2017年3月31日金曜日

解脱と執着の間 冷静と情熱の間 




 前回や前々回のブログで、解脱前の武庫川が、基本的にはものすごく愛情を注ぐ人(ラブシャワー)であることを告白したと思います。



 君の心を0対91でボコボコにする話。そして武庫川がボコボコにされる話。
  http://satori-awake.blogspot.jp/2017/03/blog-post_20.html


 恋愛には6つのタイプがあるそうで。
 http://satori-awake.blogspot.jp/2017/03/blog-post_29.html 



 もちろん、これは、解脱する前の私の傾向で、解脱してからは多少おさまりがちなのですが、それでも完全ではない(そこが人間らしい)武庫川なので、たまーに、このラブシャワーがちなところは溢れ出る場合があります。


 しかし、こうした「親密性・相手にしてあげてる感」が強い傾向は、一歩間違うと暴力性を伴うので、そうはならないようにかなり意識的に考えている武庫川もいます。



「俺はこれだけしてあげているんだから」

「俺は相手のために思っているんだから」

「俺は真剣に言っているんだから」


ということを大上段に振りかざしはじめると、それはあまり良くありません。自分でもここは、重要なポイントだと意識しているというわけです。



 なので、私はよく、他者に対して「あなたは本当はどうしたいの?」ということを前半はさりげなく聞いたり、リサーチしたりします。

 人間関係ができてくると、けっこうズバリ直接尋ねることもあります。


 相手の真の意図とは異なるところで、こちらが真剣さを増しても、おそらくそれはすれ違いを生むだろうと言う事です。



 真剣さを突き詰めてゆくと、「これが正解に近いのではないか」とか「こうあるべきではないか」といういわゆる決めつけ度合いが増えてゆくことがあります。


 その対極が「どうでもいいんじゃない?」「どっちでも好きにすれば」であるからです。



 解脱者の立場からすれば「すべては実は存在しないに等しいよね」ということでもあるのですが、そう言ってしまえば身も蓋もなく、私は誰とも真剣に向き合うことなくふんわりやんわりと


 口当たりのいいことだけを言って、お茶を濁す


ことでしょう。



 それでは、武庫川らしさもないので、できるだけ平易に、そしてちょびっとだけ、ズバリとその人のツボ・明日につながりそうなことをご提案することもあります。



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 いやあ、この中間というかバランスは本当に難しいですね。


 仏教では中道・中庸を説いたりしますが、まさにこの中間を歩くことは、支援者・被支援者双方にとって、難しいことなのかもしれません。


 
 臨床で活躍されているカウンセラーの信田さんという方がおられますが、彼女の指摘がとても興味深いので、引用してみましょう。



■ 親密だからこそ生まれる暴力
 http://www.mammo.tv/interview/archives/no188.html


 ・・・親密さは愛を育むのではないか、という表面的な着眼点に対して、親密さの危険性『支配することとの勘違い』が生まれる倒錯が生じる可能性について言及。

 夫によるDVについて、「所有し、所有される関係」において、物理的な暴力で支配してしまう男性と、殴られることで関係性を維持する女性の例についても解説あり。




 ・・・恋人間の暴力に悩む女性を手助けしていて、「武庫川さんも暴力を振るうのですか(その相手のようになるのですか)」と問われたことがあります。



 私は暴力を振るわないし、支配しようともしませんが、愛情が根底的に持つ暴力性を指摘した鋭い視点だと思います。




 なので、武庫川がよくやるのは「基本的に、報告を待っていて、その人の主体性を重んじる」ということです。こちらが主導するのは最後の手段であることは意識しています。


 これでにっちもさっちもいかなくなった時しか、武庫川ラブシャワーは発動しないようになっています。


 あとは、また一から自立してくれることを願うわけですが。



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 信田さんの論考はさすが臨床から出てきているだけあって、説得力があります。


■ 信田さよ子著「夫婦の関係を見て子は育つ」はスゴい本だと思う
https://togetter.com/li/33736
 

■ カウンセリングから見えてくるストレスと暴力
 http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20090106/181978/ 

■ 人間関係で大切なのは共振ではなく境界
 http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20090107/182133/ 


このあたりのお話もどうぞ。


2017年3月29日水曜日

君の心を0対91でボコボコにする話。そして武庫川がボコボコにされる話。




 武庫川はダメ人間が好きです。


 ・・・とまあ、いきなりの愛の告白(ちがうやろ)から始まった今日のネタですが、今日は




とある高校野球の試合で0対91で敗れた学校があった




というエピソードを取り上げたいと思います。



J-CAST 

0対91で敗れた英心高校野球部 「選手はダメじゃない」監督は胸を張った

http://www.j-cast.com/2017/03/28294222.html




すごいでしょ?いろんな意味で感動のエピソードだと思います。


武庫川が一番ツボなのは、いわゆる英心高校の子供達が、



 マイナスからの状況、いや、最後までマイナスの状況なんだけれど、そこで自分たちが逃げなかった、そして奮闘したことだけではなく、


 やっぱり、相手チームが、最後まで真剣に手を抜かずに向き合ったその心というか、真摯なところ



も素晴らしいなあと思うわけで。



 この両者ともが、 いわゆる客観的な「良い悪い」とか「高得点低得点」の垣根を越えて、


 おお!そこだよそこ!

