2017年12月24日日曜日

童貞処女無職病人ニートは、なぜこの社会で生きづらいのか。



 某所、某ブログの記事なんかを読んでいて、


 ■ 童貞、心の病で誰かと付き合ったこともなく、おまけに無職で生きづらい



というお悩みについての話を読みました。


 あるいは、また別の某所で、


 ■ 彼氏なし、ブラック企業勤務で、上司のパワハラセクハラで生きづらい



という女子がいたりもします。


 あるいは、またまた、


 ■ 結婚できないアラフォーニートで、メンヘラなので生きづらい


という女性の話を知ったりもしました。



 あるいはまたまたまた、

 ■ よい大学は出たけれど就職で失敗して生きづらい とか

 ■ 旦那はいるけれど不妊で生きづらい とか

 ■ 親に資産はあるが、自分には職がなく生きづらい とか


 俗世は「生きづらい祭り!」のオンパレードであることに気付かされます。



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 夏目漱石も言っている通り、この世はとかく生きづらいわけですが、そうなってしまったのには、実はみなさんが気付いていない大きな理由があります。


 このことをきちんと理解すると、生きづらさなんてのは「すっきりさっぱりしっとり」なくなって、万人が生きやすくなるわけですが、残念ながら大半の人はその理屈をわからないまま、日々悶々としているわけです。


 というわけで、希代の解脱者にして哲学者の武庫川散歩さんが、今日は生きづらさの解消に向けてお話をしようと思います。



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 まず、各要素を拾い上げてみましょう。


「童貞や処女は生きづらい」「無職は生きづらい」「社畜は生きづらい」「不妊は生きづらい」などなど、生きづらさを生む「要素、要因」はいくらでも列挙することができるでしょう。


 ところが、こうした様々な要因があったとして、それが生きづらさを生じさせることはあったとしても、少なくとも昔の人は現代人ほど「生きづらさ」を感じることはありませんでした。


 これは、現代人には理解しがたい感覚かもしれませんが、そうしたマイナスの要素があっても少なくとも江戸時代までの人は


「生きづらいが、しかたがない」


と割り切ってその状況の内側で生きていたと言えます。


 その理由は簡単で、封建社会、身分社会だったので、

「扶持米取りが、石持武士の言うことを聞かねばならないのは仕方がない(生きづらいけど)」

「次男や三男が、資産を継げず結婚できない(嫁を迎えられない)のは仕方がない(なので遊女を抱こう)」

「無宿人が、まともな仕事や住処を見つけることは難しいけど、致し方ない(貧しいことは貧しいが)」

「子ができないからと三行半を突きつけられたけど、仕方がない(男尊女卑だから)」

ということになり、生きづらいことは生きづらいけれど、「生きづらい生きづらい」といくら言っても、どうしようもないし、それはそれとして生きざるを得ない状況が万人に設定されていたからです。



 これは、たとえば殿様でもおんなじで、


「子ができなかったので、領地取り上げ取り潰しになったのは仕方がない」


のです。忠臣蔵ではないですが、


「上司に逆ギレしたので、藩がつぶれても仕方がない」


時代だったと言うことですね。




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”仕方がない”


という社会は、意外と生きづらいと感じる感覚が少なくなります。というのも、それに対して誰も文句を言わないし、そのことでマイナスが生じていることに、日本じゅうの誰もが同じコンセンサスを持っているからです。


 なので、 これまた忠臣蔵ではないですが、


「まあいろいろ意見があるけれど、仇討ちした連中は切腹でもしゃーないわな」


と最終的には落としどころが見つかるし、仇討ちした当人も、


「まあ、こうなってもしゃーないわな」


と思えます。そしておもしろいことに、 赤穂浪士四十七士は、おそらくその大半が



「ああ、俺たち生きづらかったなあ!」とは思っていない


ことが、今回の重要ポイントだったりするのです。そう!おそらく四十七人の全員が、


「俺たち、やってやったぜ!」


ぐらいは思っているわけで、精一杯生きた感で満たされているわけですね。ここホントにポイントです。




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 ここで、頭のよい方なら、生きづらさの正体の一部が既に見えてくることと思います。その一つ目は、


「マイナスの出来事や要素は、実は生きづらさを形作っている直接的な原因ではない」


ということです。


 赤穂浪士の場合は、職を失い、おまけに国家に反逆までして死刑になったわけですが、それら3つくらいのマイナスな出来事は生きづらさを生んではいません。むしろ、そうしたマイナスの要素や出来事が、彼らの


「生きる目標=仇討ち」


を盛り上げていったわけですから、彼らは生きてやり遂げる気まんまんだったというわけです。



 これは、現代における原理主義テロも似たようなところがあって、それは、


「自分たちの信じる義に向かって(それが俗世的にはマイナスでも)実行する」


ということが、「生きる意味」を生むのです。自爆テロなんかは、犯罪でもあり、他人を傷つけ国家への反逆なのですが、


「自分は神に対する義を果たすので、それによって死ぬところまで行っても、全然満たされるぜ」


ということが起きてしまうわけですね。



 これは大事な視点です。人は「義なる生き方」であれば、そこにマイナスの要素があっても全然大丈夫だということです。



 たとえば、戦後の闇市の食料を買わずに餓死した裁判官がいましたが、


「渇しても盗泉の水はのまねえ!」


という生き方であれば、極貧や無職や、童貞でもぜんぜん生きていけるのです。


 あるいは、固く操を誓った愛する人がいたりして、その人が早くして亡くなったために、女性がひとり残されたりした場合は、


「あの人のために、彼氏なしでも処女でも子なしでもいいのよ」


という生き方であれば、ぜんぜん大丈夫で生きていけます。



 こうしたことから、ひとつめの教訓を得ることができます。


 大切なのは、マイナスの要素があることではなく、「自分が生きる上での”義”があるか、ないのか」なのだということです。


「生きる”義”があれば、ぜんぜん何も持たない生き方でも、生きづらくない」


というのが、ひとつめの教訓です。





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 では二つ目の教訓は、どんな話が隠されているというのでしょうか。


