2015年5月30日土曜日

ついに中島義道が本音を語りだした! なかなかに興味深い”哲学塾からこんにちは”最新話!

 東洋経済オンラインでの、われらが中島義道の連載が、面白いことになっているので、またまたまた紹介したのですが、いいでしょうか。

 

 「極東の国民にとって西洋哲学とは何か」
  http://toyokeizai.net/articles/-/70907



 この連載、「哲学塾からこんにちは」という毎度毎度の「中島センセイが好き勝手言うシリーズ」の最新話なのですが、よくよく読んで見ると、


 あえての逆ギレ


状態の中島センセイを見ることができて、大変に楽しいったらありゃしない。


 さあ、中島センセイに何が起こっているのでしょうか?!


 なんと言っても稀代の哲学者ですから、わざとわけがわからないように小難しく書いておられますが、おっしゃりたいことはとってもカンタンなので、解説つきで勝手にお届けしようと思います。


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 まず、しょっぱなのところ。東洋経済オンラインの連載を読んで、「哲学塾カント」なる中島センセイの私塾に入塾希望者がやってくるので、彼らに、


 ガツン!


とかましておこうというのが、センセイの意図だと思われます。


 おまいら、哲学をなめんじゃねえぞ、コラ!


と。


 これが一体どういうことかといえば、そもそも「哲学というのは自分の生き方やありようについて考える」行為ですから、




「これがワシじゃあああ!」とか「これが命なんじゃああ!!」とか「これがセカイなんじゃああ!!!」



という発見は、人それぞれ好き勝手千差万別であろう、ということは誰にでもわかりますね。


 ということは、哲学をするということは、すなわち「好き勝手する」ということでもあるので、中島センセイの「哲学塾カント」というところは


中島義道が好き勝手するところ


だということになります。





 しかし、それではあまりに不親切であり、中島義道の好き勝手に対して、何か「あらぬ誤解や期待をしてやってくる人がいたら、それはかわいそうなので」いちおう、中島センセイとしては


ワシの好き勝手なルールは、こんな手法です。


と今回の記事であらかじめ宣言してくれているわけです。


 つまり、「あんたらが勝手に思い描いているようなルールで哲学したり、哲学塾カントに来ることによって、哲学的な何かひらめきやズッキュンな体験が得られるわけでは、まったくない」ということを最初に宣言しているわけですね。


 じゃあ、中島センセイの言うところの「好き勝手なルール」というのはどういうことか。それは、


「ワシの方法論は、言語理性論理のカタマリである、バリバリの西洋哲学をじわじわとネチネチと、それはもうぬったりべったりやるけど、それでもいいやつだけ来い!」


ということで、


「それ以外の淡い期待を抱いているやつは、お前が勝手に好きにすればいい!」


ということをつまりはおっしゃりたいわけです。純粋哲学をなめるな、と。



 そういうわけで、だいたい概ね「神様ってふわふわしていて、どこかお空にいるんだよね」とか、「すべてのものには魂が宿ってるんでしょ」とか、「幸せってなんだろうね」とか、そういういかにも東洋的なお花畑な哲学観念はどうでもいいのじゃ!そうじゃなくて、純粋な


 西洋哲学とは何かについて、そもそもおまいら何にもわかっちゃいねえ!


ということを怒号とともに語っておられる、というわけ(笑)



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 じゃあ、中島センセイは何をもって哲学だというのか。

 キリスト教と対峙した武庫川散歩がかみくだいていうなれば、それはもうヨハネ福音書のしょっぱなである

「はじめに言葉があり、言葉は神であった」

というアレですよ、あれ。ロゴスと神と存在の話です。

 その基本中の基本からゴリゴリやるで!ということです。


 中島センセイの話の中で「サルトルは神になりたかったみたい」という部分が出てきますが、あれまあ武庫川散歩少年も、実はそうだったのですよ。


 私は、神と対峙することで、神と同等になろうとした、いや神を乗り越えたかったのです。あのとき(うふふ)


