2017年4月27日木曜日

愛とは何か ~そこに愛はあるのかい~




 今回の記事は、前回の記事とセットになっています。





<前回の記事>
 
セックスとは何か。 ~性について真面目に考える~ 今日はお笑いなし。
http://satori-awake.blogspot.jp/2017/04/blog-post_29.html






 性と愛というものは、密接に関連して語られることが多いので、この際きちんと考えておこうということです。



 さて、前回は、性というものが、「自己複製権の自己意志・自己決定よる権利の行使」であると定義しました。


 実際のセクシャルな行動は、男性であれ女性であれ、「わたしの意志で、そうしたいんだ」ということがとても鍵になってくる点を説いたわけです。



 男女の違いで言えば、男には子宮がありませんから、実は「自己複製機能を持っていない」という大変な事実があります。


 なので、男性としては、 



「自己複製をするためには、かならず相手が必要で、かつそもそも力の行使には暴力性を伴うので、

 相手の許諾を得るか、もしくは許諾を得ずに執行する以外にない」



ということになる、わけです。 善悪や可否は別にして、そういう事態が起きているのです。





~~~~~~~~~~




 さて、性というものがそうであるとして、今度はについて考えてみましょう。


 ドラマ「ひとつ屋根の下」の名セリフではありませんが、仮にセックスが生じているとして



「そこに愛はあるのかい?」



という問いかけは、さらに根源的なものとなるでしょう。





 愛とは何か。


 ギリシア人は、エロス(男女の愛)・アガペー(神の愛)・フィリア(隣人愛)・ストルゲー(家族愛)など、いくつかの愛を定義しました。



 広辞苑などでは以下のような字義を挙げています。



    親兄弟のいつくしみあう心。ひろく、人間や生物への思いやり。

    男女間の愛情。恋愛。
 

    大切にすること。かわいがること。めでること。
 

    〔キリスト教〕 神が、全ての人間をあまねく限りなく いつくしんでいること。アガペー。
 

    〔仏教〕 渇愛、愛着(あいじゃく)、愛欲。

    相手が幸せでいてくれればいいという気持ち。




これらをまとめると、主体と客体が、かならずしも「人同士」ではないとしても、



AがBを大切に思い、いつくしむ気持ち




ということができるでしょう。




 ここで、勘のするどい人は、興味深いことに気付くと思います。



「愛し合う」


なんてことばがあるように、「合わなければ」両者の合意が形成できないことからもわかるのですが、この愛というものは



 AからBへの、一方的な気持ち・感情・心情・態度



であるということも、また事実なのです。



 一方的であるということは、ここにも暴力性が潜んでいます。無理強いがあるということです。




 だから、心から相手を想っている、愛している(悪意がなく善意)なのだとしても


「愛の押し売り」



「愛の押し付け」


が起きてしまうことはあり得ます。





 親が子を想っているのに、子からすればその愛情が重いと感じたり、

 恋人が愛してくれているのはわかるのだけれど、受け止めるほうの感覚が違っていたり、

 あるいは

 アイドルがファンから一方的な愛情愛着の念を受けたり


 するわけです。




~~~~~~~~~~



 愛がこじれてストーカーになったりする理屈は、これできちんと説明がつくわけですが、


「性にも暴力性が潜み、愛にも暴力性(一方性・無理強い)が潜む」


のだとしたら、人によっては



「そんなの怖くてやってられない!」



と感じる人もたくさんいることでしょう。


 そんなふうに恋愛に臆してしまう人が出てきてもおかしくないくらい、これには難しい部分があるのかもしれません。



~~~~~~~~~~




 では、愛が相手を傷つけないためにはどういったことが大切なのでしょう。


 性にも愛にも、無理強いがある。 どちらも、相手へ向かって進んでいくベクトルがあります。


 AさんとBさんが、お互いに相手に向かって進んでいけば、合意が形成されるでしょうが、



「AさんがBさんの領域に、近寄りすぎたり、侵入してしまえば、それは暴力になる」



ということが性と愛の一番難しいところです。なんせもともとが暴力性を持っているので。





 もう少し丁寧に説明しましょう。



 愛であっても、相手のパーソナルスペースを越境すれば、そこに暴力性が現れる



ということです。


 心理的、肉体的な「近接」や「接触」は、合意があれば互いに心地のよい幸せなものですが、合意なく行われるそれは、(大小は違えど)暴力なのでしょう。



 本当に理想的な恋愛は、パーソナルスペースの扉を互いに開けておくこと・あるいはパーソナルスペースを共有することなのでしょうが、




実際に彼氏彼女であったり、夫婦であったりしても、(あるいは親子でも)


 これをきちんとできる関係って、実は難しい



のが実情だと思います。




 ちなみに私は弟子を大事に思っているし、愛していますが、弟子はたまに私を怖がります。


(い、いじめたりしてないぞ!)



 それは、私が話すことで、弟子たちからすれば「パーソナルスペースの鍵が開いてしまう」ことがあるからでしょう。


 人の内面について、きちんと理解しようと努めると、どうしても内面に触れてしまうことが起きるからです。



 そうすると、結果として「パーソナルスペースを越境してきた暴力」と同じことが起きる。




 もちろん、私にはそんなつもりはないのですが、愛の持つ暴力性は、たまにそんな副作用すらもたらすので、


 フォース(力)の取り扱い方には、気をつけろ



ということです。


 弟子の人、安心してくださいね。そういう時は素直に謝ります。ごめんなさい。





~~~~~~~~~~


 愛において、パーソナルスペースを共有し、互いに寄せてゆくにはどうすればいいのでしょう。


 実はそれは普通の恋愛ともおんなじで、物理的に



「近くに寄って話す」「顔を見合わせて話す」

「手をつなぐ」「肩をよせあう」

「ハグする」「抱きしめる」

「セックスする」


という風に、だんだん互いに距離が短くなり、最終的には「侵入し、侵入される」ことを許すように、心においてもそうしてゆく以外にありません。



物理的に近接してゆくこと、そして、心理的にも精神的にも本当に近接し・開示してゆくこと



が、 両面で進んでゆくのがよいのだと思います。



 自分の愛情を一方的に進めるのもまずい、あくまでもお互いに時間がかかっても歩み寄ってゆき、扉を開いていければいいね、ということなのだと思います。





 ということは、ズバリ。




 白馬の王子様なんて現れない!



 王子様に変えてゆき、また、王子様となってゆくのは二人の愛次第だ





ということなのかも。すごいオチ!!!








