2016年2月26日金曜日

<特別編> エホバの証人を辞めた後に起こる諸問題 〜それは実は協会や信仰とは関係ない「あること」が問題だったのだ〜

 前回の続きです。




 前回はこちら↓ 

エホバの証人を辞めた後に読んでほしいアドバイス 〜新しい自分を再構築するために〜

 http://satori-awake.blogspot.jp/2016/02/blog-post_26.html
 




 実は、この記事では主に信仰上の変化をどのように受け止めればよいのかについて書いたのですが、現実に起きている元信者さんの問題としては、


「実はものみの塔協会や、信仰とはぜーんぜん関係がない、あること」


が悩みの中核になっているということに気づかされました。



 どういうことか?



 私の場合は、「神の存在をめぐる定義」を自分で問いただした結果として、エホバの証人ではなくなったし、会衆を離れたことで起きるトラウマのようなものにも全然悩まされなかったのですが、それはなぜかとよく考えてみると



「最初から、神と自分だけの対話」


だったからです。


 エホバの証人の設定した神を信仰して、自分でその設定をひっくり返して、別の定義に置き換えただけ


ですから、そこには神(エホバ)と私の二者だけの関係性ですべて話が成立していることはわかりますか?




 私の場合は、ちょっと変わっていたのか、両親はまだエホバの証人で、私は勝手にやめていたけれど、


「神と自分の二元論でしかものごとをとらえていない」


ので、その後に家族とぎくしゃくするとか、そういうことがまったくなかったのです。



 つまり、 「あんたらにとっての真の神はそっち、わたしの真の神はこれ」という風に綺麗にすっぱり意識が切り分かれていたので、家族ともめるはずもなく、


中学生にして、意識は独立独歩


になっていたことに、今から思えば気づいたわけです。


 親が干渉してこようと、私は新しい神観念に書き換えられていますので、「何を言っとるんだ。あんたらこそ悪魔よ離れされ!じゃ」ということですね。




 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


 ところが、世間にはびこる元信者さんとか元二世の方々の悩みは、


「ぜんぜんそこじゃない」


ようですね。つまり、「信仰の問題、神との対話の問題、神の存在論について」の問題よりも、もっと現実的な話が悩みのタネになっているようなのです。



 具体的には、

「信仰を捨てたあとの生活をどうしよう」とか

「信仰に残っている両親との人間関係がうまくいかない」とか

「これまでの誕生日やクリスマスを祝えなかった悲しい記憶との戦い」とか


そういうことが、悩みの主なものになっているようです。世間では。



 で、解脱者武庫川はのけぞってしまいました(笑)



え?それってただの経済問題で、別にふつうの無職の人と同じ悩みでしょ?

とか


信仰はきっかけであって、もともと親がもっている問題とか性格のゆがみが倍増されてるだけでしょ?


とか、

ようは、クリスマスしたかったんだね!誕生日も!それじゃあ、どっちみち滅びだったじゃん。


とか、そういうことです。



 バカにしているわけではありません。ぜんぜんそうではなくて、そのレベルの悩み苦しみに悶えているのであれば


「エホバの証人に出会わなくても、あなたの家族は別の意味での似たような問題を抱えていただろう」





「あなたは、経済的自立をしない現実を、信仰で逃げられていたけれど、これからは逃げられないという事実に恐れおののいているのだ」


ということをガッツリ理解してほしいから言っているのです。



 経済的問題、人間関係の問題、人付き合いの問題、自分の性格、逃げ、あるいは弱さ。


それらは、信仰とは無関係にも起こり得ます。




だ・か・ら・こ・そ



 「それはすべて、エホバの証人になったり、あるいは辞めたりしたからこういう問題が起こったんだ」


すり替えないでほしい!



 そこすり替えてると、エホバの証人をやめてもやめなくても、あなたは同じ悩みに支配されつづけるだけで、



真の救いなんてやってこない


のではないでしょうか。





 誕生日やクリスマスなんてかわいいもんです。今からすぐケーキ買ってくればいいです。そんなのは、ぎゃあぎゃあ言っても仕方がない。


「こどものころ買えなかったおもちゃを、大人買い」とまったく一緒です。神の存在があろうとなかろうとほとんど関係ない話です。








 さて、エホバの証人を辞めて、諸問題に迷うときは、かならず自問自答してください。



「これは信仰の問題なのか、それとも信仰と関係なくても起こる人間関係や単なる社会生活上の問題なのか」


と。


 そこから目を背けると、いつまでたっても解決しません。あなたの問題は。







<特別編> エホバの証人を辞めた後に読んでほしいアドバイス 〜新しい自分を再構築するために〜

 本来このブログのメインのお話ではないのですが、私も元エホバの証人2世でしたので、


「エホバの証人を辞めた後にどう生きるか」


について、多少なりとも書いておこうと思った次第。




 私自身は、自ら棄教したため、エホバの証人として活動していた過去については、ほとんど全くといっていいほど「気にしていない」のですが、それでも、キリスト教思想やその原理主義において、思考のベースを乗っ取られている部分がないわけではありません。


 なので、じゃあ、どんな風に乗っ取られているのかを含めて、エホバの証人から出た後に、こころがどのように揺れ動くか、またその解決法についてまとめてみようと思います。



 まず、エホバの証人との関わりが無くなるプロセスは、大きく分けて3つあると思われます。




<1> 自然消滅

  まだ入信の表明をしていない段階では、比較的起きやすい自然消滅ですが、たとえば転勤になったとか、「なんとなく集会にゆくのがおっくうになった」とか、「教義も含めてよくわからなかった」ということはあります。

