2018年2月24日土曜日

悟りは知性である! ~誰にでもひらくことができる悟りの理論的正体~


 みなさんこんには。
 
 ムコガワは、自他共に認める「友達がいない」タイプ(ぼっち)の人間ではありますが、先日その中でも数少ない友人のところへ出向いていって、久しぶりにいろいろ話をすることができました。


 ちなみに、この俗世には「自分には友達がいない」ということで嘆いているタイプの人がたくさんいるようですが、SNSのフォロワー数じゃないんだから「友達が多いほうが勝ち組」なんてことはけしてありません。


 おおむね、普通の大人、社会人ともなれば、30歳過ぎ、40歳過ぎてゆく中で「友達と絡む、何かをする」ということは極端に失われてゆきます。


 元同級生の顔見知りが、近隣にいて、たまーに人が集るところで顔をあわせたりして「おう!」なんてやることが3年か5年に1回ある程度で十分なのです。


  なーんでか?



 それはそれぞれ生活があり、家族を持ち、社会の中でなにがしかの役割を与えられながらそれぞれの人生を生きていくからであり、友達100人できるかなの時代は、あくまでも学生時代に与えられた(それも教育行政によって強制的に)システムだからだったりするわけで。



 なので、ムコガワには友達がごくごく少ないのであります。えっへん!





~~~~~~~~





 さて、その友人は世を忍ぶ仮の姿のムコガワのことをリアルで知っている数少ない知り合いでもあり、また



 このブログを定期的にチェックしているファン



を公言してくれている方でもあるのですが、いつか私の正体をバラす!と息巻いています。


そ、それだけはやめてー!!!!






 ちなみに、ファンによる記事定点観測によると、ずっと読んでいる限り、


「ついに、ムコガワは本当におかしくなってしまったか」


という時期がなんどか訪れているようで、これはもうすぐ



宙に浮く



とか、



天に昇ってゆく



とか、そういう不可思議が起きる前触れかもしれません。 ぜひ学研「ムー」の編集部の方に取材してほしいものですね。






~~~~~~~~~~




 というわけで、今日は、自称解脱者である武庫川散歩が、けしておかしくなっているわけではないことを証明するために、



「悟り」とは知性である。それも、誰もがいつかは到達できる簡単な思考である



ということをお話しようと思います。



 で、今日紹介するのはこの記事。



 小中学校の教育方針が今春から変わる理由
 http://toyokeizai.net/articles/-/210017



東洋経済さんの記事です。話の内容は文部科学省がこれから未来のこどもたちに何を望んでいるか、という話ですが、ここにわかりやすい「知性」の話が出てくるので引用しました。



 ニュースなんかでAIがどうだの、人工知能が普及すれば仕事が失われるだの、いろんな話が出てきて、「ああ、なんだか社会が変化するんだろうなあ」ということは漠然とみなさんも知っていると思いますが、具体的に何が起こるかというと



「これまでの学校のように、画一的な人材を社会に送るだけでは、もう無理があるんだ」



ということが、教育界でもすでに気付かれているということなのです。



 これだけめまぐるしく社会が変化すると、「一つの仕事や常識、知識」だけでは到底対応できません。

 あるいは、これまでのように「ずっと努力し続けることの大切さ」なども、そうやって頑張っている間に世間から取り残されたりするわけで、美徳ですら変化する時代になってしまったということでもあります。



  そうすると、「知識や技量」を大量投入することで乗り切れてきた社会(これがいわゆる学歴社会や大卒者有利の社会)が終わり、次々に新しい状況へと変化する社会が生じているわけですから、当然教育内容もそれに合わせていかなくちゃね、ということだったりします。




 さて、この記事の後半に、これから「人生はマルチステージになる」 という話が出てきます。簡単にいえば、会社員人生をまっとうして終わり、とか、何か一つのことをやり遂げて終わりというのではなく、


 生涯で複数のキャリアを持つことになる/持たざるをえなくなる


ということなのです。


 武庫川も、その友人も、本業やら軸足となる活動以外にいろんなことをやっているタイプなのですが、まさにこのことを先駆けてやっているわけで、それは時代の流れであるとともに



「食べて行くためには、いろんなことをやらなきゃならない」



という側面もあったりして、これはもうこのセカイの流れなのですね。





~~~~~~~~~~




  なんだか話が俗世を生き抜くために頑張る方向へズレていっているので、悟りと解脱の話に戻しましょう。



 記事の終盤に出てくる「知性には3段階ある」というのが、悟るということの本質を表しています。




 <第一段階> 環境適応型知性


 第一段階は「周りに合わせる」とか「ルールに従う」ことによって自己実現しようとする行動を意味します。集団や組織、あるいは環境に順応することを伸ばしてゆけば、成長し伸びてゆくことができる、というニュアンスです。

 これはたしかに知性のひとつですが、たとえばある学級のルールがあるとして、「いーけないんだー、いけないんだー、せーんせーに言うてやろー」と非難する女子がいるように、そのルールや集団、組織を絶対的に正しいものとして行動してしまうマイナス面もあります。


 ブラック企業から逃れられないことは、非知性ですが、まさにそういうことです。






<第二段階> 自己主導型知性


  集団の論理に頼るのではなく、自ら規範・ルールを決めて行動することが第二段階です。

 フリーランスや自営業の方はもちろん、企業の中にあっても経営や企画に携わる方はこうした動きをしなくてはならない場面が多々あることでしょう。


 第一段階が「誰かの判断」であるとすれば、第二段階は「自分の判断」ということです。






<第三段階> 自己変容性知性


 第三段階は、それまでの2つの判断基準やルールを客観視して、その限界を受け入れるということを示します。


記事を引用するなら

” あらゆるシステムや秩序、思想は不完全であると理解し、その限界を知り、矛盾や相反する考え方を受け入れ、対立を統合しながら1つの解を生み出していくのが最終段階なのである。”


ということです。


 これがすなわち、論理的に説明できる「悟り・解脱」の姿でしょう。



 まさに、般若心経でいうところの「色即是空・空即是色」です。すべては不完全で、誤りや矛盾をもともと内包するものであり、絶対的なものなどない、ということから、生き様を再構築することが第三段階なのです。





