2019年12月23日月曜日

救われる技術 ~幸せを掴むための技法~


 まいどおなじみ稀代の解脱者、あ・な・た・の武庫川散歩です。


 2019年の年の瀬も近くなっておりまして、本業の仕事は、です。営業マンがそんなことを言っていてはいけないのかもしれませんが、なんといっても消費増税後の冬場ですから、うちの業界に限らず、どこもかしこもひどい状況ですね。


 こんなときは一休み御休憩は3980円から、と一休さんも言っています。


  あわてない、あわてない。じらさない、じらさない。





・・・・・・とまあ、あいかわらずエロいことを言っていますが、落語のまくらのようなものでございまして、このブログではお約束のネタですから、平にご容赦ください。


 本人はいたってまじめにやっております。



 さて、しばらくほったらかしにしていた、twitterでの、特に宗教2世の人たちについて考えよう、のコーナーをしばらくやっておりまして。


 私がそのむかーしむかし、あるところでやっておりましたエホバの証人の2世の方々が、いろいろ苦労なさっている様子を見ていると、ささやかながら手助けできることがあればいいなあ、と思う次第です。


 そんな中で




 宗教2世をやめるのは早い方がいい。

 10代でやめたらほとんどその後の影響なく幸せになれる 

 20代だとちょっと時間がかかったり周囲に恵まれたら大丈夫 

 30代だと恨みつらみのほうが多くなり復活に時間がかなりかかかる





みたいなことを呟きましたら、かなり反響がありました。



 宗教2世の方々には思うところがあったのでしょうか。


 それと同時に、経済力がないと親から離れにくいとか、そういったリアルな問題もいろいろ出てきたわけですが。




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 ツイッターでは140字しかなくて、あんまり誤解を招いてはいけないので書いていないのですが、実は


「救われる」


ということは、平等でもないし、意外と大変なことだったりしますので、今日はそのお話をしておきたいと思います。


 
 上のツイートでもそうですが、これをぱっと読んで性格の悪い人だと


「なんじゃい。アフラフォーだともう助からんっちゅうんかい!」


と激怒なさるかもしれません。 はっきりとは回答しませんが、ええまあ、そういう部分もあるんですね。



 仮に何かの宗教にどっぷり使っていて、60歳になって放り出されても、どうしようもないでしょう、ということです。ほんとにそうなんですよ。



  救急救命では「トリアージ」という概念がありまして、要するに助かる可能性のある人から、選別して差別して治療に優先順位をつけるということです。


 

  宗教からの脱却も同じで、60歳の人を救うより、10代の子を救ったほうが、未来があるなんてことになってしまいます。つまり、



 救いは平等ではない



のです。



 救われる、ということは、ブッダやイエスではない人間の世界においては、「平等ではない」ということを覚えておくことは重要です。


 それがわからないと、救われるほうも


「あいつはあんなに救われてるのに、あたしはこれだけしか救われていないからずっこいわ」


という感覚に支配されてしまい、本当ならあなたも救われているのに、それをきちんと認められない、というマイナスが生じてしまうのです。


 救われるのに差異があり、差別があるかもしれないということは、「手に入れられる幸せにも、人によって違いや差異や差別がある」ということでもあります。




 これまた同じ話で、「人が得られる幸せは、平等ではない」のです。これも大事です。
 
 


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 救われたり、幸せを手に入れる際、それが平等ではないとすると、実は


「救われる技術」「救われる側の能力」


みたいなものがあるんだ、ということも知っておいて損はないと思います。


  こういうことを書くと、また「そんなん差があるのはずっこいわ!」と言い出す人がいるんですが、まあそういう人は


「救われない」


ので、そっとしておきましょう。とても悲しいことですが、ずっこいずっこい言っている人は、なかなか救われないし、幸せになれないのですね。




 なんでそうなってしまうかと言うと、幸せや救いというのは、



「自分が何を得ているか」「自分が何をプラスとして受け取ったか」


なので、 自分が手にしたラッキーやハッピーなことに対して、素直に喜ぶことができる人は、それらを積み上げてゆくことができるわけです。



 小さな喜びや救いを積み上げると、いずれ大きな幸福へと繋がります。



 ところが、自分に対して天からのギフトがあったり、なんらかの救いがあったにも関わらず、他人のほうがずっこいわ、ずいずいずっこいわ!としか思えないと、せっかくのギフトは加算されてゆきません。


