2016年12月25日日曜日

解脱者がエゴグラムをしたら驚愕の結果に!



 どうも。今日は世間ではクリスマスだそうですが、キリスト教を超越した解脱者には、あまり関係のないお話でございます。


 しかし、うちの家族にとってはそうではなかったようで、幼い子ども達は、チキンやら、ピザやら、あろうことかケーキまで晩御飯に食べやがって、あまつさえ



 夜中にゲロ



吐きやがりました。食べすぎです。



 というわけで、今日のクリスマスは、昨日洗ったはずなのにゲロ臭が消えない布団やらシーツやら、子供の寝巻きやらと格闘しながらはじまりました。



 もう、来年からクリスマス禁止!!!教祖のいうことを聞きなさい!




 ~~~~~~~~~~



 というわけで、うちのゲロリストたちのゲロリズムに壊滅的な打撃を受けた年末でしたが、来年は胃腸が発達してくれることを期待しています。



 さて、解脱者・武庫川散歩さんは、ふとしたことで



 エゴグラム



というものをやってみました。カウンセリングの知識もある武庫川さんのことなので、もちろんエゴグラムも知っているし、俗世にいたときにやったこともあるのですが、その時は



 別になーんとも思わない結果



だったような気がします。




 エゴグラムは、簡単な50くらいの質問に答えながら、性格の要素をPPAPに分類・・・・ちがうわ!


CP NP A FC AC  


に分類して、パターン化するものです。




CP 支配性・厳しい・批判力

NP 寛容性・優しい・親切さ

A  論理性・聡明さ・合理的

FC 奔放性・好奇心・自己中心的

AC 順応性・協調性・従う心




 このエゴグラムは、何がどうなれば「正解」というわけではなく、たくさんの性格のパターン傾向がわかる、というものなので、理想像たるものはありません。


 ただ、一般的にざっくり言って、


CPが中等度、NPが高く、Aが高く、FCが中等度、ACが中等度 (NPを頂点とするなだらかな山型)


だと、世間に順応できる健全な人柄だと言えるでしょう。




~~~~~~~~~~



 さて、解脱した武庫川のエゴグラムを大公開!とても面白い結果が見えてきました。






CPが中等度、NPが高く、Aが高く、FCが中等度・・・


 ほら、ここまではとっても健全!そして最後のACだけが、やたら低い。

 これは、



「他人にいっさい順応しない」「他からの評価をまったく気にしない」



ことを意味します(爆笑)




 解脱してますね~。



 さて、解説です。 某分析によるとこんな感じ。




 宗教家タイプの類型です。

 ただ、批判力や頑固さは強まっています。本来の宗教家タイプでは「他者への寛容さ」も特徴ですが、それが弱くなっており、逆に強いリーダーシップが見られます。

 道徳的な感覚と合理主義がバランスよく成立していながら、独自の生き方を進んでゆくタイプです。

 高い分析力・判断力・明晰な頭脳を持っていますが、自己流で意志の強いところがあるマイペースな人柄であるともいえます。


 恋愛においては、相手に対してわがままな行動を取りがちですが、深い愛情や相手を思う気持ちがあり、破綻はしていません。

 現実的な判断力があり、家庭を大切に思う気持ちもあるので、家族生活はうまくいくと思われます。


 医師や宗教家、カウンセラーなどが向いています。何か問題を抱えた人の面倒を見る仕事が最適かもしれません。

 
 問題点があるとすれば、他人の意見を気にせず、独自の生き方をしている点です。協調性がないことで、社会においては問題になることがあるかもしれません。

 他者に依存する必要はありませんが、多少は合わせることが良い場面もあるでしょう。 』




 つまり、思いやりの気持ちがたくさんあり、合理的で現実的な対応ができ、リーダーシップが強く、俗世のことをまったく気にしないという



 まさに神!


 まさに悟りを開いた者!


 ヒューヒュー!



ということですね。



 というわけで、エゴグラムができるサイトとかたくさんあるので、みなさんも解脱前と解脱後で比較してみると楽しいと思います。



 


 





 

 

2016年12月13日火曜日

さみしさ とは何か ~どうして人はグレるのか~




 先日からとある事情で『寂しいとはどういうことなのか』についてずっと考えています。



 これはとても簡単な話のようでいて、実はかなり奥深い問題なので、さすがの解脱者・武庫川散歩であっても、



「ああ、それはこれこれこういうことだよ」



とさらりと回答できずに、珍しく思索にふけっている次第です。



 実を言うと、解脱者ムコガワは、少年時代から明るく元気でさわやかであったものの、その内面においては、基本的に孤独を愛する文学少年であったので、



「寂しいという不安にかられたことがない」



稀有な人生を送ってきました。ええ、ええ天性のボッチくんだったのです(^^



 実際、結婚した今の嫁はんからは、私の数少ない友人と実際に交流があることを知って、


「あんたに友達がいるなんて驚いた」


と言われたほどで、基本的には交流関係はとても薄い人間だと自覚しています。




~~~~~~~~~~



 しかし、一方でこの「寂しさ」「さみしいという気持ち」をどのように受け止めてよいかわからずに、 思春期の多くの時期を



 悶々として過ごしたり、あるいは


 グレてしまったり、



する人もたくさんいます。彼らにとっては、この得体の知れない「さみしさ」は、恐怖と畏怖そのものであり、自分でも処遇することのできない


 内なるモンスター


のようにふるまう脅威だったりするわけです。





 さみしさとは一体なんなのか。その正体を突き止めることができれば、あるいは「さみしさ」ゆえに苦しんでいる



 世界中の少年少女たちを救う



ことができるかもしれないのです。




~~~~~~~~~~




 発達心理学の分野では、この「寂しさ」の正体を



 親から受ける無条件の愛着



の不足であったり、欠如として考えている説もあります。



 なるほど、生まれたときから親によって無条件の愛を注がれることで、自分の中に



 自己肯定感



が生まれ、それがうまく形成されなかったり、欠如したときに「寂しさ」を覚えるというのは、わかりやすい考え方だと思います。



 しかし、仮にそうだとしても、それのみですべてを説明することは難しいように思うのはなぜでしょうか。


 成長期において、なんらかの成果を挙げたり、たくさんのものを手に入れたり、成功体験を積み重ねても「寂しい」と考える人はたくさんいるし


 両親が愛情を注いでいたとしても、その愛情の中身を子供なりに判定して「あいつらの愛は、正しくない」という見方をするものもたくさんいます。


 そもそも、親だって時には子供を否定する気持ちになるものです。夜泣きするとか、うんこが臭いとか、ゲロ吐かれたとか。勘弁してくれよ、と思った瞬間だって、確実にあるのです。




 ~~~~~~~~~~



 さて、「寂しさをあまり覚えない」ムコガワさんの個人的な話で言えば、ムコガワさん的には、



 他者との関わり度合いなどは、あまり寂しさの指標と関係がない



という感覚を持っています。



 つまり、”誰かがかまってくれるから寂しくない”とか”誰かがかまってくれないから寂しい”という類のものではなく、そこに他者がいようといまいと、あまり関係がないような感覚があるのです。



 そうすると、つまり、先ほどは「自己肯定感」において寂しさを説明しようとしましたが、


「これこれが出来たから(他者が肯定したから)自分を肯定できる」とか


「こういう成功体験があるから、自分を肯定できる」
 
といった話とは、実は別の次元なのではないか、とも仮説が立てられるわけです。



 これがもし別の次元の話だとすると、


「成功体験を積み重ねても、さみしいものはさみしい」


という人がいることを、説明できることになり、話が合致してくるわけですね。


 

 ~~~~~~~~~~




  さて、私の知り合いは、どちらかというと「さみしさ」を感じるタイプの人なのですが、その人物におもむろに


「さみしさとは何か」


について尋ねると、とても興味深い答えが返ってきました。



 ちなみに、この人は、両親から愛情を注がれなかったか?といえば、たぶんしっかり注がれているし、愛されて育っていると思うのですが、それでも根っこの部分に「さみしさ」が横たわっている人であったりします。


 とすれば、その「さみしさの正体」はどこにあるというのでしょう。その答えを聞いてみましょう。




『生きるとか死ぬとか、そういう端的なものではないけれど、この世界のあやふやさや、宇宙の終わりなどについて、思ったり考えていると、体感としてとても寂しい感覚が襲ってくる』


という答え。



 ムコガワも、おなじくこの世界のあやふやさについて考えているのに、なぜか真逆なこの答え。



 とても興味深いと思いませんか?




 これを心理学的に見れば、



「死の恐怖の変化形。つまり、自分も含めて認知しているこの世界が無くなるということについてのどうしようもない不安と恐怖が、さみしさとなる」


みたいな解釈もできるのかもしれません。



 ところがムコガワの場合は、真逆で、


『あやふやで、消滅するはずの世界の中にある自己のありありとした現実感が、世界が儚ければ儚いほど浮き彫りになって生き生きとしてくる』


みたいな感性があります。だから寂しくない。



 ああ、なるほど、先の感覚が「死の象徴」であるとすれば、こちらは「生の象徴」なのかもしれませんね。





~~~~~~~~~~




 私の数少ない友人の1人が、


「花というものの美しさ」


についていろいろと考察している話を聞かせてくれたことがありますが、花というのは、死の象徴であり、かつ生の象徴でもあります。



 一生に一度だけ、死を目前に竹の花が咲くように、本来花というのは、自分の死に対するアンチテーゼとして存在します。



 とすればそれは死の予兆であり、象徴なんだけれど、しかしながら、あまりにも美しく生き生きとした姿で見せ付けてくる花は、逆説的に



「いのちの証、象徴」



でもあるのです。






~~~~~~~~~~



 このように考えると、さみしさというのは「儚さや死という世界に取り囲まれながら、いかに自分の生を実感できるか」という部分に関係してくるような気がします。



 それが、ごくごく幼少の頃に、何らかの形で「植えつけられる」のか「勝手に生じる」のかはわかりませんが、形成されてくるわけです。恐ろしいことに!



