2014年2月25日火曜日

■<11-2> この世界は、実は存在しない。

 前回のつづきです。

 
 このセカイがまるで記号に似ていて、あるいは記号で表現されるものとほぼ等しいとすれば、「この世界は物理的には存在しないかもしれない」という発見、それがサイバーパンク解脱の第一段階である、というお話を前回したところでした。


 このお話、少々学術的には、情報処理学で「オートマトン」や「チューリングマシン」の基礎や概念についてかじったことがある人には、「ああ、あのへんの話か」とすぐに納得がいくと思いますが、さすがにそんな説明では「サル」にも理解できるとは言えないので、もう少し丁寧に書きます。

 ああ、今回はかなり真面目ですね。ギャグが少ない。


 
★ オートマトン ★


 オートマトンとは、簡単に言えば「計算機」とか「コンピュータ」のようなものです。定義とかの話をすればどんどんサルレベルから知能が上がっていくので、

「何か情報が入ってくる」「それを記憶する」「何か情報が外へ出て行く」

という3つの機能を持っているもの、とでも思ってください。

 キーボードがあって、メモリがあって、画面がついているスマホとかパソコンはもちろん「オートマトン」だし、電卓ですらそうです。



★ チューリングマシン ★


 チューリングというおっさんが考えたオートマトンの一種で、

「無限に長いテープ」「テープから情報を読み取るヘッド」「機械内部の状態を保持するメモリ」「情報をテープに書き出すヘッド(読み取り兼用)」

を持っています。

 で、チューリングマシンはどんな動作をするかといえば、

 ①ヘッドから情報を読み出し
 
 ②内部の状態を変えるか、ヘッドから情報を書き出すか、ヘッドを右か左に動かすかする

 ③それを停止状態になるまで繰り返す。


という動きをするのです。



 さて、基本的に、すべてのコンピュータや計算機は、こうしたチューリングマシンやオートマトンの理論に従っていて、逆の言い方をすれば、

「数学的な数式は、すべてチューリングマシンの動作で説明できる」

とまで言われています。


 
 まだ、なんのことか全然意味不明だと思いますが、たとえば数学者はこんな風なことをイメージするわけです。


「このセカイのありとあらゆる事象を、数式で表現する・説明するというのが数学者の究極の理念だとすれば、このセカイのありとあらゆる事象はチューリングマシンで表現できるわけで、となると、このセカイはコンピュータですべて表現しなおすことができるはずだ」


と。


 こんな変てこりんなことを言っているのは、私ではありません。私が言っていることと、逆のアプローチですが、別に悟りを開きたくもない一般数学者のみなさんが、実はそんなことを考えているわけです。

 
 で、私が言っているのは、「このセカイこそ、実は物理的に存在しないチューリングマシンに書き込まれたテープデータなのかも」ということで、数学者が言ってるのが「このセカイを全て理想的チューリングマシンに書き付けてやろう」なんです。

 言ってることの論理的アプリーチは全然違いますが、思考回路はかなり似てることに気付くと思います。


 なので、私の解脱は「サイバーパンク解脱」なのです(笑)



※ちなみに「この世界が存在しないかもしれない症候群」はすでに他の人が提唱していて、この考え方を「シュミレーション仮説」と言います。

 ウィキペディアより シュミレーション仮説
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E4%BB%AE%E8%AA%AC



※私の解脱と、シュミレーション仮説の違いは、ズバリです。

 シュミレーション仮説では、「世界とは何かのシュミレートされた状態」ですが、私の解脱では「そもそもシュミレートされるべき主体も存在しない」ということで、マジで最初から最後まで「存在しない」と説くのです。



 さて、ブッダの悟りは、「この世界は無常であるので、結局どうでもいいやん」ということでした。無常ということばの意味をつきつめると、シュミレーション仮説の提唱者風に言えば、「実態がない」でもいいし、私風に「存在しない」でもいいです。


 いずれにしても、このセカイを、一般の人々のように「価値あるもの」ととらえない、ところにおいて、悟りや解脱は共通していると言えるでしょう。







 
 




 

2014年2月14日金曜日

■<11-1>~世界でいちばん小さいものとは~ 「これがサイバーパンク解脱だ!」

 おひさしブリーフ。下着はトランクス派の武庫川散歩です。

 しかし、解脱して超越した発想を用いて言えば、下着と我との境界はあってなきがごとしであり、パンツは穿いていようがいまいが、その本質においてはノーパンとあまり変わらない・・・・んなわけあるか!

 
 バレンタインデーなのに、のっけから下品なツカミで申し訳ありません。ちなみに、バレンタインデーというのは、ローマの神を称える異教の習慣であり、それを巧妙に邪悪なキリスト教徒の一部が取り込んだものであるので、


 バレンタインデーにチョコを送ったり貰ったりするやつは、ローマ教徒以外みんな地獄の炎に焼き尽くされるがいい!


