2016年12月25日日曜日

解脱者がエゴグラムをしたら驚愕の結果に!



 どうも。今日は世間ではクリスマスだそうですが、キリスト教を超越した解脱者には、あまり関係のないお話でございます。


 しかし、うちの家族にとってはそうではなかったようで、幼い子ども達は、チキンやら、ピザやら、あろうことかケーキまで晩御飯に食べやがって、あまつさえ



 夜中にゲロ



吐きやがりました。食べすぎです。



 というわけで、今日のクリスマスは、昨日洗ったはずなのにゲロ臭が消えない布団やらシーツやら、子供の寝巻きやらと格闘しながらはじまりました。



 もう、来年からクリスマス禁止!!!教祖のいうことを聞きなさい!




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 というわけで、うちのゲロリストたちのゲロリズムに壊滅的な打撃を受けた年末でしたが、来年は胃腸が発達してくれることを期待しています。



 さて、解脱者・武庫川散歩さんは、ふとしたことで



 エゴグラム



というものをやってみました。カウンセリングの知識もある武庫川さんのことなので、もちろんエゴグラムも知っているし、俗世にいたときにやったこともあるのですが、その時は



 別になーんとも思わない結果



だったような気がします。




 エゴグラムは、簡単な50くらいの質問に答えながら、性格の要素をPPAPに分類・・・・ちがうわ!


CP NP A FC AC  


に分類して、パターン化するものです。




CP 支配性・厳しい・批判力

NP 寛容性・優しい・親切さ

A  論理性・聡明さ・合理的

FC 奔放性・好奇心・自己中心的

AC 順応性・協調性・従う心




 このエゴグラムは、何がどうなれば「正解」というわけではなく、たくさんの性格のパターン傾向がわかる、というものなので、理想像たるものはありません。


 ただ、一般的にざっくり言って、


CPが中等度、NPが高く、Aが高く、FCが中等度、ACが中等度 (NPを頂点とするなだらかな山型)


だと、世間に順応できる健全な人柄だと言えるでしょう。




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 さて、解脱した武庫川のエゴグラムを大公開!とても面白い結果が見えてきました。






CPが中等度、NPが高く、Aが高く、FCが中等度・・・


 ほら、ここまではとっても健全!そして最後のACだけが、やたら低い。

 これは、



「他人にいっさい順応しない」「他からの評価をまったく気にしない」



ことを意味します(爆笑)




 解脱してますね~。



 さて、解説です。 某分析によるとこんな感じ。




 宗教家タイプの類型です。

 ただ、批判力や頑固さは強まっています。本来の宗教家タイプでは「他者への寛容さ」も特徴ですが、それが弱くなっており、逆に強いリーダーシップが見られます。

 道徳的な感覚と合理主義がバランスよく成立していながら、独自の生き方を進んでゆくタイプです。

 高い分析力・判断力・明晰な頭脳を持っていますが、自己流で意志の強いところがあるマイペースな人柄であるともいえます。


 恋愛においては、相手に対してわがままな行動を取りがちですが、深い愛情や相手を思う気持ちがあり、破綻はしていません。

 現実的な判断力があり、家庭を大切に思う気持ちもあるので、家族生活はうまくいくと思われます。


 医師や宗教家、カウンセラーなどが向いています。何か問題を抱えた人の面倒を見る仕事が最適かもしれません。

 
 問題点があるとすれば、他人の意見を気にせず、独自の生き方をしている点です。協調性がないことで、社会においては問題になることがあるかもしれません。

 他者に依存する必要はありませんが、多少は合わせることが良い場面もあるでしょう。 』




 つまり、思いやりの気持ちがたくさんあり、合理的で現実的な対応ができ、リーダーシップが強く、俗世のことをまったく気にしないという



 まさに神!


 まさに悟りを開いた者!


 ヒューヒュー!



ということですね。



 というわけで、エゴグラムができるサイトとかたくさんあるので、みなさんも解脱前と解脱後で比較してみると楽しいと思います。



 


 





 

 

2016年12月13日火曜日

さみしさ とは何か ~どうして人はグレるのか~




 先日からとある事情で『寂しいとはどういうことなのか』についてずっと考えています。



 これはとても簡単な話のようでいて、実はかなり奥深い問題なので、さすがの解脱者・武庫川散歩であっても、



「ああ、それはこれこれこういうことだよ」



とさらりと回答できずに、珍しく思索にふけっている次第です。



 実を言うと、解脱者ムコガワは、少年時代から明るく元気でさわやかであったものの、その内面においては、基本的に孤独を愛する文学少年であったので、



「寂しいという不安にかられたことがない」



稀有な人生を送ってきました。ええ、ええ天性のボッチくんだったのです(^^



 実際、結婚した今の嫁はんからは、私の数少ない友人と実際に交流があることを知って、


「あんたに友達がいるなんて驚いた」


と言われたほどで、基本的には交流関係はとても薄い人間だと自覚しています。




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 しかし、一方でこの「寂しさ」「さみしいという気持ち」をどのように受け止めてよいかわからずに、 思春期の多くの時期を



