2016年7月28日木曜日

相模原大量障害者施設殺人事件について 〜解脱者が考える正義とは何か〜

 日本の犯罪史上、類まれというかおそらくは初めてなのではないかとも言われている相模原の障害者施設殺人事件についてですが、この事件について何の視点も置かないというのはさすがにセカイに対して失礼だと思うので、解脱者なりの言葉を書いておこうと思います。


 もちろん、たくさんの方が亡くなっているわけですから、心から痛ましく思います。


(なので、今日は真剣な眼差しで書きます)



<正義とは何か>


 今回の事件が、日本でかなり珍しい事件だと言われるのは犯人が「犯人なりの正義」をあえて大上段に振りかざしてそれを公権力にまで宣言して実行した、という点にあるのではないでしょうか。


 かのオウム事件においても、内部では「これは正義の戦いだ」という認識はあったでしょうが、事前に政府に通告してテロを起こしたわけではありませんし、池田小事件や秋葉原事件などは、「加害者の個人的な屈折」を無差別に振りかざしただけで、今回のように

「健常者である職員の命に危害は加えず、障害者のみを刺殺する」

という意図的な「(犯人なりの)正義における分別」

 は、なされていませんでした。



 とすれば、私たちは必然的に「正義って何なんだ」ということに、嫌でも着目せざるを得なくなります。



 奇しくもつい最近


ストーカーは正義である
http://satori-awake.blogspot.jp/2016/05/blog-post_27.html


などでも、この話を取り上げたし、あるいは欧米を震撼させているテロ事件などでもそうなのですが


「私たちの一般常識として考えている正義と異なる別の”正義”がたしかに存在する」


ということに、これからは嫌でも向き合わねばならない時代なのだと思います。



 こうした難しい問題に、ふつうの人は


「はなっから思考を中断して、存在を抹殺してしまう。あるいは見ないふりをする」


という行動を取ります。


 具体的に言えば、今回の事件についても


「そんな優生学的な発想はナチスと同じだから間違っている」

とか

「そもそも刺青や大麻をやっている時点で話にならない」

とか

「イカれた奴はみな死刑にすればいいんだ」

とか、とりあえず、何がしかの処理ができたようでいて、実は何の根本的解決にもなっていない言説を繰り替えすわけです。



 しかし、よく考えてみてください。


 ある人たちは、優生学は否定するけれど、妊娠中絶は大量に行います。あるいは、着床前診断などで、遺伝子に問題があれば妊娠そのものをとりやめる夫婦もたくさんいるわけです。


 この夫婦と、今回の事件の犯人の根底に流れる「正義は同じ」です。

「障害者は、この社会で生きるには大変で可哀想である」という思想に基づいて、夫婦は最初から殺人を犯しているのですから。



 この全く同じ正義に基づく議論が、今回の事件に関連して行われることはないでしょう。


 それは突きつけられると、産科医や不妊治療や、あるいは高齢出産や、女性の社会進出といったたくさんのジャンルや組織やシステムに陰を大きくする問題だからです。


 だから、みな、今回の容疑者については「最大限悪く言いまくり、それでおしまい」にすれば、見て見ぬふりができるわけです。




〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜




 解脱者は、そもそも正義を認めません。


 障害を持つ人は生まれるし、その方たちが社会において生きづらいことも事実でありましょう。

 だからと言って価値があるとかないとかそういう問題ではありません。


 そもそもこの世は無常です。わたしたち健常者も「価値があるというフリをしているだけで、価値なんてない」のです。


 それが証拠に、すべての人は平等に死にます。だれもが死ぬということは、つまりはそういうことなのです。


 よって、武庫川は、今回の犯人が行ったことは完全に間違っていると宣言できます。


「可哀想なのは、障害者なのではない。あなただったのだ」

「生きづらいのは障害者なのではない。あなた自身だったのだ」

「価値がないと感じられるのは、障害者なのではない。あなたそのものだったのだ」


ということを、彼が気づいていれば、慟哭し泣き叫んだかもしれませんが、 この世の無常を悟り、別の生き方をみつけたことだろうと思います。



 彼は、間違ったことに「彼の正義に執着」しました。そもそもこの世に「正義なんて存在しない」のに、それに執着したことが彼の根源的な誤りであったと思います。




 わたくし武庫川も、慟哭し、泣き叫んだ思い出があります。この世に意味があり、価値があると信じていた昔の自分が悟りを得たとき、


「ああ、この世界には実は何も意味などなかったんだ!」


との気づきに泣きました。天地がひっくり返るような心のざわめきがありました。



 
 この世界に価値などありません。



 亡くなった19人の命は、犯人1人の命で代替されるかもしれませんが、そうすると被害者の命の価値は19対1になってしまいます。


 そんなことが正義なのか?と思うくらい、正義なんてないのです。


 犯人の一族郎党19人探し出して、全員殺せば、命は償われるのでしょうか?


 それも無意味な話です。


 何をどうやっても、話が合わないのは、この世界における正義そのものが、空想に近いくらい儚いものだからなのです。


 
 

2016年7月22日金曜日

解脱者・哲学者が考える ”成功する人間になるためのたった一つのルール”

 稀代の解脱者であり、自称他称を問わない哲学者である武庫川散歩ですが、ふだんは、


 世を忍ぶ仮の姿で、会社員


をしています。


 会社員とは言っても、実はわが社のオーナーは、直接統治をしておらず、うちの会社はわたくし武庫川散歩が、実務上の管理職として働いているというちょっと変わった勤務形態なのですが、それはまた別のお話。



 あー、簡単にいえば「雇われママ」



ですね(はあと)