 
という、「今を全力で生きている感じと、だからこそ未来に希望がある感じ」へと繋がるのだと思います。



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 冒頭で、「ダメ人間が好き」発言が飛び出しましたが、ふだん自分を卑下していたり、自分はダメだと思っている人間が、がっつり自分に向き合ったり、がっつり誰かと真剣にぶつかりあったりした後はやっぱり違います。すごく変わります。



 それは「自分はできる」と勘違いしている人よりも、秘められたすごい力を持っている可能性があるということなんです。





 私は、けっこう誰にでも、必要があれば構うほうなので、 たぶん生半可に私と接すると、


「うわあ、めんどくさい。ややこしい」

「なんか難しいこと言う、この人」


と思われるのがオチです。



なのでふだんは、武庫川散歩は、誰とでも人付き合いがあっさりとした本音を見せないさらりとした人であることを心がけています。





しかし、「この人には、伝えたいことがある!」と覚悟した際には、ややこしかろうが、めんどくさがられようが、なんなら嫌われようが0対91になるまで


フルボッコ


にする癖が・・・。





 いやもちろん、そこへ至るまでには、信義を尽くして相手をとてつもなく尊重しているのですが、フルボッコの瞬間は他者からみれば



「おいおいそこまでやらんでもええやん。手加減してやっても」



なのかもしれません。 でもこれこそ野球と同じで、「手加減することの非礼さ」が横たわっていますから、私はそれは嫌なのです。




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 ただまあ、真剣であることって、まったくの他者からみれば滑稽な生き方なのだろうな、と思いますよ。


 笑いたければ笑え、という気持ちでいるので、武庫川はもはや笑われることには慣れていますが。




 滑稽な話で言えば、今日のテーマとも多少関連しますが、その昔、真面目に付き合っていた女子がいて、諸般の事情でその女子と別れたり、彼女が他の男のところへ行ったりというまさにその時に、



 彼女、私、その新しい男



という三者が対面するという修・羅・場に遭遇することと相成りました。



あ、まだ解脱前よ(うふん)。武庫川そのころまだ普通の人だったのですがね。



で、武庫川はすでに彼女とは別れているので、恨みつらみを言うわけでもなく、その子のことを心から大事に思っていたので、新彼氏に


「彼女のことをよろしく頼みます。幸せにしてあげてください」


と言ったのです。


 その私の真面目さ、真剣さが逆に滑稽で、そして腹立たしかったのでしょう。



 「は?おれたちまだ知り合ったばかりで、幸せとかそんなん知らねーよ。いま楽しけりゃいいんだよ!てめえバカじゃないの?ウザいんだよ!」


と激怒して、武庫川青年は、そのヤンキー兄ちゃんに殴られ、蹴りまわされました。



 で、地面に這いつくばってピクピクなっている武庫川を横目で見ながら、そいつの車に乗っていってしまった元彼女。



  いやあ、滑稽だねえ。武庫川滑稽すぎます。



 ワシそこからどうやって帰ったのか。覚えていませんな。とりあえず生きてることは確かです。



  それからも人生滑稽なことが多々あり、今に至ります。








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 後日談。



 その彼女とは、そこで縁が切れたのは確かなのですが、これまたいろいろあって、今もLINEがたまに来るくらいは友人です。


 あの時ワシを売りやがって!という気も、とくには起きません。(まあ、こちらは解脱したし)


 ただ、彼女はその後、3回か4回か離婚して、こどもの父親が全部違うという生き方をしています。


 滑稽であることに負け、「真剣さ」から一度逃げてしまえば、それを知っているがゆえに、求めてしまうのでしょう。


 彼女は「自分に真剣に向き合ってくれた人がいた」ということはずっと心に残っていて、けれど、それの代替物をいかに探そうとも、どんな男性も代わりにはなりえないのかもしれません。


 そう思うと、可哀想なのはむしろ彼女だったのだな、と。



 英心高校の部員も、ボコボコにされて良かったのです。そこに、見えてくる何かがあるのですから。















 
 









恋愛には6つのタイプがあるそうで。



 先日のブログで、うちの奥さんについて書きましたが、たぶん武庫川夫婦のことを知っている人は



 あの二人はちょっと変わってるなあ



と誰もが思うと思います。



 ええ、自分でもそう思います。



 そのため、よく「武庫川夫妻は謎だ」という評価をされるのですが、どこらへんが謎なのか、解明してみることにしました。



 で、人が恋愛する上で、6つのパターンがあるというのは有名な話なのですが、最近はネットが発達してすぐに分析できるサイトなんかがあるので、便利になりましたな~。



 はい、みなさんも、意中の相手に対して



 自分がどんな恋愛傾向を取るのか




を分析してみてください。


恋愛タイプ診断
 http://galle.oe-p.com/lets2.php



↑このサイトは、けっこう分析力がシビアで、お勧めです。ちょっと表現はカタイけどね。




ちなみに武庫川さんの場合は、




 Ludas[遊びの愛]   1/37
Pragma[実利的な愛] 4/37
Storge[友愛的な愛] 27/33
Agape[愛他的な愛] 29/37
Eros[美への愛] 21/37
Mania[嫉妬深い愛] 21/37




