2016年9月30日金曜日

日本人とは、何者なのか。 地政学で読み解く、日本人の幸せ。



  俺の名は。 


 武庫川散歩、稀代の解脱者にして哲学者だ。



 あらあら、流行しているからって、さっそくネタに取り入れるのは節操のかけらもないですが、拙僧悟りを開いておりますので、俗世のことには惑わされません。(←俗世にまみれとるがな)




 さて。


仕事のヒントは”日本人とは何者か”にある (プレジデントオンライン)
http://president.jp/articles/-/20226




が、いいポイントをついていたのでご紹介しましょう。


 ツイッターで先日「日本人のための救いの理論が必要」とかほざいたのをご覧になった方もおられるでしょうし、このブログでも「地政学」にからめて日本を説く話をしていたのを覚えている方もおられるでしょう。



 武庫川はただ単純に悟りを開くだけでなく、常にその悟りはこのセカイにちゃんと適合しているかどうか批判的・実証的に研究しているので、ずっと、


 セカイにとっての幸せとか


 日本人にとっての幸せとか



も、いろいろな学びを通して考えつづけています。







 その中で、やっぱり最近わかってきたのは、



「日本人や日本の歴史は、この日本列島という特異な島や、周辺諸国との地勢に大きく影響されている」


ということでした。




 まあ、当たり前といえば当たり前なのですが、この視点を見誤ると、私たち日本人は、けして幸せになれない、とまで断言できると思います。



 そういう意味で、この葛西さんという国鉄のおっさん(失礼)の話は、とても興味深いものがあります。



 島国日本の特徴は、葛西さんの言うように面白い側面があります。





【その1】 外から来たものに対する、プラスの感情とマイナスの感情


 海のむこうから「何かいいものがやってくる」という信仰は、日本の古来においてはけっこうポピュラーな思想で、沖縄のニライカナイとか、国津神に対する天津神のように、「発展は、海の向こうから来る」というイメージは現代においても続いています。

 たとえば、世界第二位の経済大国になって(いま三位だけど)すら、欧米に対するあこがれとか、おフランスからの輸入品とか、帰国子女がかっこいいとか、そういうのも全部、「海のむこう」に対する希望と関係があるわけです。


 いっぽうで、海の向こうからやってくるのは幸せだけではなく「蛭子(ひるこ)」とか、「元寇」とか、いわゆる「異形で恐ろしいモノ」もやってくるわけで、ここには日本人の海の向こうに対する


「希望と恐れ」


のアンビバレントな感情が、ずっと覗いていると言ってよいでしょう。



 この感覚、実は「海に関係なく、私たち日本人のベースに染み込んでいる」ということも忘れてはなりません。


 だから転校生にはワクワクするけれど、なんだか怖かったりするのです。(外国人のように、ズンズン相手に入り込めない日本人がいます)


  田舎に都会の人が引っ越してうまくいかないのも、「外部から来る者に関する一定以上の意識や恐れ、反抗心とドキドキ感」に由来します。


 今だに、飲食店に外人さんが入ってくると、ドギマギしてしまう日本のお店はたくさんあることでしょう。





【その2】 海は天然の城壁である、ということ。


 欧米人がフランクに異国の人と接したり、中国人が華僑として世界中へ飛んでゆくのに対して、日本人はどうして閉鎖的で保守的なのか。

 その答えは、日本が島国であることで「常に守られている。常に要塞の中にいる」という感覚に陥っていることに由来するでしょう。


 朝鮮民族が「恨(ハン)」の文化というややこしい感情を持っているのは、これまた地政学的に


「いつ、大陸から半島へ何者かがやってくるかわからない。つまり、いつ寝首をかかれるかわからないし、常に向こうを伺っていなくてはいけない」


という運命に関係します。



 それに比べると日本人は基本穏やかです。


「海という巨大な堀を渡って攻めてくる奴等は、そうそういない」


ということを知っているからです。



 だから日本人は、「内部にいるときは、とっても落ち着いている」のです。







【その3】  内なる団結と外なる脅威。


 ヨーロッパの移民や難民問題と異なり、日本人は「内と外」を明確にしやすい環境に生きてきました。


 常にだらだらと異なる民族が地続きでやってくる大陸とは異なり、外からやってくるものは


「敵か、遭難した人か」


の2つくらいしかありません。対応策は簡単だし、こっち側と向こう側の区別は明確です。


 だから、狭い国土で普段は「イス取り合戦をして、意外と勢力争いをしている」のに、外的に対しては、


「挙国体制で、頑張ろうとする」


のが日本人です。元寇の時どころか、今でもやってます。

ルネサスなんか、世界の半導体と戦うために「NECと日立と三菱がくっついた」のですから。







【その4】 内部分裂は、意外に好き。


 そして、ちょっと触れましたが、内部ではけっこう分裂好きです。


 ちょっと前の家電メーカーなんかもそうですが、テレビもラジオも洗濯機も冷蔵庫も、すべてのメーカーがフルラインナップで作ったりしていました。


 なんで同じものを全員が作らなあかんのかわかりませんが、それだけ対抗心が強いのです。


 日本国内ではこのようなポジション合戦が起きますので、実は内部は戦国時代だったりします。

(それでよく、外的には団結できるな〜と思うのですが、その辺は本当に「元寇」とか「神国日本」とかの時代から変わっていません)




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 さて、こうした日本人の特性に基づいて、私たちはとても面白い歴史を歩んできました。


 その最大のポイントは、やはり「外から来た者が、内なる者になったら、とっても仲良し」ということに他なりません。



 歴史学的には、日本人の多くは大陸からの渡来人をルーツに持つとされます。


 そもそも縄文人が古い日本人で、弥生人は皆来訪者である、という説もあるくらいなので、私たちは元々は


「中国人や韓国人」


だったりしてもおかしくないわけです。



 ところが、現代でも大半の人が、これらの国家に対して嫌悪感を抱くことからもわかるように、日本人は


「こっちサイドになった日本人については、とっても仲間意識」


なのに、


「こっちサイドに降らない者については、あまりにも不寛容」


であるのが特徴なのです。



 そのため、日本人は帰化人については何も言わないのに、「在日なんとか人」の人たちについては、もやもやするのです。


 従って、今後経済的にも道義的にも「移民受け入れや難民受け入れ」を画策する勢力が一定数は出てくるでしょうが、これは



 絶対にうまくいかない



と断言できるのです。



★だいたい、移民にフレンドリーなヨーロッパですら破綻しているのだから、絶対に無理です。






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 さて、移民のことはちょっと別の話として、こうして考えた結果から、


「日本人にとっての幸せ」


を実は読み解くことができるのですが、お気づきになったでしょうか?



 それは、「内なる者たちは仲良し」なのですから、 一つは



「孤独になるのではなく、内になれるような繋がりをできるだけ多くの分野で持つことが望ましい」


ということです。


 会社だけでなく、趣味のつながりや、地域のつながりや、親族のつながりといった、つながりの囲いはたくさんあるほうがよいということです。


 仮に、どこかの枠内で失敗したりはじかれても、他の枠組みの中で生かされることができるからです。


 マイケルサンデルの「これらの正義の話をしよう」では、最終的にコミュニタリアンとしての視点から「共同体」を持って21世紀を生きよう、という提言がありましたが、もっと平たく


「グループとか、集まりとか、クラスタとかファン」


でもいいと武庫川は思います。




 しかし、日本人は、狭い国土でポジション争いも大好きです。


 ですから、二律背反ですが、「共同体(枠内)」でよくポジション争いをしたり、いじめたり、いけずをしたりもするということを忘れてはいけません。



 もちろん、中にはそうした生き馬の目を抜く世界で「勝ち抜き、勝ち残ることに力を注ぐ」意識高い系の人たちもいることでしょう。



  しかし、一方では、そうした枠内から「はみ出したり、押し出されてしまった」人たちも必ず存在するわけです。



 その場合には、共通の敵が現れればいいので(苦笑)、某国と戦争とかが始まったら、そうした問題はだいぶ減少するのですが(苦笑)それは、あまり望ましくありませんね。



 進め一億火の玉だ(大政翼賛会)


 一億総活躍社会 (首相官邸)



まあ、似てるのは気のせいです!!!




 話を戻しましょう。枠からはみ出したり、放り出されたりした人たちが救われるには、一つは


「枠をたくさん持っておくこと」


が予防策でした。


そしてもう一つは


「枠の大きさを広く持っておくこと」


も大事だと思います。



 例えば、営業マンであれば「顧客をたくさん持っている」ということは生き残りの王道です。


 これは、社内活動をやっているように見えて、実は毎日社外活動をやっているようなものですから、会社の枠を超えたところで自分のポジションを取っていることになります。


 あるいは下請けのような「ルーティンの作業ばかり」をしているとしても、同じ仕事や業務内容をしている友人や業界との広いつながりを持っていれば、違う会社へ転職することだって、現実的になります。





 これに関していえば、私たち現代日本人が「核家族化」させられているのは、完全に間違った方向だと武庫川は思います。


 核家族というのは「個人主義によって枠を個人にできる限り近づける行為」です。


 個人主義は、欧米では「よきもの」とされていますが、あれは「神とその創造物であるあなたは直接繋がっているんだよ」というキリスト教観念に基づいて成立している思想ですから、日本人にとっては


「拠り所もなく、個人が放り出されている」


ということが多々起きます。


 シングルマザーが孤独にされたり、老人が孤独死したり、引きこもりがドアの内側にたてこもったり、全員個人レベルで放置されるのが、日本の特徴なのです。



 ですから、昔の家父長制がいいとは言わないまでも「一定の氏族集団が助け合える感覚」を持って生きられるような、日本が復活すればいいなあ、とも思います。



 戦国時代なんかは、「家を守る」ということは個人よりも重視されていました。それが100%いいかどうかはともかく、


「個人が100%絶対化され、重視されるということは、放り出される時も孤独だ」


ということは、覚悟すべき視点なのではないでしょうか。



 私は、譲り合いの精神などの「日本的良き文化」の根底には、「個人の制限」が隠れているような気がしてなりません。


 介護の問題や、保育所の問題というのは、実は「個人は制限されるが、共同体として暮らしを成立させる」という部分にキモがあるように思います。


 その意味では、「保育所に入れさせやがれ!」「老人ホームに空きはないのか!」という感覚では、このお話はいつまでたっても解決しないのではないか、と思います。





























2016年9月27日火曜日

「死にたい」 自殺未遂50万人の衝撃 〜50万人の闇と苦悩を解脱者は救えるのか〜



 いつもなら、ツカミのギャグをかましてから本文に入るところですが、今日も真面目にギャグなしでいきます。




 今日配信の日経ビジネスの記事に衝撃的なニュースが掲載されていたので、このモヤモヤはぜひともブログに書かねばならない、と思い筆を取りました。



 自殺未遂50万人の衝撃
 http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/200475/092300070/


 

 ITメディアビジネスにも、おなじデータが載っていましたが、調査の元ネタは日本財団のようです。


 4人に1人が「本気で自殺したい」
 http://www.itmedia.co.jp/business/articles/1609/08/news129.html



 これまで一般的には、日本の自殺者は、年間約3万人とされてきていました。しかしその中には「変死」扱いが除かれているので、実際には


「10万人〜15万人程度は自殺者がいるのでは」

とも推定されています。



 いずれにしても、実際に自殺した方はもとより


「死にたいと思うくらいの苦悩に満ちている」


人が50万人もいるということは、大変な状態だと思います。




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 記事を読めばわかりますが、実態としてのこの自殺未遂は、「死にたいと思う」くらいのレベルではすまないもっと程度のひどいものです。