 そして興味深いことに、親から愛情を注がれても、おそらくは「儚さや死という世界の先」を見てしまうこどもたちはたくさんいるのでしょう。


 言語や体験で言われたり、与えられなくても、自分たちもそのセカイの中にいるのだから、彼らは


「感じ取り、気づく」


ことができるのかもしれません。



 その時に、彼や彼女なりの心にストンと落ちるような理解や体験を得たものは、そんなことは心の奥に忘れてしまってその後の人生を過ごせるのでしょうが、



 その気付きが恐怖となり、それが引っかかっているまま


のものは、得体の知れない寂しさとなって、残り続けるのかもしれないのです。










































2016年12月9日金曜日

うつ病のメカニズムを解明した! ~鬱病や心の病に至るプロセスを解読する~



 最初にお断りしておきますが、私は医者や医療従事者ではなく、そこらへんにいる一介の解脱者なので、今回のお話は



 医療的側面、よりも臨床的なもの



として語りたいと思います。




 解脱者、武庫川散歩は、その特異な経歴により、これまで多くの「心を痛めた人たち」と接してきたわけですが、それらの人との交流を通じて判明したことがあります。



 それは、医学的にはまだよくわかっていないとされる



うつ病のメカニズムを解明した!!したったら、した!



ということです。



 このブログ的には、これまでうつ病などの心の病は、「正義のゆらぎ」によって生じるのではないか?としてきました。


 ではなぜ


「自分がこうありたいという理想や、こうであるのが良いであろうという考え」



「現実の自分が置かれた環境や、状況」


が異なると、心の病を発症してしまうのでしょうか。



 実は、このあたりは、わかったようでいて、わからないものだったのですが、武庫川はその解明に乗り出したのです!!!



~~~~~~~~~~


 医学的には、うつ病などの心の病を発症した状態は、


「セロトニン・ノルアドレナリン・アドレナリン・ドーパミンなどを総称したモノアミン」


が減少して、脳細胞間の神経伝達物質がうまく働かなくなっている、とされています。



 これは、簡単にいえば、「原因は取りあえず横に置いておいて、結果的に神経伝達物質が減っているよ」ということです。



「じゃあ、どうして神経伝達物質が減ってしまうのか」


が原点に立ち返った時の「原因」に当たるのですが、これが医学ではいまいちきちんと解明されておらず



「た、たぶんストレスが原因なんじゃないかな??」


ぐらいのところで終わっているのが現状です。




 結果的に起きている神経伝達物質の不調、という意味では、たとえば躁鬱病では、


「伝達物質が出るとか出ないとかを制御している機構が故障して、ドバッと出たり、チョロっと出たりしている」


という脳機能の故障を原因とする場合もあるでしょう。



 あるいは発達障害や精神的な遅滞のように、


「伝達物質が生成される量がもともと少ないとか、それを出す機構がもともと弱い」


とかもあり得るでしょう。



 しかし、健康で健常だった人が、いろいろな状況でうつ病や鬱状態になってしまうのは、一体なぜなのでしょう?



  武庫川は、解脱者であり、この世の善悪を超越した悪魔のような存在でもあるのでグハハ。


 そこで考え付いたのが、


「じゃあ、どうやれば健康な人間のモノアミンを減少させることができるのか」


という悪魔的思考だったりするのであります。ウヘヘ。




~~~~~~~~~


 ちょっとふざけて書いてしまいましたが、実はこの発想が、うつ病のメカニズムに大きく関わっていると私は考えています。



 神経伝達物質モノアミンの出力量を、人工的に変えてしまう悪魔のような実験があるとしたら、それは、



「報酬系を破壊すること」



に他なりません。報酬系というのは



報酬系 ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%B1%E9%85%AC%E7%B3%BB



欲求が充たされそうだと思ったり、あるいは充たされた時に快感を覚える脳のシステムのことで、うつ病患者は


「報酬系が、機能していない」


状況が見られることがわかっています。



 もちろん、これを人為的に引き起こそうとすれば、神経伝達に関わる部位を焼ききってしまったり破壊すればいいのですが(・・・・悪魔)、そんな物理的な方法を取らなくても、これを壊すことができるのではないか、と武庫川教授は考えてしまったのであります。





~~~~~~~~~~




 その恐怖の実験を再現してみましょう。


 ある動物に、このボタンを押すとエサがもらえるよ、という報酬系の条件づけを行うとします。


 一定期間においては、行動をすることと、エサがもらえるという快感情は、合致しています。


 ところが、その条件付けが成立した後ぐらいから、ボタンを押すと不快な電気ショックが流れ、かつエサが貰えたりもらえなかったりする、というパターンへと装置を切り替えるとします。


 エサが貰えるので、報酬は生じているのですが、同時に苦痛にさいなまれる、という状況を生み出すのです。
 


 この場合、この動物がエサを貰うためにボタンを押す、という作業量はどのように変位するでしょう。



 これは実際に実験をしてみないとわかりませんが、たいていの人に予想がつくのではないでしょうか。


 おそらく、ボタンを押す回数は、徐々に減少してゆくと思われます。



 動物にとっては、


「ごはんを食べるという意欲が減少する」

「ボタンを押すという行動も避けがちになる」

「そもそも、ごはんを食べる量も減る」


という状態になるはずです。


 これは、生きる気力が低下している「うつ病」の症状に似ていませんか?





 ~~~~~~~~~~




 武庫川が妄想している悪魔的実験は、ただの妄想ですが、現実社会の中でこれとおなじ状況に落とされている人たちはたくさんいます。



「給料をもらうためには苦痛を伴う仕事を続けなくてはならない」

「夢や目的を実現させる、というためにハードワークを余儀なくされている」

「こうあるべき、という理想に対して、現実がひどく違う」


という状況は、 エサを貰いつつも電気ショックを与えられている動物のようです。




 報酬とは何か。何をすれば報酬が与えられるのか。という問題は、本来は単純であり、簡単な条件付けであると言えるでしょう。


しかし、


報酬を貰うという行動が果たして快なのかわからない状況





報酬と苦痛がアンビバレントな状態で組み合わされる提示



などが多々起きると、 私たちの脳は、意外と早く



報酬系の破壊



を起こしてしまうのではないか、と思います。



  現代社会は複雑怪奇であり、さまざまな立場の人間の思惑に支配されていますから、社会が複雑化すればするほど、



「報酬のありようが、一筋縄ではいかなくなっている」



という現実があります。






~~~~~~~~~~


 もし、上記の実験によって心が壊された動物がいるとすれば、どうすればその動物を救うことができるでしょう。



「もうボタンを押さない」


というところまで行き着いてしまえば、それはエサを食べられませんから自死まで行ってしまうということになります。


 うつ病で、自殺を選択してしまう人は、そこまで完全に報酬系を破壊され、生きるという選択を失っている状態だと言えるわけです。



  ということは、かろうじてボタンを押せる間に、



「ボタンを押しても、電気ショックは流れない」



という状態を確保しなくてはなりません。



 そして再び、「何度押しても、何度確認しても、電気ショックは流れず、エサがちゃんともらえるんだ」というところまで安全を保証してやる必要があるでしょう。



 そうすればこの動物は、再び最初のように、意欲的な行動を取ると推定できます。




 とすれば、電気ショックを与えているのが職場であれば、


「ボタンを押さなくなってしまうまえに、その職場を離れるしかない」


ということになります。



 そして、報酬系を再生させるためには、


「自分が取った行動と、報酬が合致するシステムの上に乗る」


ということが不可欠だとわかるでしょう。




 もちろん、リアルな社会の人間は、「職場」だけでなく、たくさんの要素を「報酬」として定義しながら生きていますので、「仕事の問題」だけを解決すればいいわけではないし、自分が心に描いている


「善なる状態、正義の状態」


はたくさんの領域に広がっているということもあります。



 たとえば、上記の動物実験において、「エサとしてはかなりおいしくはないけれども、食べられるし腹をみたせるもの」が出てくるボタンがどこかに設定されていたら、 どうでしょうか。

 このボタンからは電気ショックが出ないとすれば、


「自分の本来の望みとはちょっと違うし、快い報酬ではないけれど、まあ生きていける」


という行動を取るようになるかもしれません。


 動物は最後まで本来のエサである「電気ショックつきボタン」に挑戦し続けるでしょうか?

 そんなことははない、きっともう一つのボタンを押し始める、となんとなく思いませんか?







~~~~~~~~~~


 以上が、解脱者武庫川散歩が解明した「うつ病」のメカニズムです。


 あなたの報酬系は、今まさに破壊されそうになっているかもしれません。


 そうだとすれば、ボタンを全く押せなくなる前に、他のボタンを探したほうがいいかもしれません。


 
 私は、他のボタンが必ず隠されていることを知っています。



 ぜひ、それを探してみてください。











































2016年12月7日水曜日

うつ病女子の治し方。 ~え?鬱病男子は?の巻~




 解脱してお気楽極楽な人生を歩んでいる解脱者、武庫川散歩ですが、こんな私でも




 うつ病(鬱病)




に一度だけ罹患したことがあり、今となっては「そんなこともあったなあ」という懐かしい思い出でございます。




 そんな体験もあって、いろんな状況で、うつ病や心の病にかかった人たちと交流することが多いのですが、今日はもはやそのものズバリ



 うつ病の治し方



について説明したいと思います。


★ 私は医者ではなく、解脱者ですので、医者の監修による記事ではありません。医学的見地ではなく、解脱的見地で書きますので、そこのところは誤解なきよう。


 あくまでも個人の感想です。当社比。




~~~~~~~~~~




 さて、タイトルで「うつ病女子」と女子に限るような書き方をしましたが、なんといっても男女平等社会ですから



うつ病男子



をほって置いているわけではありません。 おいおい後で説明をしますが、うつ病男子よりも



うつ病女子


のほうが、諸般の事情により手助けが必要な場合が多いので、あえてここは優先している次第です。




 さて、うつ病や心の病なるものは、私の言説によれば(ずっと何度も書いていますが)


■ 自分がこうありたいとかこうあるのが良いのではないか、という設定





■ 現実に起きている状況、自分を取り巻く状況



とのギャップによって精神が疲弊することによって生じます。



 これを武庫川は、勝手な命名ですが「正義のゆらぎ」と称しています。




 ★正義のゆらぎ、の概念については
http://satori-awake.blogspot.jp/2015/02/blog-post.html 

http://satori-awake.blogspot.jp/2016/04/blog-post_14.html 


も参照してください。



~~~~~~~~~~



 さて、「自分がこうでありたい」とか「こうであるのが望ましい」というイメージがいわゆるあなたの中での【正義】の状態なのですが、現実はそれとは全然違う状態が起きていて、