 Ludas[遊びの愛]   8/37
Pragma[実利的な愛] 5/37
Storge[友愛的な愛] 27/33
Agape[愛他的な愛] 28/37
Eros[美への愛] 16/37
Mania[嫉妬深い愛] 18/37




 武庫川氏は、基本的に「相手のことを最大に考えるアガペー型」と「友愛友情のストーゲイ型」の
部分が強く、遊びや実利が極端に低い




 愛情深く親しみ深い、誠実な人




ってことですね(自画自賛) ★外見に対しての感性や、嫉妬心などは平均的だそうです。






2017年3月28日火曜日

うつ病に効く「認知行動療法」 ~7割が無症状に改善するという認知療法とは?!~




 心の病とメンタルハートに、とても面白いニュースが飛び込んできました。



 うつ病に認知行動療法 治療終了から1年後7割が無症状に

 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170327-00050015-yomidr-sctch



 武庫川は、基本、本当の精神疾患ならともかく、いわゆる「うつ病もどき」に対しては、薬物療法なんかしても無駄!だいたいそいつはもともと病気じゃない!というスタンスを取っています。

(医学関係者のみなさんごめんなさい)



 このブログでも再三取り上げていますが「正義のゆらぎ」という状態に心が陥ると、さまざまな心因的諸問題が起こり始める、ということなので、その対処法は


「その人自身の考え方・受け止め方を変える。あるいはサポートする」


ということがかなりよいツールなのではないか、と思っているのです。




 上の記事でも、いわゆる投薬を受けたグループよりも、認知行動療法を受けたほうが良い結果、それもむしろ解決してゆく可能性を示しており、武庫川は体感的にもそっちがありえると思うわけ。



 医者のコメントとして(以下引用)


”「患者さん本人が、考え方や行動の幅を広げる技術を学ぶと、治療終了後も日常生活でそれを生かし、改善が続くのだろう」”


という言葉がありましたが、 結局



「本人がどう思い、どう感じるのか」


という部分を再構築したほうが良いってことなのかもしれません。




 ただ、認知行動療法は、時間も手間もかかります。その人の課題に「向きあう」という物理的な手間がかかるので、治療として行うには専門家への大きなコストが生まれるのかもしれません。



 ここに関しては武庫川がちょびっと言いたいのは、



「本来そのコストは親が子供たちにかけるべきもので、そこが手薄になると子供たちも苦しむ」


のだから


「できれば認知のゆがみを治すには、適切な家族関係」


が第一に重要なのではないか、ということです。



 現実には、現代社会における家族関係はとても難しいものになっているので、それを父なり母なりに「責任を持て」というのは酷であることもわかっています。




 なので、武庫川としても、


「他者が他者なりに、誰かに関わってゆくことの最適解はどこにあるんだろう」


ということを毎日悩んでいます。


 試行錯誤もします。失敗も多いです。


 でも、なんとか探りあてたいなあ。






2017年3月27日月曜日

精神的に強い人、とはどんな人なのか。 ~”精神が強い人”はやらない10のこと~



 通常運転に戻ってきた武庫川散歩の悟りブログです。


 さて、Forbes(japan)にこんな記事が載っていて、面白そうだったので取り上げてみました。



 精神的に強い人が絶対にしない10のこと

http://forbesjapan.com/articles/detail/15164?utm_source=ycd&utm_medium=yahoojp-p4-c2-leiis


1)失敗にこだわらず

2)ネガティブな人と付き合わず

3)自分を疑わず

4)謝罪を求めず

5)自分を哀れまず

6)恨まず

7)誰の悪影響も受けず

8)人のことに介入しない

9)怠けない

10)悲観しない



・・・・。これが、精神的に強い人なのだとか(^^;


「いーよいーよ、断られても気にしないからさ~。おねーさん僕と一緒にごはん食べない?君みたいなイケイケの女子が好きなんだよね~!」

「え?僕?僕イケメン。え?今日はダメなの?じゃあ、明日!もう!しょうがないなあ。じゃあ、今日はあきらめるね。バイバーイかわい子ちゃん!」

「ていうか、俺まじでイケてんじゃね?俺サイコー。まじ関係ないって感じ。あ、そうだ。次の女の子探しにいかなくちゃ!絶対いい子いるんじゃね?」


  というパーティピーポーは、つまり精神的にタフってことですね。激しく同意します!!!!





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 とまあ、なんだか変な違和感を覚えたために、思わず突っ込んでしまったのですが、ここで武庫川なりの


「精神的な強さ」


とは何なのか考えてみることにしました。




 上記の10の項目について、武庫川だったらどうするでしょうか。



1)失敗したら、原因を考える。二の舞にならないように方策を変える。

2)ネガティブな人でも、ちゃんと付き合う。どちらかというと励ます。

3)自分の言動は、相手に伝わっているのか考える。誤解を生んでいないか思い起こす。

4)謝ってもらうことが本意ではないが、わかってくれたらいいなとは思う。

5)自分を哀れむことはない、ここははじめて意見が一致しましたね。

6)恨みません。叱りはしても、忠告はしても、何をされても恨まないタイプ。ここも合致。

7)他者に流されはしませんが、他者との関わりは重視するし、ちゃんと反応したり相互作用を起こしたりはします。

8)介入するときは、する。

9)時には寝る。

10)悲観はしません。かならずなんとかなる、うまくいくとベースで思っています。ここも合致。



 ということは3つくらいしか強者にあてはまらず、7つは異なるので、


 武庫川は弱い人


なのでしょうか?