 約半数近くが、4回以上の自殺未遂を経験


という内容は、自殺への強烈なベクトルを実感させるのです。



 嫌な言い方をすれば、「一度、運良く自殺を思いとどまらせることができたとしても、あと三回は彼や彼女はその後も死のうとするだろう」ということです。


 これは、表面的な自殺回避ができたというだけでは、何の本質的解決にもなっていないということを断言していることになります。





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 実は武庫川も、まだ解脱する前にこの世界の住人として生きている時、私の一番弟子だった若者が自殺をしたという経験があります。


(ややこしいけれど、その弟子は思想哲学についての弟子ではなく、私の現世的技術技量についての教え子でした。しかし、名実ともに、私の弟子であったことは疑いがありません。)


 私は彼が大きなプロジェクトに取り組んでいることも知っていて、経済的バックアップと技術的バックアップを両面から行っていました。

 自殺の3日前には、進捗状況を尋ねる電話を直接していたくらいですから、彼の死は私にとって大きな衝撃でした。


 そしておそらく、彼が生きていればその分野においては、私を遥かにしのぐような結果を出す大物になっていただろうということは、疑いようがないほど、彼は才能に溢れた若者だったのです。



 私は今でも、彼の作品、著作物を世に出すべきか、それともこのままひっそりとしまっておくべきかを悩んでいます。



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 武庫川の個人的なお話はもとより、 人はなぜ死のうとするのでしょうか。


 記事元の河合さんは、「自己有用感」をひとつのキーワードとして取り上げておられますが、


「自分の存在価値、意義」


があるからこそ、人は生きていると言えるでしょう。


 しかし、河合さんも言っている通り、その「意義・有用感」は実にアンビバレントな感情を伴います。



”人間というのは、実に厄介な動物で、
「他人の評価なんか気にするな」と思う一方で、「他人に認めて欲しい」と願う。
「放っておいて欲しい」と思う一方で、「自分の存在に気付いてほしい」と願う。 他者の存在を「めんどくさい」と思う一方で、他者に頼られるとうれしくなる。”


(記事からの引用)


  これは、本当にやっかいです。


 先日より、ニャートさんとも少しこんな話をしましたが、仮に、誰かが手助けをしようとしても


「そこに、助ける・助けられる関係が生まれれば、それは上下の感覚や依存と支配の関係へ繋がる」


という意味においても、やっかいなシロモノなのです。



 だから、解脱者としてはブログでは「誰かを救う」なんて言い方をして、カッコをつけていますが、本当の武庫川は、実際にはそんなおこがましいことは言わず、ただ



「私はあなたの味方をする」



ということばを使います。



「理解する」と言えば「誰もわたしの心の中なんてわからないくせに!」と言いたくなるし、

「助ける」と言えば、「ほら、実際には助けられないでしょ」と言われてしまいます。

「救う」なんてもってのほかで、現実の武庫川は仕事中で抜けられるわけがありません。



 だから、本当にできることを、誠意を込めて口にするならば、私には


「あなたの味方をする」


ということになるのです。




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 しかし、もっと現実的なことを言えば、 いくら私が解脱者であったとしても、



「50万人もの人々の味方になり、彼や彼女の心を思い、労わる」


なんてことは、物理的に不可能で、それは完全にできないことと言わざるを得ません。



 だから解脱者は、ここで確信するのです。



「死にたくなるほど、人が弱ってしまう状態が生まれてしまえば、そこに寄り添うことは、きっとできない。できるとしても、それは、自分が本当に愛するたった一人か二人を救えるかどうかに過ぎない」


と。



 だったら、人が弱ってしまう前にしか、50万人を救う方法はない!ということになります。



 つまり、


「人が弱ってしまうような状態にならない方法を、伝えたり、組み立てたりすること。それが解脱者のセカイに対する努めである」


ということです。





 幸いなことに、解脱者はそもそも「弱り」ません。


 悟りを開けば、心が折れることもありません。


 しかし、そこには一点の問題が横たわっていて、解脱するということは本質的には


「このセカイとの関わりをどうでもいいと思う」


ということでもあるのです。



 それでは、50万人を救うことはやっぱりできないのです。



 50万人の人々は、けして「悟りを開きたい」とは思っていないし、「このセカイとの関わりを捨てたい」とも思っていないからです。


 そしてできれば、逆説的ではありますが、「むしろこのセカイの中にこそ、自分の存在意義を見出したい」と死ぬ直前まで渇望しているからこそ、死のうとするのです。



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 キリスト教圏の人々は、「神に与えられた命、神に祝福されて生まれたわたし」という概念をベースに持っています。


 ですから、基本的には「罪も有しているけれど、私の命には意義がある」ということを抱いていきてます。


 今、問題となっているイスラムの教えも、「神によって生き、神によって死ぬ」ことをベースにしていますから、


「自分をはかなんで死ぬ」


のではなく


「神のために死ねる」


のです。



 悲しいことに、現代の日本人だけが、「なぜ、自分はここにあるのか」という根源的な問いと「自分は果たして、ここにいていいのか」という存在価値に関する究極の問題への指針すら与えられず、何もかもを見失っていると言ってよいでしょう。




 しかし、私はそれに回答できるだけのヒントを見つけている、と思っています。


 まだ、このブログにも書いていませんが、


「なぜ、わたしやあなたがここにいるのか」


そして


「わたしやあなたはここにいていいのか」


という問いや


「わたしやあなたは、何を抱いて生きてゆくべきか」


という希望に対するヒントは、たしかに存在すると武庫川は確信しています。



 50万人の苦悩を少しでも和らげ、彼らが弱らないように、自分自身の存在意義を再発見できるような試みを、武庫川は提供しなくてはなりません。


 そして、それは「解脱する」というような荒唐無稽な話しではなく、「このセカイとの関わりをしっかり持ち、このセカイに自分の足で立てる」ようなものでなくてはなりません。


 できるだけ早く、その話を書いてゆこうと思います。














2016年9月23日金曜日

【解脱者・武庫川散歩の”真”哲学論6】 地球にやさしいとか言う奴は、あなたに優しくない



 現代の哲学に関する諸問題を追求してきたこのシリーズですが、いよいよ最終章です。



☆ 元ネタはこちら

いま世界の哲学者が考えていること
http://diamond.jp/articles/-/101911





(5)私たちを取り巻く「地球環境」は、どうなっているか?

【武庫川的哲学思想】 滅びるまで、食らい尽くせばいいんじゃない?


  
 アフリカにまで「欧米的資本主義」が蔓延することになれば、それで世界の経済成長はいよいよ頂点までいきついたことになるわけですが、そうしたことを言い換えれば、つまりは


「資源を全部食いつぶした」


ということと同義であると言ってよいでしょう。


 実際には、この地球には「質量保存の法則」があるので、使ってしまった資源も再利用できるものはしたらいいのですが、


 アインシュタインの相対性理論以降この「質量保存の法則」はちょっと修正されていて


「質量・エネルギー保存の法則」


がより正しい、ということになっています。


 これは簡単に言えば、何かを作るということは資源とそれにかかるエネルギーが変換されたということだよ、というものです。



 だから、文化文明が発達して地球の資源を使い尽くせば、「近代的な完成物と成果が残って、資源はなくなる」ということになります。



 元ネタのほうでは、「そもそも地球を食いつぶす人間は悪なのか」という議論についても触れられていましたが、解脱者的には


「そもそも、人類の未来なんて太陽の寿命の範囲内にしか存在できない」


と思っていますので、 未来永劫人類の歴史が続くなんてそれが妄想です。


 おそかれ早かれ、ヒトは滅亡するので、心配無用です。



 人類が資源を食い尽くすことが善か悪かなんて、どうでもいいことです。それは、恐竜は悪だったから滅びたのか?とかそういう議論をしているのと同じで、


 完全に無意味


です。


 氷河期みたいな気候変動や隕石が落ちてくれば、ヒトだっていつ絶滅してもおかしくありません。



 あなたが明日クルマにぶつかって死ぬかもしれないのと同じことなのです。



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 解脱者は、神を意識ある存在とみなしていません。ただ淡々と物理科学の法則が動いているシステマチックではあるけれど無意図な存在だと考えています。



 その神のもっとも端的な表現が地球という存在であるとしたら、地球は「人間がいようが絶滅しようが、どうでもいいと思っている」に他ならないのです。



  だから、「地球にやさしい行動を心がける」なんてのはナンセンスで、「あんたがやさしくしてほしいだけなんじゃないの?」と思う始末。


 ましてやそういう人に限って、「ああしなさい、こうしなさい。これはやっちゃダメ」とか言いまくるので、


「地球に優しいということは、我々には優しくないということだ」


と言いたくなりますね。


 みなさん誤解していますが、プラスティックも麻薬も、化学物質もヘロインも、


「ぜーんぶ、自然からできたものなんだよ(きらりん!)」


 ということを忘れてはいけません。



 自然には、毒物も劇物も、人間を滅ぼすものも最初から内包されています。


 噴火すれば災害だ!と言いますが、ふだんは温泉に浸かって幸せ感じられるわけですから、人が自然に対する姿勢のほうが



 いかにええかげんか



ということがわかるものですね。












2016年9月22日木曜日

【解脱者・武庫川散歩の”真”哲学論5】 本当の宗教はどこにある?



 世界中の武庫川散歩ファンのみなさま、おまたせいたしました!


 これまで哲学領域にからめていろいろ好き放題書いてきましたが、いよいよ解脱者ムコガワのホームグラウンドである



♪ちゃーらー、ちゃーらー、ちゃーらーちゃらーちゃっ!


 シュウーキョウ!


(ここはピンクレディのあの曲で読んでください。ええ、かまいたちのネタです。)



の領域に差し掛かりました。




☆ 元ネタはこちら

いま世界の哲学者が考えていること
http://diamond.jp/articles/-/101911



 
(4)「宗教」は、私たちの心や行動にどう影響をおよぼすか?

【武庫川的哲学思想】 この武庫川散歩が、完全なる宗教を創始しようじゃなイカ。


 近現代とは、端的に言えば「科学と文化文明の発展による、宗教からの卒業」の時代であったと考えられています。


 ヨーロッパにおいては、ギリシア・ローマ以来の神的概念を、産業革命と科学の進歩によって修正し、より無神論へと傾いていくというのが欧米知識人の基本的スタンスであり、元ネタの記事ではそれを


「世俗化=社会と文化の諸領域が宗教の制度や象徴の支配から離脱するプロセス」


と定義しています。



 しかし、そのいかにも欧米的な発想に対するアンチテーゼとしてイスラム教を中心とする


「宗教・原理への復帰運動」


は日に日にエスカレートし、欧米知識層の一部にもそれに引き寄せられるものが出てくる始末、という現状なのは、みなさん知ってのとおりです。



 すでにメディアなどで取り上げられている通り、アメリカにおいてすらそうで、「アメリカ式保守本流」は、ゴリゴリのクリスチャンで


「科学がなんぼのもんじゃい!教科書に天地創造を載せんかいボケ!」


というスタンスであることは、業界をご存知の方には周知の事実になっていますね。



 一方、日本人は宗教への関心が薄いのですが、その分だけ


「心救われず、癒されず、ただメンヘラ地獄へと突き進んでいる」


人がどれだけ多いことか!という問題を抱えています。



 さすがに日本人が、イスラムに改宗するようなことは少ないと思いますが、ネトウヨ的な「神道・皇室への傾倒」ぐらいは起きてもおかしくない状況だと思われます。



  そこで、悟りをパックリ開いた(パックリ割れ、は小林製薬の登録商標です)このムコガワ散歩が、


 足の裏を診断したり、宙に浮いたりしないような



「完全なる宗教」



をみなさまに教示しよう!ということになりました。


  約して


 perfect religion → PR教団


あ!これパクリになるやつやー!!!!



 ちなみにPL教団さんは大正時代に創設された歴史ある宗教なんですよ。知ってましたか清原さん。


 で、教義はどちらかといえば「神道系」!