 その、雇われママである武庫川は、ふだん自分の勤めている会社のことを、


「この会社の資産と経費を使って、何がしかの成果を挙げ、それをオーナーに上納して自分も利益を得ること」


と定義して働いているのですが、 どうもこういう考え方をしている人間は少ないようで、いつも他の従業員(まあ、端的に言えば部下)とは話がかみ合いません。



 ふつうの会社の従業員というのは、「自分が働いて、その結果お金をもらう」ということを仕事だと考えています。


 なので、何がしかの「職務」をすれば、お給料がついてくる、と考えがちですが、それではずっと会社に使われっぱなしになります。


 また、実は何がしかの職務をしても、その職務は全然お金を生み出していない、ということもよくあるわけです。


 すると、ふつうの従業員たちは「自分たちはこんなに職務をしているのに、どうして給料が増えないんだろう」と考えてしまう、という悪いベクトルに進んでしまうのです。



~~~~~~~~~~



 たとえば、今日こんなことがありました。



 ある若い従業員が、今から自分が配達にいかねばならない顧客の荷物の準備をしていました。


 そこへ、別の得意先の顧客が来て、 「これこれの品物がほしいんだけれど」と尋ねました。


 彼は、最初本人の話を聞いて、途中で「あ、自分には何かわからないので、事務所に行って聞いてください」と答え、自分が最初していた仕事に戻ったわけです。


 すると、その顧客は事務所に入って、クレームを言ったのです。「あなたのところの従業員は、やる気がないのか?」と。


 管理職である私は、もちろん、顧客に対して謝罪し、今後ともお付き合い願いたい旨をお願いしたわけですが、まず、この話のどこがまずいのかわかるかどうかが、成功する人間へと第一歩だと思われます(^^



 従業員からすれば、「自分はきちんと応対した、何を言っているのかわからなかったので、事務所にはわかる人間がいるということを伝えたんだ」と言っていましたが、それはもちろん、その従業員の言うとおりです。理論的には、たしかにそれは理屈に合うでしょう。


 彼は

① 自分の荷物を準備するという職務をきちんとこなしていた。

② やってきた顧客の話を聞き、事務所に尋ねるよう”最も適切だと思われる回答”をした。


と考えています。もちろん、その通りです。




 では、何がまずかったのでしょうか?


 これがきちんと答えられる人は、まず大物になれる素質があります。







 さて、回答です。


 彼は2つの職務を彼なりに一生懸命にやっていたのだとは思いますが、実は「職務を果たしていたが、成果を挙げていな」かったのです。



 顧客が欲しかったものが何か、ということに最終的に関与せず、途中で放り出してしまっていることが、成果に結びつかなかったということが、理解できていないのです。



 もし、最後まで顧客に寄り添って「欲しいものが何だったのかを、見つかるまで聞き出し、一緒に探していた」なら、彼は2つの成果を手にいれたことでしょう。


 ひとつは、顧客が欲しがっていたものという直近の成果


 もうひとつは、この従業員は親身になってくれ、役に立ってくれるという顧客の信頼です。


 もし、最後まで「顧客が欲しがっていたものが何かわからなければ、事務所に入って担当者を呼び出して一緒に尋ねる」だけでも良かったのです。




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 このように、「職務をきちんと果たす」というだけでは、その仕事は給与や待遇には反映されません。それどころか、自分ではきちんと仕事をしているつもりなのに、顧客にクレームを言われるという「損」をしてしまうことだってあるわけです。


 しかし、解脱者的には、この従業員がまだまだ「成功には道のりが遠いだろうな」と思われる究極のポイントがまだひとつ残っています。


 それが、今回のタイトルである「たった一つのルール」なのですが、これまたみなさまには、それが何がわかるでしょうか?




 実は、前半長々と書きましたが、そんなことよりももっと重要なことが、この話全体には隠れているのです。


 この従業員が成功者になるには、いったい何が足りないと言うのでしょうか。




 それは、「自分が失敗をしたんだ、という気付き。自覚」です。



 成功するものは、自分が過ちやミスを犯したとき、それが「まずかった」ということをきちんと自覚し、悔います。


「あー!やっちまった!」


それだけでいいのです。とても簡単なことです。



 ところが、ほとんどの人は「いや、それにはこういう流れがあって」とか「こういう意味で」とか、何か自分を正当化したり、なかなかミスを心地よく認める気持ちにはなれません。



 これが、成功する人間へのせっかくのルートを阻むのです。成功できないのは、自分自身のせいなのです。




 このことはとても大事なポイントです。



 よく、「成功する者とは、たくさんの失敗をしてきた者だ」という言い方をしますが、 この単純な言い回しの中に、


 深ーい意味


が潜んでいることにお気づきになるでしょうか?


 そうです。たくさんの失敗そのものを、多くの人は「そもそも、認めたり自覚しない」のです。


 だからいつまでたっても「自分は失敗をしていないつもり」のままで「成功もしない」のです。






 ”ミスをしても、反省してやり直せばいい”といった言い回しもよく聞きますが、これを自分で自分に言い聞かせて、ミスをミスと認めることが、一番難しいものなのかもしれません。





 私は解脱者ですが、たくさんの間違いを犯します。その過ちに、深く心を痛めます。


 その痛みを、明日への糧として今度は、生きる喜びに変えることができるからこそ、解脱者なのです。


 にんげんなんだもの。









2016年7月20日水曜日

うつ病に薬は効くのか。

 ようやく2016年の梅雨も明けたようなのですが、みなさんいかがお過ごしでしょうか?


 どうやら今年は、ラニーニャ現象が起きるというもっぱらの噂なんですが、ラニーニャというのはスペイン語で


 女子


という意味だそうです。 ちなみに、エルニーニョは男子。


 助手席に乗せるなら、ラニーニャもしくはマリコと決めている武庫川ですが、マリコというのはスペイン語でおかまの意味だそうです。


 スペイン語で”加賀まりこ”と発言するとたいへんなことになるそうなので、知りたい人はググッてください。




 さて、そんなこんなで今日は「うつ病」とか「心の病」に対して、


 病院や薬に頼るのはどうなの?


という疑問・質問にお答えしましょう。



 この「心の病と医療」については、両極端な意見が世間にも溢れています。


 たとえば、ひとつめの意見は


「うつ病ということばを流行させたのも製薬会社の陰謀みたいなもので、ただ投薬を続けていても、あまり意味はない」


みたいな言説、よく聞きますね。


 反対に


「うつ病は心の風邪のようなものなので、誰でも罹患する可能性があるし、ただ状況を我慢するだけでなく、早く専門医の治療を受けた方がいい」


という言説もよく聞きます。



 また、単に「うつ病」だけでなく「仮面うつ病」やら「新型うつ病」やら、「メンヘラ」やら、「心の病」やら「ボダ」やら、「双極性」やら、いろんな障害や症状があって、



 それぞれに適した治療や薬や、いろいろな対処法



があるので、さらによくわからないことになっています。



~~~~~~~~~~


 そもそも、心の病というのは、その症状も課題も人それぞれで、ましてや、それを引き起こした本人の特性や環境も一定ではないので、 単純に


「これが正しいですよ」


ということは言えません。


 しかし、これまでメンタルに問題を抱えた人たちのいろいろな課題にまきこまれ、取り組んできた武庫川としては、ひとつだけ断言できる事実があります。



 それは



「いくら病気の治療を受け、投薬を受けても、あなたを取り巻く環境や、そうした心の病を引き起こした原因は解決しない」



ということです。





 治療や薬は、あなたの病気としての体のトラブルに対して有効ですが、


 あなたの会社の人間関係を解決したり、

 あなたの経済問題を解決したり、

 あなたに恋人を作ってくれたり、

 あなたの家族や親族との関係を改善してくれたり


は、しません。



 なので、究極的には、そうした「あなたの外側の問題に対して、何がしかの解決策を模索しない限り、心の病を治しても、また元の状態に戻るだけ」である、ということも、忘れてはならないのです。



