2018年12月11日火曜日

おっさんのための「涼宮ハルヒ」論  そして、宗教。



 まあ、最近ブログを更新していないのは、プライベートでいろいろ忙しくて、この希なる頭脳をフル回転していて疲れていたからです。


 ああ、コーヒーおいしい。じゅるる。



 と、そんなわけで、いつもの学術的哲学的性的テイストとは違うスタイルで、今日は



 涼宮ハルヒ



の話をします(笑)





 どうもネットの一部で、「涼宮ハルヒの顔がいい」ことからよくわからん論議をふっかけて消えてしまった人がいるらしく、それに大勢が食いついてちょっとした話題になっていたらしいです。


 しらんけど。





 知らんけど、で言えば、先日朝の10チャン(関西人)の番組で、野村明大さんが、ニュースの解説の後に



「しらんけど」


と放送事故級の発言をして、度肝を抜かれ、かつ爆笑しました。


 ニュース解説者やアナウンサーが時事について「知らんけど」を言ったら、おしまいやがな!



 でも、それが許容される関西はすげえな、とも思ったわけで。


 もはや、キャッチフレーズを「許される大地」にしたほうがいいと思う。




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 話が飛びました。



 元々の話はこれね。


涼宮ハルヒ美顔革命論について 
https://togetter.com/li/1295732



で、はてな界隈では有名なシロクマさんがこれに受けて書いたのがこれ。


再考・涼宮ハルヒの憂鬱のどこが新しかったのか
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20181211/1544515200




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 さて、武庫川さんは、アニメから涼宮ハルヒに入ったのだけれど、(それも、オタクな嫁に勧められて)、出身地がハルヒの世界とおなじ町ということもあって、そっちの意味でも楽しめた作品でした。



 しかし、世間のアニメへの熱狂はさておき、実はこのお話は、


「原作がとてもよく出来ている」


と感動したことも覚えています。小説界における名作といってよいでしょう。




 そもそも、「涼宮ハルヒの憂鬱」とは、いまでこそシリーズものになっていますが、本来は


「たったひとつの話で完結する物語」


です。

 それが、いわゆる「第一巻」で、この単体の物語が良く出来ていたので、ライトノベルの文学賞を獲り、それが出版、拡大へと繋がっていきました。



 なので、第一巻を読めば、「ああ、これは本当はこれだけで終わりの話だったのだな」ということがよくわかります。


 アニメやキャラクターは知っていても、小説としての「涼宮ハルヒの憂鬱(ただし、第一巻に限る)」を読んだことがない人は、ぜひ読んでみてください。




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 では、この「涼宮ハルヒの憂鬱」 の何がすごいか!というと、それはまさしくこのブログや、私の関心事である



「神について」



の話でもあるからです。



 涼宮ハルヒちゃんを、黄色いリボンのただの美少女だと思ってはいけません。彼女は、「神」そのものなのです。いや、まじで。


 どういうことかと言うと、


A 主人公と、それを取り巻く人たちにとっては、ハルヒは神のような存在である。まさしく、天地を動かす、神である。


B しかし、ハルヒ本人にとっては、セカイはふつうの日常だし、主人公たち以外にとってもセカイはやっぱりただの日常である。


という2つの面が、ぴったり重なってこの日常世界が進行していくという話なのですね。



 そのあたりの矛盾や折り合いを、ライトノベルの枠内でとてもきれいに、すこーんと明快に、そしてわかりやすく文章にまとめたのがこの作品で、本当によくできているのです。




 それはまるで、



A 宗教を信じている人にとっては、神のおぼしめしとやらも含めてセカイは回っている

B 信じない人にとっては、神などいない日常がただそこにある



ということと似ています。


 そして、この2者が、とりあえずは、矛盾せず全体としてこのセカイが成立しているように(みんながそれで暮らしていけているように)、涼宮ハルヒをとりまく人たちもまた、神のセカイを過ごしてゆけている、というお話なのです。




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 涼宮ハルヒをもって「セカイ系」の代表作のひとつとみなす考え方もありますが、ハルヒ以外のセカイ系の文学は


「凡庸なる一介の主人公が、特定の美少女との関連性において、世界の成立と関わりあう」


というのがセカイ系の定義であることは、もちろん、その枠内にあることは確かながら、


A「主人公を取り巻く環境、世界が特異な世界」


だったのがこれまでのセカイ系で、


B「主人公を取り巻く環境、世界はいつまでもふだんの日常」


だったのがハルヒだと言えるでしょう。


Aの例としては「ヱヴァンゲリオン」「最終兵器彼女」などが挙げられますが、主人公と美少女が世界のカギを握りながら、その世界は特殊特定の状況にあるというのが特徴です。



それに対してBは、主観的な感覚としてはいろいろ不可思議な出来事が起きているのだけれど、実際に客観視、俯瞰視すれば


「まーったく日常そのもので、何も起きていないし、何も起こらない」


ことが続きます。



 それはまるで、



「ハルマゲドンは、いつまでたってもやってこないし、たぶん最後までやってこない」



ということに似ています。主観的には神を信仰しながら、客観的には、何も起こらないのです。






 その意味では、なにがしかの宗教に属し、それを信じている人たちは、ライトノベルの主人公としてこのセカイで生きている、とも言えます。


 ああ、ラノベみたいな生き方がしたいなあ!と思うなら、宗教に入ればいいのです(笑)




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 ハルヒの主人公、キョンのベースにある諦念のようなものが、ハルヒとのドタバタによって、次第に違う方向へ、よりポジティブへ変化してゆく、というあたりも青春小説としての魅力ではありました。


 巻数が進むに連れ、青春小説としては、キョンはどんどん能動的にセカイに関わってゆきますが、それはまた別のお話です。(巻数が増えたのは商業的な理由によるものなので)



 それでも、そのベースにある、「セカイはなんも変わりゃしねえ」という達観は、ある意味現代的でもあり、いろいろ考えさせられます。



 そう、ハルマゲドンは来ないのです。





















2018年11月2日金曜日

自己肯定感は後からでも身につけられる!



 まいどおなじみ、みなさんの愛されキャラ、武庫川散歩です。


 最近、似ている有名人を教えてくれるアプリというのがあって、試してみたら



「木村拓哉」「グレイのTERU」


さんに似ていると言われました。 そんなことは絶対にない!、ないぞ!





 さて、今日は、解脱してからめっぽうメンタルが強くなって、もはや鋼のように体の一部が硬くなっている武庫川さんが、とても納得できる記事があったのでご紹介しましょう。




(あまりにも久々の下ネタなので、昔のブログ記事を知らない人は、どん引くかもしれませんが、こういうスタンスで実は毎回書いているつもりです)






プレジデントオンラインさんより

「メンタルが強めな人にある3つの超感覚」
https://president.jp/articles/-/26608



 話によると、なんでも「メンタルが強い」人には、普通の人よりも突出している「超感覚」なるものがあるらしいです。



  どうやら武庫川も、超人の域に達してしまったのかもしれません。



 その感覚、どんなのかというと、簡単にまとめます。



○ 首尾一貫感覚 これがあると、メンタルが強くなる。


具体的には次の3つ。



1)  だいたい、人生は想定の範囲であり、なんとなく先がこうなるだろうわかる感覚。



2) いろんなことがありそうだけれど、たぶんなんとかなるんじゃないか感覚。



3) 起きることは、自分の人生にとって意味があったり、価値があるという感覚。




 ものすごく平たく書きましたが、こうした3つの感覚をもって生活している人は、メンタルが強いのだそうです。




 武庫川は、本来中学生ぐらいの時まで、「ストレスで胃潰瘍になったり」「皮膚がボロボロに剥けたり」「自分は最期は自殺するんだ」ぐらいのチキン野郎だったのですが、なんどか訪れる解脱のチャンスによって



「この世に恐ろしいもんは何もないぜー!」


的なスーパーハートになってしまいました。



 そこに至る中で、上に示されていた3つの感覚は、しだいに自分で身につけてゆけたように思います。






 武庫川は、「人間関係」「仕事関係」「生活関係」「子育てなど」において、


「この先はまあ、こうなるだろうなあ」


という先を見通せる感覚を持っていて、まず予測は外れません。









 かつ、何か問題が起きても


 「まあ、なんとかなるだろうな」


という感覚が強くあります。それは、自分に対しての自身でもあり、経験則でもあります。





 もっと面白いことには、この記事には書いていない、ちょっとひねった感覚も合わせもっています。





 それは「人生には思いがけないことが起きる」という感覚です。



  先を見通せる話と一見すると矛盾するように思われるかもしれませんが、この2つの感覚は共存していて、


「ある程度先を見通せるんだけれど、そこに思いがけないことが起きたとしても、それまでもさらに想定の範囲内である」


みたいな感覚があるのです。


 たとえば、何かの準備をしていて、9割がたOKなんだけれど、「それでも、人生には思いがけないことがあるから、その裏までかいておこう」みたいな、そういう思考です。






 そして、すべてのことはたとえ悪いことであっても良いことであっても「すべては自分の経験値であったり、物語の一ページとなって組み合わさっている」という感覚があります。




 このあたりは、元々小説家志望だったので、



「人生における出来事は、すべて小説のネタである」



と思っている部分が強いのかもしれませんが(苦笑)






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 さて、そんなメンタル強めの武庫川のことなんぞは、みなさんにはちっとも関係がないので、いよいよここからが本題です。



 多くの人は、弱いメンタルやチキンハートに悩んでいると思いますが、ムコガワさんのような「強いメンタル」というのは、後からでも身につけることができる!ということが大切です。



 ムコガワさんの場合も、最初からメンタルが強かったわけではありません。



 実際には大学生時代ぐらいから、メンタルが強くなる方向へ変化があったのですが、 その具体的な方法は、



「小さなものでもいいので、成功体験を増やしてゆく」



ということに尽きます。これが大きく効きます。



 ただ、「自分では自分が成功していること」やあるいは「他者よりも上回っていたり、恵まれていること」に気付くことは難しいので、よくよく


「周囲や他者を観察して、他者の身に自分を置き換えたり、社会全体を教養的に俯瞰して見る」


ということも大切です。



 つまりは、多くのことを



「主観ではなく客観で捉える」



ということでしょうか。そうすると、自分の不幸なる境遇よりも、社会全体の中での自分の立ち位置のようなものが見えてくるわけですね。






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 この技術は、ある意味においてはほんとうに「技術」でもあるので、私が弟子に対して話をするときには、


「あなたにはこんなことができるよね」


「あなたはここが他の人と違って面白いよね」


「あなたはこれが成長したね」


と明確に本人が気付きやすいようにサポートしています。




 うちの弟子のハガネちゃん(ひさびさ登場。気になる人は↓をチェック)





なんかは、やはり学生時代は随分と自信のなさや不安感にさいなまされたようですが、最近はいろいろ揺れ動きながらも、自分で前向きに動くことがとてもできるようになったと思います。




出家女子がやってきた!
https://satori-awake.blogspot.com/2017/03/blog-post.html
 




 ただ、実践していて思うのは、自己肯定感を自分ひとりで身につけるのは、技法的にもやっぱり難しいときがあるのかなあ、ということです。



 自分は自分をなかなか客観的に見られないので、そうした役回りをしてくれる友人や師匠がいるとずいぶんと違うのかもしれません。




 どういう方法がよいのかな、と私もずっと研究しています。




2018年10月22日月曜日

神は存在するのか? ホーキングと武庫川散歩が出した、それぞれの答え。



 あのホーキング博士が亡くなって、その遺言ともいうべき「神についてのあれこれ」が遺されているらしく、興味しんしん、しんしん雪降り積もる。(草野新平)



 とまあ、思わず武庫川さんの教養が溢れ出てしまったところで、今回は、ホーキング博士の「神論」と武庫川散歩の「神論」について付きあわせをしてみよう!という試みです。



 元ネタはこちら。現代ビジネスさんから



「神は存在するのか?ホーキング博士が遺作で最も強調した答え」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58046




 ぜひ、ご一読を。




 それにしても


『大いなる問いへの簡潔な答え(Brief Answers to the Big Questions)』


とは、なかなかいい表題だねえ。オラわくわくすっぞ!