 パーフェクトリバティなんて名前なので、キリスト教風に見えますが、違うんです。



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 さて、ではこの武庫川散歩が創設した完全なる宗教とはどんな内容なのか、その教義をお伝えして参りましょう。




■ 物理科学の法則と矛盾することのない科学的な見地を持っていること。


■ 何者も崇拝・盲信しないこと。 


■ 現世における幸せを実現させること。


■ 苦しい修行や戒律などを否定すること。


■  多大な金銭と幸福を引換にしないこと。


■ あなた自身の心身が豊かになり、苦痛から開放されること。


■ 社会に反せず、現実に即して生きる教えであること。


■ あなたの心を救う、よりどころを提供すること。




 うーん、宗教なのか?まあ、哲学でもいいんだけどさ。


 これらの中身のエッセンスについては、既にこのブログに小出しで書いているので、


「武庫川がいわんとしていること」


は概ね当ブログを最初から読んだらわかるようになっているのですが。




 というわけで、私は確実にあなたを救います!


 迷える子羊は、いつでもお訪ねください。




 ちなみに迷える者が女性の場合は、掬った数だけお持ち帰りしますので、そこんとこよろしく。


・・・金魚か!!!!!



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次回はいよいよ最後です。


(5)私たちを取り巻く「地球環境」は、どうなっているか?

【武庫川的哲学思想】 滅びるまで、食らい尽くせばいいんじゃない?








【解脱者・武庫川散歩の”真”哲学論4】 資本主義というモンスター




 こんにちは。


 複雑に入り組んだ現代社会に、鋭いメスを入れ様々な謎や疑問を徹底的に究明するシリーズ、いよいよ第4回に入ります。



 今日のテーマは大物ですよ!なんと資本主義そのものについて、戦いを挑もうというのです!




☆ 元ネタはこちら

いま世界の哲学者が考えていること
http://diamond.jp/articles/-/101911




(3)「資本主義」という制度に、私たちはどう向き合えばいいか?

【武庫川的哲学思想】 資本は幻想だったのかもしれない。モンスターと化した資本主義。


 マルクス主義と共産主義システムの失敗によって、近現代の「時代の覇者」となった資本主義ですが、これが「人類の作った文化文明システムの完成形」と思われた時代がついに崩壊し


 資本主義の終わり



が囁かれるようになりました。実際、私たち先進国民にとっても「資本主義の限界や矛盾」が明らかになってきた今、「いよいよこのシステムは間違っていたのではないか」とさえ肌で感じる昨今です。


 哲学者たちも、この課題には切羽詰りながら取り組んでいることでしょう。


 そんな中近年最も注目を集めたのはピケティの「21世紀の資本」であり、 この本が言いたかったことは結局「格差社会を適切な再分配によって乗り切ろう」という一つの提案でありました。


 さて、資本主義をめぐる課題にはいろいろな要素が山ほどあるので、一口では語れないのですが、解脱者が



 資本主義の本質についても悟ってしまう



とこうなる、というお話を今日はしておきたいと思います。


 さて、どの経済の入門書を見ても、「資本主義とは何か」という説明をするときにはこんな話が出てきます。

”資本家と労働者がいて、資本家が資本を出して労働者に働かせて利益を生んで、うんちゃらかんちゃら”


 しかし、これはいわば「古典的」な資本主義の像であって、現代ではすでにこのレベルを大きく逸脱していることをまず理解する必要があるでしょう。


 たとえば、「人々がモノを欲しがっている状況」であれば、資本家が労働者をどんどん働かせれば、それだけ製品がたくさん出来上がり、利益も大きくすることができます。

 しかし、現代のように「もう全員がスマホを持ち、お風呂とトイレがほぼどの家にもある」ような状況になると、資本家がどれだけ注力し、労働者をどれだけ働かせても赤字になる一方です。


 こうした時代が来てしまうと、「古典的資本主義モデルでは、対応できない」ことになり、これがひとつの「資本主義の限界」を示しているということにもなるわけです。


 さらには、現代ではすでに国家という枠組みを超えて資本主義が世界を支配していますので、グローバル市場における相互作用と、各国の思惑などが複雑に絡み合うと、さらに混迷を極めるということが起きているのはご承知の通りですね。




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  しかし、それよりもむしろ「資本主義が本質的に体内に宿している化け物」についてしっかり押さえておくことにしましょう。

 そう!資本主義は本来モンスターであり、必ず人間に牙を向く問題点を内包している、ということはみなさんにとって驚きだろうと思います。


 それを解脱者流にわかりやすく説明してみるといたしましょう。



 まず、原始的な商取引というのは物々交換でした。


 Aさんの持つりんごとBさんの持つみかんがあって、それを交換してどちらもおいしくいただきました、というアレです。


 これはりんごとみかんの価値の差については別に譲るとして、基本的には等価交換ですから「質量保存の法則」にしたがっているし、数式の右辺と左辺が一緒になる意味でも、これはわかりやすいお話です。


 ところが、現代の商取引には「利益や利息」がかならず付随します。


 100円分のりんごは120円で売り買いされるというものです。


 ではこの20円分は、いったいどこからやってきた何者なのでしょうか?

 
 実は、この20円というモノの物質的な理由付けは、近代経済学においても


 よくわからない


 代物だったりするわけです。


 よくわからないから、私たちは必死で理由を考えます。流通経路において経費がかかるとか、需要と供給によってその価値が変動するとか、いろいろな理由付けを必死で後付けするのですが、


「仮にりんごが商品棚から落ちて、傷がついたとして、それを80円で売ることになっても別に流通経路にかかった費用が経るわけでもない」


し、さらには、もしそのりんごが人類にとって最後の1個であれば


「棚から落ちて傷がつこうが、りんごの存在価値は落ちる前とおなじでやっぱり最後の1個としての価値がある」


ことは変わらないわけです。


 じゃあ、なぜ80円になったり、ならなかったり、そもそもなぜ堕ちたら80円なのか、も誰にも説明がつかない結果論だったりすることは、とても大切な視点ですね。


 オークションなんかはその良い例で、このりんごが82円で落札されるのか、84円だったのかは、


 まさしくすべては結果論で後付けの理由でしか説明できない



ことがよくわかると思います。



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 資本主義が飼っているモンスターは、価値や価格といった「変幻自在に膨れ上がる何か」です。


 それは人間の欲望と思惑によって大きく膨れ上がり、時には小さくなってみせたりもするまさに妖怪のような存在だったりします。


 ただ、私たちの住むセカイは


「原子や分子といった、きちんと整合された物理科学の秩序ある世界」


ですから、すべての資本主義的融理論はどんなに膨れ上がっても最後は


「質量・エネルギー保存の法則」


によって、再計算・修正されるということを忘れてはいけません。


 つまり、平たくいえば「物々交換の世界における、そこにあるリアルなブツ」に引き戻される、ということです。


 バブル崩壊やリーマンショックはこれです。

 肥大化した貨幣としての金額が実態に見合っていないことがバレた瞬間、それらは一瞬にしてリアルなブツの価値分へと引き戻されるということが、資本主義社会ではかならず起こるようになっているのです。



 なぜなら、肥大化した分は、常に幻想だからです。




  
 仮に、世界が世界じゅうの資源を食い尽くした未来がやってくるとしましょう。その時には、貨幣をいくら山のように積んでも、一本のにんじんを持っているほうが勝ちなのです。

 あるいは、一個のじゃがいもを持っている者のほうが生き延びられることになります。


 にんじんとじゃがいもは交換される可能性を残していますが、それがそれぞれ最後のにんじんでありじゃがいもだったとすれば、そこに貨幣の介在する余地はもうありません。


 資本主義における貨幣価値という幻影は、やはり幻だったのだと言わざるを得ません。


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★追記)


 人間の欲望と思惑によって文化文明は肥大化してきましたが、資本主義の良かった点をひとつだけ挙げるとすれば、


「欲望と思惑の肥大化とその実際の入手は、旧来であれば物理的収奪(戦争と暴力)によってなされたが、マネーゲームのおかげで、その戦いは貨幣を通じてなされることになったため、人が直接的に暴力に晒される機会は減った」


ということでしょうか。


 もちろんマネーゲームで自殺するはめになったりすることはありますが、物理的戦争が確実に減少したことは事実だと思います。




 
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残り2ネタあります。つづく。
 
(4)「宗教」は、私たちの心や行動にどう影響をおよぼすか?

【武庫川的哲学思想】 この武庫川散歩が、完全なる宗教を創始しようじゃなイカ。




(5)私たちを取り巻く「地球環境」は、どうなっているか?

【武庫川的哲学思想】 滅びるまで、食らい尽くせばいいんじゃない?

【解脱者・武庫川散歩の”真”哲学論3】 ヒトは進化してニュータイプへと生まれ変わるのだ! 親父にもぶたれたことないのに!

 
綺麗なお姉さんにぶたれたい!、とは思わない武庫川散歩です。こんにちは。


 Mというより、どちらかといえばSです。こんばんは。





 稀代の哲学者、武庫川散歩がかぎりなく一人語りをするというこのコーナー。

 今日は連載の第3回目です。


  現代の哲学者がテーマにしているという5つの問題。



 前回はITの進化についてやりました。今回は2つめに行きます。




☆ 元ネタはこちら

いま世界の哲学者が考えていること
http://diamond.jp/articles/-/101911




(2)「バイオテクノロジー」は、私たちをどこに導くか?

 【武庫川的哲学思想】やりたいようにやればいい。それが幸せかどうかはわからない。



 遺伝子組み換え作物やら、試験管ベイビーやら、人間はとにかく「いじれそうなものを見ると、ついいじってしまう」病をやめられない生き物のようです。


 原子爆弾が作れそうだから作っちゃう、とか。新しい元素が作れそうだから作っちゃう、とか。

 妻じゃないんだけど「なんだか今日いけそうな気がする~♪」からついつい子供も作っちゃう、とか。

 
 それはもう、手になんかついたらつい臭いをかいでしまうくらい、「避けようがない人間のサガ」なのかもしれません。


 元ネタの記事では、パーフェクト・・・ポスト・ヒューマンなる言葉が出ていました。


 新しい時代の新しい人類、なんていい方をすればスマートな方で、ぶっちゃけて言えば


「遺伝子組み換え人間」


のことです。どんな進化をするのかわかったもんじゃありません。


 倫理学や宗教学的には「神の作りたもうた人間に手を加えることは許されないのではないか?」と考えられる側面もありますが、実態としては人というものは、


「できそうだと、ついやってしまう」


ので。レオポンとかタイゴンとか、獣神サンダーライガー!とかをついつい作ってしまい、そして後から


「ちょっと可哀想だな、やっちまった」


と思うのです。




==========








 したがって、これからヒトが行うであろう「ホモ・サピエンスに対する遺伝子操作」は避けようがないと思います。


 そうでなくても、人類は10万年もの時間をかけて「勝手に」進化や変化を遂げてきているので、そこに人為的な何かを加えても、



 べつにどうってことはありません



が、何かあった時にあとで後悔してもしらんもんね、ということだけは先に言っておくべきでしょう。



 残念なことに、この地球上では「絶滅した生物」がたくさんいます。ヒトだけがそれを逃れられる、と考えるのは全くの見当違いで、


「何かをやらかしたら、いつでも死ねる」


状態にあることだけは忘れてはいけません。


 解脱者からすれば、この世は無常なので、別にそうなったらそうなったで仕方ないよね、ということでもありますが、世間のたいていの人はそこまで覚悟がありません。


 ですから、慎重になるべきだ!という意見もあるでしょう。


 しかし「人を殺さないべきだ!」と主張したって、人は毎日人を殺すのですから、これはもはや止められないことだけは知っておくことが必要です。




 ==========


  最後に、人間に遺伝子操作を応用しようとしている試みについていくつか紹介しておきます。


 ほら、みんなやっちまいそうでしょ?



 遺伝子組み換えで、自分の子供をデザインする話
 https://courrier.jp/news/archives/6113/


 暴走するあの国の研究者が、やっちまう話
 https://courrier.jp/news/archives/6124/
 



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残り3つです。これまた次回へつづく。


(3)「資本主義」という制度に、私たちはどう向き合えばいいか?