~~~~~~~~~~





 変化する時代の潮流を見極め、その都度変わる「ビジネスとしての正しさ」を変容させてゆく生き方と、実は「悟りを開いた生き様」は、本質的には似ています。



 それは時に、ビジネスそのものを超えます。



 たとえば、あるビジネスパーソンが「新しい時代時代に合わせて、自由自在に力を操って商品を売り続けることができた」とします。


 彼にとっては、そうして変化に対応しながらお金を稼いでいくことは、たしかに善なることで良きことに違いないでしょう。


 ところが、次の瞬間、「あれ?やっぱり自分はお金を稼ぐよりも、家族ともっと時間を過ごしたい」と思ったとします。それも、人生においてはまったくおなじ変化への対応なのですから、仮にすっぱり忙しいビジネスマンをやめて「家族中心の仕事に切り替えた」としても、それもまた善なることで良きことなのです。



 あるいは、また次の瞬間、「家族が絶対的正義なのではなく、もっといろんなことにいろんな人と関わりあいながら過ごしたい」と考えて、それを実行に移したとしても、それまた全然OKということになりますよね。



  このように、変容主義の知性とは、結果的に


「お金だけが全てでもないし、家族が全てというわけでもなく、この世にこれが全てというものはないんだ」


ということでもあり、


「全てのものは大事でもないし、逆説的に全てのものこそが大事だとも言える」


ということでもあるわけで、ここまでくると悟っている人と言ってることは全く同じです。





 結局、武庫川がいろんな名義を使い分けて、ありとあらゆるジャンルで好き放題しようとするスタンスも、あるいは世を忍ぶ仮の会社員として仕事に励むのも、あるいは家族と一緒に出かけるのも、時間があれば友人のところに出かけて行きたいと思うのも、全部「悟る」という行為と同一なのだ、ということなのです。



 そして、1人の女性を愛するのではなく、すべての女性は素敵だ、と言っているのも知性なのです。



 ・・・え?それは痴性だろうって?




 おあとがよろしいようで?



 ・・・え?おあとがやらしいようで? もうええっちゅうねん! 





2018年2月22日木曜日

差別とは何か。 差別をなくすたったひとつの解決策とは





 私は差別主義者である。


 ・・・・・とこう宣言すれば、おそらくこの記事を読む大半の人は眉をひそめ、そして、あるいは声を荒げてムコガワのことを批難しようとすることでしょう。


 それだけ、現代社会においては、差別という行為についてはかなり人々はセンシティブになっているし、またナーバスになっていることは事実です。



 しかし、それでも解脱者ムコガワは「差別というものは存在する。その意味で差別をなかったことにしたり、ないとみなすことはできない」と考えています。


 差別はあるし、なくなりはしない


ということこそが真実であり、事実だからです。





 その意味では、この話は、これまでに「悟るヒント」の記事で何度かお話した


「人が人を殺すことは善悪は別にして、確かに存在する」


という話に似ています。人は人を殺す。それとまったく同じで、人は差別する、ということであり、それは


 正確に、そして真実として存在する


のです。





~~~~~~~~~~





 よく男女差別や、社会における男女の役割や、子育てにおける男性の役割などを議論する時に、解脱者は



「人類が魚だったら、男女まったく平等に参画できるのになあ!」



と考えます。


 サケとかマスとか、とりあえず魚類なのです。


 女子が、ここが適当だと思うところに卵をボチャボチャボチャ!っと産卵して、


 男子がそこへうりゃーと群がって、ビチャビチャビチャ!と精子をかけて


それぞれどこかへ行ってしまったり、あるいは死んだりして、勝手に子供が育つなら、



「保育園もいらないし、育メンパパも不要だし、女ばっかり仕事を辞めたりセーブしなくていいし、社会と男女にまつわる差別や問題は全部解決するのに!」



と思うのです。それぞれ勝手にボチャボチャビチャビチャしてればいいのだから。完全に同等です。



 ところが実際は、女子にだけ毎月生理があり、妊娠して10ヶ月の肉体的ハンデを追い、出産という行為があり、授乳を約1年続けなくてはならないわけで、人類が増えるために3人以上子供を生むなら、足かけ10年近くは


 男子と女子はおなじ生活システムを維持することは根本的に不可能だ


と言わざるをえません。


 多少助けを男性側がすることはもちろんできますが、男性には産めないし乳も出ないわけで、ここに性差が存在するかぎり


 差はかならず存在し、それに対する処遇はかならず同じではない


ことは明白です。


 それはすなわち、(一方をどのくらいさげすむか、あるいは一方をどのくらい保護するかは別にして)差別が存在するということです。



 これはもう、男女の平等においては人は魚以下だということに他なりません。



 ~~~~~~~~~~




 差別は存在してはいけない忌むべきものだ、という視点は、近代国際社会の共通項のように思えますが、実際には現代社会はどんどん差別しあう社会になっていて、口だけです。


  それはとても簡単な理由で、上記のように性別ですら実際には平等ではなく、それぞれのキャラクターが付与されているからで、国と国とのキャラクターの違いや、持てる者と持たざる者のキャラクターの違い、あるいは貧富の差によって、



 差別は絶対に生じるし、存在する



ことになるのです。



 このことをとてもわかりやすく教えてくれる記事があります。



 差別とは何か?アフリカ人と結婚した日本人のわたしが今考えること
 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54492


 

 文化人類学者の鈴木さんという方のお話ですが、「善悪は抜きにして、ヒトはそういう行動を取る」ということを、文化人類学らしく客観視しておられて、とても良い記事だと思います。



 


 ヒトというのは、まず「自分の生存や利益を最大化しよう」と考える生物です。


 そして、「自分の子孫や家族の生存や利益を最大化しよう」と考えます。


 また「自分の社会的仲間の生存や利益を最大化しよう」と考えます。



  これは、言い換えれば、きょうだい間で争うし、血縁のないものの間で争うし、社会関係のないものの間で(つまり他民族や他国家間で)争うということを意味します。



 差別がなぜなくならないかは、それは「自分、自分たち」とそれ以外を判別区別するというもっとも基本的な生物の働きにベースがあるからです。





 上の記事の中にも答えのヒントがありますが、差別や区別、あるいはそれぞれの間に「差異」があることを認めながら、そこから他方へのさげすみや攻撃を減らすための方策はたったひとつしかありません。