 















 

2017年4月25日火曜日

セックスとは何か。 ~性について真面目に考える~ 今日はお笑いなし。




 いつもはおちゃらけて文章を書いている武庫川ですが、今日はたいへんにセンシティブな問題を扱うので、真面目にやります。



 よく考えると、このブログでは正面から扱うことのなかった「性」の問題。



 特に避けていたわけではありませんが、なんとなくきちんと扱いづらいと思っていたのか、ふだんはごまかしていると自分でも思います。



===========



 武庫川の周りには、なぜか悩みや苦しみを抱えた人たちが集まってくるのですが、(主に女性)、全員とか大半とかまではいいませんが、そこには


「性に関する根源的なトラウマ」


のようなものを持っている人も少なくありません。



 さて、ここで話を切り分けておきます。


 たとえば


■ 不倫はいいのか悪いのか

■ 一夫多妻制の是非

■ 近親婚はよいかわるいか

■ 高校生同士はつきあってエッチをしてもいいのか悪いのか

■ 自慰行為はいいのかわるいのか



みたいな議論は、武庫川の考え方では、そこには「正解・不正解」を提示しないのが原則です。


 なぜなら、私は「この世界で起こっていることは、良いか悪いかは別にして、歴然として起きている」

と考えているからです。


 つまり、不倫は起きるし、一夫多妻や近親婚が許されてる国もあるし、ダメと言っても高校生はエッチや自慰行為をする。


 だとすれば、表向きどんな言い訳をしようが



 そういうことは、ある。あるったらあるので存在する



としか言いようがないからです。



 そりゃ、性というものがあるのだから、性にまつわる行為や事態は、あるでしょう。起きるでしょう。存在するでしょう。というのが大前提。


(それが正しいか悪いとされているかは、繰り返しますが別問題として)





==========




 ただ、トラウマを抱えた人たちの間で課題や、人生の傷のようなものになっているのは、上記のような分野とは少し異なって、



 性的虐待をされた



という事例です。



 もちろん、これも武庫川的には「善悪を切り分けた行為」ですから、



「いじめや暴力が存在するように、このセカイには性的虐待だってあるだろう。性の無理強いだってあるだろう」


と考えます。


 あるいは私ですら、誰かと恋に落ちれば、瞬間そういう一方的な態度が生じてしまうかもしれません。

(いや、私はレイプはしないけども)


 たとえて言えば、壁ドンは、「されてうれしいか嫌か」の論議は別にしても、性にまつわる一方的な態度です。


 壁ドンが性的な暴力性を持っていることは、万人に理解できることだと思います。



 なので、壁ドンで拒絶感を抱く人もいるし、そのレベルであれば受け流せる人もいるけれど、



 そこには性の無理強(じ)い(暴力性)



があることだけは確かなことです。




 さて、そうした暴力的な性の無理強いが存在することは確認できるわけですが、その時(被害といえば語弊がありますが)、無理強いをされた側からすると、ここに大きな心の変化があることも確かです。



 一般的に性的な被害にあった(主に)女性が陥る錯誤としては



「自分にも問題点があったからそうなったんだ」

とか

「自分もそれを望むようなそぶりを見せていたのかもしれない」

とか


”起きてしまった事実に合わせて、自己の認識を強引に添わせることで心理的解決を図る”



ということがあります。



 そこに善悪が絡むので、たいていの女性は



「なので私は悪い子だったのだ」


「わたしが悪いんだ」


となるわけです。


 私の歴代の弟子の中で、このことを以下のような表現で語った人がいました。



「私はもう、白いパスポートではなく、黒いパスポートなので、天国にはいけない」

「どうせわたしはビッチですから」
 
「もう神様には、許してもらえないんだ」

「そうですよ、男と出かけましたよ。ばーか」


 善悪が絡むと、自分がされた行為は悪になります。それ以外誰も認定してくれない、と感じるからです。



 誰がなんと言い訳をしようが、


「悪い行為を”された”のだとしても、結果としてそこに残るのは悪でしょ?」


ということです。




 最初の子が言った、パスポートの話がわかりやすいのですが、これは元ネタは赤川次郎の「夢から醒めた夢」というお芝居(劇団四季)です。


 天国行きの飛行機に乗るには、白いパスポートが必要で、黒いパスポートでは天国へはいけない。

 とすれば性被害にあって、そういう悪いことをされてしまったのだとすれば、



 「真っ黒ではないかもしれないけれど、もはや純白のパスポートではいられないでしょう?


