2020年2月26日水曜日
【元祖!勝手に人生相談シリーズ 25】 おなじ経験を持つ者同士が争いになるのはどうしてですか?
毎度おなじみ、といってももう随分ごぶさたですが。このブログでは人気のコーナーであった「勝手に人生相談」の復活でございます。
ええ、誰にもなんにも尋ねられていないのに、解脱者ムコガワ散歩がまさしく勝手に答えてしまうというエキセントリックなコーナーですが、一部のコアなファンには人気だったようで、復活が望まれていました。
まるで、水曜どうでしょうのように、たまに新作をぶちこんでみる次第です。
さて、今回のお悩み相談は?!
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Q 「解脱者のムコガワさんこんにちは。
わたしは、ちょっとオブラートに包んだ言い方をすると、『おなじ経験をしたもの同士が集う会やSNSでの集まり』のようなものを運営しています。たとえていうなら、虐待児同士の体験を共有するような会とか、発達障害を抱える者同士が集まるような、そういう”経験”について共有する会をイメージしてもらえばいいかと思います。
そうした会では、みなさんの体験や経験を共有する中で、「わたしだけじゃないんだ」と安心を感じてもらえるような良い面ももちろんあるのですが、運営してゆくと、メンバー同士のいさかいや、争いのようなものも、頻発することがあり、運営者としてはどうしたものかと困っています。
マナーの問題といえばそうなのかもしれませんが、そうしたマナー違反の方を一方的に排除するのもどうかな?と思い、何かよい智恵はありませんでしょうか?」(年齢不詳 女子)
A なるほど、わたくし武庫川散歩は、ここでも何度か書いていますが、エホバの証人2世ですので、たとえば「元宗教にハマっていた人たちの会」みたいなものをイメージすれば、きっとまあまあ合っていることでしょう。
虐待を受けた人たち、障害を持った人たち、あるいは、おなじ宗教経験を持つ人たち、おなじ団体に入っていた人たち、などなどなど。
いろんなパターンはありますが、その中で、「いさかいや争いが起きる原因」というのは、実はとてもシンプルでわかりやすい事象が起きていることに気付くと、面白いです。
今回、例として挙がったグループやSNS・会合は「ネガティブな課題を抱えた人の集まり」ですから、一見すると「ネガティブなネタが原因でそうなるのかな?」と思うかもしれませんが、実はそうではありません。
仮に、例として挙げられたグループが、「ポジティブなもの」であっても、ひとつシンプルな間違いをすれば、おなじ「争いやいさかい」が起きるのです。
たとえば、ポジティブなグループとして「運動部」やら「吹奏楽部」なんかを上げてみましょう。
バスケ部や野球部は、みなが同じ目的や意識を持って、それを共有しながらポジティブに練習に励んだりするものですが、そこでもいさかいが起きる場合があります。
それは、メンバーの発言が、
「I(わたし)」
「you(あなた・おまえ)」
メッセージになった時です。
たとえば
「わたしはこの間の試合でホームランを打った」
「おまえはこの間の試合でミスを犯した」
「わたしがソロを吹きたい」
「おまえは楽譜よみ間違ってたやろ」
という「アイ」「ユー」の話をし始めると、必ずいさかいに繋がります。
「これを片付けていないのは誰だよ」
という変化球バージョンもありますが、誰=「おまえ?それともおまえ?」なので、これも「アイ」「ユー」の話です。
このように、グループのテーマがポジティブであっても、ネガティブであっても、集団において「アイ」「ユー」の話が出ると、それはたいていの場合、諍いへと発展してゆくわけです。
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何か辛い体験をした人たちが集っている場合、特にこれは起きやすいので、メンバーには一番最初に
「アイ」「ユー」発言には気をつけようね!