 その場合、いわゆる兄弟姉妹たちが、なんとか「聖書を学ぶこと」を続けさせようとある程度の勧誘を続けますが、他の暴力的な宗教とは異なり、拉致監禁をするとか、拘束するとか、集団で説教するなどの行動はほとんどないので、身体ともに傷つくようなことはないと思います。





<2> 離脱・棄教

 自ら進んで会衆を離れるのはいくつかのパターンがありますが、「教義そのものに、疑問点を抱く」場合や、「教義そのものではないが、それを実践している会衆の人間に疑問を抱く場合」などがあるでしょう。

 自ら進んで離脱した場合は、どちらかというと「教義に対しての洗脳」のようなものは解けると思われるかもしれませんが、そうではなく、「エホバの証人の教義の根幹」については、意外と抜けません。

 たとえば、「創造主は存在するのではないか?」とか「エホバは存在するけれど、ものみの塔の解釈とは違う形で存在すると信じる」とか、「聖書にはこう書いてあるのに、会衆はそれをきちんと実行していないのでダメだ」とか、そうした様々な形で、「キリスト教の中核部分」が心の中に残るため、そうした人たちは、新たな宗教、より正しい宗教を求めてさまよい始める場合もあります。





<3> 排斥 

 最後は、会衆側から排斥される、つまり「お前はダメだ」と認定される場合です。これは、本人はある程度「信仰を維持したまま」であるのに、「その行状にアウト判定を下されて、失格を申し渡される」わけですから、ものすごいストレスになります。

 言い方を変えると、神に「おまえは滅ぼす」という宣告をされることと教義上は同義なので、排斥によって会衆を離れた人は、罪悪感をまず持つことになるわけです。

 多くの場合、排斥の理由は「不道徳」であり、そうした不道徳な行いは、エホバの証人の外の世界でも非難される領域とかぶっているので、排斥された本人の後ろめたさは、なかなか消えづらいものがあるでしょう。




〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜




 さて、理由はともかくエホバの証人を離れても、こころの奥底に残っている「乗っ取られている部分」というのがあります。


 そのもっとも重要なものは「創造主は存在する」という考え方です。エホバの証人の言うような神かどうかは一旦置いておいても、この世界を創ったなにかが存在すると思う考え方は、なかなか抜けません。

  ですので、創造主信仰が強いと、エホバの証人を離れても、また別のキリスト教的宗教へと引き寄せられたりすることが多々あります。

 また、「ハルマゲドンで滅ぼされる」という感覚も、なかなか抜けない思考パターンのひとつです。

 人間ですから、いわゆる神から見て罪な行動をとってしまうものの、どこか天上からすべての行為を見られている、という感覚も抜けないものです。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 ということは、エホバの証人を離れた、その後に待っている世界であなたが再構築すべきなのは、まず


「神とあなたの関係性を、きちんととらえ直すこと」


に他ならないでしょう。


 そのためには、「神・創造主を信じたままでいる」ことはOKだと思います。それを否定する必要は、まったくありません。


 ただ、その神は、「あなたを裁いたり、傷つけようとしたり、滅ぼそうとしたりはしない」 ことをまず受け止めてください。




 なぜ、そう言えるのかは、ここでは一旦保留にします。むしろ、あなたの人生の再構築作業の根幹は、


「あなた自身が、組織や会衆や解釈というバイアスを通さず、『神とは、結局なんなのか』の答えを探す旅」


になるからです。




 これは、後回しでもいいですが、大事な作業です。なぜなら、これをほったらかしにすると、あなたはまた


「神とはこういう存在ですよ」


という別の情報に、(別の宗教に)心を支配される可能性があるからです。



  信仰を失うということは、あなたの心の軸足を失ったり、こころに大きな穴があくのと同じですから、かならず人は何かでそれを埋めようとします。


 それが新しい宗教であったり、異性であったり、新しい人間関係であったりするのが世の常ですが、あなたが離反によってあけた穴は、



 最終的には、自分自身でふさがなければならない



のです。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


 エホバの証人を辞めた後に、いわゆる「いい子でいることをやめる」行動に出る人たちも一定数います。特に若い人たちに多いことでしょう。


 実は、それもあえてしなくてもいいと思います。そう、あえて悪事に走ったり、不道徳な自分を肯定する必要もないのです。


 どうしてこういう行動を取りがちかと言うと、神の目線からみて「アウト判定を受けた、レッドカードを突きつけられた」者たちは、どのみちアウトで道を外れたのだから、


「それでいいじゃない」


と自分を悪で肯定することで、なんとか心の平静を保とうと試みるのです。



 しかし、そうして自分を偽悪者にする必要すらありません。もっとニュートラルでかまわないのです。



  なぜかわかりますか?



 その答えは、

”そもそもあなたにアウト判定、レッドカードを突きつけた基準や判定そのものが、有効ではないから”


です。



 あなたが排斥されたり、離反することになった大前提は、あくまでもエホバの証人という教義における解釈上の基準や判定であって、神が決定した事項ではありません。



 この解釈というのがとても重要です。



 たとえば、モーセの十戒で考えてみましょう。これは、聖書に書いてある神の記述ですから、エホバの証人の定めた決まりではありません。


 
出エジプト記の20章7節には


「エホバの名前をみだりに取り上げてはならない」


という旨のことが書いてありますが、これを字義どおりに解釈すれば、あえて「エホバの証人」を名乗らなくても「神の証人」でもいいことになります。


 しかし、ものみの塔の書物には「エホバ」ということばがみだりに出てきますし、みなさんもふだんから「エホバ」と声に出していることでしょう。



 もし、神にその解釈をほんとうに委ねるならば、エホバの証人は全員アウトかもしれない。それほどまでの畏怖を覚えて神と向き合っている証人はいるでしょうか?


