2016年6月30日木曜日

<勝手じゃない人生相談>家族を宗教から離脱させたい。 ~どうすれば家族を宗教から取り戻せるのか~

 いつもは、誰にも尋ねられずとも「勝手に」好き放題書いているこのブログですが、たまには、真面目な(?)相談を受けることがあります。


 というわけで、<勝手じゃない>人生相談のコーナーを立ち上げましたが、今回のお悩みは、


「家族が(新)宗教に入っているのだけれど、なんとかやめさせたい。どうしたらいいか?」


というものでした。


 なので、向こう見ずで無責任な解脱者武庫川が、後先も考えずにこの問題を考えようと思います。



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 まず、上の記述で、「新」という文字を入れたのには訳があります。通常、「家族が何らかの宗教に入信したのだけれど、これでいいのだろうか?」という迷いや悩みを持つのは、



 それが99.9%、新宗教や新興宗教と言われるものである



ことにポイントがあります。



 興味深いことに、「うちの実家が曹洞宗なんだけど、やめさせたい!」とか、「おじいちゃんがカソリックだから、脱出させないと!」という人は、あまりいません。


 たまーに、某仏教系宗教が、逆に「古い仏教に入っている人に、釈伏かましてうちらの宗派に変えろと迫る」場合があるのですが、最近はおとなしいようですね(苦笑)



 なので、家族のみなさんが「脱出させたい、退会させたい」と思うのは、その新宗教が、ひらたく言えば


「うさんくさい」

と感じたり、

「お金目当てなのではないか」

と思ったり、

「真の宗教ではないのではないか」

と思ったりするから、ということになります。





 ところが、その宗教に入っている当の本人は、まったく逆の視点で見ています。



「この宗教は真実で真理だ!」


とか


「本当にご加護がある!」


とか


「むしろ喜んで寄付をしたい!」


と思っていますから、話が最初から最後までかみ合っていないのです。




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 このブログではいつも書いていますが、「善や正義」というのは相対的で、絶対的なものではありません。


 ですから、ある宗教がAさんにとって完全なる善で、Bさんにとって完全なる悪であることはよく起きます。



「ほな、本当にどちらが正しくて、どちらが間違っているか、白黒はっきりさせようやないか!」


という作業を行うことは不可能ではないのですが、 それは善と悪の壮大なる戦いですから、


「スターウォーズばりの大戦争」


になるか、


「米ソ冷戦のような核開発」


になるか、


「EU離脱の国民投票」


ぐらいの「家族崩壊を賭けた、壮絶なバトル」となることは目に見えています。



なんせ、お互いにとって正義の戦い!なのですから。




 宗教をめぐる家族の争いで、実際にこれをやっているご家族は多々ありますが、たいてい疲弊してしまいますね。不毛な戦いです。



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 そこで、解脱者的には、どうせこの世は無常なのですから、


「某宗教が間違っているということを証明する手法」


とか


「気合で信者を説得する手法」


とか、そういうのは「まあ、やってもいいけど、やらんでもいい」ものだと思います。




 ではどうするのか。



 そもそも、心身ともに健康であり、「生きる」ということにおいて、充たされている人は、そもそも宗教にすがったりはしません。

 あるいはパチンコにはまったり、あやしい投資話に手を出したりもしないのです。


 「健康に不安がある」


とか


「人間関係や会社で悩みがある」


とか


「金銭的に苦しい」


とか


「自分の認識に比べて評価が低い」



とか、いろんなことがあるでしょうが、依存体質の人は、心に穴が開いた状態であることが多いように感じます。



 その穴を先にふさいでしまうほうが、結論としては早いわけで、仮にある宗教を脱したとしても、「別の真理を求めてさまよう宗教難民」になってしまうことも防げるのです。





 じゃあ、そのためにはどうすればいいのか。




 シャカや武庫川散歩のように、(あるいはキリストでもいいのですが)自分なりの(独りよがりな)真実を発見した人は、そりゃそれでいいでしょう。



 私たち解脱軍団サトリマンは、自分勝手で、自己中心ですから他人には依存しません。



 しかし、世俗の多くの方にとって、



「うちの家族は変な宗教はやめたけど、今度は変な宗教をはじめたわ!」


と、よけいこじらせるだけ、ですから話になりません(爆笑)







