2018年8月30日木曜日

【元祖!勝手に人生相談シリーズ 23】 神通力を身につけたいのですが、どうすればいいですか?




 「拝啓 解脱者さま


 私はいつも『神通力』のようなものを身につけたいと思っているのですが、どうすればいいのでしょうか?

何か仙人のような修行をすれば、普通ではない力を身につけることができるのでしょうか。教えてください」



~~~~~~~~~~




 みなさまこんにちは。あなたの解脱者、武庫川散歩です。


 今日は、熱心なリスナーから、上のような質問が来たらしいので、懇切丁寧にお答えしようとする「勝手に人生相談」シリーズの再来です。




 まず、神通力を身につけるためには、男性と女性ではちょっと作法が異なります。



 男性の場合は、暴飲暴食、ストレスフルな毎日を過ごして中年になることが重要です。できればビールなども浴びるほど飲んで、プリン体をたくさん摂取するのがいいでしょう。


 そうするとある日突然、おなかを激痛が襲います。場所によっては右、あるいは左、それはもう女性であれば出産に匹敵するという大激痛が、あなたを襲うのです。



 これぞまさしく腎痛!!!

 またの名を尿路結石という腎臓機能の病気です!!!!

 



 さて、女性の場合は、まずは愛するパートナーを見つけて、ラブラブしましょう。



 ・・・・・・ん?


 ・・・・・・・・・・・・皆まで言うな?


 それは・・・、


 それは陣痛!!!



  閉店ガラガラ!




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 さて、無事にじんつう力を身につけたところで本題でございます。




 私は解脱者になってから、いわゆる『神通力』のような


  何もないところから物質を取り出したり(サイババかよ!)


  胡坐を組んだまま空中を飛び跳ねたり(○原かよ!)


  体の一部からビームを出したり(モーニング娘。かよ!) 


 
そういう力を身につけたことは一切ございません。



 できるようになったのは、



 なんとかの巨人のように、体の一部を硬化・・・・・(下ネタかよ!)



だけでございます。




 なので、質問をお寄せくださった方の単純なるご希望には添えないかもしれませんが、その希望なさっている力が



「他人を思い通りに動かす力」

「先を見通す力」



くらいであれば、手に入れることは、それほど難しくはない、ということをお話しましょう。



 40代も過ぎて、人生経験が豊かになってきたことに加えて、解脱したことによって、私は仕事においても



 たいていの相手の心の中を見通し、思い通りに動かすことができる



ようになりました。これはビジネスにおいても、たいへん役立っています。



 また、



 自分を取り巻く環境が、どのように推移するのか。未来がどうなるのかについても、それほど外すことなく、ピタリと言い当てられる



ようになりました。ああ、まるでそれは神の預言者のように!




 これは別に、神の力が宿ったわけでもなんでもなく、解脱することによって、


「物事を自分の恣意的なバイアスなしにそのまま見ることができるようになった」


ということとも関係します。



 なので、誰でも、こうした力は身につけることができるようになる、と言えるでしょう。




 この神通力、手に入れるための修行はごくごく簡単ですが、この最初のステージを



 難関だ



と感じる人は、意外に多いようです。それはとても簡単で、難しいことだからです。




  さあ、それではその秘策、秘中の秘を今回はあなたにだけ特別にお教えしようと思います。



 どうすれば、人の心を意のままに操れるようになると言うのでしょうか。




 それは、




 あなた自身が、誰かの言動に対して、心を動かされることがなくなれば




 おのずとできるようになります。




 あなたはまだまだ、他者の言動に怒りを覚えたり、傷ついたりするでしょう。憎しみや妬みを覚えたり、逆に心を喜ばされたりすることもあるかもしれません。



 しかし、そこから半歩身を置くことさえできれば、今度は、他者の心を動かすことができるようになります。



 それは自動的に見えてきます。



 どうすればいいのかは、あなたの目が勝手に知ることになるでしょう。