 
 お医者さんは、心身の健康についてのスペシャリストではあっても、あなたの家族の人間関係のスペシャリストではないし、あなたの給料を保証してくれるわけでもありません。

 あなたの別れた彼氏をこちらに振り向かせることもできないのです。



 ですから、心の病についての治療や薬は、


「対処療法、あるいは、とりいそぎの心身の不調に対して有効である」


と言えることは確実ですが、多くの人は、そこから



「環境が変化しない。状況が変わらない」


という深みに入ってゆくことになるわけです。




 ~~~~~~~~~~


 心理学的には、こうした周囲との軋轢の解決法がいくつかあって、それは単純にまとめると



「周囲を強制的に変える」





「あんたが強制的に変わる」


かの二つしかありません。


 周囲を変える方法は、これまでその人とまわりに生じていた人間関係や受け答えの回答を「以前と同じ行動を取らない」という形で実現します。


 自分が変わる方法は、「自分の受けとめ方そのものを変える」という認知的方法です。




 周囲を変える方法は、「患者とともに、解決をめざしたい!と共通の目的を持っている家族や近しい人」に対しては、両者が同時にカウンセリングを受けることである程度実現できますが、会社の環境とか、経済的問題などについては、手助けできる部分が限られています。


 自分の考え方を変える方法は、ある意味楽ですが、自分自身が変わらねばならない、という強烈な葛藤を伴います。



 このあたりは、心理学の専門家に相談したほうがよいでしょう。






 あ、ちなみに


「精神科の医者は心理学の専門家ではない」


「心療内科の医者と、精神科の医者の専門領域は違う」


「心理学者は文学部卒業で、精神科・心療内科医は医学部卒業、それくらい領域が離れている」


ということを覚えておくのは、大事です。



たいていの人は、この3者をいっしょくたに誤解していますので。














2016年7月18日月曜日

あなたが貧困に陥らないための、解脱者からのアドバイス 〜どうしてテロリストはみな金持ちなのか〜

 世界中でテロが発生している昨今ではありますが、遠い異国のことだと思っているたいていの日本人が勘違いしていることが一つあります。


 それは、テロというものは、比較的貧しかったり紛争がある途上国の人たちが、お金持ちの欧米に対して行う行為だ、という誤解です。


 なので、資本主義社会の権化のような、欧米の国々でテロが起こり、日本人はあまりそういう貧しい人たちと直接的に絡んでいないので、日本ではそうしたテロは起きにくいのではないか?


 そんな風に考えてしまうことも多々あるでしょう。




 しかし、それはまったくの間違い!ブッブーです。




 いいですか?世紀の解脱者が詳しく解説しますから、耳の穴をかっぽじってよく聞いていてください。




<びっくり!テロリストはみな金持ちである>

 少なくとも、欧米諸国を襲うようなテロリストの首謀者や、あるいは実行犯も、その大半はあなたの給料よりもずいぶんと稼いでいる金持ちです。


 イスラムな某国だって、戦闘員に給料を払えるほどのお金を持っており、それは小さな国の財政に匹敵します。

 オウム真理教も、ヘリやミサイルを買えるくらいの現金は持っていたし、大都市に不動産だって持っていました。

 アルカイダのメンバーは中東の富豪です。


 数え上げていけばきりがありませんが、何らかの事件を起こした者の首謀者や幹部クラスは、たいてい


 あんたらよりはるかに金を持っている


ことだけは確実なのです。




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 なので、ひとつ言えることがあって、テロの標的として狙われるのは、必ず、「お金が集まる都市部」であることは確実です。


  ど田舎村ではテロは起きません。なぜなら、テロリストはお金持ちなので、



貧乏人は相手にしない



からです。よって、テロは必ず都市で起きますが、残念ながら巻き添えを食うのは貧乏人のほうが物理的数が多いのでテロリストより貧しい人が死にます。


 もし、日本でテロが起きるとしたら、それはかならず「東京」「大阪」「名古屋」「福岡」といった都市部で、


 島根県宍道湖畔


とか


 北海道オンネナイ原野


 とかでは起きません。


 仮に、テロリストが圧勝しそこを制圧しても、


何の意味もない!


からに他なりません。



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 お金持ちではない庶民のみなさんからすれば、「お金もちなんだったら、どうしてわざわざテロを起こしたり、他人を傷つけたりするのだろう」という感想を持ったりするかもしれません。


 そ・れ・が


あんたらが庶民でしかない。庶民から脱出できない


問題点そのものを示しているのです。



 よいですか?


 テロリストはお金持ちです。なので、「自分たちにはお金や力がある、あるいは武器だって所有している」とまず考えます。



 そして次に、「いや、俺たちよりもお金儲けをしている奴らがおり、権力や武器も持っているが、彼らのせいで我々は抑圧されている」と考え始めます。



 さらに、「じゃあ、そいつらを何らかの力で圧力をかければ、我々に有利な展開に持ち込める可能性がある。いっちょ、やってやるか!」となります。



 テロは、何からの目算がありそうだと思うから起こすのであって、最初から完敗がわかっていれば別の方法を考えます。



 そう!だから


「国家転覆や、資本主義社会に対抗しようと思うくらいの人たちは、国家やそれに相当するくらいの財力やイデオロギーを持っている=つまり金持ち」


ということになるのです。





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 ここに、あなたが将来貧困に陥らないためのヒントがあります。


 面白い記事があったので紹介しておきますが、



 「貧しくても食事より娯楽」に宿る貧困問題の本質
 http://diamond.jp/articles/-/95625



という書評に、この話のすべてが詰まっているような気がします。



 この記事は「貧乏人の経済学(バナジー/デュフロ みすず書房)」という本の解説ですが、



 発展途上国あるいは貧困な人たちがどのような行動・思考パターンを持つか


ということを端的に示しています。



 私もこれまでちょっとした理由でさまざまな下層社会の人たちと関わりを持ったことがありますが、彼らに一様に言えるのは、


「そもそも、向上するつもりはないし、向上し、貧困や下層から抜けだそうという気持ちもない」


ということは事実です。


 それよりも、目の前の楽しいこと(テレビやYouTubeの動画やパチンコや、異性)などに時間を浪費することを選び、いや、選びつづけてそれらだけで生活の大半を過ごすのです。



 彼らは、自分たちの貧困生活が、「変わる」というイメージやビジョンを持ちません。

「変えられるだろう」という可能性も、感じることがないわけです。


 これは、「もしかすると俺たちの世界が作れるかもしれない」というテロリスト達とは全く真逆の思考です。





 これらのことから、あなたが貧困に陥らないためのアドバイスが、端的に導き出されることになります。


 それは



「オラは絶対金持ち王になってやる!」


と思える人間でないと、人は堕ちたらその生活から抜け出せない、ということです。



 記事にある貧困な生活者を、あなたの未来にあてはめるならば、「一杯のビールが今夜あるからとりあえず幸せだ」とか、「今日寝る場所があるから、まあ幸せだ」とか、そんなことを思い出したらアウトだということになります。




(ちなみに、解脱者は足ることを知っていますから、小さなことで満足できますが、お金もがっちり稼ごうとギラギラもしています(笑)←どこが解脱者)



 毎日まいにちしょーもないブログを書いているのも、貧困に陥らないために、ブログを書くことで得られる収入をかき集めているからです。

うへへへへへ。



 なーんてね。  

2016年7月16日土曜日

<勝手に人生相談シリーズ 12 > ひきこもり女子なんです!どうすればいいの?

 

 さあ、帰ってきた「勝手に人生相談」のコーナーです。


 誰も頼んじゃいないのに、勝手に他人の人生に土足で踏み込もうとするこの企画。好評なんだか不評なんだか。



 今日の元ネタはこちら!  ドン!



 「ひきこもり=男性」じゃない! 女性当事者が見つけた居場所とは
http://withnews.jp/article/f0160716003qq000000000000000W03j10101qq000013707A



 withnewsさんからの引用ですが、男性ひきこもりがひしめくこの世にあって、


「女の子だって、引きこもりたい!」


というニーズがあることが、徐々に明らかになっているようです。


 そういえば東映アニメの大ヒット作「プリキュア!」シリーズも


「女の子だって、戦いたい!」


がコンセプトでしたから、そりゃ相当隠れているでしょう。女子ひきこもり。