【武庫川的哲学思想】 資本は幻想だったのかもしれない。モンスターと化した資本主義。




(4)「宗教」は、私たちの心や行動にどう影響をおよぼすか?

【武庫川的哲学思想】 この武庫川散歩が、完全なる宗教を創始しようじゃなイカ。




(5)私たちを取り巻く「地球環境」は、どうなっているか?

【武庫川的哲学思想】 滅びるまで、食らい尽くせばいいんじゃない?







2016年9月21日水曜日

【解脱者・武庫川散歩の”真”哲学論2】 電子化されるセックス



 どうも。稀代の哲学者、武庫川散歩です。


 武庫川散歩がズンドコベロンチョと哲学を語る新連載、今日は第2回目ということで、前回までの宿題に取り組むことにしましょう。


 
 現代の哲学者がテーマにしているという5つの問題。それを武庫川的にも考えてみようという


 タダ乗り


コーナーですね。では、はじまりはじまり。


☆ 元ネタはこちら

いま世界の哲学者が考えていること
http://diamond.jp/articles/-/101911







(1)「IT革命」は、私たちに何をもたらすか?

【武庫川的哲学思想】 メシとクソと生殖以外は、すべて電子化される!

 岡本さんの記事では「管理社会」として、IT技術によって私たちの行動が監視・管理される時代がくることについて言及されていました。

 このことは、ネットをしていると「どこからワシの変態志向を知ったんだ?」と思うくらいに、自分たちに「適したと思われる」バナー広告が次々に示されることなどからも実感していると思います。


 しかし、武庫川が指摘するのはその側面よりも、


 ”IT技術は、大脳新皮質を代替する”


という点を宣言しておきたいと思います。


 動物、とくに哺乳類などにおいて、生きるのに必要な「食う・息をする・心臓を動かす」などの働きは、脳みその中心部分でコントロールされていますが、「感情やら言語やら、何かを読み取る」などの高度な働きは、「脳みその比較的外側の発達によってなされている」ことがわかってきています。


 IT技術が進歩して生じたことは、「音声・言語・画像・文章・動画」などの表現については、


「すべてITメディア上に置き換えられる」


ということが実際に起こってきました。


 それを人間の知覚で説明すると、

「視覚・聴覚は100%近くITに置き換えて提供できる」

ということになります。

「触覚は現在発達中、嗅覚と味覚はITでは難しい」

ということも言えるでしょう。


 新しいiphone7では、ボタンを実際には押さずに「押したような感じのフィードバックがある」とされています。これは触角の分野にITが進出しようとしている一例かもしれません。


 興味深いことに、仮想現実や拡張現実という技術を使うことによって、 今後は「脳みそがコントロールしていた領域」にどんどんITが入りこんでくることは否定できず、それはすでに性行為の分野にまで及んでいることです。


 国内外のアダルトサービスに、遠隔操作でバイブレーションが動くという代物があり、実際にそうしたサービスが提供されているのですが、一部の研究者は真剣に「実際に二人がそこに出会うことなく、擬似的な性行為が完成できるようなシステム」を作ろうとしていることも事実なのです。


 もし、目で見て楽しみ、音を楽しみ、快感ですらITで楽しめるようになるのであるとすれば、タイトルに書いたように


「メシとクソとフロとネルと生殖以外は、全部ネットで事足りる時代」


がやってくる、ということになるわけです。






==========



 視覚や聴覚ですら、電子情報に置き換えられるのであるとすれば、そもそも脳は電気信号で動いているわけですから、原理的には


「見るべき対象としてのモノは存在しなくてもいい」


ということになります。仮に、モノの画像データと、周辺の音データと、触感データだけを脳みその電極にぶっ刺してやれば、


「そこに何も存在しないのに、確かにモノが存在する世界」


が出来上がることになります。


 そういう意味でも、武庫川の根底にある「世界は存在しないけれども、存在するように感じるんだ」ということと話が繋がってきますね。


 そして、それは、すでに現実になりつつある、ということなのです。




 ==========

 

 面白いことに、ネット社会が生まれたことで、「労働・生産」ですら「存在しないのに、存在するもの」に向けられるようになりました。


 「モンスターストライク」でも「白猫プロジェクト」でもなんでもいいけれど、スマートフォンのアプリを作るということは、


一体何を生み出している


というのでしょうか?


 これまでのセカイは、大根を出荷するとか、CDや本を売るとか、ファミコンカセットを販売するとか、そういう


「実態としてのモノ」


を商品として取り扱ってきました。


 ところが、スマホのアプリは、単なるデータであり、実態がありません。そして無限に複製できるので、資源や資産の変換物としては規定できません。

 ある限定された環境(アンドロイドやiOSでは動くけれど、DOSやソラリスでは動かない)でしか、実働できないものでもあります。



 しかしそうした実態のない商品が「成果物として売上を上げている」わけです。


 それは、プログラマの実働時間や働かせた頭脳や、マーケティングに関わった人たちのアイデアなどを労働対価として成立しています。



 とすれば、すでに「概念を生み出す行動を労働と呼べる時代」へ突入したことになるわけです。



 概念はすでに、モノに限りなく近いものとして存在し始めているのです。




==========



 ここで、哲学的な問いをひとつだけみなさんに提示してみたいと思います。


 Q「タモリの弔辞は存在するか、それとも存在しないか」


 まるで、禅問答や公案のようですが、これは今日のおさらいにあたる発問です。



 赤塚不二夫氏がなくなった時、その弟子と言ってもよかったタモリさんは、彼の霊前で淡々と弔辞を読み上げました。


 ところが、後で判明したところによると、タモリさんは、真っ白な紙をまるで何かが書いてあるかのように読み上げており、そこには何も書かれていなかった、というのです。


 さて、タモリの弔辞は、この世に存在したのか、それとも存在しなかったのか。



 物理的に書かれたものや、書き留められたものが存在しない、ということは明らかです。

 しかし、タモリさんは、実際に弔辞を”読み上げ”、その声は万人が知るところとなりました。


 実際にその音声を書き写したものは、ネットにもたくさん転がっています。



 あるいは、もし、タモリさんがこれを読み上げずに、心の中で思っていただけなら、その時


「タモリの弔辞は存在しなかった」


といえるでしょうか?


 彼は、白紙を見ながら、その瞬間に思いついたことを発声しましたが、声にしたから存在して、声にしなかったから存在しなかったというのであれば、


 存在は単に声帯が震えたかどうかによって決定する


ということになります。これはナンセンスですね。


 仮に指で空中に書いても概念は存在し得ます。身振りで示してもOKです。ましてや、何もせずに思い描いただけでも、


「タモリの弔辞は、たしかに存在した」


とこのセカイでは言えるはずなのです。



 だから、私たちは単なるプログラム(それも書き起こされる前のアイデアや概念の段階についても)対価を払い、給与を支払うことができるのです。


あるいは、前回の話に出てきた、「ユニコーンは存在する」ということもそうです。



 ==========



2項以降は、次回から続きをやります。




(2)「バイオテクノロジー」は、私たちをどこに導くか?

 【武庫川的哲学思想】やりたいようにやればいい。それが幸せかどうかはわからない。




(3)「資本主義」という制度に、私たちはどう向き合えばいいか?

【武庫川的哲学思想】 資本は幻想だったのかもしれない。モンスターと化した資本主義。




(4)「宗教」は、私たちの心や行動にどう影響をおよぼすか?

【武庫川的哲学思想】 この武庫川散歩が、完全なる宗教を創始しようじゃなイカ。




(5)私たちを取り巻く「地球環境」は、どうなっているか?

【武庫川的哲学思想】 滅びるまで、食らい尽くせばいいんじゃない?







2016年9月20日火曜日

【解脱者・武庫川散歩の”真”哲学論1】 なぜ世界は存在しないのか。 ~21世紀の哲学の潮流を追う~



 どうも、稀代の天才にして変態、パンツまで解脱した男、武庫川散歩です。






 前回まで5回くらい、ギャグなしの記事を書き続けていたので、そろそろ禁断症状が出ているらしく、今日からいつものテイストに戻ろうと思っています。


 性懲りもなく、また「セカイ系一人語り」をはじめるわけですが、せっかく先日までの連載で「この世界で起こっていること、これから起こること」に注目したので、今度はリアルな世界からちょっと離れて、観念的なほう=哲学かいわい、についてお話しようと思います。


 
 その前に、予習として、ダイヤモンドオンラインで連載中の



 いま世界の哲学者が考えていること(岡本裕一朗)
 http://diamond.jp/category/s-sekainotetugakusyagakangaeteiru




という連載を、ある程度読んでおいていただければ、理解が早まると思います。


 まあ、哲学がテーマですから、「小難しいこと」もたくさん↑には書いてありますが、武庫川のお話は「中学生でもわかるように平易なことばで」書くことを基本にしていますから、ご安心を。


 けして、ストライクゾーンが中学生(ロリ)なわけではないことを、誤解なきよう。



==========


 哲学を学びたい!という人は、実際に大学の哲学科に行ったりすると全員が「一回は、肩透かしを食らう」のですが、その理由は簡単で、


 「自分はセカイの成り立ちについて知りたいのに、大学では哲学の歴史について延々と習う」


からだったりします。


 このことは前もどこかで書きましたが、


「小説家になりたくて文学部へ行っても、小説の書き方を学ぶどころか、わけのわからん古典から明治くらいまでの小説をいろいろ読まされるだけ」


だという現実に似ています。



 つまり、大学というところは、「これまでに生じた先行的なものを後から追いかけて整理して理解する」ということが学問なのであって、


「まったく新しいあなただけの何かを生み出す、ベンチャー企業のような手法は教えてくれない」


ことを理解する必要があるというわけです。




 しかし、今日紹介した連載を読むと、これまでのように、「古典から順繰りと哲学の歴史を習う」というだけでは、現代のさまざまな新しいセカイの問題や課題に対処できないため、



 まるでITベンチャーが生まれるように、哲学にも新しい潮流が生まれてきている



ことも、知っておくと良い、ということになるでしょう。


 簡単にまとめると、哲学は以下のように発展してきました。


<認識の時代>・・・自分とは何か。世界を認識するとはどういうことか。何を見て知覚するか、といったことに着目した時代。

<ことばの時代>・・・概念や思考はことばに由来する。では異なる言語間では共通理解は得られるのか?「善悪や正義」も異なる言語や国の間ではズレがあるように、相対的なものなのではないか、といった考え方をした時代。


 これらは、いわゆる数学や科学の発展とリンクし、先進国における高度な文明のように論理的に構築されてきましたが、 その限界が見えはじめると、

「心やコミュニケーション」

といった自然的なものを取り上げるような、新しい哲学の潮流が生まれた、といいます。


(よくわからんけどwww)






 そんな中で、記事の著者、岡本さんが取り上げているのが「マルクス・ガブリエル」なる哲学者の論で、その名も


「なぜ世界は存在しないのか」(2013)


という著作!




 まるで武庫川散歩が、このブログで書いているのと同一の話なので、ムコガワもビビビッとくるのですが、 本質的に言ってることは私とおなじです。


 ちなみに、ガブリエルかヒキガエルかなんぼのもんか知りませんが、ムコガワがこの説を提唱したのは、大学1年生の時(18か19歳)ですから、



 今から23年前、1993年のこと



なので、か、勝った!!!!ワシのほうが早かったもんね!!!


