2014年1月30日木曜日

■<8>サイバーパンク的ゴッドは電気羊の夢を見るか

 みなさん、おはこんばんちは。

 「日本エンターテイメント解脱協会」、略して「エーゲ会」の会長こと、武庫川散歩です。

 当協会は、ついさきほど発足しました。なーんて。


 さて、今回は「悟るヒント」の本筋に戻りますが、そういえば、これまで一度も「サイバーパンクな」悟りの側面について説明していなかったので、今日はかなりサイバーなお話をしようと思います。

 
 これまでの記事の中で、人間が神様を認識するときに「このセカイを作った、たった一人の神(一神教)」と「このセカイにはたくさんの神がいる」(多神教)」の大きく分けて2種類の考え方があるということを説明したと思います。

 ところが、私の悟りにおいては、「神が独りか複数か」ということについては、実はあんまり意味を持ちません。

「一人かもしれないし、そうじゃないかもしれない。でも、そういうことは、実はどうでもいいかもしれない」


 では、なぜ、そういう考え方ができるかを説明してみましょう。


 現代は、皆さんご承知の通り、インターネットがとても普及している世の中です。大きなものから、小さなものまで、働く力だコンピュータ~♪と言っても過言ではありません。

 コンピュータの世界は、これまではパッケージ化された「あるタイトルのソフトウエア」の中に閉じた世界でしたが、ネットの発展とともに、ソフトウエア同士が通信したり、外部への扉が開いている状態になっているのはご承知の通りです。

 なので、先日ニュースにもなっていましたが、マイクロコンピュータが搭載された洗濯機に、ネットからウイルスが入って、そのウイルスが洗濯機を踏み台にして、外部のスマホやらパソコンやらに攻撃をしかける、なんてことも起きているようです。


 さて、ここでひとつのゲームを思い浮かべてください。ゲームの中には登場人物が居て、町があって、プレーヤーの操作に従って、その中を自由に歩いたり、行動したりすることができます。

 つまり、コンピュータの中に、ある空間や、「世界」を形作ることは、簡単で、みなさんは今もそれに触れている、という事実があるわけです。


 ところで、ここに、突然変異か、データコピーの失敗か、あるいは誰かが作ったプログラムでもいいですが、「自分を認識して、自由意志を持つプログラム」がいつか出来てしまったとします。

 そんなのできっこない!でも、夢物語だ!でも、とりあえず今はどう思ってもいいです。そんなプログラムができそうになくても、別に本筋には関係ないからです。



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 そのプログラム君が、「ああ、この世界を作ったのは誰だろう。神様はいるのかな」と仮に勝手に思ったとします。

 ここで、みなさんは正解を知っているので、プログラム君に教えてあげることはできますよね。


「あなたにとっての神様はいるよ。それは人間といって、あなたたちのようなプログラムを作った存在だよ」

と教えてあげましょう。

 すると、プログラム君は尋ねます。

「神様は一人ですか?たくさんいるんですか?この世界を作ったのは誰ですか?」

 
 さあ、みなさんはどう答えてあげますか?これが今回のポイントなのです。たとえば、

①「プログラム君を作ったのは、誰それさんというプログラマーなので、その人が神です」

という答え、ここまではいいですよね。


②「でも、君の周りの他のプログラムを作った人たちは、すでに死んだ人も含めて、数百億人ぐらい人間の世界にいるので、あなたにとってこの世界を作った神は、数億人ぐらいいることになるよ」

 これが、その次の答えですよね。

③「ああ、でもでも。ネットワークをはりめぐらせるのに、工事をした人たちとか、電線を作った人たちとか、それからパソコンの組み立てをした労働者とか、山からレアメタルを取り出した人とか、そういうのを全部合わせると、たぶん世界人口70億として、ざっと半分でも30億ぐらいかな」


 その次は、きっと上のように答えないといけませんね。

 つまり、インターネット上に生まれた「プログラム君」とその周りを取り巻く世界にとって、神はたくさんいるし、一人の天才プログラマがいて「プログラム君を創造した」としても、その人の力だけでは成立しない、ということなのです。


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 私たち人間が、「神」という存在について考えることもこれに似ています。一神教では、なんとなく一人の神が、世界を創造したように考えますが、上の考え方をすると、そうでなくても全然OKですよね。

 多神教では、「この世界にたくさん神がいる」と考えますが、もしかしたら、この世界どころかその外側にも「神」に相当する人がうじゃうじゃいるかもしれないのです。


 そして、もっと面白いことに、「プログラム君を作ったプログラマーの誰それさん」だけは、プログラム君の人生や、生き方や悩みや問いかけに答えることが、なんとか可能ですが、それ以外の30億の神様たちにとっては、プログラム君の存在なんか、知らないし、どうでもいいということになりませんか?


 わかりにくいかもしれないので、丁寧に書きます。

 「プログラム君を作った天才プログラマーの誰それさん」=つまり、プログラム君にとっての神は、意図があってプログラム君を作ったのだから、プログラム君と交流することが可能だし、意味があります。

 でも、他の神々は、プログラム君が生まれようが、そんなことはどうでもいい。第一、銅を採掘しただけの神や、プラスチックの金型からパソコンの箱を作っただけの神もいるし、プログラムは書くけれど、HTTPの実装とかにしか興味がなかったりするのです。

 そういう神にとって、プログラム君と交流することは無意味ですよね。仮に、プログラム君がレアメタルを採掘した神に「どうして僕が存在するの?僕らの未来はどうなるの?僕はどうしたら幸せになるの?」とか尋ねても

「知らん!」

という回答しか返ってこないと思うのですがどうでしょうか。


 そういうものです。それで当たり前です。もし万一神様が存在していて、その神様が私たちのセカイを創造したとしても、神が一人とは限らないし、そもそもそれらの神様の大半は、

あんたに興味はない

のです。残念ですが。




 さて、それでも「でも、プログラムを作った天才プログラマー神だけは、せめて一人でもプログラム君のことをわかってくれる」と思う冷静と情熱の間のような問いかけがあるかもしれません。


 そうです。人類の歴史は、すでに400万年くらい経っているそうです。その400万年前に、聖書的に言えば、アダムが神によって作られたとして、その時、神とアダムは直接交流しているとしましょう。


 プログラム君を作った天才プログラマーは、とりあえず神なので死なないとしておきます。


 でも、今のあなたが天才プログラマーさんを探すのは、400万年前に、プログラム君と出合ったはずの「天才プログラマー神さんを、400万年後の子孫のあなたが30億の神々の中から探す」のと同じです。


 その上、その30億の神々のうち、1億ぐらいの神が「私こそ本物の創造主だ」と言いながら次々やってくるわけです。


 探せるものなら探してみろ、っちゅうねん!