 ではどうすればいいか。



 それはやはり、人生における「軸足」「背骨」のようなものを発見したり、身につけることが大事なのだと思います。



 この世界を生きている人の多くは、それを自分でいろいろ見つけます。


「座右の銘が好きな人」

「理念理想を語る人」


↑こういうのでももちろんいいし、


 「ジャイアンツ命」

 「聖子ちゃん命」


↑これもまあ、可愛いほうでしょう。


 
 ただまあ、宗教にはまる人が対象ですから、できれば「自分がこの世に生を受けた意味」くらいは手当てしてやらないと納得しないように思います。



 武庫川は、現在「別に解脱者にするわけじゃないけど、一般ピープルにとって、軸足になるものを見つける方法」をひとつだけ実験しています。


 合う人もいれば、合わない人もいるでしょうが。ご興味があればメールください。


2016年6月25日土曜日

英国がEU離脱! 国にとって正義とは何か?! ~解脱者が説く、政治のありかた~

 昨夜は、世界中の人々が驚き、また衝撃を受けた一夜となりましたが、いかがお過ごしでしょうか?

  そう。なんと英国が、国民投票でEUから離脱することを決めちゃった、というのです。



 しかし、そんな欧米のとある国の出来事が、東洋の解脱者である武庫川散歩にどのように関係があるのか、と問われれば、まったくもってあなたのおっしゃるとおり、



 全然しったこっちゃありません。



 なので、無常を説く解脱者的には、今日の話は一見どうでもよいことだと思われますが、それでも私たちがこの世界で生きてゆく以上、


「国や政治のあり方」


を拒絶するわけにはいかず、なんとか折り合いをつけていかなくてはならないので、ここは孔子バリに、正義なる政治のありようについて解説してみることにします。





 ちなみに、今日は書き出しからお笑いの要素もなく、おとなしく書いていますが、とある可愛い女性読者から



「下ネタが多い」


と指摘を受けたので、たまには、 まじめに書いてみることにしようと思った次第。




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 さて、英国にとって、EUを離脱するこが正義かどうかは、どのように判断すればいいのでしょうか?


 今回、英国ではその判断を指導者ではなく、「国民投票」という形で一般の国民全体にゆだねました。


 これは、一見すると、「国民全体で多数決を取るのだから、公平であり正義だ」と思うかもしれません。


 ところが、今回のように、約52%VS48%の投票結果で何かが決まった場合、


それは果たして公平で正義だといえるのか?


という問題が頭をもたげてくることはすぐにわかります。





 実は、このことは、投票結果がどのくらいの割合でも同じことで、仮に90%と10%であったとしても、


「政治や国のあり方として、10%のマイノリティの意見を軽視したり、採用しないのは正義である、全然OK」


とすることは、まずいだろうと誰もが推測できるからです。



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 国家にとって正義とは何か、という難しい問題を、「単純投票」にゆだねてしまうと、いくつかの問題が出てきます。


 ひとつは、


「本当はAという選択をするのが合理的で正しくても、Bを選択してしまう」


という問題や、あるいは先に出てきた


「反対の意見の国民に対して、拒絶拒否することになる」


という問題です。



 これらのことをきちんと手当てしないと、たとえば


「国民全体で戦争へ突き進んでしまう(旧ドイツや旧日本のように)」


ことが起こったり、


「それなら反対派ばかり集まって独立国を作ろう」


ということが起こったりします。



 そしてこれらは際限なく繰り返されるので、神様のように空の上から見ると


「彼らはずっと、間違ったことばっかりやっていて、ちっとも正しくない」


というオチになってしまったりするわけです。





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 こうした「一般人の意見で、政治が左右されること」を「衆愚政治」と言ったりしますが、