 むしろ、不満ばかりが積みあがってゆくので、ちっとも幸せにはなれないのです。




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 つまり、救われる技術、幸せになる技術というのは、自分の身の周りに落ちている小さな砂粒のような「よきこと」を見つけて、拾って、貯めておける技術ということになるでしょう。



  宗教2世が若くして離反するほうがいいのは、毎日わたしたちは何かを得てゆくわけなので、宗教から得るものよりも、自分の明るい未来に向かって外界から何かを得るほうがいいに決まっているからなのですが、年齢が進むにつれて


「自分が受けてきた恨みつらみ」


がどんどん積みあがってゆきますから、それをカウントしている間は幸せにはなれないのです。



 
 宗教2世さんのツイートなどを拝読していると、けっこうこのパターンは多くて、


「自分が受けてきた宗教的仕打ちを、今も昔も恨みに思っている」


人はたくさんおられます。かなしいことですね。



 それをずーっと、ずーっと、ずーっと思ったり考えたり、ツイートしたりラジバンダリしておられる方が多いのですが、きっと明日もあさっても、永遠にそうなのかもしれません。



 それを不幸と呼ぶわけですね。




 そうした恨みつらみや苦悩が、今は最大値・最大限吐き出していても、次第にそれが減って、1年後にはすっかり外の世界のお話に染まりましたとさ!


というのは、幸せです。


 


 もちろん、受けた仕打ちや体験と言うのは、時間や期間にも連動するので、大変な目にあった時間が長ければ、そこから立ち直るのにも時間がかかることでしょう。



 武庫川の私的計算では、



「うけた仕打ちの期間の分だけ、復活には時間がかかる」



と思っています。 ちょうどおなじくらいの期間が、救いには必要だったりするのです。



 ということは、40年間ひどい思いをしてきたり、40年間なんらかの宗教に染まってきた場合は、そこから抜ける頃には下手すりゃ死んでる、ということにもなりかねません。


 だから、離反するにしても、幸せを見つけるにしても早ければ早いほうがいいのですね。



  この文章をみて絶望する人もいるかもしれませんが、それでも今日気付いて生き方を修正するほうが、明日気付くよりも絶対によいので、あえて書いちゃいました。



 てへぺろ。


 

 



 

2019年12月16日月曜日

宗教2世や毒親に育てられた子を救う方法。 その2 ~あなたが救われる魔法のヒントがあった~



 前回は、家庭内の問題が、外部からはとても支援しにくいものであることをお話しました。


 そして、宗教2世や、毒親に育てられた人や、あるいはネグレクトにあっているような子供達が、そのために


 なかなか救われていない


事情についてお話しましたね。




 では、そうした子供たちや人たちについて、外部の人間である私達には何ができるのか、という現実的な話に入ろうと思います。



 解脱者・武庫川の場合は、出家女子が家にやってきた場合は、ほとんどの場合、これを意識的、無意識的にやっています。


 そうして、1人、また1人と巣立ってゆき、自分の人生を歩んで幸せを探しにゆくわけです。



 他者が「問題を抱えた人」に対してまずできうる


 一番最初の段階で、一番基礎的なこと


というのは、



「無条件で肯定すること」


「無条件で受け止めること」


 です。


 特に宗教2世や、毒親に育てられた子供というのは、ある一定の


「親側の視点である教理によってねじまげられたモラル(善)によって、その子が受容されるかどうかを判定されてきている」


ことが多いです。


 難しい言い回しになりましたが、簡単に言えばこどもたちは


「親が思う、条件付の愛情をうけて育ってきている」


ということです。



 ですから、もし外部からの支援者が、支援者が思う「善悪」に基づいて、そのこどもを再判定するようなことがあれば、


やってることは親といっしょ


になるので、支援は難しくなるのです。




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 赤ちゃんというのは、善悪がわかりませんので、騒音を上げて泣くし、糞尿をそこらじゅうに漏らすし、してはいけないことも積極的にします。