「周囲がそうさせてくれなかったり」「そういう能力があなたに不足していたり」「環境がそもそも異なっていたり」


することが多く、 あなたは



「心の中が、”不正義”の状態で葛藤する」



ことになるわけです。



 そこで、うつ病になる前の「正義のゆらぎ」状態にある人は



「自分は正しいのに、なぜこういう現実なんだろう」

と思ったり

「自分はよいと思われる方向に頑張っているのに、なぜ実態はそうではない方向に行くのだろう」

と思ったりします。



そして、心がストレスフルになってゆくわけですね。





~~~~~~~~~~




 この対策として、最も端的な解決方法は、とても簡単で、



「現実が不正義なのだから、正義ではない状態を認めること」



 が、あなたと周囲を合致させる最短の技術ということになります。



 ものすごく荒くたい例で言えば、「戦争はいけない」とか「人を殺めてはいけない」という理想と「実際には戦争がある」とか、「毎日殺人が起きている」という現実を突き合わせるには



「なんだ、人は殺人し、戦争を起こす生き物なのだ」


と認めることで、これが一番正義がゆらがなくなる答えだということです。






 ところが、人というのは短絡的ですから、「じゃあ、人殺しをしていいんだ!」になってしまいます。


 しかし、よく考えると「本当は人殺しはしてはいけない」という理想的正義を頭の中に掲げているのに「人殺しはいいんだ」という結論を持ってきてしまうと矛盾を解消できていない、という問題が生じるのですね。


あれ?なんだかうまく行ってない!


ということになるので、マズイのです。





~~~~~~~~~~



 そこで、うつ病女子の治し方では、ちょっとした技術があって



「命題としての正義を放棄する」のではなく

 
「命題としての正義=つまり自分の中の理想」を放棄せず、「現象としての正義」を放棄する



というワザを使うことになります。




 これは、大変に興味深いコツ、ですね。



 たとえば、とあるうつ病女子が、


「自分は仕事にも恋にもちゃんと向き合いたいし、きちんとしたいのに、それが出来ていない・出来ない環境である」


ということに打ちのめされているとします。



 この場合、命題を放棄すると


A「仕事も恋もどうだっていいんだ。そんなものに価値はないんだ。知らないわよそんなの」

 
という考え方になり、これはこれで現実とは合致しますから一定の解決法ではあります。



 ところが、これだと現実に即しているので頭の中と現実は強引に合致させてはいますが、理想論としてのそもそもの「正義」とはズレが生じています。


 そこが苦しい。そこが悲しみの源流であるわけで、解脱者的には、そこを否定はしないのです。



なので、命題ではなく、現象としての正義を放棄します。



B「仕事も恋もちゃんとしたい自分がイメージの上のほうにいることは認めるけれど、それが出来ていない自分も、ここにちゃんと存在してる。それはそれで認めよう」



という考えが、それに相当します。



 これをキャッチーな言い方でいえば




ダメ人間の肯定



といいます(笑)




 セカイはダメで終わっている、と「セカイのほうを悪者」にしてしまうと女子は「もうなんか全部どうでもいい」とクソビッチ化しますので、そうじゃなくて、



「今の私は出来てないけれど、それはそれでいいんじゃない?」



という部分を肯定してやるわけです。



 


~~~~~~~~~~



 これが、いわゆるうつ病対策としての「逃げる、休む、いったん捨てる」ということに当たるわけですが、


「苦しかったら逃げていいんだよ」


を真に受けて、最後まで逃げてしまうとえらいことになります。




なので、いったん「現象の肯定」をすることで不正義でもよい、という状況に落とし込んだら、今度は



「じゃあ、不正義の状態(でもいいけれど)それを正義と合致させるためにはどうしたらいいんだろう」



という正のベクトルで物事を捉えてゆくことが大切になります。ここから先は回復のための技術ですね。



 不正義の状態でも構わない。これは大前提です。しかし、そこからあなたの心にある「理想像」や「正義像」に現実を近づけてゆくためには、どんなことができるか。



 今度は、それを小さな行動として積み上げてゆくことが、心を大きく変えるチャンスとなってきます。



「ああ、これが出来ていなかったなあ。じゃあ、どうしたらちょっとでもいい方向へいくかなあ」

「ああ、今はこの段階だけど、ひとつでもアップしてみよう」

とか、そういう思考です。



 そうすると、今度は、「良いこと、成功体験、正しいこと」が少しずつあなたの中で増えてゆきますので、心のベクトルは必然的に


「正義」



の方向へと進んでゆくことになります。これが新しいあなたですね。






~~~~~~~~~




 さて、そうした「正のベクトルの小さな積み重ね」が一旦落ち込んだあなたを再び健康な状態へと導いてくれるのですが、




 人間の脳みそは発火出力モデルで出来ている




ということがここで登場します。



★発火出力モデルの例


出口氏による解説
http://www.gifu-nct.ac.jp/elec/deguchi/sotsuron/matsuno_ad2/node5.html
 
岡坂氏による解説
http://www.lab.kochi-tech.ac.jp/future/1110/okasaka/neural.htm 



 これらの図は、誰の説明でも一緒なんですが、ようするに、人間の脳みその細胞は、



「外から複数の刺激があってはじめて、次の神経細胞へ発火出力が起きる」



ということがわかっているのです。



 これはどういうことかというと、心の病というのは神経細胞が弱っているわけですから、ものすごく平たく言うと、



「外部からの手助けがないと、自分で頑張ろうという意欲は発生しない」




ということと言い換えてもいいのです。



 人間の神経細胞は、自分自身でスタート出力を出せないのです。


 複数以上の外部刺激がないと、信号が出ないわけですから、


「自分ひとりでうつ病を解決しようとしても、難しい」


ということが証明されちゃっているのですね。




 だから私はうつ病女子には、ものすごく関わり合うし、彼女たちの正義のゆらぎを修正するための



「考え方のヒント」





「別の認知の方法」



についてどんどん信号を注入するということをやってます。


「ダメっ子でも可愛いよ」

とか

「スッピンも好きだよ」

とか

「どんな君でも・・・ぎゅっ」


とか、そういうことです(え?!)




 もとい。


「そういう考え方もあるし、こういう考え方もあるよ」

とか

「今は出来てなくても、いいじゃん。」

とか

「別のルートがあるとすれば、何だと思う?」

とか、そういう関わり方です。






~~~~~~~~~~~


 最後になりましたが、なぜ男子ではなく、女子ばかり取り上げているかの説明をしておきましょう。



 男子というのは、基本的には狩猟採集する生き物ですから、外部刺激がないと発火しない出力に対して、基本的には


「外へ出て行く」


習性があります。つまり、刺激を自ら受けにいかないといけない状況になることが多いのです。



 それは具体的には


「うつでも仕事にいかねばならない」とか「嫁はんと子供がいるので、物理的に周囲で騒いでる」

とかそういった環境を指します。




 ところが、女子は、いったんうつ病になると、引きこもったり仕事にもいけなくなることが比較的多いのですが、それは元々



「妊娠出産の際に、無防備になるため外界と接触しない」


という本能に基づきます。



 常に食料を求めて外界へ出て行こうとする男子と、生理や妊娠出産の際に血の臭いを外部に漏らすと外敵に襲われる(あるいは子を奪われる)可能性のある女子とでは、


 行動パターンが大きく変わる


のです。



 


 え?ひきこもってる男子はどうすればいいかって?



 まず、外の光を浴びなさい!!!

















2016年12月5日月曜日

貧困や格差、あるいは家庭崩壊や暴力すらも乗り越えられる「生きるための力」とは何か。




 これまでに、このブログでも何度か触れていますが、解脱者である武庫川散歩は、



「人が、困難や逆境にあってもそれを乗り越えられるような生き方ができる軸足


であったり、


「人がより幸せに生きることができるようなベースとなるもの」


を、このセカイに提示することができないものか、といつも考えています。





 もちろん、たとえば苦しんでいる人たちの事態を好転させるには、


「家族や友人といった周囲の人たちの援助」



「政府や行政といった公的な助け」


があるに越したことはありませんが、残念ながらそうした手段を得ることが出来る人は、結果として



ラッキーである



と思わざるを得ないほど、 少ないのが現実だと思います。




~~~~~~~~~~



 その大きな理由は、近代の欧米化された日本では、「個人主義」が蔓延していて、戦前まで存在していた


「家族制度(どちらかといえば大家族制度)」


が崩壊し、 父・母・子といった最低単位の家族でさえも、


「離婚による解体」

「子供が都会に出て、老人が田舎に残るという分断」


などの状況で、細かくみじん切りにされてしまっていることにもあると考えられるでしょう。





 そうした中で、経済的にであったり、あるいは物理的に孤独になってしまった人は、自己責任の名の下で、



 幸せだと考えられる、生のクオリティを上げることが難しい



事態に陥っているというわけです。





~~~~~~~~~~


 しかし、仮に貧困や格差・家庭崩壊や暴力などの「困難な状況」にあっても、


 そこから立ち上がり、幸せに生きることができる軸足


のようなものが存在するとしたら、 これは大変に力強いすばらしいものなのではないか、と誰もが思うことでしょう。



 今日は、そのヒントが見つかったというお話です。




 信じるものがない人間ほどもろい (プレジデントオンラインより)
 http://president.jp/articles/-/20738





 今回引用した記事は、中米のギャング団に入らざるをえない貧困な少年たちのルポです。彼らの生活は、おそらく問題を抱えた日本人の暮らしよりもはるかに壮絶で、酷いものですが、そこに


 希望の光があった


といえば、みなさんも驚くことでしょう。



 その希望の光とは、記事中に答えが出ていますが、結論をズバリいえば



 キリスト教



ということになるでしょう。どんなに酷く、苦しく、どうしようもない生活や環境、そして現実が取り巻いていても、キリスト教のベースがあれば、

 

 救われる・希望がある・暮らしを変えることができる


 
という事実は、私たち日本人にとっては、(キリスト教文化圏にいないので)他人事ではあるけれど、


ある意味、うらやましい



と思えるほど、気になる現象なのではないかと思います。




 私たち現代の日本人は、高度に無宗教化され、宗教的価値観をまったく失っていますが、そのことはすなわち


 救いや希望も失っている


こととイコールになっていることに気付かざるを得ません。



 私たちは、キリスト教徒になりたい!とまでは思わないまでも、私たちのための
 

 希望や救いのヒントは、存在しないのだろうか?



と渇望してしまうのです。




 ~~~~~~~~~~




  記事中には、こんなことが出てきます。


 ラテンアメリカにおけるキリスト教は、500年以上の歴史を持ち、信仰はさまざまであっても、「いざ」というときには神を思い浮かべる。
 
 神の存在のおかげで、絶望しなくて済む



 このことから武庫川は、いくつかのポイントを見出しています。それは、


 ■ 本来、キリスト教は外部からもたらされたものであるのに、そこに救いがあること。

 ■ 絶望しなくて済む「なにか(軸足)」が存在するということの価値


に他なりません。



 だとすれば、これを読んでいるあなたにも、


「たとえ外部からもたらされたものであっても、あなたが生をまっとうするだけの軸足たるなにか」


がきっと必ず見つかるはずだ、という希望が確かにあるのです!




