2015年6月29日月曜日

人工知能が「怒る」とき 〜AIは人間の脳を超える〜

 どうも。人工知能については専門家ではありませんが、人エロ痴能については、造詣が深い武庫川散歩♂です。


 早速ですが、今回は「人工知能は怒る」というニュースが入ってきたので、そのレポートを。


 怒る、なんて感情的なことは人間だけが持っている情動なのだと思っていたら、どうやら人工知能でも怒り出すそうです。ほんとかね。


 人工知能マシン、プログラマーに怒る
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150629-00009155-wsj-bus_all


 記事元には、そのやりとりまで書いてあるのですが、なんだかなー。

 
 同じことを何度も聞いているうちに、人工知能が


「知らない・話したくない」

と言い出すので、それを持って「怒った」と受け止めているわけですが、まあなんともいえませんね。興味はあるけど。


 解釈によっては、「Aという言葉に合致させることばを発し得ない時に、NOということを伝えるボキャブラリーを連発しているうちに、それが感情的に見えてしまうということ」が起きているのかもしれません。


  たとえば、コンピュータにこんな質問をします。


 「Aという言葉を知っていますか」

「知りません」

「Aという言葉を知っていますか」

「知りません」


・・・とまあこの永遠の繰り返しだと、コンピュータの中にはひとつの対応語句しか入っていないことになるので、それでは単なる反応に過ぎず、知能とは言えないわけで。


そこで、なるべくたくさんの語句を反応語句としてボキャブラさせてやると、知能としてバリエーションが出そうだと推定してプログラムするわけです。


「Aという言葉を知っていますか」

「知りません」

「Aという言葉を知っていますか」

「わかりません」

「Aという言葉を知っていますか」

「3回目ですねそれ」

「Aという言葉を知っていますか」

「さっきも知りませんと答えました」

「Aという言葉を知っていますか」

「わかりませんも言いましたよ」

「Aという言葉を知っていますか」

「限度を超えています」

「Aという言葉を知っていますか」

「おかしいんじゃないの?あんた」

「Aという言葉を知っていますか」

「むしろあなたのほうが機械のようだ」

「Aという言葉を知っていますか」

「バカじゃない?」

「Aという言葉を知っていますか」

「・・・キモい」


といったやり取りが生まれそうです(笑)もうこの時点でどっちが人間でどっちが機械かわかったもんじゃありませんが、人間の中にも機械の中にも閾値(しきいち)があって、それをオーバーしたら、違う反応を示さざるを得ませんね。

そこが怒りの瞬間のように見えるのかもしれません。



 あるいは、人間だっておなじで、ボキャブラリーの中から反応を変えて答えているだけで、かつその人に設定されたガマン値の中で、それをかぶらないように使いまわししているだけなのかもしれませんがどうでしょう。




 うそだと思うなら、あなたの奥さんに100回くらい「好きだ」と言ってみてください。好意のあるいい言葉を言っているはずなのに、5回目くらいから二人の間に険悪なムードが流れること請け合いですから!

 本当に二人の間に愛があるなら、互いのラブボルテージはどんどん上がってもいいようなものですが、人間だって基本は人工知能プログラムと同レベルなので、怒りループに突入してしまうのです。



 「好きだ」

「あらまあ」

「好きだ」

「うれしいわ」

「好きだ」

「わかったわよ」

「好きだ」

「どうしたの?もうやめてよ」

「好きだ」

「マジやめてちょうだい」

「好きだ」

「私はそれ嫌い!」


ってな感じで。




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 ちなみに私は、人間の脳なんて機械やパソコンのようなものだと思っています。父が亡くなるとき肝臓ガンになったのですが、肝臓をやられると毒素を分解できなくて、脳みそがまともな処理ができなくなる


肝性脳症


という状態になります。

 この状態では、いわゆるボケ・痴呆よりひどい状態で、完全にイカレた人になるのですが、私は父が死ぬ直前までこれを見ていました。


 ・・・まあ、悲しいものですよ。うちの父はずっと頭脳明晰で大変に賢い人だったのですが、それが完全なるイカレポンチになるわけですから、父を敬愛してやまない私は泣きました。


 ああ、これが父なのか!


