2017年5月31日水曜日

ハルマゲドンは、始まっている?! 今生きている人類の3分の2が永遠に滅亡するという事実を、あなたは知っていますか?!



 キリスト教に限らず、世界各地の宗教には「終末」に関する思想があって、聖書に書かれた


「最後の審判」やら「ハルマゲドン」


やらは、有名な言葉だと思います。



 さて、解脱者にして神の預言者である武庫川散歩は、よく神から「セカイについての預言」を託されるのですが、神といっても


 モーセのように、岩に文字が刻み付けられる


とか


 神の声が天から聞こえてくる


とか


 目の前が明るくなって神の姿を見る


なんて、まどろっこしい方法ではありません。



 なんといっても万能の神ですから、私のノーミソに直接


「はい、こういう思考をインプット~♪」


とデータをコピーすればよいだけです。


 そうすると次の瞬間、預言者武庫川のノーミソには、神のお考えがそのまま生じているので、あとはそれを言語化すればこちゃらのセカイへ持ってくることができます。



 え?それは単なるあんたの”思いつき”だろう?って?!



 ・・・・・・やだなあ!そんなことないってば。預言だっちゅーの(はあと)



 けして武庫川の思いつきや妄想ではなく、これは神からの預言なのであります。キリッ。









 さて、そんな神からの預言を昨日も預かりまして。 それはハルマゲドンについてなのですが、全知全能の神からすれば


「ハルマゲドン?そんな面倒なこと起こさなくても、すでに人類の3分の2を絶滅させる気でいるんだけど、なにか?」


ということを聞いてしまったのであります!!!!



「ち、ちょっとまってください!人類の3分の2って、それヤバい話じゃないですか!」


と殊勝なる人間ムコガワが尋ねると、


「いや、でもワシが何か悪意をもってそうしようとしてるんじゃなくて、人類が勝手に望んでそうしようとしてるので、どうしようもないなあ」


とのお言葉。


「一体どういうことですか?!」


「うーんと、まあ悔い改めないから、滅んじゃう的な?」


と神は苦笑なさるのでありました。




 これはどういう話なのか。困っている私のノーミソに伝送されてきたのは、


「ハルマゲドン」


つまり「メギドの山」の風景です。



 次の瞬間。ムコガワの脳裏にはかくも恐ろしい神の意図がはっきり理解できたのでありました!




 なんということでしょう。たしかに、今生きている人類の(特に先進国の)3分の2は、永遠に滅亡する。それは全くもって嘘ではないのです!


 私たちは人生80年というヒトの時間軸で生きていますが、神の目線から見たとき、たった100年で人類は


「生き残れるものと生き残れないもの」


に分けられるというのです。


 ちなみに、神が示してくれた時間軸は「100年」という単位でしたが、あれ?ヒトの80年の時間軸とそれほど変わらんじゃん!


 神の目から見ても、ヒトの目からみても誤差くらいの範囲で「滅亡・絶滅」が始まっているというこの恐ろしい話は、どういうからくりなのでしょうか!!!






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 さて、以下に挙げたのは、メギドの山こと日本の人口推計曲線です。


 ちゃんと山になってるでしょ?丘でもいいけどさ。


 日本に限らず、世界において特に先進国では似たような山ができていることは確かです。

 


 
 (出典 引用元)

国立人口問題研究所  平成21年度国土交通白書

 http://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h21/index.html




 さて、図では鎌倉時代の1100年代に、人口が500万人を超えていることが示されていますが、実は紀元前ほにゃらら年から奈良平安時代ぐらいまでの人口推計も、だいたい500万人以下がずっと続いてきて、そのあとこの図になります。


 補足のデータを入れておくと。

【江戸時代を通じての人口】 約3000万人くらい

【日露戦争1904年】      約4700万人くらい

ぐらいも念頭に。



 その人口が、なんと、西暦2100年には


 「たくさんいると想定して、6400万人 真ん中ぐらいで4700万人 最低で3700万人」


になると言うわけです。



 真ん中の推計でいけば、なんと約1914年からはじまったメギドの山が、2100年に元に戻る、ということで、



「お、ラッセルいいところ突いてるじゃん!」



と褒めてあげたいくらい(笑) 終わりの時はたしかに1914年から始まっていると言ってもあながち間違ってない!


