2018年6月29日金曜日
暴力は公平である ~hagexだの低能先生だのはよく知らんけど~
インターネット界隈やら、ブロガー界隈やらでは、ネットを巡って起きた殺人事件の件で持ちきりのようだ。
残念ながら私ははてなブロガーではないし、それよりも世界にはばたくグーグルさんのBloggerサービスの利用者なので、 まあ、いわゆるひとつのジャンルが違うというか住んでいる界隈が異なるらしいので、そっち方面に言及することはほとんどなにもない。
要するに、部外者で赤の他人なので、この話そのものは傍観する以外にないのではある。
ただ、個人的には
「波照奈村殺人事件」
として、その関係者の心の闇を表現することはできぬものか、と感じてはいる。2時間ドラマでもよい。
しかし、いわゆるひとつの解脱者Xの献身としては、
暴力とは、公平なのだ
ということを痛感せざるを得なかったので、その話だけしておこう。
強者は、金を持っており、権力を持っており、人的なネットワークを持っており、快適な環境を持っている。
それに対して弱者は、金を持っておらず、権力を持っておらず、人的なネットワークを持っておらず、快適な環境を持っていない。
持てる者と持たざる者、それは強者と弱者の違いとなり、格差となってゆく。
しかし、これは大変に不都合な真実なのだが、
「暴力だけが、持てる者も持たざる者も公平に、そして自由に執行することのできるフォース(力)である」
と言う事ができる。
金や権力がなければ支配はできない。しかし、暴力は使える。もちろん、金と権力があって、その上にまだ暴力を振るうこともできる。
一般的には、強者が「弱肉強食」のイメージで、たとえば横暴な上司が部下を罵倒するように
「強者が弱者に対して暴力を振るうのではないか」
と思いがちである。もちろん、そういう場合もあるだろう。
しかし、ポイントはそこではなく、
「弱者だって、強者に暴力を振るうことができる」
のである。それが無差別殺人や、今回のような「持てる者」への犯行などである。それは時にはテロでもいい。
なぜなら、暴力は公平だからだ。
この暴力の公平性、あるいは、暴力こそが弱者に残された唯一の武器であることを早くから理解していた人物がいた。それがいわゆるひとつの資本論を書いた「カール・マルクス」である。
だから、資本家と労働者の対立の後には「革命が起きる」と予言したのである。
弱者にとって、唯一公平に使えるツールが「暴力」であった、ということを認識すると、その後共産主義革命がなぜ失敗したかもよく理解できよう。
持たざる者であった弱者が、革命という名の暴力ですべてをひっくり返したとしよう。
しかし、万人が持たざるものとなる共産主義を推し進めることは、その内部で差別化を起こすには暴力に頼らざるを得なくなる。
なぜなら、金も権力も人的ネットワークも環境もが平等になってしまい、誰もが持たざるものになったセカイで、手っ取り早く他者と差別化するには暴力しかないからである。
だから、彼らの国は暴力に依存してきたのである。
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そこで、資本主義社会において「持てる」立場である賢明なる諸君に、ここでいわゆるひとつの警告をしておきたいと思う。
まず、自分たちは持っている、自分たちは力がある、と感じることは自由である。しかし、弱者を見たときに
「ボクたちワタシたちは強者で、彼らは弱者である」
と見くびってはいけない。
彼らは時に、最も公平なるツールとして暴力を使うからである。
もちろん強者だって暴力を使えるので、対等に打ち返すことだって出来る。暴力は公平だからだ。
しかし、暴力は公平であるがゆえに、「金や権力やネットワークや快適な環境」を我々から奪う。
うそだと思うのなら、目の前にいる気に入らない上司や、うだつの上がらない夫を殴り倒してみればいい。その見返りとして、あなたは多くのものを失うだろう。
弱者とて公平に奪われる。暴力を振るった弱者は「金や権力やネットワークや快適な環境」を等しく奪われる。
いや。だがしかし、彼らは弱者であるがゆえに、そんなものははなから持っていないのだ!!!!
