2017年1月28日土曜日

【勝手に人生相談シリーズ 17】 ”別れるのがいつも下手なんです!上手な別れ方ってどうすればいいんですか?”



 イエーーーーイイイ!


 空前絶後のおおおお!超絶孤高のげえええだああつしゃああーーー!


 天上TENGA唯我どくそおおおおんんん!



 ムコガワアアアアー!散歩です。こんにちは。


 今日は、字面だけで、 サンシャイン池崎さん風自己紹介をためしてみましたが、のけぞり具合が想像できましたでしょうか?


 ※ちなみにTENGAの部分は18禁ですから、気をつけて。





 さて、今日もこのブログの人気コーナー「勝手に人生相談」でお楽しみいただきます。


 お便りは、30代女性の方から


「こんにちは、ジャスティス武庫川さん。いつも楽しく拝読しています。ところで、わたし、これまで付き合った方と綺麗な別れ方をしたことがありません。いつも、修羅場になったり、後に引きずったり、相手がストーカーになったり、相手が死んだり、ひわいなメールが送られてきたり、食べきれない量のピザが届いたりします。

 たぶん、わたしの別れ方がとても下手なんだと思うのですが、上手に異性と別れるには、どうしたらいいのですか?ぜひアドバイスをお願いします」


という切実な悩みが届きましたので、誠実にお答えしようと思います。



 まず、武庫川がまっさきに気付くのは、こうした問題を抱える男性・女性を問わず覚えておきたい名言ですね。




「別れ方が下手なんじゃない!

それは付き合い方が下手なんだ!!!」

 ばばばーん!!ピカッ!ゴロゴロ!



 どうですか?これは意外と気付きにくい事実なのです。



 人は誰でも、出会いと別れを繰り返すものですが、・・・え?あたしには出会いがない?

 何を言っているんですが、今ここで私と出会ったじゃないですか。この出会いを一生大切にしていこうではありませんか、妻子持ちですが。


 ・・・もとい。


 出会ってから二人は、二人だけの「お付き合い方」を重ねてゆきます。ところが、それはとてもプライベートなものなので、他所からごちゃごちゃツッコむべきことではないし、逆に言えば


 「誰からも見られない、閉じた関係」



を構築するわけですね。この関係が、あるとき破綻をするわけですが、ここで二人は


「別れる」


ということになります。ところが、別れるという意思決定をするのは、たいてい片側だけで、両者の合意はいつも


「すりあわせ協議の後に決定される」


ので、「別れよう」と思うのは、すべて最初は常に一人なのです。



 そうなると、すりあわせの際に、互いの別れに対する意見の相違がどんどん出てくることになります。


「なんで俺はお前を愛しているのに、一方的に別れるんだ!」

とか

「どうしてあたしを捨てて別れるの?ほかに女でもできたの?」

とか、そういうことになるのですね。




 ちなみにここでテストに出る重要ポイントを。



■恋愛の重要ポイント1

「お前はあたしを愛しているかもしれないが、あたしはお前を愛していない」ということがこの世には多々ある。


■恋愛の重要ポイント2


「99%は、ほかに相手ができたもしくは、気になる相手ができたから別れるだけ。残りの1%は不治の病で、付き合っていても未来がないから別れる場合のみ」



・・・さて、これでもまだ別れ際のところだけを注目しているので、話がわかりにくいのですが、そもそも「付き合っている間の二人がどうであったか」を秘密のベールをめくって覗いてみたいと思います。



 交際期間、二人は閉じた関係にありますが、すでにこの時点で実は「別れが綺麗になるかならないかの種」は存在するのです。


 それが閉じているがゆえに、公平性や平等性を欠いていることが多いのが、ミソです。



 たとえば、よくある二人の秘め事をパターンで挙げてみましょう。




■ 「女性が、かなり自分を抑えて男性に尽くしていたのだけれど、ある時堪忍袋の尾が切れて、男性に対して見限った場合」

は、どんなことが起こるでしょう?