 ~~~~~~~~~~




 おそらく、相談者さんは、今の段階では、



「誰かに身も心も振りまわされている」



のでしょう。人間関係なのか、社会においてなのか、仕事においてか。自分の意のままにならないことが多いから、神通力を求めるのです。



 しかし、振り回されなければ、そもそも神通力など不要です。むしろ、他者を意のままにコントロールすることは、「振り回されない」のであれば全く難しいことではありません。



 
 試してみましょう。



 この偉大なる解脱者がことばをひとたび発すれば、あなたの身体に変化を与えることなど、たやすいのです。



 いざ!





「・・・・・真っ赤な梅干。お口に入れてみましょう」






「・・・・・黄色いレモンのスライスが浮いた、ナチュラルウォーターがコップに入っています。そのレモンを、舌の上に載せてみましょう」




「・・・・・・黒板を、ジョニーデップのシザーハンズが、ひっかいているよ」




「・・・・・・アルミホイルを、丸めて噛んでみようね」






 ほら、ほら、ほら!心動かされてしまった人は、失格ですよ。




2018年8月20日月曜日

”パクリを止めるな!” 大ヒット「カメラを止めるな」盗作疑惑が、面白くなってきたぜええ





 毎度おなじみ解脱者の武庫川散歩でございます。



 先日のブログで映画「カメラを止めるな!」が面白かったよ~というあまりにも俗っぽい話を書いたのですが、このオハナシ、さらに面白くなってきたので、思わず



 還俗して



しまいそうなくらい!ぞくぞくしますね~。 



 ムコガワさんは、本来解脱者ですので、俗世で行われていることについては、基本「諸行無常でどうでもいい」というスタンスなのですが、その昔、まだ俗世にいるころには、クリエーターのまがいものみたいなことをしていたこともあって、この手のお話は好きなんです。




 さて、何が問題になっているかというと、「カメラを止めるな!」という映画の構成や展開、あるいは根幹の構造が


劇団PEACEの舞台 「GHOST IN THE BOX!」


をパクっているのではないか、という疑惑なんですね。



 しかし、上田監督自身が、この演劇に着想を得たと自ら言っていますので、



「パクリかパクリでないか」


については、 



 限りなく透明に近いブルー



くらいには難しい問題でしょう。↑意味不明やわ。









 話の経緯は、



■ 上田監督はもともと舞台の「GHOST IN THE BOX」を映画化したかった

■ オリジナルの演劇の脚本家らとプロジェクトをスタートさせたが、頓挫した

■ そこで改作改変して、「カメラを止めるな!」を仕上げた



という流れです。


そのため


「オリジナルと言えるくらい元の作品と変わっているか」

「オリジナルの要素を引き継いでいるからパクリか」


の判定というのは、難しいしきわどいし、解釈にもよるところ。






 前回の記事にも書きましたが、構成としては「涼宮ハルヒの憂鬱」でもあるし、独自性が高いかどうかも、議論の余地があるでしょう。


(しかし、それを言えば、小説や物語のプロットなんて、もはや出尽くしているのです。前半で物語を提示して、その裏側を後半で示す、なんてのは、わたくしムコガワ散歩でもやってます。 


 ここで番宣!「ヤンキー小田悠太の慟哭」「ヘビメタ野々村吉雄の絶叫」も読んでね!!