 ※↑この部分は、エホバの証人ネタです。





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 さて、今を生きているわたしたちは、日本人として1億3千万人近く存在するというまさにピークにいます。

 西暦2100年に、日露戦争や第一次世界大戦の頃の人口に戻ってしまうのだとすれば、

 
 最盛期の36%に人口は減少する


ということです。(4700÷13000=約0.36)


 
  これはどういうことかと言うと、




 今存在している日本人の3分の2人の子孫は、100年を待たずに絶滅する



ということです。神の目線からみれば、



「おまえを絶滅させるぞ」





「おまえの子孫を絶やすぞ」



も似たようなものですから、ズバリ、



「おまえらのうち3分の2はハルマゲドンで絶滅な」



と言っているのと同じです。



「でも、おまいらがそれを望んでそうしているので、ワシが殺してるんとちゃうど」


と。


「”産めよ増えよ、地に満ちよ”って言ったのに、結婚はしないわ子供は産まないわ、そういう社会にするわ。それはおまいらが悔い改めないからじゃ!滅びじゃ!」



と神は言っているのです。



 残念ですが、本当に現代人の3分2の人間は、何千年、何万年も受け継いできたDNAを次へ伝えることができません。


 絶滅せず、自分が生きた証であるDNAを次世代へと繋げられるのは、その後もどんどん減少しつづけ、まずは江戸時代ぐらいの3000万人以下になってしまうかもしれません。


 彼らこそが、「選ばれし、その後の神の王国」の住人であることは間違いありません。







 もし、あなたがキリスト教の信者だとして、いわゆる神の裁きであるハルマゲドンが今すぐに来なかったとしても、いくら善行を積んでも滅ぼされる確率のほうが高いということです。



 そうならないためには、祈りよりも子作りです。



 さあ、一緒に励ましあいましょうではありませんか!
































2017年5月21日日曜日

障害は、実は障害ではない! 障害を抱えた人たちが生きているべき理由(追補)



 京大の猿学(サルガク)といえば、全国・いや海外でも知らぬ者のいない類人猿に対する学問の最先端です。



 私は京都の大学に通っていたので、文系ではあったものの当然ながら京大猿学派の授業を受ける機会が多々ありました。


 友人の中には、サルガク講義を聞きたくて、わざわざ他大学の同学派の授業にもぐりこんでいる者もいたくらいで、そのファンは多いのですが、ワタクシももちろんファンです(^^

(個人名を挙げて、だれそれ教授の授業がいいよ、とかではなく京大サルガク派の講義は、誰バージョンでもかなり面白い)



 さて、その猿学の先生が、とても面白い記事を書いておられました。




  自閉症者が人類社会に不可欠な理由 ~実は障害ではない!~
 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51688

(現代ビジネスより)




 話の内容はズバリ簡潔明快です。




 自閉症は、遺伝の自然淘汰を受けておらず、わざと遺伝子はヒトが自閉症になることを残している!



ということ。これが意味するのは、どういうことなのでしょう?




 自閉症という狭い項目に限らず「発達障害などが多いことは、そこに存在意義があるからだ」という発想は、トリッキーなものではなく、



 厳然たる事実


であると私も思います。それが、言うなれば神と自然の意図なのです。




 筆者さんは、たとえば自閉症者であれば、その共感能力を「自然・外界」に対して用い、いわゆる普通の人は、「社会内部」に対して用いる、という書き方をなさっていますが、簡単に言えば



 それぞれの”障害とされるもの”には、何か別の”特化された得意な能力”のようなものと関わりがあり、ひいては人類は、それらの能力を分担することで全体として「生存する確率を伸ばそうとしている」



ということになるわけです。


 しかし、同時に現代社会では、「多数派とされるものがマイノリティを迫害する・あるいは理解しない」ということも起きており、これは




 現代(先進国)社会が、全体にまんべんなく生きるための社会ではなく、何か一方に傾倒しているいびつさを持っている



ということの表れだとも解することができるでしょう。




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 実は今日取り上げた話は、以前のこのブログでも書いていて、私は「障害は障害ではない」ことをいち早く体感として記事にしていました。






 障害者はなぜ生きているべきか
 http://satori-awake.blogspot.jp/2016/09/blog-post.html

 
(昨年の9月の記事です)




 この記事で、私は「障害者は存在すべきである」ということを全力で証明したのだが、今日の京大猿学先生の話も、



 まったく同一



のことを言っているといえるでしょう。



 その障害たる因子が遺伝によって起きるのであれば、DNAはわざとそれを残したがっているし、その障害を表に出したがっている。


 なぜか。


 それは人類が生き残るための秘策だからだ!