 アホばっかり集まっていろいろ決めても、うまくいかない



ということが実態として存在するわけですね。



 一般の国民は「主権者であり、えらいのだ」という建前と、一般の国民は「実はアホなので、間違った選択する」という実態は、実は密接に絡んでいて難しい点でもあります。




 それを解消しようと、たとえば「ある程度の専門家に代表になってもらって政治を行う」という代議員制(日本で言えば国会議員ですね)という考え方もあります。


 しかし、議員も実はあんまり賢くなかったり、金に汚かったりで、これもうまく機能しないときがあります。


 さて
 共産主義国では、とても興味深い発想があります。



  それは、共産主義では「全員が平等」なのだから、衆愚政治に陥る可能性が大きいと考えられてきました。


 じゃあ、どうすればいいか。


 「全員が平等」ではあるんだけれども、それでは全員で間違った選択をしてしまうので、優秀なものが、間違わないように、この国民全体をガイドしなくてはいけない!


 そんな風に考えたのです。



 なので共産主義国は、一党独裁であったり、「偉大なる指導者」が存在するのです。


 国家が間違った方向へ歩まないように!(笑)



  現に、某国の指導者は「自分たちが間違っている」なんてことは、一切思っていません。なんせ国民を正しい方向へガイドしているわけですから。





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 こんな風に考えると、解脱者武庫川でなくても



「どのみちうまくいく政治や国家なんてないんだから、無常だ」


と思うかもしれません。 ある意味その通りで、完璧にうまくいく「政治理念やシステム」なんて存在しないからです。


 しかし、哲学者、武庫川散歩は、解脱者としてはそのように国家の正義などはかないものだと思いながらも、



「それでも、よき政治、よき国家、よきあり方を模索しようとする人々の営みこそが、神なる自由であり、そこに人々の生き様がある」


とも考えます。


神は自由なり!
http://satori-awake.blogspot.jp/2016/06/gods-is-free.html


の時に考えましたが、まさに


「正義とは、より良くあろうとする人類の英知と努力の状態である」


ということなのです。そういう意味では、英国がやろうとしていることも、ある種の正義です。



 というわけで、英国の試みは、世界中にとって、良き「実験台」となることでしょう。


本当にそれでよいのか?それを実現するとどんな問題が起きるのか?それは幸せをもたらすのか?


は歴史が明らかにします。たのしみですね。







2016年6月18日土曜日

<勝手に人生相談シリーズ 11 > 「恋愛がうまくいきません。火をつけてもいいですか?」

 毎度おなじみ、誰にも何にも相談を受けていないのに


「勝手に答えて、回答しちゃう」


勝手に人生相談シリーズがやって参りました。



 今回のお悩み主さんは、横浜市で今年5月に放火で逮捕された女子31歳の方から。



Q「恋愛がうまくいかず、イライラしています。火をつけたらすっきりするんですが、こんなあたしはどうしたらいいですか?」



 元ネタ

 「恋愛うまくいかず」31歳、女子会帰りに火つけた疑い
  http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160618-00000006-asahi-soci




 そうですか、31歳女子。いいですね。武庫川嫌いじゃない年齢ですよ!



 しかしまあ、2013年頃から、警察が把握しているだけで8件もバイクや自転車に火をつけた、ということなので、いくら「イライラしていても」この世の中の世知辛いルールにはしたがわざるを得ないため、ここは罪を償って、元気に復活していただきたい今日この頃。


 どうしても捕まりたくない!と言うのであれば、京都は南禅寺の門の上にでも登って、


「絶景かな!ぜっけーーーいかなあああーーー」


とでも叫べば、きっとあなたのファンになってくれる男性が現れることと思うので、テレビ中継を狙ってください。


 え?それは石川五右衛門だって?