 しかし、それでもまるごと親がそれを受容して、肯定してきたからこそ、その後の成長に従って「これはダメ、あれはダメ」と制限するようになっても、


「自分はまるごと肯定されているのだ」


という部分はゆらぎない自信になるので、アイデンティティが正しく形成されてゆきます。



 毒親育ちの子や、宗教2世の子は、その部分がズレています。教義によって、あるいは親の独善によってゆがめられた善悪という条件において


「愛されるのか、叱責されるのかが変わる」


という経験をしてきているので、そもそも「まるごと肯定される」ということを知らない場合もあります。



 ですから、仮にその子が18歳になっていて、倫理的に間違っている部分をもちながら育っていても、それでも第一段階は、


「まるごときちんと肯定する」


ことが大切です。



 たとえば、その子が


「あんな親ぶっころしてやる!」


とか


「クラスの連中などどうなってもいいんだ」


といった、一般論として悪に染まった物言いをしたとしても、



「よし!それでも私はあなたの味方だ!」


と肯定することが大事です。



 そして、もし支援者であるあなたが、そうした「善悪のモノ言い」「表現」に慣れていなければ、技術として


「善悪の話は感情の話に置き換える」


というワザを武庫川から伝授しておきましょう。



 たとえば、「親なんてぶっ殺してやる!」については、通常だと「殺すなんてダメだ」と善悪で判定したくなりますが、そうではなく、


「そんな気持ちになっているあなたを見ていると、心がきゅうううってなるわ!つらいなあ」


と感情にズラして置き換えるわけです。テクです。


「他人なんてどうなってもかまわない」については、これも通常だと「そんなことを言ってはいけない」とやりがちですが、



「私も他人はどうでもいいけれど、”あなた”が傷ついたりしたら、いやだ!」


と置き換えます。



 こうした言葉のあやのような技術を使ってでも、「あなたを肯定するんだ」という姿勢を示すことは大事です。



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 もちろん、肯定することと「隷属すること」「わがままを何でも聞くこと」は異なります。


 そこは間違ってはいけません。


 「じゃあ!○○してよ!」


みたいな無理難題を投げかけられたとしましょう。 その言葉に無条件に従え、ということではないのです。


「本気であなたもそうしたいと思っているなら、私も命をかけてそうするけれど、私自身はいま、心がそれはイヤだと思っている。二人がどちらも「ぜひそうしよう!」と思うなら進んでやりたいけれど、あなたが無理強いするのなら、私は悲しい。めっちゃへこむ」


と、


■ 自分の気持ちには正直であること


■ 自分の感情、感覚も素直に表出すること



を心がけて、答えると、グレているだけの子はかならず引き下がります。




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 無条件で肯定する、ということは、実は相手についてもそうですが、支援者であるあなたにとってもそうなのです。


 あなたが望まないことは、しなくていいし、あなた自身を無条件で肯定してよいのです。




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 ブログの記事ですから、どうしてももっとも簡単な部分についてしか説明できませんでしたが、この「無条件の肯定」という気持ち、意識を持てば、失敗をしながらでも支援することができたり、あるいは、こうした気持ちを持っている人がそばにいるだけで救われることが沢山あります。


 かならず事態は好転しますので、もし助けが欲しい場合はいつでも言ってください。















宗教2世や毒親に育てられた子を救う方法。 その1 ~なぜあなたを誰も助けてくれないのか~



 親子関係における問題というのは、それが近しい間柄で起きるがゆえに、難しい要素をたくさん抱えているものですが、今日はちょっと


 ギョッ


とする記事をみつけてしまいました。



元事務次官息子殺害事件 DV対応の現実(アゴラ)
 http://agora-web.jp/archives/2043239.html



 引きこもりで、家庭内暴力であった息子を、めちゃくちゃ偉い人だったお父さんが殺してしまった事件についての話ですが、つい先日裁判の判決が出たところです。



 その判決の内容や、その家族が「どうすればよかったのか」「どうできたのか」について考察した記事ですが、結論をズバリと言えば、



 どこも誰も助けてはくれない



というオチなのではないかと戦慄しています。戦慄かなの。



 家庭内に問題があれば、それを誰か外に助けを求めたほうがいいというのはよくわかります。


 しかし、実態としては


■ 助けを求めても、高確率で、誰も助けてくれない


というのが現実なのだ、ということがさりげなく書かれているので、この話は恐ろしいのです。



 この話は、別に今回のようにとりわけ凶悪な



 『家庭内暴力を起こしている息子をどうしたらいいか』


に限りません。どこの家庭でも、おなじような



孤立無援


の状況は起きています。たとえば


 『親にネグレクトされている子供はどうしたらいいか』


でも同じですし、


 『毒親から逃れたい子供はどうしたらいいか』


でもおなじです。


 『宗教2世で、親にすべてを制限されている』


でもいっしょですね。



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 結論からいえば、こうした事態からあなたやあなたの家族を救ってくれる公的機関というのは、