~~~~~~~~~~



 少しバブリーな香りがする時代の人であれば、その昔女子には



「家事手伝い」



という名の、合法的引きこもりを意味する職業があったのを覚えていると思いますが、昨今は使われませんね。



 親の方も経済的に体力がないので、娘に家事手伝いされた日にゃあ、「貧困女子」予備軍ということになってしまいます。




 それはともかく、この記事からインスパイアされての今回の人生相談。


「引きこもり女子なのですが、これからどうしていけばいいでしょう」(20代女子)


という架空の設問を設定してみました。



 引きこもり女子にはいくつかの特徴があります。



■ 社交的ではない。たぶん、明るくない。

■ 自分の容姿に自身を持っていなかったり、服装やファッションに価値を見出していない。

■ 友だちがいない。

■ 買い物や何かの手続きなどの実務的なことくらいはできるが、それ以外は外出が少ない。

■ 腐女子もしくは、異性との交流があまり得意ではない、もしくは好きではない。




 まあ、難しいことは書かなくても、「ひきこもり男子」の性別だけ入れ替えたら、実は同じです。


 
 これ以外にも、実はわたくし武庫川が知っている実例では


■ オタク。アニメ好き


とか


■ 高学歴で勉強はできる


とか、そういうタイプの方もおられます。




~~~~~~~~~~



 男性でも女性でもおなじなのですが、引きこもりというのは


「自分が任務として社会から求められるであろう、社会的立ち位置に自信がなかったり、適合しづらい人」


の総称であるといえます。



 男子であれば、「職業人として、自分で稼ぎ、(独身であれ家族もちであれ)家を経営してゆく」という立ち位置が求められますが、その実現に自信がなかったり不適合だったりすると


「ひきこもり」


まっしぐらです。


 一方の女子とて同じで、「職業人もしくは妻もしくは母として、家を経営してゆく」という立ち位置なだけで、男子と本質的に異なるわけではありません。




~~~~~~~~~~


 社会学的には、こうした人たちは、「息子であり、娘である」という立ち位置から、「元服・あまそぎして、成人した一人前の男女となる」という立ち位置に至るまでの



 ちゅうぶらりん



なところで、ふわふわしています。年齢的には20歳を過ぎて成人したとしても、「社会的に通過儀礼を超えていない」ということでもあるわけです。




 人間における通過儀礼にもいろいろあります。身体的な「毛がはえる」とか、社会的な「選挙にいく」とかはわかりやすいベタなものですし、


「1人暮らしをする」

とか

「結婚し、家庭を持つ」

とかも、通過儀礼のひとつです。



 ひきこもりを「感情的、感覚的なもの(出たくない、関わりたくない、こわい、などの感情論)」として捉えると、当事者の感情をメインにする限り、おそらく早期の解決は難しいでしょう。




 感情論でない解決策があるとすれば、当事者を



「システムや立ち位置にはめていく」


という方法が考えられます。



 それは単純に「就職する」とか「結婚する」といったものではなく、彼らが「自分で一つずつ、いままでの自分とは異なり、新しいポジションへと段階を踏んでいる」と思い、理解できるものである必要があります。




 だから、記事の中にも「メイク」が出てくるのです。



 ただ、容姿に自信がないからメイクすればいい、という表面的なこと以上の効果がここにはあります。


「メイクをして、変化する」


ということは、いわば強制的に「立ち位置を変えられる」体験になるから感情無視なのです。




 この場合、ただメイクをするだけでなく、「デート用の愛されメイク」と「ビジネス用のすっきりメイク」
などのいくつかのパターンを実習すると、


「引きこもりでは立てない、立ち位置・ポジション」


を発見することができます。ここに効果があるのです。



 本来の人格とは無関係に現れる別の立ち位置は、ひきこもり女子を変えます。



 なので、引きこもり系女子で、コスプレにはまる人が多いのはそのせいです。


 

~~~~~~~~~~


 全然関係ないですが、わたくし武庫川は自分でも気付かないのですが妻に言わせると


「メイクの達人」


だそうで。


 私自身は化粧なんかしたこともないし、他人に施術することもないのですが、



「その人に合うチークやらシャドウやらの色身を当てる名人」



なんだそうで。おまけに



「その人に合う服装の色合いをコーデする達人」


なんだそうです。



 そのため、妻のファッションの買い物には、かならず連れていかれます。



 ようするに、私は



パーソナルカラー診断



が、できるんでしょうね。もって生まれた力だそうです。





 というわけで、引きこもり女子のみなさん。




 まずは武庫川のパーソナルカラー診断を受けて、きゃわいくキュートになってください。



 きっと幸せになれるはずです。




2016年7月13日水曜日

<勝手じゃない人生相談> メンタルに問題を抱えた家族がいます。どうすればいいのでしょう。



 毎度おなじみ読者からのお便りを元に語りまくる


「勝手じゃない人生相談」


のコーナーがやってまいりました。



 これまでは勝手に人生相談を頼まれもしないのに、連日強行していたのですが、相談が寄せられるようになっただけ、このブログも書いている価値が生まれてきたようです。




 さて、今日のお悩みは


「自分のことではなく、親族なのですが、心の病を抱えた家族がおり、周囲が疲弊してしまっています。どうすればいいのでしょう」


というものでした。


 私の親族にも、同志社大学を出た引きこもりと、ブサイクな男と結婚したのは親のせいだとグレてしまい、800万円の借金を抱えた嫁という2大問題児がいます。


 それぞれ、複雑な事情があるので、ひとくくりにできるような解決策はありませんが、たとえば同志社を出た引きこもりは、親がJRの偉い人なので、お金をたくさん持っています。


 その原資を元に息子は働かずにゴロゴロしているようなので、いつも親族の親族には


「そのお金を全額、武庫川に預けたらええねん」


と言っているのですが、まともに請合ってもらえません。



 どういうことか?



 お金がなまじっかあるから、息子は一人立ちできず、親もついつい金を出してしまうのです。


いっそ、そのお金を悪徳な人に全部根こそぎ取られたら、二人とも目が覚めるだろう!と誰もが思うところですが、悪徳な人に取られたら本当に家族が崩壊します。



 だ・か・ら!!!


悪徳でなく、かつ親族思いの心安らかな武庫川に全額預けることで、二人は立ち直り、そして資産も失われない、というすばらしい解決策なのですが、



 このすばらしい悟りを開いた仏のように優しい武庫川の提案よりも、お金が失われることが嫌だと思い続けている浅ましさが、二人を地獄へ突き落とす



ということを知るべきです。ですよね?!




 私の言ってることはおかしいですか?それとも悪徳な人にだまされたほうがよいのですか?