 それは、差異の中に共通項を見出すことです。




 我と彼は、差異がたくさんある。しかし、おなじほにゃららを有している。



ということに気付いた時、さげすみと攻撃は緩和されます。差別や区別や、差異はけしてなくならないし、それはもともと別個のキャラクターです。


 ところが、さげすみと攻撃はいくぶんなりとも必ず減るのです。ここが差別問題に対する、たったひとつの突破口です。




 おなじ仲間なんだ。おなじ家族なんだ。


 おなじ民族なんだ。おなじ国民なんだ。


 おなじ祖先なんだ。


 おなじ人間なんだ。


 おなじいきものなんだ。



 この共通項の認識は、それぞれの人や立場などによっても変わって来るでしょう。しかし、どこの部分でストンと落ちても実はかまわないのです。


 どのレベルであってもいいから、ストンと落ちるものがあれば、それでいいのです。


 そういう心の動きができるのも、これまた人間のもつ可能性だと言えるでしょう。

2018年2月18日日曜日

なぜ弱者は弱者同士で叩きあうのか。 パート2



 前回の続きです。



 前回は、弱者たるものの基本的な特徴について書きましたが、いよいよ


「なぜ弱者は弱者同士で叩きあうのか」


について説明したいと思います。


 弱者とは、相対的に俯瞰して人間の階層を見たときの言葉ですが、基本的に人間は平等ですから、実態としては弱者であったからといって


「あたしは弱い存在で、施しがないと生きていけないのです、よよよよ」


なんて「態度も弱い」とは全く限りません。


 それよりもむしろ、弱者のほうが、(能力が低いと仮定すれば)自分の力を過大評価しますから、



参考)なぜ能力の低い人ほど自分を過大評価するのか
 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/47416



実際の力は伴っていない人のほうが「自分は強い、自分はえらい」と錯覚していることになるのです。





~~~~~~~~~~



 弱者は、強者の世界のことを体感できず、どうすれば強者になれるかを基本的に理解していません。

 (それを前回説明しましたね)


 その状況で、相手よりも自分が偉いと感じるならば、必然的におなじような境遇なのに非難しあうということが起きます。


 人間は、相手を非難した瞬間、気持ちの上で自分は善になれますから、気持ちがいい快楽を得ることができます。


 そうすると、実際に困難に立ち向かって強者を実際に倒す行為で「自分は善である」という証明を得るよりも、自分より弱そうなものを見つけて非難するほうが、



「脳みそが受ける報酬感覚は、ローコストでコストパフォーマンスが高い」



ことになるわけで、そりゃ、誰もがそうなってしまいます。


 また、心理学ではプロスペクト理論というのがあって、
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%AF%E3%83%88%E7%90%86%E8%AB%96


 人は損をすることを自分が得することよりも嫌う


という傾向があるため、 誰かが得をし、自分が損だと感じることには激しく反応するために、相手を叩きはじめるのです。




~~~~~~~~~~




 とある会社の従業員が2人いて、1人が隠れてサボってばかりいるとしましょう。

 どちらも同じ給料だったとき、もう1人がそれを知って


「なんだ、それなら俺が損をしている、俺も同じようにサボろう」


と考えるのは、よくある場面です。


 しかし、これこそ弱者の発想で、


「これはチャンスだ、あいつよりちょっとだけ頑張って仕事をすれば、ほとんど労せずに評価や給与を上げることができる」


逆転の発想をするのが強者(つまり、情報や経験をたくさん持っているもの)ということなのです。


 何を隠そう、この後者の動きをしてきたのが武庫川本人で、そのため、世を忍ぶ仮の姿ではいつのまにか取締役役員まで上り詰めちゃったというてへぺろ。



 しかし、同僚からみれば


「あいつはうまくやっただけだ」


とか


「社長に取り入ったのだろう」


とか、そういう見方しかできないわけで、もはやそこすら彼らの限界点なのですね。



 成果を出す人や、評価される人というのは、このように、弱者とはまったく視点が異なり、そして弱者にはこのことがおそらく死ぬまでわからない場合が多い、だからこそ弱者なのだということだったりするのです。



 なので、弱者は互いに叩きあいますが、強者は基本にこにこしています。誰に対しても。


 弱者に対しては、黙ってにこにこしていれば、強者になるための秘密の方法に気付かれることもありませんし、強者同士でも相手にいらぬマイナス感情を生じさせることはありません。


 それが最も利がある行為だとわかっているので、けして怒ったりしないのです。



 だから孫正義さんは、こうした問題にいっさい口を挟まないのでしょう。 しらんけど。




~~~~~~~~~~



 森鴎外の高瀬舟という小説に、”足知(ちそく)”という言葉が出てきます。元々は老子の

「足ることを知るものは富む」

からきているようです。


 あるいは”無知の知” なんてことばもあります。自分が知らないということを知っているものは強い、ということです。


 これに「弱知」ということばを付け加えてもよいでしょう。自分が弱い存在であることを真に理解すれば、おのずとそれは力へと変わります。


 弱知即強也(by武庫川散歩)


  弱いことを知れば、すなわち強いということである。


 まさに解脱!




 ==========





<参考>

  ちなみに世の中には他人を叩くことで利を得るタイプの仕事が存在しますので、それと混同したらダメよ?



 弱者が怒っているというフリをすることで利を得る強者も存在するので、それと本当の弱者を間違えると騙されますからね。


 ネット炎上などには、こうしたプロやセミプロが関与することもあるので、要注意です。


「保育園落ちた日本氏ね」なんかは、プロが関与したのでムーブメントが大きくなりましたよね。

伊藤詩織さん事件は、個人の力だけなのでバーストしなかったでしょ?

はあちゅうさんの場合は、はあちゅうを叩くほうが利がある勢力がいたのかもしれませんよ陰謀説(笑)。


↑個人の感想です。2018年当時。




 たとえば、武庫川が失業してとっても貧乏になったりしたとして、地元の議員のところへ行って「こんなに苦しいんです、よよよ」と泣いてみたり、あるいは「市長と語る会」へ出かけていって「死にそうです、よよよ」とやれば、適切以上の支援を受けられることは明白なのですが、これは弱者ではなく、「強者が弱者に偽装しているやつ」ですから怖いですよ。


 一般的にプロ市民と言われたり、労働組合員と呼ばれたりする人たちなんですが、この手をよく使います。


 ええ、ワタクシ実父が国鉄労働組合の某分会書記長までやってましたんで、いろいろありますわ。

 






















なぜ弱者は弱者同士で叩きあうのか。 パート1



 解脱者武庫川散歩さんが、なぜ自分を解脱者なんて言えるのかという根幹に関わるお話を、今日はしちゃおうと思います。


 まあ、いわゆる普通のイメージで、解脱とか悟りを開くというのは



 この世は空しいのであーる


とか


 万物は空であーる


とか、


  究極超人あーる(ゆうきまさみ)


とか


 URであーる(吉岡里帆ちゃん)


とか、そういう話なんだなと思われると思いますが(どんな話やねん)、つまりは



 すべてのものはつまらぬものであったり、取るに足らないものであったり、ほぼ存在意義なんてないのだ


、ということに繋がることを「悟り」というのだな、というところまでは理解していただけると思います。