ほとんど存在していないし、存在していてもあまり役にはたってくれない


というのがオチでしょう。それがなんとなく、あなたにも伝わっているし、気付いているから、事態はいっこうに好転しないわけなのです。




 わたくし、解脱者・武庫川散歩は、その昔高校教諭をしていたので、児童福祉施設の運営や内部についても知っているし、「虐待されていた生徒」を警察などと協力して救出したこともあります。


 そうした時に、実際の事件として感じたのもまた、「公的機関はあっても、そこに積極的に介入しようとする第三者の動き」がないと、何も進まない、ということでした。




 ツイッターなどを見ていると、興味深いつぶやきが漏れ聞こえてくることがあります。たとえば、


Q「宗教2世の悩みについて、学校の先生はそれを打ち明けたら、解決の糸口になってくれるのだろうか」


といったものがありました。


 それに対しての私の回答は、


A「理解を示してくれる教師もいるだろうが、保護者の権限は強大なので、そこから公的な立場で救い出すことはできない」


というものでした。ええ、物理的な虐待や育児放棄などがあれば、また別ですが、思想信条は自由なので、保護者の親権がある間は、それとは異なる思想信条で教師が動くことはできないわけです。




 ですから、仮に、


「うちの親は毒親だから逃げ出したい」


と思っていても、公的機関でその逃げ場になってくれるところは皆無だとわかります。ええ、まったくないのです。




 そうなると、家出女子は、ネットで知り合った見知らぬおっさんの家に、肉体関係と引き換えに居候するぐらいしか、生きてゆく術がないわけです。


 これで、1人の人生が、大きくさらに狂ってゆくことになるのですね。




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 この日本社会では、毒親に育てられたり、ネグレクトにあったり、あるいは宗教2世が救われる機関、というのはありません。


 少なくとも、18歳もしくは20歳を迎えるまでは、強力な親権にガードされていて、なかなかそれを打ち破ることはできないわけです。


 親がどれだけ間違っていたり、その考え方が問題であったとしてもです。




 解脱者・武庫川の場合は、一時的に出家女子がわが家に避難してくることがありますが、その場合でもかならず、その女子の親の了解を取り付けています。了解なく出家女子が出家してくることはありません。


 幸か不幸か、武庫川一家の家庭は、そうした問題を抱えた子供たちの私的な受け皿になっていることがあるのですが、可能であるならば、こうしたシステムを何がしかの公的な制度で実現できないものか、とも思いますが、まあ無理でしょう。



~~~~~~~~~


 というわけで、まず、これを読んでいる「今、宗教二世問題や、毒親問題で困っている若者」であるみなさんにとっては、第一段階としては厳しいものになりますが、


「自分の親や、現在の環境が、自然に解決することはないし、親はよい方向に変わってくれたりはしない」


ということを頭の片隅に置いておく必要はあるでしょう。


 そして、


「公的機関や、なにがしかの救いの手が自分を助けてくれることもない」


ということが、さらにきつい第二段階としての事実であることも、わかっておくことが大切です。



 この時、あなたが「したたかな」子であれば、とにかく18歳、もしくは20歳になるまで、経済的に自立できるまで「忍耐をしながら、あるいはやりすごす」という選択をすると思います。


 あるいは、「メンタルが強い」子であれば、その時期が来るまでに、自分に力を養い、技量・力量両面で、家を脱出して自活する計画を建てるかもしれません。




 幸せなのは、少なくとも成人して親の権限から離れることのできる未来が、その時期が


確実にやってくる


ことです。16歳なら2年後、もしくは4年後には、そのチャンスが必ず訪れますから、時間はたっぷりあると言えるかもしれません。




 ところが、したたかではなく、強い心を持っていない子供の場合は、この期間に


「打ちのめされ、苦悩し、希望を失い、なげやりになってしまう」


ことが往々にしてあります。こうした経緯で、生き方を見失ったり、暴力に走ったりしてしまうわけですね。