・・・・・・まあ、ふつうに考えたら無理ですよね。真の神様に辿りつくのは困難だし、だいいち、「この神こそ天才プログラマーさんだ!」とこっちが勝手に思っても、真実かどうかは

神様の側からしかわからない

ということなのです。


 こうした状況の中で、「神様があなた・わたしを救ってくださる」というのは、ほとんどドMの変態に近い受身プレイと言わざるを得ません。

 さっさと悟りを開いて「神様には、頼らん」ぐらいに思ったほうがマシだと思いませんか?

 なーんて、ね。










2014年1月29日水曜日

<日常>悟りを開いてよかった事

 みなさん、おはこんばんちは。

 今日は、本筋とはまーったく関係ないのですが、悟りを開いてから、自分の周りに起きている良かったことを、拾い出してみたのでその話を書いておきます。


 もともと、私の悟りは、いわゆる現世の利益を求めるものでもないし、かといって来世はないと思っているので、来世の利益を求めるものでもありません。

 んーと、簡単に言えば、「何かのご利益があることを期待して、悟ろうとする」という姿勢そのものをまったく評価しないので、これから書くことは結果論ですね。全て。


 ただ、考えようによっては、私は幸せ者だし、「幸せ者になれた」と見ることもできます。

 それがいわゆる宗教的な「悟りを開いたから幸せになれた」という原因→結果論とは、まったく無関係なのですが、間接的に「悟りを開いて、生き方や生きることに対するアプローチが多少変わったから、結果がついてきた」ということであれば、それはその通りだと思います。


 というわけで、とりあえずものすごく煩悩にまみれた発想で、思いつくことを挙げてみます。


①仕事で出世した。 →平社員から管理職に抜擢されました。ああ、煩悩!

②奥さんが若くて、とても美しい。 →ひと回り離れてます。ああ、愛欲!

③副業がある。 →毎月、働かなくても一定の「不労所得」があります。印税です。ああ、守銭道!

④家を買った。 →2軒持ってます。一軒は人に貸してます。ああ、物欲!

⑤作家デビューした。 →ちょっとしたモノを書いて全国デビューしました。ああ名声!

 ほかにも、多分、「キュートな子供ができた」とか、「可愛い女子大生の友達がいる」とか、昔「3股かけてたことがある」とか、(→おいおい)、「背が低い」とか、「太ってきた」とか、

尿管結石でのたうち回った!

とか、いろいろありますが、幸せです。


 この世知辛いセカイにあって、私はそれなりに幸せで、いわゆる現世的な利益も十分享受しているらしいことが、自分で今わかりました。

 いるかどうかわからない神様ありがとう。



 まあ、そんなアホな話は置いといて、私自身は上に挙げたような世間一般の「良いこと」については、基本的に追い求めていないので、

 勝手に結果がついてきた

のと同じです。


 よく雑誌の裏に怪しげなおっさんが札束を広げながら笑う、

「これのおかげでギンギラな生活ができましてん!」

「口の臭い俺でも、彼女が出来た!」

「宝くじが当たった!」

みたいな広告が載ってますが、あれとは全然違います


 でも、まあ悟りを開くと、この世界のあらゆることが楽しく思えるのは事実です。ぶっちゃけ毎日が楽しいです。

 今日も、けっこうな肉体労働が珍しく入りましたが、同僚(ああ、そういえば部下か)と二人でたのしくこなしてきました。

 簡単に言えば、そういう状況を「つらい」とか「めんどくさい」とか全く思わなくなるんですね。

 だから、仕事でも生き生きやってますので、オーナーから見れば、引っ張り挙げたくなるんだと思います。


 まあ、でもそんなことも、一時の幸せです。せいぜい、今のうちに楽しむことにします(笑)

2014年1月27日月曜日

■<7> いろんな宗教を知っておこう その4 神道

 みなさん、おはこんばんちは。

 世界三大宗教を一通りざっくり理解したところで、とりあえず日本人である私たちですから、日本の宗教についても軽く見ておきたいと思います。

 日本の民族的な宗教である「神道」というのは、以前にもお話した「多神教」です。火・水・土・川・山・雷・・・など、とにかくあらゆるものに神様が宿っている、という考え方がベースになっています。

 
 ユダヤ教について説明したときに出てきたのですが、もともと「アブラハムの宗教」の神は、ユダヤ人・イスラエル人しか対象にしていなかったことを覚えているでしょうか?つまり、エホバ、ヤハウェという神様は、元来、今のイスラエル地域の土着の神様だということになります。


 日本の神道も、日本という土地と密接に関係している神様なので、あまりカンザス州のこととか、ヒマラヤの奥地のことは考えていません。神道は天地創造についての記述を持つ宗教ですが、なんと言っても世界で一番最初にできたのは「淡路島」ですから、世界的グローバルな視点で言えば、かなりローカル臭のただよう宗教だということになります。

 というよりも、神道における神というのは、自然の力・現象に対しての尊敬や畏怖の念をスタートにしていますから、たとえば木の神様がいるんだ、という発想は、アイヌの人たちの「樹木はシランバカムイという神が宿っている」という考え方などに似ています。

 こうした神様の概念は、実は世界的にたくさん見られるので、「万物に神が宿っている」という発想そのものはとてもオーソドックスなものです。



 ところで、全てのものに神が宿っていたら、それは神道か?と言われればそれは違いますよね。神道というのは、そこから日本の国のあり方・政治の歴史と密接に関わるようになってきます。

 宗教と政治は、基本的に密着します。インドの「ヴェーダの宗教」が司祭階級のバラモンによって指導され、バラモンが王族よりも高位だったこともそうですし、「アブラハムの宗教」において預言者は、すなわち民を導く指導者だったことも同じです。

 日本においては、卑弥呼が神と交流できる霊媒師として、国を治めたことからもわかるように、神々に対して祭礼を行う司祭階級と政治的支配階級はとても近いことになります。


 ただ、日本の神道の特徴は、これも自然な宗教心の現れなのですが、「先祖を大事にする」という先祖崇拝とも関係があるところがポイントです。その証拠に、我々はふだん神社に行って、火の神様を祭ったり、水の神様を祭ったりするよりも、

 昔、いたらしいオオクニヌシさん

とか

 平安時代の菅原道真さん

とか、そういう歴史的な先輩、先祖を崇拝することのほうが多いのです。これは、日本人が基本的に先人を敬う気質を持っている、ということでもあります。


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 さて、「司祭階級と支配階級」の話、それに「祖先崇拝」の話が合体して、日本の神道はみなさんが知っているスタイルで、はっきり形がわかるようになってきます。