~~~~~~~~~~




 さて、金の亡者は滅んでしまえばいいのですが、いよいよ本題です。



 相談者さんのご親族の状況を整理します。


 お父さん、お母さん、お兄ちゃんと妹がいて、妹が末っ子だからか我侭に育ったらしくて手に負えないとのこと。


 家で暴れたり、暴言を吐いたり、あるいは口汚くののしるなどの乱行があるのと、気に入らないことがあると他人のせいにしてその他者を排除するようにけしかけるのだそうです。


 心の病を疑って、心療内科にも通院していますが、いっこうに良くならないので、


① 家族はどうすればいいのか

② 親族として手助けできることはあるか


ということがお悩みです。




 さて、武庫川は、これまでいろんな人種の人たちと接してきたり、関わりを持ってきましたが、


「健康な人と心の病や、心身の発達に問題がある人との間には、無限のグレーゾーンが広がっている」


と考えるようになりました。


 いわゆる、精神病とか、発達障害とか、IQが低いとか、健常とか、健康とか。そういう枠でくくれないほど、この世界の住人は、いろいろなところに問題があったり、グレーな部分があったりするのです。


 ですから、 この娘さんが、本当に心の病のメンヘラなのか、それとも単なる我侭なのか、それは直接会ってもわからないぐらい難しいことだと思います。




 ちなみに、わたくし武庫川は、これまで数名の「心に闇を抱えた女子」とハートフルな交流をつづけてきましたが、


Aの子は、最終的に完全に拒絶し、その子の親から「ストーカーで警察に訴えるぞ」という電話がかかってくるという結末


を迎えました。 すごいでしょ?武庫川ストーカーだったのです。



Bの子は、武庫川がその子に「寂しがり屋なだけじゃないの?」と言うと、「私を寂しがり屋呼ばわりするやつは絶交するぞ!」といわれ


ました。 すごいでしょ?絶交ですよ。21世紀少年なんです。バッハッハーい。




 どちらがメンヘラで、どちらがまともかわかりますか?



 ちなみに、Aの女子はパニック障害で通院歴があります。Bの女子は躁鬱で通院暦があります。




 繰り返しますが、どちらがメンタルかわかります?


 ちなみに、武庫川もうつ病で通院暦がありますが、何か?


 うちの嫁は結婚して3日目で、鎮痛剤を山ほど飲んで「なにか未遂」をしましたが何か?



 はい!全員アウト!!!!




 ・・・冗談はさておき。




 このメンバーで、おそらく本当に心に問題を抱えているのはAさんだけです。あとはみな健常です。

 うちの嫁は寂しかっただけだし、私も寂しかっただけだし、B子さんも寂しいだけなんです。


 Aさんは境界性人格障害の疑いが強く、私も手を焼きました。Bさんはめっちゃいい子です。ちょっと若かりし頃グレただけなんです。


 ただ、だからといって、何がしかの問題行動が起きていることは事実ですから、考え方としては2パターンあります。







<第一のパターン 結果にコミットする。ムコザップ>

 ♪ダダンッダダンッダダン、、、. チャラ~ララ~ラララララ


 結果にコミットする、ムコザップです。娘が暴れるのが問題で、なんとかしたいのであれば、精神安定剤を山ほどぶちこんで黙らせればいいのです。


心療内科ではだめです。山奥の精神病院がよろしい。「数ヶ月は出せませんがいいですか?」と判子も押さなくてはいけませんが、覚悟の上です。


結果、平穏が訪れます。







<第二のパターン 原因にコミットする。ガワザップ>

  ♪ダダンッダダンッダダン、、、. チャラ~ララ~ラララララ

 そんな結果を望んでいないのであれば、原因を遡る以外にありません。

 そもそも、親の対応に問題があるのであれば、変えなくてはいけません。

 手を焼く娘にでも、どんなに嫌なことでも、立ち向かわなくてはなりません。


 だいたい、こうなるまでほって置いたのは、親や関係者が「対決するくらい、向き合うのが怖かったり、嫌だったから先延ばしにしてきた」からなのです。

 
 私が、いろいろな人に関わるときに、モットーとしていることがあります。


 それは、全力で愛し、全力で叱るということです。


 応援し、味方になるときは、全力です。


 全身全霊をかけて、その人をバックアップするのです。そして、それと全くおなじように、


「それは違う、それは間違っている。それは私は嫌いだ!」


ということも、徹底的にぶちかまします。



 なので、よく女性に恋されてしまいますが、それはまた別のお話。





~~~~~~~~~~



 私にも子供がおりますが、子供に対して全く同じように接しています。


 全力で喜び、全力で楽しみ、全力で悲しみ、全力で叱り、全力で憂う


 この武庫川の愛を以ってしても、子供たちはやはり迷い、誤りを犯し、時にはグレたりします。


それでも、おなじことの繰り返しです。




 相談者さまのご家族が、全力で向き合うおつもりがなければ、無理です。


 表面だけ取り繕って、逃げて先送りをしても、それは全部自分に跳ね返ってくるのです。


 
 仏教的にいえば



 ♪ 親の因果が~あああああ 子に祟りいいいいい♪



と言ったところでしょうか。




 全力で愛されたいあなた、お便り待ってます。







 



2016年7月9日土曜日

哲学は人類を幸福にはしてくれない



 東洋経済オンラインさんで、ずっと連載している、あの「中島義道」センセイの


「哲学塾からこんにちは」


が7月になって久しぶりに更新されていました。



 哲学が人類を「幸福にしない」これだけの理由
 http://toyokeizai.net/articles/-/124180




 前回の更新が3月末でしたので、3ヶ月はゆうにほったらかし、という連載。さすがは中島義道先生です(笑)



 そういえば、ジャンプのハンター×ハンターの作者、富樫センセイもまた休載のようですが、 武庫川の友人が、トガシ先生の昔のご学友だったそうで、


「うん、まあ、彼はいろいろと大変なんだよ」


と察して欲しそうでした。察します。




~~~~~~~~~~


 さて、そんなこんなで世間では心に病を抱えた方がたくさんおられますが、武庫川は今日も元気です。

 
  だって、悟ってるから。あははん。



 さて、今回の中島センセイのお話。


 哲学を追求すると、この世界で生きることよりも真理を知ることに重点をおいてしまって、その結果・・・悶死


という意味のことだったように思います。



 哲学においては、人類が滅びようが真理は真理ですから、人類の幸福と相反しても、それは真実なのだ!とついやらかしてしまうところがある、というわけです。




 そういえば、つい先日も、このブログのファンの方とそんなメールのやりとりをいたしました。


 え?武庫川にメールをしてくるやつがいるのか?って?


 いるんです。それが!



