2017年2月16日木曜日

なぜ女性は守るべき存在であるのか。女心を検証する。



 最初に断っておきますが、ワタクシ解脱者武庫川散歩はフェミニストではありません。


 おまけに男女公平論者でもないので、「同権」ではあるものの、その質においては、かなりの差異があってしかるべきだと考えています。


 「じゃあ何か?おまえはおっさんの男尊女卑野郎なのか?」


と問われれば、明確にとお答えいたします。



「いいえ、一介の女たらしでございます」





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 女たらしとでも、スケこましとでも、何とでも呼んでいただいてかまいませんが、解脱者武庫川散歩は女性ファンにはたいへん優しく接しております。


 なぜか。



 それは、女性は守るべき存在である!



と心から考えているからなのです。



 それが、間違ってはいないことを示す、たいへん重要な考察が登場したので、今日はそのあたりから参りましょう。



 withnews 

恋愛マンガ「1万ページ」を統計分析 浮かび上がった「女心」とは?

 http://withnews.jp/article/f0170216000qq000000000000000W03j10101qq000014705A





 まずは、リンク先の記事をじっくりとお読みください。


 恋愛とは何か。

  女性とはどういう存在か。

    男性はどうあるべきか。


 そして、愛とは何かを古今東西の哲学者が考え抜いた結果にも勝るとも劣らない答えが、そこにあるのです。




 愛とは、恋とは、そして男と女とは!




 ・・・・それは!



「ハイスペックな男子が、ダメダメな女子を包み込むこと」



に他なりません。



 ええ、ええ。すべての女子はダメ人間であり、そこに現れるハイスペック男子がそんなダメ人間を理解し、愛してくれることこそ、



 真の愛である!



とすべての女子がそう思っているのですから、それに歯向かうことはできません(^^;;;



さて、よろしいでしょうか?


 恐ろしいことに、すべての女子は「自分はダメであり、劣っている」と考えています。


 なぜすべての女子と言い切れるかというと、記事にもあるようにBLに逃げ出す女性も、本質的には「自分がダメである」という原点はおなじで、そこから逃げ出そうとするからBLに走るわけです。


 ということは、全員が「自分はダメである」と思っていると想定して、ほぼほぼ間違いないと言えることになります。




 だったら守るしかなかろ?



 おらが女子の竜宮小僧になるしかなかろ?



 (このあたりは、↑大河ドラマ「おんな城主直虎」風に読んでね)




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 すべての女子が「守られたい」と望んでいるのですから、すべての男子は「守るべき」である、と考えるのは至極当然な結論です。


 つまり、女性を守ってこその男である、と。



 しかし、ここにひとつの条件がつくことにも、賢明なる紳士淑女の諸君は、すでに気付いていることでしょう。



「ハイスペック男子」ってどゆこと?!



 ええ、ええ。解脱者武庫川は、身長が低いです。おまけに小太りです。イケメンでもありません。


 これは果たしてハイスペックに相当するのでしょうか?



 小太りの中年のおっさんに包まれるとしたら、それはもう肉塊に包まれる以外にありません。



 それではすべての女子は納得しないでしょう!!!!


 そこでもう一度、男子諸君は記事の統計を読み直してください。




 男子たるものにとって、ハイスペックとは何か?!



 この定義を押さえれば、あなたのモテは花開くのです。



 <恋愛漫画における、男子のハイスペックとは>


 第一位 有能であること。 55ポイント

 第二位 名声があること。 24ポイント

 第三位 容姿端麗      22ポイント





 良いですか?目を見開いて読んでくださいよ!



 男子のハイスペックとは、まず何を差し置いても「有能さ」なのです。 イケメンであることをダブルスコアで突き放して、女子は「有能な男」を求めているのです。



 そして、イケメンであることに匹敵するのが「名声」(社会的地位・お金なども推定される)です。



 ということは、



能力の高い金持ちブサイクデブは、イケメン能無し男に完全に勝利する!!



ということではないですか!!!!!どっかーん!!!



 
 なので、全世界のキモいブサイクデブは、自分の内面を磨くに限るのです。


 そして、できれば富と名声を手に入れれば、完璧なハイスペックマンの出来上がりです。




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 というわけで、武庫川は


 男は包容力のある、器の大きな(能力の高い)飛べるブタになれ!


と考えています。



 そして、


 女の子は、そのままでOK!


