2017年12月24日日曜日

童貞処女無職病人ニートは、なぜこの社会で生きづらいのか。



 某所、某ブログの記事なんかを読んでいて、


 ■ 童貞、心の病で誰かと付き合ったこともなく、おまけに無職で生きづらい



というお悩みについての話を読みました。


 あるいは、また別の某所で、


 ■ 彼氏なし、ブラック企業勤務で、上司のパワハラセクハラで生きづらい



という女子がいたりもします。


 あるいは、またまた、


 ■ 結婚できないアラフォーニートで、メンヘラなので生きづらい


という女性の話を知ったりもしました。



 あるいはまたまたまた、

 ■ よい大学は出たけれど就職で失敗して生きづらい とか

 ■ 旦那はいるけれど不妊で生きづらい とか

 ■ 親に資産はあるが、自分には職がなく生きづらい とか


 俗世は「生きづらい祭り!」のオンパレードであることに気付かされます。



 ==========


 夏目漱石も言っている通り、この世はとかく生きづらいわけですが、そうなってしまったのには、実はみなさんが気付いていない大きな理由があります。


 このことをきちんと理解すると、生きづらさなんてのは「すっきりさっぱりしっとり」なくなって、万人が生きやすくなるわけですが、残念ながら大半の人はその理屈をわからないまま、日々悶々としているわけです。


 というわけで、希代の解脱者にして哲学者の武庫川散歩さんが、今日は生きづらさの解消に向けてお話をしようと思います。



==========


 まず、各要素を拾い上げてみましょう。


「童貞や処女は生きづらい」「無職は生きづらい」「社畜は生きづらい」「不妊は生きづらい」などなど、生きづらさを生む「要素、要因」はいくらでも列挙することができるでしょう。


 ところが、こうした様々な要因があったとして、それが生きづらさを生じさせることはあったとしても、少なくとも昔の人は現代人ほど「生きづらさ」を感じることはありませんでした。


 これは、現代人には理解しがたい感覚かもしれませんが、そうしたマイナスの要素があっても少なくとも江戸時代までの人は


「生きづらいが、しかたがない」


と割り切ってその状況の内側で生きていたと言えます。


 その理由は簡単で、封建社会、身分社会だったので、

「扶持米取りが、石持武士の言うことを聞かねばならないのは仕方がない(生きづらいけど)」

「次男や三男が、資産を継げず結婚できない(嫁を迎えられない)のは仕方がない(なので遊女を抱こう)」

「無宿人が、まともな仕事や住処を見つけることは難しいけど、致し方ない(貧しいことは貧しいが)」

「子ができないからと三行半を突きつけられたけど、仕方がない(男尊女卑だから)」

ということになり、生きづらいことは生きづらいけれど、「生きづらい生きづらい」といくら言っても、どうしようもないし、それはそれとして生きざるを得ない状況が万人に設定されていたからです。



 これは、たとえば殿様でもおんなじで、


「子ができなかったので、領地取り上げ取り潰しになったのは仕方がない」


のです。忠臣蔵ではないですが、


「上司に逆ギレしたので、藩がつぶれても仕方がない」


時代だったと言うことですね。




==========



”仕方がない”


という社会は、意外と生きづらいと感じる感覚が少なくなります。というのも、それに対して誰も文句を言わないし、そのことでマイナスが生じていることに、日本じゅうの誰もが同じコンセンサスを持っているからです。


 なので、 これまた忠臣蔵ではないですが、


「まあいろいろ意見があるけれど、仇討ちした連中は切腹でもしゃーないわな」


と最終的には落としどころが見つかるし、仇討ちした当人も、


「まあ、こうなってもしゃーないわな」


と思えます。そしておもしろいことに、 赤穂浪士四十七士は、おそらくその大半が



「ああ、俺たち生きづらかったなあ!」とは思っていない


ことが、今回の重要ポイントだったりするのです。そう!おそらく四十七人の全員が、


「俺たち、やってやったぜ!」


ぐらいは思っているわけで、精一杯生きた感で満たされているわけですね。ここホントにポイントです。




==========


 ここで、頭のよい方なら、生きづらさの正体の一部が既に見えてくることと思います。その一つ目は、


「マイナスの出来事や要素は、実は生きづらさを形作っている直接的な原因ではない」


ということです。


 赤穂浪士の場合は、職を失い、おまけに国家に反逆までして死刑になったわけですが、それら3つくらいのマイナスな出来事は生きづらさを生んではいません。むしろ、そうしたマイナスの要素や出来事が、彼らの


「生きる目標=仇討ち」


を盛り上げていったわけですから、彼らは生きてやり遂げる気まんまんだったというわけです。



 これは、現代における原理主義テロも似たようなところがあって、それは、


「自分たちの信じる義に向かって(それが俗世的にはマイナスでも)実行する」


ということが、「生きる意味」を生むのです。自爆テロなんかは、犯罪でもあり、他人を傷つけ国家への反逆なのですが、


「自分は神に対する義を果たすので、それによって死ぬところまで行っても、全然満たされるぜ」


ということが起きてしまうわけですね。



 これは大事な視点です。人は「義なる生き方」であれば、そこにマイナスの要素があっても全然大丈夫だということです。



 たとえば、戦後の闇市の食料を買わずに餓死した裁判官がいましたが、


「渇しても盗泉の水はのまねえ!」


という生き方であれば、極貧や無職や、童貞でもぜんぜん生きていけるのです。


 あるいは、固く操を誓った愛する人がいたりして、その人が早くして亡くなったために、女性がひとり残されたりした場合は、


「あの人のために、彼氏なしでも処女でも子なしでもいいのよ」


という生き方であれば、ぜんぜん大丈夫で生きていけます。



 こうしたことから、ひとつめの教訓を得ることができます。


 大切なのは、マイナスの要素があることではなく、「自分が生きる上での”義”があるか、ないのか」なのだということです。


「生きる”義”があれば、ぜんぜん何も持たない生き方でも、生きづらくない」


というのが、ひとつめの教訓です。





〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



 では二つ目の教訓は、どんな話が隠されているというのでしょうか。


 さきほど、江戸時代は身分制度だった話をしましたが、身分によって「与えられるべき”プラスの要素”」が限られていることが実は重要でした。なので、身分がズレていると、プラスの要素を貰うことができなくても、そもそも対象外なのですから我慢できたわけです。もともとその資格がないということは、羨ましく思う必要がないからです。


 結論から言えば、結果的に何かを手に入れられない人は、「そもそもではないかもしれないけれど、結果的に対象外」なのですから、話のオチは同じですよね?でも、現代人は、


「そもそも対象外なのと、結果的に対象外なことの違いに苛まされる」


のです。


 Aさんという女性がいて、そもそも肉体的に不妊だったとします。これはそもそも対象外です。でも、現代人は、「若ければ、あるいは病気を治癒すれば、あるいは旦那が絶倫だったら妊娠できたのではないか」と悶々とします。


でも、神様の目線で見ればそもそも不妊なのですから「仕方がない」意外の言葉はありません。むしろ、早々に「あなたは子供ができない体なのです」と言われたほうが、はるかに心が軽くなるのです。


 逆にBさんは、「本当は子宝に恵まれたはずなのに、そのチャンスを自分のミスで失ってしまったのかもしれない」と悶々とするかもしれません。たしかにその通りですが、結果論で言えば、大海原で真鯛が釣れたかもしれないけど釣れなかった釣り人と同じです。そんな人にかける言葉は


「まあ、仕方ないやん」


意外にありません。ほんとに仕方がないのですから。でも、現代人は、Bさんはこの言葉に傷つき、怒るのです。真鯛が釣れたかもしれないので。



==========



 身分制度がなくなったということは、「すべての人に、すべてのラッキーアイテムが平等に降り注ぐはずだ」という誤解を生みました。


「すべての人にすべてのラッキーが与えられるべきだ」


と言えば、たいていの人は、「そんなことはさすがにないだろう」と口では言うし、頭でも思うのですが、自分の身に置き換えてみると、


「安定した給与と、自分が働きやすい環境と、社会に出るのに必要な教養が万人にあたえられるべきで、愛する妻や夫、そして子供と出会えるべきで、安らかな老後が待っているべきだ」


と考え始めます。 しかし、そうしたプラスの要素やラッキーは、「いくつかは入手でき、いくつかは入手できない」ものです。それは、身分制度があった江戸時代でも、上位の人の全てが手に入れられたわけではありません。

 武士であっても、金持ちの藩に属することができたとは限りません。それは父親がどこに属していたかで自動的に決まります。

 将軍であっても、子種が必ず与えられたわけではないのです。命を狙われることだってあったでしょう。


  そうです。いつの時代でも、プラスの要素はいくつかしかゲットできなかったし、マイナスの要素も結果的にいくつも降りかかることがあったのです。



 そうすると、現代人は



「まあ、そんなもんだ仕方がない」



と思えないだけ、悩み深いと言えるでしょう。



「ラッキーアイテムを次々入手できるのは幸福の一部だが、コンプリートできる人は、そもそも少ない(あるいはいない)」


というのが二つ目の教訓です。




〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



 さて、最後に3つめの教訓をお話して、今日の講義をおしまいにしましょう。


「人は、幸せになれるはずであり、望ましい環境や結果を与えられるべきだ」


という考え方は、日本のものではありません。日本型の思想は、いわゆるプラスの要素やラッキーは、自然神の気まぐれによって与えられたり、あるいはマイナスの出来事が起きて奪われたりするので、「祈りをささげよう」というものです。

 怨霊を静めようとしたり、豊穣を祈ったりするのは、そうしたことの現れです。


 それに対して、「恋愛をして、結婚をして、適切な職業を得て、金銭を得て、幸せな生活をするべきだ」というのは戦後になって定着した欧米的


「一神教のギフト(天の神から与えられたもの)」


という思想に由来します。あるいは、ギリシア哲学の「イデア」でもいいです。いずれにしても欧米由来です。


(なぜなら戦前まで恋愛結婚もありえなかったし、職業は親が決めたし、金銭よりも米の収穫が優先された社会で日本人は生きていたからです)



「愛する男女が出会い、結婚して家族と子供を作り、その人にぴったりあった職を得て、金銭的にも満たされる。充分な食事があり、健康で、長生きをする」


という理想は、幸せだとされる生き様のイデアであり、原型であり、模範であり、型枠です。


 実際には、それぞれの生き様は、この原型とぴったり合うほうがおかしく波乱万丈なのに、多くの現代人はこのイデアに囚われ、これが天から自動的に降ってくるのではないか、と考えるのです。

(実は、ものすごく苦悩し、苦労してやっと入手できるものかもしれないのに)



 ところが、日本人の問題点は、イデア論も一神教の思想も充分に理解していないのに、この理想的人生型枠だけを見てしまっているところにあります。


 私は、このブログで何度も述べている通り、キリスト教原理主義者でしたから、ギリシア的あるいは欧米的理想型枠の本当の意味づけを理解しているのですが、それは簡単に言えば


「どんな艱難辛苦であっても、それも含めて神から与えられたものだと信じ、それを乗り越えていってこそ、最終的なイデア世界は入手できる」


という考え方が本意ですから、それを深く理解している人は、たとえ現時点でプラスの要素がなかったり、マイナスに襲われたりしていても、


「それも含めて、神のおぼしめしである」


と受け入れて、たゆまぬ努力をするわけです。


 そのプロセスは、苦しい時つらい時もあるわけですが、「でもそんなつらい自分にも神様はかならず救いをくださる」と思っているから、結果的に誤解であっても乗り越えるし、乗り越えられるわけですね。