~~~~~~~~~~



 残念なことに、これらの子供たちは、自力で自分を救済することはできません。


  第三段階の事実は、


「事態は自分ひとりの力では解決できない」



というものです。これもえげつないほど冷酷な事実です。



 3つ揃って、とんでもない事態です。


■ 親は変わらない

■ 外部から助けはない

■ 自分ひとりでは解決できない


の三重奏ですから、


「わたしに氏ネというのか!」


とすべてをぶっ壊したくなるのも当然というものです。





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 でも、心配はいりません。


 たしかに、親も公的機関も、自分にも力がないことを知ると打ちのめされてしまうかもしれませんが、


ここに私がいます!


 そうした状況である、ということをしっかり理解していて、かつあなたを応援したいと感じている私がここにいるので大丈夫です。


  私はあなたの味方ですから、あなたが助かる方法について、真剣に考えています。この難しい包囲網を突破して、あなたが無事に


 ひとり立ちして、のびのびと生きてゆく


方法を一緒に考えることができます。





 そして、もしこれを読んでいるあなたが、今はひとり立ちしてしっかり生きていることができている大人であるのならば、




 そうしたこどもたちを応援する




ことを、ぜひはじめて欲しいと思います。



 親は変われないし、一人では救われないのだけれど、


 外部からの助けに”あなたがなる”ことは可能です。




 海賊王に、俺はなる!



くらいの勢いで、なってください。



 
  次回は、ではどうやって実際に助けになることができるのかをお話しましょう。
















2019年12月13日金曜日

なぜ武庫川散歩(解脱者)は匿名で活動するのか。



 ネットの世界では、「リアルな世界ではあまり露出しないけれど、電脳かいわいでは多くのファンを持つインフルエンサー」という人がけっこうおられます。


 そんな中の1人である「フミコフミオ」さんが、どうして匿名で活動しているのかについて記事を書いていて、そういえば


 わたくし、あなたの武庫川散歩です


も、ずっとへんてこりんな匿名で活動しているなあ、とふと思ったので筆を取りました。いや、筆ではなくキーボードを叩いているのだけれど。



 ちなみに本家の記事はこちら↓



 なぜ匿名ブログは実名より読んでいて楽しいのか
 https://president.jp/articles/-/31371

(プレジデントオンライン)



 ちなみに、フミコフミオ氏の元ネタはあの「藤子不二雄」大先生で、わたくし武庫川散歩の元ネタは


 江戸川乱歩 大先生


ですから、発想は似たようなものです。どうやら彼も私も1974年生まれのおない年のようだし。



 その江戸川乱歩大先生だって、エドガー・アラン・ポーのもじりなのですから、まあいいじゃありませんか。


 ちゃーらーちゃっちゃらー

 ちゃーらーちゃっちゃらー

 ちゃらーちゃっちゃらー

 ちゃちゃちゃらん ♪


 (↑テキストで表現した、江戸川コナンくんのテーマ)




==========



 さて、本題です。


 実は、わたくしは、武庫川散歩という芸名よりも、それに付随するある「表現」をけっこうわざと使用しているのですが、お気づきになられますでしょうか。



 そう!


 それよ、それそれ!



 すでに、多くの武庫川ファンが、いろいろと妄想をめぐらしながら「あの人物はいったいまともなのだろうか、それともアブないヤツなんだろうか」と一番きがかりな


 そこ


です。


 解脱者、というパワーワードですね。




 ふつうの人間が、「自称・解脱者」なる人間に触れると、まあたいていは眉をひそめるか、顔をしかめるか、「キモッ」と思うのが通常の反応というものでしょう。


 そうなってしまったのは、わたくしの前に「解脱者」を自称した人物が、とっても悪行三昧で、 日本史上に残る強烈な人物だったせいです。



 少なくとも、あのシトが出てくるまでは、「解脱者」というのは、どちらかというと「崇敬されるべき存在」のニュアンスだったのですが、あのシト(ヴォルデーモートか!)が、とんでもない人物だったので、俗世の人々の印象が、まったく


 悪い方向へ定まってしまった


というのはあるでしょう。




 さて、もともとブッダの教えである仏教においては「誰でもどこでも簡単に」解脱できると教えているわけですから、 敬虔な仏教徒、あるいは、仏の教えを心から信じるものであれば、