 そのあたりは、私の哲学では、ロゴス=論理であり、ギリシア哲学で言うところの「発せられた言葉」というのはつまりプログラミングされて存在するプログラムそのものであり、言葉と文字の違いは


「プログラムされた論理は、(たとえプログラムされたという受身でないとしても)、ROMに書き込まれようが、電源が入らないままであろうが、論理構成として思い浮かんだ(たとえ人や神の主体によって思い描かず、勝手に生まれたとしても)時点でたしかにそこに存在する」

という話になるわけで。

(ああ、なんのことを言ってるのかさっぱりわからんだろうなあ)


↑まあ、このあたりは一般人は気にしないでください。理解したい人は弟子に立候補すべし。









2015年5月13日水曜日

自殺してもいいですか? それとも どうして自殺してはいけないのですか?

 いつも明るく楽しい解脱ライフについてお伝えしている当ブログであるが、今回はいつもにも増して真面目に、神妙な顔つきで書いてみたいことがある。


 自殺したい


と思ったことがあったり、あるいは今まさにこの瞬間にも、


 自殺しよう


としている人がいることは、言うまでもない。


 もちろん、その人たちの悩みは千差万別であろうし、一介の解脱者ごときの私に、その人たちの自殺を止めることができるような力があるとは謙遜して思わないのだが、もし、何かの偶然もしくは神の導きによってこのブログを見た人には、こんなお話をしておきたい。



 もし、


 「自殺してもいいですか?」


と尋ねられたら、悟りを開ききったワタクシ武庫川散歩の「勝手に人生相談」のコーナーであればなんと回答することだろう。


 万物は流離流転の無常であるのなら、自殺のひとつやふたつ、いまさら良いも悪いもないだろう、というのが解脱者の本音でもある。



「好きにすればいいじゃないか。それもまた無常なり」


と念仏か題目かしらんが、唱えてやってアーメンとでも嘯くところなのだが、いやいや、ちょっと今日は違うことをお話したい。


 あるいは、こんな質問もあるかもしれない。



「どうして自殺してはいけないのですか?」


と。 


 ちなみに、自殺してはいけないという考えは、一般論としての常識ではあるが、厳密に言えば自殺してはいけないなんてことはない。


 別にしてもいい。してしまうこともあるし、せざるを得ないこともある。


 たとえば、宗教的価値観によって自爆テロを行う人間はたくさんいるし、彼らはその属している集団には褒められることだろう。


 あるいは、何か過失であっても何か他人を傷つけてしまい、その自責の念から死を選んでしまうこともあるだろう。


 その昔、闇米を買わないと決めて餓死した正義の裁判官がいたとも聞く。


 あるいは借金で回りに迷惑をかけた社長さんが、保険金で支払おうとすることだって良くある話である。


 ああ、もう!究極的に心が弱い状態になってしまい、どうしようもなくて死を選ぶことだってたくさんあるのだから、少なくとも私には


「自殺をしてはいけない」


という権利はない。


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 それでもなお、このページを見てしまったあなたにしっておいてほしいことが少しだけある。


 それはカンタンなデータだ。



<1>日本においてガンで死ぬ人の数


 厚生労働省によれば
 http://www.mhlw.go.jp/seisaku/24.html


日本人でガンになって死ぬ人数は、年間に30万人以上ということである。


 ちなみに、一般的に言われてみなさんも知っているはずの、「年間の自殺者の数」は3万人なので、10倍の人がガンで亡くなっているんだなあ、と思っていただければいい。



 そして、このガンによる死亡が、日本人の死因の第一位であることを、とりあえず頭にいれておいてほしい。



<2>死因の順位は


 では、日本人の死因はそれからどんなことが挙げられるのか。もうちょっとだけお付き合い願いたい。


 これまた厚生労働省によれば
 http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/suii09/deth8.html