 この場合は、「男性は、自分が常に優位に立っていると思っていたので、逆転ホームランを食らって立場が真逆になったことを受け入れられない」ことが大半ですね。

 これは、揉めて当然です。男性は自分の立ち位置を定めることができなくなっているからです。



逆に、


■ 「女性がわがままで、相手の男性は自分を抑えてガマンしていたのだけれど、ある時わがまま女が他に男を作って出て行ってしまった場合」


は、どうなるでしょうか?


 この場合は、「男性はずっといいことなしなので、自分が払った代償に相応の賠償を求めたくなる」ことが大半です。

 これもバトルが繰り広げられそうです。 これはそもそも、男が付き合う前に「わがままな女に振り回されるのが、男の器だ」ぐらい思っていないと成立しません。悪女好きならOKだったのに、です。

 当初振り回されていても、「いつかわかってくれる」なんて思っているのは完全に男も甘ちゃんなのだと思います。女子はいつかわかったり絶対しません。そういう生き物なのです。

 わかるなら「今、この瞬間にズキュン!」と来るのが女子なのです。




==========



 では、他の場面を見てゆきましょう。


■ 「女性が、かなり自分を抑えて尽くしていて、それでも男が別の女と出て行った場合」


 このパターンは、意外とよくあります。演歌なんかでも度々ネタにされるやつで、


「それでもいいのよ、いつかあなたが帰ってきてくれれば♪」とか「あなたの帰る宿はあたしだって信じてるから待ってるわ」みたいなヤツですね。涙こらえてセーター編むのです。


・・・えーっと、これは幻想みたいなもので、男から描けば都合のいい女像になってしまいがち。


 現実の女子は、こんなことをすると「たいていの場合、別の女のところに突然現れたりする」ので要注意ですよ!

 この手の尽くす女を裏切ると、怨霊化することが確率的に多いので気をつけなくてはいけません。


”あみん”の”待つわ”な女子は、本当はとても恐ろしいのですよ。





■ 「女性がわがままで、そんな相手に愛想をつかして男がもうええわ!と思った場合」

 
・・・これはうまくいくかもしれません!


 女子はわがままなので、反省なんてしませんから「ああ、そうよね。私が振り回したから去ったのね」と意外に早く立ち直ります。男ももう女子を見限っていますから、ここで両者のベクトルが真逆に伸びることは合致したわけです。


 これは、実害がなさそうです。





==========




  ここまで、付き合い方に問題がある例ばかりを挙げました。そんな付き合い方をしていたら、別れが美しくなるはずないじゃないか!と誰もが納得するはずですが、もう遅いのです。


 取り戻すことはできません。



 では、逆に「美しい付き合い方」とはどんなものなのでしょうか。それが見つかれば、きっと「美しい別れ方」だってできるはずですよね。



■ 「彼は彼女を心からいたわり、彼女も彼を心から尊重し、互いの過ちを包み込み、時には許し、時には盾となって相手を守る器を持ち、妬んだり束縛したりせず、高めあう存在となる」



・・・・。


・・・・・・・。


・・・・・・・・・。
 

 ・・・・・・・・・・・・こいつら、絶対別れないわ。


 そりゃ、死が二人を分かつくらいしか、別れる理由がないわ!!!





 ってことは何ですか?別れるということは、必ずその交際そのものに何らかの問題がある、ということなわけですか?



 美しい別れ方なんて、どちらかが死ぬ以外存在しない!ということなんですか?!!!