解脱者


はすぐ隣にいるんだよ。夜中迎えにくるんだよ♪


ということくらいは自明のはずなのですが、 もう誰もそんなことは言えない雰囲気になっているので、わたくしくらいは



 誰でもどこでもお手軽簡単に解脱できちゃうよ



くらいのことをほざいてもよいのではないかと思って活動しています。




(解脱がもっとフランクでわかりやすいものだということを知りたい人は


 
仏教思想のゼロポイント―「悟り」とは何か― 魚川祐司

<新潮社さんより>


がおすすめ)



 それでもまあ、「オマエみたいな偽・解脱者が何を言っているのだ」とからんでくる人もいるでしょうから、ふだん使いの方便としては



ええ、わたくし毎朝パンツが解脱してますねん★



ということを声を大にして言っています。




~~~~~~~~~


 でもまあ、「わたしは解脱者だ!」と明言しているおっさんがそこにいるものですから、そりゃあ、読者としては気になったりビビったり、マハーポーシャを思い出したり、ラジバンダリすることは間違いないわけで。


 むしろ、そういう「気付き」を得てほしいなあ。


 なにか「悟りや解脱やいきざま」について、思いをめぐらせてほしいなあ。


という狙いはずっこんばっこんハマッっていると言えるでしょう。


(擬音がおかしいのは、きっとそちらのWiFi電波状態が悪いのでしょう)




  それでも最近、マーケティング的には、実名や別名で活動している「お金になるやつ」とリンクさせたほうが、わたしという人間性について



 信頼度が増す



のだろうなあ、ということはうすうす気がついているのですが、なんかそういう



どやさ!


というのも、アレなので、今のスタイルのほうが性分にあっているのかもしれません。まあ、武庫川のコアなファンという方も、俗世には一定数おられるようなので、その方々が楽しんでくださればそれでいいのかな、という気もします。




 最近、この方もネットかいわいでは有名人ですが、「やまもといちろう」さんも、3行ぐらい文章を読むと


あ、これ書き手はやまもといちろう氏だな


とわかるようになってきましたね。すばらしいです。そういう文体をわたくしも目指したい!


と素直に思っております。




 今回は、エロが少なくて、すまんこ。








 

2019年12月4日水曜日

善人なおもて悪人をや ~うつ病になるのは、善人だからではない~



 最初に断っておくが、解脱者であるワタクシ武庫川散歩(45)は、



 この世には善も悪もない


ということを常々語っている。


 善と悪というのは、あくまでも一側面からみた瞬間の話であって、反対側からみればまた別の様相を呈するものなのだから、そんなもんを単純に信じちゃあ、いけませんぜダンナということである。



 なので善と悪に関わる話を取り上げるのは、浅はかで思慮の足りない、簡単に言えば「バカとアホ」には誤解を受けやすいので本当はやりたくないのだが、それでも私の内心がうずうず「やりたい」「取り上げたい」「書いちゃってしまいたい」と欲しているので、ちょびっとだけ書いてみようと思う。


 このブログを読んでいるあなたは、とても賢明で思慮深い、カシコで、天才、秀才に違いないから、きっと誤解せずに読み取ってくれるに違いないと期待している。



 とまあ、ちょっとややこしい書き出しをしてしまってもうしわけないが、今回は話のマクラのエロはないのでごめんね。





~~~~~~~~~




 善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや


というのは

歎異抄

に出てくる親鸞の弟子「唯円」のことばである。

 もう、このへんから知的ではない人をふるい落とそうとしている私の技術なのだが、それは脇へ置いといて。


 この意味、簡単にいえば



 善人であれば往生できるのですから、悪人ならなおさら往生できるでしょう



ということになる。 浄土真宗の屋台骨にかかわる考え方で、言ってみれば


「修行してよき人であろうと努力できる者は仏によって救われるでしょうが、それができない境遇にある人だからこそ、仏は慈悲の力で救うのですよ」


ということになるだろう。オーイエイ。バカでも救われそうで、助かるぜ。



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 とまあ、善人と悪人ということば一つとっても、一般的に言われてる意味とは異なり、微妙にそのニュアンスに差があることには気付いてもらえたと思うが、今から書く話はそういう