持っていないものを奪われても、困らない。よって暴力によって得るものだけが残る。
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真の強者たちは、このことを良く知っていたため、「暴力を禁じる」ということを下位のものに命令してきた。
権力者は、自由で公平に暴力を行使することをそのために禁じてきたのだ。それは悪いことだと。
あるいはまた、真の強者たちは完全な弱者を生み出さないように「施しを与えること」も積極的に行ってきた。
慈善財団などを設立して、多額の収益を還元する欧米の富豪がいるのはそのためだ。
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金持ちになることには時間とコストと努力が必要だろう。
権力を手に入れるには長い期間と忍耐も必要だろう。
人と繋がるには、エネルギーも必要だ。
快適な環境を手に入れるために私達は多大な努力を払うだろう。
しかし、暴力だけは、ただ一瞬「このやろう!」と右手を振り上げるだけでいい。
あるいは「バカ野郎!」と声を挙げ、キーボードを叩くだけでいい。
何も持たずに、使える最大にして公平なるツールである。
親愛なるニャート氏が、こんなことを書いていた。
誹謗中傷でしか他人とつながれない・匿名掲示板という負のつながりの場
http://nyaaat.hatenablog.com/entry/2018/06/26
『つまり、誹謗中傷という「負のコミュニケーション」は、実はパフォーマンスがよい。』
『それゆえ、「正のコミュニケーション」を身につける手間を惜しんで、そこに入り浸りになったまま抜け出せない人が出てくる。』
『Aさんのような人たちに「正のコミュニケーション」を身につけてもらうには、それをシステム的に上回る何かを提供する必要があるのかもしれない。』
この記述は、暴力の公平性に即決する。負のコミュニケーションは、コストがかからず、パフォーマンスがよいもっとも弱者向けの
「フォース(力)」
なのである。
北の某国が、経済力を伸ばすよりミサイルをぶっ放すほうがはやいのも、つまりはそういうことなのだ。これは国家レベルでもそうなので、人類普遍の真理ですらある。
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最後になるが、暴力は公平だとどうか忘れないで頂きたい。弱者だけの特権ではない。そこは勘違いしてはいけない。
弱者が、暴力という行為で強者に立ち向かう時代の次は、強者がさらなる暴力でこんどは暴力の行使者を痛めつけてくる時代がやってくるだろう。
なぜなら、暴力は公平だからだ。
そうならないためには、誰もが暴力を使いにくくする以外しかない。つまり、弱者と強者の境をあいまいになるよう社会をデザインすることである。
やれるか?人類。
2018年6月11日月曜日
なぜ引きこもり男性は人を殺すのか ~無差別殺人を無くすための、効果的な処方箋~
「誰でも良かった」
というこの言葉をもって、たくさんの無関係な人の命が奪われる無差別殺人は、 もはや何度も、そう、言いたくはないが「飽きるほど」この日本で起きている。
つい先日、秋葉原殺傷事件のことを思い出した日があったかと思えば、今度は新幹線の車内で事件が起きたとか。
そういえば、新幹線でなら、少し前に放火事件もあったことを思い出さざるを得ない。
ちなみに、私は「何か特定のジャンルや傾向を持っていることで、他人にレッテルを貼る」ような人間ではない。
だから、あえてここは自分が見聞きしている事実に対しての疑問だけを書き連ねてみる。
■ なぜ無差別殺人を行うのは、女性ではなく男性が多いのか。いや、林真須美死刑囚以外には、ほとんど男性しか我々が知らないのはなぜか。
■ なぜ、無差別殺人を行うのは、明るく元気な会社員ではなく、無職やひきこもりと称される人たちが多いのか。
■ なぜ、無差別殺人を行う犯人は「誰でもよかった」と言うのか。むしろ、のび太のように「あいつを殺して俺も死ぬ」ぐらい言ってくれないのか。
大事なことなので、何度も言う。私は、特定のジャンルの人を差別したりはしないが、
「どうして、毎日元気に出勤しているマイホームパパは、無差別殺人を起こさないのか」