■ ヤンキー小田悠太の慟哭
https://satori-awake.blogspot.com/2018/03/blog-post_23.html


■ ヘビメタ野々村吉雄の絶叫
https://satori-awake.blogspot.com/2018/05/blog-post_19.html     )







 古くは、「ジャングル大帝」を「ライオンキング」がパクったのではないか疑惑などもありましたが、あれとおんなじです。


 まあ、揉めますわな。



 もちろん、元ネタ側の方にも、熱い思いはあるわけで、



映画「カメラを止めるな!」について

https://note.mu/rookey/n/ne25a640b8cc7


(原作サイド、和田さんの記事より)



こちらの言い分もぜひともご覧ください。




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 ムコガワは、解脱する前は、クリエーターの切れ端のようなボロ布だったので、監督をした上田さんの気持ちもわかります。

 恐らくは、元の舞台がものすごく面白かったので、「自分もこんなのをやりたい!」と感じ、それを実行していったわけです。


 もうやりたくてたまらなかったので、どんどん突き進んだら、権利関係とか「手間のかかるところ」「冷静にならねばならぬところ」がおろそかになってしまったのでしょう。


 また、本人が公言している通り、インスパイアされた元ネタには「三谷幸喜」さんの作品もあるようです。


 おそらくはショウ・マスト・ゴー・オン 幕を降ろすな」(1991年)でしょうし、タイトルにもその影響があります。


 (もちろん、「GHOST~」のほうも「甲殻機動隊」が元ネタですな)



 ものづくりというのは、どうしても先行した作品に影響を受けて、それを模倣するところから始まるので、インスパイアやオマージュというのは多々生じるのが当たり前なのですが、この手の話でポイントになるのは、いつもおなじ観点です。



 それは、



「先行者や、自分が影響を受けたものについて、尊敬があるかどうか」



に尽きます。


 今回のトラブルは、そのあたりを具体化するときに、「筋を通せたか」があやふやになっているので、上田監督のみならず、プロデューサーにも不備があったようにも思います。



 その意味でも、あるいは映画そのものもですが、全体を流れるテイストが



「よくも悪くも素人くささ、素人っぽさ」



がいいんです(笑)



 私は好きです。意外と。こういうトラブルが生まれるところも、業界に慣れてない感じが、たまらないですね。


 これぞ「ザ・セミプロ」というか、「ザ・ハイアマチュア」というか・・・。



 業界の大人の階段登る♪ということをきちんと手順踏んでやっていると、大手のPなんかがそのあたりをちゃんと教えてくれたり、権利関係を指図してくれたりすることもあるでしょうが、逆にそうしたトラブル回避を真面目にやろうとすると



「いろいろ問題があるので、やめとこう」



となるのが大人の世界なので、「カメラを止めるな!」がこうして表に出てきてしまったのは、ある種の偶発的事象として、観客としてはラッキーです。



 もう、あとはムコガワが便乗して



「亀田を泊めるな!」


とか、


「コアラを食べるな!」



とか 



「かよこを脱がすな!」










とか、そういうのを撮りたくなってきてうずうずします。




 まだまだ、この話、カメラを止めちゃあ、いけないぜ。オチまで見逃せない。

















2018年8月16日木曜日

”カメラを止めるな!” を見てきた解脱者であった。 ネタばれあり?いやいやネタばれ無しかもよ!【まだなら読むな!】






 突然ですが、わたくし、実家に帰らせていただきます!





  ……ということで、うちの奥さんが子供たちを連れて実家に帰ってしまった(夏休みですもの)ので、解脱者は朝っぱらから早起きして、全員を車に乗せて空港まで連れていったのは良かったのですが、朝7時台には解放されてしまいました。


 はて。



 この貴重なる一人っきりの休日をいかにして過ごそうか。


と考えた挙句そのまま映画を見に行きました。


 なんといっても10日もしたらヤツラは帰ってきてしまうので、仕事のない休日を一人で過ごせるのは今日と次の日曜しかないため、ここは時間を無駄にはできません。


 本来であれば妻がいないことをよいことに、かわゆい彼女とデートでもしたいところなのですが、かわゆい彼女がいないので一人寂しく映画館へ直行。




 ええ、観てきましたとも。今世紀最大の話題作!


「カメラを止めるな!」


 でございます。

http://kametome.net/index.html





 もはや説明の必要はございますまい。


 低予算、低知名度、のスタッフと俳優さんが、「こうきたか!」のアイデアで魅せる超快作!いや怪作?!


