2018年7月26日木曜日

相模原障害者殺人事件を解脱者が読み解くとどうなるのか




 日本の言論、思想界に毎度毎度強烈な問いかけを投げかける「創」出版から、相模原障害者殺人事件の植松聖被告の手記を含んだ書物が刊行されたことが話題になっています。


 いつもながら雑誌「創」の篠田博之編集長は、ある種のこの社会への使命感を持って切れ味の鋭い取り組みをしておられると思いますが、一般的には


「犯罪者の言い分を出版する人」


としか思われていないかもしれません。




 まあ、解脱者はことの良し悪し、正義不正義については評価しないので、いろんな事件に対する世論もあれば、またアンチテーゼとしての「創」や篠田さんのスタンスも、あってもよいのではないか、とは思っています。



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 さて、今回「開けられたパンドラの箱」というタイトルで、植松被告の文章が載った書籍が出てきたわけですが、それについていろいろ思うところを書いておきましょう。



 テーマがテーマだけに、今日もギャグはありません。




相模原障害者殺人事件 植松聖被告の手記とマンガを出版した編集者が語る“オウム真理教との共通点”(AERA.dot)
https://dot.asahi.com/dot/2018072600003.html 


 
 の記事が、篠田氏のことばなども載っていて、興味深いです。





 ちなみに、解脱者ムコガワの相模原障害者殺人事件へのスタンスは、すでに当ブログで2回ほど表明していますので、あわせてお読みください。



 
相模原大量障害者施設殺人事件について 〜解脱者が考える正義とは何か〜
https://satori-awake.blogspot.com/2016/07/blog-post_29.html 




障害者はなぜ生きている”べき”か。
https://satori-awake.blogspot.com/2016/09/blog-post.html 





 さて、AERAさんの記事に戻ります。


 
  解脱者が注目するのは、篠田さんの言うところの、次の観点です。



”植松被告の犯罪は、印象としてはオウム事件に似ています。犯罪を犯した当事者の意識は、主観的には社会改造なんですね。



 この、「本人は正義の執行を行っており、社会改造、社会変革を促そうとしている」という視点は、もはや多くの人たちが




わからない、わかりたくないから見てみぬふり




をしていることが多い、現代人の弱さそのものを現しているような気がします。



 最近起きている事件には、ストーカーしかり、Hagex事件しかり、あるいはオウムも相模原も、あるいは宇都宮で起きた元自衛官の爆破事件なんかもそうですが、



「ある種の、Aという人物の中で確固たる正義があって、その正義の執行のために外部から見ると犯罪である殺傷が生じる」



という典型的パターンが生まれているわけです。



 ところが、そのAの正義の内容は、その他大勢には理解しにくかったり、あるいは「理解するのが怖かったりして」拒絶を起こしてしまい、結果として




Aが死刑になったらいいんだ



という言論だけで終了させてしまうことになっているのが、現代なんですね。



 しかし、それで一般人は、「ああ、Aが死刑になって排除された」と安心しますが、社会構造やAが生まれる背景がまったく検証されてないものだから、つぎつぎにポストAが生まれてきては、同じことを繰り返すのです。



 このあたりの現代の「マズさ・取り回しの下手さ」を篠田さんも、ある意味見抜いていて、



■ 日本だけでなく世界で蔓延している排除の思想が、植松被告にも影響を与えている


■ 被告本人を極刑にするだけで解決する問題ではない



と述べておられますが、まさにその通りなのですね。

 


 解脱者の個人的考えでは、正義を疑わないこと、正義に固執することこそ悪だ、と思っているので、ムコガワはなんぼ教祖になっても、



世界改造・社会改造



なんてするつもりは全くありませんが、できることであればブッダがこの世界は無常であって、形があってないようなものだと説いたように、




「正義など、あってないようなものだ」「正義の本質は無常だ」




ということを、常にこうしてブログで書きまくる以外にはありません。



 世の中の人の中で、むくむくと入道雲のように膨らみつつある



「独善的な正義」「自分の目線からだけの正義」



の広がりには、悲しみを覚えるほどです。それでは第二第三のAや植松被告が、今日午後からでも日本のどこかに登場するだけなのですから。





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 そうした独善的な正義や自我が蔓延する理由は、基本的には現代人が