 天皇という存在は、もともと「アマテラス」という神様の「子孫」で、そしてそうした神々に祭礼を捧げる役割をしていたので、日本の皇室がいまの形で続いていることになるわけです。

 もともと、天皇の仕事は、神々に対する祭礼を執り行うことです。ですので、天皇は司祭であると同時に、神の子孫ですから「祖先崇拝」をしていることにもなります。

 それから、だんだんと政治的権力を持つようになり、平安時代などは、実権を掌握します。ところが、鎌倉時代になると「幕府」の「将軍」などに実権を奪われますので、政治的には、形式的な位置付けに一旦戻るわけです。


  天皇が、実権を再び持つのは、「明治・大正・昭和」期だけで、現在ではまた「象徴的存在」に戻っています。


  では、天皇は今いったい何の仕事をしているのか、というと、やっぱり祭礼を執り行っているんですね。もともと、それが仕事ですから。

 よくテレビなどで「新嘗祭(にいなめさい)」をやりました、とか時折ニュースになっていますが、天皇は日本という国ができた当初から今まで、格式にのっとった祭礼をずっとやり続けているということなのです。

 そして、では神様に何をお願いしているかと言えば、すごく簡単で「食べ物が豊かに実って、災害がなくて、みんなが平和でありますように」ということを、ずっと昔から祈り続けているわけです。

 神道というのは、基本的にそういう宗教です。ですから、私たちが神社に行ってお祈りするのも、基本的に「今年一年平和でありますように」とか「不幸がありませんように」ですし、神主さんがそれぞれの神社で祈っているのも「村が平和でありますように」とか「作物が育ちますように」とか、やっぱり同じ内容なのです。



 日本人は、ほんとうに、基本的に温和であることがよくわかります。


 「異民族から土地を奪え」とか「他の神を信じるものは敵だ」とか、そういう攻撃の発想もないし、「来世がどうのこうの」とか「天国がどうのこうの」という話も皆無です。


 それは、日本が物理的に島国で、侵入や侵略に出会う機会が少なかったことと、海の幸・山の幸が豊かでおおむね食べることが容易だったからに他なりません。


 「アブラハムの宗教」は、基本的に「砂漠の民」の宗教ですから、ふだんは砂漠をさまよい歩いていて「いつかどこかにオアシスがあるんだ」と願いながら苦しむわけです。食べ物も満足ではないので、「天国へ行ったらいっぱい食べ物があるんだ」と思うわけです。

 そして、ある土地に緑が育っていて、そこに先住者がいたら「この緑と水は神様が我々に発見させてくれたんだから、異教徒のおまえらは出て行け」という発想になるわけです。


 ですので、神道が「この世界が存在する理由を示してくれる」とはなかなか思えないのですが、日本の風土や国民性とマッチして、非常に豊かな世界観を有していることは確かです。

 アマテラスやオオクニヌシを信仰するんだ!という極端な気持ちは別にして、「先祖や祖先を敬う気持ち」や「自然に向き合う気持ち」や、「今日も穏やかだったらいいなあと願う気持ち」くらいは、当然なものとして認めてよいと思います。







 

 


2014年1月26日日曜日

■<6> いろんな宗教を知っておこう その3 仏教とヒンズー教

 みなさん、おはこんばんちは。


 幸せいっぱい夢いっぱい、武庫川散歩です。


 前回は西洋の宗教の代表格である「キリスト教やイスラム教」などについてお話しましたが、今回は東洋系です。

 私たちにはなじみの深い「仏教」を中心にお届けしようと思っています。

 個人的に仏教というのは、宗教というよりも「哲学」の要素が強いと思っているのですが、いわゆる輪廻転生などもふくめた「世界観」については、ヒンズー教の影響も色濃く残っているので、ここではヒンズー教と絡めながらまとめてみましょう。


 
 さて、お釈迦さまは、インドのシャカ族の王子として紀元前7世紀ごろに生まれ、29歳で出家して、35歳で悟りを開いたとされています。名前は、ゴータマ・シッダールタ。ゴーリキ彩芽みたいですが、当然ながら無関係です。


 私も最初の悟りは18歳で、最後の解脱が36歳の時ですから、いい勝負ですね。良きライバルです。(←バカ)


 あれ?ここで不思議なことに気付きます。仏教は、お釈迦さまがはじめたのに、いったいどこに出家したのか。出家というのは、仏教の世界に入ることじゃないの?と思いませんか?

 そうです。出家じゃなくて「家出(いえで)」だったのです!

というのは嘘で、これにはちょっとしたバックグラウンドがあるのです。



 まず、インドは昔もいまも階級社会で、がっちり身分が固定されています。世界史の時間に「カースト制度」を習ったと思いますが、身分によって職業や結婚などが制限されているのです。

 さて、もともとインドには「ヴェーダの宗教」という古代宗教があり、今もいろんな意味で続いています。その「ヴェーダの宗教」の考えは、インド土着のいろんな神様を信仰する多神教で、神に仕える司祭(バラモン)が偉いので、それ以下はいろいろ身分の階級があるというカースト制度の基本になっています。

 また、ヴェーダの宗教は、現世の行いによって次の生まれ変わりの身分が変わるという「輪廻」思想をもともと持っています。なので、「おまいら、輪廻でつぎつぎ身分が変わったらしんどいやろ。だから、輪廻から開放されたいやろ。だったら解脱して自由になれるんやけど、どや?」という理屈で、「解脱」という概念も持っているのです。


 ヴェーダの宗教は、あるとき偉いひとたちバラモンによって「バラモン教」というスタイルを取ります。バラモンの権力が最大になったスタイルの宗教ですから、それ以外の身分の人たちは反発します。

 ちょうどその時代に生まれたのがお釈迦さんなので、彼は最初「ヴェーダの宗教を信仰する者」として家出します。というのも、バラモン(司祭)ばっかりが権力を持っていたその頃、「バラモンだけじゃなくて、神様たちともっとちゃんと向き合いたいぜ」という純粋な気持ちを持つ人たちがたくさん現れたので、神殿を出たり、自分の家を捨てて「自由に信仰を見つめなおす」ことが流行するわけです。

 こういう人たちを「沙門」と呼び、これはバラモン階級ではないヴェーダ系宗教の「修行者」を意味します。つまり、お釈迦さんはバラモン階級ではなかった(次の階級。王族のクシャトリヤ)ので、勝手に飛び出して自分を見つめなおしたかったのです。

 自由になれた気がした、29の夜♪

というところでしょうか。

 したがって、お釈迦さんは、最初、「バラモン教」の修行をバラモンじゃないけど自分で勝手にやります。もちろん、先輩の「沙門」さんたちにいろいろ教えてもらったり、一緒に考えたりしながら修行します。