 すでに全国上映が広まりまくり、解脱者ムコガワの住む関西でも上映があると聞きつけて車を空港からそのまますっとばしましたとも。



 というわけで、以下感想を。



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 端的に言って、面白いです。映画館で1800円出しても満足できます。けしてDVDを待つ必要はありません。今すぐ映画館へ!満足感大!


 物語の詳細は、ネタばれで説明しようと思えば可能なのですが、なんというか


「まるっとごりっと全体を通してネタばれだ」


みたいになるので、まるっと全部説明しないとネタばれにならない構造のため、ここはあえての割愛。むしろ、ネットでも多くの方が評しているように




「何にも事前知識がないほうが絶対面白い!」



ということは確かです。ノイズゼロで見たほうが、面白いです。



 ということで、ここでは物語の詳細は何も言いませんが、ざっくりとどんな映画かと言えば、



「ゾンビ映画というスタイルを借りたコメディ」


とか


「ゾンビ映画というスタンスで描いたコント」


とか、そういうことになりましょうか。



恐怖あり、涙あり、笑いあり、と言いたいところですが、 恐怖はまあ、それなり。あとは全部笑いです(笑)




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 ところで、この映画、解脱者ムコガワとしてはたいへんに、めちゃくちゃ、とっても面白かったのですが、いちおうその昔「映像作家」の切れ端のようなことをやっていた身としては、いろいろ違うところで思いを馳せながら見ていたので、純粋にこの映画を楽しめたか、と問われると、



「途中で、いろいろ考えるところがあって、たぶん、スカッと笑えなかったなあ」



という感想があるのも事実。いやいや、監督やスタッフ、演者さんに嫌な気持ちになってもらうための感想ではなく、あくまでも製作者サイドのお話ですとも。



そこで、映像屋さんとしてみた場合の、副音声での「カメラを止めるな!」の見所について、感想をメモっておこうと思います。





1)37分の長回しに喝采!

 漠然とした知識で、「ワンカット撮影」があるらしいくらいのイメージで望んだ上映でしたが、はじまって数分で、


「これ、まじでカメラ回り続けてるやん!」


ということに気付くムコガワ。いや、それは最初からそう謳われているんだけど、実際にノンストップカメラ回しを見ていると



「い、いまこれで何分ぐらい経った?!」



そっちのほうばっかり気がかりで、集中できない!!!のでありました。


 いや、ほんとにすごいですね。役者さんから見れば、舞台経験がある人なんかは、一発テイクの連続演技は「これは舞台だ!」と思えば、やれるっちゃあやれるのですが、カメラは動き、アングル、演者への追従などがあるわけで、実際に長回しをしているところは素直に「これはすごい!」と感心です。






2) 映像あるあるが小ネタに

 監督さんが意図した演出によって、後半場内は爆笑の渦に包まれるわけですが、映像業界にいない人からみて「ああ、面白いなこのネタ」と感じられる箇所と、映像業界をかじっていた人からみて「ああ、これあるある!」と感じられる箇所がまんべんなくちりばめられているので、ムコガワとしては



「いま、自分は観客側にいて笑ったらいいのか、スタッフ側にいて笑ったらいいのか、瞬間戸惑う」



ことがありました。受け手によって笑いの質がちょっと変わってしまう、ということがこの映画の深さでもあるし、逆に言えば、



「ああ、純粋に観客として観たかったなあ!」


という気持ちもあるわけで。楽しみたかった!!!