~~~~~~~~~~




 とまあ、ここまではなんとなく解脱者っぽいことを言ってますが、おなじことを人間という存在に当てはめると、とたんに炎上するから人の世というものは変なものです。



 人間(あんた)は、いてもいなくてもどっちでもいいものである。

 人間(おまえ)は取るに足りないつまらなものである。

 人間(きみ)は存在意義なんてない。



 いやいや、解脱者というのは、自分も小さな存在だと気付いていますが、当然相手も小さな存在だと気付いてしまうのですね。


 しかし、それをオモテに出してしまうと、マズイのでふだんは黙っているわけです。弟子にだけは、


 おぬしも小さな存在なのじゃよ


くらいは教えてあげますが、弟子でもないそこらへんの人間にそんなことを言うとヤバイわけで。





~~~~~~~~~~




 さて、ここから本題です。



 解脱者になる前、武庫川は世を忍ぶ仮の姿で弱者ばかりを集めたとある施設で働いていたことがあるのですが、 (けして、カイジの世界のように、貧しかったりクズばかりが集っていたわけではないが、とにかくある一定の条件のもので弱者)そこで長年仕事をして学んだことは、


人間というものは、○○できるだろうというレベルの人から、そんなことはそもそもできないんだというレベルの人まで、本当にいろんな到達度の人がいる


ということでした。


もっと平たくいえば


 ほんまにアホなやつから、しっかりしたやつまで、まじでいろいろいる


ということです。


 そして、たとえば彼らがアホである原因は、そもそもの遺伝的な形質がもとであったり、どう頑張っても才能だったり、あるいは生活習慣や環境であったり、それもまた千差万別であることも知りました。


 これも平たく言えば、


 自分のせいだったり、親のせいだったり、周囲のせいもあるだろうけれど、結果としてできないヤツはいろんな理由でできない



ということです。そういう人たちがシームレスにうようよしているのがこの世界で、


「はいここから出来る人たち、はいここから出来ない人たち」


と切り分けられるものではないことも学びました。




~~~~~~~~~~




 ところが、こうした弱者ばかりの施設と関わっていて気付いたことがあります。


 彼らの多くは、トラブルが生じるときはたいてい弱者同士で叩きあい、あまり上位のものに歯向かっていったりはしません。

 仮に、社会的地位の上のものに対して抗うことがあっても、そもそも「その地位がすごいことをあまり気にしていなかったり、そもそも理解していない」ということが大半だったのです。


 わかりやすく言えば、政治で気に入らないことがあったりしても


「どうせ政治家なんて悪い金で動いているだけのやつらだろ」


というレベルで話が全部まとめられてしまうような、そういう考え方をするということです。


「大学なんていっても就職できなかったら一緒ジャン」


とか



「ていうか、その前にマジあいつダサいんだけど」


とか、そういう話でこの社会がすべて説明されてしまうセカイで生きているのですね。





 そうすると、弱者がなぜ弱者であるかという部分にも関係してきますが、弱者とはつまり


「体験や経験、知識が不足している」

「そのため想像力が不足する」

「結果、行動パターンや行動範囲、あるいは視野や視点が、極端に狭くなる」



ものを指すのだということがわかってきました。


 ということは、彼らは自分が強者になるべく、


「こうしたら立場や状況が変わる」


とか


「力をあわせれば成果が生まれるかもしれない」


とか、そういう未来発展的な思想は、もともと持ち合わせていないし、そもそもそういうことができることを知らないということなのです。


 あるいは、「力をあわせれば何かできるらしい」ことぐらいは知識としては知っていても、それが


「俺の話だ、あたしの話だ、自分がやるんだ、自分がやれるんだ」


とはまったく思わないということでもあるわけです。



(つづく)

2018年2月16日金曜日

境界性パーソナリティ障害のチェック表


 解脱者という仕事柄(←ちがうちがう!)、心に問題を抱えた人をいろいろ見てきた武庫川ですが、私の知り合いが一時期つきあっていた女性が医学的な証明はできないものの、おそらく