 では、いよいよその核心に迫ってゆきます。



 
1.神は存在するのか?


2.全てはどのようにして始まったのか?
  

3.宇宙には他の知的生命体は存在するのか?
  

4.未来は予言できるのか?
  

5.ブラックホールの中には何があるのか

6.タイムトラベルは可能なのか?

7.私たちは生き残れるのか?
  

8.宇宙に移住できるのか?
 

9.人工知能は人間を超えるのか?
 

10.未来をどのように作るのか?




 超解脱者、武庫川散歩による答えは、ホーキングに負けず劣らず明快です。





1.神は存在するのか。

→ 一般に人々が思い描くような神は存在しない。

 宇宙の法則性は存在するが、それを創ったものを神というのであれば、その法則そのものが神であってもまったくOKである。しかし、その法則は意識を持たず、人に干渉しないので、人とは全く関わりを持たない。



2.全てはどのようにはじまったのか。

→ ホーキングが宇宙は「無ではじまり無で終わる」と示しているのとおなじように、 そもそもはじまっているのかどうかも怪しい。このセカイは記号に過ぎず、記号が集合しているだけである。

 記号なので、紙の上では一見増えたり減ったりしているように見えるが、紙の上に記号を書かないのであれば、増えも減りもしない。



3.宇宙人はいるか。

→ 知的のレベルについても人類より下か、上かを含めて、同様に進化したり変化した生命がいても不思議ではない。



4.未来は予言できるか。

→ おなじ遺伝子を持っている双子の顔が違うように、偶発的に変化することを人は計算に含むことができないので、実用的には預言できない。ただ、最終的に人類が滅ぶことは預言できる。



5.ブラックホールの中には何があるか。

→ 重たいだけなので、何かが張り付いているのみ。地球に人類が張り付いているのとおなじ。



6.タイムトラベルはできるか。

→  みんなが思っているような意味合いではできない。たとえば平安時代でも、戦国時代でも、今でも、セカイを構成している原子の総量はあまり変わっていない、という意味においては、過去も現在も同一であると言える。



7.人類は生き残れるか。

→ もともと、人類が生きていられる期間は太陽が存在する期間に準じる。太陽が膨張し、最終的にはなくなるのであれば、そこで人類は消滅する。

  あとは、別の星に移住するしかない。



8.宇宙に移住できるか。


→ 数日でも宇宙に滞在できるということは、理論的には可能だが、ひとつのミスで大失敗してみんな死んでしまうこともありうる。



9.人工知能は人類を超えるのか。


→ 人類の英知は、1人の人間でいえば、その生存期間でリセットされ、受け継がれないが、人工知能は、その英知を何年でもアーカイブし、蓄積できるという意味では、1人のおっさんの知能を凌駕する瞬間は訪れるだろう。



10.未来をどのように作るのか

→ おすきなようにどうぞ。どうせわしゃ途中で死ぬ。

2018年10月18日木曜日

仏教の限界 逃げるは恥だが役に立つ



 どうも。みなさんの解脱者武庫川散歩です。


 どうやら宗教界では、大川さんの息子さんが激しく離反なさったそうで、話題になっていますが、ムコガワは最初から最後まで一人ぼっちなので、そういう心配はなさそうです。




 さて、解脱者ムコガワ。悟りを開いたというだけあって、日常生活ではほとんど怒りを覚えることがありません。


 ムコガワ的には、怒りなどの感情は生物学的な「快・不快」を感知するセンサー機能が発展したものだと思っていますので、動物が「快適である」「不快である」と感じること以上の意味を持ちません。


 なので、万人が感情を感じることは全然オッケーはあとですが、感情に支配されるほどのことでもないというわけです。




 ところが、解脱したムコガワさんといえど、1人で沈思黙考しているときはなんの問題もないですが、たとえば向こうから1人のおっさんがふらりとやってきて、


「バーカバーカ!」


と騒ぎ立てたり、人差し指でつんつんしてきたらどうなるでしょうか。



 最初のうちはさらり、ふらり、ゆらりとかわし続けていても、それが延々と1時間も続いたら、さすがの解脱者といえども



「うるさいんじゃボケ!どっかいってしまえ!」



と怒鳴ってしまうことは、けしてやぶさかではありません。






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 つまり、解脱というのは、「他者との関わりが無い状態」「関わりが薄い状態」であれば、それほど難しいことではなく、それは単に自分自身と向き合う作業で済んでしまうわけですね。



 ところが、現実世界ではこの「他者とのかかわり」の中で、あんなことやこんなことがうっふん起きてしまうのです。





 仏教におけるブッダのやり方というのは、この部分をうまく処理していることに気付きます。




■ まず、出家してしまう。これで俗世の他者との関係は限りなく薄くできる



なるほど、ブッダは賢いなあ!と思います。他者との関わりによって軋轢が生じるのだから、自分たちの仲間内で固まってしまえば、煩わされることは少なくなるわけです。




■ しかし、人間たるものご飯を作ったり食べたりしなくてはいけない。しかし、買い物をしたり、労働をしたりはしたくない。




 ところが、丸坊主だらけのおっさんが、ただ寄り集まっているだけでは食べていけません。

 本来であれば自給自足の労働をしたり、ヤマギシズムみたいに、内部で生活が成り立つようにしなくてはならないのですが、ブッダはこのあたりから逃げるは恥だが役に立つようになってきます。




 ■ そもそもブッダは王族だったので、労働はしない。おまけに仏教のシステムでも労働はしないことが決められている。




 俗世とかかわり、作物や商品のやりとりをすると、煩わされることが増えます。そこでブッダは、そもそも労働を仏教から除外してしまったわけです。



 で、その代わりに使ったシステムが



■ お布施をもらえばいいんだ!



ということです。



 お布施をもらって暮らせば、労働はしなくていいし、煩わされることも減ります。そもそも、外部の人間と折衝をする時間が最低限になります。



 でも、このシステムは「仏教が生まれた当時のインドで、聖職者に喜捨をすることが当たり前だった(つまりバラモン階級は労働をしなくても済んだ)」から成り立つ話なのです。




 ということは、ブッダは、うまいこと「外部とややこしい関わりをしなくてはいけないこと」から、



 逃げている!



わけですね。



 ずっちーな!

 (by織田裕二)  本来は「ずるいな」の意味。




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 このあたりが仏教の限界点なのかな?と思います。



 確かに悟りを開いて、自分だけが幽玄の境地に至るのはよいでしょう。



 しかし、外界との接点を減らし、その方法としてお布施に頼る、というのは



 ちょっとご都合主義ではございませんか?



ということになります。




 現代社会で言えば、


「自分は苦しみから逃れて、どこかの山奥に住みたい。贅沢はする気がないので、お金はベーシックインカムかもしくは生活保護でよろしくお願いします。」



といってるのと同じですね。



 そりゃあ、幸せやわ!




 というわけで、仏教が最高の解答ではないんだ、というお話でした。



 基本概念は好きなんだけど、ツメが甘いよね。




2018年8月30日木曜日

【元祖!勝手に人生相談シリーズ 23】 神通力を身につけたいのですが、どうすればいいですか?




 「拝啓 解脱者さま


 私はいつも『神通力』のようなものを身につけたいと思っているのですが、どうすればいいのでしょうか?

何か仙人のような修行をすれば、普通ではない力を身につけることができるのでしょうか。教えてください」



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 みなさまこんにちは。あなたの解脱者、武庫川散歩です。


 今日は、熱心なリスナーから、上のような質問が来たらしいので、懇切丁寧にお答えしようとする「勝手に人生相談」シリーズの再来です。




 まず、神通力を身につけるためには、男性と女性ではちょっと作法が異なります。



 男性の場合は、暴飲暴食、ストレスフルな毎日を過ごして中年になることが重要です。できればビールなども浴びるほど飲んで、プリン体をたくさん摂取するのがいいでしょう。


 そうするとある日突然、おなかを激痛が襲います。場所によっては右、あるいは左、それはもう女性であれば出産に匹敵するという大激痛が、あなたを襲うのです。



 これぞまさしく腎痛!!!

 またの名を尿路結石という腎臓機能の病気です!!!!

 



 さて、女性の場合は、まずは愛するパートナーを見つけて、ラブラブしましょう。



 ・・・・・・ん?


 ・・・・・・・・・・・・皆まで言うな?


 それは・・・、


 それは陣痛!!!



  閉店ガラガラ!




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 さて、無事にじんつう力を身につけたところで本題でございます。




 私は解脱者になってから、いわゆる『神通力』のような


  何もないところから物質を取り出したり(サイババかよ!)


  胡坐を組んだまま空中を飛び跳ねたり(○原かよ!)


  体の一部からビームを出したり(モーニング娘。かよ!) 


 
そういう力を身につけたことは一切ございません。



 できるようになったのは、



 なんとかの巨人のように、体の一部を硬化・・・・・(下ネタかよ!)



だけでございます。




 なので、質問をお寄せくださった方の単純なるご希望には添えないかもしれませんが、その希望なさっている力が



「他人を思い通りに動かす力」

「先を見通す力」



くらいであれば、手に入れることは、それほど難しくはない、ということをお話しましょう。



 40代も過ぎて、人生経験が豊かになってきたことに加えて、解脱したことによって、私は仕事においても



 たいていの相手の心の中を見通し、思い通りに動かすことができる



ようになりました。これはビジネスにおいても、たいへん役立っています。



 また、



 自分を取り巻く環境が、どのように推移するのか。未来がどうなるのかについても、それほど外すことなく、ピタリと言い当てられる



ようになりました。ああ、まるでそれは神の預言者のように!