 って、ことで。嘘だと思うなら調べてみなさい。

 けして、ひがみではない。ひがみではない!


==========

 さて、そんな妄言は横に置いておいて、今日はサイバーパンク解脱の、最も中心となる考え方についてさくっと説明しようと思います。


 このセカイが、とある神様によって創られたのか、それとも勝手にできたのかはさておき、まずは古代から人がずっと悩んで、そして研究し続けてきた壮大で矮小なテーマについて考えましょう。



 それは、このセカイは何からできているのか!


ということです。


 このセカイの科学というのは、究極的にはこのことばっかり考えていると言っても過言ではありません。人類の歴史の中で、常に考え続けていて、まだ答えが明確には出ていないのが

「セカイで一番ちいさいものってなあに」

ということなのです。


 ちなみに、この質問を使えば、少なくとも彼氏彼女が「アホかどうか」を簡単に判別することができます。

 まずはこう尋ねてください。


「この世で一番ちいさいものってなあに?」


「・・・・・・うーん。原子(げんし)とか?」

と答えたら、あなたの彼氏彼女は、まあ普通の人です。



「・・・・・・うーんと。アリ(蟻)!」

と答えたら、あなたの彼氏彼女は、確実にアホです。


 うそだと思ったら試してください。アリと答えるヤツは、確実にアホです。これ以上付き合うのは、やめておいたほうがいいです。



==========

 さて、このセカイで一番小さいものは、原子やら素粒子やら、いろんなことが言われていますが、まだ確実に全てがわかったわけではありません。

 しかし、何かちいさい粒か、もしくはひものようなものがあって、それらが組み合わさって、私たちの宇宙ができているらしい、というところまではわかっています。

 この間「ヒッグス粒子」という凄い粒つぶが、どうも発見できたらしい、ということで世界中でニュースになっていましたが、これは「質量(重さ)をもたらす粒子」のことで、どうして我々の世界に「重さ」があるのかを説明することができる、ということで盛り上がっております。

 ヒッグス粒子については、わかりやすい例えがありました。↓


gigazine より 「ヒッグス粒子とは雪のようなもの」
http://gigazine.net/news/20131009-what-is-the-higgs/


 それはともかく、一番小さい粒子とはどんなものでしょうか。その性質を次に挙げてみましょう。


① それ以上小さくならない。つまり、それ以上壊れない。

② 粒子は、1種類かもしれないし、複数種類あるかもしれない。

③ 粒子は組み合わさって、より大きなユニットを作ることができる。



 基本的には、これだけです。この宇宙で一番ちいさいものは、この性質を利用して、互いにより大きなユニットを形成しています。

 いちばん小さな粒子が、1種類なのか、それとも違うのかはまだよくわかっていません。ただ、現時点で判明している「素粒子理論」では、何種類もの「最小っぽい粒つぶ」がわかっていますので、おそらく複数種類あると思います。


 この一番小さい粒子が何なのか、が今回の一番のテーマです。


 私は、18歳の時に、この粒子についてとても面白い「思いつき」を想起しました。実は、この考え方が、サイバーパンク解脱、の核となる理論の一部なのですが、それは

 
 この一番小さい粒子は、「記号」に似ている


ということでした。


 記号というのは「123」とか「あいう」とか、文字や数字を包括したいわゆる「記号」です。もちろん、記号は、本来何か物理的な本体があって、それを指し示すために後から貼り付けた伝票のようなものなのですが、とにかく、今はふつうに「記号」だと思ってもらってかまいません。



 ①記号というのは、壊すことができません。


  たとえば「あ」という記号は、「横棒と縦棒とまるいの」に分割して描くことはできますが、分割されたものは「あ」という記号としての働きを全く失います。つまり、「あ」はそれ以上壊せない状態で「あ」としての記号力を発揮します。そして、誰も「あ」を壊すことはできません。


 ②記号は、1種類でも働かせられるし、複数種類でも、もちろん働く。

  たとえば、コンピュータのデジタル世界は「0と1」だけで表します。2種類の記号のように見えますが、電圧が「あるとない」状態で働かせる場合は、実は電圧が「ある」という1種類だけで機能します。(ないほうは、何もしないだけ)

  「ひらがな」という文字記号はざっくり50音あります。アルファベットでも、ローマ数字でも、複数記号で状態を表します。


 ③記号は、組み合わさってより大きなユニットを作ることができます。(機能します)

  たとえば、「あ」だけでは無意味つづりですが、「あした」というユニットを作れば、意味を持って機能します。「あなた」でもいいです。「あんぽんたん」と長いユニットも作れるし、「あめ」という短いユニットでもOKです。


 
 ほら、なんだか「一番小さいもの」は「記号」の働きと似ていませんか?