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 それはそれとして、警察に捕まる前であれば、ぜひ武庫川にメールのひとつでも下されば、適切な対処法をお教えしたのに、残念です。


 なんでも31歳女子の方。「女子会に行って、まわりの恋愛話にイライラして、別れた彼氏のことを思い出すとキーッとなってファイアしてしまう」そうで。


 完全に心の病になっておられますので、その自覚をもつことが大切ですね。


 いいですか?あなたは立派なメンヘラです。その昔


「ぬっすんだバイクで走り出す♪」


15の夜な男がおりましたが、


「女子会帰りにバイクに火をつける♪」


のは、完全にイカれてます。

 

  どこがイカれているのかというと、その行為をすることによって、


「あなたは何も満たされることはないし、彼氏も帰ってこないし、彼氏もできない」


のに、


火をつける行為で、それが


「あたかも解消されたかのように感じてしまう」


ところが問題だと言うわけです。



 これが例えば、武庫川にメールをするとかだったら、


「武庫川がやさしい返信をしてくれたり、もしかしたら一夜のアバンチュールになるかもしれない予感を醸し出してくれたり」


するので、なんと!


「心も満たされるし、(妻子もちだけど)彼氏もできる」


という素晴らしい解消が待っているわけです。



 ということはですよ?バイクに火をつける行為は、見知らぬ男と一夜を過ごす以下の行為なわけです。本当は。


 でも、それを選択しちゃう!どうしてもそれをやってしまう!


というのは、病気だと断言できるわけです。




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 それはさておき。ではどうしてそういう放火という行為を取ってしまうのか。


 もちろん、武庫川は妙齢の女子のことならなんでも知っているので、その答えもきちんとお話したいと思います。



 バイクに火をつけると、そのバイクの持ち主の価値が毀損します。簡単に言えば、バイクの持ち主が損をしたり、持ち物の価値が低下するわけです。



 この「誰かの価値が下がる」という状態が、メンヘラ子さん(31歳)にとってはとても大事なことなのです。



 なぜなら、女子会で恋愛自慢話をされ、女としてのバカにされたように感じたメンヘラ子さん(31歳)は、「自分の価値が下がっている」状態にあることに気づいています。



 自分の価値が下がっている時に、それが自分一人だと、とても悲しい気持ちになります。ですが、自分の周囲(それが目の前のバイクであっても)にあるものの価値が一緒に下がってしまえば、寂しくありません。


 いや、もっとはっきり言えば、まわりの価値も下がるのだから、自分の価値は相対的に維持されるわけです。



 だから、何かを毀損・破損することで心が一時的にすっきりするのです!








 では、こうしたメンヘラ子さん(31歳)にとって、望ましいのはどういう状態なのでしょうか?



 まず、31歳というところが微妙です。これが24歳だったらおそらくバイクに火をつけなくても、


「あたしはまだまだいけるわ!」


というカラ元気を生み出すことだってできたでしょう。



 でも31歳なのです。ミソジです。


 そろそろかさぶたが自然にはがれなくなってくる頃ですから、心のかさぶただって自然に剥がれてくれないのです!!!




 いちばんいいのは、やはり「あなたの価値は下がっていない」ということを、誰かがフォローしてくれることでしょう。


 そんなことに囚われなくても、あなたは大丈夫だ、と誰かがそっと背中をおしてさえくれれば、彼女は平穏を取り戻したかもしれないのです。



 そんな人がいれば苦労はしない!って?