 これは別に、神の力が宿ったわけでもなんでもなく、解脱することによって、


「物事を自分の恣意的なバイアスなしにそのまま見ることができるようになった」


ということとも関係します。



 なので、誰でも、こうした力は身につけることができるようになる、と言えるでしょう。




 この神通力、手に入れるための修行はごくごく簡単ですが、この最初のステージを



 難関だ



と感じる人は、意外に多いようです。それはとても簡単で、難しいことだからです。




  さあ、それではその秘策、秘中の秘を今回はあなたにだけ特別にお教えしようと思います。



 どうすれば、人の心を意のままに操れるようになると言うのでしょうか。




 それは、




 あなた自身が、誰かの言動に対して、心を動かされることがなくなれば




 おのずとできるようになります。




 あなたはまだまだ、他者の言動に怒りを覚えたり、傷ついたりするでしょう。憎しみや妬みを覚えたり、逆に心を喜ばされたりすることもあるかもしれません。



 しかし、そこから半歩身を置くことさえできれば、今度は、他者の心を動かすことができるようになります。



 それは自動的に見えてきます。



 どうすればいいのかは、あなたの目が勝手に知ることになるでしょう。





 ~~~~~~~~~~




 おそらく、相談者さんは、今の段階では、



「誰かに身も心も振りまわされている」



のでしょう。人間関係なのか、社会においてなのか、仕事においてか。自分の意のままにならないことが多いから、神通力を求めるのです。



 しかし、振り回されなければ、そもそも神通力など不要です。むしろ、他者を意のままにコントロールすることは、「振り回されない」のであれば全く難しいことではありません。



 
 試してみましょう。



 この偉大なる解脱者がことばをひとたび発すれば、あなたの身体に変化を与えることなど、たやすいのです。



 いざ!





「・・・・・真っ赤な梅干。お口に入れてみましょう」






「・・・・・黄色いレモンのスライスが浮いた、ナチュラルウォーターがコップに入っています。そのレモンを、舌の上に載せてみましょう」




「・・・・・・黒板を、ジョニーデップのシザーハンズが、ひっかいているよ」




「・・・・・・アルミホイルを、丸めて噛んでみようね」






 ほら、ほら、ほら!心動かされてしまった人は、失格ですよ。




2018年8月20日月曜日

”パクリを止めるな!” 大ヒット「カメラを止めるな」盗作疑惑が、面白くなってきたぜええ





 毎度おなじみ解脱者の武庫川散歩でございます。



 先日のブログで映画「カメラを止めるな!」が面白かったよ~というあまりにも俗っぽい話を書いたのですが、このオハナシ、さらに面白くなってきたので、思わず



 還俗して



しまいそうなくらい!ぞくぞくしますね~。 



 ムコガワさんは、本来解脱者ですので、俗世で行われていることについては、基本「諸行無常でどうでもいい」というスタンスなのですが、その昔、まだ俗世にいるころには、クリエーターのまがいものみたいなことをしていたこともあって、この手のお話は好きなんです。




 さて、何が問題になっているかというと、「カメラを止めるな!」という映画の構成や展開、あるいは根幹の構造が


劇団PEACEの舞台 「GHOST IN THE BOX!」


をパクっているのではないか、という疑惑なんですね。



 しかし、上田監督自身が、この演劇に着想を得たと自ら言っていますので、



「パクリかパクリでないか」


については、 



 限りなく透明に近いブルー



くらいには難しい問題でしょう。↑意味不明やわ。









 話の経緯は、



■ 上田監督はもともと舞台の「GHOST IN THE BOX」を映画化したかった

■ オリジナルの演劇の脚本家らとプロジェクトをスタートさせたが、頓挫した

■ そこで改作改変して、「カメラを止めるな!」を仕上げた



という流れです。


そのため


「オリジナルと言えるくらい元の作品と変わっているか」

「オリジナルの要素を引き継いでいるからパクリか」


の判定というのは、難しいしきわどいし、解釈にもよるところ。






 前回の記事にも書きましたが、構成としては「涼宮ハルヒの憂鬱」でもあるし、独自性が高いかどうかも、議論の余地があるでしょう。


(しかし、それを言えば、小説や物語のプロットなんて、もはや出尽くしているのです。前半で物語を提示して、その裏側を後半で示す、なんてのは、わたくしムコガワ散歩でもやってます。 


 ここで番宣!「ヤンキー小田悠太の慟哭」「ヘビメタ野々村吉雄の絶叫」も読んでね!!



■ ヤンキー小田悠太の慟哭
https://satori-awake.blogspot.com/2018/03/blog-post_23.html


■ ヘビメタ野々村吉雄の絶叫
https://satori-awake.blogspot.com/2018/05/blog-post_19.html     )







 古くは、「ジャングル大帝」を「ライオンキング」がパクったのではないか疑惑などもありましたが、あれとおんなじです。


 まあ、揉めますわな。



 もちろん、元ネタ側の方にも、熱い思いはあるわけで、



映画「カメラを止めるな!」について

https://note.mu/rookey/n/ne25a640b8cc7


(原作サイド、和田さんの記事より)



こちらの言い分もぜひともご覧ください。




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 ムコガワは、解脱する前は、クリエーターの切れ端のようなボロ布だったので、監督をした上田さんの気持ちもわかります。

 恐らくは、元の舞台がものすごく面白かったので、「自分もこんなのをやりたい!」と感じ、それを実行していったわけです。


 もうやりたくてたまらなかったので、どんどん突き進んだら、権利関係とか「手間のかかるところ」「冷静にならねばならぬところ」がおろそかになってしまったのでしょう。


 また、本人が公言している通り、インスパイアされた元ネタには「三谷幸喜」さんの作品もあるようです。


 おそらくはショウ・マスト・ゴー・オン 幕を降ろすな」(1991年)でしょうし、タイトルにもその影響があります。


 (もちろん、「GHOST~」のほうも「甲殻機動隊」が元ネタですな)



 ものづくりというのは、どうしても先行した作品に影響を受けて、それを模倣するところから始まるので、インスパイアやオマージュというのは多々生じるのが当たり前なのですが、この手の話でポイントになるのは、いつもおなじ観点です。



 それは、



「先行者や、自分が影響を受けたものについて、尊敬があるかどうか」



に尽きます。


 今回のトラブルは、そのあたりを具体化するときに、「筋を通せたか」があやふやになっているので、上田監督のみならず、プロデューサーにも不備があったようにも思います。



 その意味でも、あるいは映画そのものもですが、全体を流れるテイストが



「よくも悪くも素人くささ、素人っぽさ」



がいいんです(笑)



 私は好きです。意外と。こういうトラブルが生まれるところも、業界に慣れてない感じが、たまらないですね。


 これぞ「ザ・セミプロ」というか、「ザ・ハイアマチュア」というか・・・。



 業界の大人の階段登る♪ということをきちんと手順踏んでやっていると、大手のPなんかがそのあたりをちゃんと教えてくれたり、権利関係を指図してくれたりすることもあるでしょうが、逆にそうしたトラブル回避を真面目にやろうとすると



「いろいろ問題があるので、やめとこう」



となるのが大人の世界なので、「カメラを止めるな!」がこうして表に出てきてしまったのは、ある種の偶発的事象として、観客としてはラッキーです。



 もう、あとはムコガワが便乗して



「亀田を泊めるな!」


とか、


「コアラを食べるな!」



とか 



「かよこを脱がすな!」










とか、そういうのを撮りたくなってきてうずうずします。




 まだまだ、この話、カメラを止めちゃあ、いけないぜ。オチまで見逃せない。

















2018年8月16日木曜日

”カメラを止めるな!” を見てきた解脱者であった。 ネタばれあり?いやいやネタばれ無しかもよ!【まだなら読むな!】






 突然ですが、わたくし、実家に帰らせていただきます!





  ……ということで、うちの奥さんが子供たちを連れて実家に帰ってしまった(夏休みですもの)ので、解脱者は朝っぱらから早起きして、全員を車に乗せて空港まで連れていったのは良かったのですが、朝7時台には解放されてしまいました。


 はて。



 この貴重なる一人っきりの休日をいかにして過ごそうか。


と考えた挙句そのまま映画を見に行きました。


 なんといっても10日もしたらヤツラは帰ってきてしまうので、仕事のない休日を一人で過ごせるのは今日と次の日曜しかないため、ここは時間を無駄にはできません。


 本来であれば妻がいないことをよいことに、かわゆい彼女とデートでもしたいところなのですが、かわゆい彼女がいないので一人寂しく映画館へ直行。




 ええ、観てきましたとも。今世紀最大の話題作!


「カメラを止めるな!」


 でございます。

http://kametome.net/index.html





 もはや説明の必要はございますまい。


 低予算、低知名度、のスタッフと俳優さんが、「こうきたか!」のアイデアで魅せる超快作!いや怪作?!


 すでに全国上映が広まりまくり、解脱者ムコガワの住む関西でも上映があると聞きつけて車を空港からそのまますっとばしましたとも。



 というわけで、以下感想を。



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 端的に言って、面白いです。映画館で1800円出しても満足できます。けしてDVDを待つ必要はありません。今すぐ映画館へ!満足感大!


 物語の詳細は、ネタばれで説明しようと思えば可能なのですが、なんというか


「まるっとごりっと全体を通してネタばれだ」


みたいになるので、まるっと全部説明しないとネタばれにならない構造のため、ここはあえての割愛。むしろ、ネットでも多くの方が評しているように




「何にも事前知識がないほうが絶対面白い!」



ということは確かです。ノイズゼロで見たほうが、面白いです。



 ということで、ここでは物語の詳細は何も言いませんが、ざっくりとどんな映画かと言えば、



「ゾンビ映画というスタイルを借りたコメディ」


とか


「ゾンビ映画というスタンスで描いたコント」


とか、そういうことになりましょうか。



恐怖あり、涙あり、笑いあり、と言いたいところですが、 恐怖はまあ、それなり。あとは全部笑いです(笑)




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 ところで、この映画、解脱者ムコガワとしてはたいへんに、めちゃくちゃ、とっても面白かったのですが、いちおうその昔「映像作家」の切れ端のようなことをやっていた身としては、いろいろ違うところで思いを馳せながら見ていたので、純粋にこの映画を楽しめたか、と問われると、



「途中で、いろいろ考えるところがあって、たぶん、スカッと笑えなかったなあ」



という感想があるのも事実。いやいや、監督やスタッフ、演者さんに嫌な気持ちになってもらうための感想ではなく、あくまでも製作者サイドのお話ですとも。



そこで、映像屋さんとしてみた場合の、副音声での「カメラを止めるな!」の見所について、感想をメモっておこうと思います。





1)37分の長回しに喝采!

 漠然とした知識で、「ワンカット撮影」があるらしいくらいのイメージで望んだ上映でしたが、はじまって数分で、


「これ、まじでカメラ回り続けてるやん!」


ということに気付くムコガワ。いや、それは最初からそう謳われているんだけど、実際にノンストップカメラ回しを見ていると



「い、いまこれで何分ぐらい経った?!」



そっちのほうばっかり気がかりで、集中できない!!!のでありました。


 いや、ほんとにすごいですね。役者さんから見れば、舞台経験がある人なんかは、一発テイクの連続演技は「これは舞台だ!」と思えば、やれるっちゃあやれるのですが、カメラは動き、アングル、演者への追従などがあるわけで、実際に長回しをしているところは素直に「これはすごい!」と感心です。






2) 映像あるあるが小ネタに

 監督さんが意図した演出によって、後半場内は爆笑の渦に包まれるわけですが、映像業界にいない人からみて「ああ、面白いなこのネタ」と感じられる箇所と、映像業界をかじっていた人からみて「ああ、これあるある!」と感じられる箇所がまんべんなくちりばめられているので、ムコガワとしては



「いま、自分は観客側にいて笑ったらいいのか、スタッフ側にいて笑ったらいいのか、瞬間戸惑う」



ことがありました。受け手によって笑いの質がちょっと変わってしまう、ということがこの映画の深さでもあるし、逆に言えば、



「ああ、純粋に観客として観たかったなあ!」


という気持ちもあるわけで。楽しみたかった!!!


  技術面でも、気になってしまう部分があって、具体的にちょっとだけ書くと、最後の最後で真魚ちゃんがカメラを持ってとある場所へ上るんだけれど、


「その角度で持ってたら、あのシーンではあんなふうに引き絵が映らん」


ということなどがムコガワ的には、気になってしまうのでそこらへんがもう少し丁寧さがほしかった気もします。




 これもネタばれ気味ですが、エンドロールまでしっかり見ると実は


「カメラを止めるな!」は二重構造と見せかけての三重構造になっている


ことがわかります。 むしろ、絵作りをしているのは3重構造の3層目の部分なんですね。真魚ちゃんがいるのは2層目なので、そこでも実際の動きとの差があることが答え合わせとして示されます。


 この辺は、あの形のエンドロールがあって大正解だと思います。