 もちろん、記号というのは、先ほども少しだけ説明したように「単なるラベル」に過ぎません。


 リンゴ本体を見て、それに「apple」というラベルを貼るか、「りんご」というラベルを貼るか、それは好き勝手にやればいいことです。そして、ラベルはけして、リンゴそのものではありません。

 なので、本来は「ラベル」に振り回される必要はないのですが、実際問題として、私たちの住む世界のコンピュータの全てで、その「ラベルがあたかも実体そのものかのように機能している」ことに、すぐ気付くと思います。

 
 ドラゴンクエストでも、ファイナルファンタジーでもいいです。RPGの世界は、電子回路と記号によって作られた「物理的には存在しない」世界です。

 しかし、ゲームの中で、あたかも空間と世界が存在しているかのように、振舞うことができます。

 したがって、ゲームの中の世界は、私たちの住む世界とはまったく切り離された「ラベル(偽者)」の世界ではあるものの、その内部の世界だけ見れば、あたかも存在する「空間」のように設定することができているのです。

 
 もっと言えば、ドラゴンクエストやファイナルファンタジーの世界は、ゲーム機のコンピュータの電源を入れた状態でこの世界に「成立」しているわけではありません。

 電源が切れていても、その内部世界は「そこに設定されて、ある」「そこに存在している」と考えることができます。

(このあたりはちょっと哲学的になってきますよ。頑張ってついてきてね!)

 さらに言えば、プログラマーが「プログラムを書いた時点」でドラゴンクエストの世界が、すでに「そこにある」と言えるわけです。

(ハードウエアがなくても、ソフトウエアが完成している時点で、ゲームはそこにある、ということ)


==========

 18歳の私が、最初の「発見」をしたのは、まさにその瞬間でした。解脱への第一歩と言えるでしょう。

 その時武庫川散歩少年は思ったのです。

「もしかしたら、この世界は『存在しない』かもしれない」

と。

 もう少し、詳しく解説します。

 この世界の成り立ちである、一番小さいものが「記号」に似ているとしたら、いや、逆に「偽者のラベルとしての記号」どころか、実はこのセカイが「単なる記号」で、何者かによってプログラミングされた「ゲームの内部」のようなものかもしれない、と思ったのです。


 だとすれば、プログラムと同じように、ハードウエアにおいて走らせても成立するし、ハードウエアがなくて、アルゴリズムを組んだだけでも成立するように、このセカイは「物理的に存在しなく」ても、論理的に存在しさえすれば、僕らはここにあるように感じることができる、と考えたのです。


 もうちょっと平たく言い換えます。


 神さまというプログラマーがいて、そのプログラマーが僕らの世界をプログラミングして創造したとして、ハードウエアを伴って物理的にこのセカイを作ってもいいし、アイデアだけまとめてソフトウエア上だけでこのセカイをプログラミングしてもいい、ってことになり、つまり・・・。


 神様が「このセカイがこんな感じでこういうふうにあればいいよね」と頭の中でイメージしただけで、このセカイは成立するのだから、


 このセカイは「物理的に存在しなくても、ここにあるように僕らは感じ取れる」ことになる!


と気付いたのです。


 つまり、このセカイは存在しないかもしれない。そう、存在していてもしていなくても、どっちでもいいくらい「かなり、その両者は二アリーイコールである」と。

 
 ズバーン!ババーン!ドッカーン!


なひらめきです。このことを思いついた時には、散歩少年はかなりうちのめされてクラクラしました。


生きてる意味なんてないじゃん!


とまで中二病全開の叫びを発してしまったほどです。



(つづく)
 





 

2014年2月7日金曜日

■<10の補足>人を殺してはいけない理由(つづき)

 前回の記事の補足です。


 基本的に、「殺されたくないから殺してはならない」という観点が全てのベースだと前回お話しましたが、もう少し一般的に言えば

「自己が保たれることは、基本的に良い状態」

だと考えてもらってOKです。

 この「自己がよい状態に保たれること」を「自己保全」と勝手に名づけたとしましょう。


 自己保全が成立しているときは、人は良い状態にあります。


 平たく言えば、生きてます。

 あるいは、食べ物や、必要なものを所有していたり、どこかに住んでいたりします。衣食住の環境が整っていることも、もちろん「自己保全状態にある」と捉えることができますよね。


 この自己保全が成立していることは、善悪の観点で言えば「善」です。なぜなら、それによって人が生きていられるからです。


 ところが、時と場合によってはこの自己保全が脅かされることがあります。


 衣食住がなくなるとか、極端には命が脅かされるとか、「自己が保たれない状況」がやってくることがあります。

 これを、人は「悪」と考えます。

 そして、自己保全を脅かす行為も、悪で、それを実行すると「罪がある」と考えるのです。


 それをされることで「自己保全ができなくなる行為」はすべて「いけない=罪」だということです。



 例を挙げます。


 盗む行為は、盗まれた側の保全されていた物品が失われますから、自己保全状態からマイナスになるので「悪」です。

 不倫や不貞は、成立していた夫婦や家族という「自己保全状態」を破壊しかねないので、「悪」です。

 もちろん、殺すことは最大の「自己保全の喪失」ですから、「めちゃくちゃ悪」です。

 嘘をつくことで、「自己保全状態を維持するのに必要な情報があやうくなる」場合は、「悪」です。

(なので、言っていい嘘とか悪い嘘、という発想が生まれます。「自己保全に関係ない嘘は、悪ではない場合もありますね)