 さきほど、江戸時代は身分制度だった話をしましたが、身分によって「与えられるべき”プラスの要素”」が限られていることが実は重要でした。なので、身分がズレていると、プラスの要素を貰うことができなくても、そもそも対象外なのですから我慢できたわけです。もともとその資格がないということは、羨ましく思う必要がないからです。


 結論から言えば、結果的に何かを手に入れられない人は、「そもそもではないかもしれないけれど、結果的に対象外」なのですから、話のオチは同じですよね?でも、現代人は、


「そもそも対象外なのと、結果的に対象外なことの違いに苛まされる」


のです。


 Aさんという女性がいて、そもそも肉体的に不妊だったとします。これはそもそも対象外です。でも、現代人は、「若ければ、あるいは病気を治癒すれば、あるいは旦那が絶倫だったら妊娠できたのではないか」と悶々とします。


でも、神様の目線で見ればそもそも不妊なのですから「仕方がない」意外の言葉はありません。むしろ、早々に「あなたは子供ができない体なのです」と言われたほうが、はるかに心が軽くなるのです。


 逆にBさんは、「本当は子宝に恵まれたはずなのに、そのチャンスを自分のミスで失ってしまったのかもしれない」と悶々とするかもしれません。たしかにその通りですが、結果論で言えば、大海原で真鯛が釣れたかもしれないけど釣れなかった釣り人と同じです。そんな人にかける言葉は


「まあ、仕方ないやん」


意外にありません。ほんとに仕方がないのですから。でも、現代人は、Bさんはこの言葉に傷つき、怒るのです。真鯛が釣れたかもしれないので。



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 身分制度がなくなったということは、「すべての人に、すべてのラッキーアイテムが平等に降り注ぐはずだ」という誤解を生みました。


「すべての人にすべてのラッキーが与えられるべきだ」


と言えば、たいていの人は、「そんなことはさすがにないだろう」と口では言うし、頭でも思うのですが、自分の身に置き換えてみると、


「安定した給与と、自分が働きやすい環境と、社会に出るのに必要な教養が万人にあたえられるべきで、愛する妻や夫、そして子供と出会えるべきで、安らかな老後が待っているべきだ」


と考え始めます。 しかし、そうしたプラスの要素やラッキーは、「いくつかは入手でき、いくつかは入手できない」ものです。それは、身分制度があった江戸時代でも、上位の人の全てが手に入れられたわけではありません。

 武士であっても、金持ちの藩に属することができたとは限りません。それは父親がどこに属していたかで自動的に決まります。

 将軍であっても、子種が必ず与えられたわけではないのです。命を狙われることだってあったでしょう。


  そうです。いつの時代でも、プラスの要素はいくつかしかゲットできなかったし、マイナスの要素も結果的にいくつも降りかかることがあったのです。



 そうすると、現代人は



「まあ、そんなもんだ仕方がない」



と思えないだけ、悩み深いと言えるでしょう。



「ラッキーアイテムを次々入手できるのは幸福の一部だが、コンプリートできる人は、そもそも少ない(あるいはいない)」


というのが二つ目の教訓です。




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 さて、最後に3つめの教訓をお話して、今日の講義をおしまいにしましょう。


「人は、幸せになれるはずであり、望ましい環境や結果を与えられるべきだ」


という考え方は、日本のものではありません。日本型の思想は、いわゆるプラスの要素やラッキーは、自然神の気まぐれによって与えられたり、あるいはマイナスの出来事が起きて奪われたりするので、「祈りをささげよう」というものです。

 怨霊を静めようとしたり、豊穣を祈ったりするのは、そうしたことの現れです。


 それに対して、「恋愛をして、結婚をして、適切な職業を得て、金銭を得て、幸せな生活をするべきだ」というのは戦後になって定着した欧米的


「一神教のギフト(天の神から与えられたもの)」


という思想に由来します。あるいは、ギリシア哲学の「イデア」でもいいです。いずれにしても欧米由来です。


(なぜなら戦前まで恋愛結婚もありえなかったし、職業は親が決めたし、金銭よりも米の収穫が優先された社会で日本人は生きていたからです)



「愛する男女が出会い、結婚して家族と子供を作り、その人にぴったりあった職を得て、金銭的にも満たされる。充分な食事があり、健康で、長生きをする」


という理想は、幸せだとされる生き様のイデアであり、原型であり、模範であり、型枠です。


 実際には、それぞれの生き様は、この原型とぴったり合うほうがおかしく波乱万丈なのに、多くの現代人はこのイデアに囚われ、これが天から自動的に降ってくるのではないか、と考えるのです。

(実は、ものすごく苦悩し、苦労してやっと入手できるものかもしれないのに)



 ところが、日本人の問題点は、イデア論も一神教の思想も充分に理解していないのに、この理想的人生型枠だけを見てしまっているところにあります。


 私は、このブログで何度も述べている通り、キリスト教原理主義者でしたから、ギリシア的あるいは欧米的理想型枠の本当の意味づけを理解しているのですが、それは簡単に言えば


「どんな艱難辛苦であっても、それも含めて神から与えられたものだと信じ、それを乗り越えていってこそ、最終的なイデア世界は入手できる」


という考え方が本意ですから、それを深く理解している人は、たとえ現時点でプラスの要素がなかったり、マイナスに襲われたりしていても、


「それも含めて、神のおぼしめしである」


と受け入れて、たゆまぬ努力をするわけです。


 そのプロセスは、苦しい時つらい時もあるわけですが、「でもそんなつらい自分にも神様はかならず救いをくださる」と思っているから、結果的に誤解であっても乗り越えるし、乗り越えられるわけですね。


 ここまでセットになってはじめて、現代人は欧米的な幸福を手に入れられるというのが、本当の答えだったりするのです。



 ところが、日本人は戦後の高度成長で「欧米的幸福型枠」だけを見てしまい、その精神はまったく理解していないので、残念ながら


「型枠どおりにいかないのはなぜだ!」


と苦悩しているのですね。そりゃいくわけないやん。型枠には本来、試練が組み込まれているのだから(苦笑)