 たとえグレーだと言われたって、白じゃないんだから、天国へはいけないでしょ?」



ということなのです。




==========




 この世界の下で生きている人たちの論理では、


「あなたは被害者なのだから、まったく悪くはない」


と口では確かに言ってくれるのだけれど、そこに善悪が隠れて絡んでいる以上、


「では、私は被害者なので、純白で純潔な乙女であると認めてくれますか?」


と言い返せば、相手は必ずひるむのです。




「ほら、やっぱりあなたですら、私をグレーだと思っているんだ!」




  こうなることがわかっていて、それが不毛な会話だとわかっているから、女性たちは口をつぐむし、それならもうグレーでも黒でもいいや、となるのかもしれない、と思います。


 かくして女性たちは、自分を傷つける方向へと進んでゆきがちです。




 ==========



  さて、ここで本質論へ立ち返りましょう。



 セックスとは何か。


 それは、究極的には、「自己を複製するための権利・権力の行使」だと考えます。



「このセカイに自分が生きていたという証は、そのままでは消滅してしまう。

 しかし、生殖行為によって、自己もしくは自己の遺伝子を、共生的(男女の共同体として)に残すための力を行使できる」


 とするわけです。



 実際に妊娠するか、子供ができるかは別問題としても、少なくとも行為については、ベースにそれがあると思います。


 
 セックスが権利権力の行使だとすれば、そこに暴力性が潜んでいることの理由もわかりやすくなります。



 ここに暴行主体の男性が存在するとして、


「私は、自己の複製権利を持ち、その権力を行使したい」


と考えるわけですから、それを相手の同意なしに実行すると、暴力の塊となります。


「私は誰がなんと言おうが行使するのだ」


ということです。





 逆に、暴行を受ける側の女性の立場で見てみます。


「私は、自己複製の権利を持ち、その権力を行使したい」


ということは、その相手は「私に決める権利がある」ということです。



 自己を誰と共生的に複製するかの権利権力は、あたしが持っているのだ、ということなのです。



 暴行が起きた、望まぬ性の強要をされたということは、


「自己複製権を他者に剥奪された」


ということに他なりません。



 これは、別に生殖能力が失われたとか、その後結婚妊娠ができなくなるとかの問題ではありません。





 その人の内面において、


「わたしが生きてきた証を、そしてこれから生きてゆき、未来に対してわたしがこのセカイに立っているということの証を、自己決定できず、他者によって剥奪された」


ということなのです。


 だから、この苦しみは、とてつもなく大きいし、そして一生の傷になるのです。





 ↑このように考えると、ここに善悪の概念を持ち込まないことが大切だというのがわかると思います。




 これは善悪の話ではなく、「あたしがあたしであり、あたしがセカイに対して、ちゃんとここにいて、未来にもいることができる」ということに対しての破壊なのです。





==========




 では、解決方法。


 「あなたは悪くない」という表面的ななぐさめも効果があるかもしれませんが、おそらくツボはそこだけではないと思います。


 そもそも善悪の問題ではないので、


「あなたは侵害されたんだね。そのことについて、とても共感し、一緒に苦しいと感じます」


ということや、


「あなたの主権を取り戻してほしいし、そのことを応援する」


ということのほうが、大事なのだと思います。





 女性にとって最も望ましいことは、



「私はわたしの自己複製権・権利権力を、わたしの意志に従って行使します。

 私がこの人であれば!あるいは、この人とでありたいと心から信じたあなたと」



ということなのだと思います。(もちろん、男性だってそうです)



※これが「愛する」という概念へ繋がってゆくのですが、それはまた別の機会にでも。





  これは、たった今から未来へ向かっての権利の行使ですから、過去は関係ありません。


 あなたが主体的に意志を持って望むのであれば、それは確かな未来なのだと思います。





 だから、私はあなたを信じるし、ずっと大切に思うことができるのです。


  わかるかな?






 余談)


 不倫が起きたり、離婚しようと思ったりすることが生じるのは、この「意思決定」に基づきます。


 法律上の配偶者よりも「自己の意思決定」を重視すれば、当然不倫になるでしょう。


 あるいは、「自己の意思決定」があるから離婚したいと感じるわけです。


 「不倫は悪、離婚はしないほうがいい」

という概念では、自己の意思と合致しない場合、とても苦しむことになります。



 そしてまた、恐ろしいことにこの「自己の意思決定」は



 一度決めたら未来永劫ずっとそのまんまではない



 ことにも注目すべきです。



 つまり、「私はこうしたい、この人が絶対的な相手だ」という意思決定ですら、未来においては”変わる”」ということです。


 この辺りは、このセカイや人が、空しいものであるという解脱論へと繋がってゆきますが。



 また、自慰行為が存在するということは、善悪ではなく「自己権利の行使」なので、全然問題はないということになります。


 ただ、本来「自分がこの人だと信ずべき相手」が欠如したままでの「権利の行使」ですから、その部分は充たされない感情は残るでしょう。

 しかし、繰り返しますが、これは善悪の問題ではなく、そのこと(相手が欠如しているので、未完成であること)によって生じる寂しさが主体だということです。





























2017年4月23日日曜日

般若心経を超現代語訳する ~武庫川訳、般若心経~




 般若心経の現代語訳というのは、いろんなところに転がっているので、お好きなものを使えばよいと思いますが、


 武庫川訳の「超般若心経」を作ってみたので、お届けします。



 悟るとはどういうことか、実在と空、虚と実とはどういうことか、そして自分の存在について考えたいあなたにどうぞ。



 
 ちなみに、一般の仏教の専門家の方の訳だと、次のリンクが名文だと思われ。



 ■ 般若心経を現代語訳するとこうなる
 http://www.zen-essay.com/entry/hannyashingyou



 この方は「存在」という概念で書いておられるので、武庫川的にもわかりやすいです。




==========




仏説 摩訶般若波羅蜜多心経



武庫川散歩の説く 偉大で最高完全なる智慧の中核をつづったもの













観自在菩薩・行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。


このセカイを見渡すわたくし武庫川が、最高の智慧について考えているときのことです。


人間の持つ5つの構成要素である、「肉体・感覚・知識・意思・認識」というものは、全部空っぽで実体がないとわかって、すべての苦しみや災いの川を渡ることができました。


 

舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。


ハガネちゃん。肉体や形あるものは空っぽで空虚です。空虚はまた肉体や形あるものと異なりません。

形あるものはそのまま形がなく、形がないものはそのまま形がある、ということです。


 ※シャリープトラは、シャカの10大弟子の一人。ハガネちゃんは、武庫川の弟子の一人。


5つの構成要素である「色(肉体)」について説明したけど、残りの4つの「感覚・知識・意思行動・認識」についても、これと同じです。




舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。


あのねハガネちゃん。こんな風にすべての法則・存在は空っぽの様相で、生まれることもなければ滅びることもなく、汚いとか綺麗だとかもなく、増えも減りもしないんです。





 

是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。


 セカイがもし空っぽで存在しないとすれば、形はありません。さっき話した五蘊もないし、目や耳や鼻といった六根もないし、声や香りや味といったその対象物も存在しないんです。





無眼界、乃至、無意識界。無無明・亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。


目で見える範囲のセカイから、意識で把握するセカイまで、「悟りに対する無知(わかってないこと)である無明」もなければ、無明が尽きることまでないんです。

あ、簡単にいえば。わかってないじゃんとか、わかってるとか、そういうことさえないんです。

仏教では、「わかってないこと(無明)」が老死の原因因果だと考える説があるんですが、なので老死もなければ、老死が尽くされることもないんです。

ややこしいなあ、ここ。物事をわかってない人がいるとするしょ?わかってないから苦しんだり、つらかったりするじゃん。仏教では、苦しみや辛さを「老死」で象徴するからね、つまり、「わかってないから苦しむ=無明だと老死する」と考えてるの。

もっかい簡単に言うね、「わかってないから苦しむ」「わかってるから苦しまない」とかそういうのはナシってことよ。




無苦・集・滅・道。無智・亦無得。


「苦しみがある→それが集まるとしんどい→でも、それを滅することができたら→幸せな道」

そういうプロセスもないし、智慧・知識もなく、得るものも得ることもないです。





以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。


悟りを開いた者たちは、至高の智慧を知ってる、持っているので、心に妨げとかこだわりがありません。

こだわりがないから、恐怖もないので、転倒して間違った認識で見ることから遠く離れて、穏やかな気持ちへとたどりつくのです。


プライドとか、いじける気持ちとか、そういうのなくせば、素直になれるでしょ?