 ニュアンスの、受け止め方の違い


によって、たいへん危険度があるため、気をつけて丁寧に書こうと思う。




 それはこんなお話だ。


エクセルにスクリーンショットを貼り付ける仕事でうつ病になった話



という記事がはてなに挙がっていて、ちょっとした話題になった。


 かいつまんでまとめると、理系の数学科で学んで大学院まで出た人が、エクセルにスクリーンショットを貼り付ける仕事を3年間して、うつ病になったという話である。



まあ、そのままやがな、と言えばそのままやがな。



 なぜこの人がうつ病になったかというのは、ごく単純である。


「自分の能力に見合っていない作業をさせられたので、うつ病になった」


ということなのだが、ここで一つの大きなニュアンスの違いが登場する。




 たとえば、誰かがとても酷い目に合わされたり、過重な労働をさせられたり、苦しい仕事をさせられたりして、そのせいでうつ病になるのは、理解しやすいだろう。


「善人が、悪行によって、苦しめられてうつ病になる」


というイメージだ。このパターンだと、誰もが共感できて、わかりやすく、理解しやすい。誤解もほとんど招かない。



 ところが逆はどうだろう。


 誰かがとても優秀なのだけれど、切手を延々と貼り続ける仕事をさせられてうつ病になった。


というのはいかがかな。

 
 これもなんか、リストラ対象の人が、「どうでもいい仕事をさせられてわざと苦しめられている感がある」ので


「善人が、悪行によって、苦しめられてうつ病になる」


パターンになるので、まだギリギリわかりやすいだろう。



 ところが、この人の場合は、


「理系の大学院まで出て、エクセルの仕事をさせられている。ただし、その仕事はそれなりに大事で、それできちんと対価がもらえるまっとうな仕事である。別にわざと変な仕事を与えられているわけではない」


ということが起きている。


 なので、コメント欄をみてもらえばわかるのだが、この人に対する善悪の評価がまっぷたつに分かれるのだ。



■ 「優秀な善人が、その才能を生かせない仕事をしていることは、職場が悪である」


という派閥と


■ 「自分には才能があると思い込んでいる悪人が、通常の善なる職場をバカにして見下している」


という派閥に分かれるのだ。



 もちろん、私は事実がどちらなのかは明言しない。それは、本人にしかわからないことだし、たぶん本人もわかっていないことだろうからだ。
 
 


