2019年4月15日月曜日

高学歴に価値がない時代を生きるには




 その昔「末は博士か大臣か」ということばがあったようですが、今では、「大臣になっても失言で辞職する」とか、「博士号を取っても食えない」みたいな状況で、私なら自分の子供に



「博士になるのも、大臣になるのもやめておけ!」



というのは必定なのですが、 みなさんいかがお過ごしでしょうか?解脱者ムコガワです。




役に立たない学問を学んでしまった人を救うには?
 https://bunshun.jp/articles/-/11484

安田峰俊さん




高学歴ワーキングプア女性を自死から救えなかった社会保障制度
https://diamond.jp/articles/-/199722

みわよしこさん




↑の2つの記事はまさに、この話に関するものですが、現代というのはつくづく



「高学歴であることに価値が無い」



時代なのだなと思います。




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 これ、実は理由は簡単で、「仕事をする」というのは、結局「エサを取ってくる」ことの代替に過ぎないわけで、もともと学問が重宝されたのは


「エサを効率よくたくさん取るための技術や知識」

「エサをたくさん増やすための技術や知識」


の集大成なわけです。 直接的な農耕や遺伝学、生物学だけでなく、間接的には農作業には鉄器のほうがよいとか、集団の組織論に至るまで、結局は


「高学歴であることは、社会に恩恵をもたらすから価値がある」


と言えるでしょう。



 ということは、ぶっちゃけて言えば「実利がある学問のほうが、リターンがあるだけ重宝される」のは当然であり、「人文学なんて、実益からすれば後回しでどうでもいい」というのはこれもまた当然の話なのかもしれません。




 どうも、大学院まで出た人たちや学問の立場に寄っている人たちから見れば



「高学歴、高知識、高技能な人たちは、無条件で愛されるべきで、手厚くされるべきだ」


というイメージこそ善に思えるのかもしれませんが、それは言い換えれば


「野球やサッカーだけでなく、プロスポーツに限らず、すべてのスポーツは等しく尊重され、お金がどこかからか出てくるべきだ」


と言っているように聞こえなくもありません。それはきっと無理です。


「宣伝効果、集客力など、お金に換算されるスポーツとそうでないスポーツの待遇はおのずと違う」のと同じで

「お金に換算できない学問の待遇は、おのずと違う」


のです。


 いくら、人文学的に有能な人材が高学歴プアになっていても仕方がありません。セパタクローの有能な人材がセパタクローだけでは食えないのと同じです。


 セパタクロー大学院へ行ける位セパタクローがうまくても、こればっかりは仕方ありません。


(セパタクロー関係者のみなさま、単なるマイナースポーツの一例ですので、お気を悪くしないでくださいね)





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 かくいう私も43歳の人文学系卒業生であり、江戸時代の文学を研究していた人間なので、身の程を良く知っています。


 私は、某関西の一流と呼ばれる私大の文学部を2番で卒業した優秀な頭脳の持ち主なので、


「学部の卒論なのに、すでに修論レベルである」


と教授陣をうならせたほどの天才です。



 しかし、父親にお金がなかったので、大学院へは進学せず、就職の道を選びました。実はそのころ受けていた大学の授業でも、教授の中には「一回就職して、また学究の道へ戻ってきた」人も何人かいたので、そういうもんだと思っていたのです。


(ちなみに私は、当時の文学的知識や技術を使って、それをお金に換える方法を編み出したので、副業としてめっちゃ役に立っています。つまり、人文学の知識であっても、金に換える方法はいくらでもあるから工夫せよ!ということなのです)



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 それはさておき、人文学に貨幣価値が少ないという現実があるのであれば、人文学の担い手を


「専門学者」


に任せておくという今のシステムに無理があるのでしょう。あるいは引退後も、あるいは仕事をしながらも、在野で研究をしながら、高い成果を生み出せるのが人文学の強みです。