 悶々として過ごしたり、あるいは


 グレてしまったり、



する人もたくさんいます。彼らにとっては、この得体の知れない「さみしさ」は、恐怖と畏怖そのものであり、自分でも処遇することのできない


 内なるモンスター


のようにふるまう脅威だったりするわけです。





 さみしさとは一体なんなのか。その正体を突き止めることができれば、あるいは「さみしさ」ゆえに苦しんでいる



 世界中の少年少女たちを救う



ことができるかもしれないのです。




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 発達心理学の分野では、この「寂しさ」の正体を



 親から受ける無条件の愛着



の不足であったり、欠如として考えている説もあります。



 なるほど、生まれたときから親によって無条件の愛を注がれることで、自分の中に



 自己肯定感



が生まれ、それがうまく形成されなかったり、欠如したときに「寂しさ」を覚えるというのは、わかりやすい考え方だと思います。



 しかし、仮にそうだとしても、それのみですべてを説明することは難しいように思うのはなぜでしょうか。


 成長期において、なんらかの成果を挙げたり、たくさんのものを手に入れたり、成功体験を積み重ねても「寂しい」と考える人はたくさんいるし


 両親が愛情を注いでいたとしても、その愛情の中身を子供なりに判定して「あいつらの愛は、正しくない」という見方をするものもたくさんいます。


 そもそも、親だって時には子供を否定する気持ちになるものです。夜泣きするとか、うんこが臭いとか、ゲロ吐かれたとか。勘弁してくれよ、と思った瞬間だって、確実にあるのです。




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 さて、「寂しさをあまり覚えない」ムコガワさんの個人的な話で言えば、ムコガワさん的には、



 他者との関わり度合いなどは、あまり寂しさの指標と関係がない



という感覚を持っています。



 つまり、”誰かがかまってくれるから寂しくない”とか”誰かがかまってくれないから寂しい”という類のものではなく、そこに他者がいようといまいと、あまり関係がないような感覚があるのです。



 そうすると、つまり、先ほどは「自己肯定感」において寂しさを説明しようとしましたが、


「これこれが出来たから(他者が肯定したから)自分を肯定できる」とか


「こういう成功体験があるから、自分を肯定できる」
 
といった話とは、実は別の次元なのではないか、とも仮説が立てられるわけです。



 これがもし別の次元の話だとすると、


「成功体験を積み重ねても、さみしいものはさみしい」


という人がいることを、説明できることになり、話が合致してくるわけですね。


 

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  さて、私の知り合いは、どちらかというと「さみしさ」を感じるタイプの人なのですが、その人物におもむろに


「さみしさとは何か」


について尋ねると、とても興味深い答えが返ってきました。



 ちなみに、この人は、両親から愛情を注がれなかったか?といえば、たぶんしっかり注がれているし、愛されて育っていると思うのですが、それでも根っこの部分に「さみしさ」が横たわっている人であったりします。


 とすれば、その「さみしさの正体」はどこにあるというのでしょう。その答えを聞いてみましょう。




『生きるとか死ぬとか、そういう端的なものではないけれど、この世界のあやふやさや、宇宙の終わりなどについて、思ったり考えていると、体感としてとても寂しい感覚が襲ってくる』


という答え。



 ムコガワも、おなじくこの世界のあやふやさについて考えているのに、なぜか真逆なこの答え。



 とても興味深いと思いませんか?




 これを心理学的に見れば、



「死の恐怖の変化形。つまり、自分も含めて認知しているこの世界が無くなるということについてのどうしようもない不安と恐怖が、さみしさとなる」


みたいな解釈もできるのかもしれません。



 ところがムコガワの場合は、真逆で、


『あやふやで、消滅するはずの世界の中にある自己のありありとした現実感が、世界が儚ければ儚いほど浮き彫りになって生き生きとしてくる』


みたいな感性があります。だから寂しくない。



 ああ、なるほど、先の感覚が「死の象徴」であるとすれば、こちらは「生の象徴」なのかもしれませんね。





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 私の数少ない友人の1人が、


「花というものの美しさ」


についていろいろと考察している話を聞かせてくれたことがありますが、花というのは、死の象徴であり、かつ生の象徴でもあります。



 一生に一度だけ、死を目前に竹の花が咲くように、本来花というのは、自分の死に対するアンチテーゼとして存在します。



 とすればそれは死の予兆であり、象徴なんだけれど、しかしながら、あまりにも美しく生き生きとした姿で見せ付けてくる花は、逆説的に



「いのちの証、象徴」



でもあるのです。






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 このように考えると、さみしさというのは「儚さや死という世界に取り囲まれながら、いかに自分の生を実感できるか」という部分に関係してくるような気がします。



 それが、ごくごく幼少の頃に、何らかの形で「植えつけられる」のか「勝手に生じる」のかはわかりませんが、形成されてくるわけです。恐ろしいことに!