 ここまでセットになってはじめて、現代人は欧米的な幸福を手に入れられるというのが、本当の答えだったりするのです。



 ところが、日本人は戦後の高度成長で「欧米的幸福型枠」だけを見てしまい、その精神はまったく理解していないので、残念ながら


「型枠どおりにいかないのはなぜだ!」


と苦悩しているのですね。そりゃいくわけないやん。型枠には本来、試練が組み込まれているのだから(苦笑)


 聖書のモーセがエジプトから逃げるところとか、ノアの箱舟とか、結局はそういうことなのです。神は試練を与えるが、希望も与え、結果的に幸せになるというプロセスは、一連の流れであって


「楽園が最初から最後までそこにあり、人は自動的にそこへ行ける」


ということはないのです。これが最後の教訓ですね。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


 ちなみに、夏目漱石がこの世を生きづらいと言ったのは、さすが漱石先生で、


「文明開化後の、欧米化近代化された日本人の生き方の苦悩」


をひとあし先に見抜いた、ということでもあります。文明開化したからこそ、日本人は生きづらくなったのですね。


 じゃあ、文明開化以前は、苦悩しなかったのか?と問われれば、そうです!意外に苦悩しなかったみたいなのです。



 比較対象のために、江戸末期の大ベストセラーである「東海道中膝栗毛」(弥次さん喜多さん)の設定を見てみましょう。



 弥次さんと喜多さんは、そもそもゲイバー(陰間茶屋)のなじみの客とボーイです。(もう、この時点で普通の幸せが存在しない)

 で、それぞれ昔はやりまくっていたのですが、普通に奥さんをもらって結婚したり、普通の会社員として再就職したりするのですが、奥さんは死ぬわ、会社はクビになるわで、良い事なんてひとつもないわ!となるわけです。(嫁さんが死ぬ理由も実はむちゃくちゃなので、気になる人はググってね)


 でも、二人は鬱になったり、ブログに愚痴ったり、自殺未遂をするのではなく、「伊勢参りでもいくか!」とバックパッカーになるんですね。(明るい)


 これが、前半で説明した「まあ、仕方ないわ」なんですね。トラブルやマイナスの要素は降りかかってくるし、プラスばかりが続くわけではない、それは「仕方がない」のです。


「伊勢にでも行ってやり直すか!」


で済むことなんですね。一昔前で言えば、「インド行ってくるわ」です。


 まあ、そこからの道中はギャグのオンパレードなんですが、これが文化文政時代にウケたということは、


「会社がめんどくさけりゃ、金でも使い込んで逃げたればいいんじゃ!」

 (↑喜多八の行動)


「新しい妻がくるから、離婚したったらええんじゃ!」

(↑弥次郎兵衛の行動)


とみんな思ってた、ということです。こりゃ鬱になったりはしないわな。


 今だったら、こんなブログ書いたら、どんだけ炎上することか!


少なくとも、


「とかくこの世は生きづらい」


なんて嘯かないだけマシなんです。ということは、江戸時代の人は、マイナスの出来事は山ほどあったけど、そんなことではヘコたれないというか、


「しったことか!」


だったということですね。「仕方ないよね」よりは、さらに強い姿勢だったのかもしれません。私たちも、少しくらいは学べるところがありそうです。




 











 





2017年12月19日火曜日

正義のゆくえと告発のゆくえ ~正義に力はない、ってほんと?~



 とある女性のセクシャルハラスメントの告発と、その周囲の反応が過熱しておりますが。


 ふだん、不特定多数へ向けて、セクハラまがいの発言をブログ内で繰り返しているワタクシとしては、深く深く感じ入るところです。



 と、まあこれ以上、セクシャルな件について語ってしまうと、いろいろと墓穴を掘ってしまいそうなので、墓穴に入らずんば居士を得ず、ということで居士たるものあえて墓穴に入らないように念入りに注意をしておきましょう。


 え?虎穴?おケツ?


・・・・・・↑こんな感じでごめんなさい。






~~~~~~~~~~






 動揺隠せず切れ味の悪いボケからスタートしましたが、はあちゅうさんがどういう方か知らないので語る言葉を持ち合わせておりませんが、セクハラとそれに対する女子の思いというのは、すでに名作


「告発の行方」



にて、1980年代に既に議論が提示されていますので、まずはこの映画のDVDでも見てください。


 ジョディ・フォスターが、名優ジョディ・フォスター」になった映画、とも言えますし、「なれた映画」とも言えます。「なってしまった映画」かもしれません。


 個人的には、まだうら若いフォスターちゃんがこの映画に出なかったとしたら、その後の人生の過ごし方そのものも、違っていたかもしれないと思えるほど、



「ジョディ・フォスターたる存在を形成させた映画」



であったかもしれません。知らんけど。



 映画を見ていない人には全然わからない発言だと思いますが、はあちゅうさんがらみのセクハラ問題をうんぬんする前に、1989年公開ですから、今から約30年前にどんな問題提起があったかぐらいは知っておいてよいかと思います。





~~~~~~~~~~





  さて、今日は、この話題からすこーしだけ逸れて、


「何がしかの問題を告発した人が、よく不利益をこうむることが起きるけれど、それがなぜか」


ということについて話をしておこうと思います。これは解脱者ならではのすばらしい視点でものを言いますので、セクハラうんぬんは別にしてお考えくださいね。



 さて、この20年ぐらいの間に、大きな内部告発事件がいくつかあって、その告発をした人や、された会社などがどうなったかは、すでに結果が出ています。



 具体的な事例については↓をご参考に。



 内部告発者の誇りと悔い ~事件後の日々を追って~
 https://news.yahoo.co.jp/feature/629






 結論からズバッと言えば、


「告発した人は一瞬ヒーローのような扱いを受けるが、そののちどん底の責め苦に遭わされる」


というのが、告発の行方の答えです。これは善悪関係ないところでの事実です。




 2017年の日本では、正義に基づいて告発した当人が、まさかの逆風に合うことや、逆に酷い目に合うことは、可能性が高いどころではなく、「そうなるのが必然」とでも言えるくらいの事実なのです。





 なので、セクハラ問題で言えば、伊藤詩織さんについても、はあちゅうさんについても、その告発内容が「正義に基づくもの」であったとしても、彼女たちにもかなりの逆風がブーメランとして帰ってくるでしょうし、すでに来ていると言えるでしょう。




 そのため、結果的には、どのような告発であっても、現在のところ告発者は「討ち死に」を覚悟させられます。加害を加えたり、非道を行っている相手も倒せるかもしれないが、自分も社会的に死ぬんだ、くらいの気概を求められる事態が起きているのが、事実だというわけです。




 なぜこうした事態が起きるのか。解脱者には明快にその理論がわかります。 今日は、それこそ何が正しい、何が間違っているという善悪の議論を抜きにして、なぜこんな不可思議なことが起きるのかをご説明しましょう。





1) まず、すべての人は「力(フォース)」を持っていて、それを自分のために行使しようとします。このフォースには、善悪はありません。よいことにも使えますが、悪いことにも使えます。実力や能力や権力といったものは「フォース」という概念で把握したり、考えたりできるのです。



2) たくさんの権力を持つ人は、フォースをたくさん有しています。会社の上司や経営者は、一般の社員よりもたくさんの実力や権力を持っていますから、100倍や1000倍くらいのフォースを持っていると思ってかまいません。なお、ここには人格のあるなしも無関係です。人格者がフォースをたくさんもっていて、悪人はフォースが少ないとかも関係なく、すべての人が「フォースをたくさんもっているか、あまり持っていないか」に分けられます。




3) フォースそのものには色がついておらず、善でも悪でもありません。ですが、良いことにも使えるし、悪いことにも使えます。

 たとえば、部下のおねえちゃんのおっぱいを触るためにフォースを発動させることもできるし(←悪いこと)、部下のおねえちゃんの処遇や立場を引き上げるためにも使えます(←よいこと)




4)企業経営や運営、会社員としての仕事、あるいはライバル会社との競争など、社会における大半の活動にはフォースが使われます。専業主婦同士のマウントにも使われるし、ツイッターの影響力にもフォースが関係してきます。

 たとえばフォロワーが多ければ、それは案外単純に「たくさんのフォースを持っている」と捉えることもできるでしょう。

  そして、ほとんどすべての社会活動は、「フォースを集め、フォースを使い、フォースで相手のフォースを凌駕する」ということで成り立っています。

 たとえば、A社の持つフォースが大きければ、B社より仕入れ値段を下げさせることが出来て、安くモノを売ったり、シェアを広げたりできます。





5)告発をするということは、このフォースについて「ある人物や企業が、フォースを悪いことに使っています」とバラすことです。ただ、これは、小学生のAさんがBさんに対して「いっけないんだ~、いけないんだ~、先生に言うてやろ~」というレベルとはわけが違います。

 小学生のAさんとBさんが持っているフォースは、単位で言えば10くらいで、どちらもおなじ10とか11とかのフォースですから、AさんがBさんを告発しても、フォース対フォースの戦いは、ほぼ互角です。

 ところが、企業や上司は、あなたよりも1000倍とか10000倍のフォースを持っていますから、その大きさのフォースを悪事に使われると、こっちはたった1000分の1のフォースしか持っていないので、太刀打ちできません。





6)大きいフォースを持っている相手というのは、そのフォースをもちろん良いことにも使えるので、悪事をした自分をかばうために、周囲に言うことを聞かせるためにも使えます。

 これは悪事を隠すためなので、一見すると悪いことですが、第三者から見ると、自分の条件をよくしてくれることなので「良いこと」として捉えられます。具体例を挙げるならば、”告発者を排除する代わりに、あなたの処遇を上げてやろう”と言われれば、第三者から見ると、自分にとっては「良いこと」に見えますよね。





7)ということはつまり、告発者と被告発者は、正義の大小で戦うのではなく「フォースの大小」で戦うことになるわけです。

 すると当然、告発者のほうが、たいていは「フォースの所有量がそもそも少ない」ので、負けてしまうことになります。




~~~~~~~~~~




 これが、基本的な告発の構造で、「告発のゆくえ」は、「フォースの大小で決まる」と言ってよいでしょう。


 我々は、不義を見つけると


「正義は我にあり!」


とつい思ってしまいます。もちろん、それでも全然いいのですが、


「フォースは我のほうがあり!」


でなければ、返り討ちにあうわけです。



 では、どうすれば告発を成功させられるのでしょうか。それは、”自分のフォースを増やすこと”に他なりません。

 今回の出来事で言えば


#metoo


のハッシュタグの物量と、話題に同調してくれる人数の多さがフォースとなるわけです。




 はあちゅうさんの場合は、多数の「正義への同調」というフォースを集めることに成功しました。しかし、自分を攻撃する「逆のフォース」もたくさん生まれてしまい、それに返り討ちを食らっている最中でもあります。




 セクハラはいいのか悪いのか、という正義の大小ではなく、「フォースを集められたほうが勝つ」「逆フォースに耐えられたら勝てる」という事態に陥っているのが、現状ですね。





 正義そのものには、実は力はありません。




 正義が集めてくる「フォース」に力があるので、まるでドラゴンボールのように


「オラにみんなの元気を分けてくれ!」


とパワーが集ってきた時にこそ力を発揮する、というわけです。


 めっちゃ正義、バリバリ正義、誰がどういおうと正義、があったとしても、そこにぽつんと横たわっているだけでは、正義は発動しないのはそのためです。




 正義を発動させ、執行するにはまずフォースをたくさん集めたほうがいい。




 そんなことを教えてくれるのが「踊る大走査線」でした。



 室井さんはなぜ偉くならなくてはいけないのか。



 室井さんの生き様こそが、



正義の執行よりも先に「フォースの収集」こそが大事だ



ということを教えてくれるのですね。








 

2017年12月16日土曜日

【勝手に人生相談シリーズ 21】 病んだ貧乏人が一発逆転する!ことについてアドバイスはありますか?



 このブログの人気コーナー「勝手に人生相談」というのは、誰にも何にも頼まれていないのに、勝手に人生相談に乗る、という傍若無人ぶりがウケて、一部には大変人気があるとかないとか。



 さて、そこで、私が心から敬愛してやまないニャートさんが、いろいろ苦しんでおられるっぽいので、ここは勝手にその悩みにお答えしてしまおうと思う。




いわゆる”FF外から失礼します”というヤツだが、わたくし武庫川はツイッターでニャートさんをフォローしているので、厳密に言えば”FF外”ではない。



 もう、なのでだからズバッと、”失礼ながら勝手に書きます”と宣言せざるを得ないのだが、 お許しいただきたい。






<元ネタ> 病んだ貧乏人が一発逆転するには時の運に乗るしかない だから私は
http://nyaaat.hatenablog.com/entry/change






 まるでおせっかいにもほどがあるので、読者の方においては、あるいはご本人においては、スルーしていただいて全然かまわない。


 これは、あくまで勝手に武庫川が考えていることだからである。