三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。


三世(過去現在未来)の目覚めた者たちも、最高の智慧に拠っているので、すべてを正しく見通せるような悟りを得たのです。




 故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪。


だから知っておきなさい。これは偉大な神の呪文で、明らかなる呪文、そして無上で、並ぶものがなく、全ての苦しみを取り除き、真実で偽りのないことばです。

だから教えます。本当にすばらしい智慧のことばを。



即説呪曰、羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。般若心経



それはこんなことば。


(原文はサンスクリット音訳の呪文になっている ぎゃーてーぎゃーてーはらぎゃーてー、はらそーぎゃーてー、ぼじそわか)





君は進もうとしている。


君はきっとたどりつけるだろう。


幸せになろうとしている君よ。


あなたに平安が訪れますように。





これが、般若心経です。








 

2017年4月22日土曜日

悟りと解脱について君と語ろう。 



 今日は、まじめモードです。


 ”武庫川散歩という人間は、解脱している。悟りを開いている。”


 とふだん私はさんざん口にしているので、「ああ、武庫川さんは仏教の釈迦のように、あちゃらの世界にいっているのね」と認識される人は多いと思います。





 あちゃらの世界とは、仏教的に言えば


「すべての物に執着がなく、迷いや苦しみもなく、すべてのものから逃れた世界」


を示すことでしょう。





 たしかに、仏教的には、悟りを開き解脱したものはそうなる、というニュアンスで捉えられているかもしれません。


 仏教では、すべてのものは空です。空即是色。色即是空。


 この世界というものは、「あるが、ない」「ないが、ある」ということで、


 セカイがあるように感じているけれど、ないのと同じなのであれば、執着したり、欲を持ったりしても無意味だよね


と説くわけです。



 武庫川は、仏教の世界観を尊重し、「このセカイはないに等しい」と思っています。



 そして、仏教の悟りでは、だからこそすべてのものを捨て去るのが平安を得る方法だ、と言っています。


  しかし、まったくおなじ前提から、武庫川の悟りは真逆の結論を導き出すのです。




 このブログを通観して読んでいただければ、わかってくると思いますが、表面上の



 悟り・解脱



という言葉に囚われてはいけません。





 では、私の悟り、解脱とは何なのか。あらためてもう一度丁寧にお伝えします。



 私の愛しい弟子に、これを伝えます。






「このセカイが空虚で、空に等しいものだとしましょう。


でも、その中で、私たちはさまざまなものを感じ取ります。


楽しいと思ったり、嬉しいと思ったり、おいしいと思ったり。


逆に


悲しいと思ったり、切ないと思ったり、苦いと感じたり。


このどちらも、空虚なセカイなはずなのに、何者かから与えられたギフトなのです。


ギフテッドという言葉があるように、能力や何かができることは与えられたものです。


それを与えたのは神だと考えたのは西洋人で、東洋人はそれが宇宙やこのセカイそのものだと考えました。


楽しかったり、嬉しかったり、安らぎを感じたり、あるいは、時には涙したり、そういうものは、空虚なセカイでありながら、私たちがこのセカイに落とされた中で、いのちを彩り、時にはそうした感情や感覚が希望になったりもする。


このセカイが、何千万色のカラーのように、色鮮やかになるのは、そうした気持ちをギフトとして与えられているからです。



武庫川の悟りは、それらの色鮮やかなこのセカイを、まるごとそのまま素直に受け止めようというものです。


でも、仏教と同じように執着はしない。それを自分の欲でガチガチに固めたいとは思いません。





これを手に入れたいとか、これが欲しいとか、これに縛られていて苦しいとか、そういった気持ちからは、すっきりと開放されています。




なぜなら、それこそ釈迦の言うとおり、このセカイは空だからです。



弟子であるあなたに伝えます。


嬉しい気持ち、楽しい気持ち、切ない気持ち、悲しい気持ち、さみしさ、怒り、恐怖、不安。

わくわくする感情、ドキドキ、安心感、泣きたい気持ち、うれし泣き。

見失った感覚、みつけた感覚、自信、時にはプライド、たまにダメダメさ。


ありとあらゆる感覚や感情、そして私たちが生きているすべては、とても素敵なもので、それらの気持ちや感覚に、飲み込まれ、うずの中に閉じ込められてしまえば、それはそれこそ執着状態と欲の奴隷ですが。


もっと素直に、自分にも周囲にもナチュラルでニュートラルに接することができれば、すべての感覚や感情、そして出来事は



ギフトとして与えられた美しい人生、生き方



になるはずです。


だから、私も、喜び、楽しみ、時には涙を流したり、せつなくなったり、痛みを感じたりもします。


悟ることは強さだけではなく、弱さを感じ受け止めることでもあります。


けれど、それに溺れ巻き込まれ、自分を見失うことではけしてありません。


本来は存在しないに等しいものなのに、それが存在すると感じられることは喜びだからです。


悲しさや切なさですら、そう思うこと、思えることは、幸せだからです。



仏教では、この空なるセカイに、私たちの関係が構築されていることを「因果」という考え方で捉えました。平たく言えば、縁です。


これも、とても納得のいく概念です。


わたしとあなたの間には、まったく何もなく、何のつながりもないところから始まって、それでも、あなたが弟子になり、わたしがあなたと関わることになりました。


それが縁。


なにもないのに、なにも存在しなかったはずなのに、生まれている関係性と、存在。


それをすっぱりと「存在しないもの、捨て去るべきもの」だというのが仏教の悟りと解脱であると言うなら、


「それは存在して、空虚なセカイではあるけれど、あることが嬉しいと感じられることを心にずっと留め置いておこう」


というのが私の悟りです。」



泣きながらこれを書いています。伝わればいいなと思いながら。
















 











2017年4月20日木曜日

【勝手に人生相談シリーズ 19】 わたし、あまのじゃくなんです。 ~こころとカラダはうらはらなのよ~



 毎度みなさまこんにちは。


 最近、仕事がやたら忙しくて家帰ってからもブログを書く暇もないのですが、こうやって書いているのは、



 ええ、現実逃避



 です。 うおー、仕事が多くて嫌だー。みたいな。




 さて今日は、「わたし、あまのじゃくなんです」という読者の方からのご依頼により、ついつい、内面とは逆のことをしてしまうあなたへの処方箋(ニヤリ)



 ちなみにこのあまのじゃく。漢字で書くと「天邪鬼」と書きます。




 
こんなの。(出典はwikipediaさん)






  ちなみに、天邪鬼さんは

「人間の煩悩の象徴」

だそうで(苦笑)






 ただ、その成り立ちはとても興味深く、本来は「天の動きや人の心を探ることのできる」


 天探女


というシャーマン、巫女のようなものだったのですが、 彼女がいろいろあって、天稚彦という男性神に告げ口をしたところから、天の邪魔をするもの、という悪いイメージができたのだとか。