 そうです。みなさんはすでに、エホバのことばよりも協会のことばを信じているわけです。


 もう、みなさんは最初からアウトだったのです。




 おなじ十戒の最初の節には


「神をにくむ者には、三代・四代に渡って処罰する」


と明記してあります。


 あなたの両親や祖父母が信仰に反対しているならば、あなたはどんなに頑張ってもアウトです。だって、孫だから。



 でも、正しい信仰を持っていれば救われる、と誰が言ったのですか?それは誰かの解釈であって、神はそうは言っていない。不思議なことに。




〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 まあ、こんなことを言い出すときりがないのでやめておきますが、みなさんはそもそも、


「聖書を最初から最後までちゃんと読んだことがない」


人が大半だと思います。聖書というのはよくできていて、最初から最後まできちんと読むと、


「エホバがどういう神か、はっきりとわかる」


ように書かれているのです。それは、エホバの証人の解釈とはずいぶん異なりますが。



 もし、興味があれば、いちど最初から最後まで聖書を読んでください。新世界訳でOKです。


 おもしろいことに、エホバの証人の新世界訳聖書は、教義上都合が悪そうな箇所でも、いちおう真面目にちゃんと訳出していますので、矛盾がそこかしこに残っています。


 それを、「解釈」で、つじつまを合わせてきたのが、宗教というものなのですから。










2016年2月25日木曜日

精神科医が心を病んだら、どうしたらいいのか ~鬱屈精神科医、占いにすがる~

 また、すっごい本が世の中にはあるんだな、と解脱者の私でもびっくりしたこんな本が出てるらしいです。





『鬱屈精神化医、占いにすがる』 春日武彦 (太田出版)


BookBangさんの記事
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160222-00010003-bookbang-soci&pos=4


書評(読書メーター)
http://bookmeter.com/b/4778314956





 えーっと、カンタンに言えば、精神科医が心の病にかかったらどうするのか、というある種究極の問題に直面した精神科医が、その救済を求めて


「占い師のもとをさまよい歩く」


という話だそうです。



~~~~~~~~~~


 解脱者のワタクシから申すことがあるとすれば、



その1  精神科医だろうがなんだろうが、心の病にかかることはあるだろう


ということは認めることができます。精神科医の場合は、その場合に自分がどうなっているかを判断するものさしが、他者よりも正確でたくさんある、というくらいで病気にかからないわけではない、ということです。



 これは、たとえば、解脱者の足を踏んづけたら、痛くないか?という問題と同じで、


イタイにきまっとるやろ!!!!!


と言わざるを得ないのとおんなじです。


 解脱者は、無味無臭でなんにも感じないゾンビになるわけではありません。この世界の成り立ちと自己のありようについて、ナチュラルでフラットな見解を持ち、その意識を抱いていますが、


「痛点を失ったわけではない」


のですから痛いです。ただ、


「てめえ!なにすんだこのやろう!ぶっ殺すぞ!」


とは、相手に対して思わないだけです。寛平ちゃんみたいに


いたいーの!


とは思いますが。



~~~~~~~~~~


その2  心の病を解決する方策は、認知の気付きである。


 精神科医のおっさんは、結局占い師たちとの対話を通じて、自己分析を進めるわけですが、最終的には、「自分のわだかまりの根幹はおかん(母)にある」ということに気付きます。


 ああ、そうかそういうことに自分はこだわっていたのか!


という発見が、心の病をずいぶん軽くすることができるわけですが、こういう発見や認知は、病における一種の


「悟り」


と同じだと言えるでしょう。



 さて、ここで精神科医のおっさんがやっている作業は、実は占いというツールをかませてはいるものの、カンタンに言えば、わたしが以前のブログで説明した、

http://satori-awake.blogspot.jp/2016/02/blog-post.html


遺伝的要素や構成要素を拾い出す作業と同じです。


 占いのプロセスに乗っかっているので、それは人生相談や悩み相談の体をとってはいますが、やっていることは自分ひとりでもできるプロセスなのです。(ただし、助けがあると気付きは早かったりしますよね)




~~~~~~~~~~


その3  占いは象徴的なツールにすぎず、解決の糸口は発見する自分の力にある。



 占いというのは、霊的な力であなたしかしらない事実を当てることのように思われがちですが、実はそうではありません。


 多くの占い師がやっているのは、その占いの理論(易学なのか星占いなのかタロットなのかというジャンル)に基づいて、偶然と必然が入り混じったデータの中から、「何がしかの関連づけられた答えを示す」という作業にすぎません。


 たとえば、姓名判断だと、画数によって「好運か不運か」は決まり、それが相手の持つ偶然の名前と組み合わさって答えが導かれるわけであり、易学やカードでは、偶然によって導きだされたカードや算木に紐付けられた答えを提示する、という作業を行っているだけです。


 よって、それがあなたにとって当たっていたり外れていたり、人生の指針となるかどうかは、


「あなたの認知と有機的に結び付けられるかどうか」


にかかっているわけです。


 たとえば、ある占いによって「商売の運が良い」状態にあったとしても、あなたが商売なんて全然思いもよらず思い付きもせず、人生においてまったく意識もしていなければ、その占いの結果はあってもなくても同じです。


 その時、あなたが商売について「意識していたり、迷っていたり、それについて認識し認知している状態であってはじめて占いの結果は発動する」のです。



 つまり、占いに頼らなくとも、解決の根本的な意識やヒントはあなた自身も持っていて、それが占いの結果によって浮かび上がってくるのであれば、それは、

「本をパラパラめくっているうちに、ヒントになる言葉に出会う」


とか


「風呂に入っていて、糸口を思いつく」


とか、そういう「ユーレカ!」な気付きにも似ているということなのです。


(ということは、これもまた解脱の一種ですね)



