2020年1月30日木曜日

リベラル化する世界に訪れるのは、分断ではなく、国家転覆か?



 前回、前々回と、リベラル化する世界と、それと同時に起きている「保守化、ポピュリズム」について、世界でいったい何が起こっているのかを考えています。


 こうした世界の動向は、すでに私も大好きな「橘玲」さんたちが、論考を重ねていて、そのあたりのことが知りたい人は


「橘玲の日々刻々」Zaiオンライン
https://diamond.jp/zaitachibana


あたりをなぞっていれば、おおよそのことはわかると思います。




 ところが、世界全体としては自由主義と自己責任の名のもとに


「リベラル化・グローバル化・知識社会化」


していっているのですが、実際にはそれだけではなく、その逆方向の動きである


「右傾化・保守化・反知性主義化」



なんてことが広がっているのも事実です。



 これらの出来事を平たく言えば、


「世界はより自由で、国境などない世界へと近づいているのに」


対して


「一方でトランプ政権の誕生や、移民排斥、英国の離脱など、真逆の方向へも動いている」


という実態があることをどう理解すればいいのでしょうか。



 橘玲さんをはじめとする方々はこうした事態に対して



「分断」



という視点で見ています。彼の著作で端的にそのキーワードを現すとするならば


「上級国民・下級国民」


の違いがあり、そこに分断があるので、真逆の動きが生まれているのだ、ということです。


マイク・サヴィジの「七つの階級」
 https://str.toyokeizai.net/books/9784492223857/



 あたりのキーワードも、注目されているところでしょう。



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 さて、ここで意外と見過ごされている事象があります。


 グローバルに活躍し、知識や高度技術を持って、かつリベラルな考え方をしている


ということは、これまでフランス革命とイギリス産業革命を経て欧米を引っ張ってきた基本論理であることは確かですが、 彼らは必然的に、


「社会の上層部、指導部」


に属してきて、これまで近代と現代の世界をリードしてきました。


 ですから、こうした動きと考え方をしてきた人たちは、「上級国民」と理解されるわけです。



 社会における成功者は、当然、多くがこちらに属しますから、今の感覚では


「上級国民と下級国民の分断が起きても、その支配(つまりこちら側の優位)は揺るがないだろう」


という漠然とした感覚を持っています。



 なんといっても、


 知識も技術も、世界的な行動範囲やネットワークも、すべて従前から「こちら側」にあるのですから、それはずっと絶対に変わらず有利だ


と考えてしまうのは、当然でもあります。




 ところが、実際をよーく見てみましょう。橘さんのエビデンス主義ではないですが、実際に起きているエビデンスはどうなっているでしょうか?


 トランプ保守派が大統領選に勝ってしまう

 イギリスが本当にEUを脱出してしまう

 韓国が米や日の同盟に反旗を翻す


など、細かいことを挙げれば切りがないくらい、


「リベラルでグローバルで知識技能を持っている層が願ってきた社会は、陥落していっている」


ことがわかります。


 そう。上級国民からみれば、「知識技能とグローバルで当然なリベラル社会」が政治的に敗北する事象がつぎつぎに起こっているわけです。




  上級国民から見ると、のんきなことに「グローバルでリベラルな知識技能社会は優位である」ということがフランス革命、産業革命以降からの当然であるがゆえに、



 その優位性はゆるがない


と思っていたのに、実際は違うわけで、それでも上級国民は「のんき」ですから、



「これは分断によって生まれた下級国民が叫びを挙げているせいだ」


と考えます。 それは本当にそうなのですが、実は上級な彼らは



「実はこれから下級国民による下克上が起きる」


とはまだピンときていません。


 そう!上級国民は「分断が起きている」とは理解していますが、まだ感覚が



「そのパワーバランスがひっくりかえると、次はシーソーゲームの転覆が起きる」



とはまだ思っていないということになります。



 なぜなら自分たちはグローバルでエリートなリベラル層であり、それは近現代の正義であるから、それが転覆されることはないだろう、とちっとも実は理解していないということなのかもしれません。




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 そこで解脱者であるムコガワは、実は何が起きているのかをきちんと考察したいと思っています。