 そして興味深いことに、親から愛情を注がれても、おそらくは「儚さや死という世界の先」を見てしまうこどもたちはたくさんいるのでしょう。


 言語や体験で言われたり、与えられなくても、自分たちもそのセカイの中にいるのだから、彼らは


「感じ取り、気づく」


ことができるのかもしれません。



 その時に、彼や彼女なりの心にストンと落ちるような理解や体験を得たものは、そんなことは心の奥に忘れてしまってその後の人生を過ごせるのでしょうが、



 その気付きが恐怖となり、それが引っかかっているまま


のものは、得体の知れない寂しさとなって、残り続けるのかもしれないのです。










































2016年12月9日金曜日

うつ病のメカニズムを解明した! ~鬱病や心の病に至るプロセスを解読する~



 最初にお断りしておきますが、私は医者や医療従事者ではなく、そこらへんにいる一介の解脱者なので、今回のお話は



 医療的側面、よりも臨床的なもの



として語りたいと思います。




 解脱者、武庫川散歩は、その特異な経歴により、これまで多くの「心を痛めた人たち」と接してきたわけですが、それらの人との交流を通じて判明したことがあります。



 それは、医学的にはまだよくわかっていないとされる



うつ病のメカニズムを解明した!!したったら、した!



ということです。



 このブログ的には、これまでうつ病などの心の病は、「正義のゆらぎ」によって生じるのではないか?としてきました。


 ではなぜ


「自分がこうありたいという理想や、こうであるのが良いであろうという考え」



「現実の自分が置かれた環境や、状況」


が異なると、心の病を発症してしまうのでしょうか。



 実は、このあたりは、わかったようでいて、わからないものだったのですが、武庫川はその解明に乗り出したのです!!!



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 医学的には、うつ病などの心の病を発症した状態は、


「セロトニン・ノルアドレナリン・アドレナリン・ドーパミンなどを総称したモノアミン」


が減少して、脳細胞間の神経伝達物質がうまく働かなくなっている、とされています。



 これは、簡単にいえば、「原因は取りあえず横に置いておいて、結果的に神経伝達物質が減っているよ」ということです。



「じゃあ、どうして神経伝達物質が減ってしまうのか」


が原点に立ち返った時の「原因」に当たるのですが、これが医学ではいまいちきちんと解明されておらず



「た、たぶんストレスが原因なんじゃないかな??」


ぐらいのところで終わっているのが現状です。




 結果的に起きている神経伝達物質の不調、という意味では、たとえば躁鬱病では、


「伝達物質が出るとか出ないとかを制御している機構が故障して、ドバッと出たり、チョロっと出たりしている」


という脳機能の故障を原因とする場合もあるでしょう。



 あるいは発達障害や精神的な遅滞のように、


「伝達物質が生成される量がもともと少ないとか、それを出す機構がもともと弱い」


とかもあり得るでしょう。



 しかし、健康で健常だった人が、いろいろな状況でうつ病や鬱状態になってしまうのは、一体なぜなのでしょう?



  武庫川は、解脱者であり、この世の善悪を超越した悪魔のような存在でもあるのでグハハ。


 そこで考え付いたのが、


「じゃあ、どうやれば健康な人間のモノアミンを減少させることができるのか」


という悪魔的思考だったりするのであります。ウヘヘ。




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 ちょっとふざけて書いてしまいましたが、実はこの発想が、うつ病のメカニズムに大きく関わっていると私は考えています。



 神経伝達物質モノアミンの出力量を、人工的に変えてしまう悪魔のような実験があるとしたら、それは、



「報酬系を破壊すること」



に他なりません。報酬系というのは



報酬系 ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%B1%E9%85%AC%E7%B3%BB



欲求が充たされそうだと思ったり、あるいは充たされた時に快感を覚える脳のシステムのことで、うつ病患者は


「報酬系が、機能していない」


状況が見られることがわかっています。



 もちろん、これを人為的に引き起こそうとすれば、神経伝達に関わる部位を焼ききってしまったり破壊すればいいのですが(・・・・悪魔)、そんな物理的な方法を取らなくても、これを壊すことができるのではないか、と武庫川教授は考えてしまったのであります。





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 その恐怖の実験を再現してみましょう。


 ある動物に、このボタンを押すとエサがもらえるよ、という報酬系の条件づけを行うとします。


 一定期間においては、行動をすることと、エサがもらえるという快感情は、合致しています。


 ところが、その条件付けが成立した後ぐらいから、ボタンを押すと不快な電気ショックが流れ、かつエサが貰えたりもらえなかったりする、というパターンへと装置を切り替えるとします。


 エサが貰えるので、報酬は生じているのですが、同時に苦痛にさいなまれる、という状況を生み出すのです。
 


 この場合、この動物がエサを貰うためにボタンを押す、という作業量はどのように変位するでしょう。



 これは実際に実験をしてみないとわかりませんが、たいていの人に予想がつくのではないでしょうか。


 おそらく、ボタンを押す回数は、徐々に減少してゆくと思われます。



 動物にとっては、


「ごはんを食べるという意欲が減少する」

「ボタンを押すという行動も避けがちになる」

「そもそも、ごはんを食べる量も減る」


という状態になるはずです。


 これは、生きる気力が低下している「うつ病」の症状に似ていませんか?