ということなのです。




 そして、もうひとつ大事なこと。



 遺伝子がそのように働くということは、



「人類はけして個体で完結すべき存在ではなく、たとえ苦しみや軋轢があろうが、人類全体として関わりあってゆくべき存在であって、男女や親子や組織や集団の総体として生き延びるよう設計されている」



ということでもあるわけです。



 だから、総体である以上、マイノリティを切り捨てることはあってはならないのです。


 マイノリティは、総体の一部を確実に意味があって形成しているからです。



 もし、マイノリティを切り捨ててしまえば、人類は絶滅するかもしれません。



 マイノリティは、人類絶滅をふせぐ、最後の希望となるやもしれないのですから。




















2017年5月15日月曜日

高学歴女子が生きづらい理由 ~あなたの高スペックのものさしは、誰が設定したのか、考えてみよ~



 バズフィードにこんな記事が載っていたので、いろいろと思うところあって筆を取りました。




【会社に行きたくないあなたへ】死ぬまで頑張らなくていい。産業医が語る「あの政策」の裏側

https://www.buzzfeed.com/akikokobayashi/ganbarisuginaide?utm_term=.oc7PNzvEQm#.wjNQOe3Bbn







 申し訳ないですが、タイトルが悪いです。中身を読んでいただければわかりますが、この記事は



「ハイスペック女子は、なぜ死ぬしかないのか」


とタイトルを変えたほうがいいくらいの内容だと思います。





 ハイスペック女子。




 高学歴、高容姿、高収入、でも、彼女たちを待っているのは、死へのいざない。




 おっそろしい話ですよ。もちろん、ハイスペックではない女性もこの世界にはたくさんいるので、その人たちからみたら


「あなたたちは持っているだけ、恵まれてるじゃん」


という呪詛を吐く以外ないのですが、今回はそれは一旦脇へ置いておいてください。





 そもそも高学歴で高スペックであることが、何らかの矛盾を抱えているのです。今日は、まずはそれを暴くことで、


 ハイスペック女子も、そうでない女子も、実は同じ悩み深い存在なのだ


ということを明らかにしようと思います。




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 記事で触れられている女性たちの姿というのは、



 有名大学を卒業し、大手企業に採用されながら、その中で疲弊し、病を発症してゆく女性たち


の叫びでした。


 ”摂食障害、不安障害(パニック障害)、不眠症、適応障害、自律神経失調症、うつ病、更年期障害......仕事をするうえで、心身のさまざまな不調に悩む女性たちがいる。”


”ハイスペック女子がつぶれる”


”部下にモノを投げてしまう”


”死ぬよりはいい”



 えぐい言葉の数々が並びます。あるいは記事中にも出てきましたが、電通では実際に一人のハイスペック女子が自殺する目に逢ってしまいました。




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 この手の記事、問題提起をいくら見回しても、「そうした環境や境遇にうまく適合しながら、頑張れ」ということしか書いていません。


 もちろん、



 しんどいときには休め


とか


 ホルモンバランスに気をつけろ


とか


 いざとなったら逃げたり辞めたりしろ


とか、そういうアドバイスもたくさんしてくれる人がいることでしょう。






 しかし、ここで解脱者武庫川はハタと気付いたのです。



 このセカイのアドバイザーや、ライターが絶対に書いていないこと。ハイスペック女子にとって、最も肝心要の重要な事実を、ほとんどすべての人が見逃していること。



 それを今日はズバリ、書いてみたいのです。




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 それは何か。




 とても、根源的で、大事なことです。




 恐ろしいことですが、最初からボタンが掛け違っている、ということは、あったりしないのでしょうか?