と声を大にして主張するところだったりします。(←バカ)





 ガブリエルの論の立て方は2つほど例を挙げて説明しましょう。


ひとつめは(別サイトからの引用ですが)



「世界」は存在できるのかhttp://globe.asahi.com/bestseller/2013091200025.html


ではこんな話が出ています。


” 太陽系の惑星、水洗トイレ、はげ、素粒子は存在する。存在しないのはこれらすべてを含むとされる『世界』のほうだ」”


 斎藤さんだぞ。


”古代ギリシャ以来、哲学者がその存在を前提としてきた「世界」を、ガブリエルは、個々の事象をすべて収容できる巨大テントにたとえる。テント全体を見よう とする人は外に出なければいけない。外に出た途端、今までのテントと、それを外で眺めている人を収容できるもっと大きなテント(=世界)の想定が必要にな る。こうして少し前まで「世界」とされていたものも、ただのテント(=個別の事象)に転落。これが「世界」が存在できない理由だそうだ。 ”


”ガブリエル教授の業績は「世界」の存在を否定しても、個々の事象の存在を意味と関連させて肯定する点にある”


 これをムコガワ式に説明すると、こういうことになります。


 つまり、世界はテントの内側にあって、その外側がどうなっているかはわからない。その外側を規定すると、プログラムの中の「RPGゲーム」とおなじことになり、それは単なるプログラムと同化する、というわけです。


 セカイの外側に神様や創造主がいるかもしれないけれど、そうだとしてもやっぱりこのセカイは箱庭の中のコマに過ぎなくなる、というイメージでもよいでしょう。


 そして、ガブリエルとムコガワの共通点は、最後の一文で決定付けられます。


「もしセカイが存在しないとしても、その中にいる我々にとっては【存在するように感じられる】のだから、その内側の我々にとって【存在すると感じられるもの】は肯定するんだ」


ということで、これはムコガワと合致します。


 内側にいる人類は、どうしようもないじゃん、ということでもありますね。


 ガブリエルが面白いのは、もとの記事に戻りますが、私達が目で見て知っているいろいろなモノだけでなく、


物理的な対象だけでなく、それに関する「思想」「心」「感情」「信念」、さらには一角獣のような「空想」さえも、存在すると考える”
 

という点です。


 私たちは一角獣を存在しないと思っていますが、少し考え方を変えれば、世界中が熱狂しているように「ポケモン」はセカイに存在するし、ピカチューはあまたのプログラムの中に存在します。

 プログラムは電気を通じないと動かないけれど、プログラム言語に記載された瞬間に、「存在」として現存するわけですから、そこに電気が流れなくても存在していることになるのです。


 つまり、ポケモンは空想上の「思い描いただけで、実態をもたない」一角獣と同等に、存在することになる!というわけです。



 ガブリエルの考え方はムコガワと同じで、逆説的です。


「セカイは存在しないけれど、存在すると感じ取れる内側ではちゃんと存在する」

じゃあ、

「プログラムのような実態を伴わないものも存在するのだから、プログラムが実は存在しないように、我々のセカイも存在しないのでは?」


 という、逆説論になっているわけですね。




==========


 さて、連載の第6回では、現代の哲学者が考えている5つの問題について取り上げられていますが、せっかくなので、ムコガワもそれに乗っかることにしましょう。


 次回はそのあたりを、攻めてみたいと思います。





 


 




















2016年9月19日月曜日

生きづらさを抱えた人たちに、何ができるのか。 〜解脱者、セカイを救う〜



 先日より、ずっと気になっているニャートさんのブログが、ちょっとした議論を巻き起こしているらしいので、まずはそこから紹介しておく。




 生きづらい人々の受け皿がプロブロガーしかない問題(BLOGOS)
 http://blogos.com/article/191004/?p=1




 この記事は、簡単に言えば大学を卒業して会社に就職して、多くの人はそのまま会社員人生をまっとうするのだが、そこから逸脱した人間に対しては、セーフティネットややりなおしが効かないので、「ちょっと怪しい(情報商材的)プロブロガー」に引き寄せられてしまう、というものであった。



 ところがこの記事のBOLOGOSコメントを見ると、「転職を繰り替えす人生を送っていて、成功している人もいる」とか、「さすがに、(怪しい)プロブロガーしかない、っちゅうことはないぞ」といったツッコミも多く見られるわけで、心やさしい武庫川としては


 そうしたある意味正論でもある厳しいコメントを受けて、ニャートさんが落ち込んだりしないかが、ちょっと心配になったりする。







 大上段に宣言しておくが、解脱者武庫川散歩は、女性にはやさしいのだ。(むろん、男性には厳しい)





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 もちろん、ニャートさんの論調が「ブロガー」に偏っているのは、その話の元ネタが、



 4か月で大学を中退し起業します。
 http://www.ishidanohanashi.com/entry/2016/09/15/193000



というI君という男子のブログ記事であるからであって、さすがに「会社員以外の選択肢がブロガーしかない」ということではないだろう。


 ちなみに、私は男子には厳しいので、前回セカイネタでお話したように、「イス取りゲームから脱落してくれる相手」がいることは、



 たいへんに望ましい



ことであると考える。むしろ、多くの男子の本音は、そこにあるとおもわれ。







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  ここで、武庫川の身の上話をするとすれば、武庫川は転職もしているし、病気にもなったし、無職だった時期もたぶんあるし、今はかろうじて職を得て世をしのぶ仮の姿で生きているのだが、


 大型免許を持っている



ので、ブロガー以外にも、口に糊することはできそうだし、



旧情報処理技術者資格のはしくれも持っている


ので、コンピュータの世界に造詣がないわけでもない。


 要するに、コメントを寄せている多くの方と同じように、「ブロガー以外にも生きていく方法はたくさんある」ということはわかっているのだが、それは本質論から離れていくのでここでは一旦脇に置いておきたい。





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 ニャートさんがこの記事で言いたいことは、おそらくは以下のようなことだと思う。



■ 社会の一定のレールに乗れない、あるいは降りた人たちが、ヒッピーや、新興宗教や、自己啓発セミナーやマルチ商法にのめり込んだりして、「新しい生き方を模索する」手段があったが、新時代にはブロガーという方法が出てきた。


■ その中には、「心の病」などで、降りざるを得なかった人たちがいて、彼らがある種搾取されてしまうのは、問題だと感じる。


■ しかし、自分も人の子であるから、そうした弱みに希望を見せられたら、ひっかかってしまうかもしれない。


■ ああ、弱った人たちが守られる社会であったらなあ。



・・・・こういう単純な願いであろうと思うのである。



 そして彼女がいうには、「そうなってしまった人たちが、罠に搦めとられずに、なんとかしのいで、できれば復活してゆくための方法(ライフハック)や、援助のシステムを生み出せないものか」ということなのである。



 この考えには、解脱者も全面的に賛成する。



==========



 何度かこのブログに書いているが、諸事情で武庫川はメンタルに問題を抱えた人たちに、結果的に手を差し伸べた経験が何度もあり、うまくいったものもあれば、うまくいかなかったものもある。


 なぜそういう役回りなのかは、世の忍ぶ仮の姿での昔の仕事やら、悟りを開く前の某JWの信仰やら、いろいろな事情が複雑に絡み合っているのだが、それは、私のことを知っている人にはきちんと説明しているので、ここで書かなくてもよい。



  彼らの中には、情緒に問題がある者もいたし、レイプされた女子もいたし、望まぬ妊娠に悩んだものや、おそらくボーダー(境界例)の可能性があるものや、パニック障害を患う者もいた。




 そうした生きづらさを抱えた人たちを最終的に、救うとまではいかないまでも、ある程度社会復帰をできるように支援するモノとは何であったかをずっと思い出しているのだが、そこには2つの重大なポイントがあると感じる。




ひとつめは、なんと言っても「経済力」だ。



 いくら偉そうなことを言っても、ご飯が食べられなくてはいかんともしがたい。だから、武庫川が支援したアホな女子の中には、「風俗で働こう」とか、「男のところへ転がり込む」的な発想になってしまった者もいる。


 とにかく、ある程度の現金は必要なので、武庫川は金銭的援助をしたことだってある。


 ニャートさんが、「プロブロガー」にふらふらと吸い寄せられそうになるのは、「そこに稼ぐ力」があることに、気づいているからである。


 そしてできれば、親御さんの力を借りられれば、それに越したことはない。






 しかし、ふたつめのほうが重要だったりする。それは「愛」である。


 ああ!まるでキリストの説く隣人愛のようになってしまったが、支援者から見れば、「何としても力になろう」という意志であり、支援されるものから見れば


「ああ、わたしは一人ではない。わたしには味方がいる」


という確信以外の何者でもない。



 この「味方がいる」という確信ほど、力の源泉になるものはない、と解脱者は思っている。



 しかし、この世知辛い世の中のこと、ふつうに考えれば「何の見返りもなく味方になることや、なってくれること」というのは意外に難しい。


 先に支援が「失敗した」話もしたが、味方をするということは、時には「本人が拒絶をしても、応援できるか」という問題を孕む。


(このことは、性善説の人にはよくわからないかもしれないが、メンタル系の方を相手にしているとかなりの頻度で生じる。彼らは多々、支援者を非難し、良いと思われる方向と真逆の方向に進もうとするのである)


 これを支援者が乗り越えるには、キリストのような愛の精神を持っていないとできないのだ。





==========



 ニャートさんは、「生きづらさを抱えた人」がその後の人生を送るための「ライフハック」や「システム」に興味がある、という。


 解脱者武庫川は、それより本質的な「そもそも、心が壊れないための、軸足」のようなものを伝えてゆこうと思っている。



 わたしは、「あなたの心を壊さない」という大きなテーマに挑戦しようというわけだ。


 それが、宗教的に言えば「悟り」であるし、宗教色を排しても、充分に成立する「生き方・生き様そのもの」であると考える。



 だから、まずは宣言しておく。



 『ニャートさん、セカイがあなたの敵となっても、私はあなたの味方をする。だから、落ち着いて、穏やかに、あなたのやりたいと思ったことにチャレンジしてください』


と。














2016年9月18日日曜日

【解脱者、セカイを語る 4】 このセカイを突き動かしているのは、たったひとつの「あるもの」だった。 ~キミはその罠から逃れられない~



 ちょうど、「セカイを語る」連載を書いている途中ですが、興味深い記事があったのでまずはご紹介しましょう。




高収入でも「他人の幸福は飯がまずい」人は富裕層になれない(プレジデントオンライン)
http://president.jp/articles/-/20185

http://blogos.com/article/190728/



 記事の基本テイストは「お金持ち(富裕層になる)」ということなのですが、それ以外に着目してほしい個所が何点かあります。



 まず、最初のポイントは


【1】 人は他人より金持ちでいたい生き物である、ということ。


そして、それは単に金銭の問題ではなく、二つ目のポイントがあり、


【2】 人は他人よりもよい地位にいたい生き物である、ということ。


です。


 この2つの人間の「性(サガ)」を知っておくと、これまでにお話してきたことが、さらに補完され、分かりやすくなるでしょう。




 さて、今日の本題へと入ってゆきます。


 セカイを取り巻く課題や問題の陰に「宗教」があり、「格差」があり、「人種・民族」の問題があったことは、すでに話してきたとおりです。


 しかし、ひとつの国が移民や混血などで、多くの民族や人種が入り混じるようになると、セカイはある意味で均質化してゆくのではないか、ということも想定として挙げてみました。



 ところが、解脱者ムコガワは、「そうはならない。必ずもっと対立が起きる」と予言しました。今日はその種あかしをしようと思います。



 前回、セカイの文明や文化は、ある意味で「ピークを迎えて、頂点へ言ってしまったので、オワリだ」とも言いました。


 今日はちょっとだけ、その補足から話を始めます。


 セカイの文明が頂点を迎えたということは、ただ単にこれ以上発展しない、という意味だけではありません。


 発展が限定的になると、「先が見え」ますから、後進国は、「先進国だけそれを手に入れてずるい!」 と考えます。そして先進国は、できるだけ「後進国には、おなじ思いをさせないようにしたい」と考えるようになります。