3)「カメラを止めるな!」か、それとも「涼宮ハルヒの憂鬱」か

 今回の「カメラを止めるな!」の脚本、構成、演出、そして計算はまさしく拍手喝采だし、すばらしいのだけれど、実は


「この着想がどこまで前代未聞か」


ということについては、 これからいろいろ映画好きのみなさんが評価する部分だと思います。


 2重構造(入れ子構造)そのものは目新しくはないし、素人ホラーのテイストも、これまでもモチーフがいろいろ既にあります。

 低予算映画とホラーは、もともと相性がいいのでブレア・ウィッチ・プロジェクト」とか「SAW」とかは、まさに


 低予算成り上がり映画


の金字塔かもしれません。


 しかし、ムコガワ個人としては、これと似たようなことを既にやっている「涼宮ハルヒの憂鬱」の監督や演出である石原立也・山本寛、両氏に敬意を表したいところです。


 涼宮ハルヒの憂鬱、アニメ版第一期では、まず「朝比奈ミクルの冒険」という低予算映画(らしきもの)をドン!と持ってきて、その続きの週の放送でネタばらしをするという構成になっています。

 朝比奈ミクルの冒険でも「低予算らしさ」「プロではない素人っぽさ」「カメラ・映像が乱れる様子」などが多様されており、なおかつネタばらしの回では


「実は宇宙人や異星人や未来人があんなことやこんなことになってたのだ!」


というあたりを回収しています。



 それを「アニメで始めて再現した」のがハルヒの凄さで、おなじことを「37分長回しで再現した」のがカメラを止めるな!の凄さかもしれません。


 

 

「カメラを止めるな!」のあとは、↑こちらもぜひ。




 ちなみに、今回の映画でムコガワは真魚ちゃんのファンになりました。いや、『おしり』も気になったけれどもさ。(ちゃんちゃん)

2018年8月6日月曜日

洗脳型社畜と、強権トップダウン会長・社長は相性がいい 〜ボクシング連盟と管理職養成学校の話〜




 解脱者は関西地方に住んでいるので、朝からよみうりテレビの「す・またん」を見ながら、「さて、行くか」と出勤するのですが、今日は



 管理職養成学校


の話をやっとりました。明日もこのレポートは続くそうです。




 管理職養成学校とはなんぞや、というと、簡単に言えば



「洗脳テクニックのオンパレードを尽くして、達成感や一体感、社畜感を養成するもの」



であります。簡単に言えば、マインドコントロールのようなことをして、


「管理職としてのやる気・心構えを養い、ついでに部下に同じようなことを強いる人間を育てる」



ことを目標としております(苦笑)




 番組内容のまとめは


gooテレビ番組
https://tvtopic.goo.ne.jp/kansai/program/ytv/121/734623/



にあります。



 こうしたカルト的手法を用いた「人材研修」は、いわば軍隊手法の応用ですね。



 どんなテクニックが駆使されるかというと



■ 外界との遮断(携帯電話等を取り上げる)


■ 反復行動の徹底(屈伸運動などを体力の限界まで繰り返し行う)


■ 集団内での相互監視と連帯責任(パノプティコンの応用)


■ アメとムチ、徹底した他者からの自己否定と受容(怒鳴ると抱きしめる)


などなどです。



 これをやられると、まともな人でも簡単に洗脳されちゃいます。




(どういう仕組みで運営がなされているかは、体験者によるレポートもあります。


https://anond.hatelabo.jp/20170222054400






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 まあ、こうした人材研修や、自己啓発的セミナーがあることは、まあよいとして、こうしたセミナーを受けることが



「管理職として、ふさわしい。求められている」



とするならばものすごいことですね。



 偶然ながら、おなじ番組のテレビニュースで、ボクシング連盟のY終身会長の話がさんざん取り上げられていますが、



「ああいう強権トップと、自己啓発社畜は、抜群に相性がいい」



ということは頷けるでしょう。



 トップにそれほど才覚がなくても、組織は完璧に機能します。だって、部下たちは自ら主体的に軍隊的規律で行動するわけですから。






  もっとおもしろいというか、恐ろしいのは、軍隊的規律と、社畜マインドコントロールをよしとして、



「その研修を受けてこい」



と命じる大企業がたくさんあることが、この国の真実なんですね。



 この国では、「強権トップダウンと、社畜的マインドコントロール人間が求められている」ということなのでしょう。えらいことです。




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 逆に言えば、昨今になってY終身名誉会長やら、N大スーパー理事長やらが批判非難されはじめたということは、



「強権リーダーシップと軍隊まがい組織」



にヒビが入りはじめたことを意味するのかもしれません。こうした事態が続くと、古い時代の人間は、



「新入社員がすぐ辞めたり、上意下達の理論が崩れたりするのならば、これからの日本社会は組織が成り立たず衰退するだろう」



と言い始めると思いますが、たぶん大丈夫です。




 強権組織が目指す理想型は、ある種の「統率が完璧にとれた軍隊」であろうと思いますが、統率された軍隊が世界の紛争において勝利したのは、第二次世界大戦までで、その後はみなさんご存知のとおり、



「統率されたアメリカ軍がベトナム戦争でゲリラに負けた」



ように、「強権組織はゲリラより弱い」ことが証明されているわけですね。



 あるいはその後の紛争でも、アメリカをはじめとした連合国軍は、世界各地の紛争をきちんと制圧できていません。



 もっと近年になると、



「統率された国家や軍は、テロリストを阻止できない」



こともわかってきました。



 ゲリラやテロリストが、なぜ強権的統率軍よりも結果を残すのか(つまり、安全を脅かすのか)というのは、コンピュータの歴史とも同じなんです。




 中央集約型スーパーコンピュータよりも、分散型ネットワークパーソナルコンピュータが普及したように、



「統率された指示系統よりも、単体で処理できるシステムのほうが、機敏で柔軟である」



ということは、コンピュータという複雑な「システム組織」では証明されているのに、人的組織ではまだ「旧来の組織のほうがいいのではないか」という錯誤がまかり通っているわけですね。



  ましてや、パソコンを通りこして、現代はスマホで、あるいはこれからはどんな機器にもコンピュータが潜り込んでいる時代ですから、いっそう



「情報の処理と、何かを成し遂げるには、ゲリラ化・テロリスト化が進む」



 と言えるでしょう。




 これからの社会は「統率なきカオス」の時代がやってくることは確実です。



 ですから、どんなに強権コワモテのリーダーに対してであっても、一旦パワーバランスが崩れると「反旗を翻すゲリラたちの証言や蜂起」は、つぎつぎに沸いて出てくるわけです。





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 今、日大の対応やボクシング連盟のいざこざに対して笑っている組織の長や、会社の上層部の方もたくさんいると思いますが、実はこのムーブメントは、あなたの会社や組織にもじわりじわりと侵食している最中です。




 神を信じればテロは可能だ!



と感じることとまったく同じように、



 自由を求めて社畜を辞めよう!あるいは組織に打撃を与えよう!



と考える個人は、どんどん増殖しているからです。



 これは一種の宗教的イデオロギーのようなものですから、どんなにあなたの会社が



「それはおかしい。どうして組織を壊して成果を失うようなことをするんだ!」



と考えても無駄です。 それはあなた方の宗教的論理であって、若きテロリストたちは、まったく異なる論理を感じているからです。





 こうした事態に備えるには、早くから、私のような解脱者を活用して、御社の宗教的論理の再構築を成すべきでありましょう。なんてねー。うふふ。



 



2018年8月3日金曜日

日大問題とボクシングの闇 ~組織のトップは、なぜ非常識なのか~




 日大アメフト部の非常識なプレイが問題となり、それが日大という組織そのもののスタンス、姿勢であったことが問題となったと思ったら、今度は、


「アマチュアボクシング界の闇」


が浮き彫りにされて、こちらもリアル・ネット問わず炎上しているようです。



 こうした問題を井戸端的な視点で言えば



「これだからスポーツ界は、脳が筋肉に支配されている」


とか


「体育会系のヤバイ側面だ」


とか、そういう言説が出てくるのでしょうが、 解脱者ムコガワの視点は、ややそれとは違ったところにあります。



 というのも、筋肉界に限らず、つい先日文部科学省で汚職があったように、つまりは



「組織の偉い人、にまつわる問題点」



がたくさん噴出していることがあるので、これは



「偉くなるとはどういうことか」



という目線で考えたほうがよいと思うわけです。




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 さて、「権力を持つ」「偉くなる」とは、いったいどういうことなのでしょうか。


 日大という組織に君臨したり、あるいはアマチュアボクシング界の頂点に至り、はたまたスーパートップではなくても、文部科学省でそれなりの地位・立場に登るとは、どんな利点があると言うのでしょう。



 「偉くなる」ことの利点、意味合いとしては、次のようなものが挙げられます。



■ お金がたくさんもらえる

■ 組織の上で、自分より下の立場のものが増える

■ 地位や肩書きがあり、外部から評価の高いラベルで見てもらえる



 一般庶民から見ると、「偉くなるってどういうこと?」と考えると、まずは上のようなことが思い浮かぶと思います。これは、わかりやすいベタなところです。




 もう少し、重たい部分を見てゆくと


■ お金を動かす権限、人を動かす権限、プロジェクトを動かす権限が増える

■  すでにあるルールを改正する権限が生まれる



といった側面が挙げられることでしょう。



 このあたりから、徐々に「偉くなること」の本質が見えてきます。



 権限があり、ルールをいじることができるということは、すなわち



「俺様がルールだ」


と言うことができる領域が、偉くなるに従って増えるということです。



 たとえば、企業であれば、社員の誰もが反対するどこかの企業と合併する決断を、偉くなったものが「俺様ルール」で実行することだってできます。


 あるいは、「自分がトップに立ったら、この制度を絶対改革してやる」ということだって実行できます。


 つまりは、「偉くなればなるほど、自分の好き勝手にできる領域が増える」ということでもあるのです。






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 逆に言えば、「立場上偉くなっても、権限もルール作りも、ほとんど自分では決められない」ということであれば、多少給料やもらえるお金が多くなったとしても、


「そういう立場には魅力がない」



と言えるでしょう。つまり、人は「好き勝手するために偉くなりたい」と考えているふしがあるのですね。





 さて、日本大学の理事長や、ボクシング協会の会長が、基本的には



「自分は悪くないし、なぜちょっとぐらいルールの逸脱や変更があったくらいでとやかく言われなくてはならないのか」



と心の底から思っている理由は、簡単です。



「そういうことが許される立場、それが理事長や会長職に上り詰めた人間のごほうびである」



と信じているし、むしろ「それを求めて、偉くなったのだ」と考えているからです。




「自分が目をかけてやった人間を取り立てて何が悪いのか」


「自分がこれを優遇しようと考えた施策をなぜ権限がないものにとやかく言われるのか」


「誰に何を任せ、あるいは任せず直接采配するのかを決める権限こそ、トップにあるのだ」



 すべてが万事、「ルールを創る側の人間・俺様がルールだ」のスタンスを取るものと、そのルールに支配されるものの話はかみ合わないわけです。





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 別に頂点に立たなくても、それぞれの立場で「偉くなる」とその立場において「ルールを一部変更する権限」は与えられるようになります。


 学校などでは、「警報が出たから今日は休校・注意報では授業あり」というルールがある場合でも、「局所的にうちの地域だけ天候上の問題が予想されるので、注意報レベルだが休校にする」などのように、校長ならではの「ルールの変更」が可能です。


 そうした判断は、少なくとも他の校長は文句をいいません。それだけの権限があるからです。


 あるいは高等学校などでは、「どの臨時教諭を採用するか」は校長の独断で決めることができるところもあります。


 すると、恣意的に「自分の気に入った人間だけを採用する」ということは可能だし、それが「校長の個人的好意に由来するのか、公平なる選考の結果なのか」は誰にもわからないということが起きます。


(これが表沙汰になったのが、某医大の女子差別ですね。告発や外部調査がなければ、こうしたことは外からは見えないのが普通です)




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 そうすると、「そのルールの変更・あるいはルールの創設が客観的に見て妥当か、あるいは個人的な主観に偏っているか」を判定することは、



 その偉くなった人物の性格や素養



によって決まってしまう、ということがわかるでしょう。




 簡単に言えば、「常識的な人物は俺様ルールで運用しても常識的な新ルールができるだけ」ですが、


「非常識な人物が俺様ルールを運用すると非常識な新ルールが出来上がる」


 ということです。