 いやむしろ、「あるがまま。自分の本当の姿と、あるべきだと考えている姿が合致している」人なのかもしれません。



 あるいは、強さとは、「弱さをはっきり知っていて、それでも覚悟を決められる」ことなのかもしれません。




 やるときはやる人でありたい。


 ここぞという時には、どんなことでも挫けない人間でありたい。


そう思っております。修行中です。




出家女子は、還俗しました。 ~次郎法師、井伊直虎になる~



 NHK大河ドラマ「おんな城主井伊直虎」見てますか~?

 日曜日の放送、第12回は良かったですね。三浦春馬演じる「直親」が暗殺されるんだけれど、直親の無事を願って水垢離する柴咲コウのもとに、


 笑顔の三浦春馬が現れる・・・そんな夢まぼろし。


のシーンが。


 武庫川、号泣です。


 夢って現実とは逆になるんですよ。心理学的にもちゃんとそうなの。



 だから、笑顔で三浦春馬が柴咲コウの元に戻ってくる「夢まぼろし」を見るってことは、



 もう二度と会えない=死んでる



ことの象徴なわけで。



 なんでよりにもよってそんな演出やねん!と解脱者武庫川は、思わずこっちの世界へ引きずりもどされる始末。



 ええ、そうですよ。武庫川は泣き虫なのです。


「おとうちゃんなんで泣いとるん?」と息子にも笑われました。




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 さて、次郎法師は出家していたわけですが、還俗して井伊の領主「直虎」として立ち上がります。


 そんなわけでドラマの世界だけでなく、我が家へ逗留していた「出家女子」も無事還俗して新しい生活へと旅立ちました。



  パチパチパチ。



 まあ、そこへ至るまでは、ちょっと出家内容が濃かったので、私もすっごい肩入れしたために、言いたいことは全部本音で言ってしまったのですが、



 最後はケンカにはならずに、とりあえず快く送り出せる感じ(たぶん)



なので、良かったです。



 ・・・なんでケンカになるのか? そりゃ、互いに本音でぶつかったら、そうなる瞬間もあるよさ。


 モノを投げつける女子とか。怒鳴り返す武庫川とか。


 これはでも、出家には付きものの儀式みたいなもので。



  出家というのは、グレた心を解きほぐしてゆく時間なのですから。




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 そういえば、うちの奥さんの友達たちにも、出家女子のことがバレていたようで。


「○○ちゃんとこ女の子来てるってほんま?!」

「うん、来てるよ~」


みたいな。


 うちの奥さんは友達からは、「めっちゃ友達だけど、どこかに謎を秘めた女」認定されているらしく 出家女子の一人や二人くらい、いつものことだぜ!みたいな感じなので、もはや誰も一目置き過ぎて何も言えない感。



 出家女子が来る前にも奥さんは


「せっかく来るんやったら、もてなさなあかんな!」


とあれこれ準備をしたり、 すっごい時間をかけて2階の部屋を片付けたり、寒いだろうからストーブを移すとか、洗濯物を乾かせるように乾燥機を設置とか、なんかいろいろやってましたわ。


 出家中も、「献立は何にしよう」とか「何が喜ぶかな」とか、考えていたようで、ある日も女子を囲みながら



「今日は手巻き寿司じゃー!」



と、豪勢にイクラやら、マグロやらが出てきました。




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 うちの奥さんは、基本的にはとても女子たちの理解者です。


 「悩み深き少女の時代があり、鬱とグレとこの世の矛盾に嗚咽した思春期女子の時代があり、また大人になっても甘えんぼな私たちがいる」


ことをよく知っています。



 うちの奥さん自身が、グレ女子だった時代を回想しながら、若かりし武庫川に救われたことを思い出しているのかもしれません。


  出家女子達が、武庫川のところへやってきて慕うのも、よくよく理解できるのです。


 自分の夫は、昔からそういう人だったのですから。



 

 「私にとっては、今でもあなたは心から尊敬できる先生です」


と、この間奥さんに言われました。



 でも、もし過去に戻ることができるなら


「その時は、別の道を試しに選んでみるかな」


とも。  ・・・なんでやねん!!!