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 武庫川が妄想している悪魔的実験は、ただの妄想ですが、現実社会の中でこれとおなじ状況に落とされている人たちはたくさんいます。



「給料をもらうためには苦痛を伴う仕事を続けなくてはならない」

「夢や目的を実現させる、というためにハードワークを余儀なくされている」

「こうあるべき、という理想に対して、現実がひどく違う」


という状況は、 エサを貰いつつも電気ショックを与えられている動物のようです。




 報酬とは何か。何をすれば報酬が与えられるのか。という問題は、本来は単純であり、簡単な条件付けであると言えるでしょう。


しかし、


報酬を貰うという行動が果たして快なのかわからない状況





報酬と苦痛がアンビバレントな状態で組み合わされる提示



などが多々起きると、 私たちの脳は、意外と早く



報酬系の破壊



を起こしてしまうのではないか、と思います。



  現代社会は複雑怪奇であり、さまざまな立場の人間の思惑に支配されていますから、社会が複雑化すればするほど、



「報酬のありようが、一筋縄ではいかなくなっている」



という現実があります。






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 もし、上記の実験によって心が壊された動物がいるとすれば、どうすればその動物を救うことができるでしょう。



「もうボタンを押さない」


というところまで行き着いてしまえば、それはエサを食べられませんから自死まで行ってしまうということになります。


 うつ病で、自殺を選択してしまう人は、そこまで完全に報酬系を破壊され、生きるという選択を失っている状態だと言えるわけです。



  ということは、かろうじてボタンを押せる間に、



「ボタンを押しても、電気ショックは流れない」



という状態を確保しなくてはなりません。



 そして再び、「何度押しても、何度確認しても、電気ショックは流れず、エサがちゃんともらえるんだ」というところまで安全を保証してやる必要があるでしょう。



 そうすればこの動物は、再び最初のように、意欲的な行動を取ると推定できます。




 とすれば、電気ショックを与えているのが職場であれば、


「ボタンを押さなくなってしまうまえに、その職場を離れるしかない」


ということになります。



 そして、報酬系を再生させるためには、


「自分が取った行動と、報酬が合致するシステムの上に乗る」


ということが不可欠だとわかるでしょう。




 もちろん、リアルな社会の人間は、「職場」だけでなく、たくさんの要素を「報酬」として定義しながら生きていますので、「仕事の問題」だけを解決すればいいわけではないし、自分が心に描いている


「善なる状態、正義の状態」


はたくさんの領域に広がっているということもあります。



 たとえば、上記の動物実験において、「エサとしてはかなりおいしくはないけれども、食べられるし腹をみたせるもの」が出てくるボタンがどこかに設定されていたら、 どうでしょうか。

 このボタンからは電気ショックが出ないとすれば、


「自分の本来の望みとはちょっと違うし、快い報酬ではないけれど、まあ生きていける」


という行動を取るようになるかもしれません。


 動物は最後まで本来のエサである「電気ショックつきボタン」に挑戦し続けるでしょうか?

 そんなことははない、きっともう一つのボタンを押し始める、となんとなく思いませんか?







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 以上が、解脱者武庫川散歩が解明した「うつ病」のメカニズムです。


 あなたの報酬系は、今まさに破壊されそうになっているかもしれません。


 そうだとすれば、ボタンを全く押せなくなる前に、他のボタンを探したほうがいいかもしれません。


 
 私は、他のボタンが必ず隠されていることを知っています。



 ぜひ、それを探してみてください。











































2016年12月7日水曜日

うつ病女子の治し方。 ~え?鬱病男子は?の巻~




 解脱してお気楽極楽な人生を歩んでいる解脱者、武庫川散歩ですが、こんな私でも




 うつ病(鬱病)




に一度だけ罹患したことがあり、今となっては「そんなこともあったなあ」という懐かしい思い出でございます。




 そんな体験もあって、いろんな状況で、うつ病や心の病にかかった人たちと交流することが多いのですが、今日はもはやそのものズバリ



 うつ病の治し方



について説明したいと思います。


★ 私は医者ではなく、解脱者ですので、医者の監修による記事ではありません。医学的見地ではなく、解脱的見地で書きますので、そこのところは誤解なきよう。


 あくまでも個人の感想です。当社比。




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 さて、タイトルで「うつ病女子」と女子に限るような書き方をしましたが、なんといっても男女平等社会ですから



うつ病男子



をほって置いているわけではありません。 おいおい後で説明をしますが、うつ病男子よりも



うつ病女子


のほうが、諸般の事情により手助けが必要な場合が多いので、あえてここは優先している次第です。




 さて、うつ病や心の病なるものは、私の言説によれば(ずっと何度も書いていますが)


■ 自分がこうありたいとかこうあるのが良いのではないか、という設定





■ 現実に起きている状況、自分を取り巻く状況



とのギャップによって精神が疲弊することによって生じます。



 これを武庫川は、勝手な命名ですが「正義のゆらぎ」と称しています。




 ★正義のゆらぎ、の概念については
http://satori-awake.blogspot.jp/2015/02/blog-post.html 

http://satori-awake.blogspot.jp/2016/04/blog-post_14.html 


も参照してください。



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 さて、「自分がこうでありたい」とか「こうであるのが望ましい」というイメージがいわゆるあなたの中での【正義】の状態なのですが、現実はそれとは全然違う状態が起きていて、


