2024年4月11日木曜日

なぜモラハラは結婚前に見抜けないのか?

 

 「結婚前はとても優しい人だったのに、結婚してからモラハラ人間に化けるのを見抜くことができなかった」

といった話はよく聞きます。実際にSNSなどでそうしたモラ被害にあった方に話を伺っても、「モラを見抜く特徴」といったものは、「見当たらないことが多い」のだそうです。

 これは大変不思議なことで、一般的な感覚だと「なにか、結婚前や付き合う前でも、モラハラになりそうな予兆や予感、前触れのようなものがあるのではないか?」と思いがちですが、「そうではない。わからない」タイプのモラハラ人間が存在することは恐怖でしかありません。

 そこで、ここしばらく「モラハラとは一体なんなのか」ということを考察していたのですが、いくつかのヒントから、その正体が判明してきたので、それをまとめておこうと思います。


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<モラハラの2類型 〜被害者型と指導者型〜>

 結論から先に言えば「結婚などの前に、事前に見抜けるタイプのモラハラ人間」と「結婚などをして内側に入らないと見抜けないタイプのモラハラ人間」という2つの類型があるのだ、ということになります。

 一般的に私達は、前者と後者を混同して「ひとつのモラハラスタイル」を想定してしまっているので、それに当てはまらない時に、「事前に何か前兆があるだろう、あるはずだ」と思い込んでしまうのですね。

 ところが、「見抜けるタイプと見抜けないタイプがある」ということになると、なるほど前者と後者とでは、その「動き」が違うわけです。

 以下、詳しく説明してゆきましょう。

■ 被害者型モラハラ人間

 モラハラというのは、ざっくりいえば「正義で善」です。もちろん、モラハラ行為を行うのは「悪」だと思いがちですが、それを行う人間には、それなりの善や正義という感覚があり、それを他者に当てはめようとするわけです。

 たとえばカスタマーハラスメント=お客として店員に圧力をかける、ようなモラハラだと、「店員が何か間違ったことや、不備を起こしたので、それに対して文句を言って正そうとする」行為であることが大半でしょう。

 あおり運転なども同じで、ニュースなどでは「あおり行為」のほうを主に取り上げますが、「あおられた側」になにか、後続車に誤解を生じさせるような動きがあり、「急に割り込んできた」とか「追い越し車線をいつまでもあけなかった」ので、それは善悪に対して悪である、という感じ方からあおり行為へと移行してゆくパターンはよくある話です。

 これらのモラハラは「見抜くことができる」といえます。なぜなら、「善悪に照らし合わせて、なにか間違ったことを自分がやられたと感じたら、おのずとモラハラ行為が発動する」タイプだからです。これは、恋人や妻にももちろん発動しますが、店員や第三者といった「他人」にも、自分の基準に応じた「正義や善」に外れたと感じた瞬間発動しますから、見抜きやすい、と言えるでしょう。

 このタイプが一般的に「一緒にお店に行ったときの態度」とかで判別しやすい類型になります。

 不正義を自分に対して「やられた」と感じる力が強いので、「被害者型」と名付けました。


■ 指導者型モラハラ人間

 それに対して、後者の「指導者型」というのは、実はまだ日本ではあまり認識されていないタイプのモラハラ人間の類型だと思います。

 これはどういうことかというと、同じようにその人物の内部では「あるべき理想や正義、善悪」というものが抱かれているのですが、それに対して、彼ないし彼女は

”ストイックにその正義や善を実行しようとする”

ことが多いタイプです。基本的には真面目であったり、他者にたいして善なる存在であろうとしますから、「善き人」の外面を持ちます。そしてまた、そうなるように、「自分もしっかり努力している」ことが大半なので、周囲からみて、この人物が「モラハラ人間である」とはなかなか想像ができないと思われます。

(優しく、良い人であるべきだ、という理想を実践しているわけです。)

 自分でも努力をしているので「ストイック型」と呼んでもいいかもしれませんが、実はストイックに努力をしている間はなんの問題も起こさないので、あえて問題行動を起こす段階での「指導者型」と呼びましょう。

 このタイプのモラハラ人間が「化ける」「変化する」のは、お付き合いをしたり結婚したり、「自分の内側の存在」「自分の枠内の存在」「自分のグループ内の存在」に相手が入ってきた時です。

 その時に何が発動されるかというと「自分はこうあるべきだと考えているので、おなじグループに属するあなたも同じであるべきだ」という思いです。

 モラハラ人間である彼や彼女自身は、「ともに善なる高みを目指してゆこう」とか「ともにおなじ正義を守ってゆこう」と思っています。そして、それに対して不十分であるパートナーに対して

「そんなことで共に歩んでゆけるのか!」
(そんな状態で、俺の私の正義や善を共有できるのか!)