「どうして、愛されメイクの丸の内OLは、新橋のおっさんたちに襲い掛かったりしないのか」
「どうして、幼稚園児の手をひっぱっている専業主婦は、娘をいじめた園に刃物を持って襲来したりしないのか」
ということは、誰もが見落としがちで考えようもしない、ミステリーだと思う。
そして、さらに大事なことも言っておこう。
「なぜ誰でもよかったのなら、おまえ自身ではなかったのか」
ということも。
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この、大きな問いかけを提示しながら、今度はその解決策を考えてゆく。
プレジデントオンラインに、そのヒントとなるような記事が掲載されていた。
なぜアホ同士はいつも争っているのか
http://president.jp/articles/-/25308
なかなか刺激的なタイトルであり、かつ「なぜ弱者は自分より弱そうな隣の女性を刺すのか」という問題にも通じるところがありそうだと考える。
この記事は「人類がどのように争いや戦争を回避するか」に着目している。
(人間は、いつでも争いになると脳みそが戦争だと認知するらしい)
■1 話し合いで物事は解決しないかもしれない。論理的に説明することは「勝った者と負けた者を生み出し、負けた者は勝った者を恨む」のである。
■2 権力者は常に権力を保持しなければ、被権力者が権力を持ったときに復讐される。
■3 テロリストに金を渡して交渉・交換するモデルは、武力を使わずに済む方法である。
■4 金銭や政治的要求のない、精神が混乱した自暴自棄の犯人には、白黒を論理的に判断することではなく、「受容、思いやり、忍耐」で言い分を聞いてやることだった。
■5 とりあえず、飯をおごり、一緒に食うことには効果がある。
■6 相手を変える最もよい方法は、相手に好かれることだ。
ここまで読んだ賢明なるあなたは、もうピン!と来たことだろう。
そう、無差別殺人へのヒントは、4である。
仮に無差別殺人を行う人物をAとしよう。
Aには、弱点があったり、能力や対人関係の面で努力が必要化もしれない。
しかし、そのことを論理的に指摘しても、1番の理屈によりおそらく彼は「敵認識」しかしないだろうと思われる。 これは戦争で、あいつは敵だ、と。
そうした人物Aが自暴自棄になったとしたら?
恐らくAから見れば、「誰でも良かった。なぜなら誰もが敵だからだ」ということになる。
どうして誰もが敵になってしまうのか。それはごく単純で「誰も自分の言い分を聞いてくれなかったから」に他ならない。
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ということは無差別殺人をふせぐには、この逆をやればいいのである。
論理的に正しいということをまず捨てる。
そして、Aの言い分をただ聞いてやる。
この役目ができる人材(事件が生じる前の未然ネゴシエーター)がいれば、無差別殺人は減らせるということだ。
論理的に正しくなくてもいいのだから、「あなたはここが足りませんよとか、ダメですよといったおせっかいは全く不要」で、その能力不足の男性が能力不足のままでもよいということを理解する必要がある。
能力不足でも別にかまわない。しかし、能力不足だということを認識させたら戦争をおっぱじめるからだ。そのままほっとけばいいのだ。
指を失った人に「指がないね~。あったほうがよかったね~」と毎日言い続けてみよ。必ずあなたはぶっ殺されることは必定である。
指がない=能力がないも同じである。なけりゃあないでよいのだ。それは本人が一番よくわかっているので、他人がどうこう言うべきことではない。
そのない状態での過ごし方や解決法は、その人自身が工夫するものだからだ。
だとすれば、ひきこもりなどを抱えた周囲の人間は、彼が論理的に正しくないことを何度も何度も繰り返して言う必要はないということになる。
そして、できるならば、彼の言い分を聞いてやれば、無差別殺人は減るということだ。これには思いやりと忍耐がいる作業だが、できることならこれを仕事で行う人には、ぜひ高給を担保してあげたいところである。
それで無差別殺人が減るのなら、私達はよろこんでその分を払おうではないか!
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