 これは分断という小さな事象なのではなく、実は


「中間層をどちらがとりこむか」


という多数派工作の戦争だと考えています。



 上級国民は、これまで、「リベラルでグローバルでエリートであること」が社会を支配するにふさわしいと考えていましたが、実はそれを黙認し支持していた


「中間層」


がそちらの志向に傾いていたから、これらが維持できていたということです。


(嫌な言い方をすれば、上級国民が中間層に、自分たちに近い思想と経済的なおこぼれをトリクルダウンさせていたからこそ、それは維持されていたということです)



 つまり、リベラル風で擬似グローバルでエリートを目指すと、おこぼれがもらえるよ!という仕組みを作っていたから、それが維持されていたということに過ぎないのです。




 ところが、上級国民だけに利益が集中するようになると、中間層はむしろ「下級国民」の味方をするようになります。


(嫌な言い方をすれば、下級国民になってしまう、なってしまって中間層がいなくなったということです)


 そうすると、ここで広がるのは、「右傾化で保守で、反知性主義な主張」ということになります。



  これは実は民主主義の最大の弱点で、これまた嫌な言い方をすれば



「賢い人も1票、バカも1票を有している」



のですから、知性がない者達が数量的に増えれば、政治はそちらに傾くのは当然といえるでしょう。


これが今おき始めているポピュリズムの正体です。




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「中間層を食わせたものが勝つ」=正義である


というのが、これから起きることの全てですが、これをきちんと理解すると世界で起きていることの真相がはっきり見えてきます。



 たとえば中国やシンガポールは、独裁政権ですが、上級国民と中間層が潤っているので、成立しています。


 中間層が食えなくなってきたイギリスやアメリカは、ポピュリズムが台頭しています。


 アラブのイスラム諸国は、上級国民と中間層が原油で食えているので、反リベラル・反グローバル・反キリスト・反欧米でも、ぜんぜん勢いが衰えないのです。



  なぜ民主主義は崩壊したのか(吉家孝太郎)
 https://kotaro-yoshiie.blogspot.com/2016/07/eu_5.html


の図を転載させてもらうならば、





 というこれまでの正義から



 へと、民主主義を形成する「票数」が移行するということです。



 これが、これから起きる「民主的な転覆」にほかなりません。




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 実は中間層をしっかり見極めなくてはならない理由がもうひとつあって、実は


「フランス市民革命」


とはそもそも


「下級国民が、上級国民を倒した革命ではなく、中間層が上級国民から主権を奪った


革命だということを思い出しましょう。



 実は民主主義の根幹は、「中間層にとっての善を試行錯誤する」ことの繰り返しです。


 共産主義と社会主義が崩壊したのも「一部の上級国民とそのほかの下級国民しか設定できなかった」ために、中間層が育たなかったためとも言えるでしょう。




 かつての日本がそうでしたが「一億総中流」であることが、本当に国家の強さの源泉であったとしたら、これからの日本は恐ろしいことになるかもしれません。











 

リベラル自由主義と新型コロナウイルスは敵対するか



 日本を含む世界の国境があやふやになり、グローバル化してゆくことと、そして、自己責任と自由主義が跋扈する「リベラル」社会に移行しつつあることは、ある意味では、すでに自明のことと捉えられています。


 しかし、「世界がリベラル化してゆく」 という潮流は、ひとつにはそれは真実の側面があるものの、反面ではそれにブレーキをかけるような


「対立する保守=反リベラル」


の動向もおなじくらいに大きくなってきています。



 先日もこの問題について論考をアップして、


リベラルは常に矛盾する
https://satori-awake.blogspot.com/2020/01/blog-post.html


という形で書いたところですが、ここに来ておなじようなリベラルの矛盾を考えさせるような出来事が起こりました。



 それが、「新型コロナウイルス」の大流行です。



 ふた昔前であれば、仮にこうした新しい病気の発現があったとしても、それが急激に短期間で世界中で広がることは、少なかったように思います。


 ところが、グローバル化が進み、誰でも自由に国境を越えられる(国の人たちが増えた)ようになった結果、ウイルスは一箇所で留まることを知らずに


パンデミックを起こす


ようになったわけです。



 一般にもよく言われるように、2003年にSARSが流行した時とは、中国人を代表とする


「アジア人の世界を飛び回る物理的量、人数」


が爆裂的に異なる2020年の現在、中国武漢をスタートとして、SARSの時とおなじ規模で収束できるのかは、



もはや誰にもわからない



状況になっているわけです。




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 リベラル、自由主義の観点では、本来世界は自由に移動できる社会となり、基本的には


