2014年12月29日月曜日

絶対に当たる占い師「武庫川散歩」さん。~確実な未来を予想します~

 世の中の人たちの「占い」に対する希望や需要というのが、ものすごく多いと知って、多少驚いている武庫川散歩です。

 ぎょええええ。


 へーほーふうん、そうなんだ。とさらっと思っていたのですが、よく考えると


「占い師」





「預言者」





「予言者」


は似ているようで、全く違うんですな。当たり前だけど、ついでに「解脱者」も仲間に入れてほしいのですが、話がややこしくなるからやめておきましょう。


 ちなみに、もう一度確認しておきます。




「占い師」というのは、お箸でもトランプでも花札でもいいのですが、何か道具を使って「未来を占う」ことを実行する人のことです。

 え?あれお箸じゃないの?トランプじゃなくてタロット?へーそーなんだー。


基本は占いの結果を出すのは「神様の領域」ですから、それが道具を通じて具現化され、またまたそのデータから相手にふさわしい言葉に変換して伝える、というのが占い師の主な役目です。





「預言者」というのは、神様からのお告げを預かる人です。古代政治のミコさんなんかもそうですね。

「・・・神はこれこれこう申しているぞよ」というお姉ちゃんは預言者の一種です。ついでに、聖書に出てくるモーセとかも預言者です。






「予言者」は未来のことを言っちゃう人です。

「西暦1999年の7の月に、滅びがきますよ!」とか、「30年以内に、大地震が来る確率は・・・」とか、ああ、これは違いますね。



 というわけで、似ているようで3者は全部ちょっと違います。



 ちなみに、私は神からのお告げは預かっていないし、別に未来予報師でもないのですが、占いくらいはできますよ。


 ほれ、そこらへんにあるお花を摘んで来てですね。あの人が自分のことをどう思っているか占うわけです。

「好き、きらい、好き、きらい、好き・・・・」


女子なら一度くらい試してみた経験があるでしょう。このように「占い師」になることは別に特別に難しいことではないわけです。




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 さて、つまらぬ前置きはこれくらいにして本題に入りましょう。ワタクシ武庫川散歩は、「絶対に当たる占い師」として有名です。なんなら、ひとつ占ってしんぜましょう。


「・・・むむ。むむむむ。わかりました。あなたの未来を占いました。あなたは確実に死にます。そう、あなたは、絶対に死ぬのですババババーン!」


 少なくとも、この占いに関しては的中率100%です。・・・え?そうじゃなくて?もう少しマシなヤツ?

 じゃあ、乳児死亡率がどれくらいあるかとか、同世代の終身結婚率がどれくらいあるかを基にして占ってみましょうか?

 成人男性の5人に1人は結婚できません。とか。ぜんぜん行けますよ?その手の占いは得意です。


・・・・・・・。冗談みたいに言ってますが、たとえば占いの中でも手相とか、姓名判断というのは、それ専門の占い師に聞いてみてくださいな。


「あの、どうして手相は当たるんですか?」

「ふほほほ、これはなお嬢ちゃん。占いとはいえ統計学なのだよ。それはそれは何千年もの昔から、この手相の人はあーなってこーなったという記録をつけたエラーい占い師が、統計を基に生み出したものなので、だから当たるのじゃ。」


と答えてくれるはずです。そうです。彼らは統計学という科学を元にしているからこそ、占いはしっかり当たるのだと答えてくれるのです。



 と、いっているそばから、お嬢さんが1人私のもとへやってきました。


「あの、どうして武庫川散歩さんの、結婚できるか占いは当たるのですか?」

「ふほほほ、これはなお嬢ちゃん。占いとはいえ厚生労働省の白書に基づいた統計学なのだよ。それはそれは戦後から歴代の統計処理班が、国民のうち結婚できた人が何人いてできなかった人が何人いたかを数えたので、だから当たるのじゃ」

というわけです。


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 話が脱線しました。ここまできてまだ本論じゃないというのだから驚きです!