 まかり間違って、武庫川が実は存在しないのにメールを受け取っているような錯覚に陥り、そしてかつ返事を送っているような錯覚に陥っているのでない限り、そういう事実があるように受け止められます。



 哲学も悟りも同じですが、真理の追究に向かっていると、俗世のこととどんどん乖離してゆきます。

 俗世における善悪などというものは、解脱と哲学の前には、ほとんど無意味になってしまいますから、(かといって、悪さをするわけではないけれど)、中島センセイの言うように、


「子供が哲学科へ行きたいと言い出したら、全力で止める」


のはマストです(笑)


 それも、京大の哲学科がいい!とか言い出したら人間として終わりかはじまりかわからないぐらいのすごい状態ですから、 親御さんとしては心中お察しいたします。


 まあ、中島先生が、「哲学などなんの役にもたたないので、税金なんかつかって国立大で教えんでもよろしい」みたいな意見もわからなくないから、苦笑してしまいます。



 あ、でも中島氏はとてもいい提案をなさっているので、それには武庫川も大賛成したいと思います。

 引用

”幕末の私塾のように、志のある哲学者が塾を開けばいいのです。そして、志のある若者(あるいは中年、老年)がそこで学べばいいのです。”



 これですね!これ。



 というわけで、自称哲学者であり解脱者であり、妄想癖の武庫川散歩が、こんなブログを書いているのも



そこに意義がある!


と納得するわけですよ。



 私はとかはあんまりなく、どちらかというと


 寸志でいいから、くれ!


というタイプですが(笑)



 もし、このセカイについて多いに考えて考えて考え抜きたい人がいれば、誰でも当ブログに集っていただいてかまわない、と思っております。


 武庫川はお金がないので、私塾を開く余裕などありませんが、メールくらいならいつ下さっても大丈夫です。


 ただし、個人的にはメール下さるなら女性がいいです。


 あと、女装癖のある男性でも、まあいいです。


 むっさい男子の場合は、哲学してる暇があったら労働してこい!と怒鳴るかもしれません(笑)













2016年7月8日金曜日

テロをなくすにはどうしたらいいのか。 ~日本人が理解できないテロの論理~


 世界中が、テロで満ち溢れている昨今ですが、いかがお過ごしですか?


 そういえば、しばらく前に「エロテロリスト」なるものが、活動していたのですが、 最近は活動が停滞していますね。


 ええ、インリン・オブ・ジョイトイさんですが、結婚してお子さんをお産みになったそうで。いいお母さんです。



 というわけで、軽い話題から重い話題まで、ギャップの激しい当ブログですが、今日は



「テロをなくすにはどうしたらいいか」


という壮大なテーマでお届けしようと思います。



 というのも、


 ダッカテロ ~日本人が知らないジハードの論理~
 http://agora-web.jp/archives/2020092.html


 なる、アゴラの言説を読んで、「なんじゃこりゃ」とスッテーンとこけたところだから。


 この方の論によれば、「イスラム信者がジハードを起こすのは、イスラムを受け入れない国の国民や、その味方をしたものを敵とみなしているから」ということのようですが、


そ、そうだよね・・・。


としか言えません。ましてや、そのことを日本人が知らないだろうけれど、それではだめだよね、ということのようですが、



そ、そうだね・・・。



としか言えませんな。



 私は元キリスト教原理主義者ですから、砂漠の神が、「異教徒のすべての長男の首をはねろ!」とか、「滅ぼしつくして、その妻や子まで根絶やしにしろ」というタイプの神で、イスラムでもキリストでもユダヤでも、基本はそういう神に忠誠を尽くそうという意識があることを知っておりますので、


だから、ワシはそっちの信者として、活動していたのだ!


と言えるのですが。


 どうも、日本人にはこういうことがピンと来ていないのでしょうな。だからオウム真理教にだってやられるのです。



 そういう意味では



 心優しい人達が見たくない「不都合な真実」 松本徹三
 http://agora-web.jp/archives/2020114-2.html


というこっちの話のほうが、わかりやすいですね。


 松本さんの論点をまとめると、


①日本人は国際的に中立であるべきとか、まず世界の貧困と格差を解消しようみたいな、生ぬるいことを言っているバカは氏ね。

②評論ばっかりしてて現実への対抗策を出せないのはアホ。



 ということをまずカツンとかましておいて、その後で


『尊皇攘夷主義者も、一人でも多くの外国人を切るべしと思っていた点では原理主義者でおなじ』

とか

『日蓮宗から出た”一人一殺”みたいな視点もテロルだよね』


という実例を挙げて、似ている面を論じているのは好きです。



 松本さんの主張は、「じゃあ、どうするのか」という点では


「暴力と破壊を徹底的に憎もう!」

ということになっています。暴力を絶対悪と規定せよ!とまでおっしゃいます。



その具体策は、以下引用しますが


 ”公然とテロリストである事を謳っている組織は壊滅させるしかない。暴力によって多くの人達の人権を踏みにじり、自らの政治的な野心の為に一般市民の経済基盤を破壊しようとする人達には、死んで貰うしかない。”



・・・? ん?


・・・壊滅させるの?暴力を使わずに?


・・・死んでもらうの?口先だけで?言霊的なパワー?


武庫川アホなので、よくわからないのですが、暴力を振るうテロリストは、壊滅させるべきであり、テロリストは死んでもらう、というのは



 そ、それが暴力と破壊なんじゃないすか?


というハテナが生まれるんですが、なにか?



  どうも松本さんの頭の中には「いい”暴力と破壊”、と悪い”暴力と破壊”」があるらしく、その良し悪しは松本さんが決めているようです。



 砂漠の民はその良し悪しを砂漠の神にゆだねているわけで、約一人のマツモトなるヒトと神とだったら、神の言説のほうが、重いんですがどうしたらいいんでしょうか。




~~~~~~~~~~


 では、他者のことはさておき、解脱者はどのようにこの問題を解決するのでしょうか。


 「テロを世界から無くすにはどうしたらいいのか」


そこにはまず



「まず、神は存在しない」


ということが人々に行き渡らないとだめだと思っています。この言い方で誤解をまねくというのなら


「この世界は無常であるので、ある集団からみた善や、ほかの集団からみた善など、存在しないのだ」


といってもよいでしょう。



「まず、善悪を捨てなさい」


これが、最初の一歩です。


 良いということも、悪いということも、それに執着してはいけない。執着しなければ、「これが正義だ」と思って殺しあうことはなくなるのです。


 
  では、相反する両者が、互いに向かい合っている時は、どうすればいいのか。


「自分の分(ぶ)と相手の分(ぶ)がそこに存在するのなら、自分の分を少しだけまげて相手にも利を与えなさい。お互いにそうすることで、総体としての人の世界は、きっとひどいことにはならない」


と考えます。



 しかし、ここではものすごいことが起きます。どういうことか?


自分の分を曲げるのですから、自分たちにとって結果はマイナスなのです。相手もそうですから、相手だってマイナスしか得ていません。


 そこを納得できるかどうか!


 納得できなければ、いつまでも争いは起こるでしょう。自分の善を主張しあうことでしょう。


 

 だから、この世界は無常だと言っているのです。


「自分の分を曲げることがマイナスだ、と感じることがそもそも間違っていて、そもそもこの世界はあって無きものなのだから、それだけでも分があるのなら、それは有難いことだ」


と感じることで、世界は楽になるのです。



 東洋思想、仏教思想で言う「知足」に似た精神ですね。





~~~~~~~~~~


 解脱者が説くこの世界の真実は



「まず、善悪を捨てよ」


ということに他なりません。奇しくもキリスト教において、人が原罪を負ったのは


「善悪の知識の実」


を食べてしまったことではありませんでしたか?