 
「自分は何者か」

 
「自分はどこから来てどこへ行くのか」

 
という、根源的なアイデンティティを見失っているからに他なりません。


 
 たとえば、封建社会の頃は、「身分」や「家柄」から生じるアイデンティティの上に、自分の生き様が乗っていました。


 明治大正から戦前は、それに「国家」「天皇」を中心とした「大日本帝国民」としてのアイデンティティも加味されました。


 昭和に入ると、「会社」に属するもの、あるいは「経済的豊かさ」をベースにした「豊かな生活」が心の基盤をも支えました。



 そして、現代。金銭的にも、思想的にも、今の現代人を支える基盤が、見当たらないので、それぞれは苦悩しながら



「己の正義をゆがんだ形で見つけ出してゆく」



ことになるわけです。



 お国のため、と言っていれば正義だった時代。


 がむしゃらに働くことが正義だった時代。


 マイホームやマイカーで満たされることが正義だった時代。


 ラブ&ピースが正義だった時代。




 そうしたわかりやすい正義を見失うと、私達は「どのように生きるのが正しいのか」を模索せねばならなくなったわけです。




 そこへ、ある種の「バランスを欠いた言説」が入り込むと、人は簡単に自分だけの正義を構築してしまうのかもしれません。(ヘイトスピーチなどもそうですね)






 武庫川は正義なんかはないのだ!と説きますが、その変わりに、




「この世界がどうなっているのか」


「どうして自分が存在しているのか」


「自分はどこへ行くのか」



などは、すべて明快に教えることができます。それを知りたい人がいれば、誰にでも分け隔てなくお伝えするでしょう。



 

 



 


 




2018年7月24日火曜日

緑内障でも使える市販の目薬はありますか?



 解脱者ムコガワ散歩が緑内障になった話は少し前にしましたが。



 解脱者・武庫川散歩が失明する日まで
 https://satori-awake.blogspot.com/2018/04/blog-post_7.html



え、あ、ちょっとその前に、解脱者を「超能力者」かなんかと勘違いしている人がいるので、誤解無きように話しておきますが、


 あの、解脱者でも病気になるし、死にますから、あしからず


ということで。ブッダもイエスも死にましたので、そこんところは間違いなきよう。



 そういえば、空中浮遊ができるというふれこみの人がおられて、その人が絞首刑になった瞬間浮けばよかったのではないか?という言説が多く流布していますが、 まあ、そういうのもすべてまやかしでございます。



 あのサイババも亡くなりましたね。なんでも物質化できるという触れ込みでしたが。



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 さて、そんなおとぼけなお話はヨコに置いておいて。



 緑内障になると、困ったことが一つあって、



「市販の目薬を、考えなしに買ってはいけない!」


ということが起きます。実はすべての市販の目薬には、


「緑内障と診断された人は、医師または薬剤師、登録販売者に相談してください」


という但し書きがついています。


 なので、まったく相談・診断もなしに「市販の目薬で買えるものはない!」ということをまずは覚えておきましょう。



 日本の法律やその運用というのはよくできていて、「一番ひどい場合を想定して、まずは全部ダメよ!」というくくりから入るのだそうです。


 なので、緑内障の人が、「目薬を使っていいかどうか」は、まず全部シャットアウトしておいて、それから「こういう状況なら、使ってもいいよ」と少しだけ許可を出すみたいな感じ。



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 さて、武庫川の場合は、もともと極度の近眼だったので、近眼と相関関係が強いタイプの緑内障であろう、ということです。


 現在「ラタチモ配合点眼薬」を処方されていて、その上で



「普段使いできる目薬ってないですか?」


と医者の先生に尋ねると、  ピント調節機能の改善をねらって


○ シアノコバラミン点眼薬0.02%


を処方されました。いわゆるビタミンB12目薬ですが、市販薬ではありません。


 シアノコバラミンだけが入った目薬は、緑内障が禁忌ではないようで、緑内障でも使えます。


(ただ、繰り返しますが、市販薬ではないことと、あくまでも私の場合はということで、緑内障でもタイプがいろいろあるので、必ず医師の指示に従ってください)