~~~~~~~~~~


 ということは、精神科医のおっさんにとって必要だったのは、「占い」ではなかったということです。


 むしろ、それは占いに象徴されるような、


「自己分析をシステマチックに行うための一連の動作や手順、そしてできればちょっとしたそのサポート」

だったということになるわけです。


 もちろん、本人は心の病なので、自分ひとりでその作業をやっても解決できず、ただ悶々とすることにはなるでしょう。



 なので、占い師という作業のサポーターが介在することには大変意味があります。



 これは、「薬物中毒患者が立ち直るためにサポートするのが、医者がいいのかダルクの仲間が合うのか、いっぺん警察のお世話にならないとガツンとこないのか」という問題と似ています。


 しかし、1人きりでは、やっぱり薬物におぼれて、迷いを断ち切ることは難しいのです。




 仏教における修行というのは、解脱や悟り、気付きに至る方法論を、基本1人でやろうとするシステマチックなものなので、精神科医のおっさんにはぜひ占い師ではなく、


ストイックに仏道修行


なんぞをやってほしかったのですが、まあこのあたりはお好みです。



 しかし、本来はそうした迷いや悩みを解決する手法を精神科医は持っていると思いがちですが、そうではないのですね(苦笑)









2016年2月24日水曜日

厄年のお祓いを受けてきました。 ~解脱者、厄除け祈願する~

 何故だかわかりませんが、世の中にある厄除け神社なるものにおいて、2月は厄除け祭りが多々開催されるのですが、理由はあるのでしょうか。


 厄神様は、1月・2月がキャンペーン


ということのようですが、他の月ではダメなのでしょうか?


 ちなみに、日本各地の厄除け祭りを調べてみると、



1月15~19日  岩清水八幡宮 (京都) 厄除大祭

1月18日19日  門戸厄神 東光寺 (西宮) 厄除け大祭

2月17日18日  柏原八幡神社 (丹波) 厄除大祭

2月18日19日  宇佐厄神八幡神社 (加古川) 厄除大祭



などなど。ね、1月2月はキャンペーン期間でしょ?




 さて、その厄除け祈願に、「解脱者である武庫川散歩は参加して」きました。


 なぜ解脱しているのに、厄除け祈願をするのかって?解脱しているのなら、そういうものに、興味を示さないはずでは?


