2017年6月30日金曜日

「働きたくない」を言い換えると、あなたの希望が見えてくる。 ~ニートの社窓から~



 ※最初にお断りしますが、今日は、あんまり下ネタありませんので、ファンの方はお許しください。



 じゃあ、はじめるよ。






 「働きたくない」


ということばが、現代の若者にとってのある種の「救い」「希望」みたいになっているので、稀代の哲学者にして、解脱者のムコガワ散歩的にも、語ってみることにしました。



 高度経済社会で、新自由主義な現代の文明国において、バリバリ働くということは、もはや自明のルールのようになっているので、 そりゃあ、「働きたくない」なんていうことばは



 アンチテーゼにしても魅力的すぎる!



のは必定。しかし、そこでホントに働かなければ、我々のような庶貧民は暮らしていけないのがこれまた必定なので、そこが悩ましいのではありますが。




 Phaさんという京大卒で働かない『高学歴ニート』な方がいらっしゃるそうで、テレビで取り上げられたりして、ちょっとした話題になっています。




 Phaさんの日記
 http://pha.hateblo.jp/




Phaさんという人は、組織にしばられず、家族も持たず、たまにネットを使ってお金を稼いでは、シェアハウスのようなものを運営して暮らしているそうですが、そういう



現代の仙人のような生活



をしているがゆえに、注目もされるし、理想化もされるのでしょう。



 彼のことを「スーパーニート」とか「日本一有名なニート」といったりして『ニート』というくくりで見る見方もあります。


 あるいはどなたか、「学生寮みたいなことを、大人になってもやってる人」という視点で捉えた人もいます。


 またあるいは、「ニートと言いながら、『実はお金をかせぐ手段をしっかり持っている』」という目線で見ている人もいるようです。



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 まあ、Phaさんのことはこれくらいにしておいて、本題へ入ります。私たちは彼ではないので、彼と同じことはできません。


 しかし、ここ大事。



 よく読んでね。



「彼のようになりたいなあ。の”ように”の部分をしっかり具体化すれば、それはあなたやわたしの生活に落とし込めるのではないか」



ということを解脱者は考えるのです。



 なので、今日は、解脱者ならではのレクチャーで、あなたがプチphaさんになるためのトレーニングをしてみることにしましょう。




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 「働きたくない」


ということばは、わかりやすいが故に一人歩きしがちですが、それを具体化すると、あなたの求めているものが何か、はっきりしてきます。


 そこで、色々な言葉を使って、「働きたくない」を言い換えて見ることにしましょう。






■ 「時間に縛られて、定時にどこそこへいくとか、遅くまで何かをさせられたくない」





■ 「上の立場の者とやらにいろいろ言われず、自分のペースで何かをしたい」





■ 「義務的な活動ではなく、そういうものが発生しない動きがしたい」





■ 「遊びに属することをしていたい。そうではない活動は避けたい」





■ 「自分が楽しいとか充実していると思える活動をして、そうではない活動は避けたい」





■ 「責任を取るということから離れていたい」





 ・・・こうして変換してゆくと、Phaさんのいう『働きたくない』の具体的な意味合いも、またはっきり見えてきますね。



 たとえば、



● 結婚や家族という旧来の「義務的・責任的立場」から離れていること


● 組織に属さず、自分の関心事に沿った活動から金銭を得ていること


● 時間の使い方を自分の意図でコントロールできること



などが、実現されているのが、あの生き方なわけです。





 実は、私武庫川散歩は、会社員として働いていますが、なんとうちの会社はおかしなことに、経営者サイドの上司が出勤してきません。


 私は、仕事場所にいる人間の中では一番えらくなってしまったので、もはや誰にも何も言われないのです。


 そしてもっと恐ろしいことに、ノルマもなければ、目標もありません。


 さらにとんでもないことに、私はフレックス勤務をしてもよく、逆に残業代もつきません。



 そういう意味では、「時間の制約はけっこう自由になる」し「組織や上司からとやかく言われない」し、「嫌な業務をそもそも取り入れないことだってできる」わけで、



 私は働くのが大好きです!!!



 ずっとここで死ぬまで働いていたーい!!!



 サイコー!ひゅー!