 




 



2017年3月24日金曜日

人生の問題・悩みとは何か ~絡んだ糸を解きほぐすために~



 ここのところしばらく、私事でバタバタしておりましたが、ようやくそれもひと段落ついたので、またブログをぼちぼち更新してゆくつもりです。




 人生は悩み深きもので、かくいう武庫川もこれまでの四十数年間、いろいろな悩みにぶち当たったり、心を病んだり、あがいたりもがいたり、苦しんだりしてきました。


 それはもう、他者からみれば、ドラマチックでダイナミックな波乱万丈紆余曲折の連続なのですが、そうした有象無象を乗り越えて、現在のわたしがいます。


 解脱者とはいえ、完全な存在とかそういうたいそうなものではないため、今でもいろいろ悩んだり、迷ったり、泣いたり笑ったりします。

 けれど、それらに対して「苦しむ・苦悩する・嗚咽する」ということはほぼ無くなりました。



 どちらかといえば、穏やかに、でも時には感情豊かに過ごしています。



 そういえば、冷静と情熱の間、という小説がありましたね。


 あの物語は「30歳の誕生日にフィレンチェのどこそこで会おうね」的な約束を男女がしていて、10年経ってその約束がどうなるか、という話だったように思います。



 似たようなことはあるもので、私ととある女性は東京の江戸東京博物館に手紙を預けていて、


「25歳になったら、お互いにその後の人生がどうなるか決定しているだろうから、その時にはここで自分たちへの手紙をとりに来よう」


という約束をしていました。


 ええ、行きました行きましたとも、その年月が過ぎて約束の年の期限が切れるまでに、取りに行きました。


 で、その女性とはどうなったかって?


 ・・・おしえませーん!



  また別の女性には「あなたには私の結婚式にかならず出て欲しい。なので、絶対にその時が来たら、出席してください」と言われ続けていましたが、その前にケンカしたので、



 いつのまにかその子は結婚してた(爆)



ということも。オイ!




 冷静と情熱の間には、何が起こるかわかったもんじゃありませんな(^^;


 ただひとつ言えるのは、武庫川はとてもセンチメンタルな人間だということです。まだ16だから。




~~~~~~~~~~



 さて、人生には悩みがあり、問題がある。


 長年もつれたそれらの糸をほどいて、悩みや問題を解決するためには、因数分解が必要です。



 あ、ここで、数学が苦手な女性ファンが何人か逃げてゆきましたね。



 要するに、絡んだ糸をゆっくりほどいてゆく作業が必要だということです。



 そこで、今回は5つのカードを用意しました。


「家族」


「仕事」


「居場所」


「恋愛」


「他者」


 これを、トランプくらいのカードに書いてみてください。人生を構成する要素は、実はこれくらい。たった5つくらいに単純化できるものなのです。


 順位をつけるなら、上から順に大事です。


 家族が存在しなければ、あなたはこの世に生まれていないし、仕事がなければ食べていけません。ホームレスは居場所がなくても生きていますが、できれば居場所はあったほうがいい。ましてや恋愛は「ある」人も「ない」人もいるでしょう。他者は「いる」場合も「いない」場合もあります。引きこもりの人もいれば、友達がいない人でも生きてはいるからです。





 今度は、カードの裏にこんな文言を書いてみましょう。


「家族」・・・父子・母子・きょうだい・親戚や祖父母


「仕事」・・・やりたい活動・食べてゆく糧


「居場所」・・・住む場所・心のよりどころ・落ち着くところ


「恋愛」・・・恋人がいるということ・愛する人・好きな人・気になる人


「他者」・・・友人・同僚・取引先・近所の人・趣味の仲間



 この裏面は、シンプルな表面に対して、もう少し具体性をもたせた細かな内容です。


 おおむね、これらの要素が、あなたの人生を構築していて、あなた自身の生き様を構成しています。



 これらの内容が、積み木やおもちゃのブロックだったとすれば、これらをカチャカチャ組み合わせてゆくと、あなたの人生の枠組みが決まってきます。


 ところが、これらの要素がぐちゃぐちゃに絡み合っていると、あなたは苦労し、悩むことになるのでしょう。


 ひとつひとつの要素は、独立している単体でも機能します。 だから単体で機能させることが出来る人は、悩みには強いです。ひとつひとつのブロックそのものは、簡単に壊れたりしないので。


 ところが、要素が複雑に絡み合っている人は、


「あっちを崩すとこっちが崩れ、絡み合い。こっちをいじるとあっちが狂ってくる」


みたいなことが起きて、心も乱れます。



 たとえば、


 父親の支配から逃れられず(家族)、そのせいで家を脱したい(居場所)のだけれど、職が不安定(仕事)なので、自立できない。


 母親が宗教にはまっていて(家族)、恋人はいるけれども(恋愛)、その人とはDVだったりして落ち着くことができず(居場所)、誰にも相談できない(他者)


みたいな感じ。各要素が入り混じると大変なことが起きます。



 ただ、これらはさっきも言ったように、ブロックで組み合わせるものですから、一つのパーツをいじれば大きく事態を変動させることも可能です。



 自分は学生だが、実家にはお金がないので(家族)、早く就職して(仕事)、自立しなくてはならないのだけれど(居場所)、恋人は遠方にいて(恋愛)、頼ることもできず、友人たちは次々に新天地へ旅立っていった(他者)


という状況で、どうしようと困っている人がいたとして、この場合、


 仕事が決まれば(仕事)、おのずとその近くに住んで(居場所)、家族と独立した家計を営み(家族)、なんとか生きてゆくことができる。恋人の近くで仕事が決まればなお良し、遠ければ遠距離(恋愛)、新しい職場の人間関係が生まれる(他者)


みたいに、「仕事」というブロックひとつで、ガラリと人生が変わることだってありうるわけです。


 古い問題は、ある種リセットされるわけですね。


「仕事が変わる」


「恋人・パートナーが変わる」


「住む場所が変わる」


「友達が変わる」


「家族(との関係)が変わる」



  まずはたった一つのブロックを、置き換えることを試してみましょう。そこにはちょっとした努力が必要かもしれませんが、ひとつのブロックが変化するだけで、構造物全体がすっかり変化することも多いのです。



 もし、その後で新たな問題や、悩みが出てきたとしても、それはまたそれとして、新たに取り組めばいいのです。