 そして、そういう人物がトップにならないように、国会や公共団体の政治においては「客観的、公平性がまだあると考えられている選挙など」を用いて、非常識な人物がトップに立たないように調整が効きますが、



「私的企業や、内輪の閉じた組織においては、別に公平な選挙が取り入れられる必要もなく、たいていは力関係で、上位下位が決まってゆく」



ため、結果として「俺様」が大量に生産されてしまうわけです。





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 ところが、こうした「偉くなる」こと像は、田中角栄が失脚したあたりから、現代にかけて実はかなり変容し始めています。


 それはやはり情報社会になって「俺様」たちが社会通念上の「常識」に照らし合わせて、



「さすがにこれは逸脱するとおかしいぞ」



ということで、内外から寝首をかかれるようになってきたからです。




 現代に向かえば向かうほど、「偉くなることは、相応の社会的責任を伴う」ようになってきたわけですね。




 これは、ある意味では良い傾向でもありますが、別の意味では



「偉くなることに、美味しさ・役得部分が少なくなる社会」


に変わってきたということでもあります。



 となると、偉い人は「俺さまルールで好き勝手もできず、美味しい思いも少なくなり、何かあったら責任だけ取らされる立場」ということが増えます。


 だとしたら、「多少の給料アップでは割りに合わない」ということが起き、こうしたことが若い人が管理職を希望しないことへと繋がっているわけです。



 つまり、偉くなることの魅力は、今も昔も「おいしい思いができる」ということにあったわけで、「おいしい思いができないなら、魅力は無い」ということだったのです。



 こうした事情で、日本社会は急速に「組織というものが崩壊」してゆくでしょう。



 「偉い」という概念が、急速に不確かで怪しいものへと変化してゆくのです。



 その証拠に「末は博士か大臣か」という言葉が昔はありましたが、現在では「博士号をとっても食べていけないし、大臣になってもどうせ失言でやめるんでしょ」というイメージになってしまっているわけで、まさに何もおいしいところはないということなんですね。




 鎌倉時代から室町時代にかけて「ご恩と奉公」(おいしい思いをさせてくれるなら、組織人として全うしてやるよ)が崩壊していったように、これから日本は戦国時代を迎えると思われます。



 弱きものやかつての部下たちが反旗を翻すのは、まさに下克上のはじまりかもしれません。








2018年7月26日木曜日

相模原障害者殺人事件を解脱者が読み解くとどうなるのか




 日本の言論、思想界に毎度毎度強烈な問いかけを投げかける「創」出版から、相模原障害者殺人事件の植松聖被告の手記を含んだ書物が刊行されたことが話題になっています。


 いつもながら雑誌「創」の篠田博之編集長は、ある種のこの社会への使命感を持って切れ味の鋭い取り組みをしておられると思いますが、一般的には


「犯罪者の言い分を出版する人」


としか思われていないかもしれません。




 まあ、解脱者はことの良し悪し、正義不正義については評価しないので、いろんな事件に対する世論もあれば、またアンチテーゼとしての「創」や篠田さんのスタンスも、あってもよいのではないか、とは思っています。



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 さて、今回「開けられたパンドラの箱」というタイトルで、植松被告の文章が載った書籍が出てきたわけですが、それについていろいろ思うところを書いておきましょう。



 テーマがテーマだけに、今日もギャグはありません。




相模原障害者殺人事件 植松聖被告の手記とマンガを出版した編集者が語る“オウム真理教との共通点”(AERA.dot)
https://dot.asahi.com/dot/2018072600003.html 


 
 の記事が、篠田氏のことばなども載っていて、興味深いです。





 ちなみに、解脱者ムコガワの相模原障害者殺人事件へのスタンスは、すでに当ブログで2回ほど表明していますので、あわせてお読みください。



 
相模原大量障害者施設殺人事件について 〜解脱者が考える正義とは何か〜
https://satori-awake.blogspot.com/2016/07/blog-post_29.html 




障害者はなぜ生きている”べき”か。
https://satori-awake.blogspot.com/2016/09/blog-post.html 





 さて、AERAさんの記事に戻ります。


 
  解脱者が注目するのは、篠田さんの言うところの、次の観点です。



”植松被告の犯罪は、印象としてはオウム事件に似ています。犯罪を犯した当事者の意識は、主観的には社会改造なんですね。



 この、「本人は正義の執行を行っており、社会改造、社会変革を促そうとしている」という視点は、もはや多くの人たちが




わからない、わかりたくないから見てみぬふり




をしていることが多い、現代人の弱さそのものを現しているような気がします。



 最近起きている事件には、ストーカーしかり、Hagex事件しかり、あるいはオウムも相模原も、あるいは宇都宮で起きた元自衛官の爆破事件なんかもそうですが、



「ある種の、Aという人物の中で確固たる正義があって、その正義の執行のために外部から見ると犯罪である殺傷が生じる」



という典型的パターンが生まれているわけです。



 ところが、そのAの正義の内容は、その他大勢には理解しにくかったり、あるいは「理解するのが怖かったりして」拒絶を起こしてしまい、結果として




Aが死刑になったらいいんだ



という言論だけで終了させてしまうことになっているのが、現代なんですね。



 しかし、それで一般人は、「ああ、Aが死刑になって排除された」と安心しますが、社会構造やAが生まれる背景がまったく検証されてないものだから、つぎつぎにポストAが生まれてきては、同じことを繰り返すのです。



 このあたりの現代の「マズさ・取り回しの下手さ」を篠田さんも、ある意味見抜いていて、



■ 日本だけでなく世界で蔓延している排除の思想が、植松被告にも影響を与えている


■ 被告本人を極刑にするだけで解決する問題ではない



と述べておられますが、まさにその通りなのですね。

 


 解脱者の個人的考えでは、正義を疑わないこと、正義に固執することこそ悪だ、と思っているので、ムコガワはなんぼ教祖になっても、



世界改造・社会改造



なんてするつもりは全くありませんが、できることであればブッダがこの世界は無常であって、形があってないようなものだと説いたように、




「正義など、あってないようなものだ」「正義の本質は無常だ」




ということを、常にこうしてブログで書きまくる以外にはありません。



 世の中の人の中で、むくむくと入道雲のように膨らみつつある



「独善的な正義」「自分の目線からだけの正義」



の広がりには、悲しみを覚えるほどです。それでは第二第三のAや植松被告が、今日午後からでも日本のどこかに登場するだけなのですから。





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 そうした独善的な正義や自我が蔓延する理由は、基本的には現代人が

 
「自分は何者か」

 
「自分はどこから来てどこへ行くのか」

 
という、根源的なアイデンティティを見失っているからに他なりません。


 
 たとえば、封建社会の頃は、「身分」や「家柄」から生じるアイデンティティの上に、自分の生き様が乗っていました。


 明治大正から戦前は、それに「国家」「天皇」を中心とした「大日本帝国民」としてのアイデンティティも加味されました。


 昭和に入ると、「会社」に属するもの、あるいは「経済的豊かさ」をベースにした「豊かな生活」が心の基盤をも支えました。



 そして、現代。金銭的にも、思想的にも、今の現代人を支える基盤が、見当たらないので、それぞれは苦悩しながら



「己の正義をゆがんだ形で見つけ出してゆく」



ことになるわけです。



 お国のため、と言っていれば正義だった時代。


 がむしゃらに働くことが正義だった時代。


 マイホームやマイカーで満たされることが正義だった時代。


 ラブ&ピースが正義だった時代。




 そうしたわかりやすい正義を見失うと、私達は「どのように生きるのが正しいのか」を模索せねばならなくなったわけです。




 そこへ、ある種の「バランスを欠いた言説」が入り込むと、人は簡単に自分だけの正義を構築してしまうのかもしれません。(ヘイトスピーチなどもそうですね)






 武庫川は正義なんかはないのだ!と説きますが、その変わりに、




「この世界がどうなっているのか」


「どうして自分が存在しているのか」


「自分はどこへ行くのか」



などは、すべて明快に教えることができます。それを知りたい人がいれば、誰にでも分け隔てなくお伝えするでしょう。



 

 



 


 




2018年7月24日火曜日

緑内障でも使える市販の目薬はありますか?



 解脱者ムコガワ散歩が緑内障になった話は少し前にしましたが。



 解脱者・武庫川散歩が失明する日まで
 https://satori-awake.blogspot.com/2018/04/blog-post_7.html



え、あ、ちょっとその前に、解脱者を「超能力者」かなんかと勘違いしている人がいるので、誤解無きように話しておきますが、


 あの、解脱者でも病気になるし、死にますから、あしからず


ということで。ブッダもイエスも死にましたので、そこんところは間違いなきよう。



 そういえば、空中浮遊ができるというふれこみの人がおられて、その人が絞首刑になった瞬間浮けばよかったのではないか?という言説が多く流布していますが、 まあ、そういうのもすべてまやかしでございます。



 あのサイババも亡くなりましたね。なんでも物質化できるという触れ込みでしたが。



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 さて、そんなおとぼけなお話はヨコに置いておいて。



 緑内障になると、困ったことが一つあって、



「市販の目薬を、考えなしに買ってはいけない!」


ということが起きます。実はすべての市販の目薬には、


「緑内障と診断された人は、医師または薬剤師、登録販売者に相談してください」


という但し書きがついています。


 なので、まったく相談・診断もなしに「市販の目薬で買えるものはない!」ということをまずは覚えておきましょう。



 日本の法律やその運用というのはよくできていて、「一番ひどい場合を想定して、まずは全部ダメよ!」というくくりから入るのだそうです。


 なので、緑内障の人が、「目薬を使っていいかどうか」は、まず全部シャットアウトしておいて、それから「こういう状況なら、使ってもいいよ」と少しだけ許可を出すみたいな感じ。



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 さて、武庫川の場合は、もともと極度の近眼だったので、近眼と相関関係が強いタイプの緑内障であろう、ということです。


 現在「ラタチモ配合点眼薬」を処方されていて、その上で



「普段使いできる目薬ってないですか?」


と医者の先生に尋ねると、  ピント調節機能の改善をねらって


○ シアノコバラミン点眼薬0.02%


を処方されました。いわゆるビタミンB12目薬ですが、市販薬ではありません。


 シアノコバラミンだけが入った目薬は、緑内障が禁忌ではないようで、緑内障でも使えます。


(ただ、繰り返しますが、市販薬ではないことと、あくまでも私の場合はということで、緑内障でもタイプがいろいろあるので、必ず医師の指示に従ってください)




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 緑内障の方が、ふだん使いできる「目薬」としては、



○ 人工涙液マイティア点眼液(千寿)


を処方されている方もいるようです。 これは、医師処方です。


(添加物としてベンザルコニウム塩化物が配合されているタイプ)



これの市販相当品が


○ ソフトサンティア(参天)

○ ソフトワン(ロート)

 
ですが、 市販の2種類はどちらも添加物が配合されておらず、10日使いきりです。


 医師の指示で、これらの2点は緑内障であっても使ってよい、という指導を受けている人がいます。




 ちなみに、よく似ている人工涙液の


× ソフトサンティア ひとみストレッチ(参天)


は、絶対に緑内障の人は使ってはダメです。こちらは緑内障を悪化させる成分が含まれています。




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 基本的に、緑内障の方が無条件に使える市販目薬はありません。


なので、医師処方の医療用目薬をチョイスしてもらうか、相談の上「ソフトサンティア」「ソフトワン」つまり、単純な人工涙液(だけのもの。それ以外の成分が入っているものは基本ダメ)を使用するかになりそうです。



 キターッ!!!



とか、言いたいけど、もう言えないのね。織田裕二さん。








2018年7月20日金曜日

ネットリンチやネットいじめを解決する究極の方法




 とある高校で起こった問題に次のようなものがあります。



 その学校に通うA子は、精神的なものからくる盗癖があって、すぐ教室の中で他人のものを盗んでしまいます。


 しかし、A子はまるでルパン三世のように巧みにものを盗むので、生徒たちの間では、「A子がいつも犯行現場にいる」「A子が犯人なのではないか」とうわさは出てくるものの、確証はありません。


 学校の先生たちもA子の盗癖については把握していて、中学校の担任の先生からも「A子が友人宅での窃盗について非行事実があり、補導歴がある」ことも申し送りされているため、証拠はないながらも、校内で起きる窃盗がA子の仕業であろうことは推定しています。