 そう。ハイスペックであるということ。



 女の子が、高学歴であり、また高能力であり、それでいて高女子力であるべきだというそのモノサシそのものが、

 
 男性社会に適合するためのモノサシと同じ基準になっているのではないか



ということです。






 まだ、わからない人もいることでしょう。もう少しやわらかく言い換えます。



 高学歴であるということは、知識と智恵と頭脳を要求されているわけですが、そこで学ぶ知識と智恵と頭脳は



「男性として生きやすいための知識と智恵と頭脳」


であって、


「女性が幸せに生きるための知識と智恵と頭脳であるのか」


については、おそらく誰も検証していないのではないか?という恐ろしい問いかけを私はしているのです。






 男性としてこの社会を取り回していくのに必要な知識と智恵と頭脳の大系は、太古の昔から積み上げられてきていますが、実は


「女性が真の幸せを得るためのそれ」


は、まだ学究されていないのだとしたら、



「女の子が男の基準でハイスペックにいくらなっても、男として生かさせられるだけだ」



ということになってしまいます。




 これが、ハイスペック女子の、根底に流れる「生きづらさ」の原因なのだと、仮説を立てたわけです。





 高学歴は、男であれば都合がいい知識や行動大系になっている。


 高容姿は、男にとって見目麗しい女性とされるだけで、女同士の間ではどうでもいい。


 高収入は、「男のように生きるのであればね」という条件つき。




 もし、本当にそうなのだとしたら、いいですか?すごいことが起きているのです。



「ハイスペックとされる女子も、そのスペックは男性基準なのだから、実はロースペックであると言える」



とすれば



「ロースペック女子が生きづらいのも、ハイスペック女子が生きづらいのも、全く同じ」



なぜなら



「どちらも、女性らしい女性としての幸せのスペックを持ち合わせていないから」



ということが!!!





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 私の知り合いのある女の子が、ずっと学歴コンプレックスで、


学びについてハイスペックでありたいということと、


「私はあんな世の中のチャラチャラした女の子とは違うと思いたい」


ということで悶々としていました。



 でも、それをいくら追い求めても、全然幸せそうではなかったのを思い出します。



 むしろ、そのせいで恋愛をこじらせたり、自分の進学や就職の面でも苦労したのを見ていると、



 女性にとっての幸せとはなんだろう



と周囲で見ている私も苦しくなるほどでした。




 それが、ある時、うちの奥さんがいらなくなった若い女性らしい可愛い服をプレゼントして、ちょっとだけメイクの道具を揃えて、奥さんがメイクを教えて上げただけで、



 彼女はむちゃくちゃ可愛くなった



という出来事がありました。




 それはもう、男性の私がみても、「この子はこんなに素材が良かったのか、もったいなかったなあ!」と思うほどで、それから彼女は、公私ともにものすごく前向きになったという出来事でした。



 のちに彼女は言います。「私はチャラい女子に、本当は嫉妬していたのだ」と。


 「あんな風になりたくない」は「あんな風に自由になりたい」という意味も隠されていたのかもしれません。


 いまでも、彼女は多少「強きもの、大きいもの、ブランド力、大企業には魅かれる」と言っています。


「でも、そう思ってしまうところが、あたしの弱さだ」とも気付いているから、きっと大丈夫だと思います。





 最近、巷で流行している「カワイイは正義」ということばではないですが、自分で自分が自分らしいと思えることは、根源的に重要だと思います。


 むずかしいジェンダー論はさしおいても、「自分が素敵でありたい」「自分が女性らしくありたい」というその視点は、



 女性が女性ならではのものさしで、自分で決める



ことが大切なのではないかと思います。






 男のための知識・智恵や容姿なのではなく、



「女の子が女の子として生きて生きやすいための知識智恵」



「女の子が、自分らしくいられるための姿かたち」


「女の子が無理なく生きていけるための収入」



を実現することは、不可能ではないと思います。



 だから、世の中のハイスペック女子のみなさんには、一刻も早く男のためにその能力を使うのではなく、女の子のためにそれを使ってほしいと、男ながらに願うのです。



 なぜなら、私は男なので、ほっとくとつい男に都合のいい力を要求してしまうから。


 謝罪。












2017年5月7日日曜日

どうしてこんなに心の病が多いのだろう 〜メンタルに何が起きているのか〜



 しばらく疎遠になっていた友人というか知り合いというか同志というか、一緒にひとつの仕事をした女の子がいて、




 ↑また女の子かい!というツッコミはなしです。偶然です偶然。




その子と久しぶりに連絡が取れて、数年越しに話を聞いてみると、どうやら心がしんどかったらしいことがわかって驚いています。


 私の回りにはメンタルの遣い手が多いのは、ご承知の通りですが、彼女なんかは


 絵に描いたような普通の人


だと思っていたので、ちょっと衝撃でした。






 かくいう私も、人生で一度だけメンタルをやられたことはありますが、それはもう人生でもかなり重い出来事なり、覚悟の上での事態だったので、今から思えば


 平気ではいられなかっただろう、致し方のない状況


だったとは思うのだけれど、特に女性においてはそこかしこにメンタルを崩すような罠が待ち構えているのか、あるいは、現代女性はそれほどまでに、何がしかの


 耐性が落ちている


のか、理解に苦しむところです。いったい女子には何が起きているというのでしょう。







 ちなみに、 彼女がここ数年大変だったという話を聞いて、


「実はこちらも心が苦しんでいる某人物のサポートをしていたよ、そちらがそんなことになっていたなんて、気付かずに申し訳ない」


みたいにちょこっとだけ話をしたら、


「某人物って、誰それさんでしょう?」


と一発で当てられてしまったので、


女性はすげええええええええ!