という約束を共有しておくのがよろしいかも。
「私はこんな大変な体験をした。あなたにはわからないだろう」
「あなたは恵まれていたからいいわね。わたしとは違うわ」
という「アイ」「ユー」発言が出てくると、特にセンシティブなネタを扱うグループでは、これはもう収拾がつきません。
では、どういう風に話をすればいいかというと「We(わたしたち)」発言に置き換えることがベターです。
Aさん、Bさん、Cさん、Dさんの体験はそれぞれ異なるわけで、それは絶対理解し合うことはできないため、その中から「共通項=わたしたちに共通すること」をテーマにしてゆくことが重要です。
もちろん、それぞれの個人的体験を話してはいけないということではありません。
当然ながら、Weが導き出されるのは「I」「you」の積み重ねですから、個人的体験がないと集団的共有も生まれません。
しかし、最初から最後まで「アイ」「ユー」に固執すると問題になるわけですから、「アイ」「ユー」発言は、「ウィー」を見つけるためにあるんだ、というこの一点をしっかり守ることが大切なわけです。
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私は昔、教員をしていて、また大学で心理学の一部も勉強したのですが、心理学と言うのは、一般的には「カウンセリングのように、個人の悩みを聞いたり解決するもの」と思われがちです。
しかし、それは心理学の中でも
臨床心理学
という、ぶっちゃけていえば「王道ではない、異端のようなもの」(ごめんね、言いすぎ)であることを知っておく必要があります。
本来の心理学は「統計学」に近い、数学のかたまりです。
” 100人の人がいて、これこれこういう場合に80人の人がこういう風に反応し、10人がこちら側にズレて、10人が反対側にズレる。よって8割の人はこうだと言える ”
みたいのをどんどん集積していって、人の心の動きのありようを計測してゆくのが心理学のベーシックな部分なわけです。
この視点で言えば、人々の個々の体験は集約されてしまい、「They(ゼイ)=彼ら」の話としてまとめられます。
彼ら、つまり対象者としての「群れ・層」で把握してゆくのです。
マーケティングで、M1層・F1層みたいな言い方をしますが、まさにあれです。
10代男子はこういう傾向、20代主婦層はこんな感じ、みたいな「層」で見る視点です。
教員も入試の際には基本的に層で見ます。個性を大事にしよう!なんて言いながら実は個人個人の特性を見るのは最後です。
そうしないと個人の持ち味合戦を行うと「公平で平等な入試」になりませんから、最初は得点層・行動の層でみて、最後に個性を加味します。
つまり、入試得点が何点から何点の間の子はどういう層で、出席日数や部活動の行動がこれこれこういう群はどういう層だ、と見てゆくのです。
そして、もっと恐ろしいことに、「こういう層の子供たちは卒業時にこういう進路になる」ということは、おおむねわかっています。
高校入試ともなると、その後の3年間での伸びしろや、部活動でのその後の活躍もおおむね読めるのです。こわいでしょ?