善悪を知らなくても、人はよいのです。ただ、足ることを知っていれば、平穏はおとずれます。







2016年7月6日水曜日

解脱者、武庫川散歩は宗教家なのか ~それとも、ただの変態か~

 毎度おなじみ節操のかけらもない、下ネタの時間がやってまいりました。


 下ネタ、下ネタ言うてますが、書いている本人はちょっとした人生のスパイス程度にわざわざ挿入しているのですが、親交のある女子大生が、露骨に嫌な顔をするので、自粛しているところです。


 え?露出に嫌な顔?


 
・・・という、ツカミが決まったところで、今日のお話に入りましょう(^^


 もう、あいかわらずおちゃめなんだからっ。



~~~~~~~~~~



 俗世でけっこう有名なブロガーの方に、イケダハヤトさんという方がおられるのですが、たまたまこんな記事をみかけてつい読んでしまいました。




 イケダハヤトさんのブログ 「かなり難しい宗教の定義」
 http://www.ikedahayato.com/index.php/archives/26480



 ジャレド・ダイアモンドという人の書いた「昨日までの世界」からの引用という形での考察なのですが、


 アンドレ・ザ・ジャイアント



ではありません。それは、けっこう前の外国人のプロレスラーです。


 さて、「昨日までの世界」というのは、いわゆる先進国ではない文明化以前の未開の人たちの暮らしと、現代人の暮らしを比較したようなお話なのですが、まあ、そうした未開の人たちと先進国民の文化を考えるのは


 比較文化論


の基本路線ですね。






 で、宗教の話です。ここでイケダさんが注目されている宗教の定義は、だらだら書いてあるのでリンク先をみてもらえばわかるのですが、


 宗教の特徴を5つにまとめよう!


というコーナーがあったので、そこだけまた引用します。



■1 超越的な存在がいると信じること

■2 信者が形成する集団があること

■3 信仰に基づく活動があること

■4 個人の行動の規範になる教義があること

■5 超越的存在の力が働き、世俗の生活に影響を及ぼすという深淵があること




・・・・武庫川、解脱してるけどアホですから、最後のはよくわかりません。


 超越的存在の力が働き、世俗の生活に影響を及ぼす、ではマズいんですね~。


 そうなると、サタンかなんかの力で、この世が悪に染まってみんなが突然血走って走り出すぞ~、みたいなことになるからです。


 実際にそうなるんじゃなくて、「そうなりそうな気がする」ということ。


 だから「深淵」なのでしょう。よくわからんけど。



 だったら最初から


「超越的存在の力が、我々に影響を及ぼすと信じている奴らがいるってこと」でよいじゃん。




~~~~~~~~~~



 さて、こうして考えると、武庫川散歩は、宗教家ではナイ!と断言できそうです。



■1 超越的な存在がいるかもしれないが、それはこっちの世界には干渉してこないと考えている。

■2 信者はいない。っていうか、友達すらほとんどいない。

■3 活動方針はけっこういいかげん。ふわふわしている。

■4 教義はあるけど、規範がない。好きにすれば、が口癖。

■5 超越的存在は、なんにもしてこない、ってずっと言ってるじゃん。



ね?宗教じゃないでしょ?



 武庫川散歩において、解脱や悟りというのは、めちゃくちゃ個人的な概念なので、けして宗教ではありません。


(最近、よく「ファンです!」と言われることが増えたのですが、ファンになる人物を間違えていると思いますよ。で、どうせならファンじゃなくて崇拝とかしてほしいのですが、どうやらそういうキャラではないようで)



 ただ、そういう考えに到達すると、おのずと生き方というのは決まってきます。


 たとえば本当に悟りを開いた人物がいるとしましょう。


 彼がいう言葉と



 高田純二



がいう言葉は、見分けがつかないかもしれません(笑)


 それくらい飄々、ふわふわしていてもいいじゃありませんか。わはは。










 

<勝手じゃない人生相談> 人は何のために生きているのですか?



 前回もちょこっと書きましたが、これまで世間の片隅でひっそりと愛を叫んでいたこのブログですが、最近は、いろんな人に見つかってしまいました。


 旧知の友であったり、知り合いであったり、あるいは、全く見知らぬそこのあなたであったり、 なんだかたくさんの方が見ているようなので、おちおちショーもないことばかり書いてはいられないなあ、なんて思うことは全くありません。


  今日も明日も、いつも通り全開バリバリで書きなぐります。恥も節操もあったもんじゃありません。そこがこのブログのよいところ



 さて、またまた「勝手じゃない人生相談」のコーナーです。


 尋ねられたら、答えるのが武庫川の流儀ですから、きちんとお話しようと思います。








 今日のお題は、これ!


 ドン!



Q 「人は何のために生きているんですか?」


 いい質問ですね~。人は、いったい何のために生きているのか!

 まるで、


菌はなんのために生きているのか


とか、


ミトコンドリアは何を求めて生きているのか


とか、


ミミズは何を考えているのか



とか、それに匹敵する哲学的な難問です。



 でも、わたし、今いいこと言いましたね?わかりましたか?


 人が何のために生きているのか。という問いは、フナ虫は何のために存在しているのか、と同じくらい難問であるけれど、答えは意外と簡単です。



 ・・・知らんがな!


とか


 ・・・知るか!


でもお好きなほうをどうぞ。



 そう!マイクロバクターピロリが何のために人の胃壁を破壊するのかは、人にとっては知ったこっちゃありません。


 だから「人がどうして生きているか」に悩むのは、人だけであり、それは神の目線で見たり、他の生物の目線で見たりしたときに



全く、無意味で無価値な質問


に成り下がる、ということにまず気づきましょう。



~~~~~~~~~~



 では、この質問の本当の意味はどういうことなのか!それをまず解き明かします。


 たいていの人は「人は何のために生きているのか」という問いを発しますが、そこには必ず


「人は(こんなに苦しい思いをして)何のために生きているのか」


ということが隠れているのです。


「こんなに楽しくてひゃっほい!なんだけど、何のために生きているのか、なんてどうでもいいくらい楽しい~!ひゅう!」


という人は、そもそもそんなことは考えません。



 暑い夏の夜のビアガーデンで、仕事を終えたおっさんたちが


「くうっ!!!!これのために生きてるんだよ!」


と叫ぶくらい、人はあの一杯のために生きているんです。それは全くうそではありません(笑)



~~~~~~~~~~



 解脱した人間から一言いわせていただくチャンスがあるとすれば、武庫川なんかは、生きているすべての体験やすべての事柄が


「楽しい~!いやっほい!」


な感じです。 なので、こっち側の人間から言えば、「人は何のために生きているか」という質問には



「楽しむために生きてるけど、何か?」



ということになってしまいます。凄いイヤなやつでごめんなさいね!