 さて、気を取り直していきましょう。私は解脱者ですから、占いの結果がどうのとか、そんなちんけなことは言いません。

 繰り返しますが、人はかならず死ぬのです。どんな道順を選んだとしても、最後は死ぬのです。


 だとすれば、そのひとつひとつの途中のコマの良し悪しで悩んだりしてはいけません。そんなことはどうでもよろしい。


 今の彼があなたにふさわしいかどうかなんて、どうでもいいのです。あなたにふさわしいのはこの僕です!!!!


 就職試験がうまくいくかどうかなんてどうでもいいのです。あなたを待ち受けている上司はブラック上司なのですから!!!!


 希望の大学に入れるかどうかなんてどうでもいいのです。あなたはそこで、一生を台無しにするあんな女に出会ってしまうからです!!!!!


 自分がどんな生き方をしたらいいかなんてどうでもいいのです。占い師に頼ってないで、自分の力でたちあがれええええ!!!!!


 ・・・・はあはあはあ。


 解脱者でもあり、占い師でもある預言者武庫川散歩が、神から預かってきた言葉をみなさまにお伝えしましょう。




「人生はどうせ死ぬ。いつか死ぬ。ああ、死ぬったら死ぬ。だからそれまでの間に、あなたがどんな体験をしたかがあなたの人生そのものなのです。


 体験が人生そのものだとしたら、あなたは思うことでしょう。それなら、できるだけ幸せな体験をたくさん味わって死に向かいたいと。


 ですが、本当にそれでいいのですか?あなたの人生は、最初から最後まで幸せな体験で満ちている、それがほんとうにあなたの人生だと言えるでしょうか?


 本当にそれでいい、とあなたが頷くなら、あなたのごはんはこれから死ぬまで3食全部ケーキか甘いものです。甘いものだけを神であるワタクシがあなたに与え続けましょう。

 もう、ウエッとなってもケーキです。ゲホッとなってもティラミスです。飲み物はホットココアかみかんの缶詰の汁の部分です。それでいいんですね?本当に。


 ほれ、これで気付いたのではありませんか?


 幸せというのは、甘いケーキのようなものです。たしかにそれは甘く、幸せのように感じられます。


 しかし、幸せや甘さは、それだけで死ぬまで満足させてくれる要素ではありません。


 辛いものも食べたいし、苦いものだって気になるし、ちょっぴり発酵してたり腐っていたり、グツグツ煮えていたり、キンキンに冷たくてもいいのです。


 そう、人生は幸せもつらさも、さみしさとせつなさと心強さも全部抱きしめて君と歩いていこうなのです!!

 誰だ、JASRACに通報したやつは。


 だから、あなたが知るべき未来はたったひとつ、それはあなたがいつか死ぬということに他なりません。そして、それまでに、どんなに彩り豊かな体験をしたかが、あなたの人生の豊かさそのものだというわけです。


 もちろん、辛いときも悲しいときもあるでしょう。つらさやかなしみに押しつぶされそうになる瞬間もあるでしょう。

 そう、ワサビをつけすぎて「ふんごっ!!!!!」となる時のように。

 そう、たまねぎを切りすぎて涙がとまらなくなる時のように。


 しかし、そんな苦しみは時間が解決してくれるか、私が解決します。ズバット。


 さ、さあ。はやく私の胸に飛び込んできなさい!は、早くおいでったら。いいじゃ~ないの~。以下自粛」



というわけで、ありがたい神のことばを胸に、生きていこうじゃありませんか。









2014年12月18日木曜日

☆お金がみるみる増えるキリストの教え☆ 愛が増えるとお金も増える!

 砂漠の民の宗教だったユダヤ教から、全人類の幸せを願う「キリスト教」へと変化したのは、基本的には



「おまえら、戒律をしっかり守れよ。さもないと死ぬぞ」



という考えからの脱却でした。


 ですので、「約束の地を求めて彷徨い歩く」感じの旧約聖書と比較して、新約聖書のイエスキリスト以降は、「もっと他人を愛しなさい」というポジティブな宗教へとグレードアップしてゆきます。