「ある国民、ある人種、ある属性の人たちから自由を奪い、どこかに押し込める」


行動は望ましくありません。




  もちろん、しかし、今回のような命に関わる事態が起きれば、



「そんなことは言ってないで、中国政府がやったように、封鎖だ!閉鎖だ!押し込めろ!」



ということが、リベラル主義に反して、結果的には善をもたらすことでしょう。



 そして、この時点で、リベラルお得意の「自己矛盾」が噴出すことになるわけです。



 コロナウイルスさえ出なければ



「野生動物を食べようが、それは個人や民俗習慣の自由」


ですが、コロナウイルスが出たことによって、



「民俗習慣の自由は制限されるべきだ、それも他国からの要請によって」



といことが生じます。(話はすこしズレますが、日本への捕鯨の非難も似ていますね)




 そして、これはすでに生じていますが



「自国民は救われるべきで、日本に連れ戻し、中国人は自分の国にいてこちらへ来ないでもらいたい」


ということが日本人誰もの脳裏に浮かぶようになります。これは反リベラルですが、そう思っても当然という自然な観念だと思われます。



 今回は、ウイルスという特殊事情、大変な事態だからそう思ってよい、ということではありません。



 きっともし中国で起きたのが内乱で、明日から大量の中国人が「難民として日本にやってくる」のだとしても、日本人の多くは


「日本人は救い出し、中国人は難民としてやって来ないでもらいたい」


と思うことでしょう。これも自然なことで、特段ヘイトな感情ではありません。






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 もし、今回の大流行が、中国政府の「封鎖の遅れ」が原因だったと仮定すると、


「すぐさま、何をおいても、疑わしきものも閉じ込めてしまうべきだ」


ということが善で正しかったのか、ということが起きます。



 これは、民主主義社会とリベラルな考え方においては、たいへんに恐ろしい矛盾です。



 もし、これが正しい行為だとなると



「他者に危害を加える恐れがあるものは、ただちに閉じ込めろ」


ということが善になってしまう優生思想だからです。





 各国の政府は、そのギリギリのところで、できる限りの対策をせめぎあっているわけですが、もしこの夏までコロナウイルスが流行する状況がつづくのなら



「オリンピックを強行開催することが善か」


それとも


「オリンピックを自主中止することが善か」


みたいな問題まで起きてくることになるでしょう。




 完全に正しい善や正義はありませんが、目の前にそんな大矛盾や大問題が迫ってきた時、日本人はどうなってしまうのでしょうね。









2020年1月17日金曜日

リベラルは常に矛盾する ~男性優位社会は、そうなるように進化したのか~



 まいどおなじみ、セカイと人間の在り方について考えに考える武庫川散歩のお時間です。


 今日はまあ、「ついにそこに言及するのか!」というおっそろしい記事をネットでみかけたので、それを紹介しながら、このセカイのありようについて考察をめぐらそうと思っています。


 その記事とは、こちら




 リベラル社会が直面する「少子化」のジレンマ

  https://president.jp/articles/-/32248


(プレジデントオンライン)



 しかし、本題に入る前に、現在の日本では「リベラル」という言葉の定義が、諸事情であやふやになっているので、いちおうある程度のしばり・くくりを持って、「リベラル」の言葉を規定しておきたいと思います。


■ リベラルとは自由主義を示す。

■ リベラルは、個人の自由や多様性を重視する

■ 他人に危害を加えない限りは、ほぼ何をしてもいい。(なので、外国におけるリベラリストは、麻薬もOKと考える人たちもいる)