 この悩みに対するアドバイスとして、ひとつだけとても面白くて、たぶん役に立つ回答があったので、紹介しておこう。


「筋トレが全てを解決する」


↑筋肉バカ。



でも、これは正しい。たぶんこれでその悩みはふっとぶ。そういう風に人はできているからだ。






~~~~~~~~






 ほんとうの真実がどちらにせよ、起きている事実は


「その人がうつ病になっている」


ということだ。これはたいへん(同情すべきかどうかは保留にしても)、本人にとってはとても大変なことで、本人はつらいことに違いない。


(ただ、まあ、それを半分の人はざまあみろ、という視点でみていて、半分の人は共感してみている、ということが今起きている)




 つまりは


「善人が周囲の悪行によってうつ病になる」


というわかりやすい事例もたしかに起こるが、


「悪人が、周囲はふつうに善なのに自分勝手な気持ちでうつ病になる」


ということは起きるということである。


 こう書くと、私がブログ主を「悪人」だと思っている、と解釈するアホでバカでマヌケが飛び出してくるので、そうじゃない!と明言しておく。


 その人のことはその人の問題だから、実際はどうであるかは他人は口出しできない。ただ、そういうふうに善人という解釈と悪人という解釈の2つに分かれる、という話である。



 むしろ、悪人でアホでバカでマヌケだと私が思っているのは、そういう風に間違った解釈をするそこのオマエである。わかったかこの野郎。


 ↑と、けん制も入れておこう。こうすれば炎上しないかもしれない。




 よいか!この世の中には、「悪人であって、自分勝手が通らないからうつ病になるやつ」は存在するのだ。


  たとえば、女の子と3股をかけていて、そのうちの1人にこっぴどく振られたので、いとしさとせつなさと心弱さのせいでうつ病になったというヤツだっているのだ。


・・・俺だ。俺のことだ。


・・・・・・それは俺のことなんじゃあああああ!!!!!



(今、ここで、それは”ざまあみろ”であって、ちっとも同情できないと思ったあなたは正しい)


 
 
 

  さて、こうしたうつ病や心の病の原因というのは、悪行によって苦しめられたから発症するものではない。


 ごく簡単にいえば



「自分が理想であろう、これが良い方向であろうと思っている状態と違っていると、心は病む」


ということだ。


 ブログの人の場合は、数学の見識を使って仕事がしたいという理想像と、自分がしている仕事がそうと受け止められないという状態が相反しているので、うつ病になったわけである。


 解決方法は、この「思っている理想」と「事実の受け止め方」をすり合わせるか、それが合致するところへ移動するかしかないので、


■ おなじ会社にいたいなら、エクセル作業の価値を見出し、受け止める




■ 自分の理想に近い職場を探す


の二つしかないのである。



 ところが、いずれにせよ自分だけで帰結せず、相手がいることなので、大変である。今の会社にせよ、次の会社にせよ、「他社との擦りあわせ」はどうしても生じる。

 それは人の世なのでどうしようもないことだ。


 僕だって、「女の子3人とは同時に付き合えない。せめて2人にしておきなさい」という擦りあわせが必要だった、ということになる。


 ↑バカ




 ええ、一番のバカで悪人は、あっしだったってことで、お開きでやんす。




 


 







 

エホバの証人告白本を書いた話



 このブログでもしばしばバシバシ書いているように、もともとワタクシ武庫川散歩は、エホバの証人という新興宗教の2世信者でありました。

 このエホバの証人の世界も、私が現役であった時代からはもう随分と経っているので、今は3世信者もいるらしいと聞きます。

(あ、もちろん、日本でね。本家アメリカだともっといるかもしれないし、わからないけれど)


 世代を経ると、第一世代は自分で好んで入信したのだけれど、その子供たちはよくわからないまま「入信させられていた」ということが起きるので、そうした子供達が脱会すると、その事情を告白したり、暴露する情報が表に出てくるようになってきました。

 近年、ちょっとしたエホバブームが起きていて、



「よく宗教勧誘に来る人の家に生まれた子の話」 いしいさや
http://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000052387


「カルト宗教信じてました」 たもさん
https://www.saiz.co.jp/saizhtml/bookisbn.php?i=4-8013-0300-3



あたりは漫画でわかりやすいこともあって、メディアでもよく取り上げられていたように思います。




 こうした告白本のよいところは、現役の信者の方で実はいろいろ教義や自身の生き方について悩みや迷いがある人にとっては、とてもよい「共感」のための手助けになることです。


「自分だけが苦しんでいたわけではない」


ということに気付くと、そうした方には大きな力になることと思います。



~~~~~~


 ところがどんどこしょ。


 うちの場合は、もちろん他の家庭同様「エホバの証人による崩壊家庭」にはなってしまったわけですが、いろいろとその経緯が面白いというか、イカれているというか、


 他のおうちの方には、もしかするとまったく参考にならないかもしれない


ので、 そこらへんをあえて記録として残しておこうと思って書いた次第です。


 たぶん、今の信者の誰もが、


 ちっとも共感できない


新しいタイプの、むしろ悲劇と言うより「喜劇」に近いお話をまとめてみたわけですね。




 というわけで、もしかするとこの世に存在するかもしれないコアなマニア向けに、自身のエホバの証人体験本、告白本を書き上げました。


 書籍ではなくnoteというしくみを利用しています。序章以外は100円いただいておりますが


 なんじゃい!有料なのか!


とご立腹なさる方もおられることは承知でお値段以上、ニトリになっております。



 これには理由があって、まあ、身内の恥をつらつらと無料で世にさらすのもどうなのか、というところもありますが、


 その昔、ものみの塔とめざめよ!を100円で売りまくってたやろがい!


という現役エホバの証人と元エホバの証人に対するアンチテーゼでもあります。


 他人に100円で冊子売ってたのに、100円くらい出せへんのかーい!


というギャグです。



 まあ、お金のことなどどうでもよろしいのですが。



 
 というわけでCM。


「ワッチタワー ~オカンと僕とそれからエホバ~」


パクッてる?



はじまります。


https://note.com/mukogawa_sanpo/n/n1fa9685cf3cc




 初回はもちろん、無料よ。