と思っています。他にちょっとぐらい嫌なことがあっても、私の中での「しんどい働き方はしたくない」は充たされているので、文句があろうはずはないのです。





 こんな職場は、実は世間にはたくさんあって、「働きたくない」と思っている人は、そういう職場を運良く見つけられていないか、そういう立場にないだけかもしれません。





 その場合は、上記のように「働きたくない」の中身を具体的に置き換えれば、




 あなたが本当はどうしたいのか




が見えてくるし、そういう生き方をチョイスする方法も見つかりやすくなることでしょう。

















 

2017年6月26日月曜日

人工知能は人を超えたが、果たして神を超えるのか?! 



 昨日NHKで放映されていた「NHKスペシャル 人工知能 天使か悪魔か」を大変興味深く拝聴した。



 NHKのサイトより
 http://www.nhk.or.jp/special/ai/




 人工知能ブームなるものは、ここ数十年でなんどかやってきていて、現在今をときめく40代のムコガワなんぞは


 「AIとかファジー」


とかいうものが流行した時代もしっかり覚えている。現代は、第三次人工知能ブームなのだそうだ。



 さて、すこしまえにチェスのコンピュータが人間に勝った!なんて話がでていて、昨日は囲碁コンピュータが人間に勝った話からスタートした。



 もちろん、この手の話に詳しい人なら誰でも知っているとおり、コンピュータによる人工知能と、人間の知能には大きな違いがある。



 簡単にポイントをまとめると。



■ 人間には感情要素があるが、人工知能には感情要素がない。


■ 人間には、経験則による推論があるが、人工知能には数理的確率的な推論(とよんでいいのか?)がある。


■ 人間には取り込める情報に限りがあるが、人工知能はその数千倍のデータをもとに推論する。




 考えようによっては、人類と人工知能では、人工知能のほうが絶対に有利で、ベースとなる知識やデータを持てる「容量」を人工知能では圧倒的に多く出来るため、より「正しいと考えられる推論」を行うことができるわけである。



 囲碁コンピュータでいえば、人間が2千年かかって対局した分量の「勝負データ」を持っているそうなので、


 そんなん勝てるわけないやんけ!(笑)



という事もできるわけだ。




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 こうした人工知能は


「タクシーをどう配車したら効率的に客を拾えるか」


とか



「会社を辞めそうな人は誰かを推定する」


とか、そういう用途で実際に使われているらしいのだが、いわゆる感情や経験論を廃して、



 ビッグデータの確率論だけで推論する



というところは、個人的には潔くて好きである。





 番組の中では、「政治を行う政治家人工知能」なんてものの開発も紹介されていたが、




 世界中にこれだけ頭のよい、賢い人たちがいても世界がよくならないのは、人間がリーダーなせいで、人工知能に任せればいい



という話は、なかなか興味深い。



 人工知能は感情を廃する、という点は、この問題のツボである。




  たとえば、東芝の経営トップが人工知能だったら、原発事業は誰にもまったく忖度することなく、早期に切り捨てたか、あるいは参入すらしなかったかもしれない。



 おなじ原発でいえば、福島の原発事故の際に、炉心溶融が起きているかどうかの判定と、ベントするかどうかの判定は、誰にも臆せず一瞬にして決めただろう。たとえ、そのために放射能が一時的に外部に漏れようが、全体の被害確率からすれば、


 知ったこっちゃない


と人工知能ならば考えるだろうからだ。


(そして、恐ろしいことにその結果に対して責任をもつ気も一切ない)






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 私、ムコガワは在野の哲学者にして、稀代の解脱者だが、もし神が存在するとすれば、



 神と人工知能は、かなり似ている



のではないかと考える。



 番組の中で人工知能の開発者が言っていたことがとても興味深く、それは



「開発した者からみても、人工知能がどのようにそれを推論したのかはわからない」


という発言であった。



 よく、聖書を信じるものの間では、神は全知全能であるという考え方を持つことがオーソドックスだが、 これは言い換えれば



 ドラゴンクエストの開発者は、隅々までどこにバグがあるか知っている



と言っているようなもので、そんなことはあり得ないのである。




 人工知能のプログラムは、データの集積体とそれを処理する数式を与えるのみで、あとの計算は勝ってに数式が行う。その結果が何をはじき出すかは、開発者にもわからないし、どのように推論しているのかは、数式が複雑化すればするほど、わかりにくくなる。