 では、イエスキリストの教えとはいったいどんなものだったのでしょう。簡単にまとめてみましょう。




<1>心の貧しい人は幸いです。そういう人に天国の扉は開かれています。

<2>あなたの隣人たちを愛しなさい。

<3>こころを尽くして神を愛しなさい。

<4>神以外に、何かを誓ってはいけません。

<5>右のほほをぶたれたら、左のほほも差出しなさい。

<6>迫害する者たちを恐れず、最後まで耐え忍んだものは救われます。

<7>あなたの敵を愛しなさい。

<8>施し(善行)をするときは、人に知られないようにしなさい。

<9>富は天に蓄えなさい。

<10>誰も二人の主人(神と金)に仕えることはできません。

<11>求めよ、さらば与えられん。

<12>カエサルのものはカエサルに返しなさい。



 このほかにもたくさんあるでしょうが、誰もが知っていそうな主要なイエスの教えを挙げてみました。宗教的な側面でのそれぞれの意味は、なんとなくわかると思います。


 ではこれを金銭的に置き換えて考えてみましょう!いよいよ本丸です。




<1> 貧しい人は幸いです。そういう人こそお金持ちへの扉が開かれています。


 ・・・金持ちへの道は、金持ちだけに開かれているのではありません。貧しくても、お金持ちになるチャンスとヒントが本当は存在するのです。

 むしろ、自分はお金持ちだと誤解しているプチセレブのほうが、収入より多く消費してしまい金欠になるのはよくある話です。


<2> あなたの身の回りの人たちによくしましょう。


 ・・・上司や先輩によく仕えている人は、チャンスを与えられる機会が増えます。なんてったって可愛いからです。上司の文句や愚痴ばかり言っている人は、おそらく昇進のチャンスをつぶしています。

 ・・・ご近所づきあいや、親戚づきあいも大切です。そうしたコミュニケーションがとれない人は、困った時に誰も助けてくれないでしょう。


<3> こころを尽くして金を愛しなさい。

 ・・・あなたは心からお金持ちになりたいと思っていますか?それとも虚栄心を満たすために「高いモノ持ち」になりたいのですか?

 お金をほんとうに愛しているのなら、無駄な出費は一切しないはずです。高価なモノに変換することすら、罪悪です。こころから金を愛してみてください。


<4> 金以外に何かを誓ってはいけません。

 ・・・あなたは独善的な「相場のカン」のようなものに頼ってはいませんか?FXや先物取引など、バクチを打つような資産運用をしていませんか?金を心から信じるのではなく、どこかの営業マンのことばを信じていませんか?

 ・・・それらはすべて違います。心底信じられるのは、今そこにあるお金の動きだけです。


<5> 右の損失を出したら、左の損失も差し出しなさい。

 ・・・損切りを明快に示した指針です。含み損をいつまでも抱えず、切るときは切り、損であっても確定させましょう。

 損が出ているのに、「まだ持ち直すだろう」といった期待に引きずられるのではなく、神の御意思のままに、「ここは損として、差し出そう」と思うことが大切だったりするのです。


<6> あなたを非難し、誘惑するものがあっても、最後まで耐え忍びましょう。

 ・・・「けちけちするなよ!」とか、「今日一杯いこうぜ」といった誘惑やプライドをくすぐる批難を浴びせられることがあっても、あなたはストイックにお金を愛するべきです。


<7> あなたの敵を愛しなさい。

 ・・・ライバルに貸しを作りなさい。同僚のいやな役回りを引き受けなさい。上司の無能ぶりをさりげなく支えてみましょう。きっとすべてはあなたに帰ってくるでしょう。


<8> 成果を挙げたことを自慢しないようにしましょう。


 ・・・もう、そのまんまですね。あなたの手柄でも、あくまでもさりげなく振舞うことです。


<9> 金は天に蓄えなさい。


 ・・・「天引き」ということばがあります。天とは、先によけておくことです。あなたの収入のうち、かならず最初に貯蓄を取り分けておき、自ら天引きしておきなさい。

 ・・・その残りで生活するようにすれば、確実に資産は増えるのです。


<10> 誰も金とモノとの両方に仕えることはできません。


 ・・・マンションを買い、車を買い、バッグを買い、といったぜいたく品を揃えることと、お金持ちになることは同じではありません。お金は使えば減るのです。

 ・・・モノとして所有することに満足するのか、金として所有することに満足するのか、もういちどあなたにとっての「主人」が誰になっているのか見つめなおしてみましょう。

 ・・・あなたは物欲に支配されているのではないですか?