 核拡散防止条約などは、その最たるもので「もうこれ以上、核兵器を持つ有利なものを増やしたくない」というのが、先進国のひとつの本音である、というわけです。




 あるいは、ウナギやマグロなどがそうなのですが、「ウナギやマグロを食べる文化が広がると、それぞれの国でウナギやマグロの獲得合戦が起きる」ので、これからこうした魚介類はどんどん価格が上がります。



 そうなのです。セカイのオワリが見えると、それ以上の発展によってそちらを追い求めることができなくなるので、「イス取りゲーム」や「ポジション合戦」が始まるのです。



 これが、最初に引用した記事へとつながってきます。



 セカイは、すでに、「ピークを迎えて、イス取りゲームが始まっている」ということです。


 そして、その時セカイは


「他者よりも、たくさん手に入れたい!と考えて、他者よりも強い地位にいたい!と考える」


ということなのです。




 だから、争いが起こります。



 セカイは、壮大なイス取りゲームへと突き進みます。それは「自分がより良い立場を手に入れられるように!」ということなのです。




==========


 解脱者は、このセカイの成り立ちを、究極的には「生き物のありよう」を通して考えています。


 ですから、「労働」は食料を手に入れることの変形だし、「お金」は食料をいかに貯めるかということの変形だと考えています。


 よりよい立場、地位とはその文字からもわかるように「より豊かな土地、住み場所」を意味していると考えるのです。



 ですから、ここからはとても大切ですが、


「最終的には、セカイが争うのはお金ではなく、土地を巡って争う」


ということを解脱者は予言します。


 セカイを突き動かしているのは「土地をめぐる立場」であり、土地が戦争や対立を引き起こすというのです。



 世界中に離反したユダヤ人は、各地で経済活動を努力してお金持ちになりました。


 しかし、お金をいくら稼いでも、彼らが欲しがったのは、祖先の地であり、安住の地である「イスラエル(カナン)という土地」でした。


 その土地は、永遠の紛争に苛まされています。


  イスラム国が「国」を名乗り、かつてのイスラム帝国の領土を復活させようとしているのも、同じことです。


 中国が尖閣諸島や各地で紛争を起すのも「土地」をめぐってのことです。


 すべては「土地」なのです。



==========




 最初の記事に戻りましょう。私たち人間は、「お金をめぐっても争うが、より『立場』を巡って争う」という点が、似ていると思いませんか?


「経済力をめぐってよりも、土地を巡って争う」


ことのほうがはるかに多いのは、こういうことなのです。



 こうした「土地をめぐる観点」からセカイを考える学問があるのですが、その名を「地政学」と言います。


 地球が丸く有限であるように、このセカイの発展が有限であるとしたら、その中でもポジション争いはいっそう激しくなるでしょう。


 その意味では、今後は地政学が大きなポイントになると言っても過言ではありません。




 ★あなたの人生が、地政学的な視点に大きく支配されている、と言えば驚くでしょうか?


 あなたが幸せであるのも、現在不幸せであるのも、実は地政学と大きな関係があります。


 この話は長くなるので、また別にお話することにしましょう。






































 


【解脱者、セカイを語る 3】 キミたちが思い描いた理想は、まやかしで誤りだ! ~セカイは必ず破滅へ進む~




 前回のお話は、「セカイの文化文明の発展は、ピークを迎えている」ということでした。


  私たちは、「成長し、より良くなり、より発展し伸びることは正しいし、正義だ」と考えてきましたが、ピークを迎えたが故に、



「思っても見なかったことがわかった」



という場面に遭遇していることも事実です。



 2つの例を挙げましょう。



 長生きすることは良いことで、すばらしいことだと私たちは思い続けてきました。


 ところが、いざ長寿世界一になってみると、フタを開けたら介護の問題やら、医療費の高騰やら、寝たきりやら認知症やら、


 長生きすることがピークまで行ったことで判明した弊害


がどんどんと増えてきていることに気付かされています。


 これに対する答えは


 スウェーデンにはなぜ「寝たきり老人がいないのか」(現代ビジネス)
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/45510


という記事を読めばすぐにわかります。




 簡単に言えば、「長生きは善ではない、適当なところでポックリ逝くのが真の幸せだ」ということなのです。


 発展し、伸び続けることは善ではなかったのです。それよりも、子孫を残して次の代へ早く繋ぎ、子孫を繁栄させることのほうが大事だった、といいうわけです。





 もう一つの例は「核」の利用です。


 最強の兵器、核兵器に行き着いてしまった今、この兵器はまともに使われることはありません。

 放射能による影響を含めて、「とんでもないこと」になるのがわかっているからです。


 それどころか、原子力発電所から出たゴミを埋めるだけで


 10万年管理


しなくてはならないことまでわかってきました。



 ちなみに10万年といえばホモ・サピエンスが現世人類へと進化した期間と全く同じです。



 人類の全ての歴史をかけてまで、「核」を利用するべきなんだろうか?


というものすごい問いがそこにあるのですが、セカイはみなそれに目をつむっているのです。



 
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 この2つの例以外にも「これまでに良いとされていたことが、実は悪かった」ということは山ほどあります。


 それほどまでに、善悪というのは定義できない難しいものなのです。



 

 さて、それでは今日の本題に入りましょう。前回の終わりに、これからの時代は「ハルマゲドンで末法だ」ということをお話しました。第一回では「宗教に絡んだ対立が深まる」ということもお話しました。



 そしてこの第三回では、



 これから起きるであろう、世界の動乱



について語る、と予告していましたね。いよいよ、そのお話をしましょう。




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 私達が思い描いていた理想の姿、「セカイ平和・平和なセカイ」とはどんなものだったでしょうか?


 ワタクシ武庫川は今日のタイトルで、「理想はまやかしで誤りだ。そして破滅へ進む」ということを大々的に書きましたが、果たしてそれはどんな意味なのでしょうか?



 現在の日本の教育では、「世界はグローバル化していて、若者はこれから世界に出てどんどん活躍して欲しい」とか、「世界中がみな仲良くして、平和な世界を作っていこう」とか、そういう理想論が今日も語られています。


 しかし、現実は、ちょっと違います。今世界で起きているのはその理想とやや異なった現象なのです。



 ある国の人間が、別の国の人間を自国に迎え入れる時は、そこにかならず「そいつは使えるかどうか」ということが裏に隠れています。


 アメリカには面白い制度があって、日本人であるあなたがアメリカで働きたいときに、まず「優秀で何らかの技能があるからアメリカで活躍したい」と考えたとしましょう。すると、アメリカではこんな審査をするというのです。


「もし、アメリカに、同じ技能を持つ人間がいて、国内で人材が事足りる場合は、就労を認めず入国させない」


という審査です。



 わかるでしょうか?あなたが「使える人材であればOKだが、そこらへんにいるアメリカ人でもいけるなら、アウトだ」ということなのです。



 この考え方はとても大事ですから、覚えておきましょう。



 異国で働くということは、すべて根底にこの考え方があり、これがグローバルであることの真実なのです。


 逆に言えば、ヨーロッパで起きている移民問題は、これの変形バージョンだといえるでしょう。


 つまり、こうです。


「あなたが、国内の人間よりも格安で使える人材なら、来ていいよ」


ということ。それが真実です。


(ちなみに、日本に出稼ぎや研修生で来ているアジア人の給料はおなじ仕事をしている日本人の3分の1です)



 なので、「グローバル社会」とか「他の国の人と仲良く」といった表向きのことばの裏には、「海外や外国人から搾取し、格差を生む」という実態が隠れている、ということなのです。



 こうした問題が、「移民問題や英国のEU離脱」などへと繋がってゆくのです。




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 ではここで、もし仮にセカイが「理想主義者たちの理想どおりになったとしたら」ということを妄想してみたいと思います。


 理想と現実が異なるから、グローバルなセカイはうまくいかないのでしょうか?それとも、やっぱりセカイはうまくいかないのでしょうか。


 「世界のみんながグローバルな社会になって、みんなが活躍できるセカイ」


が実現したと仮定しましょう。


 そのセカイは、たとえば


「アメリカには、白人と黒人とヒスパニックと中国人と日本人とアジア人とインド人が同じくらいいる社会」

ということになります。


(これは、意外と実現していますね。アメリカはもともと移民社会ですから、そうなります)

 
 そして、そのセカイは

「アフリカにも、白人と黒人とヒスパニックと中国人と日本人とアジア人とインド人が同じくらいいる社会」



「フランスにも、白人と黒人とヒスパニックと中国人と日本人とアジア人とインド人が同じくらいいる社会」



「日本にも、白人と黒人とヒスパニックと中国人と日本人とアジア人とインド人が同じくらいいる社会」

で、スウェーデンも、スイスも、バチカンも、インドも中国もフィリピンもぜーんぶ、


 「白人と黒人とヒスパニックと中国人と日本人とアジア人とインド人が同じくらいいる社会」


になる、つまり人種は均質化してゆくというセカイがやってくるということなのです。



 アメリカは一応それで成立しているし、EU各国でも同じようなことが起こっています。


 先進国は「それが一種の理想だ」と思っていますから、日本にも「もっと移民を受け入れて少子化対策をして、成長を維持するべきだ」という論調の人はたくさんいます。



 現に、フランスには黒人がたくさんいます。リュック・ベッソンの映画でTAXIの主人公を演じたサミー・ナセリという俳優さんは、アルジェリア系移民の息子です。

 フランスは6600万の人口のうち、700万人が移民系ですから、10分の一は既に異なる国からの来訪者が国民になっています。


 日本は1億3千万の人口のうち、200万人が外国籍ですから、1.5%くらいなので、まだ実感としてわからないだけです。



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 しかし、どの国家においても世界中の人種民族が混和して生活するようになれば、「フランスもイタリアもイギリスもみんなおんなじじゃん」ということが起きてしまいます。



 だからそうなる前にかならず「フランス人は自分たちの結束を高めて他者を排除し」「イタリア人は自分たちの結束を高めて他者を排除し」「日本人は自分たちの結束を高めて他者を排除」するようになりはじめます。


 かならず、そうなります。


 そうした傾向を、いわゆるナショナリズムと呼ぶのです。



 現に、今まさにセカイはその方向へ向かっていて、理想どおりどころか「各自の出自による対立」が深まり、争いが起ころうとしている、というわけです。




 よって、人類のグローバルな世界平和は成立しません!



 これはとっても大事なことなのです。



 さて、対立が深まり、破滅へと向かっているセカイですが、その対立にはかならず「軸」となるものが根底に横たわっています。


 これまでに


「宗教」という軸

「格差」という軸

そして、今回「人種や民族」という軸


についてちらりと触れました。



 しかし、セカイを形作っているのは、それよりももっと重要な「軸」であることがわかってきました。



 このセカイを突き動かしている軸とは、いったい何なのか。



 そして、その軸を把握すれば、セカイの動向が一目瞭然に分かり、あなたがこのセカイでどう生きるべきかがわかるという強固な軸です。


 次回は、そのお話をすることにいたしましょう。




 
 





































2016年9月17日土曜日

【解脱者、セカイを語る 2】 セカイのオワリをキミに見せてやろう 〜21世紀、セカイは滅ぶ〜



 前回のお話では、「宗教と格差」が内部に潜んだ「対立」が現在も起きているし、それはもっと大きくなるだろう、ということを説明しました。


 そして、今回はそれよりももっと恐ろしいことをみなさんにお話しようと思います。



 それは



 セカイのオワリはもう、やってきている



ということです。



 なんということでしょう!