と 。その聡明だった、賢かった父という存在は、脳の中にいて、そして今脳の中に父はもういないのだ!ということに気づかされるわけです。



 まさに、われ思うゆえに我ありです。


 哲学的に、人を人たらしめているのは、脳の中の化学反応なのです。そしてそこに、分解できない老廃物をたらしてやるだけで、人はもう人ではなくなるのだ!という事実。


  あなたの肝臓が老廃物を処理できなるだけで、あなたはあなたという存在を失い、よくわからないキテレツのパッになるのです。


 そんなもんですよ。そんなもん。

2015年6月19日金曜日

「認められたい症候群」 ~承認欲求を真に悟れば、人生はうまくいく~

 鬱陶しい梅雨が続いていますが、みなさんいかがお過ごしですか?


 鬱陶しい男、武庫川散歩の時間がやってきました。今日はいつものテイストに戻ってヨタ話を繰り広げますので、お楽しみに。




 さて、仏教において、釈迦は「人生の苦しみ」の原因を煩悩であると定義しました。


 なので、仏教修行においては108つとかいう煩悩を捨てることを意識するわけですが、現代社会においてみなさんの幸せを考えるに当たっては、まさしく


 煩悩に相当するような、この世の苦しみの原因


なるものが存在します。




 というわけで、現代社会の煩悩こと「承認欲求」について今日は語ってみましょう。





 プレジデントオンラインより なぜ「認められたい」に暴走する若者が増えたのか
 http://diamond.jp/articles/-/39524




 今日の参考文献はプレジデントオンラインさんから。この記事だけでなく、現代人はなんせ



「認められたい・承認されたい」


を人生の第一義として生きておられる方が増えています。



 記事中に出てくる問いかけは、とても現代の病理にマッチしています。


「なぜ今の若者は有名企業をすぐに辞めるのか?」
「なぜ優秀な若者がNPOで働こうとするのか?」
「なぜ若者は何の報酬ももらえないのにSNSで発信するのか?」
「なぜ若者は友達がいないことを異様に気にするのか?」
「なぜ若者はソーシャルゲームに夢中になるのか?」
「なぜ若者はずーっとスマホをいじっているのか?」


 そう!これらの答えはみな、「誰かに認められたいから」という観念が根底にあるからです。


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 もちろん、認められたいという気持ちは、それ自体は悪いものではありません。


 親に認められたい、地域に認められたい、会社に認められたい、社会で認められたい、などなど。



 どうして「認められたい」気持ちが生じるのかも、実は簡単なことです。人間は社会生活・グループ生活を送る動物ですから、集団で行動します。


 狩猟採集民の時から、力をあわせて狩をして、農耕を始めてからも集団で農作業をするものですから、


「集団・周囲・他者から立ち位置を認定される必要が生じる」


のはいたし方がないのです。




 ところが、こうした集団からの認定・任命・認知は、古い時代には社会的にそうしたシステムがあったので、若者をそれほど苦しめることはありませんでした。


 たとえば、家族の中では


「長男としての立ち位置、娘としての立ち位置」


なんてものは、生まれた時から決められていたし、(家を継ぐとか嫁に出て行くべきとか)


「ムラにおける祭りへの参加の許可とか、成人通過儀礼とか」


を考えると、一種めんどくさい因習でもありますが、若者はどこかの段階で「なにがしかのポジションに認められる」ということが多々あったのです。


「会社員として、会社に所属する」


なんてのも、当たり前ですが社会人としてめっちゃくちゃ承認されまくる機会でした。



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 ところが、現代は「個の社会・個別の社会」なので、兄弟は平等、男女も平等、祭りは捨てて都会に出る、隣は誰かもわからない、という状況になっています。


 同様に「会社はいつまであるかわからない。社員の身分も不安定。どこに所属しているかもあやふや」な社会人では、とにかく



「確固たる自分、しっかり認められた自分」



がどこかにないものか?と漂流するのは当然かもしれません。



 このあたりは、記事の中でも「家族や仲間、社会からの承認が得られにくい時代」になっていることを説明されているので、頷くところが多いと思います。




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 というわけで、現代の「承認されたい症候群」の人々は、ときには「いいね」を求めて、ときには「RT(リツイート)」と求めて、ときには「リア充の称号」を求めて彷徨い歩くのですが、それがちょっと世間とズレていたりすると、