  さて、現在ではちょっと違う意味で使われていますね。


 以下引用です。


”「人の心を見計らって悪戯をしかける子鬼」とされることから転じて、

現代では「他者(多数派)の思想・言動を確認したうえで、あえてこれに逆らうような言動をする"ひねくれ者"、"つむじ曲がり"」「本心に素直になれず、周囲と反発する人」


またはそのような言動を指して、「あまのじゃく(な人)」と称されるようになった。”



  はい、ここまでが国語の授業でした。





~~~~~~~~~~




  実はこの話をとりあげようと思ったのは、毎度おなじみメンヘラ界隈では有名なゆうきゆう先生のツイッターから、


【精神科医監修】好きな人に素直になれない! 反動形成行動の原因と克服法

https://woman.mynavi.jp/article/170420-8/

 (元ネタはマイナビウーマンさん)



が流れてきたので、そういえばちょうど読者の質問とおなじじゃん、と取り上げることにしたわけで。




 さて、専門用語でいうところの「反動形成」ですが。これはフロイトさんの提唱理論だそうで。

 心理学でも古典の部類ですな。


 記事にもありますが、恋愛やら親子関係やらで、



 「本当の気持ちと逆の態度を取ってしまう」



ということはよくあります。



 武庫川は、とっても素直な良い子なので、


「好きなものは好き、いいものはいい、ダメなことはダメ」


とはっきり言うほうですが、私の周りの人たちは、けっこう天邪鬼です。





 では、そうした反動形成の正し方、というか治し方も見ておきましょう。






■ 自分の気持ちを見直す。


 さすが専門家ですね。ただ単に「自分の本当の気持ちは?」と問うだけでなく、


なんで抑圧してしまうのか?


の両面で見直すのがよいそうで。


 本心と、それを認めたくない理由の2つが、両輪のように大事だということですね。






■ 本当の気持ちを声に出す。


 これは、自己肯定作業ですね。あたまで漠然と思っているのと声に出すのは違います。


 運転士さんが「出発進行!信号よし!」と声に出して指差し確認するのと同じで、もやもやのままに置いておくのではなく、


 「この部分は確かな気持ちだ」


と自分で肯定してあげることができるのです。


 ゆうきゆう先生のいうところの次の”「自分にいいよ」と言ってあげる”も、これと繋がります。





~~~~~~~~~~




 あまのじゃくな人は、実はその態度を取っている間、



 むちゃくちゃしんどい


のですが、天邪鬼から本心へ移ったときの「安心感・素直な喜び」に気付かないことが多いです。


というのも、もともと反動形成が作られるときに、


「素の自分であったことで、つらい思いをした」


と感じているからそうなったのであって、 なかなかその鉄壁のガードを解くことができません。




 でも、本当の自分を出しても大丈夫な場合はちゃんとあるので、いつでも防御臨戦態勢でいる必要はないのです。






 そこのあなた。ちゃんと回答しましたので、読んでたら素直になってくださいね!!








2017年4月19日水曜日

新弟子が入門しました。 生きづらさを抱えたあなたへ


 しばらく更新ができておりませんでしたが、普段の仕事がちょっと忙しいのと、



 弟子がグレていた



のを、丁寧に向き合っていたために、お時間が取れませんでした。



 ええ、出家還俗弟子女子ですね。還俗してから、極楽浄土のうるわしい世界から一転、世俗や自分との戦いにいそしまねばならないわけですから、それはもう大変です。


 言うべきことは全部言ったので、あとは本人の器と本人の気持ちが鍵です。


 
 がんばれー。応援してるよ~。



 この間、弟子女子に夜中の3時まで電話につき合わされたので、まだ眠いのです。さすがに、40歳を過ぎると、尾を引きますね。レッドブル希望。



~~~~~~~~



 はい。では次のニュース。



 えーっと。嬉しいことに、春の新採用キャンペーンということで、


 新しい弟子


 が増えました。もちろん、女子です。弟子は女子しかいません。



一度だけ女装するから弟子にしてくれという


可愛い男の子


がいたけれど、彼はどうしているんだろう。




 いままでブログに登場した、おもしろおかしな弟子も女子だったので、ややこしいですね。


 出家還俗弟子女子のほうは、「ハガネちゃん」とコードネームで呼びましょう。いつもは、鉄壁の鎧を身にまとっているからです。中身はぐずぐずですが。



 新しい新卒採用女子のほうは、とりあえずいまとてもさみしがっているので「ウサギちゃん」と呼んでおきます。そのうちキャラが変わったらかわるかもしれません。




 新しい弟子ができたことを告げると、ハガネちゃんは


「(あたしは)弟子失格ですか・・・」


としょんぼりするので、そんなことはないと励ますのですが、当の本人は、この数週間、師匠という存在からグレて、返事もはぐらかして断絶しようと試みていたのはどこのどいつですか?





 ハガネちゃんは本当に面白くて、


「師匠!師匠のブログはあたしの面白エピソードを見に人が来てるんですよね?!」

「ああ、たいしたブログではないけど毎日100人くらいは、来てるんじゃない?」

「じゃあ、あたしのおかげで小遣い稼ぎができてるんですね!」


・・・こ、こづかい稼ぎ?!!

 (グーグルアドセンスのことを言っているらしい)





 ちなみに言っておくが、このブログは、悟りと救いをテーマにしているのであって、


 ハガネちゃんの面白グレ行動


をレポートするブログではないです。