 これを人工知能のブラックボックス化と呼ぶのだが、人工知能の計算結果が誰にも予測できないように、



「神の存在がよくわからないのも、結局はそういうことなのではないか」



と考えるようになってきた。



 この話はブログの初期に書いたが、神というのは人工知能の数式に似ていて、



■ この世界に、「ない」という状態であることと「ある」という状態であることが存在すると、それぞれを分ける定義を行った。



のが最初の仕事であり、



■ ある、というモノは、関係性によって組み合わされ、もうひとつ外側の大きなユニットを作ることができる、という定義を行った。


のが二つ目の仕事だったと考えるのだ。



 セカイはおおむね、この2つの定義くらいで成り立っていて、あとは勝手にユニットが組み合わさるような式を与えてやれば、人間まで登場するのではないかと思う。


 その途中はまさにブラックボックスで、そのためにゴキブリが生き残ったり、恐竜が絶滅したりするわけである。


 そこらへんは神の意図とは無関係に起きる、というわけだ。



 私は昔、国語の教員だったが、すでに


「俳句や川柳は、50音の17回並ぶ数列に過ぎず、これから生み出されるであろうすべての俳句も、川柳も数式で全部書き出せる」


と思っている。パラメータを17音から31音にしてやれば、


「この世界のすべての短歌の著作権は俺さまのものだ」


なんてことも主張できるのである。


(ただ、まだまだ一介のコンピュータで扱うには、データが膨大であり、それを印刷できる書物がつくれないほどの厚みにはなる)







 結論から言えば、囲碁の人工知能は、人間に勝ってもちっとも嬉しくないし、そもそも何も考えてはいない。


 とすれば、神も、きっとなーんにも考えていないに違いない、とムコガワは考えるのである。


そして、もちろん、人類に対して責任を持つ気もさらさらないのである。














2017年6月15日木曜日

「愛情とは何か」 ~親子関係からひもとく、愛の姿~



 どうも、あなたの心の愛人こと武庫川散歩です。


 あなたのことはそれほど知りませんが、愛しています。むぎゅ。




 ・・・。



 ・・・ここんとこ、真面目なテイストの記事が多かったので、途中で見に来た人は驚くでしょうが、まあこのブログの基本姿勢はこんなん↑です(^^;;;



 よろぴく。




 だいたい、しょーもないマクラから入ることが多い当ブログなので、久しぶりにやるとこっぱずかしいです。




 あ、ちなみに最近読んでるかわかんないけど、ハガネちゃんのためにこれを書いています。元気? 後半すごい話が出てくるからねー。





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 さて、今日のテーマは「愛」ですよ。愛。



 いつもセカイの片隅で愛を叫んではいるのですが、今日は精神的な意味でのちゃんとした裏づけがあるお話なので、とても興味深い!!!




 東洋経済さんより

 児童精神科医が見た「親の愛情不足」の真実
  http://toyokeizai.net/articles/-/170065



 これ、なかなかいい記事で、「親が毒親」とか「愛着障害」とか、そういう体験を感じ取っている人にはぜひ読んでほしい名記事だと思います。



 詳しくは記事の中身を見ていただくとして、愛の戦士ムコガワが



 ずっきゅーん!



ときたポイントをいくつか整理しておきましょう。






<ポイント1>

 愛情とは何か、誰もがわからずに悩んでいる点




・・・これはすばらしい視点です! 愛ってすばらしいもの、愛は絶対的善だと誰もが思いながら、「じゃあ、それを具体化したのはどういうのが愛なの?」って問われると


 誰も答えられなかったり、相反するものが出てきたりする



わけですよね。


 親がこどもに注ぐ愛情は「時間」によって比例するのか、「手作りなどの質的なもの」なのか。

 わざと厳しい環境にこどもを置くのは愛情か、それとも箱入りにするのも愛か。


  実例を挙げてゆけばゆくほど、「わからなくなってゆく愛や愛情」がそこにある。


 まず、それをそのまま認めよう!ってところが面白い。





<ポイント2>

 愛情機能だけは、外部に委託できない


・・・これもすごいことをおっしゃっている! こんなのさらりと聞いてしまったら、保育園へこどもを預けられなくなるレベルのすごい話です。


 発達心理学的には「特定の人」と愛着を生じることがとても重要だとされているらしいのですが、 基本的にはそれは親に相当する場合が多いのだけれど、かならずしも親でなくてはいけないわけではないのだとか。