 セカイはもう、終わってしまったと、解脱者武庫川は言っているのです。




 さあ、ここで「また武庫川のアホはわけのわからん終末論を唱え始めたぞ」と思う方がおられるかもしれませんが、まずはそこで正座してよく読んでください。



 セカイのオワリ。



 この言葉には、いくつかの意味合いがあります。



 ひとつは、2011年にメジャーデビューした4人組のロックバンドwithピエロですが、それはこの際どうでもいいです(^^


  ふたつめは、「セカイが終わってしまい、なくなること」の意味で使われます。


 しかし、喜ばしいことに、まだセカイは無くなってはいないようです。



 みっつめは、「セカイのはじっこ。行き着いたところ」の意味で、オワリという言葉も使われます。



 武庫川が語るのはこの「セカイの行き着いた先」という「オワリ」についてです。



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 みなさんはとても良い子で、健全な人たちでしょうので、セカイがもう終わっていると言っても信じられず、


「これからも文化文明は発展しつづけるんだ」


と思っていると思いますが、それは幻想です。



 もう、文化文明は、もしかしたら発展せず、「ちょうど今あたりが、終わり、はじっこ、最後」なのかもしれないと考えてみてください。



 たとえば、超音速ジェット「コンコルド」が廃止されたり、どう考えても、「自家用飛行機は実現されそうにない」感じだったり、「別の星への移住どころか、月へ行ったのですら何十年前」だったり、
「核兵器以上のヤバイのが、もう出てこな」かったり、「3Dテレビがハズレだった」り、



 セカイの技術のピークはちょっと前に既に来てしまっていて、これ以上はあまり発達しない



ような気がしてこないでしょうか?



 もちろん、iphoneやタブレットのような「先進的」なガジェットが生まれたのは最近ですが、そのiphoneもそろそろ進化に限界が来ているし、


「第一、iphoneで出来ていたことはそれ以前の段階で出来ていたことの焼きなおし」


だったりするのです。


 武庫川は80年代や90年代、ウォークマンで好きな音楽を携帯していたし、カシオの液晶テレビ3インチとかで、どこでも動画を見られたし、 シャープの電子手帳ザウルスもあったし、東芝のリブレットという手のひらサイズパソコンだって使っていたのです。


 iphoneはそれらが小さく詰め込まれただけで、取り急ぎ何か大きく変革があったわけではありません。


 LINEがなんぼのもんじゃい!PHSでメールしまくってパケ死したわ!



という記憶もあるでしょう。



 今のご時世、どこの家庭にも「冷蔵庫、洗濯機、テレビ、クーラー」なんてものはちゃんとあります。



 最先端を行くはずの戦備にしても、自衛隊の戦闘機はF-15で、



 最初の機体は1972年製(ワシ生まれてへんがな)



だったりするのです。



 それほどまでに、私たちは一見「文明は革新している」と思いがちですが、実は焼きなおしや組み合わせの違いだけで、



 セカイの文化文明の基本設計は、80年代や90年代がおそらくピーク



だったりするというのが真実なわけです。




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 なので、今このブログを読んでいるキミたちは、おそらく


「セカイの終わり、ある意味での頂点、ピーク」



を確実に見ていると言ってよいでしょう。


 リニア新幹線が実用化されたところで、 設計は1972年ですから、何度だって言います。



 ワシ生まれてへんがなーーーー!!!




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  さて、それでも中国が経済大国になってきたり、「まだセカイは伸びるのではないか」と思っている人もたくさんいるでしょう。


 それはたしかに事実ではありますが、すでに「セカイが発展するというのはどういうことか」については先が見えてもいるのです。



 先進国と途上国というのは、技術や文化文明が発達した国から、そうでない国へ技術が移転することで世界的な成長を生んできました。


 イギリスやアメリカから日本へ蒸気機関が入ってきて、電気機関になって、日本でも工業生産ができるようになって、日本は戦後の成長を遂げました。


 中国もおなじことをやり、東南アジアの国々もおなじことをしています。


 昨今では中国の都市の人たちの給料が、日本人よりもすでに超えています。


 今後は、アジアの国々やインドの人たちがそうなってゆくことでしょう。



 そういう意味では、「アフリカまで経済発展が届けば、世界の成長は限界を迎える」ということが既にわかっています。


 今、日本もアメリカも、あるいは諸外国もアフリカでの投資にやっきになっています。



 セカイの終わり、はもうすぐそこまで来ているのです!!!!




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 そうした意味では、キミたちは


 ハルマゲドン(聖書における最後の審判)


の時代を生きているし、


 末法(佛教における仏の加護が届かない時期)


の時代を生きているともいえるでしょう。



 資本主義すら、終焉が叫ばれています。もうどの国も、経済成長していないのですから!


 これから私たちは、この目で、このセカイが弱くなり、滅んでゆくさまを見ることになるのです。




 では、セカイの終わりには何が起こるのでしょうか?



 前回「対立がそこに潜んでいる」というお話をしましたが、もっと大きな動乱が起きることは間違いありません。



 次回はその「恐ろしい動乱」についてお話することにしましょう。




 









 








 






2016年9月16日金曜日

【解脱者、セカイを語る 1】 混迷の時代を、セカイ系解脱者が斬る! ~セカイはどこへ向かっているのか~


 解脱者武庫川、そろそろ誕生日を迎えるので、新しい一年にふさわしく新しい企画を!ということで新シリーズを始めたいと思います。



 題して「解脱者、セカイを語る」


 どうも、セカイ系解脱者の武庫川散歩です。名前だけでも覚えて帰ってください。





 ちなみに「セカイ系」というのは、少年少女向けのライトノベルや漫画アニメなどのジャンルでございまして、


「なんかよくわからんけど、主人公の少年少女(まあ、大抵はおしなべて普通そうで、どちらかと言えば内気だったりする性格)が、諸事情でセカイ全体と何らかのつながりができて、主人公の言動によってセカイが大きく変わったりするような」ジャンルのことを言います。


 Wikipediaではこんな風に説明がなされることも。


” 「一人語りの激しい」「たかだか語り手自身の了見を『世界』という誇大な言葉で表したがる傾向」”




 うおおおお!常に一人で語っていて、おまけにムコガワの小さな了見をセカイにつなげて語るなど、まさにこのワタクシのことではないですか!!!!



  というわけで、セカイ系解脱者の武庫川が、混迷の時代を生き抜くための知恵と知識を、凡夫のみなさまにお伝えしようというのが、この新コーナーのテーマなのです。




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 さて、なんだか隣の国とは「戦争がはじまりそう」だったり、自分の国でも「経済格差や貧困」が問題になっていたり、「ブラックな企業だのホワイトな家族だの」が取り沙汰されたり、「少子高齢化で国力が衰えたり」いろんなことが起きている昨今です。


 世界に目を向ければ「移民問題」「EU離脱問題」「テロ問題」「中国の領土領海問題」なども山積みです。



 そういう世界において、これからの私たちはどのように生きていけばよいのか、は実は宗教や思想・哲学に関心のない人でも「心のどこかで悶々としている問い」であることは否めません。



 そこで、希代の哲学者にして、解脱者でもあるこの武庫川散歩が、そんな苦しみに溢れたセカイに一筋の光明を!というのが、これからお話するネタなのであります。



 能書きはこれくらいにして、さっそくセカイを説く、その中身に入ってゆくことにいたしましょう。




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【その1  セカイはどこへ向かっているのか 】




 このブログの初期に、世界と宗教との関係について連続して解説した記事がありましたね。

  http://satori-awake.blogspot.jp/2014/01/blog-post_25.html

(↑忘れた人はこのへんからどうぞ)


 その記事を思い出してくだされば分かる通り、実は「国家・民族」は「宗教」と密接な関係を持って成長し、文化は発展してきました。

 その結果として、『キリスト教文化圏=先進国=欧米=民主主義と資本主義』『イスラム文化圏=中東中心=反資本主義・反欧米』『アジア宗教圏=追いつけ追い越せ型先進国(日本・中国)=儒教的文化など独自路線が残る資本主義』みたいな構図が、今私たちを取り巻くことになりました。


 まあ、そのせいで、まず第一にセカイには「キリスト教」VS「イスラム教」みたいな対立が生じていることを覚えておかなくてはなりません。

 


 この宗教対立は、「いつかセカイの文化文明が発展すれば、解決する問題だ」と思っている人がいるかもしれません。


 あるいは、「中東の問題やイスラム関連のテロも、いつかは無くなる」と思っている人もいるかもしれません。



 しかし!それは間違いです。とここで言いきっておくことにしましょう。



 宗教的な対立は、おそらく人類の歴史において、ほぼ永遠に解決しない。



 これを解脱者は宣言しておきたいと思います。





 なぜ、そう言えるのかは、意外と簡単かもしれません。セカイの歴史には様々な複雑な要因が入り組んでいますが、ポイントを絞れば、そうした対立の構造は、とても単純だったりするのです。


 ポイントを2つに絞りましょう。


 宗教的対立が解決しない理由、その1つめは、


1) 宗教の正誤は、誰にも証明できないから。


ということです。


 キリストの意志とムハンマドの意志、あるいはエホバの意志とアラーの意志を客観的に並べ、あるいはその意見を交換させ、そしてどちらかが正しく、どちらかが誤っているという答えを得ることは、誰にもできません。


 ということは、「誰もが、自由にその意志を受け止めることができ、解釈することができる」ということに他なりません。



 したがって、キリスト教とユダヤ教とイスラム教の見解が統一されることはなく、そのためいつまでたっても「自分は正しいが、あいつは間違っている」ということが生じ続けることになるわけです。


 これでは対立は、解決しません。そして、もう一つの理由が、実は大きいのです。



2)  その本質は宗教というよりも格差の対立であるから


ということ。これはとても大事です。しっかり理解しましょう。




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 私たちは、セカイに巻き起こる宗教対立を「教義の対立」であると思っています。ところが、実はそうではなく、私たち日本人が初詣をしながらクリスマスケーキを食べることからわかるように「教義なんか違っていても、なんとかなる」のが実態なのです。


 では、なんとかならないのは「一体なに」だと言うのでしょうか?


 それは「格差」です。



 現在、欧米と中東がトラブルをたくさん抱えているのは、この「格差」の問題が隠れています。


 キリスト教圏のメンバーは、産業革命を経て早い段階から「経済成長」を遂げた先進国、つまり欧米が主流です。彼らはお金と力を持っていますが、イスラム教圏のメンバーは、十字軍の頃から欧米諸国に軍事的に圧力を受け、被害を被っています。


 なので、イスラム教圏のメンバーは、キリスト教圏メンバーに対して、反旗を翻すことになりました。


「私たちが虐げられるのは(あるいは格差があるのは)彼らのせいだ。」


と。


 イスラム過激派のテロリストが、「資本主義と欧米」を憎むのは、そうしたバックグラウンドがあります。


 あるいは、アラブの人たちが、経済力で土地を奪い取ったイスラエルに反感を抱くのも、そこに「格差」があるからなのです。




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 この格差と宗教が結びつくと、大きなエネルギーが生じます。


「私たちは正しい神を信仰しているのに、この格差はなぜ起きるんだ」


という疑念は


「私たちは正しい神の力で、彼らから奪い、正そう」


という思想へとすぐに切り替わります。



  戦時中の日本が「神国日本は勝つ。神風が吹く。負けるはずがない」と言っていたのも、同じ理屈です。



 日本も、また欧米列強との格差を縮めようとして、富国強兵路線を突き進んだのです。





 というわけで、第一回の今回のポイントは、



 セカイは対立へと向かっている



という点でした。


 中国と日本においてもそうです。中国は「日本を超えたい」と思っています。 彼らには


「中華思想(中国は世界の中心である。そしてそうあるべきである)」


という一種の宗教がありますから、その思想と、これまで後進国に甘んじてきた劣等感が結びついて、強大なエネルギーを生み出している、というわけなのです。




 まずは、「対立」というツボを覚えておきましょうね。(次回へつづく)












2016年9月1日木曜日

障害者はなぜ生きている”べき”か。 ~相模原事件へのアンチテーゼとして~




 相模原の障害者施設における殺人事件で、現代社会における日本人全員の「障害者は一体この世界においてどのような存在なのか」という哲学的な命題が提示されたことは、疑いようがない。