 著者の言葉を引用しますが



「極限まで追い詰められた人の心を救うのは、自らの信念もしくは、何かしらの信仰なのかもしれない。信じるものがない人間ほど、もろいものはない。自分自身も誰も深くは信じられず、救われる方法はどこにもないと感じたとき、人は生を放棄する。だが、そこに信仰があれば、かすかでも希望が残る。」



ということは、万人にとって重要なことなのではないかと考えるのです。



 悟る、ということや解脱するということは、現代人にとってはブッダに帰依することを意味しません。

 ましてや、欧米のようにキリストや神にすべてを投げ出すことでもありません。


 

  しかし、今のあなたには「何もない」状態であっても、必ず「軸足」となるものは見つかるはずで、それは



 信仰ですらなくても大丈夫



だと武庫川は考えています。 著者は「自らの信念」ということばで表現していますが、これは明らかに現代人に向けてのメッセージであり、「信仰以外の何か」でも大丈夫であることを緩やかに説明しているものと考えてよいでしょう。


 私も同じように「信仰」のみがすべてだ、とは言いたくないからです。







~~~~~~~~~~




 最近、武庫川は「この軸足となるもの」をなんとか平易に説明することはできないものか、と腐心していますが、なかなか難しく困っています。


 武庫川と直接話したり、メールをしている人たちなどには、おぼろげながら「軸足を構築する作業」というのは実際に体験していただけていると思うのですが、彼ら・彼女たちが最終的に身につけていっているのは、


「生きる自信」


のようなものだと思います。目の前にどんな苦境やトラブルが生じていても、それに引っ張られすぎず、できるだけ穏やかに対応できる力のようなものを、彼らは少しずつ身につけているように感じます。


 そうした軸足をもうすこし昇華させることができたら、今度は「不幸を乗り越える」というネガティブな場面ではなく、


「より幸せに生きる」


というポジティブな方向へ人生を進めることができるのですが、それはまた次のステージということで。
 



 ★ 武庫川へのご相談がある方は、無記名でもかまいませんので、メールをくだされば出来る限り思うところを述べたりします。遠慮なさらずにどうぞ。














2016年12月2日金曜日

”わたし”を生きづらくさせているのは、ほんものの”私”ではなく、仮想的に設定された虚像の”わたし”である。 ~拝啓 北条かやさま~



 そろそろ身体も凍えそうになってくる冬の季節ですが、みなさまいかがお過ごしですか?


 貴方のこころをそっと暖める、ハートウォーミングな稀代の紳士こと、あなたの武庫川散歩の妄想のお時間がやって参りました。


 ・・・ いやあ。寒いです。懐も。ふだんは世を忍ぶ仮の姿のサラリーマンをしている武庫川ですが、今年も業績が悪くボーナスがどうなるのやら。


 でもまあ、解脱しているのでボーナスが少なかろうが、あるいはいっそ無かろうがしったこっちゃありません。



 ボーナスがなかったりもするけれど、わたしは元気です。(by危機)




 ただ、ボーナスがないと、前の嫁はんに慰謝料が払えないので、その分くらいはどっかからか段取りしてこないとダメなんですが、


・・・・え?寄付してくれる?


ありがとうございます。貴重な喜捨ですな。喜んで受け取りましょう。メールくれたら振込先をご連絡申し上げますよ。はい。









 さて。いつものようにとりとめのない話から始まったこのブログですが、今日もまた心を痛めた1人の女性がおられるとのことで、そのあたりをお話しようと思います。


 北条かや、さんというネットではこれまでにそこそこ興味深い文章を書いておられる方がいるのですが、私が知らない間に炎上したり、つらい思いをなさっていたりしたそうで。


ウィキペディアより 北条かや さん
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E3%81%8B%E3%82%84



 ちなみに武庫川は、キャバクラとかキラキラした女子がいるところは避けて、隅っこに逃げながら歩くような


 ゴキブリみたいな男


ですので、かやさんみたいな美しい女性には目を合わすことすらできません。


 ただまあ、別れた嫁はんに、どことなく似てるなあ、というそれくらいのことです。




~~~~~~~~~~



 さて、昨今はお元気になっておられるようですが、彼女がネットで炎上した後、ずいぶんと心がくじけておられた時の経緯が、withnewsに載っていたので、そこから解脱者が思うところを少し書いてみたいと思います。



インターネットで死ぬということ 1度の炎上で折れた心

http://withnews.jp/article/f0160918000qq000000000000000G00110201qq000014021A





炎上・入院・エゴサーチ…「底つき」の果てに得たコンパス

http://withnews.jp/article/f0160919001qq000000000000000W02u10201qq000014022A



 詳しいことは、ご本人の弁に譲るとして、人間が悟りを開く上で、大事なポイントがいくつかあるなあ、と思うのでまずはそこから。







■1■ 「キャラクターを作りあげてきた」


 ネットにおいても、現実社会でも、人は立ち位置やポジションを求めて、あるいはそのポジションを維持しようと「キャラクターを作り、それを演じる」ということは多々やっているものです。


 この武庫川散歩でさえも「解脱者」というこれまでになかった斬新なキャラ設定で活動しておりますので、近現代でいえば解脱者なんて名乗っていたのは


 あのシト。 ・・・・けして口にできないようなあのシト・・・。(ヴォルデモートか!)



ぐらいしかいません。 いやいや、わたしは浮遊しませんよ!



 北条さんは、これまでに(あるいはこれからも)一定のキャラクターを作り上げ、そのキャラクターにおける「評価」を気にして生きてしまったので、傷つくことになったのですが、実は、そのキャラクターは自分でおっしゃるとおりの



 設定



に過ぎず、ほんとうの、本物の、中身の「北条かや」さんではありません。



 とすれば、彼女が苦しんでいるのは、



 虚像の自分に対する、評価



に対してである、ということなのですが、これはちょっとしたミソですね。



 もし、苦しみを生じさせ、生きづらくさせている元凶が虚像なのだとすれば、解脱者のアドバイスはたった一つです。



「北条かやを脱ぎ捨てればいいんぢゃない?」



ということになります。



 どうせ虚像なのですから、明日から「西条やそ」になっても全然構わないわけで、そうすればその瞬間から私たちは


自由


になれることは請合いです。


 (西条八十が出てくるあたりが、武庫川の知性を感じさせるでしょ?)



 しかし、北条さんがそれを選択しなかったのは、これまでに作り上げてきた「北条かや」という資産を失うことにもなるので、それがサンクコストになることがどうなんだろう、という迷いがあったのかもしれません。わからんけど。

 もちろん、北条かやを捨てれば、経済的に立ち行かなくなる、という不安もあったのかもしれません。わからんけど!


 ★これは、興味深いことに「ブラック労働とわかっていながら、そこから抜け出す勇気が出せない高学歴女子」とおなじ心理構造になっていることに気付くでしょうか? 







 ■2■ 好かれたい、という病



  できれば万人に好かれたい。あるいは高く評価されたい。マイナスな評価をされたくない。というのは、誰もがふつうに思うことで、それは罪ではありません。


 この解脱者武庫川ですら、できれば美女に囲まれたいし、万人に「よっ!今日もキレッキレに解脱してるねえ」と言われたいと思っています。

(しかし、別にそんなのはどうでもいいんですが。)


 ですが、ここにまた大事なツボがあって、



 どんなに愛されても、ほんものの中身を愛してくれ、評価してくれ、好いてくれる人なんてそうそういない



ということが大事なのではないかと思うわけです。解脱者は。



 先ほど述べたように、好いてくれたとしてもしょせんは「虚像に対して」の評価ですから、それは空しいものに過ぎません。


 そんな空しい愛をいくら積み重ねても、「生きづらさ」はけして解消しないだろうなあ、ということはとても重要なことだと思います。


  奇しくも、アドラーの「嫌われる勇気」が人気ですが、武庫川もそれを目指して


嫌われまくってやる!


と硬く誓っているのであります。というわけで、今日も好き放題、放言をかましているわけで。




 武庫川は、究極的には「わかってもらうこと」がポイントなのではないのです。



 このセカイに、武庫川散歩が存在している事実。それだけがむやみに楽しいし、面白い。


 そして、それが仮に無評価であったとしても、わたしの内側では実存であり実感であり、リアルだ。


ということがめっちゃくちゃ意味をなしているのです。



 これが無常なセカイに、私達が生きている価値であり、意味だと思います。



 

==========




 承認欲求というものが人間にはあって、それはとてつもないパワーをもたらすこともあるし、また自分を傷つけることもあるのは、十分わかっているのですが、私は最終的には



 人というのは、他者から見た自分ではなく、自分の中身そのもの



が本質である、と考えています。


 ところが、これが意外と難しく、「自分で自分の中身をきちんと把握する」ということは、なかなかできるものではありません。



 どうしても仮想的に自分を見て、虚像としての自分を形成してしまうこともあるし、他者の評価に合わせすぎて心を壊してしまうこともあるのです。



 
 解脱者的には、そうしたものに惑わされず、自分で適切な自分を構築する手法、みたいなのは存在すると思うのですが、一朝一夕に出来るものではなく、自分とじっくり向き合っていく時間的なものも必要であったりします。



 宗教的なニュアンスを排除して、そうした手法を確立したいなあ、といつも思っているところです。







 さて、いつもなら、素敵な女性に対しては



「セカイがあなたを敵に回しても、私はあなたの味方をする!」


と、宣言するのですが、当ブログのファンのみなさまにはそろそろ、



「まーたあいつは、女子におなじ台詞ばかり言ってるぞ」


と怪しげなまなざしで見られて、信頼度が低下しますので、今回はいいません。


 ええ、わたくしこう見えて義理がたいんですよ。


 安心してくださいね。




















2016年11月25日金曜日

マインドフルネス瞑想をすると不能になるって本当ですか?