「周囲がそうさせてくれなかったり」「そういう能力があなたに不足していたり」「環境がそもそも異なっていたり」


することが多く、 あなたは



「心の中が、”不正義”の状態で葛藤する」



ことになるわけです。



 そこで、うつ病になる前の「正義のゆらぎ」状態にある人は



「自分は正しいのに、なぜこういう現実なんだろう」

と思ったり

「自分はよいと思われる方向に頑張っているのに、なぜ実態はそうではない方向に行くのだろう」

と思ったりします。



そして、心がストレスフルになってゆくわけですね。





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 この対策として、最も端的な解決方法は、とても簡単で、



「現実が不正義なのだから、正義ではない状態を認めること」



 が、あなたと周囲を合致させる最短の技術ということになります。



 ものすごく荒くたい例で言えば、「戦争はいけない」とか「人を殺めてはいけない」という理想と「実際には戦争がある」とか、「毎日殺人が起きている」という現実を突き合わせるには



「なんだ、人は殺人し、戦争を起こす生き物なのだ」


と認めることで、これが一番正義がゆらがなくなる答えだということです。






 ところが、人というのは短絡的ですから、「じゃあ、人殺しをしていいんだ!」になってしまいます。


 しかし、よく考えると「本当は人殺しはしてはいけない」という理想的正義を頭の中に掲げているのに「人殺しはいいんだ」という結論を持ってきてしまうと矛盾を解消できていない、という問題が生じるのですね。


あれ?なんだかうまく行ってない!


ということになるので、マズイのです。





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 そこで、うつ病女子の治し方では、ちょっとした技術があって



「命題としての正義を放棄する」のではなく

 
「命題としての正義=つまり自分の中の理想」を放棄せず、「現象としての正義」を放棄する



というワザを使うことになります。




 これは、大変に興味深いコツ、ですね。



 たとえば、とあるうつ病女子が、


「自分は仕事にも恋にもちゃんと向き合いたいし、きちんとしたいのに、それが出来ていない・出来ない環境である」


ということに打ちのめされているとします。



 この場合、命題を放棄すると


A「仕事も恋もどうだっていいんだ。そんなものに価値はないんだ。知らないわよそんなの」

 
という考え方になり、これはこれで現実とは合致しますから一定の解決法ではあります。



 ところが、これだと現実に即しているので頭の中と現実は強引に合致させてはいますが、理想論としてのそもそもの「正義」とはズレが生じています。


 そこが苦しい。そこが悲しみの源流であるわけで、解脱者的には、そこを否定はしないのです。



なので、命題ではなく、現象としての正義を放棄します。



B「仕事も恋もちゃんとしたい自分がイメージの上のほうにいることは認めるけれど、それが出来ていない自分も、ここにちゃんと存在してる。それはそれで認めよう」



という考えが、それに相当します。



 これをキャッチーな言い方でいえば




ダメ人間の肯定



といいます(笑)




 セカイはダメで終わっている、と「セカイのほうを悪者」にしてしまうと女子は「もうなんか全部どうでもいい」とクソビッチ化しますので、そうじゃなくて、



「今の私は出来てないけれど、それはそれでいいんじゃない?」



という部分を肯定してやるわけです。



 


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 これが、いわゆるうつ病対策としての「逃げる、休む、いったん捨てる」ということに当たるわけですが、


「苦しかったら逃げていいんだよ」


を真に受けて、最後まで逃げてしまうとえらいことになります。




なので、いったん「現象の肯定」をすることで不正義でもよい、という状況に落とし込んだら、今度は



「じゃあ、不正義の状態(でもいいけれど)それを正義と合致させるためにはどうしたらいいんだろう」



という正のベクトルで物事を捉えてゆくことが大切になります。ここから先は回復のための技術ですね。



 不正義の状態でも構わない。これは大前提です。しかし、そこからあなたの心にある「理想像」や「正義像」に現実を近づけてゆくためには、どんなことができるか。



 今度は、それを小さな行動として積み上げてゆくことが、心を大きく変えるチャンスとなってきます。



「ああ、これが出来ていなかったなあ。じゃあ、どうしたらちょっとでもいい方向へいくかなあ」

「ああ、今はこの段階だけど、ひとつでもアップしてみよう」

とか、そういう思考です。



 そうすると、今度は、「良いこと、成功体験、正しいこと」が少しずつあなたの中で増えてゆきますので、心のベクトルは必然的に


「正義」



の方向へと進んでゆくことになります。これが新しいあなたですね。






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 さて、そうした「正のベクトルの小さな積み重ね」が一旦落ち込んだあなたを再び健康な状態へと導いてくれるのですが、




 人間の脳みそは発火出力モデルで出来ている




ということがここで登場します。



★発火出力モデルの例


出口氏による解説
http://www.gifu-nct.ac.jp/elec/deguchi/sotsuron/matsuno_ad2/node5.html
 
岡坂氏による解説
http://www.lab.kochi-tech.ac.jp/future/1110/okasaka/neural.htm 



 これらの図は、誰の説明でも一緒なんですが、ようするに、人間の脳みその細胞は、



「外から複数の刺激があってはじめて、次の神経細胞へ発火出力が起きる」



ということがわかっているのです。



 これはどういうことかというと、心の病というのは神経細胞が弱っているわけですから、ものすごく平たく言うと、



「外部からの手助けがないと、自分で頑張ろうという意欲は発生しない」




ということと言い換えてもいいのです。



 人間の神経細胞は、自分自身でスタート出力を出せないのです。


 複数以上の外部刺激がないと、信号が出ないわけですから、


「自分ひとりでうつ病を解決しようとしても、難しい」


ということが証明されちゃっているのですね。




 だから私はうつ病女子には、ものすごく関わり合うし、彼女たちの正義のゆらぎを修正するための



「考え方のヒント」





「別の認知の方法」



についてどんどん信号を注入するということをやってます。


「ダメっ子でも可愛いよ」

とか

「スッピンも好きだよ」

とか

「どんな君でも・・・ぎゅっ」


とか、そういうことです(え?!)