■ 個人の自由は侵害されるべきではない。


 など


 こうした傾向・思想に対して、日本の政治の場で使われる「リベラル」は本来の意味とは外れている場合が多く、注意が必要です。



 また、このリベラルに関して、「ポリコレ」という言葉も近年ではよく使われるようになってきました。

 ポリティカル・コレクトネス

の略で、 性別・宗教・民族などによる差別や偏見がおきないように、あえて「中立的、公正なことば」を使おうとする行動のことを言います。



 私達が古い時代をイメージするような「封建的社会」とか「因習による社会」とか「民族、部族的社会」が旧来の主義・思想だったとするならば、自由主義やリベラルは、そうしたものの反対側に位置する考え方だといえるでしょう。



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 さて、基本的に先進国と呼ばれるような社会においては、社会や世界は「リベラル」な方向へ向かうように進化・進歩すると思われてきました。


 当然先に先進国となった欧米でもそうだし、後から追いかけている日本でも、基本的にはこの傾向にあります。


■ 人々は仕事の奴隷となるのではなく、家庭生活とのバランスにおいて、もっと自由であるべきだ

とか

■ 男性と女性は、いろいろな面で平等であるべきで、性によって差異があってはならない

とか

■ 自分も自由であるから、他人も自由であるべきである。


といった志向や考え方は、十分日本でも浸透してきています。




 ところが、ここ10年ほどの間、西欧社会は急速に「リベラルであるがゆえの矛盾」に、苦しめられるようになってきました。


 その一番わかりやすい例が、欧米各国における移民難民問題で、


「人はもちろん当然、それぞれの文化や宗教について、自由であるべきだ」


と口で言っていた西欧社会は、


「実際に文化や宗教や民族が異なる人たちが大量に押し寄せると、多様性に対応できない」


ことがはっきりしてきたわけです。


 そうしたことが高じて、イギリスがEUを離脱したり、トランプ大統領が、アメリカ第一主義を打ち出したり、


「自分たちのことが最優先で、他国のことはわが国内において、あるいは国際関係においても、許容しない」


という姿勢が、西欧社会全体で急速に広がることになったわけですね。



 なあんだ、結局西欧人も


「鎖国が大好きで、自分たちの国民や民族以外は排除したくなるものなのだ!」


「自分たちに理解できる文化や慣習・宗教は受け止めるけれど、そうでないものは受け入れたくないのだ!」



ということが、バレてきてしまい、リベラルの意味がガラガラと崩れはじめてきた、というのが現在の情勢です。



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 とまあ、ここまでなら、異国どうしの問題として、さもありなんといった感じです。日本はもともと鎖国文化を理解できる国ですから、


「鎖国もメリットあったよね」


とさらりとこの話を理解できるというものです。



 ところが、この記事の根幹は、こうした「国家間の問題」とは少し内容が違うのです。



 それはもっと個人の生き方に関わるもので、



「個人の自由を追求すると、子孫の繁栄よりも、自分の生活の幸せ・自由をもとめて、人はこどもを作らなくなる。結婚もしなくなる」


ということに気付いてしまった!という話です。 そして、この問題を男性・女性の性差問題に絡めて考えると


「女性が社会進出し、自己決定が増え、自由が増えると、次の世代が続かず、生産人口が維持できない」


ということが、見えてきた、というわけです。



 この話を書くと、すぐ勘違いする読み手が出てきて、


「こどもは政府のために作っているわけではないし、国のために結婚や出産をするわけではない!」


という反論がたくさん出てくることは、疑いありません。もちろん、その考え方そのものがリベラルです。



 しかし、この記事に書いてあるのは、これまでもメディアでさんざん報道された「お国のため問題」ではなく、もっと冷徹なことなのです。


それは



「生物は、環境に適したものが自然淘汰で生き残ってきたが、もしかすると男尊女卑で、社会に女性を出さない(つまり男性に働かせる)群れが、人類の増加に適していたから、今の私達は増えてきたのではないか」



という仮説が飛び出した!ということがミソなのです。


 これはさすがに、誰もそれについては触れていなかった禁断の領域と言ってよいでしょう。




以下、記事をすこし引用します。


 ”女性が高学歴化し、社会進出し、活躍する――だれもが賞賛してやまない「政治的にただしい」メッセージ性を強く放つ、フィンランドの女性首相や女性閣僚をいくら賞賛しようが、しかしそのような「リベラルな社会」は持続しない。

 子どもが生まれないからだ。子どもが生まれない社会では、いかに立派な思想や道徳であっても継承できない。”