と思われること必須だと思いますが、その通りです。



 解脱者は、はなっから厄除け神事の神通力など期待してはおりません。それでも、厄除祭に行ってみるのはいわば



 潜入取材



というやつです。取材料5000円かかったけど。



 そういえば、最近の週刊文春さんは、サカキバラのところへ直撃取材に行ったり、スクープ連発していますが凄いですね。どうでもいいけど。





~~~~~~~~~~




 さて、厄除祈願のお祓いを受けると、とても興味深いことがわかりました。


 神道の祝詞、祈願のことばを古典語が理解できる武庫川は神妙な面持ちで聞いているのですが、かなりいいことを言っているのです。


 神道という宗教の性質を現していて、よくできてるなあ、と感心いたしました。



 よく、神社の神主さんが


「かしこみかしこみまをす~。はらいたまえ、きよめたまえ~」


などと言っているのを聞いたことがあると思いますが、これは


「恐れ入りながら申し上げます。穢れを取り除き、私たちをお清めください」


と言っているわけです。





 さて、今回の厄除け祈願では、こんなことを神主さんが言っていました。



「清らかなる神社におられる厄除けの大神、また諸々の神々の御前にあって、本当に恐れながら申し上げます。

今日、この良き日に、大神の御前に参詣申し上げている祈願者は、どこそこ県のどこそこ市の何丁目何番地に住んでいる武庫川散歩という者ですが、厄年の厄除け祈願、また諸々の祈願を成就するために、どうかお力添えいただきますよう、申し上げるものです。

時には、天からあたたかく見守り、時には地から支えあげ、さまざまな良くないことやけがれを取り除いて、お清めお払いになってくださりますように、恐れ多いことながら申し上げます」



 まあ、こういうことをもう少し長いセリフでおっしゃるわけですが、本当に日本の宗教である神道は、



平和な宗教やなあ



と心から思うわけで。



 戦時中の軍国主義と、皇室の絶対崇敬については問題がありましたが、本来神道というのは



五穀豊穣、大漁追福、商売繁盛、家内安全、無病息災、安寧長寿、夫婦円満、子孫繁栄


を願うもので、



おなかが一杯になって、みんなが幸せであればいいな



という平和な宗教です。




 敵を滅ぼせとか、自分以外を信仰したら殺すとか、あんた地獄に落ちるわよとか、そういうことは一切発想にないところが素晴らしい。




 そう思いませんか?





 さて、お払いの後は、神楽殿にて舞を踊ってくれる巫女さんのノンセクシーダンスを鑑賞し、破魔矢をいただいて帰るわけですが、私が3年間も前厄・本厄・後厄と厄除け大祭に通いつめるのは


「巫女さんが、壇蜜にそっくり」


だからです。


 ちなみに壇蜜のブログは



「黒髪の白拍子
http://ameblo.jp/sizuka-ryu/




というのですが、白拍子は、巫女舞から出てきた芸能ですので、まさに壇蜜。


 
(白拍子 葛飾北斎画)



 その壇蜜の舞を見るために5000円払って3回も通っているわけで。


 え?それが目的だったのかって?



 それ””目的なんですが、なにか?






 ちなみに、浅草ロック座の入場料は5000円だそうですね。一緒です。





 巫女の姿の壇蜜に5000円払うのと、全裸の女性の姿に5000円払うのとどっちがエロスで、どっちが本当にいやらしいか考えてもみてください。



 ・・・前者に一票!






 しかしまあ、心あたたまる神主の祝詞を聞いて、壇蜜の踊りを堪能して、お土産(お札とお守りと御神饌)を貰って、甘酒を飲んで帰るというのは、すばらしいイベントですね。



 え?欲と煩悩にまみれてるやないか、って?


 大丈夫です。一見、凡夫の行動のように見えますが、



安心してください、解脱してますよ!






 




中島義道が斬る、ゲス川谷、ベッキー、宮崎議員、桂文枝の不倫騒動

 不倫は文化だ!


と、石田純一さんは実は言ってないのですが、みなさんいかがお過ごしでしょうか?


 まあ、石田氏の場合は「(不倫のような)忍ぶ恋から文化や芸術が生まれたりしますよね」ということを言っただけで、


 それはまったくもってそのとおり!


とこの武庫川散歩も石田純一さんの肩を持ちます。向うは、私のことをいっさい知りもしませんが。




 さて、週刊センテンス・スプリングさんが放った「文春バズーカ」第一弾、ゲスの極み乙女川谷さんと、ベッキーさんの「ゲス不倫」騒動、そして、宮崎元議員による「ゲス育休不倫」騒動の第二弾、そして桂文枝さんの「愛人さんいらっしゃい!不倫」騒動の第三弾に至るまで、まさに



 現代日本の文化として不倫が存在する



ことを見せ付けられた2016年でした。




 さて、そんな不倫に対して、あの哲学者である、われらが中島義道先生が、ひとこと哲学的視点からモノ申しておられることをみなさんは知っていますか?



 というわけで、今回の記事は



「哲学者 中島義道が斬る!不倫は哲学だスペシャル!」



をお届けしようと思います。



~~~~~~~~~~


婚約破棄した男は「不誠実なダメ人間」なのか
http://toyokeizai.net/articles/-/102182

(東洋経済オンラインより)




 詳しいことは、まずは中島センセイの記事を読んでいただければわかりますが、まず、哲学の大前提として


”そもそも、善いとか悪いとかそれはどのような意味なのか”

とか

”悪いという行為を人はなぜ悪いと知っていてやってしまうのか”

とか、そういう本質的な問題が哲学であって、「これは善いとかこれは悪いとか、そういう次元の問題ではない」ということを理解しておく必要はあります。



 そういう意味では、「不倫は悪い」と一般的に思われていて、ゲスとベッキーと宮崎氏といらっしゃい!氏は断罪されるべきだと思われていますが、


そもそも、彼らは悪いのか?


というところから問い直さなければいけないのです。




 ワタクシ、武庫川散歩は、解脱者の立場から


「不倫はいけない」とか「不倫はよい」とかそういうことは言わない


ことにしています。善悪の基準を持ち込むことはせず、ただ


「この世に不倫は存在する」


と考えています。



 ここまでは、中島先生も同じです。不倫はある。それも、よくある。けっこうある。


じゃあ、そんなにある不倫について、「人はなぜそれを悪としているのか」が問題だというわけです。



~~~~~~~~~~


 哲学の答えは、けっこうカンタンで明解です。


 中島先生は、「自分もふくめて、人というのは気分屋で、ころころ気が変わったりその時の気分が前に言ったことと逆だったりする」ということをまず認めます。



 こういう気持ちの変動や変化は、ただ「この世において・わたしの中に・誰にも存在する」ということがまず認められるわけです。



 しかし、その気分によって、前にしていた約束と違うことを実行したり、あるいはお金を払う契約をしたのに払わなかったり、注文したものが届いてからキャンセルしたりすれば、


「相手が損をする・損害を受ける」


から、それは社会をスムーズに進行できなくするので、「悪」とされる、というのです。




 しかし、こうした欲求の変動は、人間として自然なものです。それでも、一貫性や契約やそうしたことが重要視されるのであれば、


「それは人間の本性や本質的な部分から出てきているのか、それとも、後付の単なる取り決めなのか」


を考察したい、それが哲学だ!というのです。




 思えば武庫川散歩も、19歳の時にこのことを悩み続けました。


 最も古い法のひとつとされるハムラビ法典というものがあり、それに


「なんちゃらをしてはいけない」


とか


「なにそれをすると罰する」


とか、そういうことが書いてあるのですが、果たしてそれは



「王がそう決めたから、その命令に従わなくてはいけないから人はそういうことをしないようになったのか、それとも、人はもともとそういうことがマズイと思っていたけど、王はさらにそれを明文化しただけなのか」


をずっと考え続けて夜も寝られませんでした。



 ああ、19歳の私はすでに哲学者だったのです!