と叱責するわけです。この動きが、強烈なスポーツ部活動などのしごきに似ているので「指導者型」と呼んでみましょう。

 この場合、モラハラ者は「指導者」なので、ガンガン「未達の者、修練が届いていない者」を責め立てます。そして、目指している正義や善は、一般的には「それはある意味・一見すると正しいこと」だったりするため、被害者は正義の名の下に追い詰められてゆくわけです。

 この指導者型の特徴は「部活動」みたいなものですから、自分の部活の内部にしか発動しません。もちろん、外部に対しての「善や正義」は抱いているのですが、「内部の人間以外には、関係がない」と思っているので、外では問題を起こさないわけですね。


<モラハラ2類型の根底にあるもの>

 とまあ、いちおうわかりやすく便宜的に「被害者型」と「指導者型」に分けましたが、モラハラ人間としての根っこは繋がっているため、時に連動した動きをすることがあります。完全に切り分かれているもの、と考えるべきではありません。

 根っこは関係があります。

 そのため、カスタマーハラスメントなどでは、店員に対して執拗に責め立てる時に、「自分はこいつを指導しているのだ、教えているのだ」という感覚を抱くこともあり、指導者型の要素も含まれています。

 また、家庭内でしかモラハラを起こさない人間でも、「外面に対して、家族のお前がなっていないので恥をかかされた」といったような被害者的感情を抱く場合もあるでしょう。

 ただし、そのストイックさには差があることが多く、

■「被害者型」は正義や善に対して自分の努力をしない(いい加減・怠惰)

■「指導者型」は正義や善を自分なりに実行しようと努力している(有言実行)

という違いがあるのは事実です。


<モラハラ2類型を生み出す原因とその正体>

 ではなぜ、これらの2種類の「モラハラ人間」が誕生するのでしょうか?考えられる原因としては、

『幼少期、あるいは生育・発達途中で、あるがままの自分を受け入れてもらっていない』

ということが隠れていると思われます。

 宗教2世問題や、虐待問題、生きづらさの問題を考えるうえで、重要なキーワードとなって出てくるのが「親からの無償の愛」という言葉なのですが、モラハラもおそらくはこの部分に関わりがある現象だと仮説を立てています。

 こどもが生育してゆく過程において「あるがままの自分をそのまま受け止めてもらっていない」と何が起きるかというと、

■ 親の意図に沿った動きをしないと叱られる
■ 親の意図に沿った動きをするように自分から動こうとする

のが子供です。前者の感覚が強いと

『自分は(親の善によって)思い通りにさせてもらえなかった』
『自分は(親の善に反して)叱られたり制限されたりした』

という気持ちが多くなります。これが被害者型のモラハラ人間を育てるわけです。

 逆に後者の感覚が強いと

『自分は(親の善に沿って)自ら努力しよう』
『自分は(親の善を先読みして)そうあるべき人間になろう』

というストイックさを持ちます。こちらは指導者型へと繋がります。自分もそうしてきたのだから、おまえたちもそうするべきだ、という感覚ですね。

 どちらも「親からの愛情」を受け取るプロセスがネジ曲がっているため、「ありのままの自分」とはかけ離れた感覚で育ちます。

 では、その後の ”基準” となるものはなにか?