 マインドフルネスなる言葉が、精神世界のかいわいやら、なんとビジネス領域で注目されているようですが、



 「解脱者さんは、マインドフルネス瞑想についてどうお考えですか?」



という質問をいただいたかいただかないかわからないので、お答えしようと思います。



 
 マインドフルネスというのは、とにかく簡単にいえば、仏教などで用いられている「瞑想」の方法から、宗教色を排除して、集中力や心身の健康をアップしよう、というものです。



 以前、このブログのどこかに書いたかわかりませんが、インドで有名なヨガというのも、心身の働きを物理的な体の伸縮などによって変化させようという試みだし、瞑想も、具体的な意識の方法論によって、心身を変化させようということに関わります。







 武庫川も、よくマインドフルネス的な行為を実施しているのですが、たとえば、



目を閉じて自分の呼吸に意識を集中しているうちに、いつの間にか呼吸が止まって隣の嫁はんに、

「あんた、また息止まってたで」


と叩き起こされるという


 瞑想からの涅槃による入滅・・・・



 ・・・・



 ・・・・ 睡眠時無呼吸症候群やないかーい!!!!!



 グガー! ピタッ  グガー!  ピタッ  シーン  シーーーーン




~~~~~~~~~~





 もとい。



 上の話は、ただ寝ているだけですが、本来のマインドフルネスというのは、「意識を集中」させてゆくことで、「寝る」ことではありません。


 NHKで特集されたマインドフルネスの実践例がわかりやすいので、一読あれ。



 NHKスペシャル キラーストレス
http://www.nhk.or.jp/special/stress/02.html




 さて、そんなこんなで最近めっきりブームになりつつあるマインドフルネスですが、


 新潮デイリー 
http://www.dailyshincho.jp/article/2016/11250640/?all=1


の記事によれば、安易に行うことで


「瞑想難民」

になってしまったり


「恋愛やピー!ックスの意欲が減退」

してしまったりする人もいるそうで。



 解脱者から言わせてもらえば、そもそも仏教の瞑想は「すべてが無常であると悟る」ために行うのであって、



 そりゃ、意欲も減退するやろ!!!




と思うのですが、みなさん何か勘違いしておられませんか?



 ちなみにムコガワの悟りは、一周回って「無常なんだったら、楽しもうぜ!」ということを是としておりますので、




 あかひげ薬局
 http://www.akahige.co.jp/choice/index.html



ぐらいに効きます。ええで。




~~~~~~~~~~




 ああ、またわけのわからない脱線をしてしまいました。 関西在住以外でMBSラジオを聴いていない人にはなんのこっちゃわからないネタをお届けしてしまいましたが、お許しください。


 話を戻しますが、解脱者武庫川は、マインドフルネスの中でも「慈悲の瞑想」に近いことをやっています。




 「ウィキペディアより、慈悲の瞑想」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E6%82%B2%E3%81%AE%E7%9E%91%E6%83%B3





厳密に言えば、私は仏教徒ではないので上記とは多少異なる方法を取っていますが、ツボは共通しています。


 記事の下のほうにあるように、自分から他者、ひいては全体へと慈悲の心で意識を充たしてゆくのが「慈悲の瞑想」ですが、私は他人のことなど知ったこっちゃないので、


 自分だけが幸せであればいいのだー!ふははは!


といつも願っていますが、何か?(うそですよ)





 さて、そろそろまとめに入りましょう。武庫川もマインドフルネスや慈悲の瞑想と似たようなことを行っているのですが、それは解脱とともに



 自然発生的に、あ!こういう姿勢や思索の方法がよいな!と生み出した



もので、結果的に瞑想に似たような行為になった、ということでもあります。


 なので、昨今のように、マインドフルネスなる言葉が流行し始めてから


「なんだ、ワシのやってることと一緒じゃないか」


と思ったわけで、もちろん「やったほうがいい」とか「やらないほうがいい」という類のものではなく、悟りを得たかったり、思索をめぐらせるうちに、そうした方法はどこかで絡んでくるのではないでしょうか?


 また、そうした個別の方法論として、禅の修業もあれば、上座部仏教の瞑想もあり、ヨガもあり、・・・といろいろな手法が出てきているだけで、



 依存したり、のめりこまなければ、好きにやりなはれ



ということでもあると思います。




 ちなみに、武庫川の瞑想法は、全部で四十八通りありますが、




 誰だ!四十八手とか言うやつは!!!!!





 ・・・どうも、武庫川の意識は瞑想ではなく妄想で充たされているようですね。ちゃんちゃん。

2016年11月15日火曜日

「君の名は」ブーム 〜セカイ系かなんか知らんが、僕は世界よりも「キミ」を救いたい〜




 さて、先日とある人に突然


「そう言えば、『君の名は』を見に行かれましたか?」


と尋ねられたので、「否」と一喝しておいたのですが、本当に見ていないのだから仕方がありません。



 解脱者武庫川は、俗世に疎いこともあって、だいたい「大ヒット作」なるものは、ブームが完全に沈静化してからのんびりと拝謁することにしているのですが、なんだかすごいらしいね!



 解説してくださる方に言わせると、「君の名は」もある種のセカイ系のお話で、セカイ系のお話とは



■ 男子登場

■ 女子登場

■ 二人の個人的関係が

■ なぜかセカイ全体の事象と関係するらしく

■ たいてい、そのカギは女子が握っているので、

■ 男子と女子がもにょもにょしている間に、セカイがあんなことやこんなことになって

■ 結局、二人の中もうまくいくんだか、セカイも救われるんだか




という類型なのだそうです。




 「君の名は」を最小限にまとめると、


”男の子と女の子が入れ替わって彗星が落ちてくるんだけど、助かった二人はもう一度出会えるよね。ラブきゅん!”


ということになります。






・・・それがどないしたんじゃあああああ!!!!!!!








 まあ、映画はヒットしているらしいのですばらしいことですが、我々40オーバーのかつての若者にとっては



 エ○ァンゲリオン



で、一回やらかされてますので、 シンジとアスカがどうなったとか、綾波が艦コレとか、童貞がいかにセカイと関わるかについては


「よいこは真似しちゃいけません」


とキツくお叱りを受けているので、斜に構えて見るようになっているのです。




 とはいえ、今回の「君の名は」が、一般大衆にウケるように細かな配慮がなされているのも事実で、シンジくんみたいに、


「逃げちゃだめだといいつつ、最後まで逃げている」


ような暗い少年を主役に据えず、 明るく朗らかに爽やかに童貞処女の交流を描いている点は、たぶんすばらしいのだと思われます。見てませんが。





 ある人が面白いことを言っていて、


「(内に籠り)社会性を獲得できなかったシンジくん(たち)」


に対して、


「コミュニケーションが出来ていて、リア充によってセカイ系は完結・完成した」


みたいにまとめられていたので、それはとっても面白いなあ、と思ったのです。
 



==========




 しかしながら、解脱者武庫川にとっては、セカイがどうなろうと知ったこっちゃありません。


 そもそもセカイは無常であり、「存在しないかもしれない」と考えているわけですから、トランプが大統領になろうが、朴おばさんが訴追されようが、なるようにしかなりません。


 それよりも、大切なのは



 あなた
 


です。 これを今そこで読んでいる”あなた”。


 私はあなたが苦しんでいるのであれば、真っ先に応援したいと思います。






 セカイ系とは真逆で、現実に起きているのはこういう事態です。




■ セカイや社会のありようや仕組みが

■ 小さな存在であるあなたを束縛したり、支配したり、苦しめたりしていて

■ 時には、システマティックに押しつぶそうとしてくるわけで。

■ たいていそのカギというか、解決の権限はあなたには無く、

■ セカイは変わらず、あなた自身があんなことやこんなことになったりして

■ ついには孤独に、ひとりぼっちで破壊されてしまう。



という物語。



 これが、あなたを襲っている「このセカイの物語」です。


  ”あなた”に該当するのが、貧困女子であったり、独居老人であったり、ブラック企業労働者であったり、心の病だったり、それはもうたくさんあるのですが、



 セカイ系ファンタジーを見て、へらへらしている前に、現実世界リアリティに押しつぶされそうになっている



人は、どこにでもいることでしょう。





 現実世界で起きているのは、セカイ系とは真逆です。


「男が、社会的立場を行使することで、世界が成り立っていて」


「たいていの場合、女子はカギなど持ってはおらず」


「社会システムにメスをいれない限り、世界はそうそう変わらず」


「世界を救う前に、目の前の個人を救うことすらできない」


のが現実なのです。




 だから解脱者武庫川は活躍するのです。社会システムはそうそう変わってくれないので、解脱者は勝手に動きます。



 社会全体の幸せなんかどうでもいい。


 まずはキミに幸せであってほしい、と願うのです。




 そして、あくまでもセカイ系とは逆の行動パターンを取ることで、真の救いを得るのです。



「逃げていいよ、と言いながら、最後まで支えること」(反 根暗童貞野郎)

「君はバカなんかじゃない。間違っていない」(反 金髪ドイツ人)

「私にも、君にも、代わりなんていないんだ」(反 白いスーツの女)

「サービスぅ残業、サービスぅ残業なんてやめてしまえ」(反 おねいさん)



 ね?セカイ系を離反すると幸せになれそうでしょ?





 そう。僕は君の名はよりも、



 キミ



をずっと見ていたいんだ。


















2016年11月14日月曜日

「過去に戻りたい」と考える人と考えない人 ~プラグマティズムを理解すれば、トランプ・アメリカが見えてくる?!~



 久しぶりの更新で、解脱者武庫川の救いの言葉に逢いたくて仕方なかったそこのあなた、お待たせいたしました(^^



 ここのところ、本業、じゃなくて副業の方がやたら忙しくて、まだ数件案件を抱えたまま処理しないといけないのですが、気分転換にでも解脱してみることにした次第。



 で、思うところあって、こんな話を今日はしたいと思います。




 ある人が、「過去に戻りたいと思ったことがない人が、この世にいるのか?」と思った、ということについてネットで書いておられたのですが、



 はーい!ここにいまーす!過去に戻る、というのは逆に全然想像がつかないでーす!