 いるじゃありませんか?ここに。さあ!今すぐメールです。武庫川が口先だけのめくるめくセカイをあなたにお届けするからです。



 え?45過ぎてる?・・・ごめんなさい本日の受付は終了しました。



 ちゃんちゃん。















2016年6月17日金曜日

初心者のための哲学入門 〜哲学って何ですか?〜

 このブログを読んでいる人の中には、おそらくごく少数だけ、武庫川散歩の正体を知っている人間がいると思うのだが、ふだん


「宗教だの哲学だの、しょーもないことを」


つらつら書いている武庫川が、昔から生まれながらの哲学者であること知っているに違いない。


 なんのこっちゃ普通の人にはわからないだろうが、それでいいのだ。分かる人向けに書いているので一向に無問題。


 というわけで、武庫川は、生まれた時から


「哲学者です!哲学者なんですってば!」


と書いた紙切れを言わば顔面に貼り付けながら生きてきたので、哲学とは何か?とか、哲学的に生きるとはどういうことか?について人一倍



 悩みながら、あるいは考え抜きながら生きてきた



と言っても過言ではない。




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 そんな武庫川であるから、このブログに書いているとおり、人生やこの世界のありようについて、常に真剣かつちょっとだけエロティックに考え抜いているのだが、一般のみなさんにとって哲学とは、あまりなじみのないものに違いあるまい。



 というわけで、Webちくまさんで、そんな「哲学初心者」のための連載がはじまっているのでご紹介。



 はじめての哲学的思考

第一回 哲学ってなんだ
http://www.webchikuma.jp/articles/-/23




 この連載、すでに5回までが掲載されているので、興味のある人は読んでみるといい。


 苫野一徳という、1980年生まれの私より若い哲学者のにいちゃんが、いろいろと哲学についてわかりやすく書いてくれているので、初心者にはもってこいだろうと思う。




 奇しくも前回の記事で、私は「神と自由についての関係」を論じたが、苫野氏の記事でも、「自由」がいかにして大切なものと考えられてきたかが哲学的な視点で解説されているので、

チェキラッチョ!(読んどけ)


さて。


苫野氏の論の立て方をみてもわかるとおり、基本的には「哲学」というのは「科学」や「宗教」との隣接領域である。あるいは時に、それぞれがそれぞれを包括している場合もあったりする。


 それは当ブログの内容でもまったく同じで、私は時に「宗教の視点」からも「科学の視点」からも「哲学の視点」からもお話をする。


 日本では、学位の一番えらいのは「なんとか博士」という博士号だが、海外では、学位の一番上は


Dr (ドクター・博士)


ではなく、


Ph.D




という称号になっている。


 これは原文では Doctor of Philosophy のことで、直訳すると、哲学博士 という訳になる。


 しかし、これはいわゆる「哲学領域に通じた人」という意味ではなく、すべての事象である「科学・文学・芸術・などの人の行いうる学問の粋を集めた」という意味での普遍的な意味でのフィロソフィ(哲学)という言葉だと理解しておこう。



 というわけで、ワタクシ武庫川散歩も、領域にかかわらず最高水準の知の話題をみなさんにお届けしているのは、そういうわけなのだ。





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 というわけで、今日も、最高水準の知的な話題を。

  
 カエルの特異な交尾 体に触れない体位?!
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160615-00000034-jij_afp-sctch 



 ヤホーでも話題になっていたこの記事。ようするにある特定の種類のカエルは、異性に触れることなく受精を行うというのである!


「雄は、雌には抱きつかずに、葉や枝、木をつかんだり、その上に前脚をついたりして、雌の背中の上にまたがる」

「雄は、雌の背中の上に射精する。精子はその後、雌の背中から後ろ脚を伝って流れ落ち、卵に到達。受精となる」

「雄と雌の間には数ミリの隙間が保たれ、ほとんどの場合、お互いに決して触れ合うことはない」


 ということは何ですか?つまり、



 ピタゴラ装置を次々に伝播しながら、最終的に精子と卵子があらぬところで結合して子供ができる


という



 ピタゴラエッチ♪

 (NHKさんとは関係ありません)



が存在するというのである。


 ここから哲学的な問いかけをしようじゃないか!


「・・・そこに愛はあるのかい?」 (by江口洋介・ひとつ屋根の下)




 いやあ、今日もとっても痴的なお話だったね。


2016年6月9日木曜日

Gods is Free ! 『神は自由なり』  今宵「神は死んだ」のニーチェを越える稀代の哲学が誕生! 

 梅雨に入って、雨模様が続いていますが、みなさんいかがお過ごしですか?