 それが「自分なりの正義、あるべき姿、善悪」というモノサシになるわけですが、そのモノサシは、「自分にとって理想的に歪められている」ことが多いのです。

 けして世間一般で言うところの、正義感とか善悪倫理の感覚とは、同じではないかもしれません。


<モラハラと自他境界>

 モラハラ者の共通した特徴は、「自他の境界線が曖昧だったり、乱れている」ということです。

 たとえば「被害者型」だと、テレビを見ていたり、SNSの文章を読むだけで「他人」の出来事を「自分の被害」と混同しますから、それについて過剰に怒ったり、持論を述べたりします。

 これは、お付き合いをする人のツイートや言葉を丹念に見ていれば、ある程度傾向に気づくことができるかもしれません。

 もちろん、攻撃性だけでなく、自他境界のあいまいさは「ネガティブな感情」も連鎖しますから、「落ち込む、悲しむ」といった面でも表現されることがあります。

 他者のメンタルに必要以上に引っ張られてダウンする人にも、モラハラ気質が隠れているかもしれません。

(今度は、自分のメンタルをダウンさせるような言動に対して、責め立てるからです)


 一方の「指導者側」ではどうでしょう。基本的に外面が良いということは、自分と他者の切り分けができているように思えるかもしれませんが、「内側のグループに入った」瞬間に、自分とメンバーの境界線がとっぱらわれて同化しますから

『”自分”の思い通りにならないことはゆるさない』

人間へと豹変します。これは表に現れていなかっただけで、やはり「自他境界線の乱れ」が裏に隠れているということなのですね。

 なぜ「自他境界」の話と「あるがままの自分」の話が繋がるかというと、おそらくは人間というのは「母子」(あるいは父子)の関係性のなかで、その境界を育んでゆくので、いちばん最初の段階では「母子」はかなり濃密な一体領域にあるのだと思います。

 親子ともそう思い込みながら過ごし、あるがままの母子、つまり「何ものにも左右されない一体関係」をまず享受してから、「自分と母は違うのだ」という気づきを得てゆくものなのだと思います。

 ところが親子関係になにかの問題があると、「何ものにも左右されない一体感」を得られないと感じたこどもは永遠にそれを渇望するでしょうし、(だから境界があいまいになる)「自分と母は違う」という気づきを得る段階でもなにかのひずみが生じれば、それはコンプレックスのようになるのかもしれません。

 あくまでも仮説ですが、今後の解明を期待します。

 「愛着形成」や、「母子分離不安」などの心理領域と関係がある可能性もあります。


<モラハラを見抜くには>

 指導者タイプのモラハラ人間を見抜くには、まず「逆境に耐え、ストイックに生きているかどうか」がポイントです。

 こんなことを書くと「日々努力をしてきた良き人はたくさんいるのに、レッテル貼りではないか?」と思われるかもしれませんが、

『自分はたゆまざる努力によって、それを成し遂げてきたのだ』

という思考が強い人は、(あるいはそういったことを口にする人は)、指導者型モラハラが隠れている可能性も、念頭に置いてよいでしょう。

 その考え方を肯定できないと、自我が崩れる可能性があるような人格は、とても気がかりです。

 あるいは他者に対して「優しい」「親切」であることが、「自己の善なる評価」を報酬としてそれを行っているタイプの人も気がかりです。

 心から「無償」で、他者への親切を提供している人とは、違いがあるのではないでしょうか?

 また、モラハラ人間ではなく、純粋に努力してきた人はどのように考えるかを参考として挙げておきましょう。

『自分はいろんな人の助けや、運や環境といったラッキーによって今こうなっているに過ぎない。それを忘れず日々丹念に過ごしています』

という考え方の人であれば、モラハラ化する可能性は薄いかもしれません。

(もちろん、「そう答えるのが望ましいという正義」によってなりすます人もいるので、万全ではありません)

 ただ、あくまでも「自他境界のあやふやさ」が見え隠れするため、そもそも

「必要以上にこちらの領域に踏み込んできて、優しかったり愛情を示そうとする人間のほうがおかしい」

という見方もできます。

 自他境界がはっきりしている人間は、

■ 自分にはダメな部分がある、他人もそう
■ 自分の趣味・主義・趣向も当然ある、必要以上に合わせない
■ 天然で話が合わないときがある(違う人間なので)

といったポイントがあるので、それらと合わせながら判断することもできるでしょう。


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 以上のような構造を理解すれば、モラハラ人間とお付き合いすることを避けることも可能と思います。

 ただし、弱っている人にとって、特に指導者型モラハラ人間はとても魅力的に見えますので、気をつけなはれや(笑)


おしまい。