~~~~~~~~~~


 本題に戻りましょう。


 不倫をするとなぜいけないのか。中島先生は、もうひとつそこに「情緒」が介在するといいます。


 情緒とは、「情が移って可哀想」とか「申し訳ない気持ちになる」とかそういう感情論です。


 情緒主義を取る哲学者たちは、結婚や約束や契約などは、「守らないとダメだよね」という情緒に支配されているので、たいしたことはない。心変わりも情緒だし、守るつもりも情緒なので、守ろうが破ろうがたいしたことではない、とするというわけです。




 しかし、現実的には、「不倫をすれば責められ、炎上し、CM契約を打ち切られて、議員を辞めなくてはいけない」のです。



 中島先生は、この原因は近代ヨーロッパの「ロゴス中心主義」にあると見ています。


 ロゴス中心主義では、人間は理性的であるとされます。ロゴスというのは言葉であり論理です。


「結婚という約束」=契約という論理です。


「結婚するという意志と意思表示」=首尾一貫する論理的言説なのです。



それに反する不倫は、理性的ではない。野蛮で動物的である、というわけですね。


 道徳的であることは理性的であることだし、理性的で合理的な生活を送ることこそが「善であり理想像」だとするのです。


 そして、そちらのほうが、”人間の本性”だという立場が近代欧米の発想なのです。





 しかし、逆にいえば、


「不倫をしてしまったり、約束を破ったり、仕事をめんどくさいと思ったり、時にはサボったり、感情的で情緒的な言動をとってしまい、薬物に手を出したり、6股をかけたりするのも、人間」


なわけで、それを善いとか悪いとか言うよりも、


それもまた、人間の真実


なのです。


 哲学者はそのせめぎあいの中に真実を探り、解脱者はそのあやふやさの中に無常を見いだすのでありました。



2016年2月17日水曜日

金持ちはマシュマロを2個食べる 幸福になるための方法

 解脱者、武庫川散歩は、もうすでに悟りをパックリ開いて、あんまり物事には執着せず生きているのですが、それでも



 世をしのぶ仮の姿



というのがあって、普段は平凡なサラリーマンをしています。たぶん。



 まあ、デーモン小暮閣下みたいなものです。デーモン閣下が悪魔なのに相撲好きとか、あんまり論理的に考えるとわけわからんことが多々あると思いますが、そこはほれ、



 ふわっと


感じてください。



 で、解脱者ムコガワは、普段はビジネスマンなものですから(たぶん)、日経ビジネスとか現代ビジネスとか、プレジデントとかダイヤモンドとか、そういう俗世の経済情報も



 方便としてwww



一応読んでます。



 で、面白い記事があったので、ぜひ衆生のみなさんにも紹介したいと思います。




堕ちた“番長”にも読ませたい「本物の富裕層はマシュマロを2個食べる」




 これは行政書士の金森さんという方の記事なんですが、基本的には



「富裕層になるにはどうしたらいいか」


という煩悩丸出しのスケスケな記事なんですが、よく読んでゆくと、不思議なことに出くわします。



 煩悩丸出しで、富裕層になりたい!お金持ちになりたい!と思っても、それを実現するためには、


「自制し、抑制し、煩悩と戦わねばならない」


というのです。具体的には、種銭を貯めるために欲望に負けてはならず、そして、お金を手に入れても使おうともしない者が真の富裕層になるというのです。



 これって、まるで修行僧みたいじゃないですか??



 真の経済的自由や真の幸せを得るためには、自制し欲望を抑えることである。



 逆説的ですが、実は仏教の根幹にも通じるところがあります。



 記事の中で、ワタクシ武庫川が名言だと思ったことばが出てきます。それは、



「快楽と幸福は違う」



ということばです。



 ああ!あえて解脱者なりの言いかえをするなら



「快楽と幸福は相反するものだ」


とか


「快楽を手に入れれば、幸福を失う」

「幸福は、快楽を捨てることで手に入れられる」


とかそんなのもカッコいいですね。



 解脱者武庫川は、快楽と幸福はアンビバレントなものだと思います。



 記事にある清原氏ではないですが、仏教でいうような「何者にも捉われない解脱状態でずっといるためには、薬物中毒でもいいじゃん」という説もあるわけで、イッっちゃった状態でそのまま死ねば、それはある意味



 即身成仏



で本人は、涅槃の境地のまま逝ってしまわれるわけですから、仏教的にはそれでもいいことになってしまいます。




 そこの部分を、武庫川散歩の解脱論、いわゆる存在宗的には、



やっぱり人は、幸福にならねばならない


と考えるので、解脱して単にあちゃらへ逝ってしまうのはよろしくないと思うのです。




=========


 快楽を追求すると、幸福ではなくなります。


 それを示す事例は、山ほどあります。薬物中毒は幸福ではないし、芸能人も快楽は多々あるでしょうが幸福な結婚生活を営めるものはごくわずかです。


 逆に快楽を捨て去ると、仏教的には幸福になります。


 記事を書いた行政書士さんもそうですが、使わずに貯めれば、富裕層にはなれるでしょう。




 しかし、人はかならず死にますから、山ほどお金を溜め込んで死ぬのも、



 なんだかなー


(阿藤さん風に、ご冥福をいのります)