 このように、基本的に善悪は「自己保全」の考え方で説明できるのですが、ここでややこしいことが生じます。

 「自己保全」の理論は、個人個人その人にとっての問題です。つまり「私一人」の問題なのです。

 世界が一人だけであれば、全ての理論は「自己保全」で説明できるのですが、残念ながら二人いたら、早速その話が怪しくなります。


 例) 食べ物が一つしかないのに、「自己保全の考え方」では、どちらがその食べ物をとるのが「善」か成立しなくなる。


 そうです。人は自分の自己保全を最大にしようとすると、他人の自己保全領域に損害を与えてしまうことがあるのです。


 そうすると、それは相手から見れば「自己保全を侵害」するもの、ですから当然です。

 

 この矛盾をどうやって解決するかが、古代から続く「法・法律」の精神ということになります。

 自己保全同士はすぐにぶつかりあう事態が起きるので、それをうまく采配しなくてはなりません。なので、「法」が、人の歴史の中ではどんどん進化していったのです。


 そのため、「法」つまり、「していいことと悪いこと」の善悪の判断基準は、自己保全の最大化をめざすのではなく、時に自己保全の最大化を制限する「リミッター」として働くようになりました。


 リミッターとは制限装置です。自己保全を推進する加速装置ではなく、自分で自分を縛る鎖です。

なので、法はすべて


「ほにゃらら、してはいけない」


という制限の書き方、制限の言い回しになっているのです。



 近代文明とは、この制限装置の使い方をどれだけ高度化させたか、ということに他なりません。

 より厳密に言えば、「個々の自己保全の最大化をコントロールして、全体の自己保全を最大化しよう」という試みこそが、文明であると言えます。


 わかりにくい言い回しを簡単に言い換えます。


 それぞれの個人や企業が儲けることを制限してまで、公害を減らしてみんなで幸せをめざす

とか


 電車に我先に乗り込まず、整然と並ぶことによって、みんなが安全に移動できる


とか


 交通ルールによって、個々の行動を制限することで、みんなの安全を得ようとする


とか、とにかく全ての文明行動は、この原則に則っているのです。



 こういうことを念頭に置くと、なぜ「民度が低いと揶揄される国の人々の言動に対して、私たちがもやもやするのか」がすっきり理解できると思います。

 つまり、個々の自己保全は、文明が発達するほど制限がかかりますから、「自分勝手なことが通っている国」に対しては、文明国はなんとも言えない陰鬱な気持ちになるわけです。それは、その国の人たちの「文明の発達度」に対して、


 昔の自分の中二病時代を思い出す


ような気分になる、と言えば、わかりやすいかな?(苦笑)



 余談ですが、この「自己保全を脅かすもの」は基本的に罪なのですが、「その行為をしたほうが、自己保全されるもの」は、罪であっても良しと判定されます。


 例えば、殺すのは罪ですが、相手を殺したほうが自分が生き残れる場合は「良い」とされます。


 戦争の場合。正当防衛の場合など。


 安楽死問題が、ぎゃーぎゃー問題になるのも、「安楽死を選択したほうが、その人の心が保全される」場合があるからです。


 これらは、とにかく「自己保全こそが、本質的な人の善」と関わっていることの証拠ですね。



■<10>なぜ人を殺してはいけないのですか?

今日は、この冬一番の寒さに震えそうですが、心はホットな武庫川散歩です。

さて、今日は、エンターテイメント解脱に達した私がお届けする、「なぜ人を殺してはいけないのか」という壮大なテーマについてのお話です。


 この人類最大の問いに対して、あのお笑い芸人東野幸治の答えが秀逸!ということで話題になっていました。



 TOCANA「なぜ人を殺してはいけないのか?東野幸治の答えが秀逸!」
 http://tocana.jp/2014/02/post_3598.html?utm_source=rss20&utm_medium=rss


 東野さんの答えは、単純です。


 「そら、人間が滅びるからやろ」


 私もそう思います。

 
 人間を殺すことが善であれば、人類が滅びることを肯定することになります。

 滅びたくなければ、殺してはならない。


 というのは、明快ですね。


==========

 さて、実は、私は18歳ぐらいの時に、この問題について、真面目に考えました。東野さんのアプローチとは少し異なりますが、


『人を殺してはいけない、あるいは傷つけてはいけない』という戒律は、本当に人間に最初から絶対的な規範として備わっているのか?