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 緑内障の方が、ふだん使いできる「目薬」としては、



○ 人工涙液マイティア点眼液(千寿)


を処方されている方もいるようです。 これは、医師処方です。


(添加物としてベンザルコニウム塩化物が配合されているタイプ)



これの市販相当品が


○ ソフトサンティア(参天)

○ ソフトワン(ロート)

 
ですが、 市販の2種類はどちらも添加物が配合されておらず、10日使いきりです。


 医師の指示で、これらの2点は緑内障であっても使ってよい、という指導を受けている人がいます。




 ちなみに、よく似ている人工涙液の


× ソフトサンティア ひとみストレッチ(参天)


は、絶対に緑内障の人は使ってはダメです。こちらは緑内障を悪化させる成分が含まれています。




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 基本的に、緑内障の方が無条件に使える市販目薬はありません。


なので、医師処方の医療用目薬をチョイスしてもらうか、相談の上「ソフトサンティア」「ソフトワン」つまり、単純な人工涙液(だけのもの。それ以外の成分が入っているものは基本ダメ)を使用するかになりそうです。



 キターッ!!!



とか、言いたいけど、もう言えないのね。織田裕二さん。








2018年7月20日金曜日

ネットリンチやネットいじめを解決する究極の方法




 とある高校で起こった問題に次のようなものがあります。



 その学校に通うA子は、精神的なものからくる盗癖があって、すぐ教室の中で他人のものを盗んでしまいます。


 しかし、A子はまるでルパン三世のように巧みにものを盗むので、生徒たちの間では、「A子がいつも犯行現場にいる」「A子が犯人なのではないか」とうわさは出てくるものの、確証はありません。


 学校の先生たちもA子の盗癖については把握していて、中学校の担任の先生からも「A子が友人宅での窃盗について非行事実があり、補導歴がある」ことも申し送りされているため、証拠はないながらも、校内で起きる窃盗がA子の仕業であろうことは推定しています。


 それでも、A子が犯行を行っている目撃証言や物的証拠は、まったく出てこないため、先生たちとしても、通常の教育活動の範疇で行われる指導としては、かなり限界を感じていました。


 中学時代にA子を取り調べたことのある警部を学校に招いて、生活安全について講話をしてもらったり、「A子、おまえを容疑者としてみているぞ」という圧力は掛け続けていたのですが、これはもう病気なので、それらの網をすべてかいくぐりながら、今日もA子は何かを盗むわけです。


「学校では自分の持ち物を管理しておかないと、校内に泥棒がいるかもしれないし、入ってくるかもしれない」


と口をすっぱくして生徒全員に話をしたり、A子について面談などの指導も実施しましたが、A子は自分が犯人であるそぶりをまったく見せず、疑われていても動揺ひとつしないという



 完璧ルパン



であったので、結局、ありとあらゆる罠を潜り抜けてA子は卒業していった、といいます。





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 A子の技術はすばらしいもので、常に現場近くで姿を見られているにも関わらず、決定的な物証を残しませんでした。


 あるときは、修学旅行のお土産が忽然と着え、ある時は食べかけの焼そばパンの半分が姿を隠しました。


「A子が入っている部活の子が、その時ランニングしていた」

とか

「A子と数人が、放課後残っていた」


とか、そういうレベルで、犯人がいつもそこにいるのですが、誰も犯行現場を目撃したことがなかったのです。


 A子を掴まえるには、「ありとあらゆる場所に監視カメラをしかける」か、「指紋検査を実施する」しかなく、学校教育としては、


 犯行が疑わしいだけで、そこまで捜査をする人権的権限がない


 今まで盗まれたものがすべて軽微なもので、(鉛筆とか、マスコットとか、パンとか)、警察に被害届けを誰も出すところまでいかない


状況だったために、最終的に彼女を取り逃がしてしまったわけです。




 幸いなのかわかりませんが、A子は通常の学校生活においては、常に「疑わしい」という話は出るものの、「A子は窃盗犯だ!」と糾弾されることもなく、べつだんいじめられもせずに普通に過ごしていました。