 聖書のモーセがエジプトから逃げるところとか、ノアの箱舟とか、結局はそういうことなのです。神は試練を与えるが、希望も与え、結果的に幸せになるというプロセスは、一連の流れであって


「楽園が最初から最後までそこにあり、人は自動的にそこへ行ける」


ということはないのです。これが最後の教訓ですね。



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 ちなみに、夏目漱石がこの世を生きづらいと言ったのは、さすが漱石先生で、


「文明開化後の、欧米化近代化された日本人の生き方の苦悩」


をひとあし先に見抜いた、ということでもあります。文明開化したからこそ、日本人は生きづらくなったのですね。


 じゃあ、文明開化以前は、苦悩しなかったのか?と問われれば、そうです!意外に苦悩しなかったみたいなのです。



 比較対象のために、江戸末期の大ベストセラーである「東海道中膝栗毛」(弥次さん喜多さん)の設定を見てみましょう。



 弥次さんと喜多さんは、そもそもゲイバー(陰間茶屋)のなじみの客とボーイです。(もう、この時点で普通の幸せが存在しない)

 で、それぞれ昔はやりまくっていたのですが、普通に奥さんをもらって結婚したり、普通の会社員として再就職したりするのですが、奥さんは死ぬわ、会社はクビになるわで、良い事なんてひとつもないわ!となるわけです。(嫁さんが死ぬ理由も実はむちゃくちゃなので、気になる人はググってね)


 でも、二人は鬱になったり、ブログに愚痴ったり、自殺未遂をするのではなく、「伊勢参りでもいくか!」とバックパッカーになるんですね。(明るい)


 これが、前半で説明した「まあ、仕方ないわ」なんですね。トラブルやマイナスの要素は降りかかってくるし、プラスばかりが続くわけではない、それは「仕方がない」のです。


「伊勢にでも行ってやり直すか!」


で済むことなんですね。一昔前で言えば、「インド行ってくるわ」です。


 まあ、そこからの道中はギャグのオンパレードなんですが、これが文化文政時代にウケたということは、


「会社がめんどくさけりゃ、金でも使い込んで逃げたればいいんじゃ!」

 (↑喜多八の行動)


「新しい妻がくるから、離婚したったらええんじゃ!」

(↑弥次郎兵衛の行動)


とみんな思ってた、ということです。こりゃ鬱になったりはしないわな。


 今だったら、こんなブログ書いたら、どんだけ炎上することか!


少なくとも、


「とかくこの世は生きづらい」


なんて嘯かないだけマシなんです。ということは、江戸時代の人は、マイナスの出来事は山ほどあったけど、そんなことではヘコたれないというか、


「しったことか!」


だったということですね。「仕方ないよね」よりは、さらに強い姿勢だったのかもしれません。私たちも、少しくらいは学べるところがありそうです。




 











 





2017年12月19日火曜日

正義のゆくえと告発のゆくえ ~正義に力はない、ってほんと?~



 とある女性のセクシャルハラスメントの告発と、その周囲の反応が過熱しておりますが。


 ふだん、不特定多数へ向けて、セクハラまがいの発言をブログ内で繰り返しているワタクシとしては、深く深く感じ入るところです。



 と、まあこれ以上、セクシャルな件について語ってしまうと、いろいろと墓穴を掘ってしまいそうなので、墓穴に入らずんば居士を得ず、ということで居士たるものあえて墓穴に入らないように念入りに注意をしておきましょう。


 え?虎穴?おケツ?


・・・・・・↑こんな感じでごめんなさい。






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 動揺隠せず切れ味の悪いボケからスタートしましたが、はあちゅうさんがどういう方か知らないので語る言葉を持ち合わせておりませんが、セクハラとそれに対する女子の思いというのは、すでに名作


「告発の行方」



にて、1980年代に既に議論が提示されていますので、まずはこの映画のDVDでも見てください。


 ジョディ・フォスターが、名優ジョディ・フォスター」になった映画、とも言えますし、「なれた映画」とも言えます。「なってしまった映画」かもしれません。


 個人的には、まだうら若いフォスターちゃんがこの映画に出なかったとしたら、その後の人生の過ごし方そのものも、違っていたかもしれないと思えるほど、



「ジョディ・フォスターたる存在を形成させた映画」



であったかもしれません。知らんけど。



 映画を見ていない人には全然わからない発言だと思いますが、はあちゅうさんがらみのセクハラ問題をうんぬんする前に、1989年公開ですから、今から約30年前にどんな問題提起があったかぐらいは知っておいてよいかと思います。





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  さて、今日は、この話題からすこーしだけ逸れて、


「何がしかの問題を告発した人が、よく不利益をこうむることが起きるけれど、それがなぜか」


ということについて話をしておこうと思います。これは解脱者ならではのすばらしい視点でものを言いますので、セクハラうんぬんは別にしてお考えくださいね。



 さて、この20年ぐらいの間に、大きな内部告発事件がいくつかあって、その告発をした人や、された会社などがどうなったかは、すでに結果が出ています。



 具体的な事例については↓をご参考に。



 内部告発者の誇りと悔い ~事件後の日々を追って~
 https://news.yahoo.co.jp/feature/629






 結論からズバッと言えば、


「告発した人は一瞬ヒーローのような扱いを受けるが、そののちどん底の責め苦に遭わされる」


というのが、告発の行方の答えです。これは善悪関係ないところでの事実です。




 2017年の日本では、正義に基づいて告発した当人が、まさかの逆風に合うことや、逆に酷い目に合うことは、可能性が高いどころではなく、「そうなるのが必然」とでも言えるくらいの事実なのです。





 なので、セクハラ問題で言えば、伊藤詩織さんについても、はあちゅうさんについても、その告発内容が「正義に基づくもの」であったとしても、彼女たちにもかなりの逆風がブーメランとして帰ってくるでしょうし、すでに来ていると言えるでしょう。




 そのため、結果的には、どのような告発であっても、現在のところ告発者は「討ち死に」を覚悟させられます。加害を加えたり、非道を行っている相手も倒せるかもしれないが、自分も社会的に死ぬんだ、くらいの気概を求められる事態が起きているのが、事実だというわけです。