 ~~~~~~~~~~




さて、「心の病になった人などが、拠り所となるような、あるいは生活支援ができるような居場所は作れないものか」という一番のテーマについては、 ずーっと私も考えていて、それは言うなれば現代の出家寺のようなものだなあ、と毎回思いながら、それを実現するための具体的方策について考えてはいる。



 たとえば、この記事



 人生をリセットする方法
https://satori-awake.blogspot.jp/2017/12/blog-post_4.html


 この記事の中にも、「病んだ若者が一時的にいられるような若者ホーム」の案が登場するのだが、マネタイズの問題も当然出てくるし、それより何より



 それって監獄(みたい)じゃね?!



という結論が出たあたりで、「ほんまにそれでいいのかな」と思うようになった。



 ニャートさんの言うとおり、施設として成立させようと思えばお金がかかる。仏陀のように、寄付で賄うという手もあるが、あるいは、入所者の資産を食い潰すこともできるが、それより何より、



 そこが刑務所っぽい(二回目)



というあたりが、「なんか違う」感をかもし出すのである。




 まあ、もちろんニャートさんが求めているのは施設とは限らず、たとえばメディアであったりするのだが、それにしても


 困っている人たちの手助けをするにはお金が必要で、そのためには稼がなくちゃならないのだ!


というのであれば、 ぶっちゃけ、



 普段の仕事でバリバリ頑張って、この資本主義に取り付かれた亡者のように24時間働けますかして金を稼いで、それを全額寄付



したほうが、いいってことになるわけである。そういえば、ビルゲイツもそんな財団作ってたっけ?


 まあ、たいていのアメリカのお金持ちが、自分の資産を寄付して恵まれない人のために使うことが多いのは、そういう思考発想なのであろう。キリスト教文化だしね。



 すると、である。



 ニャートさんにとって本当に必要なのは「一発逆転」なのであろうか。というそもそもの疑問が頭をもたげてくる。




 当然、生活にはいろんなことがあって、辛いことも多いと推測するが、何より「健康と安定を取り戻す」ことのほうが、結果的に近道だったりするのではないか、とかそんなことも当然可能性の一つとしては検討材料に上げてしまうのである。




 これは、武庫川個人の体験を追憶して話すのだが、武庫川が人生ボロボロで、仕事もいろんな事情で変わり、年収もすごく低いことになっていた時期があるのだが、その頃の武庫川も当然、


一発逆転を目指して賞金稼ぎとして生きていこうとした


ことがあった。(もしかしたら、このブログではその話を書いてないかもしれない)



 しかし、結論としては、まるでピケティ先生の「21世紀の資本」の真逆みたいだが、



 賞金稼ぎで儲かる総金額 < 通常の仕事で貰える総給与

   r リターン       <  g  ギャランティ


 であったのである。



 これは、とろサーモンの法則と呼んでもいい。


 とろサーモンが、漫才レースで賞金1000万円をもらったとする。結成から14年かかって1000万円の賞金をもらっても二人で分けたら500万円である。


 年収200万の派遣社員が14年かかってもらえる金額は、2800万円である。


 年収300万円の平社員でも、14年で4200万円にもなる。


 こりゃ、ふつうに働く、働けることのすごさよ!と言わざるを得ない。


 
 ちなみに、ピケティ先生の公式は↓である。


  g(グロース) 所得の伸び率 < r(リターン) 資産運用の利益率



 もし、ピケティ先生の公式が正しいなら、ニャートさんの今後の給与の伸び率よりも、仮想通貨の価値上昇率のほうが高いということを歴史が証明していることになる。


 しかし、一方でこれは「率」に注目しているからそうなるのであって、「総額」であればどうであろう。



 ニャートさんは、現在派遣社員で、それも働く日数を抑えているとのことなのだが、入ってくる総収入で言えば、



 仮想通貨の伸び率が毎月何倍あれば、月に20万とか30万とか安定した総額が入ってくるのか


ということを逆計算したらいいことになるわけだ。仮に20万円の手取りを目標にするとすれば、



■ ある月に、 5万円仮想通貨に投資したとして、月に5倍になれば25万円の収入ができる。



ということになる。しかし、そこで生活に20万円使っているわけだから、また元手は5万円に戻り、それを投資して5倍に増えていかなくてはならない&それが毎月続かねばならない。



 ・・・・・・。どう考えてもこれは不可能な話である。なぜならこの話は、その仮想通貨の価額でいえば5のべき乗になってゆくからである。ちなみに年間では5の12乗ね。




 今度は別の考え方で見てみよう。



■ 最初に頑張って100万円投資して、 それが1年間で10倍になったとする。そうすると総額は1000万円である。これなら元の100万円は残して45カ月・約4年生活できる(900÷20=45)



 これはいい感じに思える。一発で4年暮らせるなら、なんとM-1グランプリを獲るより率がいい!

 しかし、ここから「暴落率」も勘案しなくてはいけないので、最終的には「平均利回り・上昇率がどれくらいか」を検討しなくてはいけない。


 ビットコインは、この1年間で平均3倍、マイナーなものでは24倍にもなったものがあるが、トータルして割ると年間で8倍程度の上昇率であるというデータがあった。




 時価総額トップ10の仮想通貨の上昇率 (ニシカズさんのブログから)
 http://www.nishinokazu.com/entry/2017/04/10/171711




 とすると、100万円の仮想通貨は800万ぐらいにはなってくれるらしい。ビットコインでも 300万にはなったということだ。1年弱は暮らせる。


 


~~~~~~~~~~




 こうして考えると、貧乏な人が逆転するのに必要なのは、



 種銭(たねぜに)だ!



ということがわかる。そうだそうなのだ!最初の100万円、いやなんなら最初の1000万円があれば楽して暮らしていくことができるのだ!



 ・・・え?


 ・・・・・・え?


 ・・・・・・・・・は?


  種銭・・・。



 種銭があったら、貧乏ちゃうやんけー!!!





 というわけで、結論です。



貯金は、何ものにも替えがたい資産である。




 まずは、何よりも貯金ですよ。




(ということは、弱者を助ける一番の方法は、種銭を貸すという仕事であることがわかる。グラミン銀行は、こういう理屈で成り立っているのだな。うむうむ)











2017年12月12日火曜日

【勝手に人生相談シリーズ 20】 意識高い系について、どう思いますか?



 毎度おなじみ武庫川散歩です。



 自分としては、かの有名な推理小説家である「江戸川乱歩」さんにあやかって「武庫川散歩」なる関西系な名前をつけてみたのですが、実際に武庫川散歩でエゴサーチすると



 ほんまに武庫川を散歩するブログや記事



がやたらひっかかってきて、人名としては全く意味をなしていないことに気付きました。名前を売ろうとしても、埋もれるだけですね。これではいけません。


 絶対にネットでよそがひっかからない


 四万十川☆闊歩(しまんとがわかっぽ)


とか


 ヤリキレナイ川☆進歩(やりきれないかわしんぽ)


とかに改名したほうがいいかもしれません。


 え?ヤリキレナイ川を知らない?北海道に本当に存在する川で、あまりにも氾濫が多くてやりきれないからその名がついたとか、つかないとか。


 ヤリキレナイ川
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%AA%E3%82%AD%E3%83%AC%E3%83%8A%E3%82%A4%E5%B7%9D



~~~~~~~~~~



 さて、そんなセルフ・プロデュース能力に長けたムコガワですので、常に自分のミッションをレボリューションしてゆくことには関心があります。



 そこで、そんな私にまた質問が寄せられました。毎度おなじみ人生相談のコーナーです。



Q 「解脱者さんは、どちらかといえば、意識を低下させるのが本業だと思いますが、いわゆる”意識高い系”の人についてどう思いますか?」(30代女性)


