2022年1月15日土曜日

文学部に行くことの意味はたった一つしかない。

 はてなに面白い慟哭が載っていたので、思わず反応してしまった。

 

 それは

「文学部なんかに行くな、勉強しても報われないぞって始めから言え」

 というエントリで、

 https://anond.hatelabo.jp/20220114133403

 

書き手の方は、文学部卒で就職先がないことについて吼えておられた。言ってることは、わからんでもない。

 

 

 

 わたくし、解脱者ムコガワは、文学部、それも日本文学科を出ているので、バリバリの文学部卒である。

 世間ではいちおう、就職氷河期と呼ばれた「1993年から2005年卒」に相当する世代で、1997年に大学を卒業して、とりあえず激戦の中で、かりそめなる公務員になった。

 

 それからあんなことやこんなこと、うっふんあっはんがあって、現在は建築業界のすみっこ暮らしをしている。

 

 とりあえず就職できたこと、それを継続できていることには感謝しかないが、このブログでももしかしたら書いたかもしれないが、ムコガワは関西を代表する私大の文学部を、同学年

 

「2位」

 

で卒業したから、たぶん賢い。宮廷大よりはアホだが、まあ就職してしまえばおおむね誤差の範囲という人材が多い。

 

  ちなみに「2位じゃだめなんですか!」というボケをかましたくなるのだが、もう誰も元ネタを覚えていないくらい時期が過ぎたので、「お・も・て・な・し」くらい古いネタということで、封印しておこう。

 

 ちなみになぜ1位ではなく2位なのかは、いろいろ学閥上の力関係が働いたので、ワシのせいではない。

 

 

 さて、これまた余談だが、宮廷大の法学部とか医学部の人間は頭がいい。しかし、宮廷大であっても文学部生であれば、有名私大とどっこいどっこいだ。

 

 公務員になったとき、宮廷大の同学年の人材と何人も同僚になったが、 みんなアホだった。馬鹿にしているわけではなく、ワシと同程度にはアホだったということだ。

 

 Kくんは自分も仕事がちゃんとできるのだが、決断力がなく、何をするにも「ねえ、サンポちゃん、これどうしたらいいと思う?」と聞いてくる。

 あんたが主任なんだから好きにすればいいと思うのだが、まあ、そんなもんだ。クラーク先生は、もっと大志を抱けと言っていたんだから、君も強い意思を持て!と内心思いながら。

 

 奥州宮廷大学卒のおにゃのこは、数年で結婚してやめてしまった。職場実習に来た非正規職員のIくんと遊園地デートに行って、そのままデキてしまったからだ。

(結果的には、それもまあ幸せだろう。Iくんはのちに正規職員になって出世したのだ)

 

 宮廷大ではないが、帝国市販大学の流れを汲む大学を卒業したHなHちゃんは、乳首をひねられただけでイッてしまうMっ娘だった。いまや50代に近いがまだ独身である。だから幸せかどうかはわからない。

 ちょっとの間つきあっていたので、毎日乳首をひねりあっていたから、互いにアホだと言うのは間違いない。

 

 

==========

 

 

 さて、文学部卒くんのエントリである。

 

 自分は一生懸命勉強をして、そして勉強が好きで、勉強ができて宮廷大の文学部に入った。しかし、卒業してみると就職がない、なんじゃこりゃどうにかしてくれ!

 

という叫びなのだが、 ちょっと細部は違うけれど、読んだ人間の多くは

 

中島敦の「山月記」

 

を思い出すだろう。

 

・・・隴西李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介むところる厚く、賤吏に甘んずるをしとしなかった。

 

というアレだ。

 

 ある人物が山道に差し掛かると、一匹の虎が躍り出てくる。そして、彼が自分の旧知の友人であるとわかるや、かくも恐ろしく悲しい身の上話を聞かせる。

 

 それが「山月記」である。

 

 学問にしか才がなかった男が、官吏であることも就職がないことも受け入れられず、虎となって吼える。山道を差し掛かった友人に語り、SNSで一人語りをする。

 

「ああ、そのエントリは、李徴子ではないか?」

 

と思わずこちらが書き込んでしまうような、虎の咆哮である。

 

 

 さあ、ここで文学部に行く意味である。文学部の人間は、李徴をよく知っている。そして、自分が李徴に似た人間であり、一歩間違えば虎になってしまう情念と叫びを内包していることを知っている。

 

 だから文学を学ぶことで、「ああ、自分は虎になる可能性があるのだ」ということを知るのである。

 

(まあ、高校の国語の教科書に載っているので、大学以前にこの話は読むのだが)

 

 そして、文学をさらに学ぶと、「虎に陥らない」ということや「虎の正体」について気付く。

 他人のことばを学ぶことで、自分の気付きを得ることができるのが、文学の本質だ。

 

 そう、それはもともと山月記の文章に書いてあるのだが、「尊大な羞恥心」がその本質である。

 

 ”事実は、才能の不足を暴露するかもしれないとの卑怯な危惧と、刻苦をいとう怠惰とが、己のすべてだったのだ”

 

と虎自身が言う。

 

 ああ、文学部を出たということで、本来の自分の才能の不足が露見することを恐れる気持ちと、それをはねのけて生き様を見つけるということができない怠惰とが、虎としてSNSで咆哮してしまう正体なのであった。

 

 しかし、文学は既にそんなことは虎の口から出た言葉として書き連ねている。文学を学べば、「山月記」など読まなくても、他の文学におなじテーマは山ほど出てくる。

 

 文学とは、結局、「人間は所詮こんなものだよ」というその限界を突きつけるものだからである。

 

 

 だから記事主は、まだまだ文学を学ぶ余地があり、まだまだ伸びる。文学を修めれば、

 

「ああ、わたしは李徴だったのだ」

 

と気付くことができ、自分の将来の身の処し方を見失わないのだ。

 

 見失うと、虎になってしまう。

 

 

 文学部は、モノづくりには役に立たない。計算もできず、お金もあまり稼いでこない。

 

 しかし、自分の存在について、悩みに悩み、悩み抜いた時に、先人の言葉を胸に抱いているのが文学部生である。

 

 それは日本語かもしれないし、あるいは海外の人のことばの場合もあるだろう。歴史に残された一編のかけらの場合だってあるだろう。

 

 人間が、いちばん丸裸になって、どうしようもない時に自分を見つめる体験を何度も繰り返しているのが文学部生なのである。

 

 だからちっとも言うことを聞かない。先輩の命令にも従わず、会社の行いに疑問を抱く。

 こいつはまったく扱いにくいよな、就職も不向きだよな、という一般ピープルの感想は、まったくもって

 

合っている

 

のだ(爆笑)

 

 

 けれど、文学部生はしぶとい。

 

 死ぬ死ぬ言うヤツはなかなか死なない、くらいにはしぶとい。

 

 なぜなら、文学部に入ろうと決めたその日から、死ぬ死ぬ言ってるからだ。

 

 なんならもう3回くらいすでに死んでいるので、ケンシロウでも倒せない。

 

 

 そんな文学部生を、ぜひ積極的に採用してもらいたいものである。そうしないと虎になっちゃうぞ。

  

 てへぺろ。