<11> 求め続けなさい、そうすれば与えられます。

 ・・・お金が欲しい、お金とともにありたい!と願い続け求めつづけなさい。たいていの人は、「金持ちになりたい!」と一瞬だけ思いますが、もう次の瞬間には別のことを考えているものです。

 ・・・そのためにはどうしたらいいのか。自分は何をしていて、何をしていないのか。ストイックにお金について考え続ければ、道は開けるのです。


<12> 税金は払っとけ。

 ・・・もともとのエピソードは、イエスキリストが、「この貨幣にはカエサルの刻印が打ってある。つまり、このお金はローマのものなので、きちんと税として納めるべきだ」と話したものです。

 ・・・いくら儲けても、税金を逃れようとすると全ての権限を使って徴収されます。税の差押さえは、何者にも勝る国家権力の行使です。イエスの言うとおり、税金は払っておきましょう。



 さあ、いかがだったでしょうか?

 畳み掛けるようにポジティブに、イエスの言葉が響きます。あなたにも、愛に溢れたお金生活が送れそうな気がしてきませんか?


 お金もちになるということは、小さな物欲を満たすためのものではありません。周りの人たちと喜びを共有しながら、かつ無駄遣いをやめて真のお金持ちを目指すものなのです。


 




2014年12月17日水曜日

☆お金がどんどん増えるイエス・キリストの教え☆ ~モーセの十戒でお金持ちに~

 好評連載!「お金が貯まるブッダの教え」シリーズの第二弾はなんと!


 「お金が増えるキリストの教え」


シリーズです。ちゅどーん!!


 もともと、「経済社会というのは、無常なのである」というところから、仏陀の教えを金融生活に置き換えたのが、エコノミカル仏教でしたが、第二弾はエコノミカルクリスチャンをめざします。