A ・・・。意識低下させ続けたら、最後は死んでしまうがな。



 最初に誤解を解いておきますが、解脱者というのは「あらゆる欲望を捨てて、枯れ果ててしまい、もはや息も絶え絶え」な状態を指すのではありません。



 それを言うなら、「植物状態にある人は、解脱しているのか」というテーゼを立てるのと同じで、そんなことはナンセンスで、むしろそういう病気を抱えている人にも失礼です。



 解脱している状態というのは、



「いろんな欲望や欲求や行動に、自我をもぎ取られたり、支配されないこと」


と言ってもいいでしょう。


「無意識におしっこたれながす」


のを解脱と勘違いしてはいけません。むしろ、


「うははは。ここは便所じゃないけど、わしゃどこでもおしっこできるぜー」


と、俗世のしがらみやルールを全く気にしないほうが解脱に近いということです。



~~~~~~~~~~



 話を本筋に戻して。



 解脱者の意識が低いかどうかは別にして、いわゆる俗世で言われている「意識高い系の人」というのは、すでに蔑称になりつつありますね。



 もともとは、「能力があり、かつ自己実現に向けた高い意識を持っている人材」ぐらいの意味だったのですが、現実には「偉そうなことばっかり言っている中身を伴わないヤツ」の意味へと変わってしまいました。


 よくネタにされるのは「やたら横文字を使う」とかがありますが、要はルー大柴(わかる?)ですね。トゥギャザーしようぜ。




 意識高い系というのは、最近出てきたことのように思いますが、実は明治大正時代ぐらいからそういうヤツはいて、「文士さま」なんて揶揄されたこともあります。


 帝国大学に通い、哲学書などを読みふけりながらいっぱしの思想家きどりになっている青年なんてのは昔からいたわけです。


 兵庫県篠山市に「デカンショ祭」というお祭りがあって、デカンショ節という民謡があるのですが、そのデカンショということば、


 デカルト・カント・ショーペンハウエルの略


という説がまじめにあるくらいで、篠山藩の藩校から東京へ遊学させてもらった若い学生(元侍の子)とかが、


「いったいなんだね。きみ。カントぐらい読破してからものを言いたまえよ」


なんてやってたわけですよ。




 というわけで、意識高い系とは、「エリート意識が表面的にこぼれ落ちたもの」と言えるわけですが、大事なのは中身です。


 そこで、本当に意識が高いかどうかを判定する秘策を授けましょう。


1)

「そうした意識高い言説が、誰かが言っていることの受け売りなのではなく、自分の体験や自分の考えに基づくものであるかどうか」



 2)

「自分が口にしている言説を、今度は自ら実行しているかどうか」



 はい。たったこの二つです。どんなにいいことや凄いことを言っていても、自ら実行していない人は、ほとんど無意味です。

なぜなら、すごいことやすごい内容の記事は、ネットにだって転がっているので、それを口にしているだけのヤツは、



ただ、転がっているのとおなじ




に過ぎないからです。ごーろごろ、ホレごーろごろ。




 意識高い系の人たちの実践例が、記事として挙がっていたので紹介しておきます。



独自取材を堂々とパクる、「意識高い系」の人たち (文春オンラインさんより)
http://bunshun.jp/articles/-/5351?page=2 



「仕事で自己実現を目指してはいけないサラリーマンという身分」(ダイヤモンドオンラインさんより)
http://diamond.jp/articles/-/152741



 2つ目の記事なんかめちゃくちゃ面白いですね。


 サラリーマンをしている限り、スティーブジョブズには成れないし、スティーブジョブズに成れるようなヤツは、会社員をそもそもしていない。


↑簡単に言えばそういうことで、かなり名言です。



 ということは、本当に意識が高く飛びぬけて能力があるヤツは、



「すでにそもそも今現在、あふれる能力によって、独立してフリーで結果を出している」



ということになり、組織の中にいてわかったようなことを口にしている人材は、



「すでにこれまでも実は社畜の才能があり、これからも社畜としてしか結果を残せない」



ということになるわけです。



 ちなみに、ムコガワは、世をしのぶ仮の姿では会社員です。会社員としてしか成果を残せない哀れな存在です。


 その哀れが極まって、取締役になりましたが、それが何か?






2017年12月5日火曜日

「自殺したい、死にたい」のバックヤードから。



 昨日の記事で、「人生をリセットする方法」について書いたのですが、それに関連して今日も興味深いおはなしが。




 元自殺掲示板管理人に聞くSNS時代のコミュニケーション
http://blogos.com/article/263056/




 今回の座間連続自殺?事件では、ツイッターのDM(ダイレクトメッセージ)によって、自殺志願者が繋がっていったことがわかったわけですが、ちょっと前のネットでは


「自殺掲示板」


なるものが、その繋がりの場となっていたことは、まだ記憶にも新しいのではないでしょうか。

(いや、10代とかの若い子は知らんか)


 で、その自殺掲示板(現在は無い)の管理人をしていたという男性がその頃の話を寄せてくれているわけですが、いろいろと考えさせられるなあ、と思って読みました。




 解脱者的には、しょっぱなから「むむむ」と考え込んでしまいました。



 というのも、記事の最初で清志という青年が、生活保護から立ち直ろうとする時期に自殺した、という話が出てきたからで、


「となると、昨日ムコガワがたどりついた『社会復帰を目指すリセット装置としての刑務所みたいなヤツ』があったとしても、そこから娑婆に戻ろうとしたり、戻って間もない自殺志願者は、やっぱり死ぬのではないか」


ということに気付いてしまったからです。ではなんのためにリセットするのやらわからないことになるし、そもそもリセットできるのか?ということにもなります。





===========





あるいはまた、記事中にも出てきますが、こうした自殺願望を抱える人との対話というのは、この管理人がかなり意識して気をつけていたように距離感をとっていても


”かなりエネルギーを費やす”


ものであることはわかります。それだけ人と人の関わりというのは、本質的に自分のメンタルをぶつけある消耗作業であるということでもあるわけです。





==========




 さて、ムコガワは人助けマニアなのではなくて「解脱者」ですから、別に自殺したい人を止めたり、自殺をせずにすむ方策を、それこそエネルギーを費やして提供するタイプなのではありません。


  もちろん、死にたいと考えるきゃわいい女の子には興味を示しますが、死にそうな無骨なおっさんにはあまり興味をしめさない、という明確なビジョンを持っています。


  ええ、そこは明日への意志をはっきり持っているタイプなのですね。



 ・・・・・・そんなボケはともかくとして、 昨日からこの問題を考えてきて、



「ああ、そうかそもそも大前提が間違っているのに、なぜ気付かなかったのか!」



と、ここへきてようやく叫んでしまいました。



 その間違っていた前提とは何か。



 もともと、話の根幹が違っていたので、刑務所に入らなければならないとか、刑務所から出てきても死ぬとか、そういうおかしなことが起きてしまうのです。




 はい。ここが違っているのです。



「そもそも、人間は自分の歩んで来た道をリセットすることなど、できない。できることがあるとすれば、見えないように隠すか、あるいは、別の生き方で上書きすることぐらいがかろうじてできるだけで、仮にそうしても、過去は消えない



というのが真実だったのです。ばばばーん!




 解脱者的にたどりついたのは、つまり、そういうことです。


 過去は消えないし変わらないし、リセットなんかできないんです。リセットボタンはそもそもないし、電源を抜いたらハイおしまい、なだけでやり直すことなで不可能というのが物理学的には最も正しい答えなわけで。



 だとすれば、人生をやり直すとは、つまり以下のように生きるということです。



■ 過去とは異なるパターンを目指して、生き方を変化させて後半戦を生きること。


■  過去の問題点を踏襲しないように、異なった生き方を試してみること。


■ 過去の自分の資産のうち、使えるものは生かしながら、過ちを整理して取捨選択すること。


■ あるいは過去の自分の姿を隠しながら、世を忍ぶ仮の姿で生きること。



これですよ。これ!



 全財産を捨てて、新しい場所や環境で生き直す必要はないわけで、過去と現在が連続しているのならば「自分が培ったものを生かす」こともできるし「使わない」こともできるようにするのが自然体です。


 そして、居場所や環境も、「自ら主体的に好きなように決めてよい」ということでもあるわけです。別に引越しや転職は、必要があればしたらいいし、必要なければしなくてもいいのです。


 ただ、前半戦の生き方に問題があったなら、それはチェンジすればいい。しかし、一人では自分を変革することが簡単にはできないので、



 そういう時に、私のような解脱者を利用してくれればいい



ということになるのですね。はい↑ここは別に解脱者でなくても、行政でも福祉でも本当はいいんだけどね。




 ・・・・・・ちなみに、解脱者のもとには「死にたい」というやつはほとんどやってきません。


 なぜか「生きたい!もっとよりよく生きたい」というやつばっかりがやってきます。


 自殺を選択して逝ってしまった彼は結局最期までなーんにも言わずじまいでした。



 その理由はいまいち自分でもよくわかっていませんが、この「悟るヒント」のブログなんかは、実は



 生きるヒント



 よりよく生きるためのヒント




がぎっしり詰まっているからかもしれませんね。きゃぴっ!




 








2017年12月4日月曜日

人生をリセットする方法




 どうも、あなたの味方、武庫川散歩です。


 複雑に入り組んだ現代社会に鋭いメスを入れ、さまざまな謎や疑問を徹底的に究明しておられる方、といえば、それぞれの立場やスタンスでいろんな論客を思い浮かべることと思いますが、ムコガワが若いときは、


 呉智英さん
 (「バカにつける薬」「サルの正義」なんかがおすすめ)


なんかがずっと好きでした。 そもそも、彼のペンネームが、稀代の変態小説である夢野久作の「ドグラ・マグラ」の主人公に由来する、なんてところが、稀代の解脱者であるムコガワ好みだったりしたわけですが、もうそんな呉智英さんもすっかりおじいちゃんです。



 それに変わって、近年言いづらいことをズバッとおっしゃっているなあ、すごいなあ!と思うのが作家の



 橘玲さん
(「言ってはいけない~残酷すぎる真実~」がおすすめよ)



 ですね。彼の場合は、エビデンスに基づいた冷静な分析をズバズバ言ってくれるので、現代社会を生き抜くには大変に役に立ちます。





 そんな橘玲さんが


「人生をリセットするボタン」


について言及なさっていたので、ちょっと面白いと感じたことを紹介いたします。



人生をリセットするボタンがあれば
 https://www.tachibana-akira.com/2017/12/7868





 さて、詳しいことは元ネタを読んでいただくとして、「人生をリセットするボタン」があれば、それはすなわち







を意味するとは、一体全体どこからやってきたのでせうか。



 もうなんか、現代社会では自殺や自死が手軽で見慣れたものになってしまったがゆえに、人生をリセットするとはついつい



「自殺すること」



と同義のように思ってしまいがちですが、本来は「死ぬことではなく、生きなおすこと」であるからして、これは、絶対に「生きる方法」であるべきです。


 ゲームにおいてもそうですが、やり直すためには電源を引っこ抜くのではなく、再起動が必要です。人生をリセットするとは、死ぬことではなく、再び復活することに他ならないわけで、ほんとうはね。



~~~~~~~~~~



 そうすると、たとえばここに「今の人生をすべて捨ててしまって、リセットしたい」と思っている人がいるとして、彼や彼女を再起動させるにはどうしたらいいか、ということがこの問題の本質なのだとわかってきます。


 けして「彼や彼女が死ぬ方法を考える」というのではなく、「再び生きる方法を考える」という方向性であるべし、というわけで。


 ちなみに、リセットボタンを押すと何が起きるかというと、これはすごく簡単かつ示唆に富んだ出来事が起きるわけです。



 それはつまり



 1) 今までの記録やデータがすべて失われる。ここまで進んだとか、ここまで築いたなどの到達度も、逆に累積された汚点も全部消えてしまう。


 2) 設定が一番最初に戻る。初期設定があればその値になり、初期設定がなければゼロベースになる。


 3) 何かが進行したり、累積するものについては、全部1からスタートになる。



わけです。なるほど、これを実際に実行するプログラムを組んでやればいいのですね。




 さて、人間が悩みを抱いたり、苦しんだりする原因は、大きく捉えればたった一つに集約できます。


 あるいは、多少分類をしても3つくらいにまとめることができるのが、人間の苦しみなのです。



 ざっくり一つに集約すれば、それは



「自分の居場所を確保できるかどうか」



に他なりません。これは生物的な命題で、「巣があって餌があって、そこにとりあえず安心していられる」ということを示します。



 あるいは、3つくらいにまとめる分類では、「人間関係、お金関係、健康関係」ぐらいにしか人の悩みはない、とか言ったりもします。


 これも概観すると「居場所があって、餌があって、安心してそこにいられるかどうか」を示すことがなんとなくでもわかると思います。



 そうすると、人生のリセットボタンなんてのは意外に簡単単純で


「人間関係を変える(離れる)」
「仕事を変える(離れる)」
「住所を変える(離れる)」


ことで、健康以外の問題は、解決するかはともかく一旦リセット自体は可能だとわかるのです。




 こうして考えると、「出家」というのはとてもよくできたシステムで、


「俗世の人間関係から離れ、仕事も変えてしまい、住所も物理的に外界と切り離される」


ことで、十分リセットが可能だったとわかりますね。




 ということは、この混迷の現代社会において必要なのは、宗教を別に切り離して「出家」できるシステムがあれば自殺はしなくていい、ということなんです。


 めっちゃ簡単!




 宗教的観念から考えると、還俗するにはこれまたハードルがあるわけですが、宗教関係ない出家システムがあれば、リセットはとてもやりやすいことがわかります。



 こうして考えると、座間の大量殺人問題の被害者側のポイントが見えてくるのですが、それはつまり、


「すべてを一旦放り出して、うちに来ていいよ」


という招きがあれば、それは自殺志願者にとって



超魅力的である



ということを意味します。つまり、マーケティング的にはここに需要があるわけです。



 ムコガワは、世を忍ぶ俗世の仕事では経営者ですから、「おう、こんな市場があるやんけ!」とぶっちゃけ思います。



■ 人生をリセットできる抱擁力あふれる丸抱え施設があれば、自殺しなくていい。

■ これまでの人間関係をいったん切り離せる施設であればなおいい。

■ これまでの住所や環境から離れられる施設が望ましい。

■  マネタイズをどうするか。お金がないと運営できないので、どこかから収益を上げねばならない。

■ 仏教では、ブッダが「すべて外部からの寄付で賄え」と言っているので、それをマネする?