 それでも、A子が犯行を行っている目撃証言や物的証拠は、まったく出てこないため、先生たちとしても、通常の教育活動の範疇で行われる指導としては、かなり限界を感じていました。


 中学時代にA子を取り調べたことのある警部を学校に招いて、生活安全について講話をしてもらったり、「A子、おまえを容疑者としてみているぞ」という圧力は掛け続けていたのですが、これはもう病気なので、それらの網をすべてかいくぐりながら、今日もA子は何かを盗むわけです。


「学校では自分の持ち物を管理しておかないと、校内に泥棒がいるかもしれないし、入ってくるかもしれない」


と口をすっぱくして生徒全員に話をしたり、A子について面談などの指導も実施しましたが、A子は自分が犯人であるそぶりをまったく見せず、疑われていても動揺ひとつしないという



 完璧ルパン



であったので、結局、ありとあらゆる罠を潜り抜けてA子は卒業していった、といいます。





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 A子の技術はすばらしいもので、常に現場近くで姿を見られているにも関わらず、決定的な物証を残しませんでした。


 あるときは、修学旅行のお土産が忽然と着え、ある時は食べかけの焼そばパンの半分が姿を隠しました。


「A子が入っている部活の子が、その時ランニングしていた」

とか

「A子と数人が、放課後残っていた」


とか、そういうレベルで、犯人がいつもそこにいるのですが、誰も犯行現場を目撃したことがなかったのです。


 A子を掴まえるには、「ありとあらゆる場所に監視カメラをしかける」か、「指紋検査を実施する」しかなく、学校教育としては、


 犯行が疑わしいだけで、そこまで捜査をする人権的権限がない


 今まで盗まれたものがすべて軽微なもので、(鉛筆とか、マスコットとか、パンとか)、警察に被害届けを誰も出すところまでいかない


状況だったために、最終的に彼女を取り逃がしてしまったわけです。




 幸いなのかわかりませんが、A子は通常の学校生活においては、常に「疑わしい」という話は出るものの、「A子は窃盗犯だ!」と糾弾されることもなく、べつだんいじめられもせずに普通に過ごしていました。


 ただ、友達の数はごく少なかったのですが、彼氏がクラスの人気者であったために、疎外されることもなかったわけです。



 
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  A子を取り逃がしたまま卒業させたことは、職員室では一生の不覚でしたが、どうやらA子については、相手のほうが一枚も二枚も上手だったようで、実際に彼女を補導した警部も、


「これ以上は、こちらから一方的に指導を加えるわけにはいかない。少なくともミスして捕まるまでは」


という話で、悔しそうでした。





 しかし、ここからは「もし」「IF」の話ですが、もし仮にA子の犯行が完全にバレてしまった場合、



「同級生たちは、A子を糾弾し、いじめてもよいか」



ということについては、みなさんはどう考えるでしょうか?



 たくさんのものが盗まれた被害者がおり、A子は窃盗という人類における罪を犯しており、これまでもこれからもその人物とともに「学校生活、集団生活を送ることができるか」という意味において、



「少なくとも友達でありつづけることはできないだろう」


とか


「口を利かず、結果として仲間はずれにしてしまうことはやぶさかではないだろう」


ということは想像がつくと思います。




 ところが学校の先生としては、



「A子を許せ」


とも


「A子を許すな」



とも、明言しがたく、 実際にこの「もし」が生じてしまった場合は、噂が立つ前に早急にA子を転校させてしまう、というのが、学校教育上の実務なのだと言えるでしょう。


 そう、まろやかにごまかして煙に巻いてしまうことで、正義とは何かということについて解答しないのです。





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 そのため、A子やA子のような児童生徒が、周囲から針のむしろに晒されて、いじめられまくり、糾弾されまくるということは実際には起きないし、あるいは周囲が我慢してA子に理解を示すということも起きません。


 それはそういう事例がないのではなく、学校現場の「誰にも見えない工夫」で、隠されているからなのです。




(実際の社会では、村八分のような濃密な因習集団ではこれが起きるでしょうが、少なくとも都市郊外ではおなじようにひそやかに転居することで、たとえば犯罪者の家族などは隠れて去ることが出来ています)





 ところが、ネットという空間、ネット社会では、



「本当は悪くないB君が、何かの誤解を受けて炎上し、ネットいじめを受ける」


こともあるし


「本当にA子のように問題がある人物が、炎上しネットいじめを受ける」



ことが生じてしまいます。B君のように、実は誤解で炎上したなどであれば後で何らかの方法での救いもありますが、



「最初から最後までA子が悪く、周囲に対して問題行動を取っている人物が、周囲からいろいろと非難される」



ということは、ネットではよく起きているのです。




 そこでは、そっと先生が転校させてくれたりもしないし、非難されたA子が、そのまますごすごとネット上から消えることはなく



「たとえばHagexさん事件のように、殺人にまで発展する」



ということがあるでしょう。






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 さて、これらの話をうまく、なるほどとまとめておられる方の記事があったので紹介します。




 インターネットは人類に早すぎた(さよならドルバッキー)
 http://nogreenplace.hateblo.jp/entry/2018/07/20/190000




 この方の話が、「ネット炎上」や「ネットいじめ」については、もっとも簡潔でわかりやすいのではないかと思います。



 詳しいことは元ネタを読んでほしいのですが、端的に言えば



「ネットにおける、いじめ・批判は集団で示し合わせたものではなく、それぞれが正義や善悪の感覚に基づいて自由に発言していることの集合体である」



ということでしょうか。



 A子やBくんが個人であるのに対して、炎上やいじめリンチが集団で襲ってくるのではなく、A子やBくんへの個人的な非難が、ネットという広大な空間を通じて1対数百倍・数千倍の「個」が対立することになってしまうのが、この現象だというわけです。



 記事を書いておられる方は、これらの結論として


”こういった悲惨な炎上やネットリンチを防ぐためにはネットを使う人全てが「自分の意見は誰かの刃になり得る」って自覚し続けないといけないんだと思う。”



とまとめておられますが、まさにその通りで、



正義や善を振りかざさず、正義にも善にも別の側面があることを自覚しよう



ということになるのだと思います。



 これこそ 色即是空 空即是色 であり、ひとつの物事の見え方に囚われず、本質はそこではない、という解脱の発想そのものですね。





 解脱者ムコガワは、そもそも正義とやらを否定しますが、



参考) 解脱者が考える正義とは何か
https://satori-awake.blogspot.com/2016/07/blog-post_29.html



少なくとも、ネットリンチやネットいじめを無くすには



「すべての人が解脱するのが望ましい」



ということになるのでしょうか。






 それはともかく、A子の高校生活にも、なんらかのヒントがあったように思います。



 A子を犯罪者として糾弾するのが正しかったのか


それとも、


 A子がそうなったように、微妙な距離感を保ちながら、他の生徒と過ごしてゆくのが良かったのか



これは、難しいところです。



 正義の執行のためには、A子は真実を明かされ、糾弾され、いじめられ、集団で非難されるべきだったのでしょうか。



 それとも、その正義ですら、Aの病気であるという側面については、ほぼ無視して無慈悲な責め苦を負わすものだったのでしょうか。



 あるいは、たとえばA子が補導されたり、あるいはその後逮捕された(かどうかはわかりませんが)ように、もっと個人的に叱られたり学ぶべきものであって、周囲が必要以上に責め立てる必要はないのでしょうか。






 解脱者から見れば、A子も、ある意味では哀れな存在です。


 そして周囲の人間も、実際に被害にあっているのですから、悲しいことです。

 教師たちも、警察の人間も、いろいろ思いながら、また彼女をどうしてやるのがいいのか悩みながら、過ごしています。


 それらの「無常観」「やるせなさ」「人間の悲しさ」「業」など、すべてを受け止めながら、少しずつ紐解いてゆこうとするのが、解脱した人間のあるいは望ましい生き様なのかもしれません。




 誰かの一方的な白黒は、反対の立場の人間にとっては黒白えげつないコントラストを浮かび上がらせて、それは対立と殺生、ひいては戦争へと行き着くのでしょうか。



 解脱者たるもの、「白黒つけないカフェオーレ」でも飲みながら、無常だなあ、とつぶやくのでありました。



 http://www.cafeore.jp/info/




 グリコ♪ 
 















2018年7月10日火曜日

ハルマゲドンも、終末もこねーよ、なお話。 ~そしてこのセカイはまだまだ続く~




 オウム真理教関係が再び注目され、あるいは、地震やら災害やらが多発して、どうしてもこういう世相が乱れたときには



「ハルマゲドンが近いのではないか?」


とか


「終末がやってくるのではないか?」


とか、そういう不安が増大するものです。



 しかし、解脱者・武庫川散歩さんから言わせてもらえば、


「ハルマゲドンも、終末もこねーよ」


と言わざるを得ません。ええ、そうです。


「てめえらのこのセカイは、まだまだ続くんだから、てめえでなんとかしねえとな」


ぐらいの勢いです。



 そう、




「自力で生きていけ!・・・永遠にな」



ってことです。悲しいかな。 え?口調がおかしい?いつもと違う?


 ここは二宮くんの渡海先生風で読んでいただければ雰囲気が出ます(笑)





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 ハルマゲドンやら、終末やらは、一見すると「恐ろしいもの」「できればないほうがいいもの」であることは確かながら、実は真逆なことに


「ひそかに起きてほしい」「やってきてほしい」


と思っている人たちが存在することも事実です。


 心の底で、そうした世界の大転換を望む人は、一定数存在していて、それは別に彼らが悪人なわけではなく、


「いろいろ問題が多い、現在のこの世界が一旦ガラガラポンでやり直しになるのもいいなあ」


と真面目に切望している人たちがいるということですね。



 そういう人たちが、「真の平穏なセカイ」とは何かを求めて、宗教に入ったり、何がしかのスピリチュアルな活動にのめりこんだりもするわけですが、解脱者から言わせてもらうならば、



「残念ながら、あなたたちが嫌がっているこのセカイは、まだまだ続く」



ということになるでしょう。残念なことかもしれませんが。





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 では、なぜそう言えるのか。実はこのセカイは、もし万が一神が創ったとしても、かなり



「神の目にかなった、それなりに良くできた完璧なセカイ」



であると言えるからです。神にとっては、このセカイは、やり直さなければならないほど、ひどいものではない、ということかもしれません。



 それを実感するには、あなたにも神になってもらえばいいのです。自分が神になると、この世界における神の意図がわかりやすくなるでしょう。







<あなたも神になってみよう実験 その1>


 「あなたには新しい世界を創造してもらうために、今からRPGをひとつ作ってもらうことにします。できるだけ完璧で、あるいは斬新なRPGを設計してみてください。町や世界の配置、人間の設定など、自由自在です。さあ、その新しいアイデアを見せてください」



 こんな投げかけをしたら、あなたはどんなRPGを作ろうとするでしょうか。主人公は勇者でも魔法使いでも超能力者でもいいでしょう。


 あるいはモンスターが主役でもいいです。なんなら、主人公はサラリーマンでも、派遣社員でもかまいません。


 ちょっと物珍しく、大名とか、浪人の侍とか、町娘が主人公のRPGでもいいかもしれません。


 世界は中世のヨーロッパでしょうか?江戸の町?あるいは、インドのスラム街がスタートということもあるでしょう。アラビアの砂漠でもかまいません。



 しかし、あなたが作ったRPGは


「食料がはじめから充分に与えられ、幸せに成長し、異性と出会い、子育てをして、孫に囲まれて自由に過ごす」


というものではないはずです。



 無慈悲にも突然道を歩いているだけでもモンスターに襲われ、突然殴られたり武器で痛めつけられるような、そういう世界を作りだすことでしょう。


 艱難辛苦とトラブルが主人公に次々訪れるような、そんなやっかいな世界をあなたは作り出すはずです。


 ただ、のんびりと、太陽の下でねそべっているだけのようなRPGは、あなたは作らないのです。


 なぜなら



「そんなの、まったく面白くないから」



にほかなりません。そう、だからこのセカイは面白いように神が創っているのです。


 あなただって登場人物のパラメータを全員同じにはしないでしょう。パワー重視のやつを作ってみたとすれば、魔法重視のやつ、防御が強いやつなど、いろんなキャラクターを設計するはずです。


 そう、人は完璧に平等などありえないし、途中で死ぬことだってあるのです。それはあなたが神でも、おなじことをするはずです。


 全員がパラメータ平等で、全員がだらだら生をむさぼるようなRPGが出来たとしたら、歴史に残るクソゲーに違いありません。