という着想を持ったのです。


 人を殺すな、という不文律は、今では明確すぎて、この発想の意味がよくわからないかもしれません。それほど、他者を傷つけないことは、「当然」のこととなっています。


 しかし、私が考えたのは、次のようなことでした。

「たとえば、ハムラビ法典などで、王や支配者から『戒律』が下のものに与えられたとして、その時、王が言った内容は『その当時の人にとっても当たり前』のことだったから戒律になったのか、それとも『その当時の人にとっては、当たり前じゃなかった』から戒律にして制止したのか、どちらなのか」

という疑問です。

 まだ、わかりにくいですね。



 前者は、「みんな殺してはいけないとわかっていたけど、あえて王様が「殺すな」という命令を出した」という観点です。



 後者は、「あまりにも、人々が平然と殺しまくっていたので、「それはやめろ」と禁止した」という観点です。



 さあ、一体どちらなのでしょう。


(ちなみに、ハムラビ法典には「人を殺してはいけない」とは書いていません。むしろ、「いろんな悪事を働いたり、ルールを守らなければ殺す」と書いています。)

 

 西洋の世界で、「殺してはならない」が当然だと受け止められている背景は、もう少し複雑です。聖書において、アブラハムの民が(つまりユダヤ人が)一番最初に神から与えられた戒律が「モーセの十戒」と呼ばれるもので、この中に

「殺してはならない」

という条項があります。

 ということは、神が命じていることなのだから、人類は「当然」守らなければならない、という解釈になり、「神の命令なので当たり前」ということになります。

 つまり、神の子である私たちには、その命令が、どちらかと言うと最初から備わっているに近いわけです。

 そうなると、西洋文明がはびこってしまった現代では、その価値観が広まって、「人を殺してはいけないのは当然」という感覚が現代人には刷り込まれてしまうのですが、ハムラビ法典などでは、

「盗むな」
「嘘つくな」

などはガンガン書いてあるのに、逆に、それを守らない者は「殺されなくてはならない」と書いてあるので、

殺すことはOK

だと考えていることがわかるのです。


==========

 さて、ユダヤ教・キリスト教の神が「殺すな」と命令してしまったので、「殺してはならない」が当たり前に感じられてしまう昨今ですが、現実の世界においては、人間は人間を殺しまくっています。

 地域、宗教・歴史・時代のどの場面においても、事実としての人は人を殺します。


 そんな状況において、「なぜ、人は人を殺してはいけない」とヒトが考えるのかは、とても単純明快です。

 それは、東野幸治さんの答えと本質的には同じですが、


「人は殺されたくないから、殺してはいけないと感じる」


のです。


(人が殺していいとすれば、最後には人はいなくなります。人を殺していけないのであれば、人は増え続けられます)


 ここで、もう一つの明解なルールがあります。これも単純なルールです。


「殺されそうになったら、相手を殺すのは良い」


 この2つの命題は、実はセットです。「なぜ人を殺していけないのですか?」 という問いには、実はこの2つをセットにして答えるとわかりやすいのです。




Q「戦争では、人を殺すことが良しとされます。それなのに、なぜ人を殺してはいけないのですか?」

A「人を殺すのはいけません。しかし、相手が私たちを殺そうとしているときに、相手を殺すのはOKです(だから戦争で人を殺してもOKなのです)」




Q「テロリストを殺すのは、罪ですか?」

A「相手が危害を加えようとしている人であれば、それを止めるために殺すことはかまいません」




Q「暴走車両が、次々に人をはねながらこちらへ向かってきます。銃を持った男が降りてきました」

A「アメリカでは、警察に包囲された彼は、射殺されます」


(日本国内にも、正当防衛という考え方があります)


 ね?現実の世界では、この2つのルールに基づいて善悪が運用されているわけです。


==========

 
 エンターテイメント解脱的には、


「殺すに良いも悪いもない。ただ、人は現象としてかなり殺す存在だ」


と捉えます。

 そう、このヒトという生き物は、かなり殺します。毎日、世界中で、山ほどのヒト同士が、殺しあう生態を持っています。


 それは、

「カッコウの雛が、他の鳥の子供に紛れて他の雛の卵を巣の外に突き落として殺すのは、なぜ悪いのですか?」

と尋ねているのと同じで、


「いいとか、悪いとか以前に、カッコウはそういう習性を持っている」


と答えざるを得ないのと同じです。


 そして、カッコウはそのことをあまり気にしていないかもしれませんが、ヒトは、できるならばそうした習性をコントロールしたいなあ、と思う傾向にあるようです。

 
 もしかしたら、カッコウだって悩みながら突き落としているかもしれません。


 いやいや、カッコウも実は人とおなじルールに従って殺していると思うのですが、どうでしょう。

 つまり、カッコウは、自分が生き残る確率を最大にするために、他の鳥の卵を落としているのです。そう、あの二つ目のルールです。他の鳥にエサが行くことで、自分の生の確率が減るのならば、相手を叩き落としていいと考えているとしたら!