■  利用者が、本当に死ぬのなら、財産を全部貰えばいいのだけれど、利用者に再起を促すためのシステムなのだから、預かったお金を再びお返しする必要がある。

■  となると、施設利用料を在籍する期間に応じていただかなくてはならない。

 


・・・・・・とまあ、要するに、「再び出られる若者向け老人ホーム」みたいなのがあればいいんですね。シェアハウスみたいに自助的なものではなく、もうちょっと公助の入った


「若者ホーム」


みたいなのがあればいいわけで、そこでしばらく暮らしてもらって、適切な期間が経てばまたお好きな世界へ戻っていただくという施設を作ればいいわけです。


 そして、新しい環境や新しい土地でやり直していただくという・・・・・・・。


 ・・・・・・。



 ・・・・・・。



 ・・・・・・ん?



 ・・・・・・まてよ。



 ・・・・・・・・・・・・これって。


 これって、もしかして刑務所みたいな施設ってこと?(笑)自由に出入りができる刑務所。


 独房、三食昼寝つき。人間関係シャットアウト。前の仕事からもさようなら。カロリー計算された食事でおもわず健康。収容される場所は元の住所から遠い地域。

 経営は国費であればなおよい。



 ということで、合理的に考えると人生をリセットする一番いい方法は、



 刑務所みたいなところで一定期間過ごす



になりました!以上証明おわり。QED。

 








2017年11月18日土曜日

解脱者がテレビに出る話



 先日日本にやってきた台風のせいで、けっこう小さな被害があちこちであったらしく、その巡りあわせで本業が忙しいムコガワ散歩さんである。


 今日は、いつものように、人生についての大事な話などはない


 基本的に、いいかげんその処理に疲れてきたので、思い思いのことを書く日記&つぶやきみたいな感じでお届けする。



 ああ、読まなくてもいい。べつに。



 個人的な日記をブログに書くなんて、非生産的なことなんてどうなの?という輩も世の中にはたくさんいるらしいが、そもそもブログではそういうものではないのか?




 さて。



<つぶやきその1>


 またテレビ取材の依頼が来た。もう何度目だろうか。


 ああ、べつに解脱者ムコガワサンポとしての取材依頼ではない。ぜひ、一回ぐらいはそのネタで取材してほしいものだが、幸か不幸か武庫川は、いろんなペンネームを使い分けているので、あっちこっちからお声がかかるのだ。


 実際、テレビにも出たことがあるし、ラジオも新聞も、雑誌も、ネットも、メディアというメディアはたいてい総なめずりしたので、じゅるる、いまさらテレビのひとつやふたつ、どうってことはない。


 そもそも前回は、せっかく取材されたのに、本編でボツにされたので、おい!どうなってるんだN○K!菓子折りのひとつくらいくれたっていいじゃないか、こっちは受信料きっちり払ってるんだぞ!


と解脱前の私ならそんな苦言を呈したかもしれないが、もはや解脱しているので、気にしない。


 ちょうどその頃、弟子の一人が


「え?師匠テレビに出るんですか?!」


と楽しみにしていたらしいのに、それを叶えて上げられなかったのがちょっと残念なくらいである。


 その弟子も、私がたこ焼きパーティに誘ってあげたら、また突然消えたので、またしばらくしたら突然現れてくれるのを待っている。


え?そんな弟子が突然消えたり出てきたりすることがあるのか、って?


 あるんだから仕方が無い。UFOみたいなもんだ。これを読んでたらそろそろ出てきなさい。



 あ、ちなみに今回はたぶん電話取材だけで終わると思う。ビジュアル的になんにも面白いことやってないので。






<つぶやきその2>


 解脱者武庫川散歩は、解脱しているのにふだんは会社勤めをしているので、毎日けなげに勤務という作務をしているのだが、おととい社長の奥さんに


「実印用意してください!あと印鑑証明も」


といわれて、なんだ?不動産でも売りつけられるのか?と思っていたら、社長から


「おまえはもう、役員だ」


とケンシロウのように言われた。 なんでも今期からワタクシ武庫川散歩は会社の取締役にされるらしく


「ひでぶっ、私なんぞに、取り締まれるでしょうか」


と応えたら、


「あべしっ、もう9月からそういうことになってるので登記するね」


との仰せであった。



 自分のパンツすら取り締まれず、いつも解脱してるのに会社を取締ることなどできるのであろうか。


まあいいけど。


 うちの兄弟会社の3つか4つ上の先輩は、株も持たせてもらって代表取締役になっているのだが、彼の年収は1000万くらいあるらしく(推定)、おい、ワシとえらい給料が違うやないか!責任者出てこい!といいたいところだが、その責任者が取締役にする!というのだから、それはそれで仕方あるまい。


はい、頑張ります。






<つぶやきその3>


 
 とあるイベントで出店することになって、一ヶ月ちかく準備したり展示物をこさえたりしてたんだけれど、それこそこのあいだの台風が直撃してイベントそのものが中止になってしまった。


 おい、この手元にある展示物、どうしたらいいんだ。1万円くらいつぎ込んで作ったのに!



と、解脱前の私なら言うところだろうが、もはや解脱しているので気にしない。



 取引先の兄ちゃんが、


「うおっ!それまじすごいっすね!うちも真似したいっす!」


と言うので、好きに改造していいよ、とくれてやった。


 最近、こういうことが多い。手柄もくそも全部どうでもいい。みんなあげちゃう(by弓月光)しらんか。古いもんな。







<つぶやきその4>



  最近、おしっこが終わってから、「もう、終わりーだね」と小田和正な気持ちになりかけているその瞬間に襲い掛かってくる残尿に、完全に打ちのめされている。


 まるで”笑ってはいけない”で「武庫川!アウト!」と言われているような気になる。



 あと、末娘が嬉しそうに毎日抱きついてくるのだが、メガネを外してじゃないと顔を近づけ合えないのが悔しい。


 なぜ目薬には「40」という数字が書いてあるのか、身体で理解しかけている43歳であった。




~~~~~~~~



 ええ、テンションがいつもと違うでしょ?疲れているんです(笑)



 おやすみなさい。


2017年11月10日金曜日

死にたい、ということは「この生において居場所がない」ということである。



 人が「生きている」ということを実感するその根幹というのはとても簡単で、それは平たく言えば



「自分の居場所がある」

「自分の立ち位置がある」



ということに他なりません。


 だから、たとえば生物学的に生きていてもベッドに寝かされてしばりつけられたり、あるいは、意識もなく身体も動かせないなら、それは「死んでいるとは言えなくても少なくとも生きていたいという積極的な状況ではない」ということになるわけです。


 逆にその状態で意識がバリバリあったとしたら


「むしろいっそ殺してくれ!」


と考えるのは自然なことでしょう。だって立ち位置も居場所もなく、ただ生命として生きているだけなのだから。




 座間の事件などを通して、「死にたい」ということに注目が集っていますが、もちろん「死にたい」と「殺されたい」は異なります。


 結果としては似ているけれど、死にたいというのは


「自分が安心納得して死にたい」


ということでもあるので、哀しいかな人は最後まで


「安心して死ねる場所、という居場所を求めている」


わけでもあるのです。




==========




 この世界における居場所とは何か。


 これは簡単なようで、その人その人によってかなり受け止め方が違うので、これ!、と言うことは難しいのですが、 逆に言えば、


「どんなことでも、なんでも居場所や立ち位置になりうる」


ということは覚えておいて損はないでしょう。つまり、どんな小さなことでも、人は生きていられるのです。


物理的な仕事などの生活の糧を意味することもあるでしょう。

精神的なつながりや充足を意味することもあるでしょう。

恋人や夫婦になど、異性関係の場合もあるでしょう。

健康に関することで、みずからの生の立ち位置を見失うこともあるかもしれません。




 わたしは解脱者を自称していますので、いわゆるお説教のような「こうするべき」ということは一切言いません。


 先日も「死ぬことを意識している」という相談者さんからコメント
 https://satori-awake.blogspot.jp/2014/06/blog-post_30.html
 (コメント欄は下部)


を頂きましたが、私の立場


「生きるべき」とも言わない、「死ぬべき」とも言わない


というまるでサントリー山崎のCM「何も足さない、何も引かない」みたいな名言を残してたたずむのみです。

 (サントリー)http://www.suntory.co.jp/whisky/yamazaki_pre/nenkan/nenkan_bizen.html



 そう!さっき私の立場といいました。私はなんと「解脱者という立ち位置」を自ら作り出してそこにいるので、生きていられるのです。



 これはある意味でとっても楽です。たとえば


「ワシは何も持たず、何にも囚われぬ仙人じゃ」


と自ら言ってしまえば、何も持ってなくて、身一つでも別に困らない。だってそういう立ち位置なんだもの、ということになるわけで、簡単でしょ?



 このように、立ち位置や立場がないと思っている人は、実は「ある世界やある業界、ある人間関係という閉ざされた枠内に立場がない」と考えているから苦しかったりしんどいのであって、


その枠組みから開放されると、立場立ち位置なんてものは、時には空虚なものであったり、「立ち位置生まれろ!」と想像するだけでポン!と出来るような、そんな簡単なものだったりする



ことに気付けば、恐ろしいことはないのです。


 私のような解脱者の仕事は、枠に囚われている人に



「え?そんな枠なんてどこにもないですよ」

とか

「枠はちょんとおせばすぐ出られるようなしょーもないもんですよ」

 とか


そういうことをアドバイスすることなんですね。




 ですから、私は解脱者ですが万能者ではないので「全世界の死にたい人を救う」なんておこがましいことはできませんが、


「死にたい」

と思っている人と、ほんのすこしお話をする


ことくらいは全然OK、いつでもできるわけです。




 しかしまあ、あんな事件を起こした人がいるので、きっと世間では「解脱者ムコガワ散歩ももしかすると、ネットで暗躍する 怪しげな人物に違いない」とか思っている人が増えるなあ、と感じてはいますが、解脱していますので、まあそう思う人がいても困るとか苦しいとかは思いません。


 別にどうでもよろしい些細なことです。



 それでも、今日も何がしかの悩みを抱えた女子が相談を寄せてくるので、画像を見ながらメールでちょこちょこ返信を返しています。


 けなげですね。わたし。

















2017年10月30日月曜日

「さとりってなんですか?」に対するお答え。



 「教えてお坊さん!悟りってなんですか」

なる書籍が出るらしく、ちょっと気になって読んでしまったこの記事。



「さとりってなんですか?」 6人のお坊さんに直球で聞いてみた
https://www.houdoukyoku.jp/posts/20561



 へー、そういうことを考える女子がいるのね。と著者の小出遥子さんという方にも興味が湧いたわけですが、記事そのものは



 ちょっとまろやかにぼやけているので



もやっとしましたよ。苦笑。



 それくらい、悟りというものは「悟った人にはわかる」んだけれど、「悟っていない人には、わかりづらい」ものなので、じゃあこのリンクの記事を読んで「悟りについてわかるか」「せめて悟りとはどういう常態か想像できるか」と言われても


わからない


のではないかと思います。



 まあ、わたくしムコガワも、この書籍をまだ読んでいないので、内容についてはなんとも言えませんが、気になった言い回しがあったのも事実。



” 「夢から醒めてしまえる」と。その事を、皆さん色々な例え話でおっしゃってくださる。

それで「この世の中は夢かもしれない」と思って、おそるおそるそのような見方で見てみると、普段の生活でもそれを証左するものに気づいたりして、私個人としては全くおとぎ話でも無いなと思うわけなんです。”


(記事より引用)



 このあたりの話は、ムコガワがいつも言っている「この世は存在しないかもしれない症候群」に連動していますね。


 それを夢と言い換えているあたりが、ちょびっとまろやかなんだと思います。




ちなみに、もう一つ引用。


”仏教はさとりの境地を指し示す教えだと思っているのですが、そこをガツンと言ってくれるお坊さんがなかなかいなくて”



いるじゃん。ここに(笑)


 わたしゃ坊さんではないけど、ガツンと言いますよ~。ガツンガツン。