~~~~~~~~~~




 武庫川散歩が解脱しているというのは、逆に言えば、これらの要素が安定していて、一つくらいブロックが変化しても動じない、という点を意味しているのかもしれません。



  仕事の内容が変化しても、こなせるだろう。


 友達は最初からいないから、増えても別に変わらない。


 父は死んだ。(ある意味不変)


 家買ってしまった(これもとりあえず不変)



 ↑上は例えですが、ブロックが揺らぎがたい状態で、なおかつそれが当人にとって適した状態であるなら、悩みはそれほど深くはならないということでもあるわけです。





 まあ、私のことは別にしても、今日のお話のような考え方をすると、複雑に絡んだ悩みでも、なんとかスムーズに変化させることができるかもしれません。


 おためしあれ。








 















2017年3月17日金曜日

心に穴が開いている人へ サミシイワタシ 〜出家女子との対話から〜



 前回の記事に引き続いて、現在出家修行中の女子がいる武庫川の草庵から、彼女との禅問答についてお届けしようと思います。


 今回のテーマは、「心にあいた穴というか、何をしても、何を詰め込んでも満たされないような空虚さ」について。


 「愛しさとせつなさと心強さと」とか「存在の耐えられない軽さ」とか、そんなのみたいですが、ええもう、


”めちゃめちゃ苦しい、耐えられないくらいのさみしさ”


について出家女子は語ります。



 そもそも、女子が出家しよう!と思うのは、たいていの場合この「存在の耐えられない寂しさ」に苦しむからであって、宗教的素養がなくてグレてしまえば、それはもう


 家出


するぐらいしかありません。その意味では、出家女子も家出女子も、根幹においては同じような存在なのかもしれません。




〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜




 ちょっと抽象的な話になりましたので、もうすこし具体的にお話をしましょう。



 どうも世間を観察しておりますと、平たくいえば「片親である」とか「ネグレクトがある」とか、「親が離再婚している」とか、そういうわかりやすい


 家庭の問題


だけでなく、「親が実は毒親だった」とか「教育方針が偏っていた」とか「宗教に入っていたので2世にさせられた」とか、「冷たい」とか目に見えないような


 欠落・欠けた感じ・欠損・満ちていない・足りていない


ような状況が、子供たちの周りには渦巻いていることがわかってきました。



 こうした事態を、仮に「家庭における欠落状態」と呼ぶことにしますが、そうした父子・母子の間のなんらかの欠落があると、



 子供たちは、心底寂しい状態に陥る


ということが、経験則ながら見えてきたように思います。



 この寂しさは、なかなか一筋縄では解消できない魔物でもあります。


 表面的なことばで言うところの古めかしい使い古された言葉ですが


「大人はわかってくれない(たいていこの場合、大人というのは親)」


なんて生やさしいものではなく、


自分の中の欠落・ぽっかり開いた穴・空間・空虚さ・得体の知れないさみしさ


のようなものが、ずっと心に住み着いているような状態になるのです。




~~~~~~~~~~



 うちに出家にくる女子たちは、たいていそうした空虚さにさいなまされています。


 しかし、ここでポイントなのは、仮にA子ちゃんの空虚さについて


「親がエホバの証人で、表面的な人柄の良さや敬虔さを演出しているけれど、あたしにはさまざまな強制や強要・管理監督をしてくる」


というものであったとして、そこにいたB子ちゃんの空虚さが


「うちなんか片親で、おかんは男作って出て行ってしまったし、お父さんは飲んだくれ」


というものだとしたら、みなさんはどう思うでしょうか?


 あるいは、C子ちゃんは、


「あたしは、小さいときから親が成りたかったピアニストの夢を継がさせられるために、人生をピアノに捧げさせられている」


という空虚さだとしましょう。



 ハタから見ている我々にとっては、この3人の心のさみしさを見たときに、


「そりゃ、B子ちゃんは大変そうやな。A子ちゃんもいろいろあるだろうけど、C子ちゃんなんかお金もあるんやし恵まれてるやん」

という、一見客観的な「公正な裁き」をしてしまいそうになるものだと思います。



 しかし、それは完全な間違いだと武庫川は喝破します。



 「あんたまだ恵まれてるやん」


という話をいくらしても、彼女たちの心の空虚さは、絶対に埋まらないし、むしろ傷口は広がる一方だと断定できます。



 外部から見ると、「家庭の問題度には差異がある」ように見えますが、彼女たちの心の内側から見ると、それぞれの問題は



「あたしの心における最大で、どう穿ちようもない大きな壁であり、重荷である」



ことは間違いないのです。つまり、1人1人のさみしさは、比較してどうこういう言えないような、絶対的苦しみだということです。



 比較するのであれば、すべての女子は「アフリカの内戦で飢えている子供たち」よりかははるかに幸せ一杯夢一杯なのです。だったら、全員文句を言う筋合いなんてない。だから、「その心の空虚さを押し込めろ、より下を見て比較したらガマンできるやろ」ということになってしまいますよね?


 
 すると女子たちは、グレる以外にその空虚さを表明する手段がなくなる、という理屈です。