 しかし、不特定多数の人との関わりの中では、愛情を受け止める機能が育たないというのです。



(保育園の件は、記事中ではフォローされていますが、保育園へ預けて帰ってきてもお母さんが仕事で疲れて寝てしまう毎日だったら子供はあかんようになる、って言ってるわけよね。これ)





<ポイント3>

 完璧な人はいない

  ・・・まあ、これはわかっているようで、意外とわからないこと。不完全なんだもの仕方ないよね、といいつつ「自分は間違っているのではないか?」とか「正しい対応はこれなんだろうか」とか、特に子育てに関しては迷ってしまうのが事実。


 でも、それでいいのです。迷いながら全員子育てしてきたのだから、人類は何千年も。






<ポイント4>

 大人にも特定の人との信頼関係が必要



 ・・・そして、今回最大の「目からうろこ」がこれです!!これはまたまたすごい話です。


 最近自立して、別に師匠に頼らなくてもよくなったこのブログではおなじみの弟子ハガネちゃんですが、彼女が師匠である私との関係においてずっとツボだった点があるのです。



 それは、ハガネちゃんからみて、親でも兄弟でも、あるいは古くからの知り合いや学校の先生でもなかったワタクシ武庫川が、ハガネちゃん人生最大の危機においていろいろヘルプをしたのだけれど、


 それはいったいどういう縁によってなされたものなのか、説明がつかない



ということをずっとハガネちゃんは気にしているわけですね。



 つまり、「親から助けられたのなら、理解できる」し、「先生が見かねてサポートしてくれた」のならそれもあり得るだろう。

 あるいは、同級生であるとか、恋人であるとか、そういう関係性があれば、あたしに関わろうとしてくれるのは問題ないかもしれない。

 しかし、「まったく縁もゆかりもなさそうな武庫川の家で出家したり、弟子として大事にしてくれるのは、いったいこれはなんなんだ!」と理由付けがまったくつかないわけです。



 そこでハガネちゃんは、ある時「この人はのようなものなのだ」と仮定して納得しようとしたのだけれど、それもしっくりこないので、いろいろ武庫川ともその解釈を巡って議論になったこともございました。


 ハガネちゃんはいい子なので


「そういう謎の存在は、普通の人にはいないので、あたしにだけそういう人がいるのは、ズルイことなのではないかと悩んでいた」とも言っていました。


しかし、悩むことはありません。


 
 その答えが、今回の記事にヒントとして書かれているわけです。


 記事の中では、「大人であっても、誰か特定の他者と信頼できる関係があることは大事」ということが示されているわけですが、



 ”親だからとか、先生だからとか、家族や友達や恋人だからとかそういう設定を離れていても、「特定の信頼できる関係を持っていること」は成長にとって良いのだ”



ということが説明されたわけです。




 まあ、職人さんなんかは徒弟制度なので、実際の親とは異なる「師匠」を持つわけですが、彼らが家族以外の強みを持っているのは、そういう部分があるのかもしれません。

 

というわけで何かの技術に限らず、


「生きづらさや生きやすさ」の分野での師匠(特定の信頼できる関係)


 というものがあってもよいではないか、と私も納得します。



 師匠ということばがわかりやすいのでこのブログではそれを使っていますが、実は私は彼女をハガネちゃんと呼んだこともないし、師匠と直に呼ばれたこともありません。


 もう少し、人間同士のぶつかり合いをしているつもりですが、それでは読者に関係性がよく伝わらないので、「師匠と弟子」という雰囲気で説明しています。







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 そういう意味では、私はこれまで弟子を4~5人くらい取って、その過半数は自立してどっかへ行ってしまうのですが、それはそれでいいことなんだと得心しました。


 ずっと永遠に師匠と弟子であるのも気持ち悪い話なので、必要な時に必要な信頼関係を築けて、それでまた元気にやっていける、というのは良いことだなあ!と今日は自分でもかなり腑に落ちております。



 えー、というわけで引き続き、武庫川なりに師匠業をボチボチ続けますので、弟子希望者はいつでもどうぞ。


 もちろん、いつでも自由に去れますよ。