~~~~~~~~~~





 で、せっかくなのでムコガワなりの「悟り」とは何かということをお話しようと思います。



 悟り、というのはある種の絶望というか、喪失なんですね。あると思っていた世界や、あると信じていた理想像や、あると感じていたものが、実は


ない


のではないか、というところから悟りは始まります。


 でも、その絶望や喪失の中に身を置くと、ぶっちゃけ「死ぬしかない」わけですよ。私たちは。


だって、ものすごい絶望や喪失で、そこにカタルシスや救いのようなものが「ない」と感じ取ってしまうわけですから。



 となると、人生やこの世はなーんにも価値がない、どうでもいいものになってしまうわけですが、でもひとたび喪失して、何にも無くなってまるで砂漠のようなところへ放り出された時に、逆にいろいろなものが見えてくるわけです。



 見えてくるものは、人によって千差万別で定型ではありません。



 ある人には、砂漠の中なので、砂のひとつぶひとつぶがしっかりはっきり見えてくるかもしれない。


 ある人には、果て無く広がる空間というものが感じられるかもしれない。


 ある人には、ああ、そして空というものが存在するんだ。太陽や月があるんだと思えるかもしれない。

  ある人には、遠くになにかオアシスのような緑が見えるかもしれない。




 そうすると、絶大なる喪失であったはずなのに、その小さな発見が、その小さなものが「ある」ということに目が行くのです。


 これが悟りの第一段階のようなものですね。



 すべてがすっかりさっぱり「ない」と思っていたのに、「ある」ということそのものを発見することが、悟りなんです。



 そうすると、今度はその人の生き方が変わってくる。



「ある」んだ。じゃあ自分も死なずに「あってもいい」んだ。


「ある」んだ。じゃあ「あるということ」には意味があるんだ。



とか、そんなことを思い始める人には、希望が生まれるし、感謝が生じたりもします。



「ほんの小さいものだけれど、ある」んだ。それはすばらしく大きなできごとだ。


「ないという状態とあるという状態は違う」んだ。そこに、価値が生まれるんじゃないか?



とか、そんなことでもいいのです。



 仏教的には、悟りによって生じた「知足(ちそく・足ることを知る)」の概念などと言ったりもしますが、 ないものの中であることの価値を感じ取れると、そもそもが「ない」のですから、ほんのわずかなことへの感謝や希望が生まれ、



我欲や執着が消えてゆく



ことになります。このへんになってくると、「ああ、なるほど、それは悟りっぽい」とわかりやすくなりますよね?




 まあ、そんな感じで誰でも悟りに到達できるわけですが、そこには苦しい修行もいらなければ、全てを捨てて出家しなくてはいけないこともありません。


 ただ、何か大きな喪失体験があると、感覚的には理解しやすい、というのはあるかもね。



 ってことで、今日はこのへんで。
























2017年10月27日金曜日

「私の方が不幸だ!」という人が、変わるとき。




 警察官クビになってからブログ、というブログが人気のようで、たまーに拝読するのですが、



「私の方が不幸だ!」と言う人が多い
http://www.keikubi.com/entry/2017/10/27/%E3%80%8C%E7%A7%81%E3%81%AE%E6%96%B9%E3%81%8C%E4%B8%8D%E5%B9%B8%E3%81%A0%EF%BC%81%E3%80%8D%E3%81%A8%E8%A8%80%E3%81%86%E4%BA%BA%E3%81%8C%E5%A4%9A%E3%81%84



というエントリーが気になったので取り上げみました。


 このブログを書いておられる方は、その人生において


「けっこう不幸、と思われる歩み」


を経験しておられるのですが、それに対して


「自分のほうが不幸だ」「あなたはまだマシだ」


と言ってくる人が多いよね、というのが骨子です。


 で、彼はそのことについては、そのまま肯定も否定もあまりせず、



「不幸だと思う人は、ブログに書くといいと思う」



とさらっと新しい提案をなさっています。うん、まあいいと思う。





~~~~~~~~~~



 さて、この話をぼんやり見ながら、「不幸」についていろいろとこれまた気になっている点をちょっとだけまとめてみたいのです。



 なぜかと言うと、上のブログの方も少しだけ触れているのですが、


「私のほうが不幸だ」


という比較も、世間では良くあるし


「世の中にはもっと不幸な人もいるんだ」


という外野からの投げかけもよくあります。



 でも、それらについて「不幸自慢」「不幸比較」「不幸判定」をするのは不毛だし、おそらくエンドレスで際限がありません。


 むしろそもそも、「不幸である度合い」「不幸度数」は主観によるので、客観的に判定することはできないのです。



 だから、それを比較したり、不幸であることについて誰かと誰かが議論したりすることは、ほとんど意味がないのですが、武庫川の経験則から考えると、ちょっと気になる事象があるのです。




 もちろん、「個人の感想です」レベルですから、万人に当てはまるわけではないかもしれませんが、まあ、お読みください。お暇なら。




~~~~~~~~~~




 「私の方が不幸だ」と常々感じているAさんという人がいるとしましょう。


 その人が、たとえば、他者の不幸なエピソードを見聞きしたり、他者が不幸であることを認識したりしたとします。


 その時、外野から(要するに友達や知り合いから)「ほら、あんなに不幸な人がいるんだから、あなたはマシよ」と言われたとしても、Aさんは


「その人も不幸かもしれないが、私は不幸だ」


と思っていたら、このAさんはこれまで通り鬱々とした人生を過ごします。



 この時、興味深いことに、仮に比較された他者のほうがはるかに不幸で、Aさんもそのことを自覚して、


「その人のほうが不幸かもしれないが、私も不幸だ」


と感じたら、他者のほうが不幸でも、Aさんはこれまで通り鬱々とした人生を過ごすのです。




ところが、ここから不可思議な現象が起きます。



Aさんが自分より不幸な他者を見聞きした際、


「その人は不幸かもしれないが、私は幸せかもしれない」



と感じたら、Aさんは生き方が大きく変化するのです。なんていうか、そう!前向きに、ポジティブに人生を捉えるように変化します。


 もちろん、そう感じただけで周囲の状況は何も変わりませんから、すぐにAさんが幸せになるかどうかは別なのですが、それでも



Aさんは幸せな方向へ向かって歩みはじめる



ことが多いのです。




~~~~~~~~~~



 以上のような「不幸だ」という人の変化は、あくまでもムコガワの経験則で話していますから、全員がそうとは言いません。


 しかし、


「人は自分より下(不幸)な人を見て生きる」


とか


「人は自分より不幸な者を見て安心する」


とか、そういった単純な図式ではなさそうです。



 どうも、そっちではなく、確かにそこには「不幸の比較」がきっかけとなって存在し、かつ「自分より下(不幸)な者や現象を認識する」ことがスタートなんだけれど、ポイントはそこではなく、



「人は、自分が幸せであると知った時に、開眼する(変化する)」



とも言える展開がある、ということなのです。



 なので、不幸である人に対して、どれだけその人より不幸な他者を見せたり、不幸な事例を示しても、彼が



「自分が幸せである」



と実感できないならば、他者の不幸がどれほどえげつないものでも無意味なんですね。



 逆にどんな些細なことでも、


「あ、ボクは幸せかもしれない」


とか


「ああ、あたしは実は幸せなんだ」


と思えた瞬間に、鬱々とした人生から晴れ晴れとした人生へと舵が大きく変化する、ということなのです。



 そして、ちょっとこれはゲスいですが、このきっかけというのは


「あ、ボクはあの人よりも幸せかもしれない」


でも


「ああ、あたしはあの人より実は幸せなんだ」


でもOKなんですね。



 そういう意味では人は優劣をつけたがり、自分の地位について比較もするし、マウントし合う弱い生き物です。


 でも、ポイントは不幸の下争いではなく、「そのことで自分が幸せであることに気付く」ことがミソだったというわけです。




 なので、自分が幸せだと認識できない場合は、残念ながら最期までそのまま行きます。



 鬱々とした人生



が待っています。




 けれど、「あ、ちょっと自分幸せかも」と思える人は、それがどんな些細なことやエピソードであっても、それを感じられれば



人生、意外にいい感じになるかも



しれません。

































2017年10月6日金曜日

死とは何か。 ~他者から見た死の本質と真実~




 久しぶりにうちの可愛い弟子から連絡が来て、いつものように高尚な生き様についての議論を交わしていたところ、仮の姿で生きる俗世の取引先の方のお葬式に出なくてはいけないはめになって、


「おうっ、葬式行って来るぜ」


と、そのまま慌てて喪服に着替えて参列することになった。



 葬式、というか正式にはこちらも仕事の関係で通夜式のみ参列させていただいたのだが、自分の知っている宗派のものとは多少内容やらお経が異なっていたので、興味深く感じ入りながらお参りさせていただいたところである。



 仏教の葬式では、いろいろなお経が読まれるのだが、一般的に有名なものとしては


 般若心経


 が挙げられるだろう。もちろん、参列した式でも、般若心経のコーナーがあり、全部で5~6曲の仏式ソロライブだったのだが、ちょうど真ん中あたりで唱えられていた。


 余談だが、般若心経のすばらしい訳出が、ムコガワ散歩大先生によってなされているので、ぜひ一度お唱えいただきたいものである。




般若心経を超現代語訳する。
 https://satori-awake.blogspot.jp/2017/04/blog-post_23.html





 ちなみに、うちの母方の宗派は曹洞宗で、曹洞宗では、


 メインボーカル、サブボーカル、コーラス&パーカッション


の3人から7人体制ぐらいになってライブをするので、まるで


「内山田洋とクールファイブ」

とか

「カルロストシキとオメガドライブ」


みたいなことになるのは、有名な話である。 もちろん、僧侶の数が多いほうが、格式が高いという世知辛いが金の話である。






~~~~~~~~~~





 さて、そんな話をしていると、弟子から


「ところで、師匠は死についてどのようにお考えですか」


と、恐っそろしい質問をされてしまった。



 もちろん、解脱者ムコガワは、死に対して必要以上の恐怖を抱くことはなく、ただ粛々と運命を受け入れるのみであるので、(運命論者でもないけどね)