 第二位 心臓疾患 18万人

 第三位 脳梗塞・脳卒中 12万人

 第四位 肺炎 11万人

 第五位 老衰 3万8千人



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 しかし、ここには隠された真実がある、ということをお知らせしておこう。本当は、日本人の死因の原因は、こんなのじゃないのだ。



 http://www.sendai-l.jp/chousa/pdf_file/7/7-1/7_1_4c.pdf#search='%E4%BA%BA%E5%B7%A5%E5%A6%8A%E5%A8%A0%E4%B8%AD%E7%B5%B6%E6%95%B0'



 上のリンクを見て欲しい。ウイルスとか仕込んでいないので大丈夫。安心してクリックしてくれれば、意外なことに気付くはず。





 そう、日本人の死因のほとんど第二位、あるいは第一位に届きそうなその実態、その真実は、










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・・・・・







人工妊娠中絶による堕胎 20万人から28万人


なのである。




 死ぬ、どころか、生まれてくる前に殺されているのである。




 そもそも、生まれてこれていないのだ。




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 今から自殺しようと思っているあなたに、これだけは知っておいてほしかった。



 あなたの人生は、とてつもなく苦しく、たいへんなものであったろうが、そして、それは誰にも理解されないような重いものであったかもしれないが、



 そもそも、人生を生きるチャンスが与えられていないものたちから見たら、チャンスがあっただけはるかにラッキーだった


ということになる。



 
 あなたの親は、ふつうの家庭からみればろくでもない親失格の存在だったかもしれないし、親にたいして恨みつらみもあるだろうが、



 あなたを殺すという選択をしなかったことだけは、理解してほしい



と心から願う。





 少なくとも、あなたはこの20万人の生まれなかった人たちの親よりは、愛されており、恵まれていたということをしっかり覚えてほしい。



 そして、そこから先は、あなたの自由だ。



 私はもう、何も言うことはないので、さようなら、とだけ伝えておく。


 お元気で、というのもなんだか変だしね(^^;








 


2015年5月9日土曜日

<日常>清く正しく美しいメンヘラのための漫画 ~「ゆがみちゃん」を読む~

 GWが終わると、なんということでしょう!もうすぐそこに梅雨がやってきているというではあーりませんか!

 今年は、本当に雨が多くて、心も体も鬱々しそうです。なーんてね。どうもどうも、あなたの心の恵みの雨になりたい武庫川散歩です。


 さて、毒親に育てられてしまって、心がわさわさしながら大きくなった少女「ゆがみちゃん」の物語が、反響を呼んでいるようです。



 『ゆがみちゃん』
 https://note.mu/yugami/m/m38335f44dc81


 ☆現在は完結。35話まであり、けっこう長いです。



 まー、なんというか。極端にややこしい親に育てられられたりしたせいで、いろいろと心がゆがんでしまったゆがみちゃんですが、いろんな行動や、いろんな人との出会いで、少しずつそうした問題を解決してゆく壮大な物語になっています。


 自称他称を問わず、メンヘラ傾向のある方は、一度ご覧になると、いろんな感想が生まれることでしょう。

 もちろん、感想はお読みになったみなさんの自由ですが、ここでは、


 解脱者武庫川散歩から、いくつかのポイントを指摘しておきたい


と思います。

 まず、この漫画は、実際の「ゆがみちゃん」の家庭がどうだったか、を問うべきものではありません。漫画はゆがみちゃんのモデルである作者自身の目線から見た「家族像・友人像・環境像」ですから、真実を問い直すのであれば


 かなりバイアスがかかっている可能性を差っぴかなくては


なりません。これが、裁判であれば、ゆがみちゃん側の主張も、親や友達側の主張も、公平に傾聴して物事の

「よしあし」

を判定しなくてはなりませんが、 そうなると、この漫画には、ゆがみちゃんの一方的解釈が多すぎるということになるでしょう。


 しかし、ここではそれを問題にしない、ということが大事だと思います。


 どういうことか?!