ボダ


だったという強烈な話を傍観していたので、ダイヤモンドオンラインさんの記事で紹介されていた「境界性パーソナル障害」のチェック表を引用してみたいと思います。

 私の個人的な友人にも、この症例を疑わせるような人もいたのですが、やはり知り合いの元カノにはかないません。

 その人物の場合は、境界性パーソナル障害の中でも、「劇場型」と言ってもよいくらいすごい事例だったので、さすがにアレを超える話は私も見聞きしたことがありません。


 というわけで、元ネタをまずは紹介。


男たちを惑わせ続けた「魔性の女」の意外な正体(ダイヤモンドオンライン)
http://diamond.jp/articles/-/160018



 まあ、特に女性のボダさんの場合には、お付き合いしてしまった男性は


「思い・思われ・振り・振り回され」


の毎日が待っています。けしてにきびの場所ではありません。特に最後の


「振り回され」


のところが重要。



~~~~~~~~~~



 ちなみに、劇場型ボダの元カノの事例でいえば、ドラマティックでダイナミックな事件がつぎつぎに起こっていました。


事件1) その女性が暴行被害で全身複雑骨折になり、体中包帯ぐるぐる巻きで病院のベッドにいる

とか

事件2) 事業をやっている女性の父親が、「ぜひ会いたいね」とアプローチしてくるんだけれど、絶対に逢えなかったり、都度急用が出来て姿を確認できない

とか

事件3) 「娘と結婚してくれるならこのお金をあげよう」と数億円記帳されている通帳を見せられる(ただし、娘が見せる)


とか

事件4) 女性の弟がギャングに追い回されて日本中を逃げ回っている。(ただし、その人物も絶対に逢えないし、姿形もわからない)


とか、そういう非日常的な事件が次々に起こるのですが、すべての話が「真実のようでもあり、まったくのでたらめのようでもあり」知り合いは振り回されまくるというお話。


 そして、何よりも恐ろしいのが、その父親がなんどか「娘がいつもお世話になっており、感謝しているよ」という内容の手紙をくれるのだけれど、


 なぜか、便箋がリトルマーメイド(byデズニー)という、もはやカオスとも言うべき状況


が続くわけです。頭の中では「これは絶対におかしい!50過ぎのはずのおっさんがリトルマーメイドの便箋を使うはずがない!」と思うのですが、娘が「たまたまあたしの部屋にあった便箋を使ったのよ」とかさらっとありえそうな言い訳をするので、そうなのかと思わされてしまう感じ。


 そしてもっと恐ろしいことに、


 メールが来るときに、父親と、弟と、女性本人とされるそれぞれの携帯の番号が違う


という、「もし、すべてが嘘なら、そ、そこまでやる?」的な状況まであったりして、もはや何が真実かまったくわからないドラマです。


 結局、知り合いは数億円の通帳を放り出して逃げ出し、二度と彼女には近づかなかったのですが、今となっては、あの通帳は本物だったのかも確認する術はありません。


 というわけで、ネット界隈では


「ボダからは全力で逃げるべし」


と噂されるほどですが、さもありなん。






 以下、記事から引用したチェック表です。


◎「境界性パーソナリティ障害」チェック

(1)現実に、または想像の中で、見捨てられることを避けようとするなりふり構わない努力(注:基準5で取り上げられる自殺行為または、自傷行為は含めないこと)
(2)理想化とこき下ろしとの両極端を揺れ動くことによって特徴づけられる、不安定で激しい対人関係の様式
(3)同一性の混乱:著明で持続的に不安定な自己像または自己意識
(4)自己を傷つける可能性のある衝動性で、少なくとも2つの領域にわたるもの(例:浪費、性行為、物質乱用、無謀な運転、過食)(注:基準5で取り上げられる自殺行為または自傷行為は含めないこと)
(5)自殺の行動、そぶり、脅し、または自傷行為の繰り返し
(6)顕著な気分反応性による感情の不安定性(例:通常は2~3時間持続し、2~3日以上持続することはまれな、エピソード的に起こる強い不快気分、いらただしさ、または不安)
(7)慢性的な空虚感
(8)不適切で激しい怒り、または怒りの制御の困難(例:しばしばかんしゃくを起こす、いつも怒っている、取っ組み合いのけんかを繰り返す)
(9) 一過性のストレス関連性の妄想様観念または重篤な解離症状

<出典>日本精神医学会/監修『DSM-5 精神疾患の診断・統計マニュアル第5版』(医学書院,2014)

2018年2月14日水曜日

科学があれば、宗教はいらない ~脱科学時代のメンタル論~



 いつものようにビジネス記事を読み漁っていて、ふと面白いなあというフレーズに出会ったので紹介しようと思います。


 とはいえ、なぜそもそもビジネス記事なんて読んでるかというと、そりゃあ解脱者ムコガワは、世を忍ぶ仮の姿でビジネスの最前線を進んでいるからに他なりません。会社は赤字だけど。


 ほんとうに近年の業界の縮小振りには恐怖を感じるほどです。どこがいったい好景気なんだか。



 それはさておき。もとい。


 「サピエンス全史」実はギャグだらけ
  http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54351


 人類とは何かを解き明かす「サピエンス全史」という本が売れているらしく、その紹介がてらの記事だったのですが、いくつかツボな表現があったのでズキュンときました。




『科学があれば、人類は宗教がなくても生きていけるのだ』


『宗教は世界の成り立ちを物語でしか説明できなかった』



なるほど、現代において宗教がこれほど軽んじられたり、忘れられたりするのはまさしく科学のヤツがでしゃばってきたからなのですね(笑)



 さて、記事本編は宗教とは離れて、人類と科学の歴史の歩みに向かって行くのですが、それはのんびり読むことにして、ここでは


「科学ですべてが説明でき、なんでも理解できるはずの現代において、なぜ人は心を病むのだろう」という点を考えてみたいと思います。


 科学があれば、宗教はいらないはずなのに、私たちの心はけしてすっきりくっきりしていないのは、一体なぜだというのでしょうか。



 実はその答えも、またこの「サピエンス全史」の中にあったりします。この記事の前編を読んでみましょう。



 『サピエンス全史』を途中で挫折した人に教えたい本書の読み方
 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54351



 ここでも、解脱者ムコガワの心を掴むフレーズが何度も出てきます。



 『人類が他の種を圧倒することになったのは「虚構を信じられる力」を持ったから』


そして


『 「万人は平等に造られており、奪うことのできない特定の権利を造物主より与えられており、その権利には、生命、自由、幸福の追求が含まれる」というのはただの想像


なのです。



 そう!恐らく多くの現代人が取り付かれ、迷い悩み苦しんでいるのは、


 現実に今そこにある飢餓でもなく、戦争や押し寄せてきている津波でもなく、ましてやあと数秒後にぶちあたろうとしている暴走車や襲い掛かってくる野獣ではない



ということなのです。



 そう。少なくとも現代日本人の99.9%は、現実問題としての危険や危機ではなく漠然とした想像による不安感にさいなまされているに過ぎません。



 そして、じゃあ実際のヒトの姿はどういったものなのか、と現実をつきつけるならば、それはサルもヒトも



自己の欲望や欲求、あるいは種の伝達を第一に生きる快楽を追求する生命



に他ならないわけですから、そりゃその特徴を持ったもの同士がぶつかれば、軋轢が生じる、というわけです。


 その軋轢を避けて、少なくとも表面上は円滑に過ごすためには、これまた引用ですが、



「虚構を信じる力」によって「想像上の秩序」を打ち立てた人類は、秩序を保つために膨大なルールとデータを扱わなければいけなくなった


ということになります。虚構のために虚構のルールを作ったのですね。





~~~~~~~~~~




 仏教が面白いのは、こうした人類が作り出したものを「空である」と喝破したところにあるでしょう。


 そういう意味では、仏教は宗教というよりやはり哲学に近いものがあります。なんといっても仏教は、世界の成り立ちを説明せず、すっとばして無視しているからです。


 世界がどのように成り立っているかはどうでもいいことであり、そもそも全部「ない」のだ、という主張なのですから!