 死とは、すべてが塵に帰ることである



という感覚を持っている。 死後の世界があるとは考えないし、輪廻があるとも思わない。


 ただ、一匹のアリさんが、プチッと何者かに踏まれたのごとく、


「そこに居たということも、そこでどのように生きたということも、誰にも思われること無く、ただ、一匹の蟻のごとく土に還るのみである」


と説いている。



 そもそも、ブッダもイエスも、ムハンマドも死んだのである。



 この世に生まれたどんな神の使いであっても、あるいは自分を神の化身だと言う者であっても、



100%まごうことなく、全ての生きとし生ける者は、死ぬ



 のである。神の使いや神の息子や、神の預言者であっても死ぬのだ。



 むしろ、死なない奴がいたら、そいつが神だと言っても差し支えないくらい、人は死ぬのである。





~~~~~~~~~~



 自分が死ぬということは、いわば誰もが通る道でもあるので、ただそれはそれとして受け入れざるを得ないだろう。



 ただ、自分のことではなく、「周囲から見た死」となると、また話は変わる。


 私は実父を癌でなくしているが、「これまで確かにいた者が、ここからはすっかりいなくなるそのポイント、時点」というのが、死の前後を明確に区分する。


 
 しかし、実はその時点・ポイントというのは、それほど重要ではない。


 私の父は癌で死んだが、呼吸を止める瞬間にも立ち会うことができた。


 だが、その瞬間・時点・ポイントというのは、ツボではないと感じたのである。


 たしかに死はその時点に訪れたのだが、少なくとも数日前から病床に寝ている父は、すでに意識があるのかどうかも判然とせず、癌特有のやせこけた身体で、すでに私の知っている父ではなかった。


 この生きている状態の父は、少なくとも私を家族として愛してくれていた父の姿ではない、ということは目で見て明らかなのだ。


 もっと言えば、「お父さんと話がしたい」と思っても、すでにもうそれは叶わないのだ、ということは、生の中に現存しており、彼は確かにまだ生きてはいるのだが、いわゆる「生きていて、息子である私とできるはずの会話や交流」はもう望むべくもなく終了しているのであるから、


 あとはもう、安らかに楽になってほしい


という気持ちが正直なところであった。つまり、現象としての「生」には、もはや価値がなくなっていたのである。


 
 もっと言えば、まだ意識があった際も、肝臓癌特有の毒が解毒できないことから来る肝性脳症を発していたので、交わす言葉はいわゆる認知症のように、すでにまともではなくなっていた。


 肉体はたしかに父であるが、会話をしている相手はすでに父ではなく、悲しいかなすでにあちらへ行かれた方、ああ、その表現がきつすぎるなら、あちらへ行こうとしている方でしかないのである。


 となると、私がこの肉体に見ているのは、「元気で聡明であった父の幻想」であって、記憶でしかない。


 その聡明なる父はすでに失われて、あちらの世界へ旅立っているのである。だとすれば、ここにいるこの肉体は何か。それは父であって父でない、けれどもそれ以外にもはやこの地上にとどまっている父はいないのだ、という不可思議な存在というわけだ。




~~~~~~~~~




  医者の先生に、尋ねたことがある。


「肝臓が機能を失うのは理解できます。解毒できず血がどんどんとまずい状態になるのもわかります。ですが、そこから死ぬということには、ちょっと飛躍がありすぎませんか?どうして人はそこから死へ至るのですか?」


と。すると、先生は、ちょっと考えて、じつに端的で明快な答えをくれた。


「うーん……。血圧が、血圧が下がるんですね」


と。



 その答えは、実に納得のゆくものであった。


 血圧が下がる。心臓が血液を送る力あるいはエネルギーに欠けはじめる。全身に血が回らないので、最初は一つの臓器のトラブルだけだったものが、今度は同時多発的に全体の機能を失う。



 それが、死だ。それが死なのだ。



 呼吸が止まることも死の定義かもしれない。


 心臓が止まることも死の定義かもしれない。


しかし、血圧が下がるということは、回転数が落ちてゆくハンドスピナーのようなもので、いずれは全ての停止を予感させる。


(だから脳死や植物状態は死ではないという解釈ができる。なぜなら血圧が下がっておらず、適切な処置を施せば、肉体が機能しつづけるからである)


 これが、肉体的な死というものの一つの説明だ。



~~~~~~~~~~



 さて、私が認識している父は、聡明でたいへんに賢い人物であった。その父の姿をもちろん今でもしっかり思い出せる。


 しかし、死にゆく父の現状はけしてそうではないのに、その「聡明なる父像」を記憶として持って父と接することができるというのは、いかなることであろうか、と考えた。



 そうすると奇妙なことがわかる。仮に私が父と離れて暮らしていて、「父が実家で生きている」と認識している認知は、実は脳の中で生み出された知覚によるイメージ(幻視・ヴィジョン)でしかない。


 私は父が生きている、と思っているが、その知覚は、現実とは乖離した電気信号で生じさせられた幻影にすぎないということだ。


 そして、ここで現実の父が死んだとして、その後に私が「生前の父を思い出す」行為を行ったとすれば、その知覚は、やはり電気信号で生じさせられた幻影にすぎないことになる。



 つまり、人が誰かが生きていると認識していることは、実際には生きていようが死んでいようが、他者からみれば



「脳が認知して電気信号として生じさせている幻影」



に過ぎないということなのだ。


 では、誰かが死んで人が悲しむのはどうしてなのか。いずれにせよ、電気信号であり、知覚に過ぎないのに、死んでしまえば何が失われるというのか。



 ……それは、先ほどの話に戻るが、「ある時点・あるポイント」から、それらの体験・経験・コミュニケーションをした内容という彼からのインプットがもはや更新されず、永遠に止まる、ということが悲しくつらいのである。




~~~~~~~~~~




 さて、本日ノーベル文学賞の受賞が発表されたカズオ・イシグロ氏がこんなことを言っているらしいと知って、たいへんに共感した。


「記憶は、死に対する部分的な勝利である」

 (byカズオ・イシグロ)



 これは、どういうことかと言うと、ある人が死んでも、その人を知る多数の人が彼を思い出し、追憶できるのだとすれば、その記憶によって死は、ある程度慰めることができる、というくらいの意味である。


 稀代の哲学者ムコガワ・サンポからすれば、死どころか相手が生きているときすら、記憶すなわち脳科学的な認知の産物として知覚するのだから、勝ち負けはともかくとして



 記憶は、他者を永遠に生かすことのできる神からのギフトである

(byサンポ・ムコガワ)



くらいは言ってもよかろう。



 というわけで、ノーベル賞はいらんけど、いつかイグ・ノーベル賞はいただきたいと思っている武庫川散歩であった。



 あ、ノーパン文学賞でもいいぞ。


 







2017年9月29日金曜日

自分が不幸だと思っている人は、永遠に不幸である。 ~幸せとはなにか~




 これまで、公私共にいろんな人たちと接してきたり、あるいは家族や親族を含めて多くの「人生」とやらを見てきましたが、ムコガワの人生そのものが後半にさしかかっていることもあって、ある程度


見えてきた


ことがあります。


 それは


「幸せに生きるとはどういうことか」


という問題なのですが、人が標準的なノーマルの状態から「幸せな方向へ進む」ためにはどうしたらいいのか、ということは意外に難しいと思います。


 それは、ベタな言い方に変換すれば


「より金銭的に余裕を持つには」

「よりよいポジションになるには」

「よりよき人とめぐり合うには」


などのように、ノーマルの状態から「よい」ものを入手したり、その状態へ近づくことになり、 ぶっちゃけて言えば、


そういう幸せを手に入れる法則やマニュアルは存在しない


ということになってしまうからです。




 さて、仏教的な幸せというのは、これまた一般的にもよく理解されるほど言い尽くされていて、その考え方で言うと


標準的なノーマルの状態をそのまま肯定する


という手法をとります。



 つまり、仏教や東洋哲学的な幸せは、「ある状態から幸せな状態に推移するのではなく、そのままの状態でよしとする」という認知の問題だということなのですね。


 だから、実際には、標準状態から幸せな状態へ移動せず、何も変わっていないのに


「それを幸せと捉える」


ことによって、幸福感を感じるというわけで、これはある種の「信じ込み」とも言えます。




 しかし、一方で、どれだけ要素としての「よいもの」を手に入れても、それが幸福感につながるとは限りません。


「お金もある、立場もある、結婚し、子供もいる。なんでも満たされているけれど、不幸だと感じる」


そういう人はたくさんいます。


 これらのことから、「幸福とは、状態の遷移なのではなく、単なる捉え方や感じ取り方だ」と考える説もあるわけです。




==========

 

 そうなると、スピリチュアル系とか、いわゆる人生論的な言い回しで


「自分の置かれている状況を(とりあえず)幸せだと思うことで、すなわち幸せになれる」


という言説を取るものも多く出てきています。



 具体的には


「幸せだと鏡に向かって毎日言えば幸せになれる」


みたいな、現状はどうであれ無理やり幸せを唱えるといいのだ的な考え方がそれに当たるでしょう。



 ムコガワは、そういう「無理に思い込む系」の幸せは、なんだかな~、あやしいなあ~とつい思ってしまうタチなので、あんまりお勧めはしません。


 なぜかと言うと、「口でなんぼ幸せだと言ってても、心がそれを認知認識していなければ、乖離する一方で、メンタルがやられるだけ」だからです。

 
 このブログでも何度か書いている「正しいと思われることがゆらぐ『正義のゆらぎ』を引き起こす」のは、よくない事だと思うのです。




 ==========




 さて、一方


「自分は不幸である」


と捉えている人は、なかなか幸せにはなれません。


 私の周囲の人々の生き方をまとめてみると、総じて


「自分は不幸だと考える人は、永遠に死ぬまで不幸」


なのではないか、とまで言いたくなります。



 なぜそうなるのかは簡単で、不幸であるということは、本人は常に「幸せな状態へ移行したい、遷移したい」と思っているからです。



  自分の状態は、「標準的なノーマルの状態よりも下である。よって自分は不幸である」とまず考えます。


 具体的には


「自分は彼よりも持っていない」


とか


「自分は彼よりも体験していない」


とか


「自分は彼よりも不利益な状態にある」
 

とか、そういうふうに考えるということです。


 すると、不幸を唱える人から見ると、「標準的な状態とはこうであるはずだ」とか「これが私のあるべき位置だ」と考えている基準点は、自分にはなく常に他人の側にあることになるので、もし、あるときそのポジションに到達したとしても、また他人の側にある新しい基準が欲しくなるということになります。



  そうならないためには、自分で基準点を定めなくてはなりません。



 しかし、その時


「とりあえず人並みの暮らしができていて、普通の生活で、それなりの人間関係で」


というように、自分では普通の基準を持っているつもりでも、実はそれは


「統計などによって、明確に設定されたものではなく、感覚的なもの」


でしかありません。


 だから不幸であると捉える人は、


「絶対に叶わない状態」


を常に切望することになりかねません。絶対に叶わないから、永遠に不幸は続くのです。




==========



 たとえば、私の両親は昔某宗教に入っていて、それもあって離婚したり家族がバラバラになったりしましたが、



「自分の人生がうまくいかないのは、家庭に問題があったせいだ」


とか


「自分の人生がダメなのは、宗教のせいだ」



とか、そんなことを私が思ったとしましょう。そして、本当にその通りで、そのためにわたしが



「標準よりも下(不幸サイド)」


に立場が置かれているとしましょう。


 はい。いまここで設定された「標準状態」というのは


「両親が揃っていて、宗教などに振り回されない家族像」


ですよね?うちの場合はそれを満たしていないので、私が「ノーマルより下だ」と考えても、全く問題ないでしょう。





 しかし、大問題なのはここからです。これらの状態は、取り戻すことができません。永遠に。



  だから、もし私が両親のことや過去の宗教のことを不幸だと捉え続けるならば、永遠に幸せにはなれないことになります。




 これをもっと具体的に言い換えてみます。




 ある時、事故に逢って両足を失った人がいるとします。


 あなたはその人のことを「彼は永遠に幸せになれないだろう」と考えるでしょうか?



 あるいは、私が彼に


「彼は永遠に幸せになれないだろう」


と言ったら、あなたはどんな風に感じるでしょうか。


 おそらくとても反発して、なんという失礼なことを言うやつだと立腹するのではないでしょうか?