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 余談ですが、バラモン教は、バラモンの権力が強すぎたので、だんだんと違う身分もやいのやいの言い出します。そこで、力関係とバランスが改まった「ヒンズー教」へと変化して今へ至ります。基本的なヴェーダ系宗教であることは同じですが、もともと多神教なため「メインの神様」の格付けがバラモン教とヒンズー教では異なります。

 ヒンズー教になると、みなさんもおなじみの「シヴァ神」やら「ビシュヌ神」とかがメインになってきます。また、何度も言いますが多神教ですから、

 天地を造った神 ブラフマー

 天地を維持する神 ビシュヌ

 天地を壊して再生する神 シヴァ


と分担が分かれています。


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 話は戻って、お釈迦さまは家族を捨てて、ヴェーダの宗教の修行をいろいろするのですが、結局何をしてもあかんかったのです。

 体を痛めつけても、断食しても、何してもダメで、へろへろになります。
「いやもう、マジ無理」と倒れこんで死に掛けたていたところへ、村の娘スジャータが乳粥をもってきてくれて助けてくれたので、復活してやっとこさ悟りを開いた、ということになっています。


 お釈迦さんはその時「旧来の修行で頑張っても、ダメ」「私の悟りを他人に説明しても無駄」「他の人はたぶん悟ろうとしても無理」と思うのですが、そこへなんと

ブラフマンの神(梵天)が現れて

「いやいや、ぜひみんなに教えてあげなさい」というので、「じゃあ、おしえてあげよっか」と考え直したのです。



 ・・・・・・この時点で私は、お釈迦さんよりも直接ブラフマンさんを拝みたくなるのですが、ダメでしょうか?神として信仰したいのは、お釈迦さんより、その上のブラフマンさんなんですが・・・。


 さて、お釈迦さんは、最終的に変な料理を食べておなかが痛くなり、死にます。その後は弟子たちによって仏教が広まる、というわけですね。


 ところで、皆さん。ここまで読んできてもう気付くと思いますが、お釈迦さまは神様ではなく(仏様です、というボケは無しですよ)、どちらかといえば、「神々の教えを正しく理解した、ただの人」であることがわかると思います。

 なので、私は仏教はどちらかといえば、個人的にお釈迦さんが悟った「哲学」に近いと思うのですが、どうでしょう。

 その裏づけとして、初期の仏教では仏像もつくらないし、第一お釈迦さんを信仰の対象にはしていませんでした。その期間なんと400年!

 400年間も、お釈迦様のやったことは「神のありよう、宇宙のありようを悟るための方法論」として認識されていたことになります。


 その教えの本質は「すべてのものは無常で、よけいなことを考えるのは無駄」ということです。

 「いろんな欲望は、ぜーんぶ無駄。すべては移り変わる。そして、霊魂とか存在しない。実体とかないし、自我もない。目標は、ぜーんぶ捨て去った何にもない状態」

 「形があるものは苦しみ。だから何にもない状態を目指そう。そうしたら、すべてのものから開放されるよ」

「あらゆるものは、本当は『空』、実体はないし形もない。ほんとはね」

 これが、お釈迦さんの悟りの本質です。

 ただ、一点。仏教の基本原理として、ヴェーダの宗教の名残が残っており、それが「輪廻転生」であって

「悟りを開くまでは、あんたらはいろんな欲望やこだわりや自我のせいで、それが原因で輪廻を続けるよ」

と言うのです。これはなかなか大変です。
 


 さて、私個人的には彼の言っていることはよくわかります。というか、お釈迦さんの悟りと私の悟りはとてもよく似ていますから、いやはや大先輩として尊敬します。

 ただ、お釈迦さんの哲学は、そもそも「この世界がどうしてここにあるのか」とか「実体をもって感じられるこのセカイは何なのか」ということについての概念が、少し弱いように思うのです。

 あなたの出会ったブラフマンとはどういう存在で、そうした神とこの世界との整合性はどうなってるんだ、というあたりがあやふやになっているのです。

 そして、輪廻のしくみも、個人的には承服しかねます。何にもないんだから、輪廻もクソもないのだ、と言ってもらうほうが、よっぽど明快ではないでしょうか。


 
 まあ、このあたりは、のちのち私の悟りでどうなっているのかは、お話するとして、おおむねお釈迦さんの言っていることは、紀元前7世紀ごろの科学力では、かなりいい線いっていると思います。

 
 なので、私はお釈迦さんの哲学を基本的に肯定します。たぶん、彼がわかったことと、私がわかったことは本質においてかなり近い、と。

 
 「おまえ、えらそうやな、なんぼのもんやねん」と思う仏教徒の方がいるとしたら、その人にはこう言いたいです。

「お釈迦さまが、みんなにもこの悟りを広めようと頑張っているのに、その悟りをおんなじように共感した私に向かってなんちゅうことを言うのだ。あんたら、シャカの気持ちをバカにしてんのか!

と。みんなが悟りを開くこと、それがお釈迦さまの願いです。僕も同感。なーんて。



 

■<5>いろんな宗教を知っておこう その2 ユダヤ教とキリスト教とイスラム教

 みなさま、おはこんばんちは。


 おはようからおやすみまで、武庫川散歩です。


 前回から、世界のいろんな宗教をざっくりとだけ知っておこう、ということでお話をしています。今日は、その中で、世界3大宗教のうち、2つをお話します。

 ちなみに、世界3大宗教は「キリスト教」と「イスラム教」と「仏教」と言われており、これまたざっくりですが、

 世界の人々のうち30%ぐらいはキリスト教徒です。25%ぐらいがイスラム教徒です。その次は、実はヒンズー教徒が多くて、15%ぐらい。その次は無宗教が10%ぐらいいます。

 仏教は、残念ですが、6%ぐらいなので、3大宗教からは陥落ですね。


 そのあとは、ちっちゃい宗教がたくさんいます。ユダヤ教とか儒教とか、シーク教とかジャイナ教とか、新宗教とか。


 そんな中、実はキリスト教とイスラム教は、本質的に信じている神がおなじなので、合計すると過半数取ってますね。すごい神様です。世界の半分以上の信仰をあつめているなんて!