 ここで名言その2。


” 別れとは、二人の交際のありようを写す鏡である
         - 21世紀最高の哲学者、武庫川散歩 - ”




 
 



2017年1月25日水曜日

「嫌われる勇気」 岸見一郎さんの幸せはどこにあるのか



 最近、解脱者として活動するようになってから、身の回りの人にそれとなく


「幸せとは何か」

とか、

「生きるとはどういうことか」

とか、

「さまざまな問題を解決するにはどうしたらいいか」


などをお話する機会が増えるようになりました。といっても、わたくし武庫川は、一回の解脱者であって宗教家でも教祖でもありませんから、ただ日々の悟りに従って



「思いついたことを好き勝手にしゃべる」



だけなんですが(笑)おおむね、好評のようで、みなそれなりに心洗われてくださるので、まあいいんじゃない?




 おかしなことに、普段ビジネスマンという世を忍ぶ仮の姿で過ごしている武庫川ですが、混迷厳しい経済状況について取引先の営業マンといつも話をしていたら、どうも私の言っていることが「何かしら心に響くらしく」みんながみんな自分の上司やら部長やら偉い人を連れてくるようになって、なんなんだこの現象は!と感じています。


  だいたい、商取引で「偉い人が一緒に来る」というのは


「これこれこういう商品が出たからぜひ買ってくれ」とか

「こういう状況になっているので協力してくれ」とか


そういうお願い系のネタを仕込みに来る場合が大半なんですが、


「ん?今日は何かネタがあるのでは?」


と尋ねても、


「いや、ネタは無いんですが、ぜひお話を聞きたいと一緒に来ました」


みたいなことが多く、不可思議です。そういう人が何人も続いています。




~~~~~~~~~~


ここらへんで


 え?っていうかそれ自慢?!

 
と思ったあなた。 そんなもん自慢しても何にもなりまへんがな。「わしのところにはたくさん人が来る」「あ、そうですか」で終わりです。


 そして、あなたの人生にはほとんど関係がないどうでもいい話なので、こうしてブログに書く意味すらないしょーもない話です。


 それもマイクロソフトのビルゲイツが来たとかならまだしも、そもそもうちの会社の取引先の偉い人なんて、あなたから見たら、


 そこらへんを歩いているくたびれたおっさん


に過ぎません。そんなもんどうでもよろしい。


 ただ、そういうことが増えたなあ、という「個人の感想です」





 さて、今日のお話です。



 ふだん、武庫川は人々に、「幸せと言うのは、日々、まさに今この瞬間にあるのだよ」ということをさりげなく語っています。


 ああ、今ここから道路に出たら、その瞬間あなたは車に轢かれて死んでしまうかもしれない!


 明日、朝トイレに行こうとしたら、寒さとのギャップに心臓がきゅっってなってそのまま倒れるかもしれない!



 人生というのはそういうものなので、だとすれば


「幸せ」というのは追求するものではなく日々積み重ねるものだ


なんてかっこつけたことを言いたくなるものです。




 たとえば、こういうお話は(今日は水曜)どうでしょう。



  結婚するに当たって、「この人と一緒になったら幸せだろうか、あるいはそうではないだろうか」と思い悩むこと



とか


 就職した会社が、「これで良かったんだろうか、あるいは、自分が本当にやりたい仕事なんだろうか」と迷い倒すこと


とか


そういう場面に人は多々出くわしますが、



 自分の未来の先に、架空の幸せがあって、それを追い求めることは、まさに架空である



ということを武庫川は言っております。そんなもんは永遠に手に入りません。




 今日、奇しくもネットをちらっ、ちらっと見ていたら、あの「嫌われる勇気」の著者、岸見一郎さんが、自分の過去を振り返って語っておられました。



『嫌われる勇気』の著者が、母の死を機に辿り着いた「ある答え」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50771 



 ご一読ください。当ブログのファンであれば、言ってることはすぐにわかるはずです。