 そう!人文学とはライフワークなのであって、教授職でなければできないものではないからです。


 逆に、「学会を一般人にも開放する」とか、そうした取り組みで、「暇にあかせて偉大な研究をつづける一般人」をおのれの金で育ててゆくのも、よいのかもしれません。


 分散コンピュータの発想で言えば、別に高度な脳みそが1人、官費で雇われて研究をせずとも、在野で中くらいの頭脳がたくさん活動してもよいのです。




 理系の場合は、ちょっと様相が異なりますね。お金の匂いがするところには、いろいろな有象無象が寄り集まってきます。


 それもまたおもしろいものです。








2019年4月2日火曜日

解脱者はAI(人工知能)をどうみるか



 まいどおなじみ天下の解脱者、ムコガワ散歩です。

 俗世の年号が「令和」と決まったそうで。その意味付けが良いのか悪いのかは、当方解脱しているので、べつにどっちゃでもよいのですが、


「令嬢」

といえば、良い家の娘

となるので、令和が「良い+平和」という意味なのは、理解できなくはありません。



そもそも「令」とは 、かみさまのお告げの意味があります。


◆ 神のお告げなので、良いものに決まっている


そして


◆ 神のお告げなので、絶対服従


となるわけですね。



 めずらしく真面目なスタートですが、なんと言っても、ムコガワは、世をしのぶ仮の姿では、ピチピチの女子高生に国語を教えていたこともあり、一応は専門家の切れ端です。



 で、国語つながりもあって、今日は「人工知能とセカイ」についてお話します。



 やほーで、こんな特集記事がありました。


人工知能は小説家の夢を見るか――AIと「創造力」を考える

https://news.yahoo.co.jp/feature/1073



もう、タイトルからSF好きなら誰でもわかる、あの名作です。


「アンドロイドは電気羊の夢をみるか?」

フィリップ・K・ディックのもはや古典的名作、ブレードランナーですな。




 武庫川さんも、ご多分に漏れず、この↑ネタを使っています。



サイバーパンク的ゴッドは電気羊の夢をみるか
https://satori-awake.blogspot.com/2014/01/blog-post_30.html



 2014年の記事ですから、もう5年も前ですね。






 さて、人工知能とAI、そしてこのセカイのお話。元ネタの記事では



◆ 俳句をAIに作らせる話


が出てきます。このことは、国語を教えていた武庫川さんもずいぶん前から考えていて、作らせるだけではなく、


「50の17乗」で、すべての俳句を印刷して出版した場合、これまでに発表された句や川柳以外の著作権をすべて奪える


ということを本気でやろうとしたことがあります。倫理的にはしらんけど。


 実はこんなもんは人工知能でもなんでもなく、単なる順列組み合わせですから、



無能でもこのセカイのすべての俳句や川柳は生成できる


ということを意味します。



 単なる数列で生成した俳句や川柳に著作権があるか。ということは、そこに人間の創作性があるかどうかで現在は著作物の定義として判定されるわけですが、実際には


創作性なんかなくても俳句は生成できる


わけで、そうなると


「創作性なんて実は存在しないのではないか?」


とか、


「そもそも著作権の概念すら怪しいのではないか?」


とか、あらたな哲学的議論が沸き起こります。ああ、沸き起こしたい!






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 さて、解脱者武庫川が最初の解脱に到達したのは、大学生のときでしたが、その解脱に多大なる影響を与えたのが、アラン・チューリング先生でした。もちろん記事にも登場します。


 すべてのコンピュータの父であり、そして、すべての人工知能の父と呼べる人ですね。



 ”チューリングは「知性とは計算の延長線上にある」と考えた”


という点が記事では着目されて、 そこから人工知能の存在へとつながってゆくわけですが、チューリングが考えたのはそんな甘っちょろいことではありません。



 哲学的思考におけるアラン・チューリングの視点というのは、知性が計算できるどころか



「このセカイの事象は、すべて一本の紙テープに書き表せるはずだ」


と考えました。(当時はコンピュータの入出力は紙テープだったので)



 俳句の50の17乗がものすごい数であるために、実際にはそれを出力するのは難儀するのですが、物理的には不可能ではありません。


 とすれば、すなわち無尽蔵なハードディスクや、記録装置さえあれば、このセカイで起こっているすべてをデータとして書き表すことは、不可能ではないわけです。



 そしてさらにチューリング先生のすごいところは、その紙テープには、過去だけでなく、現在も、そして未来も計算できる、としたのです。


 ほんまかどうかは知りません。少なくとも、私が大学の講義を受けたときは、担当教員が、そういうふうに


「チューリングの意図を拡大説明」


したことは確かです。



 ええ、ビビビ!ときたろう。



  きちゃいましたね。大学生の武庫川くんは、ビビビときたのです。


 そいつはすげえや、てやんでい!と。





 元の記事にも少し出てきますが、「チェスは知性か、そこには創造性があるか」という議論が生まれます。

人工知能によって、計算によってチェスが出来るなら、そこに知性や創造性はないことになります。

あるいはすべての俳句を出力するのもそうです。そこに知性や創造性はないことになります。


 それと似ている話で、たしかに飛躍はするものの、


「すべての過去・現在・未来が計算できるのであれば、このセカイは唯一無二に存在している何かではなく、もしかすると一本の紙テープに書き込まれた記号と同一かもしれない」


というのが武庫川の解脱なのです。



 つまり、セカイは存在しないかもしれない。



 チューリングが「人間の思考は有限である」と考えたように、私は、この世界は永遠に開いているのではなく、もしかすると記号の羅列には、はしっこ、最後があるかもしれない、と考えています。


そこがまさしく


 SEKAI NO OWARI


なんちゃって。



 え?人工知能はどこへいったって?


 人工知能も、人間の知能も、そんなに変わらないただの計算可能機械なだけよ。




<参考文献>

 この世界は存在しない
https://satori-awake.blogspot.com/2014/02/blog-post_25.html