 あなたの心の恋人、武庫川散歩です。ちなみに、既婚者のみなさんは、心の恋人にとどめておいたほうがいいです

 もし本当に恋人になってしまったら、ベッキーやファンキーみたいになってしまいますからね!!!


 しかし、ファンキー加藤氏は、巷ではあまりの潔さに炎上を免れたようですが、もういっそ、濡れ事をテーマに、


パンティーリスキーできちゃったベイビー


に改名したほうがいいと思うのですが、いかがでしょうか?





 はい!そんなこんなで今日も元気に解脱、してますか?解脱者の割には、俗っぽいネタが多いことで有名なこのブログですが、今日はすごい内容でお届けしましょう。



 どれぐらい凄いかというと、武庫川があのニーチェを超えた瞬間にあなたも立ち会える!というお話なのですから、これはドキドキワクワクが止まりません。



 ああ、あの二人組みのぽっちゃりお笑い女子? ・・・それはニッチェ!!!




 ニーチェですよニーチェ。かの名言「神は死んだ」と言った哲学者のニーチェです。


 西洋文明が発達し、ギリシア以来の神、あるいはキリスト教とローマによって発展した西洋的な思想そのものが変容したことを、


「神は死んだ」


と言い表したのがニーチェでしたが、現在の資本主義・西洋民主主義においても、無神論的視点はいっそう大きくなっているところです。


 まあ、そのアンチテーゼとしての「神に帰れ」運動が、テロリズムに依りつつあるイスラム原理主義なわけですが、それはまた別のお話として。





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 さあ、では稀代の哲学者にして、自称他称を問わない解脱者の武庫川が、どんなことを考えているのか!その解説に参りましょう。



 武庫川が読んでいたのは、プログラミング言語Rubyの発明者である、まつもとさんの講演録です。



「マイクロソフトを嫌っていたのではない、われわれが嫌われていたのだ」――Rubyまつもとゆきひろ氏が語る、MSの壁

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1606/08/news138.html




 このお話、簡単に言えばパソコンとかコンピュータの話なのですが、そこから「神のありよう」について考えてしまうのが武庫川のキレッキレに凄いところです。


 もうたぶん、自分でもキ○ガイなんじゃないかと思うくらい、今日の武庫川は、キテますよ。



 まつもとさんのお話は、こんな感じです。



 コンピュータの世界というのは、いろいろなプログラマーがソフトウエアを開発して、みんなが便利になることを目指しています。


 なので、コンピュータの研究をしている大学や学生さん、あるいは在野のプログラマには、「Free」な文化が根付いています。


 フリーというのは、無料と訳される場合もありますが、単純にお金がかからないのではなく、それまでにあったプログラムの設計図を自由に後のものが利用できたり、改良できたり、みんなでプログラムを良くして行こうという、ちょっとボランティア精神にも似た考え方を言います。


 なので、特に大学を中心として発展したUNIXというコンピュータの文化は、設計図も公開し、利用も改変もタダで自由にできるという文化が根付いていました。


 ところが、マイクロソフト社が売り出したwindowsなどのソフトは、「莫大な労力がかかっているのだから、それなりの報酬を得るべきだ」という思想のもと、有料でかつ著作権によって保護された商品として出回ることになりました。


 しかし、それでは、あるプログラムをもっと良くしようと思っても、マイクロソフトに就職して内部の設計を見せてもらったり、あるいは仮に改良できても自由に公開することはできなくなるという問題が起きることになります。


 そのため、世間ではwindowsなどの商用ソフトを使う文化と、フリーなUNIX系ソフトを使う文化に二分されてしまっていたのです。


 ところが、今windows10は無料でアップグレードできたり、UNIXのソフトであるbashがwindowsで動くようになったりと、両者には歩み寄りが起きているのです。





・・・完全に最初から最後までコンピュータの話ですね!



 それがどうしてニーチェや哲学や神の話になるのか?と思われるかもしれません。


 ですが、武庫川は常々、この世界はプログラムである、仮想論理と同等である!と言っているとおり、これは完全に


 神様についての話


に置き換えることができるのです!