  技術面でも、気になってしまう部分があって、具体的にちょっとだけ書くと、最後の最後で真魚ちゃんがカメラを持ってとある場所へ上るんだけれど、


「その角度で持ってたら、あのシーンではあんなふうに引き絵が映らん」


ということなどがムコガワ的には、気になってしまうのでそこらへんがもう少し丁寧さがほしかった気もします。




 これもネタばれ気味ですが、エンドロールまでしっかり見ると実は


「カメラを止めるな!」は二重構造と見せかけての三重構造になっている


ことがわかります。 むしろ、絵作りをしているのは3重構造の3層目の部分なんですね。真魚ちゃんがいるのは2層目なので、そこでも実際の動きとの差があることが答え合わせとして示されます。


 この辺は、あの形のエンドロールがあって大正解だと思います。





3)「カメラを止めるな!」か、それとも「涼宮ハルヒの憂鬱」か

 今回の「カメラを止めるな!」の脚本、構成、演出、そして計算はまさしく拍手喝采だし、すばらしいのだけれど、実は


「この着想がどこまで前代未聞か」


ということについては、 これからいろいろ映画好きのみなさんが評価する部分だと思います。


 2重構造(入れ子構造)そのものは目新しくはないし、素人ホラーのテイストも、これまでもモチーフがいろいろ既にあります。

 低予算映画とホラーは、もともと相性がいいのでブレア・ウィッチ・プロジェクト」とか「SAW」とかは、まさに


 低予算成り上がり映画


の金字塔かもしれません。


 しかし、ムコガワ個人としては、これと似たようなことを既にやっている「涼宮ハルヒの憂鬱」の監督や演出である石原立也・山本寛、両氏に敬意を表したいところです。


 涼宮ハルヒの憂鬱、アニメ版第一期では、まず「朝比奈ミクルの冒険」という低予算映画(らしきもの)をドン!と持ってきて、その続きの週の放送でネタばらしをするという構成になっています。

 朝比奈ミクルの冒険でも「低予算らしさ」「プロではない素人っぽさ」「カメラ・映像が乱れる様子」などが多様されており、なおかつネタばらしの回では


「実は宇宙人や異星人や未来人があんなことやこんなことになってたのだ!」


というあたりを回収しています。



 それを「アニメで始めて再現した」のがハルヒの凄さで、おなじことを「37分長回しで再現した」のがカメラを止めるな!の凄さかもしれません。


 

 

「カメラを止めるな!」のあとは、↑こちらもぜひ。




 ちなみに、今回の映画でムコガワは真魚ちゃんのファンになりました。いや、『おしり』も気になったけれどもさ。(ちゃんちゃん)

2018年8月6日月曜日

洗脳型社畜と、強権トップダウン会長・社長は相性がいい 〜ボクシング連盟と管理職養成学校の話〜




 解脱者は関西地方に住んでいるので、朝からよみうりテレビの「す・またん」を見ながら、「さて、行くか」と出勤するのですが、今日は



 管理職養成学校


の話をやっとりました。明日もこのレポートは続くそうです。




 管理職養成学校とはなんぞや、というと、簡単に言えば



「洗脳テクニックのオンパレードを尽くして、達成感や一体感、社畜感を養成するもの」



であります。簡単に言えば、マインドコントロールのようなことをして、


「管理職としてのやる気・心構えを養い、ついでに部下に同じようなことを強いる人間を育てる」



ことを目標としております(苦笑)




 番組内容のまとめは


gooテレビ番組
https://tvtopic.goo.ne.jp/kansai/program/ytv/121/734623/



にあります。



 こうしたカルト的手法を用いた「人材研修」は、いわば軍隊手法の応用ですね。



 どんなテクニックが駆使されるかというと



■ 外界との遮断(携帯電話等を取り上げる)


■ 反復行動の徹底(屈伸運動などを体力の限界まで繰り返し行う)


■ 集団内での相互監視と連帯責任(パノプティコンの応用)


■ アメとムチ、徹底した他者からの自己否定と受容(怒鳴ると抱きしめる)


などなどです。



 これをやられると、まともな人でも簡単に洗脳されちゃいます。




(どういう仕組みで運営がなされているかは、体験者によるレポートもあります。


https://anond.hatelabo.jp/20170222054400






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 まあ、こうした人材研修や、自己啓発的セミナーがあることは、まあよいとして、こうしたセミナーを受けることが