これは、恐ろしい預言です。もし本当にそうなったとしたら、男性女性限らず、究極的には


「自分の人生の幸福度を最大にするがゆえに、子供などリスクで負債だ」


ということになってしまうからです。そして、こういう考え方はすでに、たくさんの方が実行していますから、一部ではこれは実現しているわけです。



ですから、そのアンチテーゼとして


”「自分たちに豊かで快適で先進的な暮らしを提供してくれたリベラリズムの思想では、人口が再生産できない」ということに、さすがにほとんどの人が気づき始めたのだ。”


ということもまた、今生じ始めています。



実は以前に私も「男性優位社会ができた理由」について考察したのですが



男性優位社会が出来上がった理由 ~レイプは本能なのか~
https://satori-awake.blogspot.com/2019/01/blog-post_23.html


うっすらと「男性優位社会は、進化の結果そうなったのではないか?」と思ったけれど、さすがにそれを書く勇気はありませんでした。

 私の上の記事ではそれこそリベラリズムの平等性にもとづいて


「女性に複製権があるとしたら、男性は力で優位に立つことによって平等性を手に入れたのではないか」

くらいにニュアンスを抑えているわけです。








 さて、今までみてきたように、リベラルが矛盾をはらんでいて、その限界が近づいているとしたら、このあと世界はどうなるのか。結論はひとつです。


 リベラルを捨てて、保守的で封建主義的な思想に回帰するものが現れる


これに尽きます。


 イギリスではまっさきにこれが実現し、欧米各国もそうなりつつあります。日本にも実はその潮流が生まれているのではないか、と思われます。


 
 さあ、未来はいったいどうなるのでしょう。


 


2020年1月8日水曜日

ツイッターやSNSではなぜ議論ができないか その2



 前回の記事では、「個人の感想です」をつけておくのが最強!というオチになりましたが、それでは学術的にはちっとも解決していないので、もうすこし突っ込んで考えてみたいと思います。



 その答えに関係する面白い記事があったのでご紹介。


入試問題を著者本人が解いてわかった「読解力」の本質
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/69671

(現代ビジネス)


この記事の話そのものは「入試問題を著者本人が答えると、意外なことがわかった」というものです。


その入試問題を捉えるためのポイントはこれ


■ 著者本人がどう考えているかなど、どうでもいい

■ 出題者の意図を汲み取るのが第一のルール

■ 問題文にあることのみに徹するのが第二のルール

■ そこに書いてあること意外を想像したり、似たような別の可能性を考えてはいけない

=類推禁止 想像禁止



4点にわけて書いたけれど、ざっくり言えば、第一・第二のルールが読解力・読み取り力の基本だ、ということになります。



 これを社会生活やネットでの言論についてあてはめると


「相手の発言の意図を読み取り、書き込まれた文章内でまずは判断する」


ということが、基本的なルールの原則ということになるでしょう。


 ところが、実際のネット言論の現場では、そうではないことが多々起きています。



「発言者の意図とは関係ないところで言葉を受け止め」たり


「書き込まれていない文章について類推して批判をする」


ということが生まれているということです。



 その結果、SNSでの発言者と読み手の間では常に


「私はそんなことを言ったつもりはないし、第一そんなことは書いていない!」


ということがバンバン起きるわけですね。





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 こうした事態が起きてしまうことについて


「ネット民は読解力が低いからそうなるのだ」


と言うのは簡単ですが、それだと「入試のような定型の偏差値が高い者が、低い者をバカにしている」と受け止められたりして、さらなる炎上を招くことも、ありえるでしょう。




  ですので、ここでは、「読解力が高い・低い」ことについての良し悪しについては触れず、あくまでも「何が起きているのか」を考えてゆきます。




 実は、ネット民の大半は、普通の人です。普通の社会生活を送っていて、基本的にはネット上、SNS上での活動と現実の活動は、「おなじ脳みそ」で行っているので、その人の「読解力」がネット上と現実で異なることはありません。