というのが私です。



 そういう意味のことを、これまでにもこのブログで何度か取り上げているのですが、

 

【勝手に人生相談スペシャル】”時をかける少女”さんからの相談です。「解脱者さんは、過去に戻れるとしたらどうしますか?」
 http://satori-awake.blogspot.jp/2016/08/blog-post_9.html




<勝手に人生相談シリーズ> 人生をやり直したいのですが、どうすればいいですか? 
http://satori-awake.blogspot.jp/2016/02/blog-post.html



にも書いている通り、基本的に武庫川は「過去に戻りたいと思ったことがない」人間だったりします。




~~~~~~~~~~





  これにはちょっとした理由があって、武庫川が関西のルヴァン大学を卒業してはじめて配属になったある部署で、隣の机に座っておられたK君という先輩が、ことあるごとに仕事の話やら、労働組合の勧誘やら、ウェッジウッドの紅茶を淹れてくれたりやら、いろいろと構ってくれたので、彼と友人になってしまったが運のつきなのでした。



(その後、武庫川は転職したのですが、K君とは今でも年に数回逢ったりする。きっとK君はホモで、私のことが好きなんだと思う。・・・え?そうなの!)




 そのK君が、やはり仕事の上でいろいろな選択に迫られることがあると、かならずしっかりと熟慮して、


「いろいろ考えて、今この瞬間これがベストの選択だと決めたのだから、もし悪い結果になったとしてもやっぱりそれは今日に戻ったとしてもどうしようもなかったのだ、と考える」



と口に出していたのです。それを隣で見ていた武庫川青年は、


「おお、おっさん言うことはかっこいいな!」


と思ったのでありました。(K君は、自分で”君”とか言ってるわりに、武庫川より10歳年上)




 そして、青年武庫川は、その頃は別に解脱しているわけではなかったけれど、「今日ベストだと思う道を大事にする」ということは、その通りで、「自分もそう思いながらベストを尽くそう」と考えるようになったのです。



 K君はその後、東大大学院へ行って「学歴ロンダリング」うへへ、をしてライバルを見下したり、独身であることをいいことにBMWを数台乗り換えたり、馬を飼ったりしているのですが、あと7年で定年だというのでお互い歳を取ったものです。




~~~~~~~~~~




 というわけで、K君を見習った武庫川も、基本的には「今の選択には、熟慮し決断し、自分でケツを拭こう」と考えるので、


その結果不倫しようが、離婚しようが、職を失おうが、うつ病になろうが、負債を抱えようが、ののしられようが



まったく気にしません。 いくらウン○でびちゃびちゃでも、ケツは自分で葺くのです。



 あまつさえ、解脱してからは「失敗も敗北も、自分の人生を彩る記憶の1ページに過ぎず、後で”こんなこともあったなあ”と懐かしむもの」だと考えているので、さらに過去を引きずったりはしなくなったのであります。




~~~~~~~~~~




 とまあ、そんなことを思いながらのんべんだらりと過ごしていると、面白い記事が見つかりました。


「過去を引きずる人と引きずらない人」「過去に戻りたいと考える人とそうでない人」それが、なんと



アメリカの現在とトランプ大統領の誕生



にとっても関係があるというのです。なんということでしょう!


 というわけで、まずはプレジデントさんの次の記事をご覧ください。




「超大国アメリカを支えるプラグマティズム入門」
http://president.jp/articles/-/20609




 プラグマティズムというのは、アメリカ発祥の哲学みたいなもので、簡単に言えばK君や武庫川のスタンスに似ています。




■ 目の前の課題を今解決しうるベストの選択で対応しようとする。

■ 異なる意見の中から、仮説検証などを通して真理を探ろうとする。

■ 対立軸の中から、相互作用によって現実的な解決を模索する。

■ マイナスではなく、すべてを人生の糧と考える。



 こうした思想は、「神の作りたもうたこの世界」という旧来の真理の価値観があって、科学技術の発展などで「果たしてそうなのか」という疑義が生まれたところからはじまったといいます。


 あるいはヨーロッパ社会がキリスト教神学に支配されてきたとすれば、アメリカ自由主義は、神を卒業したからこそ、人間社会の中で現実的解決を迫られてきた側面があったのかもしれません。



 つまりは、過去に戻りたいと考えず、「今日のベストを尽くす」思想が、プラグマティズムそのものであるわけです。


 スティーブ・ジョブズが「明日死ぬとすれば、今日をどう生きるか」を説いたことは有名ですが、彼の思想には「過去を後悔する余地はない」ということになるでしょう。





~~~~~~~~~~




 とまあ、ここまでは21世紀初頭までの世界を取り巻く自由主義と民主主義の様相だったわけですが、ここに来て、



 まったく真逆の動き



が世界の潮流となってきました。


 それが、いわゆるトランプ大統領の応援勢力となった



 キリスト教保守主義



の思想です。




「このセカイは神が創ったのであって、進化論は間違いだ」

「妊娠中絶は許しがたい」

「LGBTは、神の摂理に反する」

「古きよき過去へ戻りたい」


  大英帝国の繁栄を理想化する英国のEU離反運動もそうだし、今回のアメリカ大統領選挙における保守台頭も、理屈は同じで、これからセカイは



反ブラグマティズム



の様相を呈してくると言えるでしょう。




 過去へ戻りたい、と考えることは、その過去がどのようなものであれ


「理想化された世界像、理想化された自分像」


を追い求めることです。それが本当の真理であれば、それを追究することは美しいものとなるでしょう。


 しかし、その設定が間違っていたり、現実と乖離してゆく一方のものであれば、



それは一層の苦しみを生み出すもの



となるかもしれません。



 EUの選択も、トランプ政権も、まだ歴史は正確な答えを出さず、その途上にありますから、結果について武庫川は何も言及しませんが、少なくとも構造的には、


「過去を振り返る」というのはそういうことだ


と知っておくことぐらいは、よいかもしれません。






2016年11月3日木曜日

よくわかる 解脱のメカニズム




 最近、”解脱者”と検索するとワタクシの名前が現れるようになった武庫川散歩です。


 ええ、そうです。世界も認める解脱者、ムコガワですよ。


 となりには最終解脱者、そう!あの人のことですよ。あの人。言っときますが無関係ですよ。

 わたしは浮いたりできません。




 ・・・え?おまえのブラウザだけだって?


 そんなことはないでしょう。なんならグーグルでもやほーでも、解脱者って入力してください。


 え?出ない?じゃあ、今度は解脱者 武庫川散歩って入力してみて?


 私のブログがちゃんと表示されるはずです。




……どうも。SEO対策です。こんにちは。







 ”SEO”が検索エンジンの最適化作業だと知ったのは、つい最近のことです。



 それまでは  


 それまでは・・・・



 SE○のことだと思ってました!!!!うふん、あはん、いやん。




  …久しぶりでしょ?これがこのブログでおなじみのテイストだったのですが、最近は真面目なことばかり書いていたので、当ブログが



 お茶目系解脱ブログ


であるとか、


 下ネタ系解脱ブログ


であることをみんな忘れてしまっているかもしれません。そろそろ真面目になります。




〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜




 えーっと。


 そうそう!今まで、どうしてワタクシ武庫川は解脱し、悟りを開いているんだろうと思っていたのですが、(←自分で言うな)そのメカニズムがいまいちよくわかっていなかったのが、



ついに解明!



されました。バババーン!


 そうです。解脱のしくみがわかったのです。



 あ、ただし、ここで言うところの「解脱」とか「悟り」は、


 インド系宗教で言うところからの輪廻からの脱出


とか


 仏教で言うところの108の煩悩からの解放


とかそういう意味ではありません。 あくまでも武庫川散歩の主張するところの



 苦しみや迷いからの解放(当社比)



ですから、そこはよろしく。




  さて、私の好きな論者さんに橘玲さんという方がおられるのですが、その方が面白いことを書いていたのでピンときました。



「あらゆるリスクを冒しても欲しいものを即座に手に入れたい」と思わせる「快感」の正体とは?[橘玲の日々刻々]

http://diamond.jp/articles/-/106634




  とても面白い記事なのでぜひご覧アレ。



 あ、間違っても


「あらゆるクスリを欲しいと思わせる快感」


ではありませんよ!そこの高樹沙耶さん!



 油断していると、いろんなネタをほりこんできますのでご注意くださいね。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



 さて、橘さんの記事で面白いのは、簡単にまとめるとこういうことです。



■ 脳には側座核という部位があって、そこは報酬中枢として知られている。


■ 側座核を刺激するとドーパミンが出る。ドーパミンはとてつもなく快感らしい。


■ でも、ドーパミンは「(直接)気持ちよくなる」脳内物質ではないという。


■  ドーパミンは「快感」をもたらすのではなく「快感がやってくる」という「予感」だけを司る。


■ 快感そのものではなく、「快感の予感」に人は惹きつけられる



 面白いでしょ?