 大事なことは「心に闇を抱えた人間は、事実はどうあれ、このような視点で物事を捉えて、そして行動する」という、ベースの部分を理解し、そして、

 「そのメンタルを、一般社会とすり合わせたり、コミュニケートしてゆくには、どうやって認知を改めればいいか」

という方法を指し示していることを理解すればいいのです。


 これはとっても大事なことだと、解脱者☆武庫川散歩は考えます。


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 以前、

 http://satori-awake.blogspot.jp/2014/03/blog-post_29.html


の記事で、「ストーカー被害を訴える女性の話」を紹介したと思いますが、某精神科のセンセイによれば、もしかすると


「ゆがみちゃんの物語は、ゆがみちゃんの壮大な誇大妄想という病気である」


と想定することも可能です。その場合は、前述の裁判のように


「何が真実で、何が誤りかを判定しなくてはならない」

 
ことになってしまいますよね?


 ところが、ゆがみちゃんの物語がもし誇大妄想だとしても、その妄想の中で「いわゆる世間と、まっとうなコミュニケーションがとれるような気づきや変化までがセットになっていて、その通りに行動できてしまう」のだとすれば、それはそれで


 世間的には、全然問題がない


ということになるわけです。ここが面白いところ!


 「最終的に、世間ときちんとコミュニケートできる人格が完成できるのであれば、そのプロセスや定義がゆがんでいても、とりあえずはいいじゃん」


とするわけです。



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 私がこれまでにたくさん問題のある方と接してきた経験からみると、「ゆがみちゃん」は、自身で到達や解決できていない問題がいくつかまだあります。

(もちろん、まんがのゆがみちゃんに対してですよ!作者さんに対してではありません)


 それは、「愛することとはどういうことか」という点であったり、「仕事を変わりすぎており、またそこにかならず会社の環境を批判する正当化が伴う」という点であったり、「自分に都合のいい人間は善で、そうでなければ悪という認知のパターン」であったり、まあいろいろありそうです。


 この世界のすべての人間は「善悪を併せ持つ、混沌とした心」を持っています。また、表面に現れる生き様もそうなので、その状態で人は人と接していかなくてはなりません。


 しかし、ゆがみちゃんの認知にかかれば、

「そういうことを言うのは、そういうことしか言わないうわっつらだけの世間の人」

ということになり、

「そういうことを言わないのが、私をわかってくれるいい人」

ということになりますから、その時点で決定権がゆがみちゃんにもっていかれることになります。


(この考え方に陥るのは、宗教家庭に育っているからですね。ワタクシもそうだったので、よくわかります。世間の人間を「神の側にある存在」と「悪魔の側にある存在」というふうに分けてみる癖がつくのです)

 ゆがみちゃんの話には、「悪い人たち」と「出合った中でのいい人たち」がけっこうくっきり登場します。これは、特徴的な描き方だと思います。



・・・しかし、その辺を議論するのがこの記事の本来の目的ではなく、そういう


「ゆがんだ認知の人が、なんとかこの世界と折り合いをつけてゆくためのヒント」


としては、大変に有益だと思うわけです。


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 そういうわけで、メンヘラのみなさんにも、一読をお勧めするわけですが、超越後のゆがみちゃんには、ぜひ


 愛すること、愛されることとはどういうことか


について、最後の発見をしてほししなあ、と思う次第。お幸せに。






 

2015年5月7日木曜日

<日常>帰ってきた勝手に人生相談シリーズ! その6 「ブサイクすぎて働けません」

 ゴールデンウィークも無事に終わり、ゴールデンボールが蒸し暑くなってきた季節ですが、みなさまいかがお過ごしでしょうか?

 稀代の解脱者、武庫川散歩です。こんにちは。



 最近、書いてなかったので、今回は久しぶりに「勝手に人生相談シリーズ」をお届けします。このシリーズは、誰にも依頼されていないのに、あくまでも独断と偏見に基づいて勝手に人生相談に答えるという完全におせっかいに等しい独白のコーナーです。



 さて、今回の悩みは


「私は、ブサイクすぎて働けません。もう4年も仕事をしていません」


というもの、元ネタは、

http://blogos.com/article/111530/


にあります。


 働けないポイントは、「笑われたり、悪口を言われたりするのが嫌で働くことができません。」

ということのようです。いったいどうすればいいのか!