 ただ、友達の数はごく少なかったのですが、彼氏がクラスの人気者であったために、疎外されることもなかったわけです。



 
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  A子を取り逃がしたまま卒業させたことは、職員室では一生の不覚でしたが、どうやらA子については、相手のほうが一枚も二枚も上手だったようで、実際に彼女を補導した警部も、


「これ以上は、こちらから一方的に指導を加えるわけにはいかない。少なくともミスして捕まるまでは」


という話で、悔しそうでした。





 しかし、ここからは「もし」「IF」の話ですが、もし仮にA子の犯行が完全にバレてしまった場合、



「同級生たちは、A子を糾弾し、いじめてもよいか」



ということについては、みなさんはどう考えるでしょうか?



 たくさんのものが盗まれた被害者がおり、A子は窃盗という人類における罪を犯しており、これまでもこれからもその人物とともに「学校生活、集団生活を送ることができるか」という意味において、



「少なくとも友達でありつづけることはできないだろう」


とか


「口を利かず、結果として仲間はずれにしてしまうことはやぶさかではないだろう」


ということは想像がつくと思います。




 ところが学校の先生としては、



「A子を許せ」


とも


「A子を許すな」



とも、明言しがたく、 実際にこの「もし」が生じてしまった場合は、噂が立つ前に早急にA子を転校させてしまう、というのが、学校教育上の実務なのだと言えるでしょう。


 そう、まろやかにごまかして煙に巻いてしまうことで、正義とは何かということについて解答しないのです。





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 そのため、A子やA子のような児童生徒が、周囲から針のむしろに晒されて、いじめられまくり、糾弾されまくるということは実際には起きないし、あるいは周囲が我慢してA子に理解を示すということも起きません。


 それはそういう事例がないのではなく、学校現場の「誰にも見えない工夫」で、隠されているからなのです。




(実際の社会では、村八分のような濃密な因習集団ではこれが起きるでしょうが、少なくとも都市郊外ではおなじようにひそやかに転居することで、たとえば犯罪者の家族などは隠れて去ることが出来ています)





 ところが、ネットという空間、ネット社会では、



「本当は悪くないB君が、何かの誤解を受けて炎上し、ネットいじめを受ける」


こともあるし


「本当にA子のように問題がある人物が、炎上しネットいじめを受ける」



ことが生じてしまいます。B君のように、実は誤解で炎上したなどであれば後で何らかの方法での救いもありますが、



「最初から最後までA子が悪く、周囲に対して問題行動を取っている人物が、周囲からいろいろと非難される」



ということは、ネットではよく起きているのです。




 そこでは、そっと先生が転校させてくれたりもしないし、非難されたA子が、そのまますごすごとネット上から消えることはなく



「たとえばHagexさん事件のように、殺人にまで発展する」



ということがあるでしょう。






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 さて、これらの話をうまく、なるほどとまとめておられる方の記事があったので紹介します。




 インターネットは人類に早すぎた(さよならドルバッキー)
 http://nogreenplace.hateblo.jp/entry/2018/07/20/190000




 この方の話が、「ネット炎上」や「ネットいじめ」については、もっとも簡潔でわかりやすいのではないかと思います。



 詳しいことは元ネタを読んでほしいのですが、端的に言えば



「ネットにおける、いじめ・批判は集団で示し合わせたものではなく、それぞれが正義や善悪の感覚に基づいて自由に発言していることの集合体である」



ということでしょうか。



 A子やBくんが個人であるのに対して、炎上やいじめリンチが集団で襲ってくるのではなく、A子やBくんへの個人的な非難が、ネットという広大な空間を通じて1対数百倍・数千倍の「個」が対立することになってしまうのが、この現象だというわけです。



 記事を書いておられる方は、これらの結論として


”こういった悲惨な炎上やネットリンチを防ぐためにはネットを使う人全てが「自分の意見は誰かの刃になり得る」って自覚し続けないといけないんだと思う。”