と恐れおおのいたのでありました。何?なんでわかるの?!




 いいか、男子のみんな!女性は男にはない謎のセンサーを持っているらしいので、気をつけるんだぞっ!





〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜




  普通暮らしをして、それもちゃんと自立していた彼女のような人ですら、一瞬メンタルの闇に落ちるということは、どうにもこうにもこの世界は生きづらいドラゴンワールドと化しているようで。


 ましてや、経済的自立が厳しいような環境の女性においては、なおさら大変だと思われます。



 しかし、twitterの書き込みなんかを分析してみていると、興味深いことが見えてきます。




■ メンタルに悩みを抱えた女性がいるとする。


■ ひとつの解決手段として、いろいろ悩みや迷いはあったけど、良き夫とめぐり合えて今は幸せ


■ ところが、夫と幸せな生活をしているはずなのに、まだtwitterで過去のことやら、自分の闇について一人語りをしている人は多い。


■ ん?いいだんなさんと家族に巡り合えて、幸せなんじゃないの?


■ どうも、女性はただ愚痴りたいだけというわけではないらしい。


■ よーく観察していると、彼女たちは、夫に「自分の根源的な深い悩み」について話をしていなかったり、わざと明かしていなかったりする。


■ きちんと内面からの理解を得ていないともやっとしているので、つい吐き出してしまう。



 どうやら、上記のようなことが起きているようなのです。







 武庫川の個人的なことで言えば、私は結婚する際も、お付き合いをする際も、あるいは弟子を取る際も、


 むちゃくちゃ深い部分まで、ある意味お互い開示


し合う癖(←どうやら悪い癖らしい)があるので、理解できているかどうかは別にして、




 「私はあなたを余すところなく理解したいです。理解されたいです」





ということを前提に話をするため、上記のような結婚感覚がよくわかりません。






 もちろん、かつて弟子だった女子には「あなたの問題を解決するいい方法は、早くいい男を探して結婚することだ」と言ったこともあるし、実際三人くらい、いま結婚して家庭を築いている教え子がいるわけですが、



「もちろん、幸せな結婚生活を送っているだろうが、根源的な苦しみが解決していないのだとすれば、ちょっと残念だなあ」



とは思ったりします。しかし、そこは他人がほじくり返すべきところではないので、そっとしているのですよ。




 このあたりの問題、課題は実はまだ私にも見えていません。結婚とは何か。


 考えはじめると奥深過ぎて、簡単にはまとまりそうにないので。



 あるいは、結婚生活において、


「経済問題や、居場所問題、孤独であるという感覚は解消するけれど、人の本質的な不安や苦しみからは逃れられない」


のだとすれば、 


おお!それはそれで気付いてしまうとキッツいなあ!


 とか思ってしまいます。



 またこのあたりは考察します。










 