~~~~~~~~~~


 ウサギちゃんは、あんまりグレてはいませんが、中身はけっこう弟子らしくいい勝負です。


 人間というのは面白いもので



「素直にグレる」ことができる人





「素直にグレる」ことができない人


というのにわかれます。どちらがいいかは別にして、どちらも



心の中では鬱々とした闇を抱えており、その表現方法が違うだけ


かもしれません。



 ウサギちゃんは、これまでに取った弟子の中でもちょっと変わっていて、根が賢いのか、私が言っている3歩先ぐらいまですぐその意味がわかります。


 師匠いらないじゃん、と思うくらいよく出来た弟子です。






 ハガネちゃんはアホなので、(彼女の名誉のために言っておくが、偏差値は高い)、



「あんたさあ、これこれこうなんじゃないの?」



とかわたしが言うと、


「またそうやって決め付けます。師匠はいっつも分析して決め付ける!」


とか怒り出し、数日とか数週間とか経って、


うわあああーーー!って泣きながら電話とかしてきて、


「あんた自分でそうや、ってわかってたやろ」と尋ねると、


「わかってましたよ。気付いてたに決まってるじゃないですか」


となぜか偉そう。



 この繰り返しなので、なかなか先に進まず、よく考えたらハガネちゃんの弟子歴はもう


6年目


に突入のようで。



 ちなみに、賢いウサギちゃんは、おおむねハガネちゃんが6年かかってようやく最近わかってきたような内容を、



 3日



で理解しました。自分で体得して、そのように生きられるかは別ですが。




~~~~~~~~~


 あほみたいなこと書いてますが、こうやって楽しく書いているだけで、本人たちは切実なものを抱えているので、日々頑張っています。あたたかく見守ってやってください。


 武庫川は苦しい気持ちや悲しいものを、なるべく払拭するようにブログを書いています。


 それは一つの救い、カタルシスなのかもしれません。


 私はいつでも優しいのです。 ぎゅ。































 

2017年4月10日月曜日

イエスキリストとは何だったのか、がわかった件



 武庫川の一家が昔入信していたエホバの証人のことを、ネット界隈ではJWと略します。


 で、ここ最近、ツイッターなどで元信者の方などと絡んでいます。


 絡んでいる、って変な表現ですね(^^;;


 一応ツイッターにそれらの方たちがいろいろ思いを書いている場があるのは知っていたのですが、自分からは絡まず、たまーにROMする程度でした。






 それが、ここんとこちょっと積極的に私も発言したり、引用しているのは、



 ・・・・・・べ、べつに寂しいからじゃないやい!!!


 (↑実はさみしい)


・・・・・・もとい。ちょっと思うところあって、「親子」の課題や、バックグラウンドとしての宗教の問題に、何かいいヒントが掴めないかな~、と考えているからです。







 そんな中で、基本的なことや大事なこと、いろいろ見えてくるものもあります。


 たとえば、やっぱり親子や友人や関わりあう人たちの中で、



「本音を隠してグジグジ悶える」とか「グレる」とか「こじらせる」


のではなく、やっぱり


「気持ちの根っこの部分をきちんと口に出す、話す」


ことは(難しかったり苦しいけれど)、やっといたほうがいいなということです。素直さ大事です。





 もちろん、中には「でも、こんなこと言っても仕方ないし、どのみち解決しない」みたいなことや、「こんなことを言ったり思ったりしても、わがままなだけだ」というような無理難題もあるでしょう。




 それでも、そのことにちゃんと向き合って、やってみる言ってみるぶつけてみることで、必ず違う展開が待っているのだと思います。


 聖書的にいえば、ベタですが「求めよ、さらば与えられん」ですな。





  
~~~~~~~~~~





 さて、話は変わります。


 Ovisaries7H7Eさんのツイート
 https://twitter.com/Ovisaries7H7E/status/850904690598400001


 に興味深いことが載っていて、「キリスト教に平安があって、JWには平安がない」という一文は、言いえて妙なもので。


 これと同じことを、


 沈黙~サイレンス~を考える
 http://satori-awake.blogspot.jp/2017/02/blog-post.html


 の回の時にも思ったのですが、エホバの証人って


「キリスト教原理主義の割には、キリスト教じゃないんだな」


ということに帰着するのかもしれません。




 現役・元JWの人にはこのニュアンスがわかりづらいかもしれませんが、エホバの証人であることよりも、ぶっちゃけカトリックやプロテスタントのほうが救われ率が高い、救われ感が強いなんてことを言ったら、理解できるでしょうか?



「いや、私たちのほうが真理に近いんだから、私たちのほうが救われる率が高いはずだ。より救われているべきだ」




と思ってしまうのが、究極の勘違いだったりするのかも。





~~~~~~~~~~




 さて、上記のように、キリスト教信仰について考えたり、現役JW・元JWのみなさんの言葉を読んだりしているうちに、



ああ、なんだそんなことか




と、ついに「イエスキリストがいったい何をしたかったのか」「イエスとは何だったのか」




降臨




してきました。わたくしの脳みそに。


 え?解脱だけじゃなく、キリストっちゃう?救世主もいっとく?


な感じ(笑)




 冗談はさておき。




 イエスキリストという人物は、なかなか凄いです。これは、けっこうアブラハムの宗教の歴史の中ではコペルニクス的転換で、


「なるほど、イエスという男は、そう解釈したのか!」


という点において、さすがに素晴らしい。



 詳しく書くとややこしいのですが、ポイントだけ絞ります。



 ①

 まず、戒律宗教のユダヤ教(砂漠の宗教・アブラハムの宗教)があります。


 これは「規則を守ることで救われる」という契約の宗教と救いです。





 わかりやすくするために、後から出てきたイスラム教をここで語ります。イスラム教も戒律の宗教です。ユダヤ教と同じで、

 「規則を守ることで救われる」というものなのです。





 つまり、アブラハムの砂漠の宗教は、基本的に「神の言うこと(戒律)」を守ることによって救われる宗教なのですが、イエスだけが突然、全然違うことを言い出したのです。


「いや、神は戒律ではなく、愛によって救うのだ」


と。



 イエスはパリサイ人を非難しましたが、つまりはそういうことです。戒律なんか二の次だ!と。そんなのどうでもいいんだ!と。




 この愛の概念は、実は旧約聖書にはあんまり出てきません。というか旧約聖書の神の性格は真逆です。滅ぼすことばかり考えている。


エホバは、愛してなんてくれない。(どっかーん)






 そうすると、イエスという男が一体何をしたのかが明確になってきます。



 端的に言えば、彼は


「愛を発明した」


のです!!!




 聖書以前にも、以後のコーランにも、「愛」は登場しません。しらんけど。




 愛について語っているのは、イエスだけで、彼だけが長い中東の歴史の中で、「愛による許し」を説いている異端児です。



 イエスが間違っていたのは、その「愛」の主を当時の人間にとっては重大な関心事であり、かつ生きるベースであった「神(エホバ)」と仮定して設定したことにあります。



 間違っていたのか、わざとそう言ったのかは聖書には書いてありませんが、とにかく結果として、


「愛をくれる主体は、神だよ」


と彼は説きました。それがフェイクだったとしても、その教えは、現代まで続きます。


 

 しかし、イエスが本当に言いたかったことは、実はこういうことだったのではないか?と解脱者かつイエスが乗り移った男(誰?www)には、ひしひしと伝わります。



 「愛の主体は、・・・・・・大きな声では言えないが僕だ」


と。


「弱き者、間違った者、罪を犯した者、グレた者、いじけた者、泣き虫で意気地無しな者、ちゃんとルールを守れない者、失敗した者、ダメ人間・・・。 そういう人たちは、神様の基準では、アウトかもしれない。神殿も聖職者も、あるいはこの世界の分別ある大人と呼ばれる人たちが、あなたを非難するかもしれない。


 それでも、僕は、あなたが好きだ。


 それでも、僕はあなたを愛している。


 それは、あなたが、この世にたった一人しかいない、大切な存在だからです」



 そう、イエスは言っているだけなのです。



 それを、砂漠の神の概念を使って説明しようとしたから、今の混乱が起きているのではないでしょうか?


「本来、神によって愛されるべき被造物だったヒトが、罪によって罰せられている。しかし、イエスによってその贖罪がなされている」


なんて複雑な構造ではなく、ものすごくシンプルな構造が本来の姿なのではないでしょうか?



 そう、イエスが言いたかったのは、



「僕は、きみが、好きだ」



という、ただそれだけ。無条件に、人は人を好きになっていいんだ、ということ。