もちろん、教師はその後の個人の頑張りを否定はしないし、応援するのですが、今度は確率論で言えば、8割方は入学当初の見立てのまま進み、そこから外れるのが2割くらいいる感じで、毎年おなじような動きになります。
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さて、そろそろまとめです。
同じ体験をしているメンバーが、「かつての思いや気持ちを整理する」ためには、We(ウィー)発言を大事にする必要があるとすでにお話しました。
そして、その人たちが今度は、そこからステップアップするためには「They(ゼイ)視点」が必要になってきます。
つまり、当事者でありながら、自分達が抱えている課題を客観視する必要があるということですね。
当事者でありながら、客観視しないとどうなるかというと、新橋で飲んでいるサラリーマンのおっさんみたいになります。
つまり「俺たち、つらいよね、苦しいよね」といいながら、ずっと退職するまでクダをまくだけです。
せっかくの「体験者・経験者の会」があり、メンバーの生活がより豊かになることを考えるのであれば
「アイ」「ユー」を遠ざけて、「ウィー」から「ゼイ」へと発展させる
工夫が必要です。こうしたことは、早い段階からメンバー全員の共通理解をもっておくほうがよいかもしれません。
このことを部活動で置き換えると、
「我々は何をするのか(ウィー)」
「みんなで何ができるのか(ウィー)」
「外のチームと比べて、このチームはどこが違うのか、どうダメなのか、どう変えるのか(客観視・ゼイ)」
を前提として、その中で
「わたしはどうしたい、どうする(アイ)」
が生きてくるというわけです。
アイだけで完結するのであれば、そもそもグループは不要ですから、その人は一人で勝手に努力するでしょう。
お役に立てましたでしょうか。
2020年2月6日木曜日
■リベラルは小金持ちの幻想である
自由 博愛 平等
というのはフランス革命に由来する、「民主主義の根幹」みたいなものですが、 ここにきてそうした
「リベラル」「自由主義」
のベースが揺らぐような事態が次々に起きています。
私達日本人から見ると、遅れているアジアに対して、欧米というのはもっともっと民主主義が進んでいるのだろう、と思っていましたが、実はそうではなく、
「人種や民族に対する差別はまだまだ残っていて、それを言わない余裕があった」
だけだと判明してきました。
その余裕の中身は、平たくいえば「お金の余裕」にしか過ぎません。
欧米各国は世界でひとあし早く先進国になり、経済的にも成功したからこそ、「勝者の余裕」「富者の余裕」で他者にも優しく出来ただけ、ということだったわけです。
ぶっちゃけ。
そうしたことは、特にヨーロッパでの移民批判や、イギリスのEU脱退、トランプ大統領などの保守派の台頭、ポピュリズムなどで知られるようになってきましたが、ここへきて
コロナウイルスによるアジア人差別
は中国人どころか、アジア人ならみんなひっくるめて差別対象、という事例が激増しています。
米紙も報じた「中国人は日本に来るな」(文春オンライン)
https://bunshun.jp/articles/-/32338
などの記事をみると、その裏側表側がよくわかります。
そもそも、欧米人からみると、アジア人は区別がつきにくく、日本人だろうが中国人だろうが、タイ人マレーシア人であろうが、実はよくわからない、という実態は昔からありました。
それが、表向きは、「日本は先進国である」という「お金の力」もあって、かろうじて欧米でも
「まあ、仲間には入れてやるけどさ」
というランクに上げてもらっていたわけですが、 今回のようにコロナウイルスのようなイレギュラーな事態が関係すれば、すぐ本音が出てきてしまいます。
つまり、
「近寄らないでほしい、帰ってほしい」
ということです。
そうなると、結局のところ、どんな先進国、民主国であっても「差別なんか実際はなくなってはいない」のだと気付かされます。
それが今まで少しでも「隠れていた」のは、結局は経済的な余裕が、心の余裕を生んでいただけなのだな、ということが、
世界の真実
として明らかになってきただけで、 これはもうことわざにもあるとおり
「貧すれば鈍する」
ということに過ぎなかったことがバレてしまうのですね。
結局、リベラルにおける博愛や平等というのは、ノブレス・オブリージュの変形みたいなもので、
もともと貴族に自発的に課せられた「金持ちの義務としての規範」を、市民階級が「フランス革命によって、金持ちの立場になったから受け継いだ」だけであって、金がないのだったら(あるいは市民階級から没落したのであれば)
そんなことは知ったこっちゃねえ!
というゲスな本性が表に出てきただけに過ぎなかった、ということなのかもしれません。
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そうすると、現代は「自由・平等・博愛」が進行し、リベラルな社会が進んで行くように見えながら、その一方で、それらがどんどん失われて、
「リベラルは金持ちだけに適用される」
という方向へ進んでゆく可能性も視野に入れる必要があるのかもしれないと思います。
もしかすると、あと30年、50年もすれば、「あの頃には、自由で平等で中流な世界があったんだよ」という昔話になってしまうことだって、考えられなくないわけで。
おそろしい話です。
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