~~~~~~~~~~



 武庫川が発見した解決メソッドは、そのさみしさに対して、


「一体化する、受け止める、補完する」


という対策だったりします。


 空虚な女子たちは、彼女たちなりの「完全な欠損のない親子像」「母子像」「父子像」をおぼろげながら夢見ています。


 そして、実態はそれとはかけ離れているので、実は「真実完全、まったく問題ない親子像・母子像・父子像」 とはどんなものかなんてことはわかりません。最初から知りません。


 しかし、現実が「欠損、欠落している」ことは確信しています。そこに文句があったり、いらいらがあったり、さみしさを感じるわけです。



 よろしいですか?ここから大事なところへ入っていきます。


 まず、逆説的に話しますが、いま「完璧な親子像」について命題を挙げましたが、実は



「完璧な親なんてこの世に誰一人として存在しないし、そんな完全な親子関係は実際には無理」


だということも、一面では真実だということを忘れてはいけません。



 とすれば、「欠損・欠落していると感じている」女子に対して、見も蓋もない言い方をすれば、


「そんな理想の親子関係なんて、どこにもないわい。みんな全員誰だって問題を抱えてるんだ!」


と言ってしまえばそれで終了だし、そしておそらくそれは真実で正しく、正論で言い返せないのです。


 だから、そういうなだめ方をしても、女子たちの空虚さは解決しません。


 大事なのは、女子たちの空虚な感覚を「受け止める」ことであって、他人事ではなく「一体化」することだと判明してきたのです。


 そしてそれは、「わたしもそれわかるよ」「だれそれちゃの気持ち、理解できるよ」という受け止め方ではない、というちょっとややこしいポイントがあるということも、付け加えておきましょう。


 仮にグレているA子ちゃんが「あたしにはこんなさみしさがあるんだ」と言われたとしましょう。

 それを聞いた支援者が「わかるよ、わたしにもそれわかる」と言ったとしましょう。

 A子ちゃんは必ず100%に近いくらい「おまえなんかにわかるかい!」と言うでしょう。


 ・・・だって、グレてるんですから。そこをあえて汚くののしるのが、空虚さなのですから!



  だから、これはただ表面的に「受け止める」「立場を同じくする」ということではないのです。



 解脱者武庫川が神からの啓示(←神などいないと言ってるくせに)によって得た答えは、もっと深い部分での「受け止め」「一体化」であり、そうすることで「補完」ができるという仕組みです。



 武庫川なら、なんと答えるか。それはとても明解です。


「わたしが父親なら、あなたにこう言い、こうします。わたしが恋人なら、あなたにこう言い、こうします。わたしが夫であれば、あなたにこう言い、こうします。わたしがあなたの人生に関わり、責任を持つ立場であれば、こう言い、こうします。」


(言う内容や起こす行動は、相手の問題によって変動するので、書いてませんが)


そして、こう付け加えるでしょう。


「わたしは、今目の前にいるあなたに、関わります。本気であなたの話を聞き、受け止め、そして、間違っている点があれば激怒するし、叱ります。悲しければ泣きます。いまも、泣きそうで苦しい。あなたの話は苦しいし、あなたの空虚さは、さみしいと感じます。わたしはあなたの人生に責任を持てる立場にはないけれど、責任を持つつもりと覚悟をもって、あなたには向き合います」


と。


「間違ってはいけないのは、わたしが完全であなたの親が不完全だというつもりではないということです。わたしが仮に真剣にあなたに向き合っても、失敗や間違いを犯すことはたくさんあると思います。ましてや全ての人は、全ての親は、完全にあなたに正しく向き合うなんてできるわけはないのです。親自身も、今のあなたのように欠落やさみしさを抱えて、大人になってきたに違いないのだから。

でも、もし、あなたの親があなたに対して、本当に何かどこかの部分で足りない、無理解のようなものがあるとすれば、そこくらいは世界でわたし一人でもあなたのことを理解したいと思います。

わたしはあなたを応援します。」


と。


 出家女子や私の弟子たちがこの記事を見たら、笑い出すに違いないでしょう。武庫川は本当にこう言うし、こうするし、本気でそうするのを目の当たりにしているからです。




  とまあ、こんな話を出家中の女子とずっとしています。なかなかの修行でしょ?(笑)



 


 














2017年3月13日月曜日

出家女子がやってきた! 〜自分を卑下する女子への特効薬〜


 清水なんとかという女子が、幸福のなんとかという宗教に出家したらしいのですが、それとは全く無関係に、我が武庫川散歩の草庵にも、


 出家女子がいま一人滞在


しているので、その話でも。


 え?家出女子の間違いではないか、って?いやいや、彼女はふだんは一人で暮らしていて、別に盗んだバイクで走り出したり、親と血で血を争う状態ではないので、きっと家出ではなく、