 悟りを開ききった解脱者の武庫川散歩が、今日も明解に回答してみましょう。


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 まず、4年も仕事をしないで食べていけていることを、素晴らしいと思います。私なんか、仕事しないとたぶん半年も家計が持ちません。


 仏教的には、その環境にいられることが、まず感謝です。ご実家におられるのか、あるいは、親からの扶助があるのかもしれませんが、親御さんの金銭的な負担は、大変なものであろうと想像できます。


 なんと言っても、4年も働かない同居人がいるのですから!


 ということは、まず基本中の基本として


「ブサイクに生まれてしまったことを親に対して恨むべきか、それとも、今でも生活を支えてくれることを感謝すべきか」


どちらが、より重たいのか、親が究極的に悪いのか悪くないのか、をまず議論するべきだと思います!


 「いや、そこは問題ではないのです」

と遠慮なさるかもしれませんが、あなたは、「自分をブサイクだと断定なさっている」わけですから、ブサイクの原因についてまずは徹底追求するべきです!誰がなんといっても、そのブサイクの原因は、親にあるとしか考えられないのですから!!!!!



 それともなんですか?親には感謝してるし、自分がブサイクだということは、それなりに受け入れているということですか?


 では、自分の親のせいでブサイクに生まれたということを、あなたは責任追及せずに、とりあえず、受け止めるということでいいんですね?

 ブサイクであること自体には、文句はありませんね?!

 では、ここまでは定義終了です。


 ブサイクでも、かまわない。親には感謝している。と。


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 では、次の段階へ行きましょう。


 自認するくらいブサイクなあなたに、愛情を注いでくれている両親のもとで、ぬくぬくと育っておられるあなたは、「会社にいけば、顔を笑われる」という理由で仕事ができないようですね。


 いや、その前に、まず議論すべきことがあるでしょう。


「ブサイクなのに、変わらぬ愛情を注いでくれる両親のもとにいながら、それでもぬくぬくと実家から出ず仕事をしない娘」に対して、近所のみなさんが


「やあねえ、あそこの娘さん。4年もひきこもっているのよ」

とか

「まあ、恥ずかしいわ」

とか、


そっちのほうを笑ったり、悪口を言ったりしていることになぜ気付かないのですか?


 あなたが家にいることのほうが、よっぽど世間体がブサイクであることに、一刻も早く気付くべきではありませんか?



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 さあ、ここで第三段階に進みます。


「世間体がブサイクなのと、顔がブサイクなのと、どっちがよりブサイクか」


徹底的に議論してみましょう!さあ、ほれ!ほれ!