 足がないことは、幸せと直接関わるわけではない。


 足がなくても幸せにはなれるはずだ。


 足については残念かもしれないが、幸せに至る道は他にたくさんある!



 と誰もが考えるし、実際その通りです。




 そう。つまり、両親が離婚していようが、宗教に毒されていようが、足がなかろうが、基本的には


「それらは幸せとはなんの関係もないこと」


なのです。ただ一点、そのマイナス状態であることを自分自身がずっと呪い続けなければ、という条件はつきますが。




===========



 本人がそうすれば、彼は「永遠に不幸のまま」であり、本人がそうしなければ「幸せは他にもたくさんある」ということは、一体どういうことなのでしょう。


 もしかすると、


「何かがある、持っている」


ということも

 
「何かがない、持っていない」


ということも超越した先に幸せはあるのかもしれません。



 このことに気付いたものは、真っ先に幸せになれるのです。



 その気付きは、人によって異なります。




 ブッダは、「今あることに満足すればそれで幸せ」と捉えたし、イエスは「持っていないもののほうが、幸せ」だと捉えました。

 もちろん世間には「もっているから自分は幸せ」と捉える人もいます。それも実はOKです。



「自分が不幸である、と思っている人は、実は自分で自分は不幸なのだという呪いをかけている」


のです。 それは自分でかけた呪いなので強力です。


 他者にはたちうちできないかもしれません。


 その呪いを解くのも自分自身です。


 


























2017年9月19日火曜日

武庫川散歩、小説をさらに書く ~新章追加~



 先日は台風が吹き荒れて大変なことになっていましたが、なんと今回の台風は


 九州、四国、本州、北海道


と四つの島を一筆書きで伝うように進んでいったので、こんな台風は史上初だったそうです。


 まさに日本縦断とはこのことですが、被害に合われた方には心よりお悔やみ申し上げます。


 幸い私の住む地方では、大きな被害はなかったのですが、近年は地球温暖化なのかハルマゲドンかわかりませんが、


 地震やら台風やら、大雨やら土砂崩れやら、津波やら大潮やら、ミサイルやら



いろんな災害が起きております。最後のだけ、完全な人災ですが、穏やかに暮らしたいものですね。




 さて、先日もご紹介しましたが、不肖・武庫川散歩が書きました小説



「ヤンキー小田悠太の慟哭」
 http://talkmaker.com/works/b0c04591422427ceda5bc3fbf689e1ff.html




が、一旦完結したと見せかけて



新たなる新章



をひっさげて帰って参りました。



 まるで旧約と新約の前後編に分かれた聖書のように、この物語も前編と後編が雄大にリンクするという



 一大巨編



へと変貌。



 もちろん、みなさまお待ちかねの



 一大巨乳



もひっさげての再登場です。あ、一つじゃなくてニつか。



 ぜひ、前編をお楽しみくださった皆様には、後編の部分も読んでいただければ、2倍楽しめることと存じます。



 後編の主役はもちろん「野々村吉雄」こと野村のヨッちゃん



 舞台は西暦1995年前後の、日本の音楽シーンを髣髴とさせる設定なので、たのきんトリオ世代の方から、あの伝説のヘビメタバンドファンまで、幅広く楽しめると思います。



 そして、あろうことか、今回、秋本康に似ていると評判のムコガワは、リスペクトついでに



 作詞



にまで挑戦したという意欲作です。




 前編と打って変わって、ロックでメタルなめくるめく世界が広がる後編を、ぜひお読みくださいまし。



 というわけで、ここんとこまともにブログを書いていませんが、ちゃんと活動しておりますのでご安心を。





==========




 ちなみに、余談ですが、秋になって季節の変わり目だからかわかりませんが、


「姿を消していた弟子たち」


が、鈴虫のようにコロコロ鳴き始めておりました。



 それぞれ、一応元気でやっているようなので、ひと安心です。


 一人にはうなぎのひつまぶしを、もう一人には手作りたこ焼きを提供する約束をしましたので、 いつがいいか希望日程を連絡してください。




 ちなみに9月末から10月頭には、妻のおとんとおかんがやってくるので、戦々恐々です。



 お義父さま、お義母さまと過ごさねばなりませんの。



 いやっほい。
















2017年9月1日金曜日

武庫川散歩、小説を書く ~聖書ラノベ新人賞に応募した件~



 この夏はとっても暑くて、毎夜毎夜パンツまで解脱しながら床で寝ていた武庫川散歩でございますが、みなさまいかがお過ごしでございましょうか。


 ようやく、暑さもピークを過ぎ、いくぶん天候も過ごしやすくなってきたと思ったら、今度はミサイルやら何やらが降ってくるという、ええ、ハルマゲドンが近い今日この頃です。


 わが国をめぐる世界情勢が緊迫を増すなか、いつ何時「あってはならない」ことがあっても不思議ではありませんが、これもまた諸行無常なのでありましょうか。


 さて、ふとしたきっかけで武庫川、小説を書くハメになってしまいました。


 

 キリスト新聞さんと、トークメーカーさんがタッグを組んだあってはならない話題のコンテスト


(画像は主催者さまからの転載です)


「聖書ラノベ新人賞」
http://talkmaker.com/info/303.html



とやらに応募したからです。



 このブログでも初期にはさんざん書いていますが、キリスト経に造詣が深い武庫川のことですから、こんなブログを書いている暇があるなら、小説の一本でも書け、ということでハイ書きました。



 そうそう、実はちょっと前に、うちの弟子(おい、最近どうしてるんだ)のネタでも物語に書こうとしていたのですが、どうも気が乗らずにそのままになっています。

 飽き性なのかもしれません。てへぺろ。



 でもまあせっかく書いたので、世界の片隅に生息する武庫川散歩さんのファンの方には告知をしておくのが義理というものだろうと。




 告知です。読みたい方はどうぞ。



 きっと泣けます。



 感動巨編です。



 そしてあまりのオチのすごさに、きっとずっこけます(笑)



 武庫川のアホー!



 とか叫びたくなります。

 

 ・・・・・・というわけで、どうぞ!



 「ヤンキー小田悠太の慟哭」
http://talkmaker.com/works/b0c04591422427ceda5bc3fbf689e1ff.html



 ↑ここから読めます。もちろんお代はいただきません。



 ご感想などがあれば、ツイッターかなんぞに送っといてください。ではまた。



 

2017年7月19日水曜日

人生で大切なたった一つのルール ~これだけ覚えておけば、幸せに生きていける~



 久しぶりの更新ですが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。



 今年も、これから猛暑を迎えそうですが、大きな災害があったり、無差別の殺人があったり、この世はどうかしてますね。




 そんな俗世のあれこれは、とりあえず脇へ置いておいて、解脱者ムコガワは、またひとつ悟ってしまったので、そんなとりとめのないお話を。



 もはやムコガワが新たな悟りを開くのは、ルパン三世の石川五右衛門のごとくおなじみのルーチンと化しております。



 また、つまらぬことを悟ってしまった・・・・・・。



  なーんて。





==========



 さて、人生において、人が覚えておくべきたった一つのルールというか、教えというのは、とてもシンプルなものであることに気付きました。


 これだけ覚えておけば、人はかならず幸せになれるであろう、という簡単な取り決めです。



 私は解脱者なので、本当は世界なんてありゃしないと思っているし、ましてやそこにルールや取り決めなんて不要だと考えているのですが、それでも




 この世界ととりあえず折り合いをつけて生きていかなけりゃならない



わけで、そのために一つだけルールを考えたのですね。




 さあ、ではその簡単なルールをお伝えしましょう。




『 人は、正しい行いや良いことをするために生きている。

 
 ただし

 
 その正しいことや良いことは、ころころ変わる 』




  とても簡単です。人が生きている理由は、「正しいことやよいことを行うため」。めっちゃわかりやすい。


 しかし、気をつけてください。その「正しいことやよいことはコロコロ変わる」のです。瞬時にして。



 時として、ひどい場合には「正しいこと」が真反対になってしまったりもします。


 さっきまでこれが正しいと思っていたのに、真逆になることだってあるのです。



 だから、それをそのまま、しっかり覚えておいてくださいね。




 ==========



 何を言っているか全然わからない、という方も多いことでしょう。なのでやさしく説明してみましょう。



「一生懸命働くのはよいこと」ですが、「体が壊れるまで長時間働くのは、よいこと」ではなくなります。


だとすれば、あなたが「よいこと」と思ってしている労働はある瞬間から「よいことではない」ところっと変化します。



「勉強するのはよいこと」ですが、「勉強だけの価値観が育ってしまうとよいことではなくなり」ます。



「誰かを愛する」のはよいことですが、「相手が拒絶すればストーカーになってしまう」ことだってあります。



 そう。あなたの生きる目的や進むべき進路は、たしかに「よいことや良い行い、正しいことをするため」であることは間違いないのですが、



 その良いことや正しい内容は、ふとした瞬間にころっと変わる



のです。


 ですから、「正しいと思うことに固執すると、それは正しくなくなる」のです。




 だから、あなたが生きるための指針はとてもシンプルです。「良くあろうとすべし、ただし、その良いという内容は変化する」というわけです。







  では、ここで、逆の発想についても書いておきますね。良いことや正しいことがコロコロ変わる、ちょっとあやふやなものなのだとしたら、それなら



「最初から悪いことをしようとしたり、悪事を行ったらどうなるの?」



と思うかもしれません。



 実は、良いことや正しいことは、その真の意味がころころ変わるのですが、悪いことのほうは




「それをチョイスする時点で、あなたの人生の価値はそこで終わる」



と言ってもよいくらい、重い出来事になるでしょう。



 そう!悪いことをあえてチョイスする場合は、そこであなたの価値が失われるのです。




 「働くことを放棄してさぼってやろう」「勉強なんてしないでいいや」「あいつを憎んでやる」


・・・・・・こうした悪事や悪いことを主体的に選択した時、あなたの心は価値を失います。


 すごく不思議なことですが、悪いことはいいことには変化しにくいのです。




「働かない、だから結果的に健康だ」ということは、あまり成り立ちません。

「働くけれど、無理せず健康に働こう」は成り立ちます。


「勉強しないぜ」という人は、結果的に賢くはなりません。


「あいつを殺してやる」と思っている人は、結果論として幸せにはなれそうにありませんよね。




 これが、善と悪の不思議なところです。善悪や正しいことと間違っていることは、正確な対構造とはなっていないのです。






 正しいことが実は間違いになったり、良いことが悪くなったりする。それがこの世界。でも、


 悪いことや間違ったことがよくなったりはしない。それがこの世界なのです。


 なので、生きることは大変だったり、つらかったりするわけです。



(だって、良い方向へ努力しても、悪くなってしまうことがあり、悪いことは最初から最後まで悪いのだとすれば



 人生は悪い方向へいく確率のほうが、基本的には多いというか高いというか、転落率のほうが高いので、人生はしんどい



のですね。





 それでも、人は「よくあろうとする、正しいことを求めようとする」ことを追求したがるし、それを求めるほうが幸せです。


 ただし、そのことだけに固執すると、またそこに悪への転落が待ち構えているという、難易度の高いゲームなのです。





 人生は新幹線ゲームに似ているかもしれません。


 先へ進むことはよいことです。ゴールもあったり、見えていたりします。でも、先へ進むと穴へ落ちるようにできているわけです(苦笑)



 しかし、最初から穴へ落ちるつもりだと、落ちるしかないという!だから「人生の目的は悪」であってはいけないのです。





 新幹線ゲーム、好きでした。↓flashで再現されています。



 http://www.dagage.com/flashgame/shinkansen2/shinkansen2.html