 さて、翻って現代の私たちは、宗教を失い、そして科学も「あなたを幸せにはしてくれない」ことに気付きはじめています。


 どうやら科学は人類をずいぶんと快適にはしてくれるかもしれませんが、


「あなたがありもしないことを妄想することを否定することはしてくれないし、なぐさめてもくれないし、抱き寄せてもくれない」


からです。解脱者ムコガワは、いまだかつて科学に頭をなでてもらったり、科学にキスしてもらった人を見たことがありません。


(むしろ、ラジウムを舐めて死んだ時計板女工の話に戦慄するほどです)



 そういう意味では、科学万能の現代だからこそ、その科学技術を含めて、この世界が妄想のようなものだ、と達観することが必要なのではないか、と思います。


 ipodもウォークマンも、蓄音機も、たいしてかわんねーじゃねえか。俺は音楽が聴けたらどれでもいいわい。どうせ一時の慰みに過ぎないのだから


くらいの感覚を持つことが、一番気楽なのかもしれません。









解脱者こんどは雑誌にも出ますよ 承認欲求のかたまり?



 先日テレビに出る話をさらっとここで書いた解脱者ムコガワですが、同時に雑誌の取材も受けてたのでそっちも出るそうです。


 掲載はおそらく4月発売の


 「某経済誌5月号」


だそうですので、見つけた人は、どこのどいつが武庫川散歩の世を忍ぶ仮の姿か当ててみてください。わははは。


 なんでも近日チェック用の校正原稿が来るらしいのですが、どうも他人が自分のことを取材するというのは何回やっても苦手です。



 どちらかというとこれまでの人生は、わたしが相手を取材するほうが多かったので、そもそも自分の昔の写真とか、仕事中の風景とか、そういうものがほとんどありません。


 被写体になることがほとんどないので、いざ自分が取材対象になると困るわけです。


 仕方がないので、今回は、会社の人間にiphoneで撮影してもらったのですが、これがまたど素人さんなのでブレるブレる!

(怒ってないよ~。ごめんね~。ほんとは自分で撮りたいくらいなんですよ~)



 もっとも、世を忍ぶ仮の姿の武庫川はインスタ映えしない体なので、むしろそっとしておいてほしい、写さないでいただきたい!という感じです。




 ちなみに、何度も


「あたし、承認欲求とか、ないので」


と大門未知子(米倉涼子)風に言ってるわりには、取材の件をちょこちょこ小出しにするのは、



ええ、俗世の承認欲求にまみれたそこのあなたへのささやかな嫌がらせです(笑)



 悶々ムラムラしてください。



 人間が一番力を発揮するのは、「怒り」を覚えたときだそうですので、どうぞこのうつろな世界を、武庫川散歩の骸(むくろ)を踏みつけながら渡っていただきたいものです。



 そう、そこのあなた!


 黙ってこんなブログ読んでないで、あなたも大物になりなさいよ!



(これは弟子たちへの個人的私信ですので、お気になさらぬよう)



 ~~~~~~~~~~



 そういえば全然関係ないのですが、この間うちの幼稚園児の息子に、


「ねえ、そこのキモキモめがねくん!」


と呼びつけられました。


 だ、誰がキモキモめがねやねーん!!!


 6歳児が四十路の父親に向かって、なんちゅう呼び名をつけとんねーん!!!


  怒るより、そのネーミングセンスに思わず吹いた武庫川夫妻であります。



 武庫川の正体を知っている数少ないファンの方は、おそらくここで同時に爆笑したに違いありませんね。



 ええ、これからキモキモめがねとして生きてゆきます。 父は根にもってますよ(○-○#)


 



2018年2月10日土曜日

高学歴者は絶滅する運命にある ~遺伝子をめぐる奇妙な事実~



 まいどどうも。自称高学歴で高性能で高尿酸値な解脱者ムコガワです。今日もしっかりお仕事に励んでいるはずなのですがなかなか痩せません。




 さて、最近、ご意見ブログでは面白いものが集っているはてな界隈を散策しているのですが、「シロクマの屑篭」さんというブログで、興味深い記事があったので紹介しましょう。




「高学歴者ほど『若者』から『大人』へ変わるタイミングが難しい」
 http://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20180209/1518154574




  いつものように詳しいことは元ネタを読んでください。しかし、このお話には2つのテーマがあるので、そこを切り分けて考えること。


 一つ目のテーマは、単純に言えば高卒者は早く社会に出ていわゆる「大人」になってゆくのだけれど、大卒者や院まで出てしまうと社会人として「大人」になるのが遅くなる、というお話。

 これは、早く結婚して家庭を持つとか、人生経験が増えるとか、そういうことも含んでのテーマですね。


 二つ目のテーマは、高学歴者になると、結婚や出産が遅くなるので、子供を持ったり家庭を作り上げてゆく期間や機会が少なくなるよ、というお話です。



  そして、この2つには裏があって、あまりはっきりと明言してしまうと炎上発言になりかねないのでまろやかにぼやかしているけれど、これらのお話に隠れている問題提起は


「学歴が高く、能力が高いはずの高学歴者が、子孫を産み増やすチャンスが少ないって、これでいいの?むしろ、低学歴で文化的素養が少ないものが、じゃんじゃん子供を産める社会ってどうなん?」


ということなのだろうと思われるわけです。うう、やばいよやばいよ~。こいんちぇっく。



 この矛盾は、


「高学歴になるには時間がかかり年齢が上がる。年齢が上がると精子や卵子が老化する。つまり、高学歴者になると、優秀な遺伝子を残すチャンスが減るというのは、おかしい」


という意味でもあります。