です。


 か弱く、ダメ人間で、自分を卑下しながら生きていてよいのです。そうすれば王子さまが救ってくれるかもしれないし、能力の高いブタメンとめぐりあえることでしょう。



 た・だ・し。


 その時、超イケメンであるとか、若い男であるとか、高身長であるとか、そういうことを求めると破綻します。

 あくまでも、能力が高く名声のある”やや”イケメン。(狩野ぐらい)


 そこ重要。




※ 今日の内容はフィクションです。あくまでも漫画の中のお話ですから、実際の人物や団体や体系にはいっさい関わりがありません。あしからずご了承ください。









2017年2月13日月曜日

【勝手に人生相談シリーズ 18】 清水富美加さんの出家についてどう思いますか?



 今年は例年になく雪深く、北の国からの再放送を見ながら、テンションが下がっている武庫川散歩です。



 巨匠、倉本某さんには大変申し訳ないのだけれど、北海道に住んでいた武庫川としては、



 あのドラマの何がよいのかさっぱりわかりません



  田舎かぶれの離婚したおっさんのこども二人が、次々に異性をとっかえひっかえしては、孕ませたり殴られたりするドラマのどこが感動的なのか、いまいちピンとこないのです。


 田舎でグレたら、ああなるよ、という戒めなら意味があるのですが。




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 さて、その北海道時代から慣れ親しんできた武庫川のマイカーをいよいよ買い換えることになりました。

 雪の大地を走破してきた愛車で、もう20年近く乗っているので、これはもう潮時です。手放すことになったわけですが、


 愛欲と因縁渦巻く、通称「イタ車」


であります。


 この車のどこがイタいかというと、不肖なる武庫川がこれまでにお付き合いしてきた女子が、全員この車の助手席に乗ったことがあるという


 なにかしらの怨念のエキスが染み込んだ車


だったので、愛染明王もびっくり!という因縁あるマイカーだったわけです。



 結婚した前の嫁はん、不倫相手、元カノ、肉体関係はないけれど武庫川に関わった女子、新しい嫁はん、そしてわが娘!


 数え上げるのも恐ろしい女子たちの生霊が乗り移った牛車のようなものですから、盛大なる供養が必要かもしれません。



 さらば、わが愛欲の日々よ!!!

                                  (個人の感想です)



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 さて、そんな武庫川の助手席に座ったことがある、○み○ちゃんによく似た清水富美加さんが、どうも出家騒動を起こしているようで、タイムリーなんだか。


 ○み○ちゃんも、すでに私とは別れ、3回位結婚したり離婚したりを繰り返していますが、幸せですか?


 はじめてテレビで清水富美加さんを見たときに、嫁と二人で、「○み○ちゃんに似てるね」と盛り上がったら、にらまれて瞬時に盛り下がった記憶があります。



 ええ、清水さん、嫌いじゃないです。


 というわけで、毎度おなじみ「勝手に人生相談シリーズ」で取り上げることにしましょう。



Q「解脱者さんは、清水富美加さんをどう思いますか?」


A「元カノに似てるなあ、と思っていました」


Q「解脱者さんは、清水富美加さんの出家について、どう思いますか?」


A「家出なら、泊めてあげるのにと思います」



・・・。


・・・・。


・・・・・・。



はい。真面目にやります。



 解脱者武庫川は、幸福の科学の信者や関係者でもないし、ましては清水富美加さんの知り合いでも、元カレでもないので、今回の事態についてとやかく言う権利はないのですが、基本スタンスとしては



 「好きにしはったらええんとちゃいますか」


と思っています。



 大川隆法さんがどうとか、幸福の科学がどうとかは、諸行無常のワタクシからすればどうでもよいことであり、ましてや清水さんが自分の意思でその宗教へ入信し出家する、というのであれば誰にも止めることはできますまい。


 ああ、もしたった一人だけその権利を有する人物がいるとすれば、それは富美加の彼氏だけでありましょう!


「富美加!行かないでくれ!俺の元へとどまってくれ!」


言えるのは、かつ言っていいのは、どう考えても彼氏だけです。






 さて、世間では、女優という仕事をしていた彼女に対して、


「責任があるのにほったらかしにしていいのだろうか」

とか

「違約金はどうなるの」

とか

「事務所とのことは?」

 とか、いろんな疑問が渦巻いていますが、私から言わせてもらうならば、それらをすべて全否定しながら



「それでも私はすべてを捨てて出家します!」


というのがある意味宗教そのものの姿であるなあ、と思うのであります。



 文字通り、すべてをかなぐり捨てられる気概や気合というものは、原理主義的な宗教に身を置いたものでなくては理解できないかもしれません。



 私はエホバの証人時代も、原理主義者だったので、この傾向は肌でわかります。そもそも、すべてを捨てるところへ気持ちは行ってしまってるので、この世界に残してきた責任やらしがらみやらは、もはやどうでもよいのです。


 それが、原理主義的な宗教への依拠の恐ろしいところでもあります。



 ちなみに、清水さんの芸能事務所も、あの揉めに揉めている能年さんとおなじ事務所らしいので、そっちの事務所のほうが、真の



 出家メーカー



なのではないか?という説も(苦笑)



 宗教にハマる人の責任論で言えば、



 騙すヤツが悪いとか、騙されるヤツが悪いとか、ガチャガチャ言うな。本人の責任である!