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 さて、このお話。今回は「殺してはいけない」の部分だけ着目しましたが、もう少し奥が深いです。

ただ、説明が多少難しくなりますので、次の記事で補足だけしておきます。

 難しい話が嫌な人は、飛ばしてくださっても大丈夫です。


 次の話では、カッコウが生き残る確率を最大にする、というところを掘り下げます。つまり、自己が残ることを最大化する、という観点ですね。




2014年2月3日月曜日

<日常>承認欲求なることば

 みなさん、おはこんばんちは。

 誰からも愛されない孤高の聖人、武庫川散歩です。


 今日も、日常的なお話を少々。巷では「承認欲求」なることばが流行しているらしく、


『いいね、を求める現代の若者の病理』

とか

『承認欲求が満たされないメンヘラちゃん』

とか

『承認欲求の発現こそ中二病』


みたいな話がさんざん、あちこちで噂されています。あなたも好きね。


 まあ、このネタを叩いている人もいるし、このネタで盛り上がっている人もいるので、好きにすればいいのですが、一応、武庫川散歩的にも「承認欲求について」まとめておきましょう。


 そもそも、「おまえだってこんなブログを書いているのは、誰かに認められたいからだろ?」なんて言いがかりをつけてくる人がいそうなものですが、私の場合はセカイの片隅でひっそりと絶滅危惧種的にこれを書いていますので、あんまり気にしていません。

 別に認められる必要はないのです。そんなことを求めていては悟りは開けません。ま○こくらいは、がっつり開きますよ。まなこ(眼)です。くわっ!


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 さて、人間は自分を認めるときに、自然勝手に自己を認めることはかなり難しいものです。そこで、手っ取り早いのは、他者から認められることで、自分を認知するという方法がどうしても先行してしまうのでしょう。


 俺はすごい!


とある日突然認識するヤツがいたら、かなり危ないか、友達になりたくないタイプですが、足が速くて、「誰それちゃんはすごいねえ」と褒めてもらったので「ああ、僕はすごいんだ」と思うくらいは全然OKじゃないでしょうか。


 なので、他者に対する承認欲求くらいは生物的にけっこう当たり前に備わっています。


 そもそも赤ちゃんの段階で、


「泣きわめく」 → 「俺に気付け!気付いてくれ!」 → 「乳をすわせてくれ!」 → 「母親が授乳してくれて満足」
 

 というプロセスが必須なんですから、生まれたばかりなのに、くねくねと母親をよじ登ってにこやかな顔で乳房に吸い付く赤ちゃんがいたら、それは妖怪だと思って打ち殺したほうがいいです。

 というわけで、人は基本的に、他者に対して「承認欲求」を持つものなのです。ここにいることを気付いてくれないなら、ごはんが食べられないわけですから、そこはガツガツいきます。



 私も、もちろん承認欲求がありました。で、たぶん中二病的な部分もあっただろうし、特に異性によく思われたいと思ったこともあっただろうし、学業や仕事をする上で、「他者からあいつはすごいな」と思われたくて努力をしたこともあったでしょう。

 まあ、それはそれでそれなりの結果を残したので、モチベーションがあり、努力があり、そして結果につながることは、このセカイにおいては、「まあ、基本的に良きこと」なのではないでしょうか。


 でもまあ、「悟りを開いた」後については、取り立てて誰かに承認してほしいから何かをする、ということがなくなりました。それよりも、生きることや何かをすることは「面白そうだからする」という感覚のほうが近いと思います。

 なので、他者からどう思われようが、最近はあまり気にしません。

 ちょっと加齢臭がしていようが、鼻毛が出ていようが、後頭部がうすら寂しかろうが、全然気にしません!

 解脱は、頭皮から!という言葉もあるくらいです。(さっき、作った)


 冗談はさておき、その物事の本質に直接向き合うことは「楽しい」のです。


 たとえば、仕事上で誰かに理不尽なことで怒鳴られたりしても、「なんでこのおっさん怒ってるんやろ」というところに目が向くと実に面白い。彼がふだん、元請のおっさんにどんな風に怒鳴られているかがわかって同情の余地があります。

 仮に、本当に私が誤っている場合は、純粋に申し訳なく思うだけです。こころより哀悼の意を述べさせていただきます。

 このセカイがそもそも間違っていてロクでもないのですから、少々のことではビクともしませんよ。


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 話をすこし元に戻します。「悟りをひらく」と、他者との関わりではなく、自己とセカイとの関わりにおいてこの世界を認知するようになるので、「承認」そのものにはあまり関心がなくなります。