~~~~~~~~~~



 この問題点、実はムコガワも以前に取り上げていて、


子供を生まない・子供を作らないということ
https://satori-awake.blogspot.jp/2014/03/blog-post_11.html



という記事の中で、学歴やら優秀かどうかはともかく、



「学校を卒業して仕事を一生懸命やった女の子へのご褒美が不妊とか絶滅とか、それどういうこと?」



というお話を書いておるわけです。


 そうなのね。これは男子でも同じで、自分のスペックを積み上げていけばいくほど、自分のスペ・・・・おっとっと!は老化崩壊してゆくわけで、本質的な矛盾を孕んでいるということになるのです。





~~~~~~~~~~




 これまた同質の話を、ムコガワはこれまでに書いたことがあります。



性行為は愛と暴力どちらに基づくか
https://satori-awake.blogspot.jp/2016/08/blog-post_25.html



↑の記事の後半で、なぜ男は「優秀な遺伝子を持つと推定される女子に興奮せず、自分より見下せる相手(つまり非優秀な)女子に劣情を抱くのか」について問題提起をしました。



 そして、今回その壮大な答えを書こうと思います。


 耳の穴をかっぽじってよく聴いてください。




 まず、遺伝子と進化について、思い出しておくべき法則がいくつかあります。私たちはつい、能力について「できるできない」とか「優秀か優秀でないか」などについて誤解をしますが、遺伝と進化においては


<1> 獲得形質は遺伝しない


という大きなポイントがあります。(学説や事例として後天的なものが遺伝するような現象はありますが、学歴が遺伝するかは無視できるレベルでしょう)


 よくある事例としては、田舎の家に男の子兄弟が2人いて、兄は都会の大学へ行って、弟は地元に残って親の家を受け継いだ、などの場合があるとします。


 この場合、遺伝子においては同等で、兄は獲得形質として学歴を手に入れたということになるでしょう。


 こうなると早く遺伝子を残したほうが勝ちです。たとえ兄が東大を出て、弟が高卒であっても生物レベルでは弟のほうが遺伝子の劣化が少ないだけマシということになるわけで。


 文化や経済的な環境としては兄の子供のほうが恵まれているかもしれませんが、生物的には弟の子供の遺伝子のほうが、壊れている確率が低いのかもしれません。


  もうひとつ、進化には大事なことが隠れています。


 それは、私たちは誤解しがちなのですが、



<2> 優秀な遺伝子が残るのではなく、環境に適した遺伝子が残る



ということです。遺伝子の優劣とは、「できるできない」「能力が高い低い」ではなく、環境に適しているかどうか、がポイントだということです。


 だから、自分より劣っていると感じられる女性に劣情を抱くのは、意外と間違っていないということなのかもしれません。


 なぜなら遺伝子的に、そうした女性が「次の環境に遺伝的に適しているかどうかは、現状の女子の境遇とは無関係で、結果はわからない」からです。


 だとすれば、とにかく若い女性に劣情を抱くのは、遺伝子的には将来どっちに転ぶか(環境に適するか適しないかは)どうせわからないのだから、OKだということになるでしょう。


 

 ~~~~~~~~~~




 ということは、高学歴者がこの世界で生きてゆく有利さと、遺伝子が次の世代に残ってゆく優劣は、以下のように言えるという事がわかってきます。



■ 高学歴者は、文化的経済的に優位な環境を作り出せる。ただし年齢が上がる。


■ 年齢が若く適齢であることは遺伝的に優位な伝達を可能にする。ただし、文化経済的に不利。




 この2つの命題を、いかに最適解として適用するかがポイントだというわけですね。



 高学歴であることは、経済的文化的に豊かな環境を作ることができ、子孫がこの社会で優位に生き残ることを可能にしますが、遺伝的欠損が起きる確率も上がります。


 若くして子供を持つことは、遺伝的には優位ですが、その家庭が経済的文化的に疲弊する可能性があるということでもあります。




 そうなると、このバランスを上手く取るためには、



○ 経済的文化的に安定的な、社長の息子が若くして結婚し子供を設けて会社を継ぐ



というのが最高!だと言うことがわかります。(苦笑)



 その次くらいに悪くないのは、



○ 高学歴でステイタスを持った30歳前後の男が、20代の女の子をひっかけて結婚する



 というのも、かなりいい線いっているということです(爆)


 少なくとも、女性側の遺伝子は劣化しておらず、経済的豊かさとのバランスも取れているからです。



 ちなみに逆はどうでしょう。



△ 高学歴で収入のある30歳前後の女が、20代の男の子をひっかけて結婚する



  この場合、遺伝子的には悪くありませんが、高学歴高収入の女子が、3人子供を生むのに仕事の最前線を離れないといけないならば、収入の減少が予想されるので難しくなってくるでしょう。


 こども1人くらいなら、持ちこたえられる可能性もあります。




~~~~~~~~~~



 高学歴者の場合、いかに家庭環境、経済環境を整えることができたとしても、子供を3人産めばケツカッチンになってしまい、お父さん・お母さんのお金は、子供が十分育つまでその経済環境を維持できません。


 なおかつ遺伝情報が欠損してゆくので、必然的に子供の数はそもそも少なくなるでしょう。


 そうすると、高卒3人子供の低学歴者と、大卒1人子供の高学歴者がいるとして、このパターンが2世代ほど繰り返されれば、


 3×3=9人の孫


 1×1=1人の孫


で、 高学歴者の数世代あとの生存確率はどんどん差がついてゆくことがわかります。


 とすれば高学歴による経済的優位、子供への文化環境的優位が、低学歴者の子孫の生存確率より高いかどうかがツボになってきますが、 素人考えでも



 低学歴大家族のほうが、子孫が生き残る確率は高い



とすぐにわかることでしょう。


 つまり、高学歴者は、その世代では有利ですが、子孫の代が重なるほど、絶滅に近づいてゆくということなのです。



 まあ、これ以上この話をつきつめてゆくと、不都合な真実のあまり炎上すると思うので、このあたりで・・・。

2018年2月8日木曜日

「あたしおかあさんだから」が炎上しているらしい





 おっす、オラ悟空だから、ブルマが死んじまって超さみしいぞお!



 そういえば、「空を悟る」とは、なんて素敵な名前なんだろう、と思う解脱者ムコガワでありますが、実は孫悟空には、モデルになった実在の人物がいるらしくやっぱり



 悟空(731-812)



という名前の僧侶だそうです。彼は本名を車寅次郎ならぬ「車奉朝」と言って、中国からインドへ行って仏典を持ち帰ったのだとか。


 その天竺への旅行記が「悟空入竺記」という書物で、おなじくインドへ行って経典を持ち帰った玄奘三蔵のお話とくっついて




 三蔵法師と孫悟空




の西遊記が出来上がった、というわけ。