と武庫川は喝破します。親が信者で、本人は2世だから責任は親にあるとか、真実を騙して入信させるほうが悪いとか、いろんな意見がありそうですが、武庫川からズバッと言わせてもらうならば、



 よしんばその宗教が本物であるというのであれば、本人が”神によって選ばれる”という最大限の幸福を受益し、それは「他者には分けてやらんもんね」という種類の独占性を帯びているのであるから、もし騙されているとしてもそれを見抜かなかった本人の責任である!



と断言できる類のものでありましょう。



 もっと簡単に言えば、宗教を「自分だけが信じる」ということは、自分だけが助かろうという意識が根底にあるのだから、その結果騙されたとしても自業自得であるということなのです。




 その意味では、宗教とは



「自分は救われるのか、救われないのか」



を賭けた一世一代の大博打以外の何ものでもありません。



 武庫川はそのバクチを打ったのです。その昔、確かに。そして、賭けに負けたのではなく、


「こいつはトバクだな。じゃあ、俺は降りるわ」


と勝手に黙って賭場を去ったのです。



 幸いなことに、宗教には「降りる」というチャンスもあります。清水さんにだって、まだまだ色々なチャンスが残っています。それを伝達するのは、周囲に出来る限られた手助けなのかもしれません。





















 

2017年2月3日金曜日

「黒くて太くて大きなブツを黙って口で咥える」節分と、神の救いへようこそ。〜「サイレンス(沈黙)」を考える。



 どうもみなさんこんにちは。本日は節分ということで、日本中の健全なる男子女子たちが、


 黒くて太くて大きな一物をほおばる



という卑猥な行事を行っている最中だと思いますが、いははおふほひれふか?


 恵方巻だかなんだか知りませんが、「その年の吉方を向いて、黙って太巻きを食べれば幸せになる」だのなんだの迷信のようなことを信じている人がどれくらいいるのでしょう。



 どうも、近年、この話の元ネタが明らかになってきて、大阪の花柳界、ようは芸者あそびの一環の中で、



 芸者のおにゃのこに、太くて固くて大きなものを咥えてもらうのをおっさん連中が
、ぐへへとよだれを垂らしながら喜んで見る



というのがルーツなのではないかという見解が、真実らしいのであります。



 ようはAVかなんかで、道行く女性にバナナを食べてもらう、的なノリですね。




 なので、いわゆる伝統とか、風習とか、あるいは宗教とかそういうものには、



惑わされずにきちんと向き合うべし



と考えるのが真の解脱者武庫川散歩なのであります。



 というわけで、淑女のみなさんには、そんな悪習が広まっているのを断ちきるためにも、世のエロオヤジたちを見返すべく



ぜひ、本日の恵方巻は、ガチッと噛みちぎったれ!!!!!



と思うのですが、いかがでしょうか、・・・いっ、たたたたたっ!!




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 はいっ!そんなつかみから始まった今日のお話ですが、チンを黙って頬張るということからの連想ではありませんが、昨今絶大な評価を得ているらしい、



映画「サイレンス」(沈黙)



について解脱者の視点から語ってみたいと思います。え?チンもぐ、じゃないよ。ちんもく。




 どうも私には、タイムマシーン3号のように、「すべてをエロくする術」が備わっているようで、たまに脱線しますが、お許しください m(_ _)m



 さて、マーティン・スコセッシ監督の「サイレンス」。これまた物議を醸しまくった不朽の名作、遠藤周作の「沈黙」の映画版です。


 時代は、戦国時代が終わり、天下統一がなされた頃のこと、ポルトガルから日本へやってきた宣教師たちが、弾圧を受け踏み絵などで


「転ぶ」(棄教する)


お話です。


 さて、「沈黙」とは何か、これは簡単にいえば、「どんなに厳しい拷問にあっても、どんなに非道な目にあっても、あるいはキリシタンの農民たちが、どんな責め苦にあっていても、神は沈黙して何も語ってくれないし、奇跡を起こして救ってもくれない」ということです。



 詳しいことは、遠藤周作の「沈黙」を読んでもよいし、映画を見てもよいし(ワシもまだ見てない)、あるいは



 徹底考察「サイレンスが問うそれぞれの信仰の形 カトリック教徒の立場から」
https://oriver.style/cinema/silence-review-2/