 犯人の主張するように


「社会に貢献せず、他者の手助けがなくては生きていけない障害者は死ぬべきだ」


という、強烈な問題提起が(その手段の善悪はここでは問わないとして)私たち日本人、ひいては人類の



心のどこかをざわめかせた



ことも、これまた悲しいことではあるが疑いようがない。



 そしてまた恐ろしいことに、犯人の主張や考え方に、少なくない人が、これまた心のどこかで「同意」めいたものを感じ、ネットなどではその意見を肯定するものがいることも事実である。


 さらに言えば、犯人の言うような「優生学」的な発想は、ナチスドイツをはじめ


 人類の歴史のいろんな場面で発明され、発想され、実行されてきた


という事実があり、たった今この時刻にも、羊水検査などに基づいて障害がある可能性があるとされる命が堕胎されていることも、事実なのである。



 経済的事情などを含んだ日本の人工中絶数は



 年間30万人


であり、30万人もの赤ちゃんが


「経済的弱者、あるいは肉体的弱者」


であると予言され(←ここ大事。すべて生まれる前の推定なのだから)、殺されていることは尋常ではない。



 そうなのだ。恐ろしいことに、積極的ではないかもしれないが、相模原事件とおなじことをしている人間が、日本に30万人もいるのである。




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 だからこそ、稀代の哲学者であり、解脱者である武庫川散歩が、この問題から真正面から向き合って何らかの答えを見つける使命があると考える。


 今日は、ギャグ抜きのガチンコでこの話を書く。



 私の元妻は、障害児教育に携わっていた。なので、私もまだ二人に破局が訪れる以前に彼女に尋ねたことがある。


「障害児教育の意義ってなんだ?」


と。


 いま思えば、相模原の犯人とまったく同じ疑問を、解脱以前の凡夫であった武庫川は彼女に聞いたのだ。


「障害児教育によって、ある程度社会生活が営めるようにサポートをするのは良いとして、すべての障害児者が自立できるわけではない。そうした人たちは、どうやっても最終目標に到達しないのであれば、そこにどんな意義があるの?」

と。


 それに対する彼女の答えは明解だった。すっきりと視界が晴れると思うくらい、明解な答えだったのだ。


「それは、誰でも、どんな状態の子供たちでも必ず成長するからです」


と。


「昨日より、今日はほんのほんの一つでも何かが変わり、成長している。その最終到達地点は、たしかに人によって異なる。しかし、必ず伸びる。成長する限り、障害児教育には意義がある」


というその論理は、端的で・明快で・そしてそう言いきれる力強さがあった。




 しかし、この理論は、心地よく明快であるゆえに、そこに一点の破綻を含んでおり、偽ものである。


 結論から言えば、解脱者武庫川から言わせれば、これは24時間テレビなみの偽善なのだ。



 この論理のどこに破綻があるのか。それは、人の一生を考えればすぐにわかる。



 人は伸びてゆく、しかし、同時に老いてもゆくのだ。


「今日出来ていたことができなくなり、明日は昨日より何かを失う」


という老人の世界。


 もし、成長を肯定してしまえば、老人は「老衰してゆくがゆえに、そこに価値はない」ということになってしまう。


 障害児教育を肯定したところで、老人福祉を否定するのであれば、それこそ


「老人は何の意味がないから死ぬべきだ」


に直結してしまうのである。




 解脱者となった今では、「善と悪は表裏一体であり、無常のおもてに現れる一様相にすぎない」とうことがわかる。


 だから、成長する障害児を肯定し、善なるものとした時点で、そこには欺瞞があるということを、今では喝破することができるが、昔の私はそこまで至らなかった。





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 さあ、ここからが本題である。


 解脱者である武庫川は、この世界の一般的な基準とは異なる見解を持っているが、それでもこの社会となんとかすり合わせしながら、生きている。


 それを良いとか悪いとか、そういう次元で問うべきことではなく、それもまた楽しからずやという、それだけだ。



 そうした解脱者の特異な思想信条を、一旦わきにおいて置いて、私はこれから



「障害者は生きているべきだ」


ということを証明する。 そこにたとえ、社会的に生きている価値がないと思われようが、実際に他者の力なしでは生きられないというハンディがあろうが、彼らは生きているべきだ、ということを、わたしは全力をかけて証明したい。



 さて、近年「赤緑色盲」や「色弱」というものが、どうして存在するのかということが長年の研究成果によって明らかにされてきた。


 その結果は驚くべきもので、たしかに色盲や色弱は、「個体としては、マイナス要素(つまり、障害)」のように思うかもしれないが、実は彼らには


「通常の人間よりも、コントラスト差を明確に捉えることができたり、動きに対しての反応速度が異なる」


というプラス要素のようなものが隠れているというのである。


 だからといって、「障害を持つ人にはこんないい面もあるんだよ」というようなしょーもない話でこれは終わらない。


 面白いのはここからなのだ。


 誰もが知っているとおり、色盲や色弱は「遺伝」する。遺伝するということは凄いことなのだ。


 つまり、遺伝子はわざと色盲色弱の要素を、絶滅させずに伝達させたがっている!ということなのである。


 研究者の考えはこうだ。


「これはおそらく、遺伝子はヒトを個体レベルで「よしあし」を判断しているのではなく、『カラーを判別できることに長けた個体』もあれば、一定数の『カラーよりもコントラスト重視の個体』を混ぜて発生させようとしている」

という、とても興味深い結論がそこにある。



 まだわかりにくいかもしれないが、もっと平たく言えば、こういうことだ。


「ヒトという生命体は、個人の良し悪しはどうでもよく、集団においてそれぞれの長所や個性を組み合わせながら全体が生き延びようとする生き物だ」


ということがひとつである。


そして、


「もしかしたら遺伝子は、一定のイレギュラーだと思える活動を、わざとやらかしているのかもしれない」


ということがふたつめなのだ。



 コントラスト重視でカラーに弱い個体をわざと生み出す遺伝子は、狩猟採集において獲物を色で把握するものと動きやコントラストで把握するものの役割を分けている可能性があるという。

 つまり、そのほうが全体として獲物を確保できる確率が上がる、というわけだ。


 あるいは必ず一定の割合でダウン症やさまざまな障害を生み出す遺伝子は、もしかしたら我々にはわからない「意図」を持って、それらをわざとやっている可能性がある、ということにもなる。






 私には、遺伝子の意図がわかる。彼らの意図はとても伝わってくる。



 それは、進化しようとするプロセスそのものに他ならない。





 サルからヒトへ進化するその途中に、遺伝子はさまざまなトライ&エラーを繰り返してきた。その意味では、結果として環境に適さない個体が生まれてくることはあったろう。しかし、総体としてヒトが(あるいは遺伝子が)やろうとしていることは一貫している。

 それは、サルからヒトへ、あるいはこれから起きるヒトから何かへ進化したい、という生命の息吹そのものである。




 これで、ひとつの指針が見えてきたと思う。


 個体レベルで考えるから、ヒトは「正常なもの」と「イレギュラーなもの」をわけようとする。


 しかし、神の目線でみれば、それらは


総体として果敢に進化に挑もうとする遺伝子のチャレンジ


そのものの証なのではないか。



 エジソンの発明には、99の失敗と1の成功があった。


 99の失敗がなければ、1の成功は生み出せない。


 そして、オリンピックでもそうだが、「記録は常に破られる」のである。古い記録をもつものが結果として、数字として劣っているとしても、それが無価値だとは誰が言えよう。


 それらのチャレンジの積み重ねが、新しい記録へと繋がる


ことは疑いようのない事実である。



 100メートル陸上競技において、武庫川散歩やあなたは「何の価値もない」存在である。


 しかし、誰が、ウサインボルトやカールルイス達が「健常」であって、武庫川やあなたを「100m走において障害者」だと言おうか。



 だからこそ、考えてほしい。敗者や弱者に価値がないのか?


 否、けしてそんなことはない!


 敗者や弱者を発生させなければ、生命はけして進化できないのだから。
 

 むしろ、あなたが今「優れた知恵と健康な体」を持っているのであれば、それは数千・数万年前に傷ついたものたちのおかげでそれを手に入れた、ということなのだ。



 感謝せよ!とか、敬意をもて!とか偽善的なことは嫌いだ。


 ただ、そうしたものたちと、共に生きることぐらい人として簡単にできることなのではないか?


 そう言いたいだけである。



~~~~~~~~~~




 遺伝子レベルから見た「障害者」は、人類の進化への飽くなきチャレンジの証拠だとしよう。


 しかし、そうした視点は、このセカイに住む凡夫たちにはいまいち理解できないかもしれない。


(話の内容と論理の建て方が難しいからだ。ぶっちゃけ)




 なので、今度は、人間界から、障害者が生きているべきであることを高らかに歌い上げたい。



  アジアプレスネットワークより「相模原殺傷事件を問う」
 http://www.asiapress.org/apn/author/japan/post-49843/



 武庫川は、上記の記事を読んでいて、「これだ」と思った箇所が一点だけあった。


  いわゆる「命が尊い」とか、ありふれた言葉には、武庫川は解脱者なので心を引き寄せられないが、


”重い障害のある子供たちが大事にされる社会は自分たちの命を守ることでもあるのだ”


というこの一節には、ものすごいもやもやと「何か」が武庫川の胸に去来したのだ。



 そして、それは少し前にニャートさんのブログで読んだあの言葉と、勝手に結合し、武庫川の前に問題提起を投げかけた。


”私たちを支えてくれる「外からの手」は皆無だった”


引用元
http://nyaaat.hatenablog.com/entry/hikikomori-neet




 このつながりが、わかるだろうか。



「弱者を守ることができない社会では、おまえ自身をも誰も守ってはくれないぞ」


ということだ。


 今、健康で裕福で、充たされている誰であっても、災害でも事故でも病気でもいいが、一旦状況が変わっても「おまえ・あんた・わたしを支えてくれるやつはいない」という社会



 それが、


「障害者は社会の役に立たないので、いなくていい社会」


と同等だということだ。





 武庫川は、「なぜ人を殺してはいけないのか」という人類の一大テーマについて、その理由は


http://satori-awake.blogspot.jp/2014/02/blog-post_7.html


http://satori-awake.blogspot.jp/2015/08/blog-post_11.html


「人は、殺されたくないから殺してはいけないと考えるのだ」


と喝破した。


そして


「意識を殺せば、セカイが消えてしまうから、殺してはいけない」


とも説いた。



 奇しくもここには、障害のあるないや社会の中での立ち位置なんか一切出てこないことに着目してほしい。




 よいか?




 「人には誰でも苦しい時がある。その時に手助けがあったら嬉しいと感じる心があるならば、障害者であっても手が差し伸べられる社会を一緒に作るべきだ」


ということなのである。



 もし、障害者を殺してもいい社会があるとすれば、それは



「パーフェクトヒューマンだらけの社会」



でなくてはいけない。そんな社会は絶対に存在しないし、それがやってくることもない。


我々は傷つき、悲しみ、苦しむ存在だからだ。



 何度でも言う。


 障害者に手が差し伸べるべき社会は、あなたの心に一点の弱さがあっても許される社会である。




 そして誰もが弱さを抱えているのだから、それは(一部の負担ではなく)全員で担うべき務めでもある。




 イエス・キリストの逸話を知っている人も多いだろう。


 姦淫の罪をおかした女性が、人々によって「石打ちの刑」にされようとしている時、キリストは彼らに言った。


「あなたたちのうち、罪を犯したことのない者から先に石を投げよ」


と。


彼女を罰しようとしていた者たちは、一人去り、二人去り、そして誰もいなくなったという。



 私も同じことを言うだろう。


「あなたたちのうち、一点の弱さもない者から、障害者を見捨ててよい」


と。 





追伸:この記事は某さんへの人生の答えとして書きました。


「あなたやあなたの家族を、偽善を排除してありのままに肯定する」とはどういうことかを必死に、そしてストイックに考え抜いた答えが、これです。



あなたの迷いが、クリアになれば嬉しいと思います。