炎上


してしまったりするという難しい時代なのですね。






 しかし、悲しむことはありません。



 悟りを開いてしまえば、そんな表面的な「承認欲求」に悩まされることなく、真の意味で自由を得て心を開放することが可能です。



 そう。仏教的な悟りとか解脱とか、小難しいことはいっさい言わなくても、「承認欲求」さえクリアすえば、人は


すがすがしい境地


に到達することが可能なのです!!!ババーン!!



 これはまさしく、現代の解脱といっていいかもしれませんね(^^



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 では、「承認欲求」から逃れるには、どうしたらいいのでしょうか?



 承認欲求とは、簡単に言い直せば「認めてほしい・認められたい」ということですから、その逆は




「もう、認めちゃった」



ということに他なりません。そうです。もっとも簡単な解決法は、先に自分で自分を認めてしまえばいいのです。未来形と過去形のちがいです。



 たとえば、「解脱者・武庫川散歩」を私は先に名乗っていますので、もう怖いものはありません。


 なんてったって解脱者認定してますから、迷うことはないのです!




 ガッツ石松さんなんかは、もっとすごいです。なんてったって自分でガッツを名乗っているので、彼がどんなポーズを取ったとしても、それはすべて


 ガッツポーズ


なのです!こりゃかなわん!



 パンチ佐藤もそうですね。誰かに認めてもらうより先に、もうパンチなのです。頭が!


 ダンディ板野だってそうです。彼をダンディじゃない!なんて否定する人はいません。ゲッツ!


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 このように、あなた自身をあなたが認定した瞬間から、あなたは承認欲求から開放され、あなたというアイデンティを手に入れることができます。とても簡単ですね。


 たとえばあなたが寺西さんだとすれば、今日からtwitterの名前を



「ロンリー寺西」



にするだけで、もう、友だちがいなくても大丈夫なんです。だって、ロンリーなんだもの!


 もしあなたが、西郷さんなら、「ゴルゴ」を名乗れば、もう親戚友だち近所の連中がみんな敵でもまったく問題なく生きてゆけるはずです。



※注 あの眉毛が太い人は、「デューク東郷」であって、「ゴルゴ西郷」ではないので、間違えないように。



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 さて、ここまで読んでたいていの人は、


「じゃあ、自分は自分の何を認定すればいいのか」


ということを考えるかもしれません。自分にはそんな人に誇れるようなキャッチーなものはないとか、ひとくくりにできるような要素が見つからないとか。



 そんなことはどうでもいいんだ!!!!


 っていうか、認知・認定そのものだって、実はたいしたことではないのだ!!!



 この吹っ切れた感じが大事です。だってガッツ石松が「ガッツである意味」なんてあるわけないでしょう?「フック石松」でも「カウンターの松」でもなんでもよかったんだから。もしそういう歴史だったら、日本に「カウンターポーズ」というものが生まれてただけなんです。


 ダンディ板野とムーディ勝山の区別つかない人だってたくさんいます。それでもいいんです。ダンディとムーディはしっかり彼らの人生を生きている!!


 ゴルゴ西郷なんて存在しないのに、いそうな気がするでしょ?そんなもんなんです。



 だ・か・ら、あなたがあなたをどう認知するかなんて、どうでもいいことなのです。問題はそこではなく、


「ああ、シャネル雪江がいまここにいるのよ!!」


と思うことが大事なのです。シャネルをひとつも持ってなくてもいいんです。でも、シャネル雪江はそれだけで、気品と美しさを備えなきゃと思えるんですから。



 なので、とりあえずは好きな言葉であなたを認定してみてください。


 本が好きなら


「本の虫・吉田」

でもいいんです。本の虫吉田は、本が好きなんだから、人間の友だちがいなくても平気なのだ、と。


「SNS前川」

でもいいんです。俺がSNSなんだから、振り回されるんじゃなく、俺がセカイを振り回すんだ!と。


「フリチン達也」

でもいいんです。俺って、うそいつわりのないお茶目なヤツ、なんだから。





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 悟りを開くということは、ひとつは承認欲求から自由になることです。自分で自分を承認していれば、恐れるものはないからです。