とまとめておられますが、まさにその通りで、



正義や善を振りかざさず、正義にも善にも別の側面があることを自覚しよう



ということになるのだと思います。



 これこそ 色即是空 空即是色 であり、ひとつの物事の見え方に囚われず、本質はそこではない、という解脱の発想そのものですね。





 解脱者ムコガワは、そもそも正義とやらを否定しますが、



参考) 解脱者が考える正義とは何か
https://satori-awake.blogspot.com/2016/07/blog-post_29.html



少なくとも、ネットリンチやネットいじめを無くすには



「すべての人が解脱するのが望ましい」



ということになるのでしょうか。






 それはともかく、A子の高校生活にも、なんらかのヒントがあったように思います。



 A子を犯罪者として糾弾するのが正しかったのか


それとも、


 A子がそうなったように、微妙な距離感を保ちながら、他の生徒と過ごしてゆくのが良かったのか



これは、難しいところです。



 正義の執行のためには、A子は真実を明かされ、糾弾され、いじめられ、集団で非難されるべきだったのでしょうか。



 それとも、その正義ですら、Aの病気であるという側面については、ほぼ無視して無慈悲な責め苦を負わすものだったのでしょうか。



 あるいは、たとえばA子が補導されたり、あるいはその後逮捕された(かどうかはわかりませんが)ように、もっと個人的に叱られたり学ぶべきものであって、周囲が必要以上に責め立てる必要はないのでしょうか。






 解脱者から見れば、A子も、ある意味では哀れな存在です。


 そして周囲の人間も、実際に被害にあっているのですから、悲しいことです。

 教師たちも、警察の人間も、いろいろ思いながら、また彼女をどうしてやるのがいいのか悩みながら、過ごしています。


 それらの「無常観」「やるせなさ」「人間の悲しさ」「業」など、すべてを受け止めながら、少しずつ紐解いてゆこうとするのが、解脱した人間のあるいは望ましい生き様なのかもしれません。




 誰かの一方的な白黒は、反対の立場の人間にとっては黒白えげつないコントラストを浮かび上がらせて、それは対立と殺生、ひいては戦争へと行き着くのでしょうか。



 解脱者たるもの、「白黒つけないカフェオーレ」でも飲みながら、無常だなあ、とつぶやくのでありました。



 http://www.cafeore.jp/info/




 グリコ♪ 
 















2018年7月10日火曜日

ハルマゲドンも、終末もこねーよ、なお話。 ~そしてこのセカイはまだまだ続く~




 オウム真理教関係が再び注目され、あるいは、地震やら災害やらが多発して、どうしてもこういう世相が乱れたときには



「ハルマゲドンが近いのではないか?」


とか


「終末がやってくるのではないか?」


とか、そういう不安が増大するものです。



 しかし、解脱者・武庫川散歩さんから言わせてもらえば、


「ハルマゲドンも、終末もこねーよ」


と言わざるを得ません。ええ、そうです。


「てめえらのこのセカイは、まだまだ続くんだから、てめえでなんとかしねえとな」


ぐらいの勢いです。



 そう、




「自力で生きていけ!・・・永遠にな」



ってことです。悲しいかな。 え?口調がおかしい?いつもと違う?


 ここは二宮くんの渡海先生風で読んでいただければ雰囲気が出ます(笑)





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 ハルマゲドンやら、終末やらは、一見すると「恐ろしいもの」「できればないほうがいいもの」であることは確かながら、実は真逆なことに


「ひそかに起きてほしい」「やってきてほしい」


と思っている人たちが存在することも事実です。


 心の底で、そうした世界の大転換を望む人は、一定数存在していて、それは別に彼らが悪人なわけではなく、


「いろいろ問題が多い、現在のこの世界が一旦ガラガラポンでやり直しになるのもいいなあ」


と真面目に切望している人たちがいるということですね。



 そういう人たちが、「真の平穏なセカイ」とは何かを求めて、宗教に入ったり、何がしかのスピリチュアルな活動にのめりこんだりもするわけですが、解脱者から言わせてもらうならば、



「残念ながら、あなたたちが嫌がっているこのセカイは、まだまだ続く」



ということになるでしょう。残念なことかもしれませんが。





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 では、なぜそう言えるのか。実はこのセカイは、もし万が一神が創ったとしても、かなり