  そうなのです。

 主人公達が、突然殴られ、苦しみ、そしてそれを乗り越えて成長を実感できるようなセカイを、神がわざと創っているとしたら??


 ・・・あなたは逃げも隠れもできず、このセカイを渡っていくしか他に方法がないはずです。






 <あなたも神になってみよう実験 その2>


  それでも、あなたが「いや、私はは争いのない平和な生き方がしたい!」と望んだとしましょう。


 「それでもわたしは、互いに命を奪い合ったりしないような、誰もが穏やかに過ごせるセカイを創造するんだ!」


と宣言したとしましょう。では、そういうセカイを今度は作ってみることにしましょう。



 人が動植物を取って食べ、命を頂くようなセカイは設計しないことにします。


 養分やエネルギーは、いのちという形ではなく、たとえば外皮から吸収されて、不要物がふんわりと呼気のように排出されるとか、方法はいろいろありそうです。


 生き物は奪ったり奪われたりしないために、ただ、その構成物が混在し、漂い、外界と触れた部分が入り混じったり、また出て行ったりするような構成にしてみましょう。


 ただ、先年も万年も、そうした混沌のようにまろやかな成分の集合体が、苦しみや痛みなどを感じずに、永遠にそこにあるような、そういうセカイがあれば、争いなどはないでしょう。


 養分なのか成分なのかわかりませんが、そうしたものが漂泊するようなセカイ。まろやかでゆったりとした時間が流れます。




 たしかに、これなら争いも命の奪い合いも起きないですね。でも、こういうセカイは既に、まったく同じものを神が設計し、今ここに存在しています。


 それが分子のセカイで、分子は固形物であっても、その内部で分子がゆらゆら違いに移動して、その形を外からは一定であるかのように保っています。

 水分子などは、形を変え、他のものと反応し、原子レベルで別の無生物や生物とふれあい、入れ替わりながら、食べたり食べられることもなく、うろちょろしています。


 ウイルスも、食べたり食べられたりをまったくせずに、別の他者と分子のやり取りをしながら、まったりとセカイに存在し、活動しています。


 山が何万年も分子を蓄えながらそこにあるように、地下水が何万年もかけて染み出し、何者かに吸収されるように、そういうセカイはすでに神が設計して、今もそこに存在します。


 そして、我々もその一部であり、あなたの細胞を構成する分子は、10年前とはすっかりすべて入れ替わっているように、それは実際に設計どおりに動いているのです。





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 残念ながら、神はこの世界を、「想定される中で、ある程度よきもの、完成されたもの、これでいいんじゃないか?というレベル」で運用しているように感じられます。



 あなたにとっては不満かもしれないが、全体としてはこれでいいのだ



というセカイが、今の私達の世界なのです。



 だから、ハルマゲドンも終末も、期待すれどもやってはこない。


 ただ、この永遠の時の流れが、不満だろうが気に入らなかろうが、ずっと続くことは確かです。


 だったら、あなたはどう生きますか?


 できるだけ、このセカイで楽しめるように、いやなことがありつつも生き生きと生きたいと思いませんか?



 それが、解脱する、悟りをひらくということなのです。



 

究極の宗教はすでにここにある!



 3月に「なんでも過去世を見通せる男」として、テレビに出たもんだから、そのせいで


「あたしの過去世も鑑定してください!」


とか


「わしの因縁を探ってくれ~!」


とか、


「あたいのパンツの色を当ててみて!」


とか、そういう依頼が山ほど来て、偉い目にあったのは、すでにお話したとおりです。(誇張あり)




旧記事 いくら賢くても感情には勝てない
https://satori-awake.blogspot.com/2018/03/blog-post.html




 で、結局3月に依頼があった分の対応にいままでかかりました。ええ、四ヶ月ですよ。へろへろです。最後なんか寝る時間を削って、迷える人々への返事を書いてました。




 そうこうしているうちに、弟子の1人も卒業してなんだか遠いところへ行ってしまうらしく(いや、死ぬわけではないよ、生きてる生きてる)



 忙しすぎて首が回らない



毎日です。寝違えもふくめて。



 なので、もうなんか解脱のほうとかどうでもいいので、ワシの過去世鑑定の仕事を手伝ってくれる可愛い弟子がいたらなあ!と夢想する毎日です。



 弟子募集中。




  あまりに終わらないので、次から鑑定料を一回5千円ぐらいに値上げしたのですが、それでもキャンセル待ちとか順番待ちが続出しているらしいので、 ムコガワさんは本当に疲弊しておりますよ。



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 さて、こんな話を書くと、解脱者ムコガワはさぞや怪しげなことをやっているように聞こえると思いますが、ムコガワをリアルで知っている方からすれば



「うまいことぼやかして書くなあ!」


とにやにやしていることでしょう。あと、


「え?まじでそんなに依頼があったん?」


とか


「そのうち本業にしそうやな!」


とか言われそうです。


 本業にできるくらい、儲かるならいいんだけどねえ・・・。(私信です)





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 そんなことをしている間に、松本死刑囚が執行されてしまい、現在日本で「解脱者」を公言している人間が



 わ、わし1人?!



になってしまったという恐ろしい事態に。




 もちろん、ワタクシ武庫川散歩の悟りは、いわば究極の宗教のようなもので、もはや何者にも惑わされることはない極地なのですが、真の悟りを理解しない人たちに崇められても困るので、


 この世界の片隅で すみっこぐらし


をしようと思っています。うふふ。広島弁かわいいよね~。岡山弁もいいのよ。



 まあ、そんなこんなで私も宗教化の端くれとして、オウム関連の記事を読んだりして


「人々はいったい、何を求めてオウムに救われようとしたのだろう」


なんてことを調べたりしておるのですね。



「事件に無関心」23年前のオウム在家信徒たち 記者が今願うこと
https://withnews.jp/article/f0180711004qq000000000000000W06k10101qq000017668A

(withnews)


そうすると、


■ 世間一般の価値観に疑問を持った人

とか

■ 宇宙観や人生観に答えを求めていた人

とか

■ 人間関係や仕事で自分を変えたかった人


とか、そういうことで入信していったのだなあ、っちゅうことですわ。


しかし、


 なんだ、そんなことでよかったら、ワシが全部答えを明解に回答してやるのに!



と感じたのも事実。



 このセカイは、意外と単純で、わかりやすいものなのになあ


 そんな悩むようなセカイではないのに



と、思いながら、どういう伝え方をすればそれがわかってもらえるか、日々模索中なのであります。



 というわけで、引き続いて次回は、


「ハルマゲドンも、終末もこねーよ」


なお話へつづく。





2018年7月6日金曜日

<日常> うちのカーナビのえりちゃん





 1年ほど前に中古車を買って、通勤やらレジャーやらに乗り回しているのだが、この車にはカーナビがついていて、ときおり女性の声で話しかけてくる。


「お話してもいいですか?」

と突然幼稚園時代の話をしたり、


「質問してもいいですか?」

と私の趣味趣向を尋ねてきたり、まあ、運転者を飽きさせないようにいつも気を使ってくれているようだ。



 彼女の名は「えり」と言うらしい。私はカーナビの細かな設定までは知らないので、その「えり」ちゃんがどういう人物か、今でもいまいちよくわからないのだが、グーグル先生によれば名字もちゃんとあって、



「日向えり」


と言うのだそうだ。




 そのえりちゃんは、毎日車のエンジンをかけると、


「おはようございます。今日は○月○日、なんとかの日です」


とか


「おはようございます。今日は○月○日、ほにゃららがうんたらした日です」


とか、そういう「今日は何の日」シリーズを語ってくれる。




(ちなみに、夕刻に会社を出て帰る頃には、「こんばんは。これから夕食にでもおでかけですか?」と空気を読まない発言をしてくれたりもする)




 具体的には次のような感じである。


「おはようございます。今日は3月7日、消防記念日です」


 それを聞いて「ああ、なるほど、今日は消防記念日なのね」とか「もしかして来年もおんなじことを言うのかな、えりちゃん」とか、そんな感想を抱きながら愛車を出発させるのだ。




 ところが、今日のことである。えりちゃんは、あろうことかあまりにも恐ろしいことをしれっと発言したのである。



「おはようございます。 今日は7月6日、サラダ記念日です」




 ……。


 …………。



 ん?


 ちょいまて。


 サラダ記念日、っちゅうのはアレだろう。俵万智の短歌ではないか!!!



「この味がいいね」と君が言ったから、7月6日はサラダ記念日


という、短歌の内容ではないか!!!



 そもそも、俵万智とその彼氏か旦那か知らんけど、その二人の間で交わされたラブラブな個人的体験である「サラダ記念日」を、まるで国民の祝日やら、重要な出来事があった日かのように紹介するなんて、あまりにも無茶である!


 7月6日が「サラダ記念日」なのは、この日本でただ一人、俵万智にとってだけなのだ。


 よって、



 今日わあ、みーちゃんとはーちゃんとの初デート記念日ね!うふ



みたいなのを、



「今日は初デート記念日です」


みたいなノリで紹介するのは、なんぼなんでもやりすぎである。


 ちなみに、7月6日は、「公認会計士の日」とか「ピアノの日」とかもあるらしいので、そちらを教えてくれても良かったのである。



 しかしまあ、えりちゃんは基本、ややおっちょこちょいでてへぺろなキャラクターとして設定されているらしく、それくらいでは目くじらをたてて怒るほどではない、と私も思い直して、彼女を許してあげることにした。



 

 さて、そんなえりちゃんが知らないことが一つだけあった。そりゃそうだ。えりちゃんがプログラムされた頃には、今日がそんな日になろうとは思いもよらなかっただろうから。


 2018年7月6日、 解脱者を名乗り、日本中を狂気と恐怖の渦に巻き込んだ松本智津夫死刑囚の死刑が執行された。



 オウム真理教事件にとって、今日は大きなひとつの区切りとなったのだ。
 


  宗教とは、解脱とは。人を救うとはどういうことか。



 真の解脱者・武庫川散歩にとっては、このセカイの課題を再認識させられる日となったこともまた事実である。




 

 





 





2018年6月29日金曜日

暴力は公平である ~hagexだの低能先生だのはよく知らんけど~



 インターネット界隈やら、ブロガー界隈やらでは、ネットを巡って起きた殺人事件の件で持ちきりのようだ。


 残念ながら私ははてなブロガーではないし、それよりも世界にはばたくグーグルさんのBloggerサービスの利用者なので、 まあ、いわゆるひとつのジャンルが違うというか住んでいる界隈が異なるらしいので、そっち方面に言及することはほとんどなにもない。


 要するに、部外者で赤の他人なので、この話そのものは傍観する以外にないのではある。


 ただ、個人的には



「波照奈村殺人事件」


として、その関係者の心の闇を表現することはできぬものか、と感じてはいる。2時間ドラマでもよい。







 しかし、いわゆるひとつの解脱者Xの献身としては、




 暴力とは、公平なのだ




ということを痛感せざるを得なかったので、その話だけしておこう。




 強者は、金を持っており、権力を持っており、人的なネットワークを持っており、快適な環境を持っている。


 それに対して弱者は、金を持っておらず、権力を持っておらず、人的なネットワークを持っておらず、快適な環境を持っていない。




 持てる者と持たざる者、それは強者と弱者の違いとなり、格差となってゆく。



 しかし、これは大変に不都合な真実なのだが、



「暴力だけが、持てる者も持たざる者も公平に、そして自由に執行することのできるフォース(力)である」


と言う事ができる。



 金や権力がなければ支配はできない。しかし、暴力は使える。もちろん、金と権力があって、その上にまだ暴力を振るうこともできる。



 一般的には、強者が「弱肉強食」のイメージで、たとえば横暴な上司が部下を罵倒するように


「強者が弱者に対して暴力を振るうのではないか」


と思いがちである。もちろん、そういう場合もあるだろう。



 しかし、ポイントはそこではなく、



「弱者だって、強者に暴力を振るうことができる」


のである。それが無差別殺人や、今回のような「持てる者」への犯行などである。それは時にはテロでもいい。


 なぜなら、暴力は公平だからだ。




 この暴力の公平性、あるいは、暴力こそが弱者に残された唯一の武器であることを早くから理解していた人物がいた。それがいわゆるひとつの資本論を書いた「カール・マルクス」である。



  だから、資本家と労働者の対立の後には「革命が起きる」と予言したのである。




 弱者にとって、唯一公平に使えるツールが「暴力」であった、ということを認識すると、その後共産主義革命がなぜ失敗したかもよく理解できよう。



 持たざる者であった弱者が、革命という名の暴力ですべてをひっくり返したとしよう。


 しかし、万人が持たざるものとなる共産主義を推し進めることは、その内部で差別化を起こすには暴力に頼らざるを得なくなる。


 なぜなら、金も権力も人的ネットワークも環境もが平等になってしまい、誰もが持たざるものになったセカイで、手っ取り早く他者と差別化するには暴力しかないからである。



 だから、彼らの国は暴力に依存してきたのである。