 もとい。


「そういう考え方もあるし、こういう考え方もあるよ」

とか

「今は出来てなくても、いいじゃん。」

とか

「別のルートがあるとすれば、何だと思う?」

とか、そういう関わり方です。






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 最後になりましたが、なぜ男子ではなく、女子ばかり取り上げているかの説明をしておきましょう。



 男子というのは、基本的には狩猟採集する生き物ですから、外部刺激がないと発火しない出力に対して、基本的には


「外へ出て行く」


習性があります。つまり、刺激を自ら受けにいかないといけない状況になることが多いのです。



 それは具体的には


「うつでも仕事にいかねばならない」とか「嫁はんと子供がいるので、物理的に周囲で騒いでる」

とかそういった環境を指します。




 ところが、女子は、いったんうつ病になると、引きこもったり仕事にもいけなくなることが比較的多いのですが、それは元々



「妊娠出産の際に、無防備になるため外界と接触しない」


という本能に基づきます。



 常に食料を求めて外界へ出て行こうとする男子と、生理や妊娠出産の際に血の臭いを外部に漏らすと外敵に襲われる(あるいは子を奪われる)可能性のある女子とでは、


 行動パターンが大きく変わる


のです。



 


 え?ひきこもってる男子はどうすればいいかって?



 まず、外の光を浴びなさい!!!

















2016年12月5日月曜日

貧困や格差、あるいは家庭崩壊や暴力すらも乗り越えられる「生きるための力」とは何か。




 これまでに、このブログでも何度か触れていますが、解脱者である武庫川散歩は、



「人が、困難や逆境にあってもそれを乗り越えられるような生き方ができる軸足


であったり、


「人がより幸せに生きることができるようなベースとなるもの」


を、このセカイに提示することができないものか、といつも考えています。





 もちろん、たとえば苦しんでいる人たちの事態を好転させるには、


「家族や友人といった周囲の人たちの援助」



「政府や行政といった公的な助け」


があるに越したことはありませんが、残念ながらそうした手段を得ることが出来る人は、結果として



ラッキーである



と思わざるを得ないほど、 少ないのが現実だと思います。




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 その大きな理由は、近代の欧米化された日本では、「個人主義」が蔓延していて、戦前まで存在していた


「家族制度(どちらかといえば大家族制度)」


が崩壊し、 父・母・子といった最低単位の家族でさえも、


「離婚による解体」

「子供が都会に出て、老人が田舎に残るという分断」


などの状況で、細かくみじん切りにされてしまっていることにもあると考えられるでしょう。





 そうした中で、経済的にであったり、あるいは物理的に孤独になってしまった人は、自己責任の名の下で、



 幸せだと考えられる、生のクオリティを上げることが難しい



事態に陥っているというわけです。





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 しかし、仮に貧困や格差・家庭崩壊や暴力などの「困難な状況」にあっても、


 そこから立ち上がり、幸せに生きることができる軸足


のようなものが存在するとしたら、 これは大変に力強いすばらしいものなのではないか、と誰もが思うことでしょう。



 今日は、そのヒントが見つかったというお話です。




 信じるものがない人間ほどもろい (プレジデントオンラインより)
 http://president.jp/articles/-/20738





 今回引用した記事は、中米のギャング団に入らざるをえない貧困な少年たちのルポです。彼らの生活は、おそらく問題を抱えた日本人の暮らしよりもはるかに壮絶で、酷いものですが、そこに


 希望の光があった


といえば、みなさんも驚くことでしょう。



 その希望の光とは、記事中に答えが出ていますが、結論をズバリいえば



 キリスト教



ということになるでしょう。どんなに酷く、苦しく、どうしようもない生活や環境、そして現実が取り巻いていても、キリスト教のベースがあれば、

 

 救われる・希望がある・暮らしを変えることができる


 
という事実は、私たち日本人にとっては、(キリスト教文化圏にいないので)他人事ではあるけれど、


ある意味、うらやましい



と思えるほど、気になる現象なのではないかと思います。




 私たち現代の日本人は、高度に無宗教化され、宗教的価値観をまったく失っていますが、そのことはすなわち


 救いや希望も失っている


こととイコールになっていることに気付かざるを得ません。



 私たちは、キリスト教徒になりたい!とまでは思わないまでも、私たちのための
 

 希望や救いのヒントは、存在しないのだろうか?