~~~~~~~~~~





 これが神格化され、イエスは救世主となってしまいました。あるいは、愛の概念があまりにも強烈すぎて、ましてや


 本来の神を乗り越えちゃった感


まであったので、イエスは神と同格になってしまいました。 しかし、これらは全部、



 後の人たちが勝手に解釈したこと



に過ぎません。イエスの思想は、もっともっとシンプルであったのでしょう。






 もし、いわゆるアブラハムの神が存在しなかったり、創造主はいても人に対して関わらないとすれば、私たちはどうすればいいのでしょうか?


 それでもイエスがやろうとしたことや、イエスが考えたことは、私たちもたった今からでもやれることだと思います。



 あなたの大切な人としっかりと向き合うこと。


 非難するのではなく、共に歩むこと。


 口を閉ざすのではなく、語り合うこと。


 無関心でなく、関わりあうこと。


 もらうだけでなく、与えること。



 ほかにもまだまだたくさん。

 

 これらは、神にならずとも、人が人のままでできるシンプルなことだと思います。


 それは、あなたが救われることとのバーター(交換条件)なんかではありません。



 だから、安心して。




 














 

2017年4月8日土曜日

人はなぜブログを書くのか ~承認欲求?さみしいから?それとも~




 
「・・・武庫川さんは、ほんとは誰でもいいんでしょ。かまって欲しいだけなんでしょ。」



・・・・・・。



・・・・・・。



 いきなり、こじらせたラブシーンみたいなのから入りますが、ええ、先日そんなことを言われた武庫川散歩です。




「いや、誰でもよいわけじゃない!僕が見ているのは君だけだっ」



と、カッコよく言いたいところですが、 ちょっとその時の話の流れが言える雰囲気ではなかったので、上の私のセリフは空想の産物です。あしからず。思ってても口では言ってないよ。




 ・・・・・・なんの話やねん!




 そうです。今日のテーマは、これ!





 人はなぜブログを書くのか。






 これは21世紀、ネットの時代に生きる現代の哲学の真髄と言ってよいかもしれません。



 少し前だったら

「人はなぜ小説を書くのか」とか

「ブンガクとはなにか」とか

「人はなぜ表現するのか」とか

そういう問いかけもたくさんありましたが、これをいかにも現代チックにすると


人はなぜカキコむのか


に集約されるかもしれません。




 それは時には


「寂しいからブログを書くんだろう」とか

「承認欲求が強いからでは」とか


そういう文脈で語られることも多いのですが、


(参考★ニャートさんのブログから

http://nyaaat.hatenablog.com/entry/best-essay


引用:
” 例えば、心の暗がりについて書くとき、「そんなことはブログで全世界に公開することではない。日記帳に書いてだれにも見せるな」と批判する人がいる。
「ほめられたいからだろう」「さびしいからだろう」と批判する人もいる。

私も、このことについて悩むことがある。
なぜブログを書いて、だれかに読んでほしいと思うのだろう。
思ったことをありのまま書きたいのは、別に承認欲求からではない。だけど、この気持ちをうまく説明できない。”


 )



はて、武庫川はなぜブログを書いているのだろう、ということを、今日は考えてみたいと思います。




~~~~~~~~~~




 武庫川がブログを書く理由、それは「誰でもいいからかまってほしい」ということではありません。


 それよりも、実は、




「これをあなたに読んでほしい。♪伝えたいことがあるんだ!」
(by小田和正)



という意味合いで書いている記事もたくさんあるし、逆に、特定の読者は想定せず、



「ただ、書き連ねているのだ。悪いか」



という意味合いの記事もたくさんあります。



 武庫川クラスになると解脱していますので、すでに他者から承認される必要はなく、なので、部屋も片付けず汚いままです。


 承認してほしいとか言う前に、部屋を片付けろ!はいそうですね。というそれだけの話ですよ。


 また、「寂しい」ということもちょっと違います。


 なぜなら美しい妻と可愛い子供たちに囲まれて、おまけに猫が二匹もいて毎日ゴロニャンと生きたぬいぐるみがすり寄ってくるからです。


 こんなにリア充なのに、寂しいとか言ったら、


ほんまにさみしい人にどつかれます。まじで。


だから、あえて言おう。さみしくなんかないやいっ。




~~~~~~~~~~



  武庫川という人間は、小さい頃からいろいろな表現を試みていて、文章を書いたり、音楽をやったり、演劇を作ったり、映像をやったり、作家の真似事をしたり、テレビラジオ新聞雑誌ウェブ、いろんな媒体に出たりしながら生きてきました。


 ぶっちゃけ、それらは手段については何でもいいし、「メディアに出続けたい」とか、そういう気持ちもないので、ふだんは世を忍ぶ仮の姿の会社員をしています。

 で、たまに表の世界でちょろっと活動して、また地味な生活に戻るみたいなことを繰り返しています。


 端的に言えば、それらも含めて何かしらを外に出してゆくのは


「面白そうだからやってる。えへ」


だけなのですが、明るく元気でほがらかに人生を生きるということの象徴なのかもしれません。



 なので、ブログもそう。



 書いてて面白かったり、楽しかったり、好き放題言いたいだけ、なのでしょう。



 そして、それらすべては


「今を生きている、その瞬間をそこに定着させている」


ぐらいのことなのだと思います。



 もし賢明な読者のみなさんに伝えたいことがあるとすれば、



「今、この瞬間をいきいきと生きてね!」



ということだけです。それを伝えるために、こんなに自由闊達なことばを書き連ねているのです。



 上で引用したニャートさんの記事では、


「わたしは、書いたものをネットの海に投げることで、どこかにいるだろう、分かってくれるだれかと対話をしたいのかもしれない。」


ということばが続きます。


 コミュニケーションする、ということですね。



 社会学の分野では、近年、



「われ、コミュニケーションす、故にわれあり」


という、人の定義として「コミュニケーションする存在」を挙げる学問内容がありますが、この視点はとても大事だと思います。



 そういう意味では、私も「関わる」ことをとても重視しています。人間ぎらいのクセに。



 だったらきっと、私がブログを書くのは、



「あなたと関わりたい」



というメッセージなのかもしれません。


 あなたとは、そう、これを読んでいるそこのあ・な・たです(^^



・・・・・・気持ち悪いとか言うなっっ!!!