「神の目にかなった、それなりに良くできた完璧なセカイ」



であると言えるからです。神にとっては、このセカイは、やり直さなければならないほど、ひどいものではない、ということかもしれません。



 それを実感するには、あなたにも神になってもらえばいいのです。自分が神になると、この世界における神の意図がわかりやすくなるでしょう。







<あなたも神になってみよう実験 その1>


 「あなたには新しい世界を創造してもらうために、今からRPGをひとつ作ってもらうことにします。できるだけ完璧で、あるいは斬新なRPGを設計してみてください。町や世界の配置、人間の設定など、自由自在です。さあ、その新しいアイデアを見せてください」



 こんな投げかけをしたら、あなたはどんなRPGを作ろうとするでしょうか。主人公は勇者でも魔法使いでも超能力者でもいいでしょう。


 あるいはモンスターが主役でもいいです。なんなら、主人公はサラリーマンでも、派遣社員でもかまいません。


 ちょっと物珍しく、大名とか、浪人の侍とか、町娘が主人公のRPGでもいいかもしれません。


 世界は中世のヨーロッパでしょうか?江戸の町?あるいは、インドのスラム街がスタートということもあるでしょう。アラビアの砂漠でもかまいません。



 しかし、あなたが作ったRPGは


「食料がはじめから充分に与えられ、幸せに成長し、異性と出会い、子育てをして、孫に囲まれて自由に過ごす」


というものではないはずです。



 無慈悲にも突然道を歩いているだけでもモンスターに襲われ、突然殴られたり武器で痛めつけられるような、そういう世界を作りだすことでしょう。


 艱難辛苦とトラブルが主人公に次々訪れるような、そんなやっかいな世界をあなたは作り出すはずです。


 ただ、のんびりと、太陽の下でねそべっているだけのようなRPGは、あなたは作らないのです。


 なぜなら



「そんなの、まったく面白くないから」



にほかなりません。そう、だからこのセカイは面白いように神が創っているのです。


 あなただって登場人物のパラメータを全員同じにはしないでしょう。パワー重視のやつを作ってみたとすれば、魔法重視のやつ、防御が強いやつなど、いろんなキャラクターを設計するはずです。


 そう、人は完璧に平等などありえないし、途中で死ぬことだってあるのです。それはあなたが神でも、おなじことをするはずです。


 全員がパラメータ平等で、全員がだらだら生をむさぼるようなRPGが出来たとしたら、歴史に残るクソゲーに違いありません。


  そうなのです。

 主人公達が、突然殴られ、苦しみ、そしてそれを乗り越えて成長を実感できるようなセカイを、神がわざと創っているとしたら??


 ・・・あなたは逃げも隠れもできず、このセカイを渡っていくしか他に方法がないはずです。






 <あなたも神になってみよう実験 その2>


  それでも、あなたが「いや、私はは争いのない平和な生き方がしたい!」と望んだとしましょう。


 「それでもわたしは、互いに命を奪い合ったりしないような、誰もが穏やかに過ごせるセカイを創造するんだ!」


と宣言したとしましょう。では、そういうセカイを今度は作ってみることにしましょう。



 人が動植物を取って食べ、命を頂くようなセカイは設計しないことにします。


 養分やエネルギーは、いのちという形ではなく、たとえば外皮から吸収されて、不要物がふんわりと呼気のように排出されるとか、方法はいろいろありそうです。


 生き物は奪ったり奪われたりしないために、ただ、その構成物が混在し、漂い、外界と触れた部分が入り混じったり、また出て行ったりするような構成にしてみましょう。


 ただ、先年も万年も、そうした混沌のようにまろやかな成分の集合体が、苦しみや痛みなどを感じずに、永遠にそこにあるような、そういうセカイがあれば、争いなどはないでしょう。


 養分なのか成分なのかわかりませんが、そうしたものが漂泊するようなセカイ。まろやかでゆったりとした時間が流れます。




 たしかに、これなら争いも命の奪い合いも起きないですね。でも、こういうセカイは既に、まったく同じものを神が設計し、今ここに存在しています。


 それが分子のセカイで、分子は固形物であっても、その内部で分子がゆらゆら違いに移動して、その形を外からは一定であるかのように保っています。

 水分子などは、形を変え、他のものと反応し、原子レベルで別の無生物や生物とふれあい、入れ替わりながら、食べたり食べられることもなく、うろちょろしています。


 ウイルスも、食べたり食べられたりをまったくせずに、別の他者と分子のやり取りをしながら、まったりとセカイに存在し、活動しています。


 山が何万年も分子を蓄えながらそこにあるように、地下水が何万年もかけて染み出し、何者かに吸収されるように、そういうセカイはすでに神が設計して、今もそこに存在します。