と渇望してしまうのです。




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  記事中には、こんなことが出てきます。


 ラテンアメリカにおけるキリスト教は、500年以上の歴史を持ち、信仰はさまざまであっても、「いざ」というときには神を思い浮かべる。
 
 神の存在のおかげで、絶望しなくて済む



 このことから武庫川は、いくつかのポイントを見出しています。それは、


 ■ 本来、キリスト教は外部からもたらされたものであるのに、そこに救いがあること。

 ■ 絶望しなくて済む「なにか(軸足)」が存在するということの価値


に他なりません。



 だとすれば、これを読んでいるあなたにも、


「たとえ外部からもたらされたものであっても、あなたが生をまっとうするだけの軸足たるなにか」


がきっと必ず見つかるはずだ、という希望が確かにあるのです!




 著者の言葉を引用しますが



「極限まで追い詰められた人の心を救うのは、自らの信念もしくは、何かしらの信仰なのかもしれない。信じるものがない人間ほど、もろいものはない。自分自身も誰も深くは信じられず、救われる方法はどこにもないと感じたとき、人は生を放棄する。だが、そこに信仰があれば、かすかでも希望が残る。」



ということは、万人にとって重要なことなのではないかと考えるのです。



 悟る、ということや解脱するということは、現代人にとってはブッダに帰依することを意味しません。

 ましてや、欧米のようにキリストや神にすべてを投げ出すことでもありません。


 

  しかし、今のあなたには「何もない」状態であっても、必ず「軸足」となるものは見つかるはずで、それは



 信仰ですらなくても大丈夫



だと武庫川は考えています。 著者は「自らの信念」ということばで表現していますが、これは明らかに現代人に向けてのメッセージであり、「信仰以外の何か」でも大丈夫であることを緩やかに説明しているものと考えてよいでしょう。


 私も同じように「信仰」のみがすべてだ、とは言いたくないからです。







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 最近、武庫川は「この軸足となるもの」をなんとか平易に説明することはできないものか、と腐心していますが、なかなか難しく困っています。


 武庫川と直接話したり、メールをしている人たちなどには、おぼろげながら「軸足を構築する作業」というのは実際に体験していただけていると思うのですが、彼ら・彼女たちが最終的に身につけていっているのは、


「生きる自信」


のようなものだと思います。目の前にどんな苦境やトラブルが生じていても、それに引っ張られすぎず、できるだけ穏やかに対応できる力のようなものを、彼らは少しずつ身につけているように感じます。


 そうした軸足をもうすこし昇華させることができたら、今度は「不幸を乗り越える」というネガティブな場面ではなく、


「より幸せに生きる」


というポジティブな方向へ人生を進めることができるのですが、それはまた次のステージということで。
 



 ★ 武庫川へのご相談がある方は、無記名でもかまいませんので、メールをくだされば出来る限り思うところを述べたりします。遠慮なさらずにどうぞ。














2016年12月2日金曜日

”わたし”を生きづらくさせているのは、ほんものの”私”ではなく、仮想的に設定された虚像の”わたし”である。 ~拝啓 北条かやさま~



 そろそろ身体も凍えそうになってくる冬の季節ですが、みなさまいかがお過ごしですか?


 貴方のこころをそっと暖める、ハートウォーミングな稀代の紳士こと、あなたの武庫川散歩の妄想のお時間がやって参りました。


 ・・・ いやあ。寒いです。懐も。ふだんは世を忍ぶ仮の姿のサラリーマンをしている武庫川ですが、今年も業績が悪くボーナスがどうなるのやら。


 でもまあ、解脱しているのでボーナスが少なかろうが、あるいはいっそ無かろうがしったこっちゃありません。



 ボーナスがなかったりもするけれど、わたしは元気です。(by危機)




 ただ、ボーナスがないと、前の嫁はんに慰謝料が払えないので、その分くらいはどっかからか段取りしてこないとダメなんですが、


・・・・え?寄付してくれる?


ありがとうございます。貴重な喜捨ですな。喜んで受け取りましょう。メールくれたら振込先をご連絡申し上げますよ。はい。









 さて。いつものようにとりとめのない話から始まったこのブログですが、今日もまた心を痛めた1人の女性がおられるとのことで、そのあたりをお話しようと思います。


 北条かや、さんというネットではこれまでにそこそこ興味深い文章を書いておられる方がいるのですが、私が知らない間に炎上したり、つらい思いをなさっていたりしたそうで。


ウィキペディアより 北条かや さん
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E3%81%8B%E3%82%84



 ちなみに武庫川は、キャバクラとかキラキラした女子がいるところは避けて、隅っこに逃げながら歩くような


 ゴキブリみたいな男


ですので、かやさんみたいな美しい女性には目を合わすことすらできません。


 ただまあ、別れた嫁はんに、どことなく似てるなあ、というそれくらいのことです。




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 さて、昨今はお元気になっておられるようですが、彼女がネットで炎上した後、ずいぶんと心がくじけておられた時の経緯が、withnewsに載っていたので、そこから解脱者が思うところを少し書いてみたいと思います。



インターネットで死ぬということ 1度の炎上で折れた心

http://withnews.jp/article/f0160918000qq000000000000000G00110201qq000014021A





炎上・入院・エゴサーチ…「底つき」の果てに得たコンパス

http://withnews.jp/article/f0160919001qq000000000000000W02u10201qq000014022A



 詳しいことは、ご本人の弁に譲るとして、人間が悟りを開く上で、大事なポイントがいくつかあるなあ、と思うのでまずはそこから。







■1■ 「キャラクターを作りあげてきた」


 ネットにおいても、現実社会でも、人は立ち位置やポジションを求めて、あるいはそのポジションを維持しようと「キャラクターを作り、それを演じる」ということは多々やっているものです。


 この武庫川散歩でさえも「解脱者」というこれまでになかった斬新なキャラ設定で活動しておりますので、近現代でいえば解脱者なんて名乗っていたのは


 あのシト。 ・・・・けして口にできないようなあのシト・・・。(ヴォルデモートか!)