 しかし、これは、実はビアガーデンでおっさんたちが「この一杯のために生きている!」と感じるその瞬間とまったく同じものなのです。



 ビアガーデンのおっさんたちは、暑さの中で労働をしてきました。それはけして穏やかなものではなく、辛く厳しいものであったはずです。


 ところが、一杯のビールでそんな苦しみは吹き飛んでしまう。これが「生きている」ことを「楽しむ」ことです。



 解脱者は、この世界におきる「一見、嫌なこと」や「つらいこと」でも、それを究極的には「楽しみの一環」として体感し、感じるのです。


 だからどんなときでも、楽しい!わけです。



 したがって、解脱者は、この世界で起きるどんな体験も、自分の糧として生きてゆくことができます。それは、苦ではなく、RPGで言うところの繰り返しやってくる「イベント」のようなものです。




 もし、本当に苦しみがいやなものだとしたら、


「ゴーヤを食べること」

とか

「映画館で泣ける映画を見ること」

とか

「ホラー漫画を読むこと」

とか


「くさや」


とかは、苦痛そのものなはずですが、人は意外に苦しみながら喜んでます。変態。



 なぜ、足裏マッサージをされると痛いのにきもちいいのか?!


 思いっきり蚊に刺されたところをかきむしるのはなぜか?!


 女王様に踏まれると幸せなのは誰か?!



 ・・・こうして考えると、実は「苦しみ」はそんなに悪いもんじゃない、ということに気づきます。




~~~~~~~~~~


 ところが、あのブッダも、生きることは全部苦しみだ!なんて言うくらい、一般的には「苦は避けるべきもの」とされているのはなぜでしょう。


 それは、「苦」そのものではなく、実は「苦に支配されること」がマズい・ヤバいと言っているのです。



 一時の苦が、「幸せ」の前段階なのではなく、その人が完全に「苦に支配され、負けてしまった」ときに、


「なぜこんなに苦しいのに、生きているんだ。(それなら、解放されたい)」


と考え始めます。



 だから、「人はなんのために生きているのか」と考える人は、本当はそこではなく、ましてや「苦しみを取り除け」でもなく、


「その後の俺に希望はあるのか!!!!」


ということを言ってるのです。


 つまり、ビールが出てこなさそうな炎天下の労働だから、わけのわからない人生論を考えなくてはならないのです。


 ということは!


 そういう人にはビールでもくれてやれば黙ります。


 宝くじが当たる、とか。可愛い部下の女の子に告白されたとか。


 そんなのでもう明日からは



「俺、生きてて良かった!」



とか言い始めることうけあいです(爆)



~~~~~~~~~~


 というわけで、この世界を見通す解脱者としては、とりあえずそういう「エセ何のために生きてるの?」な人を、排除してからもっと奥深いこの世界のありようを追求したいと考えています。


 
 「ちがうんだ!聞いてくれ!ああ、そうさボクは美男子で、お金持ちだ。そして、スネ毛も薄くて歯も白い。

 学歴だってあるし、恋人は長澤まさみと新垣結衣なんだけど、どうしても知りたいんだ!

 なぜこの世界が存在していて、そしてボクはなんのために生きているのか!

 ああ、それを知らないと、ボクは明日も幸せに生きてしまう。そんな自分が憎い!わかるかい?セバスチャン!」



という人がもしこのブログを見ていたら、私は喜んでこの世界の真実を教えてあげようと思います。


 
「人が、この世界で生きている理由なんて、そもそもないんだ。

 だって、この世界だって本当に存在しているかどうかわからないからね。すべては無常なんだよ。いいかい。

 それにだってホラ!

 まず、ボクはセバスチャンじゃない!

 そこから完全に君は間違ってるのさ!」


と。 


2016年7月1日金曜日

迷走、誤解、間違いだらけのアドラー心理学?! ~トラウマは、あるのか、ないのか、どっちなんだ!~

 この悟るヒントでも、基本的には好意的なスタンスで取り上げている「アドラー心理学」ですが、ここにきてパクリが多くてややこしいことになっているようで(笑)





アドラー便乗本、類似本は誤解だらけ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160630-00010001-yomonline-life





誤解だらけのアドラー心理学
http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20160627-OYT8T50061.html?page_no=1




なんでも、書店には500冊を超えるアドラー関連本が出ていて、そのうちの大半は


「柳の下のどじょう本」


なので、どんどん元ネタからずれていっている、という(笑)


 まあ、商業主義の世の中なのでありそうなことだと思いますが。




〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



 で、元祖アドラーの「岸見一郎」氏が、これじゃあいかんと



「これが本家で元祖だ!」


と頑張っておられるというお話。



 そういえば、元祖天才バカボンは知っているが、本家秀才バカボンは存在するのだろうか。(遠い目)




 というわけで、今回は、岸見氏が指摘するアドラー心理学の「間違っちゃいけないポイント」を解脱者がさらにツッコむ、という内容でお届けすることにいたしましょう。





<アドラーをめぐる誤解・疑問> そもそもトラウマはあるのか?!


 アドラー心理学の登場で、いちばんびっくらこいたのは「トラウマなんて、ぶっとばせ」ということだったように思います。


 それまで心理学というものは、希代の変態「フロイト&ユング」による、


「すべてはエッチな妄想説」とか「すべてはトラウマ説」とか


に支配されていましたから、 過去の経験とそれによる人生の生き方との因果を否定するのはかなり


「斬新」


に感じられたものです。



 で、そこで単純な疑問。トラウマってあるの?それともないの?


 ・・・この問題については、「あるのかないのか」をアドラーは追求したいわけではない、という点を押さえておくほうがよろしいようです。



 フロイトは、「人は無意識的なものに支配されて、それで行動決定するのではないか」と考えたので、旧型心理学では「トラウマ」を全面に押し出す、ということです。


 それに対してアドラーは、「人は自由意志を持っている理性的存在なので、自己決定できる」と考えたから、トラウマを重視しなかったということになります。



  これは、実は面白いことで、心の病を持っている人にとっては、旧型心理学では



「過去の出来事のせいなので、あなたは悪くないよ。よしよし」


と言って慰めてくれるのだけれど、アドラーは、



 「いや、過去はどうでもいいから、これからあんたはどうしたいんだ」


と、いきなり現実ひきもどされる、ということを意味します。




  なので、メンヘラはたぶんアドラーが嫌い(爆笑)


 リストカットして、「わたし、いじめられてたの」という女子に、


「明日からどうやって稼ぐんだ?。どんな仕事がしたいんだ?」


とぶちかますのがアドラーだ、ということなので、メンヘラ女子はきっとあすからアドラー医院には通わないかもしれません(笑)





〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜




 さて、アドラーの論において私が好きなのは、「つらい現実があっても、生きていかねばならない」ということだと思います。


 解脱者にとって、この世界は無常ではありますが、それはニュートラルでふわふわした「なんにもないのよ〜」な無常ではありません。


 清も濁も、善も悪も、理性も破廉恥もすべて飲み込んだような、ぐっちょんどろどろの世界こそ無常なのですから、そこを渡ってゆくには、えげつない覚悟が必要だと考えます。



 その肝が座った時に、解脱者は何事にも動じず、迷わず、そしてむしろその状況を楽しむことができるようになる、というわけです。