ということになるわけで。




========


 世をしのぶ仮の姿のビジネスマン である、武庫川散歩が経済理論に基づいて語るならば、


 これらをうまく落しどころに落とすには結局、




「人がより良く生きるとは、幸福と快楽の損益分岐点を探ることだ」



と言えるでしょう。



 快楽におぼれて幸福を見失うのは、仏陀が最も戒めたことです。


 しかし、ブッダのように、快楽をゼロにしたところに幸福があるとは、武庫川には思えないのです。



「ちょっと、喜んだり、ちょっと悲しんだり、たまにはすねてみたり、泣いてみたり、ドキドキはらはら、いろんな感情や欲望も感じながら、それを享受するのが人生のありようだ」


とするのが、ワタクシの理想の生き方ですから、幸福を失わないくらいの「快楽のつまみ食い」はあっても良いと考えます。


 むしろ、「心地よさ」で留め置き、幸福が失われないようにコントロールできることが、解脱による神通力そのものなのではないでしょうか。


 寸止め。




となりのヤングジャンプ 「悟りパパ」 が面白い



私が解脱者をしていることを知ってか知らずか、あるところから


 となりのヤングジャンプに掲載されている「悟りパパ」が面白いよ


ということをご紹介いただきまして、さっそく読んでみました。



(画像はとなりのヤングジャンプさんからの引用です)



 となりのヤングジャンプ 「悟りパパ」




 えーっと、どんな話かといえば、つまり、


パパが悟りを開いて仏様


になってます。初回から(笑)


 
 パパには奥さんも梵くんというお子さんもいて、基本的には梵くんとパパのちょっとほほえましいお話が続くわけです。



 全体的によくできていて、いわゆる普通の人に理解し易い「煩悩像」とか、「悟り観」をわかりやすくまとめているので、誰もが楽しく読むことができる良書だと思います。


 一話一話もコンパクトですぐ読めますよ。


 


 話はもちろんフィクションなので、ほのぼの読んでいただければ良いのですが、ひとつだけポイントがあって、悟りパパはなんかよくわからんけど


「ピカー!」


という行為を衆生の方々に施すことができて、どうやらそれをやられると、一定期間はふつうの人でも


なんか悟ったような気になれる


のだそうです。


 まあ、一般的な理解としてはそうなんだろうな、と。悟りを得るとなんか超絶パワーのようなものを得たり、神通力を持ったり、あるいは


なんだか気持ちよくなったり


すると思われがちですが、かっとばせキヨハラくんではないので、残念ながら悟りをひらいても



カメハメ波もドドン波も出せないし、光ったり、気持ちよくなったりしたりはしません。



そこ重要です。



 ああ、出家剃髪すると、体の一部が斎藤さん・ペになるので、光ることは光ります。


 あの程度の鈍い輝きでよければ。斎藤さんだぞ!





 まあ、それは別として漫画の梵くんはとても可愛らしくて、また解脱者のこどもとしては良き息子として育ちそうなので、うちでも実践してみることにしましょう。





 うちの息子は、何故だか輪廻転生を信じており、人には魂というものが宿ると考えているようで、早くベルトと眼魂(アイコン)を買えとうるさいので、喝破しなくてはなりません。


 で、君はどんな魂に興味があるのかと尋ねると、「ビリー・ザ・キッド」の魂にとても関心があるそうで、



 また、そこらへんで売ってないやつを希望しやがって!



と、まるで曹洞禅のような難題を出してきやがります。



 え?なんの話をしているのかって?霊魂ですよ、霊魂。



 仮ライダーゴースト



の話をしてるんです。バッチリみな!  ・・・おあとがよろしいようで。









2016年2月5日金曜日

【勝手に人生相談 その8】 人生をやり直したいのですが、どうすればいいですか? 

 まいどお馴染み「勝手に人生相談」のお時間がやって参りました。


 このコーナーは、誰にも頼まれていないのに、ワタクシ武庫川散歩が、独断と偏見に満ちた「勝手な人生相談を、勝手に答える」という、トンデモないシリーズなのですが、きっと好評だと思うので、これまた勝手に継続しております。


  ちなみに、2016年になって、この「勝手に人生相談シリーズに、相談を寄せたい」ときっと思っている方が増えてます。


 たとえば、ベッキーさんとか、昨日あたりは清原さんも、そう思っているのではないでしょうか?


 ええ、もちろん、どこのベッキーさんか、あるいはどこの清原さんかは知りません。芸能関係かどうかも定かではないかもしれませんね(笑)



 さて、彼らに共通した、人生相談の内容はもちろん、



「人生をやり直したいのですが、どうしたらいいですか?」



というものです。



 何をやっちまったかは知りませんが、やっちまったものは仕方がありませんし、その過去をなかったことにはできません。


 しかし、人間というものは、死なない限り、やり直すことはできるものです。



 そのためには、どうしたらいいのか。


 あるいは、人生をやり直す秘策というのは、どんなものか。



について、今日はお話してみようと思います。





 まず、もっとも大事なことは、何かをやっちまう以前のあなたと、やり直し・改められようとする人生の後半について



「軸足となるものがあるかどうか」


は大きな転換点となりますので、このことをよく覚えておきましょう。



 たとえば、相談者が野球選手だったとしましょう。野球選手の場合は、人生の前半は、「野球」が軸足です。しかし、選手をやめてからの後半は「野球」から軸足をはずしてしまうと


何にもない、空虚な生活


が待っていることになります。


 恋愛においては、異性そのものが軸足となる場合があります。



「あなたに出会うまえのあたし」と「あなたに出会ってからのあたし」


は大きく違うので、不倫に走ったりもしてしまうものなのです。



 これらのポイントは、仮にそうした軸足がなければ、「ただ、だらだらと過ごすのみで、別段大きな人生の転機にぶちあたることがない」わけですが、なまじっか


「軸足」


となるものに遭遇してしまったり、それに夢中になってしまったが故に、トラブルを起こすことだってあるわけです。



 とすれば、人生を変革するヒントは、まさにそこにある!と言えますよね。


 公式にしてしまいましょう。


公式1)