 岸見一郎氏の感覚と、アドラーの概念を組み合わせると、そこにあるのは、一種の


「仏教哲学に似た悟りの境地」


とも捉えることができます。


 それを示す部分を引用してみます。



”だがこの頃には、すでに私は、人は何かの出来事を経験するから不幸になるのでも幸福になるのでもないことを学んでいた。プラトン、アドラーは目的論を採ることで、何かを経験することが不幸の、そして幸福の原因になるのではないと考える。人は幸福に〈なる〉のではなく、もともと幸福で〈ある〉のだ。”



”そもそも、病気に限らず、生きること自体が苦しみなのである。だから、今は苦しいがやがて楽になる時がくるとは考えなければよいのである。苦しいけれど、その苦しみをただ苦しいとだけは見ないで、苦しみこそ幸福の糧であると思える生き方はできるのだから。
どんなに苦難に満ちた日々でも、ともすれば見逃してしまうかもしれない瞬間にこそ、本当の幸福は潜んでいる。ささやかな幸福以外に幸福はない。たとえその人が、どんな状況にあっても。”



 ・・・人はもともと幸福である。そして、生きること自体が苦しみなのである。


 
 まとめるとこういうことになるのだけれど、一見すると矛盾しているように見えます。


 しかし、「幸福=苦しみがないこと」 という一般的な幸せの定義に惑わされているからこそそう見えるのであって、実は


「幸福とは、苦しみのなかにもささやかな幸せがたしかにあること(あるいは苦しみを幸せの一部と捉えること)」


を意味します。


 仏教が、「この世の苦しみから逃れるために、すべてを捨て去りなさい。そうすれば見えてくるものがある」と言っているのも同じことですね。


 そして、武庫川が「この世界は存在しないのと同じである、だからこそ存在すると感じることができることは楽しむべきことである」と言っているのも同じです。



 人は、若いうちには「成功すること」や「自分がよいと思う状況になること」が幸せであろうと推定します。


 しかし、それは推定される要素の一部分であって、実際に成功すれば幸せになれるとは限りません。あるいは、自分の望む結婚や就職や進学が叶ったとしても、それは


「推定される要素の一部分」(大事なので2回目)


であって、結果としてあなたに返ってくる幸せそのものではない、のです。




 ではあなたにとっての真の幸せとはいったい何なのか。



 それをあなた自身で、一度ゆっくり問い直してみてください。







2017年1月16日月曜日

【勝手に人生相談シリーズ 16】コスプレが辞められません!いつになったら引退すべきなのでしょう。




 新しい年を迎えてもワクワクすることが少ない、人生に解脱した男、武庫川散歩です。

 悟りを開くと、苦しみや欲望から解放されて、自由になったり幸福になったりすると思っていましたがなんのことはない、



 心がインポになった



みたいなものです。穏やかなる暮らしは、まさしく枯山水。


 健やかなるみなさんは、多少の欲望と妄想にウホウホしてるくらいのほうが、幸せかもしれませんよ。なーんて。



 さて、新年そうそう「帰ってきた勝手に人生相談」のコーナーで楽しんでいただきたいと思います。


 このコーナーは、解脱者・武庫川散歩のもとに寄せられたりすることのない人生相談を勝手に設定し、勝手に回答するという前代未聞のシリーズですが、意外と大人気のようです。しらんけど。





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Q 『もうすぐ35歳になる女子です。十代の頃からアニメや漫画が好きで、勢いあまってコスプレに挑戦したりした結果、写真を撮られたりシュチュエーションを演じたりすることにすっかりハマってしまって、今に至ります。

 とはいえ、20代の頃から、何度ももうコスプレを辞めようという気持ちに苛まれてきました。十代の頃には、「25歳も過ぎてコスプレやっているおばさんはイタイ」と友達ともずっと話してきたし、「その年齢で他にやることないのかよ」と蔑む気持ちもありました。

 また、コスプレでできた友達や知り合いは、互いに「○○ちゃんかわいい」と誉めそやすことはあっても、本心では、「私のほうが可愛いわよブス」と誰もが思いながら、バカにしているような人が多く、心を開くことなんてできません。