 人間や動物は「快感や快楽を欲している」と思いがちですが、実は快感本体よりも、


「快感が


くーるー!きっと来るー!♪ 
(貞子のテーマのメロディでどうぞ)


という予感」



のほうが気持ちいい!のだとか。





〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜





 で、何が解脱かと言えば。


 武庫川散歩は、解脱してから、基本的にどんなマイナスの要素なことが身の回りに生じても、あるいは、いろんな欲望や世界への向き合い方にしても、


 ぜーんぜん不安がなく、基本あんまり何も気にならない


ようになり、かつ



 メイビー・パーハップス・プロバブリィ・未来はうまくいく


という自信を持つように脳みそが切り替わっております。



 これがすべて根拠のない自信だったりすると、それはもう完全に



アホ


としか言いようがないのですが、 そんなことはなく。まあ、たいていトラブルも乗り越えられるし、自分の人生も「思い通りになる」その後が続いています。




 もう少し丁寧に説明すると、「おそらく、こうすればこうなるだろう」という予想や予感のベースになる経験が豊富になり、それを運用することで仕事上でも、ふだんの生活でも、「まあ、たいてい予想したとおりになる」という


成功体験


が積み重ねられている、と言えるわけです。



 だから、不安感がものすごく少なくなり、「きっと未来はうまくいく」という自己肯定感が強くなっているのです。



(これは、仏陀の言うところの悟り=諸々からの解放というベクトル、とはちょっと違いますね)



 というわけで、武庫川の解脱状態というのは、そもそも無常なので


「別により高き何かを求めてはいない」


ことをベースにして、


「たぶん、すべてうまく行くという予感」


が常に脳みそに満ちていますから、 結果として幸せなのです。



 これが、「快楽や成功という報酬」をベースにした幸せ論だと、うまくいきません。


 まあ、たいてい「もっと強い報酬や快楽を求める」ようになるので、



「もっと欲しいという渇望」


が脳みそに満ちてしまうため、不幸になるわけですね。




 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜




 そろそろまとめに入ります。


 要するに、ドーパミンの例でもわかるとおり、「快楽そのもの」は手に入ればもっと強い要求を産みますから、「快楽そのもの」を求めてはいけないわけです。


 でも「快楽が手に入れられそうな予感」というのは、実は一番気持ちいいわけで、その状態が望ましいわけですが、人間や動物の場合は、それを刺激する作業との追いかけっこになるので、これまた「快楽の予感に溺れてしまう」ことになります。


 武庫川の場合は、強い「うまくいく予感」があります。しかし、それは側座核の刺激とは無関係に存在します。



 ということは、ですよ。


 つまり、



 武庫川の脳みそからは、ドーパミンがちょろちょろとサイドギャザー(側座核)から常に漏れている


ということになるのかもしれません。ちゅどーんん!!!!!




 なので、常に「あへうひは」と気持ちいいわけではなく、「幸せの予感」に包まれているということですな。



★あへうひは、を求めるのだったら快楽そのものですから、いつも言ってるように、薬物でもなんでも吸っとけボケ!ということになります。しかし、武庫川は快楽そのものは、どうでもいいのです(笑)










 武庫川はドーパマンである。


 この事実を持って納得することがあって、たとえば武庫川は薬物が全然好きではないのです。


 お酒もきらい、タバコもきらい。


 もちろん、酒もタバコも嗜んだことはあるのですが、もわっとなったりふわっとなったりするのは



 全然楽しくない



わけで。


 武庫川にとっては、ふだんの脳みそのクリアな状態のほうが、よっぽどいいんです。


 そこを強引に外からいじってくる薬物は、まったく合いません。



  その理由は、もうわかりますよね?



 そうです。武庫川はドーパミンが勝手に出ているので、そのほう(何もしないほう)が



 絶対気持ちいい



わけですわ!



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



 しかし、一般的には、ドーパミンが足りなくても、出すぎていても「精神分裂病」になるとされています(おそろしい)


 出すぎていると、いわゆる暴走状態になるわけで、ありもしないものが見えたりすることになるのですが、武庫川は今のところ


 ふつうに社会生活を遅れているし、元気


なので、 たぶん適正範囲なのでしょう。



 ということは、漏れてるけど電子制御直噴エンジンみたいになってるのかもしれません。



 ただ、まあ。自分のことなのでわかっていることをお伝えするならば、武庫川的に


「解脱するとか、悟りを開くとか幸福になる」


というのは、かなりの部分自分でコントロールできるようになる、ということでしょうか。



 ええ、そうです。たぶん誰でも訓練すればできるようになります。



 そういう訓練のことを、仏陀は「修行」だと定義したのでしょうね。




 というわけで、ドーパミンをコントロールしたいそこのあなた!



 いつでもどこでも武庫川散歩は弟子募集中なので、ぜひご応募ください。


 ただし、顔がよくわかるバストショットと、全身がわかる全体写真を添付の上、二次審査は水着審査なので、それでもよければどうぞ。







2016年11月2日水曜日

高学歴女子はいらない。 ~解脱者が考える、新時代の女子のロールモデル~




 高学歴女子はいらない。



 なんともキャッチーなタイトルをつけたものですが、炎上覚悟でこのように書いてみました。


 もちろん、ワタクシ武庫川散歩は、男女差別主義者でも、男尊女卑の考えを持っているわけではありませんが、現状を冷静に見たときのリアリストとしての視点では、やっぱり



「高学歴女子に意味はあるのか」


「高学歴女子は、幸せか」


ということについ頭が向いてしまうようです。


 東洋経済オンラインさんで、こんな記事がありました。



 高学歴女子にシワ寄せされる社会の過剰期待
 http://toyokeizai.net/articles/-/142978



 この記事などを読めば、いわゆる高学歴な女性が、現代の日本社会でどのような立場に置かれているかが如実にわかるのですが、簡単にまとめれば



■ 女性活用という名のもと、男性と同じように(長時間労働や体力仕事も含めて)働け

■ 女性らしさ(身だしなみやふるまいも含めて)を維持し、マナーをわきまえよ

■ 少子化を克服するべく、3人以上の子供を産め

■ 子供に適切な教育を受けさせ、立派な大人になるよう育てよ

■ 老いた両親や義両親に対して、(介護を含めた)サポートをせよ



ということが一気に要求されていることになります。




 これは「無理ゲー」(クリアできないゲーム)であると女子たちは思っていますが、社会の要求がそうなっている以上、そのレールから飛び降りることは、なかなか許してもらえないのが現状です。






 ところが、その一方で高学歴女子から見ると(さげすみの感覚も含めてですが)これらの社会要請の適用除外になっている、つまり、これらのしばりを受けなくてすむ


 低学歴女子


というものが存在することが知られています。




 ここでもムコガワは炎上覚悟でこの言葉を使いました。ええ、高学歴ではない女子たちです。



 低学歴女子たちは、男性のように働きません。モデルケースとしてのヤンキー女子をイメージするならば、


 早くで結婚して子供をたくさん産み、そもそも企業人として働くことはなく、小さな店舗の店員やレジ打ちなどの「代わりがいくらでもいる仕事」をして過ごす


人生の女性たちが確かにいるわけです。



 彼女たちは、上に挙げた5つの規制がのうち、両親の介護問題をどうするのかは微妙にしても、4つのルールをそもそも守るつもりもないし、守らなくてもいいということになります。


■ 長時間労働をせず、バイトでもいい。(お金は少ないかもしれないが)

■ 女性らしさは、自分の感性でいい。ジャージOK(ブランド物は買えないかもしれないが)

■ 子供は産みたいし、産む。(無計画といわれるかもしれないが)

■ 子供に高度な教育を提供することにあまり関心がない。(お金もないし)



 それを「良い」と評価するか「悪い」と評価するかはこの際どうしようもなく、4つともどうでもいい人もいるかもしれませんが、


■ バイトを工夫して時間を生み出し

■ 質素なものでも慎ましやかな生活用品を揃え

■ 子供は2人くらい産み

■ 公立高校・公立大学をめざすように励ます


と言い換えれば、上の文章を読んだ誰もが


ああ、いい女性だ、いい母親だ


と思うのではないでしょうか。



 まあ、そんなもんは言葉あそびで、解脱者から言わせれば、ヤンキーというカテゴライズをすることも、「いわゆる上から目線のレッテル貼り」に過ぎないのですが、 現実の社会では




高学歴女子に求められているハイレベルな暮らしの人



質素な良妻賢母な暮らしの人



ヤンキーママな人



のそれぞれにどこかが該当するような人々がシームレスに存在しているというのが事実なのだろうと思います。



~~~~~~~~~~

 


 私の大好きなブロガーさんであるニャートさんが、


 東大女子を過労死させたり、京大専業主婦をもったいなくさせているのは日本社会
 http://nyaaat.hatenablog.com/entry/well-educated-woman


の記事で、高学歴女子について、たとえば会社で馬車馬のように働いて過労死するくらいなら



”むしろ、受験勉強に費やした時間を、ブラック企業対策として体育会系の運動部での体力増強や、恋愛やおしゃれをして結婚相手を探すことに費やした方が、よほど有益だったのかもしれない。”


 
という仮説を立てるのも頷けるというものです。


 あるいは高学歴女性である自分を振り返り、



”私に学歴は必要なかった。
受験勉強などせず、自分の能力に見合った学校に進んで、そこそこ働いて、20代で結婚して、子どもを産みたかった。”




と、思わず思うのにも納得がいきます。たしかにそう言いたくなる気持ちもわかります。



 しかし、ニャートさんが記事中で懸念しているように、高学歴でない女子には、重大なリスクがあるのです。


 それは、収入が多くない男性と一緒になったり、ずっと一人だったりしたら経済的に厳しいということです。


(この際DV男とか、のんだくれ男とか浮気男は学歴に関係ないので、除外する)


 じゃあ、いったい、女子はどうしたらいいんだ!!!



~~~~~~~~~~




 そもそも、女子が高学歴を目指すようになったのは、「自力で一定の収入を得て自活できる」ことを目標にしているはずでした。



 高学歴である=高い評価を受ける=高収入の可能性が高い企業で働ける



これが、高学歴女子のロールモデルです。



 しかし、これは、よく考えると女子だけの問題ではなく、男子でも全く同じことで、


 男子が高学歴を評価され、高収入の企業で働く


ということは、女子と全く同じ理屈だとわかります。



 じゃあ、何が違うのか?というと答えは簡単。それは妊娠と出産が一切考慮されていない、という点に尽きます。




  解脱者ムコガワは、男性と女性は違う!と明確に思っています。男には子供が産めません。それは最大の違いで、そのことから生まれる区別は、あってしかるべきだし、区別する以外方法がないと考えています。