 出家



で間違いなかろうと思います


 ちなみに、出家して、武庫川の草庵で何をしているかといえば、とりあえず自分のなすべき仕事をやっているので、それは勤行に匹敵する敬虔な行い、と言えるでしょう。


 また、ご安心いただきたいのは、彼女は今後永遠にこの寺?にいるわけではなく、




 たぶん、数日で還俗




する気まんまんなので、それは尊重する次第。 早く還俗して、幸せになってほしいものです。





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 そんな感じで、解脱者武庫川のもとには、その教えを乞いたいとたまに出家女子がやってきます。


 武庫川は、今をトキメク解脱者なので、来る者は拒まず、去る者は追いません。解脱者のもとに来たければ勝手にくればよろしい、と万人に伝えていますが、



 ただし、女子に限る



のは、ご愛嬌。




 さて、いつもそうなのですが、おおむね出家女子がやってくると、庵主である武庫川との間に、いろんな議論公案が交わされることになるのですが、その大半のテーマは、もちろん人生についてです。



 禅宗では、よく公案という問いを用いて、悟りに近づこうとします。一休さんがよく言う



「そもさん!」


「せっぱ!」



というのがそれです。作麼生(そもさん)説破(せっぱと漢字では書きます。


 臨済宗で使うことが多いのですが、「質問しよう」「お答えしましょう」みたいな感じですね。



 出家女子が悩んでいることの大半は、


「過去の自分の行い」





「現在の自分の状況」





「未来の自分の道筋」



の問題で決まり!です。タロット占いで出てくる「過去現在未来」みたいなもんですが、 たいていの出家女子は、過去と現在でぐちぐち悩んでいることが多いので、武庫川は



「そんなもんを考えていても過去は変わらない」


喝破します。問題は、過去ではない!むしろ未来に

「本当は自分はどうしたいのか」


ということを考え、それを実現させるために、「今日、いま何をすべきか」という
部分にすべて帰結するのです。




 なので、すべての女子に宣言しておきますが



「私の性格はああでこうで」

とか

「私はこんなことを繰りかえしていて」

とか

「だから私は自分がダメ人間だと思っていて」

とか、


ぐちぐち言っている人は、今すぐそれをぜんぶやめて



「では、それ以外の生き方をしなさい」



ということなのです。



 たいていの場合、本人は「これが私のダメなところ」という部分が仮にあるとして、



あんたほんとはそんな自分が好きなんじゃないの?



とつっこみたくなるくらい、そんなダメなところを毎回くり返しながら行動しています。


 でも本人はかならず「いいえ!私はそんな私が嫌いなんです!」と主張したり、力説したりします。



 いいや。ウソですね。それは。


 たしかに、表面的にはそうした自分を卑下したり、嫌っているそぶりがあるかもしれませんが、意外とそういう奴なのです。その人は。


 だから「そういう自分のいやらしい面がわかっているから、もやもやする」のであって、実はそんな自分が意外と嫌いじゃなかったりするから恐ろしいのです。




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 解脱するということは、無常であることを知るということなので、一種の


「悪の肯定」


みたいなところがあって、



「そんなおちゃめな自分って、ろくでもないよね!てへぺろ」


ということを認めるところから、全ては始まったりします。



 善なる自分に拘泥しつづけると、それはこの世界の価値を認める、正義を認めるということなので、従って


「それができていないわたしは、悪であり、卑下されるべきである」


ということになり、


「だから、そんなあたしは嫌い」


と言い出すわけです。



 ところが、実際には悟りの世界では、「きちんとできている自分」とやらも「きちんとできていない自分」とやらも、



結局はどちらも虚しいだけ〜こなーゆきーねえ♪


ということなのですから、きちんとできているあたしとやらがなんぼのもんじゃい!と武庫川は思うのです。


 
 だから、「きちんとしたい、ダメな自分を正したい」と心から思うのなら、今すぐこれまでとは真逆の行いをすればいいだけで、何も難しくはありません。


 しかし、心のどこかで、女子たちは「そんなダメな自分」を肯定しているから話はややこしくなるのですね。



 だったら、真っ正面から肯定せんかーーーー!!!!!



と和尚は叱っているわけです。




 武庫川は、基本、ダメ人間であっても、まるごと肯定します。それは無常なる人間の真の姿であるからです。


 
 まずは、ここからはじめて、その後に「どう生きるべきか」を再スタートさせなければ、幸せは訪れません。


 なぜなら、人間は赤ちゃんの時は、糞尿は垂れ流すは、よだれはこびりついているわ、鼻くそは飛び出しているわ、勝手に泣くわ、機嫌はたいてい損ねているわ、という


とてもひどい状態


からスタートして、のちに社会生活を身につけたり、よだれをふいたり、パンツを履いたりするわけですから、


 その赤ちゃんの状態の時に、親からまるごと肯定されること



が大事なわけです。最初から親が


「うわ、汚い!あんたちゃんと鼻汁拭きなさいよ!」


と赤ちゃんに接して、その子がまともに育つわけがないでしょ?


 最初は、まるごと受け止める・受け止められてこそ、そこから人生はスタートするのです。



 そして、大人になっても、心が辛ければそのことをちょっと思い出してみましょう。


 自分がダメ人間であってもよいんだ、というところからスタートすること。


 それが基本です。





 なんなら、このとっても紳士な武庫川が、そんなダメ女のあなたをまるごと受け止めようではありませんか!


 いつでも、待ってます(はあと)