2020年3月31日火曜日

12日後に死ぬ志村けん


 昭和、平成、令和と3つの年代を笑いのトップで駆け抜けた、偉大な人物が亡くなった。

 それはあまりに突然のニュースで、午前中の仕事で社員たちを送り出した後、業務にかまけてふとスマホのニュースを見ると、志村けんさんがお亡くなりになっていた。




 白黒テレビの時代から、「8時だよ!全員集合」を見ていた者にとっては、もう、何も説明がいらないほどの大人物である。




 志村けんさんは3月17日に倦怠感を訴えてから、3日後に重度の肺炎、そして3月25日に「新型コロナウイルスへの罹患」がマスコミで報道されて、3月29日に亡くなられた。


 それはたった、12日間の出来事であった。






 奇しくも、この騒動の直前には、


 100日後に死ぬワニ


というネットマンガが大ヒットして、(その後、大炎上するのではあるが)、


人は突然の死を知らずに、それがよいことか悪いことかは別にして、まるで永遠に日常が続くかのように生きている


ことを読者に再確認させたところである。



 事実は小説より奇なり



とは言うが、100日後に死ぬ虚構のワニよりも、12日後に亡くなった志村さんの無常や無念のほうが、あるかに重くわたしたちに事実をつきつけてくるのであった。




 そもそも、人間の命は3万日とされている。



  ■人生は3万日しかない
 https://satori-awake.blogspot.com/2016/10/blog-post.html
 


 それでも、わたしたちは、


「ああ、2万日を切ったなあ」


とか


「お迎えが来るのは1000日後か」


なんてことはまったく考えずに暮らしている。


 天寿をまっとうできる場合もあるだろうし、若くして亡くなることもあるだろう。



 武庫川の場合は、小学生の同級生を阪神大震災で亡くしているから、


「少なくとも、彼の分くらいは、一日いちにちを一生懸命生きよう」


 という気持ちはいつもある。


 そして、父親をガンで63歳の時に亡くしているから、現在40代のわたしであっても、


「人生は63歳までしかない(かもしれない)」


と思って生きようと務めている。



 そのように、ほんのちょっとだけは「残りの人生を生きる」ということに対して、マジメなつもりなのだが、



100日後に


いや


12日後に


ということを考えると、それはやはり「まさか!」でもあり、「無常」を感じずにはいられないのだ。



 ほんとうにこの世界というのは、はかないものである。





 志村けんさんのご冥福を、心よりお祈り申し上げます・・・・。








2020年3月17日火曜日

■神のものは神に! 〜基本的人権はどこへ漂流するのか〜



 国家的、いやいや世界的非常時であり、人類の存亡がかかっているまるでインデペンデンスディな事態、それが「新型コロナウイルス」のパンデミックなのですが、


 稀代の解脱者にして、自称他称を問わない哲学者でもある武庫川散歩さん


からみると、大変不可思議なことが起きていると悩んでいます。



 少なくともフランス革命以降の近代国家において、リベラルな視点における「基本的人権」やら「自然法」というものがずーっと尊重されてきて、わかりやすくいえば、


「移動の自由」「集会の自由」「職業の自由」「平等」


なんてのが至極あたりまえの権利として「おのずとあるもの」と考えられてきたわけですが、今回のコロナウイルスの広がりによって、


そういうものが全部ストップ


させられているわけです。


 これは一時的とはいえ、(いやいや、それでも「いつまで?」なのか現時点では無期懲役ですがね)近代国家、近代社会においてこうせざるを得ないということは、


「基本的人権や自然法、自然権は、非常事態には保証されない」


という良き前例なのか悪しき前例なのか、ができてしまったことになるでしょう。


 その非常事態とは、ぶっちゃけ「国家存亡の危機」という国家論的なものではなく(だって、それを許してしまうと戦争になるもの)


「人類全体の(それもかなり多い人数での)命に関わる非常事態には、自然権は停止する」


ということがわかったわけですね。これは人類史上まれにみる出来事です。



 つまり「基本的人権には条件があって、国民や人類の命に問題がない通常時に限る」

もしくは

「国民や人類の命にかかわる時には、基本的人権は制限される」ということが、21世紀の教科書には載るわけです。




  まだ、主要な識者さんたちは整理がついていないと思いますが、「法学者や哲学者」なる人たちは、今回の事態において


「国家や政府が何をどこまでするのは許されて、どこから先は許されないのか」


みたいなことをしっかりお勉強しておくのがよいかと思います。


 これをおろそかにすると、「戦争や動乱において」も、なし崩しが起きるからですね。





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 今回の事件では、中国の対応と欧米の対応の比較からなんかも学べることがたくさんあります。


■ 強権によって封鎖や制限を加えて、ガッチガチやぞ!なほうがうまくいくのか

■ 自由と平等を愛しながら、アンダーコントロールドにできるのか


という対比ですね。



 奇しくも、中国式「レインボーブリッジを封鎖せよ」作戦が功を奏して、イタリアやフランスなんかでも、「全員言うことを聞け!自由なんて奪ってやる!外に出るな!」作戦に切り替わりました。


 これで


 非常時とやらには、強権発動が効く


というエビデンスができてしまうわけですから、これから世界はそうなってゆくでしょうね。




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  さて、そもそも自然権が「国家等に介入されない、人類がおのずと持っている権利」であると考えられたのは


「神から与えられたものである」


という理由からでした。いわゆるキリスト教的な視点です。



 自然権は神のものなので、あの有名なことばが思い出されます。


「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい、トリック返しだ!」


(探偵が早すぎる、より)


 え?そっちじゃない?