 じゃあ、そんなすごい神様がいったいどういう存在なのか、を簡単にまとめてみましょう。もともと、キリスト教もイスラム教も「ユダヤ教」と密接に関係しますので、そのあたりから書いてみます。


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 むかーし昔、あるところに、っていうか、「あるところ」ではなく、中東の砂漠に、ひとつの民族がいました。

 その民族は、「エホバ・あるいはヤハウェ・あるいはアッラーフ」という神様を信仰していて、その神様が「天地を創造して生み出した」ということを信じていました。

 神様が天地を創造したあと、いろんな生き物やら、山やら川やらを造ったあと、最後に造ったヒトがアダムで、そのあとで妻としてイブを造りました。

 で、その子孫があんなことやこんなことをして、「おまえらもう許さん」と神様が怒って箱舟に乗った「ノア」とその一族以外は、全員水責めにしてぶち殺すわけですが、あるときその民族に「アブラハム」という人物が生まれました。

 アブラハムは、その神様の「最初の預言者」として、子孫たちに「どうしたら救われるのか」と説くことになります。

 そして、神様はアブラハムと約束をします。「わたしは、おまえの子孫に、カナンの土地を与える」と。(だいたい、今のイスラエルのあるあたりです)

 このアブラハムの子孫と神の約束をもとに始まる宗教が、ユダヤ教とかキリスト教とかイスラム教で、彼ののち、「私は神の預言者です」という人物がいろいろと登場することになるのですが、どの預言者の言うことを信じるかでそれぞれの宗教に分かれていくことになるわけです。



★したがって、この同系統の3つの宗教を「アブラハムの宗教」と呼んだり、場所が砂漠なので「砂漠の一神教」と呼んだりします。

 また、預言者に神様のことばが伝えられることから「啓示宗教」と呼んだり、その経典が「聖書」であることから「聖書宗教」とも呼ばれます。


 

 さて、このアブラハム子孫たちは、すぐ浮気をして別の神様を信仰したり、エホバのことを忘れたりします。なので、神様は怒って、すぐその民族に苦難を与えます。

 「おまえたちが言うことを聞かないから、大変な目にあわせる。ちゃんとわたしのことを信仰したら、約束どおり安住の地を提供してやろう」

というのが、この宗教のベースです。

 もちろん、その都度神様は預言者を遣わして、なんとかアブラハムの子孫たちが間違った道に進まないように誘導するのですが、なかなか全員がちゃんと言うことを聞きません。

 なので、つぎつぎに預言者が登場します。


 
 ユダヤ教は、紀元前13世紀ごろの預言者「モーゼ」と神様の約束を信じる宗教です。モーゼのあとに登場する、旧約聖書に出てくる預言者たちのことは信じますが、イエスのことは信じません。
 なので、今でも旧約聖書に準じた信仰を維持しています。


 キリスト教は、紀元前4年ごろから紀元後30年くらいに存在していた「ナザレ生まれのイエス」という若者が最後の預言者だと信じています。なので、そのあとに生まれたムハンマドのことは信じません。このイエスの行動記録が「新約聖書」なので、古い時代の「聖書」は、神様との昔の約束事で、イエスの登場によって、新しい約束に更新された、と考えています。
 それで、「旧約聖書」「新約聖書」と言うわけです。

 イスラム教は、紀元600年ごろのメッカに生まれた「ムハンマド」が最後の預言者だと信じています。なので、ムハンマドの書いた「コーラン」という経典が神との約束の最新バージョンだと思っています。イスラム教では、もちろん、それ以前の「モーゼ」とか「イエス」も預言者だと認めているし、聖書も認めているのですが、『いや、いま伝わっている聖書は、ユダヤ教徒やキリスト教徒に都合よく捏造されているので、本物ではない』と現時点では考えています。


 というわけで、この3つの宗教において究極的に信仰している対象は、まったくおなじ天地創造主の「エホバ・ヤハウェ・アッラーフ」というひとりの神です。

 
 さて、実はアブラハムの子孫たちは、いろいろあってもともと住んでいた中東地域を追い出されるのですが、ユダヤ教の概念では、神様は最終的にカナンの地を与えてくれるわけですから、イスラエルの人たちは、必死になって現イスラエル地域に「イスラエル国」を作り、維持することに全力を注ぎます。
 その時に、アブラハムの子孫が追い出されたあとに入植したパレスチナ人と喧嘩になります。「おまえら、俺が住んでるのになんで土地を奪おうとするんだ」「おまえらこそ、神様が我々に最初くれた土地に、途中から入ってきてなんなんだ」と、今も喧嘩しています。そう、紀元前から今日まで、たった今も喧嘩しているのです。


 ところが、キリスト教徒たちは「アブラハムの子孫と神の契約は更新されて、イエスキリストのおかげで全人類と神様は新しい契約をしたので、これからはすべての人が救われる」と考えています。そして、与えられる土地は、カナンの地ではなく、未来のキリストの王国で永遠の命が得られる、と考えています。

 イスラム教徒たちも、信仰を貫くと天国で永遠の命が得られる、と考えています。
 
 
 ちなみに、キリスト教は、どちらかというと「信仰心」を大切にするのに対し、ユダヤ教とイスラム教は、実際に戒律をちゃんと守ることを重視します。

 
 さて、日本人である私たちは、ユダヤ教は信仰したくてもちょっと厳しいです。なぜなら、ユダヤ教の神様は、もともとユダヤ人(イスラエル人)しか救うつもりがないからです。
 キリスト教のほうは「信じるだけで救われる」神様なので、ちょっと気が楽ですね。イスラム教は、かなり厳しい戒律を守らなくてはいけません。

 けれど、どの教義を信じるかは自由なので、お好きなパッケージをチョイスしてみてください。


 私は、残念ながら、どの教義もちょっと遠慮しておきます。


 天地創造した何者かがいるところまでは、まあいいんですが・・・。






2014年1月25日土曜日

■<4>いろんな宗教を知っておこう その1 一神教と多神教

 みなさん、おはこんばんちは。


 「さとりますっ」こと、武庫川散歩です。

 (知らない人はドラマ「SPEC」のDVDを借りてきてください)


 それにしても、私のことを「悟りを開いた」わりには、かなり俗世的なヤツだな、とうさんくさい目で見られているかもしれませんが、すごく高尚で霊的にステージが高そうな振りをして金銭を巻き上げる悪党もいるようですから、それと比較してお好きなほうを信じてやってください。


 だいたい、難しい顔をしてそれらしい話をするのは嫌いなので、ざっくばらんに好き放題書くほうが性に合っています。いやいや、もしかすると、全ての人にわかりやすいように、あえてこんな書き方をせよ、と神様が指図しているのかもしれませんよ!なーんて。



 読んでて楽しい、感じて救われる、世界のどこにもない「エンターテイメント解脱」を目指します。



 キリスト教(プロテスタント)のいちスタイルとして、ゴスペルという音楽ジャンルがあります。踊るビートとクラップ(拍手)を交えながら、ウキウキ賛美歌歌うぜブギウギというもので、わかりやすいのは「天使にラブソングを」という映画です。