 なぜこうした事態が起きるのか。解脱者には明快にその理論がわかります。 今日は、それこそ何が正しい、何が間違っているという善悪の議論を抜きにして、なぜこんな不可思議なことが起きるのかをご説明しましょう。





1) まず、すべての人は「力(フォース)」を持っていて、それを自分のために行使しようとします。このフォースには、善悪はありません。よいことにも使えますが、悪いことにも使えます。実力や能力や権力といったものは「フォース」という概念で把握したり、考えたりできるのです。



2) たくさんの権力を持つ人は、フォースをたくさん有しています。会社の上司や経営者は、一般の社員よりもたくさんの実力や権力を持っていますから、100倍や1000倍くらいのフォースを持っていると思ってかまいません。なお、ここには人格のあるなしも無関係です。人格者がフォースをたくさんもっていて、悪人はフォースが少ないとかも関係なく、すべての人が「フォースをたくさんもっているか、あまり持っていないか」に分けられます。




3) フォースそのものには色がついておらず、善でも悪でもありません。ですが、良いことにも使えるし、悪いことにも使えます。

 たとえば、部下のおねえちゃんのおっぱいを触るためにフォースを発動させることもできるし(←悪いこと)、部下のおねえちゃんの処遇や立場を引き上げるためにも使えます(←よいこと)




4)企業経営や運営、会社員としての仕事、あるいはライバル会社との競争など、社会における大半の活動にはフォースが使われます。専業主婦同士のマウントにも使われるし、ツイッターの影響力にもフォースが関係してきます。

 たとえばフォロワーが多ければ、それは案外単純に「たくさんのフォースを持っている」と捉えることもできるでしょう。

  そして、ほとんどすべての社会活動は、「フォースを集め、フォースを使い、フォースで相手のフォースを凌駕する」ということで成り立っています。

 たとえば、A社の持つフォースが大きければ、B社より仕入れ値段を下げさせることが出来て、安くモノを売ったり、シェアを広げたりできます。





5)告発をするということは、このフォースについて「ある人物や企業が、フォースを悪いことに使っています」とバラすことです。ただ、これは、小学生のAさんがBさんに対して「いっけないんだ~、いけないんだ~、先生に言うてやろ~」というレベルとはわけが違います。

 小学生のAさんとBさんが持っているフォースは、単位で言えば10くらいで、どちらもおなじ10とか11とかのフォースですから、AさんがBさんを告発しても、フォース対フォースの戦いは、ほぼ互角です。

 ところが、企業や上司は、あなたよりも1000倍とか10000倍のフォースを持っていますから、その大きさのフォースを悪事に使われると、こっちはたった1000分の1のフォースしか持っていないので、太刀打ちできません。





6)大きいフォースを持っている相手というのは、そのフォースをもちろん良いことにも使えるので、悪事をした自分をかばうために、周囲に言うことを聞かせるためにも使えます。

 これは悪事を隠すためなので、一見すると悪いことですが、第三者から見ると、自分の条件をよくしてくれることなので「良いこと」として捉えられます。具体例を挙げるならば、”告発者を排除する代わりに、あなたの処遇を上げてやろう”と言われれば、第三者から見ると、自分にとっては「良いこと」に見えますよね。





7)ということはつまり、告発者と被告発者は、正義の大小で戦うのではなく「フォースの大小」で戦うことになるわけです。

 すると当然、告発者のほうが、たいていは「フォースの所有量がそもそも少ない」ので、負けてしまうことになります。




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 これが、基本的な告発の構造で、「告発のゆくえ」は、「フォースの大小で決まる」と言ってよいでしょう。


 我々は、不義を見つけると


「正義は我にあり!」


とつい思ってしまいます。もちろん、それでも全然いいのですが、


「フォースは我のほうがあり!」


でなければ、返り討ちにあうわけです。



 では、どうすれば告発を成功させられるのでしょうか。それは、”自分のフォースを増やすこと”に他なりません。

 今回の出来事で言えば


#metoo


のハッシュタグの物量と、話題に同調してくれる人数の多さがフォースとなるわけです。




 はあちゅうさんの場合は、多数の「正義への同調」というフォースを集めることに成功しました。しかし、自分を攻撃する「逆のフォース」もたくさん生まれてしまい、それに返り討ちを食らっている最中でもあります。




 セクハラはいいのか悪いのか、という正義の大小ではなく、「フォースを集められたほうが勝つ」「逆フォースに耐えられたら勝てる」という事態に陥っているのが、現状ですね。





 正義そのものには、実は力はありません。




 正義が集めてくる「フォース」に力があるので、まるでドラゴンボールのように


「オラにみんなの元気を分けてくれ!」


とパワーが集ってきた時にこそ力を発揮する、というわけです。


 めっちゃ正義、バリバリ正義、誰がどういおうと正義、があったとしても、そこにぽつんと横たわっているだけでは、正義は発動しないのはそのためです。




 正義を発動させ、執行するにはまずフォースをたくさん集めたほうがいい。




 そんなことを教えてくれるのが「踊る大走査線」でした。



 室井さんはなぜ偉くならなくてはいけないのか。



 室井さんの生き様こそが、



正義の執行よりも先に「フォースの収集」こそが大事だ



ということを教えてくれるのですね。








 

2017年12月16日土曜日

【勝手に人生相談シリーズ 21】 病んだ貧乏人が一発逆転する!ことについてアドバイスはありますか?