2017年5月1日月曜日

可愛い女子の弟子との対話




 前回、前々回の


「セックスとは何か」
 http://satori-awake.blogspot.jp/2017/04/blog-post_29.html


「愛とは何か」
http://satori-awake.blogspot.jp/2017/04/blog-post_27.html



の記事については、私が敬愛するニャートさんのご紹介もあって、ものすごい数の人に読んでいただくことができました。


 心より、みなさまに御礼申し上げます。


 また、ご感想などがあれば、ツイッターにでも寄せていただければ、できる限りのお答えをしたいと思っております。




~~~~~~~~~~



 さて、そんな一般視聴者の方向けのお話からは打って変わって、今日はいつも通りの


「解脱者・武庫川散歩のとわず語り」


のコーナーが戻ってまいります。

 

 釈迦には十大弟子とやらがおり、キリストにも十二使徒とやらがいるように、武庫川にも「自称他称を問わない弟子らしきもの」がいます。


 あるいは今はどこか遠くへ行ってしまっていますが、いたことがあったりします。





 で、最も直近に弟子になった「ウサギちゃん」という女子がいるのですが、この方がとても聡明で、かつものすごく素直な良い子であり、



「そもそもこんないい子には、師匠はいらんがな(><;」



と思うほどの好人物だったりします。おまけに可愛いです。



 ウサギちゃんは、実際には出会ったこともなければ、顔をあわせたことも手を握ったこともない



清いお付き合い(え?)




なのですが、 彼女は、最初に会話してから3日で、武庫川の言うことの大半を会得し、師匠を感心させることしきり。



 うーん、これはもしや、私のほうが学ぶべきところが多いのではないか、と思っているくらいです。




 しかし、ちょっと気を抜くと、あろうことか師匠を「自分の研究生にしよう」と虎視眈々と狙っていたりするので、危ない危ない。その手には乗らないのだ。



※ ごめんなさい。一般視聴者の方には意味がわからないかもしれませんが、Jもしくは元Jの方には、笑ってもらうところです。




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 昨日も、ウサギちゃんから、目からウロコが落ちるような指摘を受け、師匠はまたひとつ賢くなってしまったのですが、そんなお話から。



 人は誰かと関わりを持ったり、誰かと接しながら毎日生きているわけですが、時に、相手の真意を推し量ったり、相手の意向をそれこそ忖度(そんたく)しようとして、うまくいったりうまくいかなかったりするものです。




 ちなみに、武庫川が絶賛お勧めする漫画があります。




 ツイ4で連載中の


 妄想テレパシー
 http://sai-zen-sen.jp/comics/twi4/moutele/



という漫画。



「相手が何を考えているか不安」という男子でも女子でも、絶対読んでみてください。

ネタは恋愛がらみとエロがらみが多いですが、それを十二分に昇華して、「人が人を思うとはどういうことか」を考えさせられる良書です。








  さて、さて。さてはなんきんたますだれ♪


 武庫川は、解脱者ですので、基本的には「相手が何をしようとしているのか、何を考えているのかがわかる」ほうです。



 それは、私が言葉やコミュニケーションを専門にしていたからで、また、そうしたことにセンサーが働くほうなので、一般論としては、



「相手を理解する」




ことは、どちらかといえば得意だと言えるでしょう。



 でも、これではかなり上から目線なので、私はその場合、とても気をつけて


「相手を理解してやるんじゃい!」ではなく


「あなたを理解したい。そして、受け止めたい」


という気持ちでいます。それは穏やかで、寄り添う態度です。







 さて、そんな私の姿をみて、弟子ウサギちゃんは、一言。穏やかではありますが、ぴしゃりと言ったのです。



「師匠。師匠はあたしを含めて他者を理解しようと頑張っていますが、たとえば『自分でも自分をコントロールできない人』まで理解しようとする傾向があるのでは?」



と。




 目からウロコ。



 すげえなウサギちゃん。



 確かに私は、万人を理解しようと努力もするし、そのように切なる気持ちで動くのだけれど、




 そもそも自分の気持ちや感覚をきちんと把握できていない相手には、理解しようとしても無理がある。



ということを指摘されてしまったのであります。そういう昔の出来事がありましたな。



 それで武庫川もすぐに気付きました。


 確かに、


「本人が自分の本当の気持ちを理解できていないのに、外からとやかく推測しても、答え合わせは絶対にできない」


ということなのです。



 ということは、大切なのは、「忖度し、その答え合わせに必死こくのではなく、自分は寄り添うよということを示すだけでいい」ということだったりするわけですね。





「だから師匠はそのままでいいんです。”あなたを理解したい、理解するよ、愛してるよ”という人類へのスタンスがあれば、それ以上の正解を解くことにそれこそ執着する必要はありません。だから昔失敗したのですよ。」



と、ウサギちゃんは言うのです。








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 武庫川は神になりたいわけではありませんが、神であれたらいいなあとふと思うこともあります。



 もし、自分に神のような何か力があれば、誰かを支えることがもっとできるかもしれないのに。といつも思います。


 それは、幼少期からのクリスチャン教育を曲がりなりにも受けてきた影響でしょうし、自分で神たるものは何ぞや、ということに向き合ってきたことの「足かせ」なのかもしれません。





 ウサギちゃんは、一週間で、こう言いました。



「私は女性なので、師匠がおなじ女性だったら良かったと思いました。あなたが神ではなく、人である以上、あなたは異性なので、特に女性を救うにはうまくいかないことがあると思います」



と。




 言いたいことはなんとなくわかります。




 でも、ワシは男の弟子の育て方がわからんのじゃー。



 ていうか、男たるもの自分で立ち上がらんかい!と思うのは、昔から変わらんのじゃー。



とダダをこねてみたりします。



 まだまだ、武庫川は人の姿のままのようですね。てへぺろ。