(ちなみに、あの話は、カトリックの教会なのにプロテスタントのゴスペルスタイルで歌う、というところが、ちょっとネタとして面白いのですが、日本人にはそこまでわかりませんな)

 信仰や真理というものは、かしこまっていればいるほど「ありがたい感じ」がするかもしれませんが、本質が大事でスタイルはどうでもいいことです。中身がきちんと詰まっていれば。


 日本のとあるお坊さんたちが、歌って踊って説法を伝えるバンドを結成したのですが、そのバンドの名前が

 シャクソンファイブ

というそうです。吹きました。

 いいなあ、こういうの好きだなあ。


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 話がどんどん脱線しますね。もとに戻します。

 「悟りを開く」上で、じゃあこれまでどんな考え方や宗教や哲学があって、私たちの先輩はどんなことを考えたのだろう、と思うのは当然なことだと思います。

 また、「この世界はどうしたはじまったのか」についてどんな説明をこれまでの宗教はしてきたのだろう、と思うのも当たり前です。

 そこで、今回からしばらくは、ざっくりあっさりと、旧来の宗教について簡単に説明してみようと思っています。



 まずは、宗教の分類として「一神教と多神教」という分け方があります。

 一神教は、とりあえず「神様は一人しかいない」と考える宗教です。そして、多神教は「神様はいっぱいいる」と考えます。

 たとえば、キリスト教は、天地を作った神様(エホバ・ヤハウェ)が一人だけいる、と考えます。なので、一神教です。

 日本の神道は「八百万(やおよろず)の神」というほどですから、火の神様とか、土の神様とかああらゆるものに神様が宿っていると考えます。多神教ですね。


 ところが、実際には、なんとなくですが、一神教でも多神教の要素が混じったりすることがあるので、

(キリスト教の神は一人なんだけれど、サタンがいるとか天使がいるとか、神っぽいものが複数いるとか、釈迦・ブッダを中心に広がった仏教なんだけれど、いつの間にか菩薩やら如来やら、仁王さんやら、いろいろいるとか)


ここでは、一神教は

「唯一神教」

のイメージで捉えておくとよいと思います。唯一神教のポイントは単純明快です。それは


「ひとりのある神が、この世界を作った。創造した」


ということです。



 唯一神教では、「ある神様だけが真実で絶対」だと考えますから、この世界を創造した「その神様」だけを信仰します。それ以外の神はすべて偽者、でおろかな人類が勝手に作り上げて祀っているだけだと考えます。なので、そうした偽者を信じているものはみな、

死んでしまえ

と思うわけです。あ、ちょっと言いすぎですね。そういう人たちに

いや、まずは真の神を教えよう

となるのです。

 でも、何度伝えても、やっぱりおろかでアホでバカでまぬけなため、やっぱり最後まで真の神を信仰しない者については、

やっぱり死んでしまえ

となります。まあ、口調は強めですが、そういう性格をもともと持っているのが一神教だと思ってください。




 多神教では、元来そこかしこに神様がいて、なんでもかんでも神性を帯びています。水にも神様、山にも神様、トイレの神様などなど。べっぴんさんになれるそうですよ。

 日本の神道はもっと面白くて、「全ての物に神性があるのだから、すべての人は神様になれる」と考えます。

 菅原道真は天神さんになりました。徳川家康は日光東照宮になりました。戦争で戦ったおじいちゃんは、靖国神社に祭られています。

 仏教も、もともとは違うのですが、後半になるとそうした多神教の要素を持ちます。なので、とあるお坊さんが即身成仏して仏になったり、もっと平たく言えば、仏教信者が亡くなると「仏さん」になるわけです。

 死んだ人が神性を持つと、何かしらパワーを持つので呪ったりたたったりするそうです。(というか、仏教系ではそういうふうに考えますね。キリスト教ではあまり祟りません)

 だから、交通事故で死んだ女の子の霊が現れたり、平将門が祟りを起こしたりするそうです。


 しかし、あえて私はいつも言うのですが、どうして廃病院で死んだ患者の霊が現れたり、平家の落ち武者の霊が現れたりするのに、古墳時代の豪族の霊が見えたり、ジャワ原人が槍を持って現れたり、ピテカントロプスの呪いが起きたりしないのでしょうか。


 部族の戦いで、恨みながら死んでいったピテカントロプスの霊に逢いたい!

 ネアンデルタール人が、憑いてますよ!って言われた人に話が聞きたい!

 アウストラロピテクスをバカにしたせいで災いが起きる子孫に出会いたい!


 間違ってますか?私。それともやっぱり私の肩コリは、ホモ・エレクトスが肩に憑いてるからなんですか?!



 ちなみに悟りを開いた武庫川散歩は、死後の世界と霊をあんまり信じてません。


 そりゃ、いるんだったらいるのかもしれませんが、いまあなたの立っているあたりには、何億・何兆もの昭和の人、明治の人、江戸時代の人、室町時代、平安時代、古墳時代、弥生時代、縄文時代の人の霊がうじゃうじゃ浮いてたりするんです。成仏できないウンババな部族とか、石器を持ってるおっさんとか、いっぱいいるんです。もう、みんな多すぎて何を言ってるのか、誰を呪っているのか、聞き取れませんよ。

 そんな中で、一人、交通事故で死んだみよちゃんの霊がどうのとか、私には聞き取れないです。

 横で源(みなもと)の某(なにがし)さんは弓を引いて私を狙ってるし、応仁の乱がどうのとか言ってるし、江戸時代に物取りに殺された源兵衛さんが泣いているし、王と一緒に埋められた「卑弥呼さまー!って言ってる鈴木Q太郎みたいな姿」のホニャララヌシさんが怒ってるし、もう大変なんです。

 
 そいつらがぎゅうぎゅう詰めで立ってるか、あるいはハリーポーッターのディメンターみたいに飛びまくっているというのですから、霊能力がある人は、そんなもんが見えて本当に毎日ご苦労様です。

 私には全く霊的なものが見えないので、本当に助かります。なーんて。

















2014年1月24日金曜日

<3>「苦しんでいるから悟りを開きたい」人へ

 みなさん、おはこんばんちは。

 「迷える子羊」の皮をかぶった狼こと、武庫川散歩です。


 概ね、宗教であるとか、哲学であるとか、そうした信仰に救いを求める人は、現に今何かに困っていたり苦しんでいたりして、それから逃れるため、あるいは解決するために信仰をはじめる方が多いと思います。

 ですので、そうした方で、何を血迷ったか当ブログの記事を見て、「ああ、自分も悟りを得たい」と思う人がいるかもしれませんが、そうした方に最初に申し上げておきます。


 ちょっと、本来の悟りまでには時間がかかるものなのですが、今日はざっくりとスピードコースがよろしいでしょうか?