2017年4月6日木曜日

ストーカーが生まれる要因 ”くみちゃん、地球上に男が何人いるとおもってんの? 35億!”



 どうも、肉感的なボディをもった、おっさん・ブルボン武庫川です。


  え?ブルゾンじゃなくて?


 そう、ブルボン。でも、ブルボンの由来は、もはや、かのお菓子会社ですらよくわからないらしいの。

(★フランスのブルボン家由来説・コーヒーのブルボン種由来説などあり)


 もう、わたしも自分がよくわからないわっ。 



・・・。





・・・。





 さて、(真顔)今日のお話は、ストーカーについてです。

 昔、とある女子にこの高潔な武庫川もストーカー扱いされたことがありますが、 何度もメールを送りつけたとか、待ち伏せしたとか、そういうことは一切ありません。

 
 そういえば、とある女子にも、この高潔な武庫川はなんにもしていないのに


「セクハラされたっ」


と、言われたこともあります。してないしてないっ、してないぞ!
 




 ……話が、飛びすぎるのでもどします。


 ストーカーの話ですが、「アイドルとファン」のように、もともと相関関係があまりない相手がストーカーになる場合はともかく、多くの場合は「元彼」とか「元カノ」「元夫」「元妻」など、ある程度関わり合いが深かった人物とこじれると、


 相手がストーカー化


する場合が多々あることは、ご存知の通り。ひらがなで書くと、すとーかーか。


福岡弁では、「いうとーと?」「おこっとーと?」「すいとーと…。」



…。


…か、かわええええええ!!!!




なにこの突然の方言女子萌え!


本論に関係なくブチ込んでくる小ネタの数々。


岡山弁もかわいいんだよね。がーがー。

「いうとったがー」「しよるがー」




…はい。戻します。





==========




 一旦関わり合いがある男女の間がこじれると、相手はこちらが思っているよりも強大に「恨みつらみ」を抱くことが多いのですが、ストーカーされる側から見ると、


「なんでそんなに恨まれるの?」


ということがイマイチぴんときません。一般的に考えれば、恋愛においても夫婦間においても

「そういうものは、たいがいお互いさまの部分がある」

とも言えるし、

「50歩100歩」

であったり、

「フィフティフィフティ(50%・50%)」

じゃないか、とも言えるわけで。


 ところが一旦こじれると、恨みを抱く方はそうとは受け止められないわけです。

 これがなぜそうなってしまうのか、このメンタル業界では有名人の「ゆうきゆう」先生がすでに書いておられるのでご紹介しておきます。




マンガで分かる心療内科 
http://yusn.net/man/462.html


あなたには35億の借金がある
http://sinri.net/sinrigaku/217.html



 リンク先の漫画や説明を見れば一目瞭然ですが、人間というものは、


「おれがきみにしてやったこと」





「あたしがあんたにしてもらったこと」


というのは、受け止め方が35倍異なる、のだそうで。



 「これだけしてやったぜ」35に対して、「してもらったわ」は1になるという


 35:1の過酷な現実


がそこにあるのです。



 ましてや、ストーカーが

「俺はこれだけお前にしてやったのに!バッグだって買ってやったし、ディナーだって連れて行ったじゃないか!」

「俺がどれだけお前の面倒を見たと思ってるんだ!」


とか思いはじめたら、してやった件数が10倍とか100倍とかになってるでしょうので、


350カウント、3500カウント、350000カウントぐらいには膨れ上がっている


はずなのです。



 これはもうモンスターですので、「いやいや、あなたの妄想は35倍に服らんでますよ」とか説明しても、通じるわけはありません。



 なので、これを静めるには大変な時間や手間がかかろうかと存じます。みなさんそこで苦労するわけですね。


 武庫川は男には手厳しいので、ストーカー男には


「器の大きい漢(おとこ)にならんかいっ!!!」


どやしつけたいところですが、おそらく彼らには言ってる意味すら通じないのでないかと。







 ちなみに武庫川は、もともと「誰かに対して、とてもよくする、してあげる」傾向が強いです。

 なので、「武庫川さんに、大変よくしてもらいました」と言われることは多々ありますが、


 それはもう、記憶に強烈に残るほど、めっちゃお世話しているのが実態です(笑)





 たとえば、ふつうの人が、誰かに何かをしてあげるとするでしょ?


 そしたら、されたほうは、「あーしてもらった。よかつたよかつた」と、1カウントになるわけです。

 (その時、したほうは35で記憶しているのだが、それはまあよし)



 ところが、武庫川の弟子たちは、まあたいてい、


「師匠には1000くらいしてもらった、いや10000くらいしてもらった」


と思ってます。それはもう、本当に語り尽くせぬほどいろいろと。



 なので、たまーに


「重すぎる、あたしには絶対に返せないからつらい!しんどい!」

「弟子やめるっ、追いつけないっ(涙)」


といって、どこかに去ってしまう女子がいます。2人くらい。いや、わし別に追い詰めてないよ?




 それぐらい親身になるということは、普通人換算では



「35000くらいしてやった、350000くらいしてやった」


になってもおかしくないんですが、 もはや武庫川はやりすぎて、最初のほうがどうだったかとか忘れていますので、


「何をしてやったか、とかあんまり記憶してない」


のが正しかったりします(笑)



 で、たまに「あの時、こんなこと言ってくれたでしょ?あんなこと言ってくれるなんて、うれしかったの」みたいなことを言われると、武庫川は実はきょとん、としていて。


「え?別に今でもおんなじこと言うけど」

「今、この瞬間でも同じことできるし、するよ。あかんの?」 

「言うだけどころか、マジで実行するだろうね」


ぐらいのノリだったり(真顔)




=============


 というわけで、今日の結論。


 金利がいきなり35倍になっている相手とは、まずまともに会話すら成立しないので、「何をしてやった」「してもらった」の部分では、絶対にかみ合わない。

 そこを議論にもってゆくのは無駄。


ということで、いかがでしょうか?



 それから、誰かに何かしてもらうだけでなく、


「あたしも、これくらいたくさんあの人にしてあげてるわ!」


という感覚を持つくらい、誰かに与えることができれば、不均衡は生まれづらくなるのかもしれません。



 自分のことだけでなく、相手のことも。

 

 それが、お互いが幸せに近づく方法だと思います。