「みんな!俺をみてくれ!俺ってかっこいいだろう!」

というのが承認欲求だとしたら、

「俺、今何億円も貯金が出来たんだ。うひひ。誰にも言わないけどね、うへへへ」

というのがサトリです。

 自分だけが納得していて、自分だけが楽しくて、性的な意味じゃなくいやらしい世界。それが悟りなのです。

 ああ、そうそう。宝くじが当たった人が、仕事でどんな嫌なことがあっても、「まあ、気にならないわ」と心豊かににこやかになってしまうのと同じです(笑)
 たとえ、どんなに人に認められなくても、自分で笑いが止まらないのと似ています。


 その基準が「お金」なのではなく、「このセカイに対する認識」を持って心がおおらかになっているだけなのです。

 宝くじの場合は、使ってしまえば貧しく元にもどりますが、「悟り」は減りませんので、いつまでも幸せです。

 まあ、わかりやすく下世話な例で説明しましたが、これはブッダもおなじことを体験しているので、そっとしておいてください。


 悟りを開いたブッダは、7日間×3=合計21日間、自分ひとりで「悟りを開いた楽しみを味わい」ます。そう仏典に書いてあるのだから間違いない。

 21日間、自分だけ心の通帳を見ながら「ウヒウヒ」喜んでいたのですから、かなりの変態です。

 
 ブッダの場合、それから「これは誰にも教えてあげないもんね」と最初思うのですが、神様が現れて「いやいや、みんなに教えてやれ」と言うので、仏教を広めることにした、といいます。


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 さて、しょーもない話が長くなったので、現在「承認欲求」に苦しんでいる人に向けて、メッセージを発しておきましょう。

 まず、承認欲求を満たす、満たさないの議論は、たいていの場合「今。この時。この瞬間。今でしょ!」という時間的な狭さを伴います。



 いいね!の数が、1年後に増えていることに、誰も関心を示しません。

 youtubeの再生回数が、3年後に10万回を超えることよりも、今1万回いくことのほうが嬉しいです。

 「可愛いね」と、明日学校で言われるかどうかが問題で、「おばあちゃん美人だったね」と孫に言われても無意味なのです。



 つまり、問題を引き起こす承認欲求とは、「今、認められたい」ということに他なりません。


 健全な承認欲求は、長い時間と相関します。つまり、「認められたいから頑張る」「頑張って後で結果がついてくる」というプロセスです。


 このことから、「健全な承認欲求」は時間がかかってもOK。短期に成立しないと気にくわないのは、「問題のある承認欲求」だと分類できます。

 まずは、自分で、この分類を仕分けしてみてください。


 そして、問題のある承認欲求を持つ妙齢の女子の場合は、もう私が今すぐ認めてあげますから、当ブログのコメント欄にでも何かメッセージをください。

「とっても可愛いよ。今晩、いやもう今からすぐにでもご飯食べにいこう!」

とメールを返信してあげます。承認するったら承認する!間違いなし!


 問題のある承認欲求を持つ、加齢の男子の場合は、facebookのアドレスでも晒してくれたら、なるべく早いうちに「いいね」押しといてあげます。


 なーんて。


2014年2月1日土曜日

■<9>人はどこから来て、どこへ行くのですか? ~人類の根源的悩み~

 みなさん、おはこんばんちは。

 セカイでもっとも面白い「悟り」をめざして今日も覚醒中の武庫川散歩です。瞑想なんかしません。

 
 さて、今日は、宗教や哲学めいたことを考える人が、必ず一度は考える問いについて、書いてみようと思っています。


 Q「人はどこから来て、どこへ行くのですか?」


 まあ、たいていこういうことを考えるときに、「ただの宗教かぶれ、哲学かぶれ」の人は、本気でそれを探したことはありません。

 なんとなく、神様が創ったとか、宇宙の意識がどうしたとか、サルから進化したとか、いろんなことをごちゃごちゃ抜かしてけつかりますが、「大きく、ざっくりと」そんなことを想像してみるだけで、ホントにどこから来たのか、についてはほったらかしにして今日も明日も生きているのが実情です。


 ですから、今回は、ガチで特に「どこから来て」の部分から攻めていきます!


 あなたが、どこから来たのか。


 まず、当然ですが、あなたにはお父さんとお母さんがいます。今流行のDNA鑑定をした結果、実の両親と育ての両親が違うことはありえますが、とにかく生物学的に父親と母親が存在することは事実です。

 で、たぶん、これを読んでいる人の中に試験管ベビーで人工授精で生まれた人がいる確率はものすごく低いので、とりあえずは普通の両親の元で育った人を想定してみます。



 まず、市役所へ行って、戸籍を取ってきてください。本籍地と住居地(住民票のあるとこ)が異なる場合は、本籍地の市役所へ行って、自分の戸籍を取ってください。

 そして、お父さんの名前とお母さんの名前が、ホントにあなたと一緒に暮らしているその人たちかどうかを確認しましょう。あるいは「養子縁組がなされているか」どうかもチェックしておきましょう。


 この時点で、実のお父さんが違ったり、実は養女になってたりすることが初めてわかったあなた!あなたの場合は、「人がどこから来て」とか言ってる余裕はなく、自分のことで精一杯になるはずですから、すぐこのブログを開いているパソコンやスマホを閉じて

 自分の本当の親について悩んでください。


 宇宙の成り立ちとか、そんなんどうでもいいのです。あなたの成り立ちとこれからの家族の行く末のほうがよっぽど心配です!