~~~~~~~~~~



 というわけで、ちょっと賢くなったところで、「あたしおかあさんだから」がなんでも炎上しているそうなので、お父さんである武庫川散歩も、自分の人生について考えてみたのでそれを書いておきます。




一人暮らししてました おとうさんになるまえ

昔、Leeのトレーナーとか流行してたので、それ着てた

仕事は以前は違う仕事だったよ



爪はもともと短くするほう 子供と遊ぶけど、自分も好き勝手してるよ

走れる靴は履いてた 事件があったらすぐ走り出せるよう

今は作業服とか着るよ



おいらおとうさんだから

6時台に起きてまっさきに出勤するよ

おいらおとうさんだから

おかあさんがお弁当を忘れた日があってもコンビニへいくのさ

おいらおとうさんだから

新幹線のプラレールでいっしょに遊ぶよ

おいらおとうさんだから

綺麗なおねえさんにもつい目がいくよ



おいらおとうさんだから
おまいらお子さんだから



痩せてたんだって 寒冷地へ行く前
太ったのは脂肪を身にまとうためさ 死なないように
考えるのはこってりしたもののことばかり



今は子供服って高いよね ごはん代もすごいわ
甘いカレーライスと辛いカレーライスを分けて作るよ
テレビはおとうさんがニュースを見るんだから
おいら おとうさんだから



おいらおとうさんだから
苦手な顧客とも仲良くするよ
おいらおとうさんだから
誰に向かって口きいとんねん
おいらおとうさんだから
今度は離婚しないように頑張るね
おいらおとうさんだから
前妻との子より今のこどもを大事にしてるよ



おいらおとうさんだから
おとうさんは二回目だから



もしもおとうさんになる前に戻れたなら
最初の奥さんとの結婚はよく考えるわ
同棲してても 好きでもうまくいかないことってあるのだ



過去ぜーんぶ捨てて
おいらおとうさん



二回目だけどおとうさんになれてよかつた



おいらおとうさんになれてよかった

だってあなたの遺伝子はおいらのものだから



・・・。


・・・・・・。


・・・・・・・・・。


あかん!これ炎上するやつや!!!!


※この物語はフィクションです。実在の武庫川やその家族には一切関わりがありません。



2018年2月2日金曜日

仏の顔も三度目の正直 「解脱者、旅ロケに出る」の巻




 全国1億2千万人の武庫川ファンのみなさま。こんばんは。


 今回は、公益にまったく関係なく、個人的に「武庫川さんのファンです」というあなたのためだけにお送りする、個人的な日常のお話です。







 というわけで、いやー終わりました!テレビロケ。約2日間疲労困憊するまで撮られに撮られまくった





「解脱者と旅する、あの町この悟り」




うそ


の番組収録でした。


 解脱者ムコガワは、もちろん、宙に浮いたりできないので、世を忍ぶ仮の姿での出演なのですが、外へ出てのロケがあったり、自宅でのロングインタビューがあったり、ふだんの弟子たち(うそ)との交流の様子や、修行の様子(うそ)などを、



 あますところなく、何時間も撮影されまくった



超ハードロケでございました。もはや丸はだかです。全全全裸です。





 そもそも解脱者ですから、メディアから


「ぜひ、宙に浮いているところを撮影させてください!(うそ)」



という依頼が舞い込むことは多いのですが、これまで2回依頼があって、電話取材には応じていたものの、2回とも本番がボツになっていたので、3回目の打診も軽く受け流していたら


「東京からロケ隊が行くことになりました!」


というわけで慌てて自宅と、世を忍ぶ姿の会社の中の片づけをした次第。えらいこっちゃ!


来~る、きっとくーるー♪ 


というわけで、小汚い机周りと、自宅のゴミを急遽大掃除です。



 それと同時進行で、別の雑誌の取材依頼もあったので、タイトスケジュールなことこの上なく、 てんやわんやの一週間。



 世を忍ぶ仮の姿の妻も、必死に家の準備をしてくれたために


「この借りは、焼肉で返せ」


と子供たちともども、焼肉コールにさいなまされております。






~~~~~~~~~~




 さて、くしくもこれで「関西のテレビ番組」と「関東(東京)のテレビ番組」のどちらも出演したことになりますが、撮影方法もアプローチの仕方もまったく違ったので、びっくりしたり勉強になったり、大変面白かったです。



 関西のTV番組のノリは、関西人なら誰でも知っている「探偵ナイトスクープ」の雰囲気と全く同じで、最初に軽い打ち合わせはあるものの、


カメラ長回しで、タレントさんなどとのやりとりを生で全部収録してゆく


ものでしたが、今回の東京の番組づくりは、タレントさんなしの撮影だったこともあって、


何カットも別の場所や場面で撮って、同じ話を何テイクも撮る


形が多かったように思います。なので、ムコガワの説法やら解脱についての語り(うそ)が、ある場所で1時間喋り、別のところへロケバスで移動してまた1時間喋り、自宅へ帰って喋り、という具合に、


合計の法話時間が、何時間あんねん!


という状態に。


 初日の撮影終了時間は、すでに夜の9時回っていたほどです。



 二日目も、同様にロケバスにゆられては、旅から旅の連続で、


「うわーこれ、タレントさんも大変やなあ!こんなこといつもやってるのか」


と、全国津々浦々のメディアのみなさまや、あるいは撮られるほうのみなさまの気苦労が知れるというものです。



 そりゃ 乃木坂46の生駒里奈ちゃんも、引退を考えるのわかるわ、ということで。




 なぜここに突然生駒ちゃんが出てくるかというと、 うちの奥さんがいつも某弟子のことを


「乃木坂の生駒里奈ちゃんに似てるわ~」


と言っているので、思い出したのです。某弟子がもしこれを読んでいたら、生駒ちゃんに似ているようなので、ぜひこれからも可愛く頑張ってください。




 それでは今から雑誌社さんに自撮りした「解脱者ご本尊ブロマイド」写真(ほんと)を送らないといけないので、このへんで。


 
 え?放送日はいつかって?ムコガワ承認欲求ない人なので、メールででも尋ねてくれれば誠実に回答しますが、世を忍ぶ仮の姿なので黙っておきます。