「管理職として、ふさわしい。求められている」



とするならばものすごいことですね。



 偶然ながら、おなじ番組のテレビニュースで、ボクシング連盟のY終身会長の話がさんざん取り上げられていますが、



「ああいう強権トップと、自己啓発社畜は、抜群に相性がいい」



ということは頷けるでしょう。



 トップにそれほど才覚がなくても、組織は完璧に機能します。だって、部下たちは自ら主体的に軍隊的規律で行動するわけですから。






  もっとおもしろいというか、恐ろしいのは、軍隊的規律と、社畜マインドコントロールをよしとして、



「その研修を受けてこい」



と命じる大企業がたくさんあることが、この国の真実なんですね。



 この国では、「強権トップダウンと、社畜的マインドコントロール人間が求められている」ということなのでしょう。えらいことです。




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 逆に言えば、昨今になってY終身名誉会長やら、N大スーパー理事長やらが批判非難されはじめたということは、



「強権リーダーシップと軍隊まがい組織」



にヒビが入りはじめたことを意味するのかもしれません。こうした事態が続くと、古い時代の人間は、



「新入社員がすぐ辞めたり、上意下達の理論が崩れたりするのならば、これからの日本社会は組織が成り立たず衰退するだろう」



と言い始めると思いますが、たぶん大丈夫です。




 強権組織が目指す理想型は、ある種の「統率が完璧にとれた軍隊」であろうと思いますが、統率された軍隊が世界の紛争において勝利したのは、第二次世界大戦までで、その後はみなさんご存知のとおり、



「統率されたアメリカ軍がベトナム戦争でゲリラに負けた」



ように、「強権組織はゲリラより弱い」ことが証明されているわけですね。



 あるいはその後の紛争でも、アメリカをはじめとした連合国軍は、世界各地の紛争をきちんと制圧できていません。



 もっと近年になると、



「統率された国家や軍は、テロリストを阻止できない」



こともわかってきました。



 ゲリラやテロリストが、なぜ強権的統率軍よりも結果を残すのか(つまり、安全を脅かすのか)というのは、コンピュータの歴史とも同じなんです。




 中央集約型スーパーコンピュータよりも、分散型ネットワークパーソナルコンピュータが普及したように、



「統率された指示系統よりも、単体で処理できるシステムのほうが、機敏で柔軟である」



ということは、コンピュータという複雑な「システム組織」では証明されているのに、人的組織ではまだ「旧来の組織のほうがいいのではないか」という錯誤がまかり通っているわけですね。



  ましてや、パソコンを通りこして、現代はスマホで、あるいはこれからはどんな機器にもコンピュータが潜り込んでいる時代ですから、いっそう



「情報の処理と、何かを成し遂げるには、ゲリラ化・テロリスト化が進む」



 と言えるでしょう。




 これからの社会は「統率なきカオス」の時代がやってくることは確実です。



 ですから、どんなに強権コワモテのリーダーに対してであっても、一旦パワーバランスが崩れると「反旗を翻すゲリラたちの証言や蜂起」は、つぎつぎに沸いて出てくるわけです。





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 今、日大の対応やボクシング連盟のいざこざに対して笑っている組織の長や、会社の上層部の方もたくさんいると思いますが、実はこのムーブメントは、あなたの会社や組織にもじわりじわりと侵食している最中です。




 神を信じればテロは可能だ!



と感じることとまったく同じように、



 自由を求めて社畜を辞めよう!あるいは組織に打撃を与えよう!