 このブログの人気コーナー「勝手に人生相談」というのは、誰にも何にも頼まれていないのに、勝手に人生相談に乗る、という傍若無人ぶりがウケて、一部には大変人気があるとかないとか。



 さて、そこで、私が心から敬愛してやまないニャートさんが、いろいろ苦しんでおられるっぽいので、ここは勝手にその悩みにお答えしてしまおうと思う。




いわゆる”FF外から失礼します”というヤツだが、わたくし武庫川はツイッターでニャートさんをフォローしているので、厳密に言えば”FF外”ではない。



 もう、なのでだからズバッと、”失礼ながら勝手に書きます”と宣言せざるを得ないのだが、 お許しいただきたい。






<元ネタ> 病んだ貧乏人が一発逆転するには時の運に乗るしかない だから私は
http://nyaaat.hatenablog.com/entry/change






 まるでおせっかいにもほどがあるので、読者の方においては、あるいはご本人においては、スルーしていただいて全然かまわない。


 これは、あくまで勝手に武庫川が考えていることだからである。





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さて、「心の病になった人などが、拠り所となるような、あるいは生活支援ができるような居場所は作れないものか」という一番のテーマについては、 ずーっと私も考えていて、それは言うなれば現代の出家寺のようなものだなあ、と毎回思いながら、それを実現するための具体的方策について考えてはいる。



 たとえば、この記事



 人生をリセットする方法
https://satori-awake.blogspot.jp/2017/12/blog-post_4.html


 この記事の中にも、「病んだ若者が一時的にいられるような若者ホーム」の案が登場するのだが、マネタイズの問題も当然出てくるし、それより何より



 それって監獄(みたい)じゃね?!



という結論が出たあたりで、「ほんまにそれでいいのかな」と思うようになった。



 ニャートさんの言うとおり、施設として成立させようと思えばお金がかかる。仏陀のように、寄付で賄うという手もあるが、あるいは、入所者の資産を食い潰すこともできるが、それより何より、



 そこが刑務所っぽい(二回目)



というあたりが、「なんか違う」感をかもし出すのである。




 まあ、もちろんニャートさんが求めているのは施設とは限らず、たとえばメディアであったりするのだが、それにしても


 困っている人たちの手助けをするにはお金が必要で、そのためには稼がなくちゃならないのだ!


というのであれば、 ぶっちゃけ、



 普段の仕事でバリバリ頑張って、この資本主義に取り付かれた亡者のように24時間働けますかして金を稼いで、それを全額寄付



したほうが、いいってことになるわけである。そういえば、ビルゲイツもそんな財団作ってたっけ?


 まあ、たいていのアメリカのお金持ちが、自分の資産を寄付して恵まれない人のために使うことが多いのは、そういう思考発想なのであろう。キリスト教文化だしね。



 すると、である。



 ニャートさんにとって本当に必要なのは「一発逆転」なのであろうか。というそもそもの疑問が頭をもたげてくる。




 当然、生活にはいろんなことがあって、辛いことも多いと推測するが、何より「健康と安定を取り戻す」ことのほうが、結果的に近道だったりするのではないか、とかそんなことも当然可能性の一つとしては検討材料に上げてしまうのである。




 これは、武庫川個人の体験を追憶して話すのだが、武庫川が人生ボロボロで、仕事もいろんな事情で変わり、年収もすごく低いことになっていた時期があるのだが、その頃の武庫川も当然、


一発逆転を目指して賞金稼ぎとして生きていこうとした


ことがあった。(もしかしたら、このブログではその話を書いてないかもしれない)



 しかし、結論としては、まるでピケティ先生の「21世紀の資本」の真逆みたいだが、



 賞金稼ぎで儲かる総金額 < 通常の仕事で貰える総給与

   r リターン       <  g  ギャランティ


 であったのである。



 これは、とろサーモンの法則と呼んでもいい。


 とろサーモンが、漫才レースで賞金1000万円をもらったとする。結成から14年かかって1000万円の賞金をもらっても二人で分けたら500万円である。


 年収200万の派遣社員が14年かかってもらえる金額は、2800万円である。


 年収300万円の平社員でも、14年で4200万円にもなる。


 こりゃ、ふつうに働く、働けることのすごさよ!と言わざるを得ない。


 
 ちなみに、ピケティ先生の公式は↓である。


  g(グロース) 所得の伸び率 < r(リターン) 資産運用の利益率



 もし、ピケティ先生の公式が正しいなら、ニャートさんの今後の給与の伸び率よりも、仮想通貨の価値上昇率のほうが高いということを歴史が証明していることになる。


 しかし、一方でこれは「率」に注目しているからそうなるのであって、「総額」であればどうであろう。



 ニャートさんは、現在派遣社員で、それも働く日数を抑えているとのことなのだが、入ってくる総収入で言えば、



 仮想通貨の伸び率が毎月何倍あれば、月に20万とか30万とか安定した総額が入ってくるのか


ということを逆計算したらいいことになるわけだ。仮に20万円の手取りを目標にするとすれば、



■ ある月に、 5万円仮想通貨に投資したとして、月に5倍になれば25万円の収入ができる。



ということになる。しかし、そこで生活に20万円使っているわけだから、また元手は5万円に戻り、それを投資して5倍に増えていかなくてはならない&それが毎月続かねばならない。



 ・・・・・・。どう考えてもこれは不可能な話である。なぜならこの話は、その仮想通貨の価額でいえば5のべき乗になってゆくからである。ちなみに年間では5の12乗ね。




 今度は別の考え方で見てみよう。



■ 最初に頑張って100万円投資して、 それが1年間で10倍になったとする。そうすると総額は1000万円である。これなら元の100万円は残して45カ月・約4年生活できる(900÷20=45)



 これはいい感じに思える。一発で4年暮らせるなら、なんとM-1グランプリを獲るより率がいい!

 しかし、ここから「暴落率」も勘案しなくてはいけないので、最終的には「平均利回り・上昇率がどれくらいか」を検討しなくてはいけない。


 ビットコインは、この1年間で平均3倍、マイナーなものでは24倍にもなったものがあるが、トータルして割ると年間で8倍程度の上昇率であるというデータがあった。




 時価総額トップ10の仮想通貨の上昇率 (ニシカズさんのブログから)
 http://www.nishinokazu.com/entry/2017/04/10/171711




 とすると、100万円の仮想通貨は800万ぐらいにはなってくれるらしい。ビットコインでも 300万にはなったということだ。1年弱は暮らせる。


 


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 こうして考えると、貧乏な人が逆転するのに必要なのは、



 種銭(たねぜに)だ!