 そして、我々もその一部であり、あなたの細胞を構成する分子は、10年前とはすっかりすべて入れ替わっているように、それは実際に設計どおりに動いているのです。





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 残念ながら、神はこの世界を、「想定される中で、ある程度よきもの、完成されたもの、これでいいんじゃないか?というレベル」で運用しているように感じられます。



 あなたにとっては不満かもしれないが、全体としてはこれでいいのだ



というセカイが、今の私達の世界なのです。



 だから、ハルマゲドンも終末も、期待すれどもやってはこない。


 ただ、この永遠の時の流れが、不満だろうが気に入らなかろうが、ずっと続くことは確かです。


 だったら、あなたはどう生きますか?


 できるだけ、このセカイで楽しめるように、いやなことがありつつも生き生きと生きたいと思いませんか?



 それが、解脱する、悟りをひらくということなのです。



 

究極の宗教はすでにここにある!



 3月に「なんでも過去世を見通せる男」として、テレビに出たもんだから、そのせいで


「あたしの過去世も鑑定してください!」


とか


「わしの因縁を探ってくれ~!」


とか、


「あたいのパンツの色を当ててみて!」


とか、そういう依頼が山ほど来て、偉い目にあったのは、すでにお話したとおりです。(誇張あり)




旧記事 いくら賢くても感情には勝てない
https://satori-awake.blogspot.com/2018/03/blog-post.html




 で、結局3月に依頼があった分の対応にいままでかかりました。ええ、四ヶ月ですよ。へろへろです。最後なんか寝る時間を削って、迷える人々への返事を書いてました。




 そうこうしているうちに、弟子の1人も卒業してなんだか遠いところへ行ってしまうらしく(いや、死ぬわけではないよ、生きてる生きてる)



 忙しすぎて首が回らない



毎日です。寝違えもふくめて。



 なので、もうなんか解脱のほうとかどうでもいいので、ワシの過去世鑑定の仕事を手伝ってくれる可愛い弟子がいたらなあ!と夢想する毎日です。



 弟子募集中。




  あまりに終わらないので、次から鑑定料を一回5千円ぐらいに値上げしたのですが、それでもキャンセル待ちとか順番待ちが続出しているらしいので、 ムコガワさんは本当に疲弊しておりますよ。



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 さて、こんな話を書くと、解脱者ムコガワはさぞや怪しげなことをやっているように聞こえると思いますが、ムコガワをリアルで知っている方からすれば



「うまいことぼやかして書くなあ!」


とにやにやしていることでしょう。あと、


「え?まじでそんなに依頼があったん?」


とか


「そのうち本業にしそうやな!」


とか言われそうです。


 本業にできるくらい、儲かるならいいんだけどねえ・・・。(私信です)





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 そんなことをしている間に、松本死刑囚が執行されてしまい、現在日本で「解脱者」を公言している人間が



 わ、わし1人?!



になってしまったという恐ろしい事態に。




 もちろん、ワタクシ武庫川散歩の悟りは、いわば究極の宗教のようなもので、もはや何者にも惑わされることはない極地なのですが、真の悟りを理解しない人たちに崇められても困るので、


 この世界の片隅で すみっこぐらし


をしようと思っています。うふふ。広島弁かわいいよね~。岡山弁もいいのよ。



 まあ、そんなこんなで私も宗教化の端くれとして、オウム関連の記事を読んだりして


「人々はいったい、何を求めてオウムに救われようとしたのだろう」


なんてことを調べたりしておるのですね。



「事件に無関心」23年前のオウム在家信徒たち 記者が今願うこと
https://withnews.jp/article/f0180711004qq000000000000000W06k10101qq000017668A

(withnews)


そうすると、


■ 世間一般の価値観に疑問を持った人

とか

■ 宇宙観や人生観に答えを求めていた人

とか

■ 人間関係や仕事で自分を変えたかった人


とか、そういうことで入信していったのだなあ、っちゅうことですわ。


しかし、


 なんだ、そんなことでよかったら、ワシが全部答えを明解に回答してやるのに!