 現実社会では、ネットのように炎上も起こらず、普通の人たちは意外に普通のあたりさわりのない生活を送っています。

  しかし、ネット上では、上の例のような読解力の相違や、受け止め方の違いがたくさん生まれています。


 この差はなんなのか。そのヒントが「入試問題と回答」にあるということなのです。




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 人間は問題文を見た瞬間に、いろんなことを感じます。


「そのとおりだ」とか「それは違うな」といった直接的なものから

「文中にラーメンが出てきたからラーメンが食べたい」といった間接的なものまで、


たくさんの言葉か感情、感覚が湧き出します。


 しかし、入試問題を解く上では、「ラーメンが食べたい」は真っ先に除外されます。そして、「自分はこう思うんだけどな」ということなどを一旦保留にして、最終的には、記事にあるとおり


『出題者の意図と、文中にある情報』


を選別しながら、解答欄に書き込んでゆくわけです。


 ですから、評論文章を読んで答える質問にラーメン屋が出てくる場面があっても


「私はラーメンにはいやな思い出がある。なので、そのラーメンの話については見聞きしたくない」


とは絶対に書き込みません。私の国語教員人生においても、そういう生徒は見たことがないわけです。


 なぜ、そう書かないかは明白で、いろんな感情や感覚が出てきても、それらを取捨選択して、(時には間違えることも当然あるが)、一応は出題者の意図と、文中にある情報を元に回答するからです。


 当然、ラーメンは文中にある情報ですが、それをそのまま引っ張り出すこともせず、「題意」「出題の意図」に寄せながら書いてゆくから、ラーメンに関する感情は除外されるという仕組みが働くということなのでしょう。



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 日常生活でも、この選別作業が行われます。会議でラーメン店の売上について議論している際に、

「あのラーメン屋の親父にはひどい目にあったんですよ」

とは一瞬頭の中で思っても、口には出さないから会議が成り立つのです。



私達の脳みそは、たくさんわきおこる「感情や感覚、連想やことば」をTPOに合わせて選別しながら生活しているのだと思われます。



 ところが、SNSやネットの空間では、人はなぜか思ったことをそのままベラベラ書いてしまう傾向にあります。

 記事のコメント欄なんかを見ていたら、

「そうそうそのチェーン店ラーメン屋で思い出したんだけど、こんなことがあって」

ということを特に不自然だと感じずに書いている人はたくさんいます。



 たぶん私自身も、そういうことを無意識的に行っていることがあるなあ、と振り返るほどです。



 これをよいことか、わるいことか、判断するのは今の段階ではとても難しいのですが、




「ネットにものを書き込むということは、連想して思いついたことをフィルターにかけないでそのまま発信する傾向がある」


ということくらいは、認識しておいて損はないかもしれません。


これが、トラブルを無用に生んでいる原因のひとつなのかも。





 ・・・・・・ああ、ここまで書いておなかすいた。



↑ みたいなのが実例ですね。










ツイッターやSNSではなぜ議論ができないか その1



 新年あけましておめでとうございます。


 ビジネス界隈では、今年の年明けは暇です。これは、一部のイケイケ業界を除いて、多くの業界でほぼ共通した認識ではないでしょうか。


 ええ、消費税が上がってしまいまして、いろいろ冷え込んでいる、との情報が飛び交っています。


 収入があっても所得税で約1割もっていかれて、今度はモノを買ってもまた1割もっていかれるわけですから、あわせて2割です。


 モノを右から左へ受け渡すような卸売りなどのビジネスでは、2割も手間賃がありません(利益が2割もない)ことも多いので、せっかくの利益がぶっとんでしまうくらいの衝撃っちゅうことですね。


 精進いたします。



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 さて、昨年末から今年ぐらいにかけて、ふだんはそんなに書き込むことのないツイッターにいろいろ書き込んでいましたら、たいへん興味深い状況に出くわしました。


 細かいことは、無関係な人にとってはどうでもいいことなので、ざっくり説明すると


「ある宗教に属していたが、その宗教はほかの暴力的・金銭収奪的な宗教や団体よりも抜けやすかったり、マシだ」


という意見を提示した際に


■ 「抜けられずに大変な思いをしているのに、抜けやすいなどとは不謹慎だ」

■ 「私はひどい思いをしているのでマシではない」

■ 「そもそも発言者はいつも変なことばかり言っている」

■ 「発言者は女たらしだ」

■ 「発言者は元国語教師なのだったら、話を短くしろ」


みたいなカウンターアタックがわらわらと湧いてきて、


 たいへん香ばしい


状況になったわけですね。





 (注 発言内容はその通りの引用ではなく、元のニュアンスを保ちながら変えています。そうただし書きを入れておかないと


「わたしはそんなことは書き込んでいない!」

「その発言内容は私に著作権がある!」

「そのことをここに書く許可をとったのか!」



というややこしい人が現れますので。)