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 ビルゲイツにとっての善は、「ソフトウエアは、ルールと会社の掟に則り、商材として扱われるべきで、その報酬をプログラマは受け取るべきである、それが正義で善だ」、ということになります。


 しかし、フリーなプログラマにとっての善は、「ソフトウエアは公開され、自由に取り扱われるべきだ、それが正義で善だ」ということになります。



 まったく真逆な内容が、善であり正義であるとされ、それらが並立するのがこの世界の特徴です。


Aという国とBという国にとっての正義が真逆であるとか


Xという宗教とYという宗教にとっての正義が真逆であるとか


そういうことは日常茶飯事だからです。




 これは、それぞれの主張が閉じていて、一方の目線で語られることに原因があります。


 砂漠の宗教の神にとっては、「自分を信仰するものだけが善であり、神だけが正義」です。そして、それ以外の者は、「滅ぼされるべきである」と考えています。


 そして、そのおなじ砂漠の宗教の神は、ユダヤ教とキリスト教とイスラム教それぞれにおいて、


「これが善で正義だ!」という主張を閉じた内容で語っている


わけです。




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 まつもとさんの話では、ビルゲイツとマイクロソフト社の存在に対して、コンピュータを用いるものが行える対応策はいくつかある、ということが挙げられていました。


① windowsに従う

② windowsを無視する。

③ 多大な労力をかけて、すりあわせをしてゆく。



 神との向き合い方も、これに似ています。


① 砂漠の神(キリスト教、ユダヤ教、イスラム教)に従う

② 砂漠の神(とその系統の宗教)を無視する。

③ 多大な労力をかけて、相手の宗教について理解し、すりあわせをしてゆく。



ほら、まったく同じでしょ?



 アメリカ大統領選挙を支配するという保守層は、その大半がキリスト教系保守です。そういう意味では、アメリカの農村を動かしているのは、windows に従うものたちということになります。

 そして、一方でニューヨーカーや日本人といった無神論者たちは、windows を無視して生きています。

 そして、イスラムを理解しようとしたり、ハラールにあわせた料理を提供するなどのすりあわせをしている人たちも多くいます。




 この状況を見て、武庫川はハッと悟るのです。



 砂漠の神が正しくて、日本の八百万の神が間違っているという議論ではありません。


 西洋の資本主義が善で、共産主義的な公平論が悪だという議論でもないのです。


 そうか!


 神は死んだのではない。



 神は自由に宿るのだ!!!



と。


 Gods is Free!


  神は自由なり。



 神を人格神ではなく、正義そのものだと捉えてみてください。すると本質が見えてきます。




 「これが正しいのだ、こうすべきだ」


という閉じた主張をすることが善ではない。それは正義ではありません。


 なぜなら、反対の立場のものにとっては、それは悪になるからです。



 正義とは、閉じた主張ではなく、オープンソースで開かれたものであり、自由に誰もが扱えるものである、ということなのではないか?


 武庫川はそう考えます。




 つまり、正義や善の正体が見えた!のです。



「正義とは、より良くあろうとする人類の英知と努力の状態である」


 これが、武庫川が定義する、正義と善の姿です。



 ですから、「良いと思われる方向に努力はしていますが、完結もせず、結論も出ず、そして面白いことに、それが本当に良いかどうかも判定できないもの」でもあるのです。



 だから


「正義には誤りが含まれる」


ということも、言い換えることができます。



 ちょうど、正しい動きをするように考えているのに、どうしてもプログラムにはバグが含まれるように、誤りが含まれることもあります。

 また、これで完全完璧なプログラムが出来た!ということがあり得ないように、「より良い方向を目指して人類は生きているけれど、完全なる正義や善が存在し得ない」ことも同じなのです。




 神は、そして正義の真の姿は、開かれた自由である。


 これが、ニーチェに対する、超時空哲学者、武庫川散歩の答えです。