 もともとキリスト教というのは「砂漠の民」の宗教ですから、「何もないところから、豊かさを得る」という方向にベクトルが向いています。


 このあたりは、仏教のように「捨てる」方向ではなく、むしろ「手に入れていこうぜ」というスタンスですから、


「お金を増やす」


にはもってこいです。



 とはいえ、これからお話することは、クリスチャンであれば「当然知っていること」のはずですので、別に教義をねじまげようというわけではありません。


 ではでは、お金に関してキリスト教がどのように語っているのか、学んで見ることにしましょう!



~~~~~~~~~


 ご存知かどうかはわかりませんが、もともとキリスト教やユダヤ教の教えというのは、砂漠の民の宗教ですから


「神様のいうとおりにすれば、オアシスへ連れて行ってやるぜ」


という思想がベースです。何も無い砂漠、飢えと乾きに悩まされている荒地から、緑豊かな土地へと彷徨い歩くのが、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の基盤の部分なのです。


 この「無い状態から、在る状態へと変化させること」はまるで、ないお金が増えてゆくことを連想させますよね。



 さて、キリスト教の経典である「聖書」には、モーセの十戒といって、ユダヤ人が「これを守ったら、豊かな地へ連れて行ってあげるよ」と神様と交わした約束事が書かれています。

 聖書の最も基本的な教えである、十戒は神様についての決まりと、人間関係の決まりの2つから成り立っています。



<1>ヤハウェ以外を神としてはいけない。。
<2>偶像を作ってはいけない。崇拝してはいけない。
<3>神の名をみだりにとなえてはいけない。
<4>安息日(休日)をしっかり守れ。
<5>あなたの父と母を敬え。
<6>殺してはならない。
<7>姦淫してはならない。
<8>盗んではならない。
<9>偽りを述べてはならない。
<10>隣人のものを欲しがってはならない。





 さあ、神様にバチが当たりそうですが、そこをグッとこらえて、「神」を「金」に置き換えて考えてみましょう。


<1>お金以外を神として崇拝しないこと。

 ・・・有価証券?不動産?株?そういったものは「お金」とみなしてはいけません。投機的なものに迷わされ、崇拝してはいけないのです。


<2>ブランドを崇拝してはいけない。

 ・・・ベンツ?プラダ?シャネル?だめだめ、そんなものにお金をつかってはいけないのです。偶像です。偶像。


<3>むやみにお金の話をしないこと。

 ・・・ぐははは!何万儲かったぜ!とか、お金に関することは口をつぐんでいなさい。成金のように振舞わず、堅実に生きるのです。


<4>休日をしっかり取りなさい。

 ・・・馬車馬のように働くことだけが資産を増やすことではありません。しっかり休日をとり、心身ともに健康でありなさい。



<5>以降は文字通りそのままです。年長者を尊敬し、犯罪を犯さず、女性問題には気をつけて、他人と比べて物を欲しがらないこと!

 いずれも、まっとうな生活には大切なことで、これらから足を踏み外せば経済的にも大打撃になることは疑いありません。




 こうしてみると、旧約聖書には、経済的側面からみても「意外にいいこと書いてるなあ」というイメージがわいてくると思います。


 そうなんです。この10の決まりごとだけでも、普通の人はやっぱりきちんと守れなかったりするわけで。

 これらを守れば、堅実な資産が築けることは、ある程度わからんでもない、という感じですよね。


でも!なんだかパンチが足らないような気がしませんか?


そう、どちらかといえば、これは砂漠で飢え死にしないための教えなので、ここまでのお話は


「資産を減らさないためのポイント」


だったりするわけです。だから、まだ「お金が増える」というところまでは到達していません。


 そこで、次に登場するのが新約聖書!つまりイエス・キリストの出番なのです!


(つづく)







2014年12月11日木曜日

<15>"人間、イエスキリスト" と 神は存在するのか

 21世紀になって、「人間・イエスキリスト」の実像にスポットが当たることが特に多くなってきたように思います。


 ”人間・イエスキリスト”という視点は、文字通り、これまでのカトリック的な

「神とイエスと精霊は三位一体である」

という価値観でもなく、あるいはキリスト教原理主義者的な

「イエスは神によって使わされた預言者であり、救世主である」

という価値観でもない、


「1人の宗教者、人間として生きたキリストの思想と行動」


という人間的なイエスの側面に注目するものです。



 もちろん、イエスキリストの真の姿を追い求める姿勢は、聖職者の中にも歴史的にあったし、聖書学者歴史学者たちも、純粋に研究を進めてきました。


 ところが、長いヨーロッパの歴史観・宗教観の中で歴史的事実としてのイエス像と信仰的なイエス像をどう折り合いをつけて解釈するかは、実際にはなかなかすんなりとは解決してこなかったわけです。

 聖職者がイエスについて真面目に考えると、それは時に「異端として排除」されたり、聖書学者は聖書がベースであるがゆえに「とってつけたような解釈」をせざるを得なかったり、歴史学者が発表したデータは教会や信者からの批判に晒されたりするのが、これまでの常でした。


 従って、


”イエスキリストは、一介の人間であった”


という視点は、その仮説を抱くことすら、不敬な罪なのではないかという観念が、少なくとも20世紀まではまだまだ一般的なイメージであったように思います。