ということがわかる。そうだそうなのだ!最初の100万円、いやなんなら最初の1000万円があれば楽して暮らしていくことができるのだ!



 ・・・え?


 ・・・・・・え?


 ・・・・・・・・・は?


  種銭・・・。



 種銭があったら、貧乏ちゃうやんけー!!!





 というわけで、結論です。



貯金は、何ものにも替えがたい資産である。




 まずは、何よりも貯金ですよ。




(ということは、弱者を助ける一番の方法は、種銭を貸すという仕事であることがわかる。グラミン銀行は、こういう理屈で成り立っているのだな。うむうむ)











2017年12月12日火曜日

【勝手に人生相談シリーズ 20】 意識高い系について、どう思いますか?



 毎度おなじみ武庫川散歩です。



 自分としては、かの有名な推理小説家である「江戸川乱歩」さんにあやかって「武庫川散歩」なる関西系な名前をつけてみたのですが、実際に武庫川散歩でエゴサーチすると



 ほんまに武庫川を散歩するブログや記事



がやたらひっかかってきて、人名としては全く意味をなしていないことに気付きました。名前を売ろうとしても、埋もれるだけですね。これではいけません。


 絶対にネットでよそがひっかからない


 四万十川☆闊歩(しまんとがわかっぽ)


とか


 ヤリキレナイ川☆進歩(やりきれないかわしんぽ)


とかに改名したほうがいいかもしれません。


 え?ヤリキレナイ川を知らない?北海道に本当に存在する川で、あまりにも氾濫が多くてやりきれないからその名がついたとか、つかないとか。


 ヤリキレナイ川
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%AA%E3%82%AD%E3%83%AC%E3%83%8A%E3%82%A4%E5%B7%9D



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 さて、そんなセルフ・プロデュース能力に長けたムコガワですので、常に自分のミッションをレボリューションしてゆくことには関心があります。



 そこで、そんな私にまた質問が寄せられました。毎度おなじみ人生相談のコーナーです。



Q 「解脱者さんは、どちらかといえば、意識を低下させるのが本業だと思いますが、いわゆる”意識高い系”の人についてどう思いますか?」(30代女性)