 それとも、じっくり解脱コースと、どちらがご希望ですか?


と。


 とりあえず癌を治したい方は、今かかっている病院ではない、別の病院にも内緒でかかってセカンドオピニオンをもらってください。このブログを読んでいる暇はありません。早く行って下さい。


 主人がリストラにあってお金に苦しんでいる主婦の方は、バイトを探してください。


 うつ病で苦しんでいるあなた。それはわかります。私も一回だけなったことがあります。 


 友達ができないあなた、いいでしょう。とりあえず、友達になりましょう。


 彼氏にふられて死にたいお嬢さん。とりあえず、私と付き合ってみませんか?


 
・・・・・・バカにしてんのか?!とお思いになるかもしれません。いやいや、バカにしているのはあなたのほうです。

 悟りや解脱を本当に得たい、と思うことは、「病気を治す」とか「金銭的に苦しい」とか「友達がいない」とか「ひきこもってる」とか、「たぶん、俺キモイ」とか、そういう次元からかなり違う次元へと戦いを挑むことでもあるのです。

 最終的に悟りを得ることができれば、もちろんそうした様々な問題や悩みはなくなりますが、とある「ひとつの悩みを解決するために、悟りを求める」というのは


非効率


です。早く専門の解決機関へいきましょう。そのほうが早いから。


 真の悟りを得る途中には、もっともっとものすごいことが待っています。友達がいないなんて、なんぼのもんじゃい。アタシ可愛くない、とか、あまっちょろいのじゃ!・・・というわけで、最初のうちに脅かしちゃったりなんかして。



 実は、この話。面白おかしく書いていますが、旧来の宗教でも、ほんとうはこれと似たようなことが求められていました。

 たとえばカトリックのキリスト教では、

「救われるのは修道院へ入って、神と契約して出家信者になった人だけ」

だったので、一般ピープルは、もともと神の国には入れなかったのです。

 仏教でもおんなじで、

「救われるのは、解脱を求めて、出家した人だけ」

だったので、一般ピープルはやっぱり輪廻転生で畜生道に落ちやがれ、だったのです。


 そこで、キリスト教では、ルターさんが現れて、「ふつうの仕事しててもOK。出家しなくてもOK」というプロテスタントをはじめました。

 仏教でも、もともとの出家信者オンリーの「小乗仏教」から、「いやいや、ふつうの人も救おうぜ」といういわばポップカルチャーが登場し、「大乗仏教」として今に伝わるのです。

 ちなみに、小乗仏教は「自分ひとりが修行して、そいつがひとりだけ救われる」ということで「少ない人数しか乗れない乗り物」の意味で、大乗仏教は「みんなたくさん乗れる乗り物」というニュアンスになります。


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 というわけで、残念ながらサイバーパンク解脱には、悟りを得ない人まで抱え込んで救えるほどの力はありません。


「南無なんとかかんとか」と唱えるだけで来世はバッチリ!」

とか

「信じるものは救われる」

とか、そんな八方美人ではないです。申し訳ない!


 その代わり、できるかぎり平易な形で、誰にでもわかりやすく「悟りを得る」方法についてお伝えしようと思っております。

 とっても誠実で正直ですね。


 繰り返しになりますが、私はお布施もいらないし、教団を大きくしたいとかどうでもいいので、(だいたい教団とかないし)


ただ、真実のみを追究する


ことにしか興味はないのです。かっかっかっ!


2014年1月23日木曜日

■<2>悟りを開くステップ

 みなさん、おはこんばんちは。


 いちおう、最弱解脱したらしいっぽい、「サイバーパンクブッダ」こと武庫川散歩です。

 ふざけてるのか、と思われそうですが、もちろん!ふざけています。



 いやいや、そんなことでいちいち腹を立てていたら、悟りを得るのは時間がかかります。にっこり笑って、和田アキ子さんの「笑って許して」でも口ずさみながらお読みください。


 前回、悟りを開くことについて、えらく大雑把な概略をお伝えしましたが、私の場合は、いろんなステップを経て、いよいよ「ああ、これで悟りの境地に達したなあ」というところまでたどり着くことができました。



 ですので、今回は、そこに至るステップのようなものについて書こうと思います。



 <第一ステップ> 神様と向き合う ~神と喧嘩してぶちのめした話~

 
 <第二ステップ> プログラムされたこの世界 ~善悪を疑え~


 <第三ステップ> 無の境地へ ~このセカイは、存在しない~


 <第四ステップ> 宇宙との一体化 ~なんだ、そんなことだったのか~


 私が悟りを開くに当たっては、ざっくりといえば概ね上の4つくらいの気付きがあったように思います。



 最初の段階は、これまで「神さま」と呼ばれていた存在について、きちんと対峙するところからでしした。平たく言えば、「神様はいるのか」という疑問を考える、くらいの程度でよいと思います。

 そして、あろうことか私は神様を(比喩的な意味で)ぶちのめしてしまいましたので、その結果、あらためて自分ひとりでこの世界がなんたるかを探さなくてはいけなくなってしまったのです。

 この銀河宇宙英雄伝説な物語は、またあとでゆっくりと語りますので、お楽しみに。



 次の段階は、「この世界で起こっていること」をとても澄んだキラキラした瞳でみつめることでした。これまた簡単に言えば、「先入観を取り除いて、世界のありようを見る」という作業です。すると、これまで一般的に思われていることや、普通だと思っていることが、どうも原点に戻れば怪しいな、ということに気付くようになったのです。



 三つ目の段階は、一番衝撃的なステップでした。おそらく、誰も理解しがたい話だと思いますが、「この世界は、実は存在しないんだ」という発見が、ガーンガーンガーン!と襲い掛かり、それがまた同時に悟りの本質へと直結していった瞬間でした。
 おそらく、ふつうの人にとっては、このステップが一番重たい、そして重要な「悟り」のステップになろうかと思います。



 最後の段階は、いよいよこの世界・この宇宙と、ここにいる小さな「私」が一体であることを悟るステップです。あれ?けっこう普通なことを言ってますね。おおむね「悟り」とか「解脱」とか「覚醒」とかそういうことを言ってる人たちはみな、「宇宙と一体化だぜベイベー」とか、そういうことを語りますので意外に共通してますね。



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 さて、ちなみに私は自分の得た「悟り」を特に何か名称をつけて呼んだりはしてないのですが、いわゆるお釈迦様が「悟りを開いた」のと、どこがどう違うのかと尋ねられたら、一応こんな風に答えようと思っています。