 どちらかと言えば、定期的にそうした人間関係が嫌になって鬱になるくらいなので、本当に自分でも辞めてしまえばいいのに、と思います。

  でも、結局、自分の自己顕示欲を満たすだけの行為だとわかりながら、辞めることができないでいます。

 私は衣装も自分で作ったりするのですが、物作りが好きだったり、そうした気持ちまで否定するのは逆に違うような気もします。』




 はい。というわけで35歳女子さんからの人生相談。コスプレイヤーだそうです。


 コスプレをする人を「レイヤー」と言うのですが、この言葉をぱっと聞いてどういう反応をするかでその人のふだんの仕事ややってることが全く違う、というのは面白い単語ですね。


 ”レイヤー”と聞いて、


「一時期流行しましたよね〜。最近はまたパッツンとかストレート系とかが戻ってきてますけど」


と言う人は、美容師さんですね。


「えー?誰それさんだったら男装とか似合いそうですう!今度合わせやりませんかあ」


とか、語尾を母音で話す人は、コスプレする人です。



「CAD?GIMP?CSのバージョンは?」


とかわけのわからんことを言う人は、デザイナーさんもしくはコンピュータのお仕事をしています。





 ・・・もとい。



 コスプレの賞味期限というのは、誰が決めるべきことなのかなんて正解はありませんので、おばあちゃんが紫の髪をしていいのか悪いのかくらい、いつまでどうやろうと勝手だとは思いますが、武庫川的には、「35歳レイヤー」さんの心の叫びが気になるところです。



 つまり、10代の子にバカにされながらやる30代のコスプレというのは、基本的には


「美しさや若々しさの優劣を競う女子同士のマウンティング」


なわけで、10代の子は金もなくポーズもぎこちなく、ましてやいいカメラも持っていないので「若さ」を全面に押し出さざるを得ないわけです。



 逆に30代ともなれば、衣装の布代だってお金をかけられるし、小道具にもこだわれます。それなりの雰囲気の場所を借りるお金だってあるでしょうし、ポーズも年季が入ることでしょう。



 しかし、だからと言って、10代のレイヤーよりも30代のレイヤーのほうが「総じて満足度が高いか」といえば、そうではないことが多いと思います。



 なんでか?



 それは、すべてのレイヤーさんが感づいていて、そして恐れている通り、



「この表現活動で得られる評価や賞賛は、内側に閉じているもので、外側に開いていない」


からでしょう。


 あるいは、 特に年齢を重ねてくればくるほど



「これに費やしている時間や労力が、他の活動に向かっていたら存在していたであろう別の自分との対比」



が悩ましく思えてくるからなのではないでしょうか。



 例えば、仕事で成果を上げているかもしれない別のあたし。結婚しているかもしれない別のあたし。子育てをしているかもしれない別のあたし。何か外部に開かれた活動で認知されているあたし。



 そうした「パラレルワールドのわたし」に対して、「レイヤーのあたし」を卑下する気持ちが少しでもあると、それは心がしんどくなる元凶となりかねません。





 解脱者武庫川からすれば、コスプレ活動は「趣味」なのですから、好きにしはったらいいと思います。


 下手な将棋をいつまで続けていても、趣味であれば一向にかまわないし、それが公に開かれたものでなくても全然OKのはずです。

 料理好きが趣味であれば、いくつになっても辞める必要がないし、となりの奥さんより美味しかろうが、究極まずくて負けていようが、どうってことはありません。




 とすると、レイヤーさんの心にある「もやもや」の正体は、何なのかが明らかになってくるわけです。


 そう!



「もしかして、あたしは『これ』だけでしか、自己を表現したり、体現したりすることができないのではないのか?」

 
という恐怖です。



 趣味の将棋や料理で「自分を表現したり立ち位置を確認する」ことはまずないでしょう。


 しかし、レイヤーはそれをコスプレ活動の中でやりがちです。


 わたしはかわいい、とか。 誰それよりうまい、とか。