 人類が増える3人の子供を産むには、妊娠期間が3年、授乳(乳児)期間が3年、これで最低でも6年間が男性と異なる生き方をせざるをえないことになります。


 上記の場合は、3人とも連続で妊娠したという「3連続年子」の場合で、少なくとも1年の休養期間を設けると、



実質9年間で、あしかけ10年くらい



の性差が生じることになるのは避けられないのです。



 20歳から60歳までの40年間の労働人生


をセットした場合、男性は40年間働けるけれど、女性はマイナス10年で、どうやっても30年間しか同じ条件にはなりません。


 
 とすれば、「男女が平等に輝ける社会」という設定が間違いで、



 男性に対して女性は4分の3のパフォーマンスでよい社会



じゃないと、成立しないということなのです。




 ということは、本来の妊娠出産を踏まえた女性のキャパシティが男性に対して4分の3だと仮定すれば、



高学歴女子が要求されているのは、逆に言えば


男子の1.33倍の働きをせよ


ということなのです。


 だから高学歴女子は疲弊するし、


 高学歴女子なんて(生き方は)いらない


と考える者が出てくるのも当然だというわけです。



 ヤンキー女子は、収入が少ないという課題はあるにせよ、10年間を子育てに専従できるという面で、1.33倍の働きをしなくてもいいのです。せいぜい1倍でいいということになり、子育てが終わったらトンカツ屋でバイトしたり、スーパーでレジ打ちしたりできたのがこれまでのおばちゃん世代だったということになります。






~~~~~~~~~~




 さあ、ここからは解脱者ならではの解決策に入ります。



 女子には「収入が少ないと生きてゆきづらい」というハンディがあります。(実は男子もおなじなのですが、女子のほうが現状として厳しい側面が多いので、一応このハンディを認めましょう)



 それを解決するために、高学歴であれば高収入になるだろう、という目算で動いてきたのが、これまでの高学歴女子でした。



 しかし、高学歴であることが、すなわち高収入であるということに疑問符が付くようになってきたのが昨今です。



  簡単にネタばらしをすれば、……大事なことを言いますからよく聞いてくださいね。



「高学歴であることのご褒美で、高い収入が約束されているのではない」


ということです。


「高学歴であることは、高速回転や高出力に耐えられるポテンシャルがあると見られて、それに高い収入がバックされているのだ」



ということが真実なのです。



 さらに簡単に言います。


「あなた方に、高い給与を払うのは、フルスロットルでガンガンエンジンを回せる性能があるからで、そうである以上、ガンガンエンジンを回させてもらいますよ」


ということなのです。


「ガンガンエンジンを回せるから、そりゃ、たくさん生み出せるでしょ。つまりたくさん稼げるでしょ」


ということなのです。




 とすれば、高学歴女子は、それを知りません。


「自分がガンガンエンジンを回させられると知っていたなら、回転数を落としてでも、ゆとりある生き方がしたかった」


と後から後悔することになるに違いないのです。





 ということは、ハードワークを本位としない人は、高学歴であるということを「高性能出力証明」に使ってはならないということです。


 その出力を、他者にコントロールされて生きてゆくのであれば、「かならず、使用者はフルスロットルで回そう」とするに違いないのですから。


 実はこれも男女同じなのですが、高学歴であることを「売るためのラベル」にする人はそうすればいいでしょう。


 しかし、本当に収入面でも、心の面でも豊かに生きようとするならば、その高学歴(高知識・高知力)を自分でコントロールして価値に変えてゆくしか方法はありません。



 つまり、高学歴であるのならば、起業家をめざせ!ということが結論です。



 あなたの高学歴が「知恵があり、実力がある」ことの証明だというのであれば、起業して収入に換えればよろしい。


 しかし、その高学歴が、自力での収入に結びつかず、役に立たないというのであれば、その高学歴は単なる知識の集積ができたアーカイブがそこにあるだけで、


 あなたにはもともと何の力もなかったのだ


ということの証明になる、というわけです。



(知識の集積は、ウィキペディアでもグーグルでも、あなたより得意なコンピュータがたくさんあります。知識は使いこなせなければ、人が持っている意味はありません)





 高学歴女子のみなさん。できればその知力を、あなたがあなたの制御下で生かせる方法を学生の間から考えてください。


 それができれば、夫がろくでなしでも大丈夫です。あなたは自力でちゃんと稼げる力があるのですから。


 誰かや社会に使い捨てされるくらいなら、ぜひそうしてほしいと思います。

















 

2016年10月24日月曜日

宇都宮爆発事件が、現代日本社会に潜む病理の塊である件 ~そして、そのどれもが解決できない難問だという恐ろしさ~




 昨日発生した宇都宮における爆発事件は、その全貌が徐々に明らかになってきていますが、その背景がわかればわかるほど、


「これは現代の日本社会の病理の縮図だな」


と思わずにはいられません。



 そして、そのすべての問題が、今まさに現代日本に突きつけられた課題であり、未だそれらの解決の糸口すら見えていないということが、恐ろしくもあり、哀しくもあり、大変なことだと思うわけです。






 
 ■ 宇都宮爆発事件 何が起きたのか ■


 まずは、事件の概要をおさらいしておきます。まだ発生して日も経っておらず、断片的にしか事件のことを知らない方が多いと思うからです。


 10月23日に、宇都宮市で3箇所の爆発炎上事件が発生しました。


 この日は、宇都宮城址公園でイベント(祭)が行われており、多くの人出がある中での爆発でした。


 1箇所目は、城址公園近くのベンチにおいて、爆発があり人が燃えているという事件。

 2箇所目は、宇都宮市中央のパーキングに止めてあった車が爆発炎上した事件。

 3箇所目は、宇都宮市内の住宅から出火した事件。


 当初は、何が起きたかわからぬまま「テロだ」と感じた人も多いようですが、実際には、これらの3つの事件は一体であり、


 容疑者とされる、72歳の元自衛官、栗原勝敏という人物


が、


 自宅に放火し、車を爆発させ、自分は自爆して死んだ


ということが明らかになってきたわけです。










 ■ 事件に至るまでの経緯 ■


  この連続爆破事件。多くの人が行きかう公共の場所での爆発だったため、巻き添えになった被害者が多数ありました。

 その意味では、容疑者の行った行為は、法のもとにおいては断罪されるべきですが、その背景にとんでもない事態が隠れていることが今日になって明らかになってきたわけです。


栗原敏勝容疑者のブログ
 http://blog.goo.ne.jp/jpkingkoko
 
http://blogs.yahoo.co.jp/bwssf171


栗原敏勝容疑者のtwitter
https://twitter.com/kurihar87229662


栗原敏勝容疑者のyoutube
https://www.youtube.com/channel/UC23z6J7CwFbUDMGiWZ2JDYw



 まず、彼が爆発事件を決行する前に、これらのブログやtwitter、そしてyoutube動画まで使って、あることを主張しようとしていたことは明らかです。


 彼はそうとう過激な内容をわざとブログや動画に挙げて、意図的に


「炎上」



することを狙っていました。


 しかし、それらの主張は、あまり市井の人々に注目されることなく、あるいは批判の対象となった公的機関にも、直接的には相手にされませんでした。



 ネットを用いても、自分の主張が通らないと感じた容疑者は、そのことにも不満を覚え、


「事件を決行するしかない」


と考えるようになったのだと思われます。






 ■ 事件の背景にあったもの ■


  では、彼が主張したかったのは一体なんだったのか。この事件の背景には何があるのか。その動機は?

 すべての答えは、上記のブログや動画にも出てきますが、以下のようなことでした。


 ◇ 自分の娘が精神的な障害を持った

 ◇ 妻が、そのためにカルト宗教にのめり込み、大金を使うようになった

 ◇ 退職金までつぎ込んだので、夫婦喧嘩になるとDVだとされた。

 ◇ 家や車などの財産を差し押さえられた。(裁判で負けた)

 ◇  そうした経緯が不当だとネットで主張しようとしたが、見向きもされなかった。

 ◇ 自暴自棄になり、自爆。



  恐ろしいことですが、ここには現代社会における問題や課題のすべてが塊のように詰め込まれているのです。



① 心の病や精神病の問題と、それらの介護や補助をどうするかという課題。

② カルト宗教や自己啓発などの、トラブルを抱えた人への救いの問題。

③ 夫婦や男女間におけるDVの様相。

④ 裁判において本当に正義の裁定が行われているのかという不審。

⑤ ネットにおける自己顕示や、承認欲求の肥大。

⑥ 自力救済が法的に許されていない件。

⑦  テロという手段。



 ざっと挙げただけでも7つの問題が栗原を取り巻いていました。



 そして、そのたった一つですら、なかなか個人の力ではなんとかできない大変な問題である、ということは、万人にピンとくるところだと思います。





★ 家族や自分が心の病にかかってしまったら、いったいどうすればいいのか。


★ カルトにはまってしまった家族をどうしたらいいのか。あるいは、自分がそうしたものへ引き寄せられるしかない現状だったら、どうすればいいのか。


★ 夫や妻や、彼氏や彼女においてDVや、熟年離婚などの激しい意見の相違がある問題をいかに解決すべきか。


★ 裁判所がわかってくれないとき(あるいは冤罪などについて)どうすれば救われるのか。


★ ネットで誰かに訴えようとしても、誰もがスルーしてしまうという現実。


★ 復讐や自力救済が法的に認められておらず、泣き寝入りするしかないのか。


★ 自分が正義だと思うことを、人々に伝えるにはテロのような暴力しかないのか。




 これらすべてが重く、濃すぎる問題だと言わざるを得ません。







 ==========






 私は栗原という容疑者がもし犯人であったとしたら、彼の行為は法のもとでは許されざるものだと断罪します。


 しかし、もし、上記のような現代社会の病理や問題に自分が巻き込まれたり、その渦中にあったとしたら、



 それに対して有効な解決手段や、本当に助けとなるものがいない



という現実に絶望せざるを得ないことは理解できます。








 論点としては、「絶望したから自爆していいのか」という話が出るでしょうが、それはきっぱり間違いだと私は主張します。


 あるいは先日の電通女子のように「絶望したら自殺しかないのか」という話になったとしても、それは哀しすぎる、と私は主張するでしょう。









 しかし、このブログを読んでいるあなたも、薄々は気付いているはずです。



「もしおなじ目に自分がなったら、そこには絶望しかないだろう」



という恐ろしい予感に。






==========



 私、武庫川散歩が、「解脱者」というスタンスを取りながら、ささやかながらこのブログでやっていることは、


「こうした事件が少しでも減ることを望んで」


の行動だと自分では思っています。



 心の病には、できるだけ寄り添い、


 カルト宗教ではなく、本当の信仰心とは何なのかをできるだけ平易に明らかにして、


 自己の主張や正義がほんとうに正しいのかを問い直すヒントを提示し、


 自己顕示欲や承認欲求とのふさわしい付き合い方を提案し、


 (裁判関係については、別の名義でやっているのでここでは書きません)


 そして、テロルでは解決しないことを示す



ということを、このブログでは最初からやってますが、 まだまだ人のためにはなっていないようで涙を流すだけです。