 人生に軸足がなかった人間が軸足を見つけると、その後の人生は大きく変わる。



公式2)

 人生の軸足を失うと、その後の人生は大きく変わる。



 この二つの公式は、忘れてはいけません。





 さて、ここからです。


 どうやら、軸足のない人間がそのまま過ごすのはOKのようです。ただ、だらだらとした人生が続くだけだからです。


 しかし、軸足を持っていた人間がそれを失ったり、軸足を見つけてしまったりすると人生が大きく変わるわけですから、


「人生においては、変革期に新たな軸足を見つけなくてはならない」


ということでもある、ということがわかってきます。


 つまり、キヨハラという人にとっては、スポーツではない新たな軸足や立ち位置、居場所が必要だったわけです。


 あるいは、ベッキーが新たな人生を立ち上げるためには、「新たな異性」が必要になりそうだ、というわけです(笑)





 しかし、それらの軸足は、どこかからか勝手にやってきたり、誰かが与えてくれたりはしません。人生の後半ともなるとさらにそうです。

 子供の時は、習い事や好きなスポーツなどもあるでしょうが、人生の後半になって趣味を見つけるのは大変だったりします。


 あるいは、子供の時は、四六時中片思いでも恋愛できましたが、人生の後半になって恋愛もなかなかできるものではありません。



 ということは、それらは自分で探しにいかなくてはいけない、ということなのです。



  まあ、別に趣味や異性の話ならまだかわいいものなのですが、人生の軸足となるものを自ら探せと言われても、なかなか思いつきもしません。それが普通です。




 そんな時には、とてもいい方法があります。


 人生の軸足を探したい時、あなたの人生に迷ったとき、そんな時に確実に効果があるのは、


「あなたは何者なのかを確認する。再確認する」


という方法です。


 これには、2つのテクニックがあります。



 <1> あなたを構成する要素を書き出してみる。

  あなたが今までに受けてきた教育内容(習い事や、技術や、大学の学部や、もっている免許や、そういうもの)をすべて思いつくままに書き出してゆきましょう。

 そこに、あなたが好きなものや、こういうものをよく買ったりする、という傾向に当たるものも書き出してゆきます。

 食べ物、道楽、乗ってきた車など、あなたの経験を構成したものも書き出しましょう。

  付き合った異性の名前もよいでしょう。住んだ街の名前もよいです。とにかく、あなたが経験として得てきたものを単語で並べてゆくのです。

 つるんでいる友達もそう、よく行く店もそう。こだわっているブランドでもいいし、あなたに関わりそうな要素は、つぎつぎ挙げてゆきましょう。


  こうして書き出されたノートの内容は、基本的に他の誰とも「かぶらない」あなた自身の構成要素です。

  
 そして、ここからズバリ言いますが、あなたの軸足は、その書かれたものの中にしかありません。 


 新しい人生のポイントとなるものは、その中にあります。いや、これからそんな軸足に出会う可能性もなきにしもあらずですが、少なくとも今日、この時点ではそれに出会ってないわけですから、あなたが軸足にすべきものは、


 かならずその中にある


のです。




 <2>あなたを成り立たせている遺伝的要素を調べてみる。

 よく、人間を形作るのは、「遺伝か、それとも環境か」なんて言われたりしますが、実際にはそれらは約半々であなたに影響を与えているようです。

 一番目の方法で調べたのは、あなたが得てきた外的要因、要素ですから、この部分が環境によって得られたあなたの「獲得形質」だと言えます。


 あと半分は、あなたが遺伝的に持っている要素ですから、これは父・母・祖父・祖母たちが、どのように生きてきたかを知ることが


 遺伝的な軸足


になります。


 たとえば、あなたの両親や、祖父母たちが、どの土地で生きてきたのかとか、どんな仕事や暮らしをしてきたのかを知るだけで、あなたの軸足がちゃんと形成されてゆくのです。

 「ああ、この土地じゃなくて、実家へ帰ろう」とか、そんな決意をするのも、その実家の土地との縁は、もともと血縁しかないわけですから、DNAに由来するのです。

 あるいは、「オヤジの跡を継いでみよう」とか、逆に「オヤジとは違う生き方をするぞ」とかも、そのパターンです。

 この遺伝的要素から作り出された軸足も、かなり強力なあなたの足がかりになるのです。




 結論は、2つです。遺伝と環境に基づいて、あなたは新しい軸足を探すべきです。

 ベッキーさんは、そもそも彼のどこに惹かれたのか、や彼とどの土地や仕事をして、この先逃げてゆこうかを考えるのもきちんとした軸足となります。

(もちろん、前の軸足である東京中心の生活や、芸能中心の生活は捨てなくてはならないかもしれません)


 逆に、軸足だと思っていた異性を捨てて、以前の軸足を取り戻そうと努力するのもありです。


 清原さんは、遺伝に基づいた軸足を取り戻すのか、あるいは、新しいあなたを構成する要素を再び見つけるのかを迫られます。それに失敗すれば、虚しさだけがそこに残ることになります。



 もし、あなたが本当に人生をやり直したいのであれば、ぜひいちど、武庫川散歩に相談してみてください。


 かならず、あなたは変わることができます。


WE CAN CHANGE !