 ・・・まあ、だいたいこのへんくらいで、いいでしょう。そろそろあなたの脳みその中で、


「ブサイクブサイク言うなーーーーーーーーーーーっ!!!!!」


と叫び出す頃でしょう。そうでなければ、「まったくもって武庫川さんの言うとおりです。私が悪うございました」とひれ伏しているはずですから。



 それでいいのです。本当に恐ろしいのは、顔がブサイクになることでなく、


 心がブサイクになること


なのですから。



 仮に、あなたの言うとおり、100%ブサイク認定しながら話を進めると、上のようなことになってしまうわけです。

 ということは、100%ブサイク認定しながら話をする、なんてことそのものが成り立たないのです。



 だとすれば、働けない原因は「ブサイク」だからではなく、


「否定されたり、嘲笑されることが嫌だ」


ということに他なりません。



 そうなると、誰だって否定されたり、嘲笑されたりするのは嫌なのですから、根源的な問題は、


「他者と向き合うのを、どう乗り越えてゆくか」


という点に他ならないわけです。



 では、「他者ときちんと向き合えず、4年間働いていない人」はどうしたらいいのでしょう。


 別に働きたかったら働けばいいし、働きたくなければ、そうすればいいのです。基本的には、すべての問題は「あなた自身」の問題に過ぎません。


 誰も代わってくれるわけではありませんので、解脱者的には好きにしはったらかまわない。


 あとは、自分がどうするかだけです。自分が変わるのか、変われないのか。変わらないまま人生が終わるのか、終わらないのか。


 冤罪で人生の大半を牢獄に押し込められた人たちが、この日本においてもたくさん存在しますが、彼らは自分で何かをしようにもできなかった人たちが大半です。


 国家権力によって、彼らの権利は押し込められていたからです。


 ですが、あなたは今自由です。働かなくても、食べてゆけるくらい、自由の中で生きているのです。


 その自由という世界を牢獄だと思いたければ、思えばいい。好きにしはったらよろしい。


 すべての人は平等に死にます。かならず全員に死がやってきます。


 その間、どのように生きるのかは、その人だけが選択できることです。


 どうぞお好きになさってください。



2015年5月1日金曜日

神と宗教について知るためのヒント ~宗教と進化論~

 最初に宣言しておきますが、今日はまじめです。

 いつもクソふざけて書いているので、一部のコアなファンにはつまらないでしょうが、お許しを。

  普段、このブログで涙あり笑いありのスタイルで書いていることを、淡々とまじめに表現なさっている良い記事が二つあったので、魂の救済を求める

 宗教に対して真摯で、かつ哲学に対してまっすぐ向き合おうとしているあなたに

ご紹介しておきましょう。


<1> 宗教という「不思議なもの」

  ライフネット生命でおなじみの出口治明さんによる、世界中の神様と宗教について知るための良書案内です。

 http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20150427/280463/?P=1

(日経ビジネスさんより)


 宗教の教祖とは、いつも時代の変革者であり、また、苦しむ者たちにこそ一神教は強烈に訴えかけるものとなることなどが説明されています。

 また、アメリカ的プロテスタンティズムの概略について説明があったり、日本はなぜ多神教で平和なのか、あるいはこれからの「神」の概念についてなど、平易で丁寧に説明があります。


 日経ビジネスさんの記事は、一定期間が過ぎるとIDを持たない人は読めなくなるので、無料登録も検討してみてね。




<2>最適者はどこからくるのか?

 今度は、別次元から「神的なもの」についてアプローチした良い記事です。

 http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150425-00010001-wedge-life


 「進化の謎を数学で解く」という本の紹介ですが、この発想は面白い!!!

 もし、神様がいなくて、生物はすべて進化で今の姿になっているのだとしたら、どうして私たちや動物は「最も環境に適した姿」を手に入れることができているのだろう、という疑問が沸くはずです。

 ダーウィンの発想は「最適なものが生き残った」ですが、そう都合よく生き残れるものだろうか、という謎が生まれます。


 死屍累々のハズレとアタリの確率は、どれほどのものになるのだろう


という見方もたしかに数学的ですが、この書ではもっと可能性を広げて、


「たとえば、目の能力を手に入れるには、どんな変化がおきる確率があるのだろう」とか

「たとえば、飛ぶためには、どんな組織や細胞が変化すればいいのだろう。その確率は?」とか


そういう発想で進化を捉えてゆくのです。

 そうすると、「たった一つの大当たりに出くわしたので、生き残った」わけではなく、「思っているよりも高い可能性や確率でその機能を手に入れることができた」んだということが発見されるわけです。数学的にね。



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 まあ、この両方とも、このブログでもいろんな観点からお話していますが、個人的には、記号がユニットを形成するという定義さえしてやれば、けっこう自由に「高機能な細胞組織」や「しくみ」が生み出せるのではないかな、とも思います。

 その意味で、「進化の謎を数学で解く」は面白そう!


 まあ、こんな風にたまにまじめな日もある武庫川散歩でした。ではでは。