A ・・・。意識低下させ続けたら、最後は死んでしまうがな。



 最初に誤解を解いておきますが、解脱者というのは「あらゆる欲望を捨てて、枯れ果ててしまい、もはや息も絶え絶え」な状態を指すのではありません。



 それを言うなら、「植物状態にある人は、解脱しているのか」というテーゼを立てるのと同じで、そんなことはナンセンスで、むしろそういう病気を抱えている人にも失礼です。



 解脱している状態というのは、



「いろんな欲望や欲求や行動に、自我をもぎ取られたり、支配されないこと」


と言ってもいいでしょう。


「無意識におしっこたれながす」


のを解脱と勘違いしてはいけません。むしろ、


「うははは。ここは便所じゃないけど、わしゃどこでもおしっこできるぜー」


と、俗世のしがらみやルールを全く気にしないほうが解脱に近いということです。



~~~~~~~~~~



 話を本筋に戻して。



 解脱者の意識が低いかどうかは別にして、いわゆる俗世で言われている「意識高い系の人」というのは、すでに蔑称になりつつありますね。



 もともとは、「能力があり、かつ自己実現に向けた高い意識を持っている人材」ぐらいの意味だったのですが、現実には「偉そうなことばっかり言っている中身を伴わないヤツ」の意味へと変わってしまいました。


 よくネタにされるのは「やたら横文字を使う」とかがありますが、要はルー大柴(わかる?)ですね。トゥギャザーしようぜ。




 意識高い系というのは、最近出てきたことのように思いますが、実は明治大正時代ぐらいからそういうヤツはいて、「文士さま」なんて揶揄されたこともあります。


 帝国大学に通い、哲学書などを読みふけりながらいっぱしの思想家きどりになっている青年なんてのは昔からいたわけです。


 兵庫県篠山市に「デカンショ祭」というお祭りがあって、デカンショ節という民謡があるのですが、そのデカンショということば、


 デカルト・カント・ショーペンハウエルの略


という説がまじめにあるくらいで、篠山藩の藩校から東京へ遊学させてもらった若い学生(元侍の子)とかが、


「いったいなんだね。きみ。カントぐらい読破してからものを言いたまえよ」


なんてやってたわけですよ。




 というわけで、意識高い系とは、「エリート意識が表面的にこぼれ落ちたもの」と言えるわけですが、大事なのは中身です。


 そこで、本当に意識が高いかどうかを判定する秘策を授けましょう。


1)

「そうした意識高い言説が、誰かが言っていることの受け売りなのではなく、自分の体験や自分の考えに基づくものであるかどうか」



 2)

「自分が口にしている言説を、今度は自ら実行しているかどうか」



 はい。たったこの二つです。どんなにいいことや凄いことを言っていても、自ら実行していない人は、ほとんど無意味です。

なぜなら、すごいことやすごい内容の記事は、ネットにだって転がっているので、それを口にしているだけのヤツは、



ただ、転がっているのとおなじ




に過ぎないからです。ごーろごろ、ホレごーろごろ。




 意識高い系の人たちの実践例が、記事として挙がっていたので紹介しておきます。



独自取材を堂々とパクる、「意識高い系」の人たち (文春オンラインさんより)
http://bunshun.jp/articles/-/5351?page=2 



「仕事で自己実現を目指してはいけないサラリーマンという身分」(ダイヤモンドオンラインさんより)
http://diamond.jp/articles/-/152741



 2つ目の記事なんかめちゃくちゃ面白いですね。


 サラリーマンをしている限り、スティーブジョブズには成れないし、スティーブジョブズに成れるようなヤツは、会社員をそもそもしていない。


↑簡単に言えばそういうことで、かなり名言です。



 ということは、本当に意識が高く飛びぬけて能力があるヤツは、



「すでにそもそも今現在、あふれる能力によって、独立してフリーで結果を出している」



ということになり、組織の中にいてわかったようなことを口にしている人材は、



「すでにこれまでも実は社畜の才能があり、これからも社畜としてしか結果を残せない」



ということになるわけです。



 ちなみに、ムコガワは、世をしのぶ仮の姿では会社員です。会社員としてしか成果を残せない哀れな存在です。


 その哀れが極まって、取締役になりましたが、それが何か?






2017年12月5日火曜日

「自殺したい、死にたい」のバックヤードから。



 昨日の記事で、「人生をリセットする方法」について書いたのですが、それに関連して今日も興味深いおはなしが。




 元自殺掲示板管理人に聞くSNS時代のコミュニケーション
http://blogos.com/article/263056/




 今回の座間連続自殺?事件では、ツイッターのDM(ダイレクトメッセージ)によって、自殺志願者が繋がっていったことがわかったわけですが、ちょっと前のネットでは


「自殺掲示板」


なるものが、その繋がりの場となっていたことは、まだ記憶にも新しいのではないでしょうか。

(いや、10代とかの若い子は知らんか)


 で、その自殺掲示板(現在は無い)の管理人をしていたという男性がその頃の話を寄せてくれているわけですが、いろいろと考えさせられるなあ、と思って読みました。




 解脱者的には、しょっぱなから「むむむ」と考え込んでしまいました。



 というのも、記事の最初で清志という青年が、生活保護から立ち直ろうとする時期に自殺した、という話が出てきたからで、


「となると、昨日ムコガワがたどりついた『社会復帰を目指すリセット装置としての刑務所みたいなヤツ』があったとしても、そこから娑婆に戻ろうとしたり、戻って間もない自殺志願者は、やっぱり死ぬのではないか」


ということに気付いてしまったからです。ではなんのためにリセットするのやらわからないことになるし、そもそもリセットできるのか?ということにもなります。





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あるいはまた、記事中にも出てきますが、こうした自殺願望を抱える人との対話というのは、この管理人がかなり意識して気をつけていたように距離感をとっていても


”かなりエネルギーを費やす”


ものであることはわかります。それだけ人と人の関わりというのは、本質的に自分のメンタルをぶつけある消耗作業であるということでもあるわけです。





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 さて、ムコガワは人助けマニアなのではなくて「解脱者」ですから、別に自殺したい人を止めたり、自殺をせずにすむ方策を、それこそエネルギーを費やして提供するタイプなのではありません。


  もちろん、死にたいと考えるきゃわいい女の子には興味を示しますが、死にそうな無骨なおっさんにはあまり興味をしめさない、という明確なビジョンを持っています。


  ええ、そこは明日への意志をはっきり持っているタイプなのですね。



 ・・・・・・そんなボケはともかくとして、 昨日からこの問題を考えてきて、



「ああ、そうかそもそも大前提が間違っているのに、なぜ気付かなかったのか!」



と、ここへきてようやく叫んでしまいました。



 その間違っていた前提とは何か。



 もともと、話の根幹が違っていたので、刑務所に入らなければならないとか、刑務所から出てきても死ぬとか、そういうおかしなことが起きてしまうのです。




 はい。ここが違っているのです。



「そもそも、人間は自分の歩んで来た道をリセットすることなど、できない。できることがあるとすれば、見えないように隠すか、あるいは、別の生き方で上書きすることぐらいがかろうじてできるだけで、仮にそうしても、過去は消えない



というのが真実だったのです。ばばばーん!




 解脱者的にたどりついたのは、つまり、そういうことです。


 過去は消えないし変わらないし、リセットなんかできないんです。リセットボタンはそもそもないし、電源を抜いたらハイおしまい、なだけでやり直すことなで不可能というのが物理学的には最も正しい答えなわけで。



 だとすれば、人生をやり直すとは、つまり以下のように生きるということです。



■ 過去とは異なるパターンを目指して、生き方を変化させて後半戦を生きること。


■  過去の問題点を踏襲しないように、異なった生き方を試してみること。


■ 過去の自分の資産のうち、使えるものは生かしながら、過ちを整理して取捨選択すること。


■ あるいは過去の自分の姿を隠しながら、世を忍ぶ仮の姿で生きること。



これですよ。これ!



 全財産を捨てて、新しい場所や環境で生き直す必要はないわけで、過去と現在が連続しているのならば「自分が培ったものを生かす」こともできるし「使わない」こともできるようにするのが自然体です。


 そして、居場所や環境も、「自ら主体的に好きなように決めてよい」ということでもあるわけです。別に引越しや転職は、必要があればしたらいいし、必要なければしなくてもいいのです。


 ただ、前半戦の生き方に問題があったなら、それはチェンジすればいい。しかし、一人では自分を変革することが簡単にはできないので、



 そういう時に、私のような解脱者を利用してくれればいい



ということになるのですね。はい↑ここは別に解脱者でなくても、行政でも福祉でも本当はいいんだけどね。




 ・・・・・・ちなみに、解脱者のもとには「死にたい」というやつはほとんどやってきません。


 なぜか「生きたい!もっとよりよく生きたい」というやつばっかりがやってきます。


 自殺を選択して逝ってしまった彼は結局最期までなーんにも言わずじまいでした。



 その理由はいまいち自分でもよくわかっていませんが、この「悟るヒント」のブログなんかは、実は



 生きるヒント



 よりよく生きるためのヒント




がぎっしり詰まっているからかもしれませんね。きゃぴっ!




 








2017年12月4日月曜日

人生をリセットする方法




 どうも、あなたの味方、武庫川散歩です。


 複雑に入り組んだ現代社会に鋭いメスを入れ、さまざまな謎や疑問を徹底的に究明しておられる方、といえば、それぞれの立場やスタンスでいろんな論客を思い浮かべることと思いますが、ムコガワが若いときは、


 呉智英さん
 (「バカにつける薬」「サルの正義」なんかがおすすめ)


なんかがずっと好きでした。 そもそも、彼のペンネームが、稀代の変態小説である夢野久作の「ドグラ・マグラ」の主人公に由来する、なんてところが、稀代の解脱者であるムコガワ好みだったりしたわけですが、もうそんな呉智英さんもすっかりおじいちゃんです。



 それに変わって、近年言いづらいことをズバッとおっしゃっているなあ、すごいなあ!と思うのが作家の



 橘玲さん
(「言ってはいけない~残酷すぎる真実~」がおすすめよ)



 ですね。彼の場合は、エビデンスに基づいた冷静な分析をズバズバ言ってくれるので、現代社会を生き抜くには大変に役に立ちます。





 そんな橘玲さんが


「人生をリセットするボタン」


について言及なさっていたので、ちょっと面白いと感じたことを紹介いたします。



人生をリセットするボタンがあれば
 https://www.tachibana-akira.com/2017/12/7868





 さて、詳しいことは元ネタを読んでいただくとして、「人生をリセットするボタン」があれば、それはすなわち







を意味するとは、一体全体どこからやってきたのでせうか。



 もうなんか、現代社会では自殺や自死が手軽で見慣れたものになってしまったがゆえに、人生をリセットするとはついつい



「自殺すること」



と同義のように思ってしまいがちですが、本来は「死ぬことではなく、生きなおすこと」であるからして、これは、絶対に「生きる方法」であるべきです。


 ゲームにおいてもそうですが、やり直すためには電源を引っこ抜くのではなく、再起動が必要です。人生をリセットするとは、死ぬことではなく、再び復活することに他ならないわけで、ほんとうはね。



