだ。つまり、古事記の作者からすると、このあたりの女性陣は「存在無視の系」にされているのだ。


 そしてこのことは、もし日本書紀が一連の経過を書いていなければ、


■ 仁賢天皇の息子である武烈天王の段階で、雄略天皇の血は途絶えており、血統が大きく変わっている可能性


を匂わせるのである。ひえええええ。現在の皇室の正当性は、日本書紀の記述によってのみ担保されているというわけだ。


 つぎは武烈天皇の皇后を見てみよう。これも怪しい。


■ 武烈天皇の皇后は春日娘子という女性だが、古事記には記載がない。

■ 父母ともに不詳で、子供もいない。出自がまったくわからない皇后は、歴代でこの女性ただ一人。

■ こいつは誰なんだ???


春日娘子

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E6%97%A5%E5%A8%98%E5%AD%90


 武烈天皇というのは、仁賢天皇の息子である。つまり、母に当たるのが、さきほどの謎の人物、春日大姫皇女であり、妻も謎の人物ということになる。


 これも恐れ多い仮説を立てるとすれば、前皇室に由来しない、「影武者兄弟サイドの人間を取り立てた」可能性もあるだろう。


 そして、この人物 ”だけ” が「どこにも来歴の記載がない」というのも、かなり不自然である。


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 では、ここまで女系を見てきたが、ここからさらに不可思議な最大のミステリーへと突き進もう。


 武烈天皇

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%83%88%E5%A4%A9%E7%9A%87


 よーく、上の記事を読んでほしい。武烈天皇は八つ墓村レベルの悪逆非道を繰り返したのだが、


『日本書紀』における武烈天皇によるこれら悪虐非道の記述は、『古事記』には一切見られない。日本書紀と比較すると、古事記の記事は極めて簡潔なものになっている。”


とあるのだ!!!


小長谷若雀命(武烈天皇)は、長谷之列木宮で、8年間天下を治めた。天皇には子供が居なかったので、御子代として小長谷部を定めた。御陵は片岡之石坏岡にある。」

天皇が崩御したが、次の日継の王が見つからなかった。それで、品太天皇(応神天皇)の5世の孫、袁本杼命(継体天皇)を近淡海国(近江)から呼び、手白髮命(手白香皇女)を娶らせ、天下を授けた。」


とだけ、たったこれだけを記したのである。


 つまり、古事記は、「春日大姫皇女の母」「春日大姫皇女本人」「その娘の春日娘子」のすべてをカットして、さらに「武烈天皇の事績を極力カット」したのである。


 これはいったいどういうこと???


 そして、基本的にこれまで全員を擁護してきたはずの日本書紀が「武烈天皇は八つ墓村である!」とめちゃくちゃディスっているわけだ。


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 そして、このあと継体天皇を招く話になってゆく。


 この全体像を読み解くと、古代日本史ミステリーの新たな仮説が浮かび上がることだろう。


 それは「継体天皇王朝交代説」ではない!!


 ずばばばーん! どっかーん!


 ここで考えられるのは


「継体天皇によって、皇統が戻った」説である。


 どういうことか?


 二王子の前後で、実はそこで「王朝交代」が起こりかけていたのだろう。つまり、いったんは雄略天皇の虐殺によって直系の皇族はみな死んでしまった。


 それではまずいので、「二王子」という謎の替え玉、影武者が用意された。偶然にも不幸の王子たちが見つかった、と画策したのである。


 しかし、その王子たちの子孫も途絶える。途絶えたのか、あるいは当時の大臣たちによって「暴虐者のため子がなかった」と誅殺されたのかもしれない。


 そして、乗っ取られそうになった王朝は、直系ではないが傍系である継体天皇を探してくることでなんとか「もとに戻された」のではないだろうか?


 だから


 ■ 古事記は二王子周辺の女性たちをカットした。

 ■ 日本書紀も、なんか無理やりまとめたが、最後は「武烈天皇がひどかった」というオチで収束を図った。


という可能性もあるだろう。そういう痕跡を、古事記も日本書紀も「書き方で残した」のである。つまり、ダイイングメッセージだ!!



 さあ、真実はどうだったのか?


 もしこれが事実であれば「万世一系」ではなくなるが、「途中危なかったけど一系は維持された」ということになる。


 信じるも信じないも、あなた次第です!!



 おしまい


 



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