 自己顕示欲とはつまり、
 
「自分の立ち位置の確認作業」


ですから、 「妻」とか「母」とか、「会社でのポジション」とか「社会的評価」とかそういう他の人の立ち位置と比較して悲しくなるし、レイヤー同士でのマウンティングに発展してしまうのです。




 立ち位置確認の自己顕示欲と結びついた場合、コスプレ活動はずっとあなたをどこかで苦しめますから、一つにはそれと切り離して



「純粋に楽しむことができるかどうか」



がポイントになるでしょう。逆に、あなたがコスプレを通じて、誰かとのポジション争いを確認することで心の平穏を得ているのであれば、


 「コスプレよりも、あなたにとって価値のあるポジションに移行したほうがいい」


 と助言いたします。


 たとえ、それがライバルとのママ友争いであっても、子供が産める年数は限られているので、そちらへ移行したほうがマシです。


 あるいは婚活にいそしむとか、仕事をもうちょっと頑張るとか、そっちのほうが成果を得た気持ちは大きくなることでしょう。




〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


 ですが、コスプレをする人の多くは、そうした「開かれた世界でのポジション取り」においては



自信がない



ことが多いのだと思います。 そもそも、違う場面での自己顕示欲が満たせない、敵わないと察知しているので、コスプレという場に引き寄せられることもあるのでしょう。



 そういうあなたを強制的に現実に引き戻し、こっちの世界で生きていかざるを得なくする魔法の呪文があります。


 もう、逃げられません。



 では、呪文を唱えましょう。



「ほうれい線が目立ちはじめたら、もうレイヤーは、やめ時!」



 ああああああ!これだけは言われたくなかった!!!!!


ほうれい線が!!!!!目尻にしわが!!!!!


・・・早く目を覚ましなさい。




















2017年1月5日木曜日

解脱者と市川海老蔵のそこはかとない関係



 ♪ 解脱してから、もう三年目の新春〜

 どうも、相変わらずそばにある同じ笑顔の武庫川散歩です。





 新しい年を迎えて、ブログもほったらかしにしていたので何か書かねばならないと思っていたのですが、書くことがありません。


 もう少し、年末年始はワクワクしたりするものだと思っていましたが、どうも悟りを開いてからは、



 楽しさも、中くらいなりおらが春



な、小林一茶の気持ちです。


 ちなみに、小林一茶は

「われときて遊べや親のない雀」

とか

「雪とけて村いっぱいの子供かな」

とか、心温まる俳句をたくさん残しているので、



 いい人なのかな?


とみなさん思っているはずですが、実は、



 S◯X中毒



でした。めとった妻は3人。おまけに結婚してから連日連夜のまぐわいに挑み、奥さんが妊娠中でもおかまいなし、脳卒中で半身不随になっても、



 しまくっていた



らしいので、実は絶倫だったのですね。


 人はみかけによらないものです。








 さて、われらが解脱者・武庫川散歩ですが、歳を取るたび、ひとつひとつの事柄に、あまり心を動かされることがなくなってきたのかもしれません。


 さすがに、ガキ使も、そろそろマンネリ化してしまったのか、新年を待たずして最後まで見ることなく眠ってしまったりして、うーん、この正月休みはいつもと同様にへらへらと過ごしたわけで。



 おそらく、2017年から世間の情勢はいっそう悪くなるだろうので、それに向けて精神の修養をより一層深めたいと思います。



 そんなことを思っていたら横尾忠則さんのツイートで、

https://twitter.com/tadanoriyokoo/status/816814651677679616


「幸せとは何も起こらないこと byエビ蔵」

という名言についての指摘がありました。



 ああ!これだ!と。



 何も起こらない。なんということもないこの正月は、解脱者にとってまさしく幸せであるのだ!と実感した次第。




 今年は、何も起こらない穏やかな日々を目指します。