ぐらいしかいません。 いやいや、わたしは浮遊しませんよ!



 北条さんは、これまでに(あるいはこれからも)一定のキャラクターを作り上げ、そのキャラクターにおける「評価」を気にして生きてしまったので、傷つくことになったのですが、実は、そのキャラクターは自分でおっしゃるとおりの



 設定



に過ぎず、ほんとうの、本物の、中身の「北条かや」さんではありません。



 とすれば、彼女が苦しんでいるのは、



 虚像の自分に対する、評価



に対してである、ということなのですが、これはちょっとしたミソですね。



 もし、苦しみを生じさせ、生きづらくさせている元凶が虚像なのだとすれば、解脱者のアドバイスはたった一つです。



「北条かやを脱ぎ捨てればいいんぢゃない?」



ということになります。



 どうせ虚像なのですから、明日から「西条やそ」になっても全然構わないわけで、そうすればその瞬間から私たちは


自由


になれることは請合いです。


 (西条八十が出てくるあたりが、武庫川の知性を感じさせるでしょ?)



 しかし、北条さんがそれを選択しなかったのは、これまでに作り上げてきた「北条かや」という資産を失うことにもなるので、それがサンクコストになることがどうなんだろう、という迷いがあったのかもしれません。わからんけど。

 もちろん、北条かやを捨てれば、経済的に立ち行かなくなる、という不安もあったのかもしれません。わからんけど!


 ★これは、興味深いことに「ブラック労働とわかっていながら、そこから抜け出す勇気が出せない高学歴女子」とおなじ心理構造になっていることに気付くでしょうか? 







 ■2■ 好かれたい、という病



  できれば万人に好かれたい。あるいは高く評価されたい。マイナスな評価をされたくない。というのは、誰もがふつうに思うことで、それは罪ではありません。


 この解脱者武庫川ですら、できれば美女に囲まれたいし、万人に「よっ!今日もキレッキレに解脱してるねえ」と言われたいと思っています。

(しかし、別にそんなのはどうでもいいんですが。)


 ですが、ここにまた大事なツボがあって、



 どんなに愛されても、ほんものの中身を愛してくれ、評価してくれ、好いてくれる人なんてそうそういない



ということが大事なのではないかと思うわけです。解脱者は。



 先ほど述べたように、好いてくれたとしてもしょせんは「虚像に対して」の評価ですから、それは空しいものに過ぎません。


 そんな空しい愛をいくら積み重ねても、「生きづらさ」はけして解消しないだろうなあ、ということはとても重要なことだと思います。


  奇しくも、アドラーの「嫌われる勇気」が人気ですが、武庫川もそれを目指して


嫌われまくってやる!


と硬く誓っているのであります。というわけで、今日も好き放題、放言をかましているわけで。




 武庫川は、究極的には「わかってもらうこと」がポイントなのではないのです。



 このセカイに、武庫川散歩が存在している事実。それだけがむやみに楽しいし、面白い。


 そして、それが仮に無評価であったとしても、わたしの内側では実存であり実感であり、リアルだ。


ということがめっちゃくちゃ意味をなしているのです。



 これが無常なセカイに、私達が生きている価値であり、意味だと思います。



 

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 承認欲求というものが人間にはあって、それはとてつもないパワーをもたらすこともあるし、また自分を傷つけることもあるのは、十分わかっているのですが、私は最終的には



 人というのは、他者から見た自分ではなく、自分の中身そのもの



が本質である、と考えています。


 ところが、これが意外と難しく、「自分で自分の中身をきちんと把握する」ということは、なかなかできるものではありません。



 どうしても仮想的に自分を見て、虚像としての自分を形成してしまうこともあるし、他者の評価に合わせすぎて心を壊してしまうこともあるのです。



 
 解脱者的には、そうしたものに惑わされず、自分で適切な自分を構築する手法、みたいなのは存在すると思うのですが、一朝一夕に出来るものではなく、自分とじっくり向き合っていく時間的なものも必要であったりします。



 宗教的なニュアンスを排除して、そうした手法を確立したいなあ、といつも思っているところです。







 さて、いつもなら、素敵な女性に対しては



「セカイがあなたを敵に回しても、私はあなたの味方をする!」


と、宣言するのですが、当ブログのファンのみなさまにはそろそろ、



「まーたあいつは、女子におなじ台詞ばかり言ってるぞ」


と怪しげなまなざしで見られて、信頼度が低下しますので、今回はいいません。


 ええ、わたくしこう見えて義理がたいんですよ。


 安心してくださいね。