 

 そもそもツイッターやSNSが始まってしばらくして、こうしたネット空間は議論には適さないということが判明してきて、過激な言い方をする論客などは


「ネットはバカばかりだから相手にするな」
 https://bookmeter.com/books/155226

とか


「ツイッターはアホばかり」
 https://dot.asahi.com/dot/2019072300048.html


といった状況分析も生まれています。


 悲観的な見方だと、「ネットでは集合知(たくさんの人が意見して、よい方向性が生まれること)はないのではないか」というものまであるようです。





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 こうしてここまで書くと、このブログもネットのものですから


「つまり、武庫川はわたしをバカだと言っているのか!」


みたいな被害妄想が生まれるだろうので、そんなことは一切言うつもりはない。と断言しておきます。



 ちなみに、宗教体験というのは個人的なものですから、受け止め方は人それぞれです。結局のところは


「私はこうだった。私はこう思う」


に過ぎないのがオチなのかもしれません。


 それに対して


「いや、私の場合は違っていた」というのは当然です。わたしとあなたは別人なので。




 アドラー心理学で言うところの「それはあなたの問題であって、知らんがな」ということが、 私からあなたに対しても言えるし、あなたから私に対しても言えるのです。




 もっとも正確な状況分析は


「宗教から抜けやすいと思うか抜けにくいと思うかは、それぞれの感覚であって、互いのことは知らんがな」


ということなのでしょうね。



 解脱に近づくのは、そういう感覚です。ひとつの投げかけられた事象に一喜一憂して、心を乱されたり、感情が爆発したりするのは、俗世の問題点のひとつですから、


「知らんがな」


という気持ちであれば、人は悟りを得られるのかもしれません。知らんけど。






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 さて、武庫川の観点は、いつも「この世界はどうなっているのか」というものですから、こうした事態が起きることは大変に面白いのです。


解脱したからには、どっちゃでもいいし、どうでもいいのですが、それでも何が起きているのかを知るのは興味があります。



 なぜ、ネット上での意見が噛みあわないか。それについては既にいくつもの先行研究もありますので、引用しながら考えてみましょう。



 インターネットは熟議を可能にしたのか
https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2019/01/01/234249


などは良い説明だと思います。



■ ネットでは価値観が同じ人が集まりやすいと思われがちだが、実際はそうではない


→ ツイッターにおなじ宗教に属していた人たちが集まっているので、価値観が共通している部分があると思っていたらそうではない。


→ おなじ宗教に属していた人たちの間でも、議論になると公正なものではなくなる



■ ネットでは議論の前提や目的を壊す問いが次々に生まれる

 → ある集団が暴力団と比べてマシかどうか、という問いを立てても、「暴力団は知らないけれど、自分にとってはとんでもない酷いしうちを受けた憎むべき相手である」といった前提を超えた話がつぎつぎに登場したり、発言者の性格や行動について言及するような話に飛んだりする。



■ ネットでの議論は、独善的な人を生み出すだけで終わってしまう

→  結果として、「自分で好き放題に言っているだけ」ということが互いに起きてしまい、互いに対して「相手は独善的だ」と感じるのみで終わる。




などなど。



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 これらを避けるのに、一番よい方法があって


「個人の感想です」


を全部の記述につけくわえておくのがおすすめ。


 だから健康食品のCMには、そもそも「元気で健康である」の感覚が、すべての人に共通しないので、


「すべてはあくまでも個人の感想である。あなたとはたぶん受け止め方が違うかもしれない」


というただし書きをつけて、議論をしないことを宣言してしまうわけですね。




 ということで、ツイッターの書き込みや、ブログの書き込みには



※個人の感想です。読者の環境や状況によってはこの記事があてはまらない場合や役に立たない場合があります。



をつけておくとよい、というオチになりそうです(苦笑)