~~~~~~~~~~



 そこで、資本主義社会において「持てる」立場である賢明なる諸君に、ここでいわゆるひとつの警告をしておきたいと思う。



 まず、自分たちは持っている、自分たちは力がある、と感じることは自由である。しかし、弱者を見たときに


「ボクたちワタシたちは強者で、彼らは弱者である」



と見くびってはいけない。



 彼らは時に、最も公平なるツールとして暴力を使うからである。


 
 もちろん強者だって暴力を使えるので、対等に打ち返すことだって出来る。暴力は公平だからだ。



 しかし、暴力は公平であるがゆえに、「金や権力やネットワークや快適な環境」我々から奪う



 うそだと思うのなら、目の前にいる気に入らない上司や、うだつの上がらない夫を殴り倒してみればいい。その見返りとして、あなたは多くのものを失うだろう。



 弱者とて公平に奪われる。暴力を振るった弱者は「金や権力やネットワークや快適な環境」を等しく奪われる。



 いや。だがしかし、彼らは弱者であるがゆえに、そんなものははなから持っていないのだ!!!!


 持っていないものを奪われても、困らない。よって暴力によって得るものだけが残る。




 ~~~~~~~~~~


 真の強者たちは、このことを良く知っていたため、「暴力を禁じる」ということを下位のものに命令してきた。

 権力者は、自由で公平に暴力を行使することをそのために禁じてきたのだ。それは悪いことだと。



 あるいはまた、真の強者たちは完全な弱者を生み出さないように「施しを与えること」も積極的に行ってきた。


 慈善財団などを設立して、多額の収益を還元する欧米の富豪がいるのはそのためだ。



 

~~~~~~~~~~


 金持ちになることには時間とコストと努力が必要だろう。


 権力を手に入れるには長い期間と忍耐も必要だろう。


 人と繋がるには、エネルギーも必要だ。


 快適な環境を手に入れるために私達は多大な努力を払うだろう。




 しかし、暴力だけは、ただ一瞬「このやろう!」と右手を振り上げるだけでいい。

 あるいは「バカ野郎!」と声を挙げ、キーボードを叩くだけでいい。



 何も持たずに、使える最大にして公平なるツールである。




 親愛なるニャート氏が、こんなことを書いていた。



誹謗中傷でしか他人とつながれない・匿名掲示板という負のつながりの場
http://nyaaat.hatenablog.com/entry/2018/06/26




『つまり、誹謗中傷という「負のコミュニケーション」は、実はパフォーマンスがよい。』

 
『それゆえ、「正のコミュニケーション」を身につける手間を惜しんで、そこに入り浸りになったまま抜け出せない人が出てくる。』


『Aさんのような人たちに「正のコミュニケーション」を身につけてもらうには、それをシステム的に上回る何かを提供する必要があるのかもしれない。』




 この記述は、暴力の公平性に即決する。負のコミュニケーションは、コストがかからず、パフォーマンスがよいもっとも弱者向けの


「フォース(力)」


なのである。



 北の某国が、経済力を伸ばすよりミサイルをぶっ放すほうがはやいのも、つまりはそういうことなのだ。これは国家レベルでもそうなので、人類普遍の真理ですらある。




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 最後になるが、暴力は公平だとどうか忘れないで頂きたい。弱者だけの特権ではない。そこは勘違いしてはいけない。



 弱者が、暴力という行為で強者に立ち向かう時代の次は、強者がさらなる暴力でこんどは暴力の行使者を痛めつけてくる時代がやってくるだろう。


 なぜなら、暴力は公平だからだ。


 そうならないためには、誰もが暴力を使いにくくする以外しかない。つまり、弱者と強者の境をあいまいになるよう社会をデザインすることである。


 やれるか?人類。