と感じたのも事実。



 このセカイは、意外と単純で、わかりやすいものなのになあ


 そんな悩むようなセカイではないのに



と、思いながら、どういう伝え方をすればそれがわかってもらえるか、日々模索中なのであります。



 というわけで、引き続いて次回は、


「ハルマゲドンも、終末もこねーよ」


なお話へつづく。





2018年7月6日金曜日

<日常> うちのカーナビのえりちゃん





 1年ほど前に中古車を買って、通勤やらレジャーやらに乗り回しているのだが、この車にはカーナビがついていて、ときおり女性の声で話しかけてくる。


「お話してもいいですか?」

と突然幼稚園時代の話をしたり、


「質問してもいいですか?」

と私の趣味趣向を尋ねてきたり、まあ、運転者を飽きさせないようにいつも気を使ってくれているようだ。



 彼女の名は「えり」と言うらしい。私はカーナビの細かな設定までは知らないので、その「えり」ちゃんがどういう人物か、今でもいまいちよくわからないのだが、グーグル先生によれば名字もちゃんとあって、



「日向えり」


と言うのだそうだ。




 そのえりちゃんは、毎日車のエンジンをかけると、


「おはようございます。今日は○月○日、なんとかの日です」


とか


「おはようございます。今日は○月○日、ほにゃららがうんたらした日です」


とか、そういう「今日は何の日」シリーズを語ってくれる。




(ちなみに、夕刻に会社を出て帰る頃には、「こんばんは。これから夕食にでもおでかけですか?」と空気を読まない発言をしてくれたりもする)




 具体的には次のような感じである。


「おはようございます。今日は3月7日、消防記念日です」


 それを聞いて「ああ、なるほど、今日は消防記念日なのね」とか「もしかして来年もおんなじことを言うのかな、えりちゃん」とか、そんな感想を抱きながら愛車を出発させるのだ。




 ところが、今日のことである。えりちゃんは、あろうことかあまりにも恐ろしいことをしれっと発言したのである。



「おはようございます。 今日は7月6日、サラダ記念日です」




 ……。


 …………。



 ん?


 ちょいまて。


 サラダ記念日、っちゅうのはアレだろう。俵万智の短歌ではないか!!!



「この味がいいね」と君が言ったから、7月6日はサラダ記念日


という、短歌の内容ではないか!!!



 そもそも、俵万智とその彼氏か旦那か知らんけど、その二人の間で交わされたラブラブな個人的体験である「サラダ記念日」を、まるで国民の祝日やら、重要な出来事があった日かのように紹介するなんて、あまりにも無茶である!


 7月6日が「サラダ記念日」なのは、この日本でただ一人、俵万智にとってだけなのだ。


 よって、



 今日わあ、みーちゃんとはーちゃんとの初デート記念日ね!うふ



みたいなのを、



「今日は初デート記念日です」


みたいなノリで紹介するのは、なんぼなんでもやりすぎである。


 ちなみに、7月6日は、「公認会計士の日」とか「ピアノの日」とかもあるらしいので、そちらを教えてくれても良かったのである。



 しかしまあ、えりちゃんは基本、ややおっちょこちょいでてへぺろなキャラクターとして設定されているらしく、それくらいでは目くじらをたてて怒るほどではない、と私も思い直して、彼女を許してあげることにした。



 

 さて、そんなえりちゃんが知らないことが一つだけあった。そりゃそうだ。えりちゃんがプログラムされた頃には、今日がそんな日になろうとは思いもよらなかっただろうから。


 2018年7月6日、 解脱者を名乗り、日本中を狂気と恐怖の渦に巻き込んだ松本智津夫死刑囚の死刑が執行された。



 オウム真理教事件にとって、今日は大きなひとつの区切りとなったのだ。
 


  宗教とは、解脱とは。人を救うとはどういうことか。



 真の解脱者・武庫川散歩にとっては、このセカイの課題を再認識させられる日となったこともまた事実である。