 お釈迦さま、つまりブッダの悟りは、どちらかと言うと、それまでのインドのヒンズー教とか、バラモン教とかを少しベースにしているのに対し、私の悟りは「コンピュータアルゴリズム」とか「情報論理」とか、いわゆる20世紀・21世紀の物理科学を基礎にしているので、


 サイバーパンク解脱


と勝手に名付けました。つい、さっき。


 先ほどの4段階において、最初の2段階は意外にアナログなんですが、後半の2段階は、かなりサイバーでパンクになってきます(キリッ)
 
(いわゆる、エンターテイメント作品におけるサイバーパンクの定義とは多少ずれがあるかもしれませんが、そこは笑って許してください)



 徐々に、この辺りは説明してゆこうと思っています。
 

 


■<1>悟りを開くとは、どういうことか

 みなさま、おはこんばんちは。

 今日も、おだやかに過ごしております。武庫川散歩です。もちろん偽名です。


 おそらく、こんなブログはあんまり誰も読んでいないだろうし、これからも読む人が少ないと思うので、至極のんべんたらり、まったりと記事を書いているのですが、とりあえず最初の記事ですから、


 「悟りを開くとはどういうことか」


について書いてみたいと思います。


 さて、私がいわゆる悟りを開いたらしいのは、何段階かに分かれているのですが、ほんとうのとっかかりは10代の頃、それから20代にかなりいい感じで悟って、30代でいよいよ「まるっとズバッと」悟ることができました。



 で、悟りを開いたらどうなったのか、というと。なるべく平易に書きますが、簡単に言えば


「基本的に、このセカイに対してとても穏やかな気持ちになった」

「何かに対して怒る、恨む、憎む、ということがなくなった」

「とりあえず、幸せ(はーと)」

「迷いがなくなった」


などの境地になりました。




 念のために書いておきますが、悟りを開いても


超能力が使えるようになったり、

神の声が聞こえたり、

空中浮遊ができたり、

すっごい頭んなかがズギュンズギュンして、ショワーっ!!ってなったり、

なんか体がビクンビクンしたり、


そういうことは全くありません。



 そういうのを期待する人は、何か(できれば合法的な)薬物を摂取するほうが早いと思います。それか脳の特定の部位に電極でも差し込んでもらって奥歯ガタガタいわしてもらうのもいいかと。




 そういう意味で、これも改めて書きますが、当ブログはスピリチュアルなこととか、霊的なこととか、そういった内容とは天と地とほども離れた方向で話が進みます。


 真の「悟り」は、そういうオカルトがかった話では全くなく、むしろ一般的な科学的論理に近いからです。


 なぜ、そう言えるのかというと、特に私が悟りに至った本質的な内容というのが、


 このセカイがどうやって成り立っているのか、理解した。


という点につきるからです。




 この領域になると、どちらかといえば

「ビッグバンで宇宙はスタートしたんだぜ」とか

「スーパーカミオカンデで素粒子を探してるぜ」とか

「ヒッグス粒子が見つかったんだぜ」とか

そういう分野に近いので、きっと信仰心の篤い人にとっては、面白くないことでしょう。




 しかし、たとえばもし神様がいるとして、

「神様が創ったビックバンやらヒッグス粒子を語らずして、なぜに神を語れるのか!おろかものめ!ババーン!」

ということになりはしませんか?


 なので、とっても科学に満ち溢れた合理的な話と、とっても神様仏様な「このセカイのなりたち」は、本来はひとつのもののはずです。


 当ブログにおいて、「悟る」ことは、とても淡々としていて、理論的です。


 それでも、「悟りを得る、悟りを開く」瞬間は、ある意味ものすごく強烈なひらめきを伴います。

 ベタな例で言えば、アルキメデスが叫んだ「ユーレカ!」(eureka・ユリイカ)のようでもあるし、パウロの「目から鱗が落ちた」でもいいでしょうし、「スジャータ」でもいいでしょう。(あ、これはちょっと違うか)


 それはまさに「覚醒」であり、「光明」であり、ものすごい体験なのですが、その体験を得たいがために求めるものでもありません。



 悟りの体験そのものは、たいしたことではありません。それよりむしろ、

「俺すっげー悟っちゃったんだぜ!」

と何度も語りたくなるようでは、たぶんその人は悟ってはいないと思います(苦笑)




 逆に、「悟りを得た」瞬間こそ歓喜に満ち溢れているのですが、その喜びは「このセカイを知ることができた」という純粋な喜びであって、同時に「ものすごい畏怖と恐怖とおそれおののく気持ち」にも同時に見舞われることになるからです。


 そういうものが一挙に入り混じって、ぱっとすべての視界が開ける感じ、とでも言いましょうか。


 まあ、でもそんなことは瑣末なことで、どうでもいいことなのですけど(苦笑)



2014年1月22日水曜日

<はじめに>『悟るヒント』 ~サルでもわかる「悟り」をお届けします~

 みなさま、おはこんばんちは。


 この世界には、たくさんの宗教や、思想や、哲学のようなものが山ほどあって、


「どうしてボクタチ・ワタシタチは生きているのだろう」


とか、


「我々はどこから来て、どこへ向かうのだろう」


とか、


「生きてるってなんだろ、生きてるってなあに♪」


とか、それはもういろんな問題を解決しようとしています。


 そしてまた、この世界には救世主だとか、キリストの生まれ変わりだとか、現代のブッダとか、最後の預言者とか、最終解脱者とか、それはもう凄い人たちがたくさんいて、人類を救おうと活躍しています。



 あるいは、たった一人でいろいろ考えて「神は死んだ」とか、「タバコの煙が目にしみるぜ」とか、この世界について考えを巡らせている人もいるでしょう。


 
 このブログでは、そんな旧来の宗教や哲学に「ピン!」とこなかったあなた・わたしのために、それはもうなるべく簡単に「悟りを開く」お手伝いをするつもりでいます。



 別に怪しい信仰に引きずりこもうとか、お布施をたんまり納めてもらおうとか、そういうヤマシイ気持ちはいっさいなく、ちょっぴり皮肉や笑いを交えながら、あなたの「悟り」のヒントをお届けします。



 ちなみに、このブログを書いている当人は、「ちょっぴり悟りを開いてはいる」ものの、預言者でも神の使いでもないし、先祖はいるけど前世はなく、空中浮遊も千里眼もできません。



 仏教ともキリスト教ともイスラム教とも、ゾロアスター教ともヒンズー教とも神道とも、ユダヤ教ともミトラ教ともニューエイジとも無関係な、ネット時代の”サイバーパンク解脱”のはじまりです。


 武庫川散歩  しるす。