がとてもよい文章なので、ご一読をお勧めします。



 上の記事が、いいところついているなあ、と思うのは、


「救われる」とは何か、を明確に論じている


点だと思いますね。これって、大半の素人さんは勘違いをするところなので、この記事主さんはズバリと良いポイントをお教えくださっています。



 このブログを読んでいる読者の中には、元エホバの証人の方もおられるわけですが、


「ハルマゲドンが来て、最後の審判の後には、信者だけが天の国へ行けるんだわーいわーい」


というのが、JW信仰の核なので、それはなんと、



「江戸時代の日本民キリシタンと同じで、さらに言えば浄土真宗的」



な救いだと喝破しておられるところがグッジョブ!!



 ようするにこういうことです。浄土真宗は、「どんな人でも救われるよ」ということを説いたから「悪人正機説」なんて言われるわけですね。

 絶対的な阿弥陀の力が万人もを救う、だから「自力で修行に頑張る」のではなく「他力本願」=神がまるっと救ってくれること、になるのです。


 戦国時代から宣教師が説いたキリシタンの教えは、カトリックですから、本来は違います。カトリック的には、修行したものだけが神に選ばれるので、衆生は救いの対象ではない。けれども、日本人のキリシタン民は、


「弾圧を受けても信仰を守るか弱き民は、拷問で死んでもその信仰によって天国(ぱらいそ)へ行ける」


と受け止めるわけです。これはまさしくエホバの証人の思想でもあり、浄土真宗的思想でもあるわけです。



 このことをカトリックの信者である記事主さんは、ちゃんと捉えていて、だから宣教師たちと日本のキリシタン民の間には



「誤解」


のような見解の相違があるんだけれど、じゃあ「信仰」ってなんなのさ、という部分を、再認識させられるのが、この映画だよね、ということなのです。



 さて、カトリック教徒さん的には、救いとは何か。そこには、いわゆるエホバの証人のような聖書原理主義者との違いも見え隠れするのだけれど、



 神=イエス=は愛そのものなので、いかなる時にも、愛によって許される



というイメージがそこには厳然としてあるわけです。来世とか、天国が存在するとかではなく、たった今がまさに神とともにある、というわけ。




 だとすれば、究極的には、ネタバレになるけれども、



「転んでもいい」


「踏み絵を譜んでもいい」


「棄教してもいい」


のですよ、真の信仰というやつは。





 神を裏切ったその瞬間にも、そんなことも超越して許され、愛されるというのが、カトリックの神の懐の深さだぜ


ということなんです。つまり。これはある意味すげえことを言っている。



 浄土真宗の開祖、親鸞もたぶんそれを言っていると思われます。阿弥陀の本願は、他力であり、絶対的な阿弥陀の力が「救い」を与えるとされています。


 ただ、親鸞のイメージが、


「救いの時期は来世ですよ」なのか

「救いの時期は、まさに今この瞬間ですよ」なのか


がちょっとわかりにくいのですが(往生がポイントなので、来世寄りかな)、ぶっちゃけ阿弥陀にとっては今も来世も「同じ」という超越性があるとすれば、それは小さな差異かもしれません。


要するに、浄土真宗の神=阿弥陀も、絶対的に救うぜ!ということを主張するのです。これまた懐が深い!




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 ちなみに、私の悟りは「救う主体としての神」をあまり規定しておらず、神は我々に関知しないと思っているので、



「他力本願とか愛とか」



による他者からの救いは、そもそも想定していないのですが、



悟りを開いた瞬間に、自分自身が救われる感覚



というのはよくわかるし、そういう意味では、「神はいつでも我とともにある」感覚に近く、さらには


「棄教しても救われる」

「悪であっても救われる」


というニュアンスはビビビと理解できるわけです。それは、完全に来世じゃなくて現世!!!



現現現世!!!!



と声を大にして言いますよ。



 ましてや、解脱者が仏性を帯びるというのも、体感的に理解できます。今度は、私がキリスト教の神やイエスの立場で言うならば、



「対象が、どのような悪の状態や裏切りの状態であっても、愛によって包む」



という意味において、それは実践できます。




 それは例えば、私の弟子となった数々の女子が、男をとっかえひっかえ何度でも失敗を繰り返し、悪行を重ねたり教えに背いたりしても、



「ワシの愛のもとに、許す!それでもキミを包み込む」



ということができる器のでかさに直結するのであったりします(笑)



 というわけで、何度でも許してもらえることに甘えないで、



 悔い改めなさい!!!!