と考える個人は、どんどん増殖しているからです。



 これは一種の宗教的イデオロギーのようなものですから、どんなにあなたの会社が



「それはおかしい。どうして組織を壊して成果を失うようなことをするんだ!」



と考えても無駄です。 それはあなた方の宗教的論理であって、若きテロリストたちは、まったく異なる論理を感じているからです。





 こうした事態に備えるには、早くから、私のような解脱者を活用して、御社の宗教的論理の再構築を成すべきでありましょう。なんてねー。うふふ。



 



2018年8月3日金曜日

日大問題とボクシングの闇 ~組織のトップは、なぜ非常識なのか~




 日大アメフト部の非常識なプレイが問題となり、それが日大という組織そのもののスタンス、姿勢であったことが問題となったと思ったら、今度は、


「アマチュアボクシング界の闇」


が浮き彫りにされて、こちらもリアル・ネット問わず炎上しているようです。



 こうした問題を井戸端的な視点で言えば



「これだからスポーツ界は、脳が筋肉に支配されている」


とか


「体育会系のヤバイ側面だ」


とか、そういう言説が出てくるのでしょうが、 解脱者ムコガワの視点は、ややそれとは違ったところにあります。



 というのも、筋肉界に限らず、つい先日文部科学省で汚職があったように、つまりは



「組織の偉い人、にまつわる問題点」



がたくさん噴出していることがあるので、これは



「偉くなるとはどういうことか」



という目線で考えたほうがよいと思うわけです。




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 さて、「権力を持つ」「偉くなる」とは、いったいどういうことなのでしょうか。


 日大という組織に君臨したり、あるいはアマチュアボクシング界の頂点に至り、はたまたスーパートップではなくても、文部科学省でそれなりの地位・立場に登るとは、どんな利点があると言うのでしょう。



 「偉くなる」ことの利点、意味合いとしては、次のようなものが挙げられます。



■ お金がたくさんもらえる

■ 組織の上で、自分より下の立場のものが増える

■ 地位や肩書きがあり、外部から評価の高いラベルで見てもらえる



 一般庶民から見ると、「偉くなるってどういうこと?」と考えると、まずは上のようなことが思い浮かぶと思います。これは、わかりやすいベタなところです。




 もう少し、重たい部分を見てゆくと


■ お金を動かす権限、人を動かす権限、プロジェクトを動かす権限が増える

■  すでにあるルールを改正する権限が生まれる



といった側面が挙げられることでしょう。



 このあたりから、徐々に「偉くなること」の本質が見えてきます。



 権限があり、ルールをいじることができるということは、すなわち



「俺様がルールだ」


と言うことができる領域が、偉くなるに従って増えるということです。



 たとえば、企業であれば、社員の誰もが反対するどこかの企業と合併する決断を、偉くなったものが「俺様ルール」で実行することだってできます。


 あるいは、「自分がトップに立ったら、この制度を絶対改革してやる」ということだって実行できます。


 つまりは、「偉くなればなるほど、自分の好き勝手にできる領域が増える」ということでもあるのです。






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 逆に言えば、「立場上偉くなっても、権限もルール作りも、ほとんど自分では決められない」ということであれば、多少給料やもらえるお金が多くなったとしても、


「そういう立場には魅力がない」



と言えるでしょう。つまり、人は「好き勝手するために偉くなりたい」と考えているふしがあるのですね。





 さて、日本大学の理事長や、ボクシング協会の会長が、基本的には



「自分は悪くないし、なぜちょっとぐらいルールの逸脱や変更があったくらいでとやかく言われなくてはならないのか」



と心の底から思っている理由は、簡単です。



「そういうことが許される立場、それが理事長や会長職に上り詰めた人間のごほうびである」



と信じているし、むしろ「それを求めて、偉くなったのだ」と考えているからです。




「自分が目をかけてやった人間を取り立てて何が悪いのか」


「自分がこれを優遇しようと考えた施策をなぜ権限がないものにとやかく言われるのか」


「誰に何を任せ、あるいは任せず直接采配するのかを決める権限こそ、トップにあるのだ」



 すべてが万事、「ルールを創る側の人間・俺様がルールだ」のスタンスを取るものと、そのルールに支配されるものの話はかみ合わないわけです。





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 別に頂点に立たなくても、それぞれの立場で「偉くなる」とその立場において「ルールを一部変更する権限」は与えられるようになります。