 そして、その自分自身の認知認識も、実はいいかげんなものなんだということがわかれば、二重の意味で自由になれるはずです。



 こうなると、何もかもが「定まったものでなく、きちんとした自分ではない」ということがわかると思います。これが無常なのです。これが色即是空なのです。



 理屈を追えば、すべてが無常なのに、それでいて自己がきちんと定まってくるところが、悟りの面白いところです。


 これはつまり、「きちんとした価値観を超越したところで、自分を確立する」という行為であり、西洋哲学的に言うと


「自我」


を体感する、ということに他なりません。



「ああ、私はわたしなんだ。ああ、わたしはいいかげんなものだけれど、たしかにわたしはここにいる」

という実存そのものです。



 

2015年6月6日土曜日

「こころ教」と「原理主義」の時代 ~ビジネスパーソンのための仏教入門を読む~

 やや、期間が空きましたが私は元気です。


 そういえば、この間シャープの中の人がこんなツイートをtwitterでしていましたね。



 ”落ち込んだりもしたけれど、わたしは元気です”

 https://twitter.com/SHARP_JP/status/598836153333092354



 「魔女の宅急便」の映画コピーですが、そんなこと言うてる場合か!


 まあ、会社のキキ(危機)だけに。 言うてる場合か!



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 そんなツカミはともかく、日経ビジネスオンラインでの連載がなかなか面白いので、紹介しようと思います。



ビジネスパーソンのための仏教入門
http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20150604/283913/?P=1



 この連載、佐々木閑さんという方が仏教の現状についてあれこれ教えてくださる楽しいお話なのですが、これまでにバックナンバーをひもとくと



”日本の仏教はシャカの教えではない”

”タイの坊さんがグラサンでグッチのバッグでもOKな理由”

”お寺の税金はなぜ免除されているのか”



などなど、興味深いネタが満載なので、みなさんもぜひどうぞ。



 そしてまあ、なんですねえ。そんなこんなで第四回は、現在の仏教が何を失って、何に逃げているのかというお話だったのですが、詳しくは元ネタをどうぞ。



 ここでは概略だけを述べておきますが、そもそもまとも・まじめに仏教や哲学について考えようという人は、入り口やスタートラインの時点で疑問に思ったり躓くことがありますよね?



 それは、仏教でもキリスト教でもいいのですが、


「(天上かどこかにいるらしい)ホトケ様や神様は本当に存在しているのか?」

「死後の世界や霊の世界はあるのか?」

「っていうか、それらは科学的にどうやねん。物理的にどこにあるねん?!」


というそもそも論な疑問・疑惑と言っていいかもしれません。




 いくらなんでも、現代の先進国の人間に対して、


「神様はいるんですよ」

と説いても、

「どこに?」「証拠は?」「連れてきて」「その神は外人?鼻高いの?」「しゃべるのは何語?」

などと、極端に科学的に具現化された話でつき返されるのがオチです。



 ところが、全ての宗教は、この話にきちんと対応して返事をすることができません。



 ここが、宗教の現代的問題の本質であって、もうこれから先に「宗教をよりどころとできない」根本的な理由になるのです。


「神様はいるんですよ。地上3760キロメートルのところからぐるぐる回って、全人類の言葉を聞き分けておられます。定期的に地上にも来ていますが、ふつうの人のような姿になっているので誰も気付きません。しかし、しっかりあなたの行いを見ています。容姿は全ての人種を足して割ったような中世的な顔立ちでチン○もマン○もついてます。バイリンガルです。もちろん。時には、銀河系から出ていってその外の世界にもワームホールで出入りしてます。あ、もちろんワームホールも神様が創ったんですけどね。その構成元素は地上にはないので、名前はついていませんが、私たちはS69元素EX-0721と呼んでいます」


とか言ってる教祖がいたとしたら、これはもう信仰どころではなく、


「大槻教授、対決お願いしまーす!!!」


の次元ですよね?