~~~~~~~~~~



 そうすると、たとえばここに「今の人生をすべて捨ててしまって、リセットしたい」と思っている人がいるとして、彼や彼女を再起動させるにはどうしたらいいか、ということがこの問題の本質なのだとわかってきます。


 けして「彼や彼女が死ぬ方法を考える」というのではなく、「再び生きる方法を考える」という方向性であるべし、というわけで。


 ちなみに、リセットボタンを押すと何が起きるかというと、これはすごく簡単かつ示唆に富んだ出来事が起きるわけです。



 それはつまり



 1) 今までの記録やデータがすべて失われる。ここまで進んだとか、ここまで築いたなどの到達度も、逆に累積された汚点も全部消えてしまう。


 2) 設定が一番最初に戻る。初期設定があればその値になり、初期設定がなければゼロベースになる。


 3) 何かが進行したり、累積するものについては、全部1からスタートになる。



わけです。なるほど、これを実際に実行するプログラムを組んでやればいいのですね。




 さて、人間が悩みを抱いたり、苦しんだりする原因は、大きく捉えればたった一つに集約できます。


 あるいは、多少分類をしても3つくらいにまとめることができるのが、人間の苦しみなのです。



 ざっくり一つに集約すれば、それは



「自分の居場所を確保できるかどうか」



に他なりません。これは生物的な命題で、「巣があって餌があって、そこにとりあえず安心していられる」ということを示します。



 あるいは、3つくらいにまとめる分類では、「人間関係、お金関係、健康関係」ぐらいにしか人の悩みはない、とか言ったりもします。


 これも概観すると「居場所があって、餌があって、安心してそこにいられるかどうか」を示すことがなんとなくでもわかると思います。



 そうすると、人生のリセットボタンなんてのは意外に簡単単純で


「人間関係を変える(離れる)」
「仕事を変える(離れる)」
「住所を変える(離れる)」


ことで、健康以外の問題は、解決するかはともかく一旦リセット自体は可能だとわかるのです。




 こうして考えると、「出家」というのはとてもよくできたシステムで、


「俗世の人間関係から離れ、仕事も変えてしまい、住所も物理的に外界と切り離される」


ことで、十分リセットが可能だったとわかりますね。




 ということは、この混迷の現代社会において必要なのは、宗教を別に切り離して「出家」できるシステムがあれば自殺はしなくていい、ということなんです。


 めっちゃ簡単!




 宗教的観念から考えると、還俗するにはこれまたハードルがあるわけですが、宗教関係ない出家システムがあれば、リセットはとてもやりやすいことがわかります。



 こうして考えると、座間の大量殺人問題の被害者側のポイントが見えてくるのですが、それはつまり、


「すべてを一旦放り出して、うちに来ていいよ」


という招きがあれば、それは自殺志願者にとって



超魅力的である



ということを意味します。つまり、マーケティング的にはここに需要があるわけです。



 ムコガワは、世を忍ぶ俗世の仕事では経営者ですから、「おう、こんな市場があるやんけ!」とぶっちゃけ思います。



■ 人生をリセットできる抱擁力あふれる丸抱え施設があれば、自殺しなくていい。

■ これまでの人間関係をいったん切り離せる施設であればなおいい。

■ これまでの住所や環境から離れられる施設が望ましい。

■  マネタイズをどうするか。お金がないと運営できないので、どこかから収益を上げねばならない。

■ 仏教では、ブッダが「すべて外部からの寄付で賄え」と言っているので、それをマネする?

■  利用者が、本当に死ぬのなら、財産を全部貰えばいいのだけれど、利用者に再起を促すためのシステムなのだから、預かったお金を再びお返しする必要がある。

■  となると、施設利用料を在籍する期間に応じていただかなくてはならない。

 


・・・・・・とまあ、要するに、「再び出られる若者向け老人ホーム」みたいなのがあればいいんですね。シェアハウスみたいに自助的なものではなく、もうちょっと公助の入った


「若者ホーム」


みたいなのがあればいいわけで、そこでしばらく暮らしてもらって、適切な期間が経てばまたお好きな世界へ戻っていただくという施設を作ればいいわけです。


 そして、新しい環境や新しい土地でやり直していただくという・・・・・・・。


 ・・・・・・。



 ・・・・・・。



 ・・・・・・ん?



 ・・・・・・まてよ。



 ・・・・・・・・・・・・これって。


 これって、もしかして刑務所みたいな施設ってこと?(笑)自由に出入りができる刑務所。


 独房、三食昼寝つき。人間関係シャットアウト。前の仕事からもさようなら。カロリー計算された食事でおもわず健康。収容される場所は元の住所から遠い地域。

 経営は国費であればなおよい。



 ということで、合理的に考えると人生をリセットする一番いい方法は、



 刑務所みたいなところで一定期間過ごす



になりました!以上証明おわり。QED。