 元ネタがいっしょなんだからいいじゃない。(元ネタ 聖書)




 しかし、よく考えてみると、今回の新型コロナウイルスは、神様がいるかどうかは別にして、いわゆる「自然・ネイチャー・宇宙の摂理」によって生じた事態なのですから、


「神(自然)によって生じた出来事」


であると言えます。ですから、神によって人類の生命に危機が及んでいるのだから、その場合は、神に自然権をお返しするのは、まあ、理屈としてはわからんでもない。



 まさに、今、人類は基本的人権とやらを「神のものは神に返す」という措置を(一時的)に行っているわけですね。


 これが「一時的」である、だから許されるという論拠は、この「カエサル理論」を使えば上手に説明できます。


 基本的人権を制限する、一時的に奪うことができるのは、人為的ではなく「神によって生じた出来事」つまり自然災害(病気も含む)に限る


という理論的な押さえがあれば、特に矛盾なく受け入れられるし、政府国家は破綻もしないですむでしょう。
 


 ただし、これは有神論における欧米社会的リベラルにおける定義づけですから、無神論者やほかの宗教・思想をもつものにはあてはまるかどうかわかりません。


 世界中の神学者や法学者の議論を待ちたいところです。


 


2020年3月5日木曜日

■法の原点は「殺したい!」と「除外したい!」である。



 新型コロナウイルスの猛威は、アジアだけでなく世界にも広がっているようで、イランでも


「マスクの転売屋は死刑」


という法律なのか、方針なのかが取り決められたそうである。



 このお話。とても興味深く、これを聞いた日本人の大半も、ある程度はその措置に納得してしまうという事態になっている。


 なぜなら日本国内でも、マスクが枯渇していて、かつ転売ヤーと呼ばれる人たちが暗躍しているために、必要な人にちっともマスクが行き渡らないからである。



 ちなみに、うちの奥さんなんかはついに、自分でマスクを縫いはじめた。



 







 この話が面白い(失礼!)のは、死刑という近現代の法制度において最もといってもよいくらいセンシティブな話題であっても、我々の通常の感覚として



「この大変な時に転売して儲けようとするヤツは死んでしまえ!」


という感覚がフツーに備わっている、という事実である。



 ましてや、イランといった遠く離れた国のことならなおさらで、この話を聞いて、



「いやいや、人権というものがあるだろう」

とか

「マスク転売の罪は、そもそも死に値するか」

とか、そういう気持ちはこれっぽっちも生まれてこないのが大半の人の感覚であって、



「イランかー。そんな遠い知らない国なら、死刑になってもそんなもんかもしれないわね」


としか感じないのが、人権国家日本人の本音なのだから、 これは実に興味深い。



 
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 このことをもっとわかりやすくまとめると、つまり人というのは、「殺人はいけない」「人を殺すのはよくないことだ」といちおうはオモテムキは思っているけれども、それと同時に



「悪いことをするヤツは死ねばいい。殺してしまえ」



とも思っていることがよくわかる、ということだ。



 むしろ



■ 人殺しは絶対的な悪だ


とは思っておらず



■ 悪を行う者は、殺したい


と思っているのである。



 ハムラビ法典という人類史においてもかなり初期の法制度においても、実は


「殺人がいけないことだ」


とは一切書いていない。


 一般的には「目には目を、歯には歯を」などで有名なこの法典だが、条文をちゃんと読んでゆくと、


https://web.archive.org/web/20190306220929/http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Himawari/5054/


■ 人に罪を負わせたものは殺す

■ 命に関わる偽証をした者は殺す

■ 盗んだやつは殺す

■ 横取りしたら殺す



などなど、ほとんどが「ぶっ殺す」しか書いていないのである。


 これはもう、「ハムラビちゃんは殺したい」なのではないか?と感じるほどである。



 つまり、結局のところ、人間と言うのは、自分たちの共同生活を脅かすルールなどを破ったものは、


「除外したい、ヘイトしたい、いやもう殺したい」


と考えているのであり、それが法の原点なのである。



 このことに目をつむってしまうので、「人殺しはいけない」なんてオモテムキの言説に迷ってしまうのだが、今回のコロナウイルス騒ぎでもよくわかるように、人は結局のところ


「仲間じゃないものは出て行け、やってくるな」


だし


「仲間に害を成すものは死んでしまえ」


としか考えていないのである。



 恐ろしいのは、こうした危機を感じる状況では、そうした「ヘイトと死刑」の感覚が、



当然であたりまえのもの



として、ウラから表に本当に飛び出てしまうことである。



 だから、イランで「転売屋は死刑」という話を聞いても、「そうだろうな」とか「日本もそうしたらいいのに」と


つい思ってしまったり、そのことに違和感を感じなくなってしまう


わけである。



 くわばらくわばら。