 学校などでは、「警報が出たから今日は休校・注意報では授業あり」というルールがある場合でも、「局所的にうちの地域だけ天候上の問題が予想されるので、注意報レベルだが休校にする」などのように、校長ならではの「ルールの変更」が可能です。


 そうした判断は、少なくとも他の校長は文句をいいません。それだけの権限があるからです。


 あるいは高等学校などでは、「どの臨時教諭を採用するか」は校長の独断で決めることができるところもあります。


 すると、恣意的に「自分の気に入った人間だけを採用する」ということは可能だし、それが「校長の個人的好意に由来するのか、公平なる選考の結果なのか」は誰にもわからないということが起きます。


(これが表沙汰になったのが、某医大の女子差別ですね。告発や外部調査がなければ、こうしたことは外からは見えないのが普通です)




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 そうすると、「そのルールの変更・あるいはルールの創設が客観的に見て妥当か、あるいは個人的な主観に偏っているか」を判定することは、



 その偉くなった人物の性格や素養



によって決まってしまう、ということがわかるでしょう。




 簡単に言えば、「常識的な人物は俺様ルールで運用しても常識的な新ルールができるだけ」ですが、


「非常識な人物が俺様ルールを運用すると非常識な新ルールが出来上がる」


 ということです。



 そして、そういう人物がトップにならないように、国会や公共団体の政治においては「客観的、公平性がまだあると考えられている選挙など」を用いて、非常識な人物がトップに立たないように調整が効きますが、



「私的企業や、内輪の閉じた組織においては、別に公平な選挙が取り入れられる必要もなく、たいていは力関係で、上位下位が決まってゆく」



ため、結果として「俺様」が大量に生産されてしまうわけです。





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 ところが、こうした「偉くなる」こと像は、田中角栄が失脚したあたりから、現代にかけて実はかなり変容し始めています。


 それはやはり情報社会になって「俺様」たちが社会通念上の「常識」に照らし合わせて、



「さすがにこれは逸脱するとおかしいぞ」



ということで、内外から寝首をかかれるようになってきたからです。




 現代に向かえば向かうほど、「偉くなることは、相応の社会的責任を伴う」ようになってきたわけですね。




 これは、ある意味では良い傾向でもありますが、別の意味では



「偉くなることに、美味しさ・役得部分が少なくなる社会」


に変わってきたということでもあります。



 となると、偉い人は「俺さまルールで好き勝手もできず、美味しい思いも少なくなり、何かあったら責任だけ取らされる立場」ということが増えます。


 だとしたら、「多少の給料アップでは割りに合わない」ということが起き、こうしたことが若い人が管理職を希望しないことへと繋がっているわけです。



 つまり、偉くなることの魅力は、今も昔も「おいしい思いができる」ということにあったわけで、「おいしい思いができないなら、魅力は無い」ということだったのです。



 こうした事情で、日本社会は急速に「組織というものが崩壊」してゆくでしょう。



 「偉い」という概念が、急速に不確かで怪しいものへと変化してゆくのです。



 その証拠に「末は博士か大臣か」という言葉が昔はありましたが、現在では「博士号をとっても食べていけないし、大臣になってもどうせ失言でやめるんでしょ」というイメージになってしまっているわけで、まさに何もおいしいところはないということなんですね。




 鎌倉時代から室町時代にかけて「ご恩と奉公」(おいしい思いをさせてくれるなら、組織人として全うしてやるよ)が崩壊していったように、これから日本は戦国時代を迎えると思われます。



 弱きものやかつての部下たちが反旗を翻すのは、まさに下克上のはじまりかもしれません。