 というわけで、もし仮に真の宗教があるとしても、それはなんだかとてもトンチンカンな感じになってしまうということになります。



 そこで、記事にあるとおりに既存の宗教は、逃げなのかすり合わせなのかわかりませんが、



「神は心の中におられる」


とか言い出すのです。



 この分野、キリスト教では特に真面目にガチで考える人が多くて、


「ほんまにノアの箱舟はあったのか」

とか

「モーセは紅海を割ったのか」

とか

とにかく聖書に書いてあることを科学的に証明しようというプロジェクトは山ほどあります。


 しかし、それでは完璧にいくわけもなく。


(だってそうでしょう。キリストが水の上を歩いたことを証明とかできませんやん。パンを無限に増やしてみるとかも、無理ですやん)


なので、聖書学者はこれまたきちんとした学説として


歴史的事実(現実に起こったこと)と信仰的事実(信者がそう感じたこと)は違うが、信仰的にはそれらは事実として受け止められているんだ」


なんて言い出すわけです。



 こんなこと言い出したら、


「源義経が歴史的には死んだけれど、大陸に渡ってチンギスハーンになったんだ」


は、もう信仰的事実です!


「源為朝が歴史的には死んだけれど、沖縄に渡って子が舜天になったんだ」


は、もう信仰的事実です!いや、こっちは沖縄の正史として認定されているそうなので、恐ろしいことですが。



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 話があっちこっち行き過ぎましたね。


 さてこんな風に、現代の宗教はどうしても「科学的に整合しないことは『こころの問題』として、棚上げしないと無理」なハメに陥っているわけですが、これがまた


 意外と何言ってるかわからないから、万人受けする


ので困ったものなのです(笑)



「あなたの生き方は、あなたの心が決めるのです」



なんて言うと、なんかいいこと言ってるみたいでしょ?でも、



「あなたのローンは、あなたが決断してはんこを押すのです」

「あなたの嫁はんは、あなたが叱り飛ばすべきです」

「あなたの息子がやったことは、あなたが責任をとりなさい」

「あなたのハゲに、この製品を購入しなさい。さあ、今すぐ!」


となると、とたんに嫌な感じが満載なのはナゼでしょう。おなじことを言っているのに!





 つまり、何言ってるかわからないことは、いいことのように思えちゃうのです。




 あいだみつをさんなんかいい例ですね。


「つまづいたっていいじゃないか、にんげんだもの」

法廷で被告人弁論で、こんなこと言ったら即満場一致で死刑ですよ。





「そのうちそのうち べんかいしながら日がくれる」

いやいや!全然いい言葉じゃなくて、ただのダメ人間ですって!部下がマジでこれだったらリストラしたい!



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 また、脱線しよりますので、戻します。


 というわけで、ふわふわとした「こころ教」(佐々木さんの造語です)が広まると、今度はその反対のベクトルとして


原理主義


が注目されるようになる。これは重要な視点です。


 宗教が「ふわふわといいことばっかり言いやがって何の役にもたたん!」となれば、真に困窮している人は、より


「原典にちかい所、原点に近い宗教」


に答えがあるのではないか、と思うようになるのです。


 だから、イスラム教でも一定数が原理主義に魅了されるのです。キリスト教でも、「聖書に帰れ」的真集団は次々に登場している現実があるわけで。



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 このブログを読んでいればわかるとおり、武庫川散歩はどちらかと言えば原理主義者ですので、それも科学と整合しなきゃ嫌なタイプの原理主義者なので、あまねく世界の宗教家の中で唯一といっていいほど、


ふわふわしたよいことなんて、これっぽっちも言わない


人間であることは間違いありません。


 そもそもこの世界が存在しない、という原理原則で動いているので、



「生きるとか、いのちとかどうでもいい」



というのが本音です(笑) ・・・なので「どうせ死ぬんだからどうでもいい」な中島義道先生の理屈とちょびっと合うのです。




「ブサイクだっていいじゃないか、ブサイクなんだもの」


「そのうちそのうち 弁解してるヤツは氏ね!!!!」


 ・・・さんぽ。