 しかし、厳密な歴史学者はともかく、いわゆる一般の人たちにも「人間イエス」について考えさせるきっかけとなったのは、やはり


ダヴィンチ・コード


という小説と映画によるものが大きいと言えるでしょう。


 この物語では、イエスキリストに妻と子がいて、いかにも人間的に子孫をつないでいる。またその事実を宗教的にはカソリックが異端として隠そうとし、またその事実をひっそりと守ろうとするものがいる、という展開でミステリーが進行しました。


 ダヴィンチコードが、単なるフィクションであるのか。あるいは事実を踏まえた物語であるのかは、さまざまな書評が出ているので繰り返しませんが、少なくともこの物語を通じて


「人間らしいイエスの姿」


をもう一度追求したい、という人類の興味が再燃したことだけは間違いではないと思います。



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 人間的なイエスの姿の概略を知りたい人は、



 橘玲さんの書評
http://diamond.jp/articles/-/63202



がわかりやすいのでお勧めします。


 似たような話はどこにでも転がっていますので、ここでもざっくりと人間イエス像の概略をまとめておきましょう。

 以下に書くのは、神の化身ではない、宗教家としてのイエスの人間的あゆみです。



「イエスという人は、何か理由があってマリアの私生児のような形で生まれ、父親の子ではないということが知られていました。


 彼は約30歳になる頃まであまり記録に残るような活動をしていませんでしたが、当時腐敗した神殿系のユダヤ教をよしとせず、野に出てより神に近い(と彼らが考えている)宗教活動を行っていたユダヤ教原理主義者のヨハネに弟子入りし、洗礼を受けます。


 ヨハネたちは「律法を守ることが目的になってしまっている」その時代のユダヤ教を批判し、「神への純粋な信仰を取り戻す」ことをテーマに活動していましたが、やがてイエスはその思想を一歩推し進め、腐敗した現在のユダヤ教と直接対決する「行動的」なアクションを起こすようになりました。ヨハネ派からイエス派を創設したともいえます。


 イエスの教えというのは、簡単に言えば「神に帰り、神の王国を待て」というものでしたが、イエスのファンたちからすれば、イエス自身が神の預言者であるかのような期待感を持って迎え入れられたため、当時の主流派ユダヤ教徒からは嫌悪されることになりました。


 そこで、旧来のユダヤ派は、当時ユダヤを支配していたローマ帝国に「あいつは、クーデターを考えている新しい王となろうとしている危険人物だ」と訴えることでイエスを排除しようとします。


 結果、イエスは政治犯として十字架刑になり、彼の死後、「イエスは復活した、だからやっぱり彼は神の子だったんだ」という伝説が生じることで宗教化がいっそう進んでゆき、現在に至ります」



 上記のような人間イエス像は、キリスト教信仰者にはやや拒絶的な話ではありますが、イスラム教信者にとっては、


「その後、より新しい預言者としてムハンマドが使わされた」


という意味においては、イエスは神そのものでなくても全然OKということになるわけです。


 実際にイスラム教においては、預言者モーセのような存在として、預言者イエスが人として位置づけられているからです。



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 しかしながら、政治的・経済的に混迷を極める国際社会において、こうした形で「イエスの神聖」を否定したり疑問視することで、私たちはより一層



「では我々は何を信仰して生きるべきか」


という疑問を突きつけられることになっています。


 イエスにこだわらないのであれば、ヤハウェといった「ユダヤ・キリスト・イスラム共通のそもそもの神」への信仰に再度目覚めることになり、それは現在のイスラム社会の注目に繋がっているわけです。


 たとえば、欧米の若者にとって、キリスト教的信仰観に疑義が生じることがあれば、あるいはより原理的な宗教へと気持ちが向かうことはなんら不思議ではないと思われます。




 しかし、武庫川散歩個人のことを言えば、私がキリスト教への疑問を感じたのはそもそもの


「聖書に登場する神そのものの姿勢」


についてでしたので、キリストの否定をすなわちヤハウェ神への回帰とつなげることは、大変問題があると考えたのでした。



 これまた簡単に言えば、旧約聖書の神・アブラハムの神は


「ユダヤ民族に約束の地を与える。その地にはびこる異教徒や異民族はことごとく焼き払いなさい」


という姿勢を持つ神であり、これを日本人である武庫川散歩が心から信奉するにはかなり無理があると言わざるを得なかったのです。



 これまで、当ブログにおいて「神はいったいどんな存在なんだ?」ということを自問してきたのは、こうした難問を解決するためのプロセスだったわけです。



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 というわけで、21世紀の世界においては、人間イエスキリスト像を軸にしながら、


「新しい・究極の宗教観」


というものがどうしても求められる時代だと考えます。



 また簡単に言いますが、


「それなら、じゃあ本当に正しいこのセカイの姿はどうなってるんだ!」


という純粋な人々の気持ちを納得させる「答え」が必要なのではないでしょうか。




 というわけで、次回は「究極の宗教とは」というお話をしたいと思います。




・・・あ、今回全然ボケなかった。(^^;;