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 さて、運良く「開けてはいけなかったパンドラの箱」に出くわさず、戸籍上のお父さんとお母さんの名前がいつも知っているあの人たちと無事に一致したあなた。あなたは次のステップに進みましょう。

戸籍係の人に

「私の直系尊属について遡りたいので、可能な限り先祖の『除籍謄本』もしくは『改製原戸籍』を出してください」

とお願いします。一通あたり750円とられますので、数千円の出費は覚悟しておくほうがいいでしょう。

 これで、うまくいけば、あなたのご先祖を辿れるだけたどることができます。


 あなた → 父 → 祖父 → 曽祖父 → 高祖父 → それ以上

 平 成 → 昭和 → 大正 → 明 治 → 江戸時代 → 江戸時代


 戸籍は、一族の引越しなどで移転していることもあります。もし、移転がわかったら、そこから先は移転する前の市役所でおなじ手続きをしなくてはなりませんので要注意です。


 私の場合は、高祖父まで辿れました。江戸時代末期の人です。母方の方も、同じように辿ることができます。


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 仮に、江戸時代のご先祖が「五右衛門」さんだったとわかったとしましょう。残念ながら、私は五右衛門がどんな生き方をしたとか、どんな思いで子供を作ったとか、実は虐待していたとか、実は愛人がいて実の子を無視していたとか、そんなことは


 さっぱりわからない


のです。完全に、実のおじいちゃんのおじいちゃんでありながら、その人のことなんて、これっぽっちもわかりゃしねえ!

 その村で庄屋をしていたとか、何か業績めいたことがあれば、かすかに五右衛門のことはわかるかもしれませんが、それでも、五右衛門が「何を考えて生きていたか」なんて、まるっとごりっとさっぱり意味不明なのです。


 ということは、「あなたがどんな生き方をしようが、どんな暮らしぶりだったり、どんなことを考えていても、孫の孫くらいになると、誰も気にしなくなる」ということです。


 これが、あなたのこれから行く未来です。


 そもそも、そのおじいちゃんのおじいちゃんの名前すら、今回はじめてあなたは知るわけですから、未来の孫の孫があなたの名前を調べようとすら思わない確率のほうが、高いと思いますよ。


 仮に、あなたが将来「天国へ行きたい」とか、「神の国に生まれ変わるんだ」とか「来世はいい人生が送りたい」とか思っていたとしても、そこへ到達する以前に血のつながった孫の子とか孫の孫あたりで、すでに「あんたのことはどうでもいい」のです。


 これが実態なのですから、仕方がない。


 あるいは、ふだんから「先祖を敬いなさい」とか「神社を拝もう」とか思っているあなた。そんな遥か昔のこと以前に、直接の先祖のことを調べもしないで、だいたい直系の先祖の名前すら知らないのに、

 えらそうなこと言うなこのバチ当たりめ!


とまずは五右衛門が怒っているはずだと思うのは間違っていますか?


 もっと、恐ろしいことに「あたし仕事のほうが好きだから、子供はもうちょっと後にするわ」と思っていて、実際三十後半になって焦って結婚して不妊治療をしたけれど時既に遅しだった人は、どうしたらいいんですか。

 その人の遺伝子は、そこで途絶えるわけです。孫の孫どころの騒ぎじゃない。あなたが生きた業績を伝えてくれる人なんで、そこでいなくなるのです。




 ちなみに、今回ガチでお届けしたこの話題ですが、私の場合は戸籍上わかる先祖が江戸時代の高祖父まで。それより昔のことは某藩の藩士の名簿を専門古書店で1万8千円も出して購入し、同じ先祖の一族が名簿に上がっていることまで確認し、さらに、国立国会図書館にある江戸幕府の幕臣名簿まで詳細に調べ挙げた結果、室町時代に関西の某地域から出た一族の出身であることまで突き止めました。

 それでもせいぜい700年前です。人類誕生には及びもしないが、私個人でできるところまでは、やった!やりきったぜご先祖さま!


 とまあ、ここまでやってはじめて神様かご先祖さまか知らんけど「なかなか、おまえは本気だね。ワシらのことをよく調べてくれた。ほめて使わそう」と言ってもらえると思うのですがどうでしょう。

 
 いいですか?あなたが信仰する神は、ガチであなたの信仰を試してるんです。

 口先だけでそれらしいことを言ってるだけの大半のやつは


 あんた、地獄に落ちるわよ!


 なーんて。