2016年2月24日水曜日

中島義道が斬る、ゲス川谷、ベッキー、宮崎議員、桂文枝の不倫騒動

 不倫は文化だ!


と、石田純一さんは実は言ってないのですが、みなさんいかがお過ごしでしょうか?


 まあ、石田氏の場合は「(不倫のような)忍ぶ恋から文化や芸術が生まれたりしますよね」ということを言っただけで、


 それはまったくもってそのとおり!


とこの武庫川散歩も石田純一さんの肩を持ちます。向うは、私のことをいっさい知りもしませんが。




 さて、週刊センテンス・スプリングさんが放った「文春バズーカ」第一弾、ゲスの極み乙女川谷さんと、ベッキーさんの「ゲス不倫」騒動、そして、宮崎元議員による「ゲス育休不倫」騒動の第二弾、そして桂文枝さんの「愛人さんいらっしゃい!不倫」騒動の第三弾に至るまで、まさに



 現代日本の文化として不倫が存在する



ことを見せ付けられた2016年でした。




 さて、そんな不倫に対して、あの哲学者である、われらが中島義道先生が、ひとこと哲学的視点からモノ申しておられることをみなさんは知っていますか?



 というわけで、今回の記事は



「哲学者 中島義道が斬る!不倫は哲学だスペシャル!」



をお届けしようと思います。



~~~~~~~~~~


婚約破棄した男は「不誠実なダメ人間」なのか
http://toyokeizai.net/articles/-/102182

(東洋経済オンラインより)




 詳しいことは、まずは中島センセイの記事を読んでいただければわかりますが、まず、哲学の大前提として


”そもそも、善いとか悪いとかそれはどのような意味なのか”

とか

”悪いという行為を人はなぜ悪いと知っていてやってしまうのか”

とか、そういう本質的な問題が哲学であって、「これは善いとかこれは悪いとか、そういう次元の問題ではない」ということを理解しておく必要はあります。



 そういう意味では、「不倫は悪い」と一般的に思われていて、ゲスとベッキーと宮崎氏といらっしゃい!氏は断罪されるべきだと思われていますが、


そもそも、彼らは悪いのか?


というところから問い直さなければいけないのです。




 ワタクシ、武庫川散歩は、解脱者の立場から


「不倫はいけない」とか「不倫はよい」とかそういうことは言わない


ことにしています。善悪の基準を持ち込むことはせず、ただ


「この世に不倫は存在する」


と考えています。



 ここまでは、中島先生も同じです。不倫はある。それも、よくある。けっこうある。


じゃあ、そんなにある不倫について、「人はなぜそれを悪としているのか」が問題だというわけです。



~~~~~~~~~~


 哲学の答えは、けっこうカンタンで明解です。


 中島先生は、「自分もふくめて、人というのは気分屋で、ころころ気が変わったりその時の気分が前に言ったことと逆だったりする」ということをまず認めます。



 こういう気持ちの変動や変化は、ただ「この世において・わたしの中に・誰にも存在する」ということがまず認められるわけです。



 しかし、その気分によって、前にしていた約束と違うことを実行したり、あるいはお金を払う契約をしたのに払わなかったり、注文したものが届いてからキャンセルしたりすれば、


「相手が損をする・損害を受ける」


から、それは社会をスムーズに進行できなくするので、「悪」とされる、というのです。




 しかし、こうした欲求の変動は、人間として自然なものです。それでも、一貫性や契約やそうしたことが重要視されるのであれば、


「それは人間の本性や本質的な部分から出てきているのか、それとも、後付の単なる取り決めなのか」


を考察したい、それが哲学だ!というのです。




 思えば武庫川散歩も、19歳の時にこのことを悩み続けました。


 最も古い法のひとつとされるハムラビ法典というものがあり、それに


「なんちゃらをしてはいけない」


とか


「なにそれをすると罰する」


とか、そういうことが書いてあるのですが、果たしてそれは



「王がそう決めたから、その命令に従わなくてはいけないから人はそういうことをしないようになったのか、それとも、人はもともとそういうことがマズイと思っていたけど、王はさらにそれを明文化しただけなのか」


をずっと考え続けて夜も寝られませんでした。



 ああ、19歳の私はすでに哲学者だったのです!



~~~~~~~~~~


 本題に戻りましょう。


 不倫をするとなぜいけないのか。中島先生は、もうひとつそこに「情緒」が介在するといいます。


 情緒とは、「情が移って可哀想」とか「申し訳ない気持ちになる」とかそういう感情論です。


 情緒主義を取る哲学者たちは、結婚や約束や契約などは、「守らないとダメだよね」という情緒に支配されているので、たいしたことはない。心変わりも情緒だし、守るつもりも情緒なので、守ろうが破ろうがたいしたことではない、とするというわけです。




 しかし、現実的には、「不倫をすれば責められ、炎上し、CM契約を打ち切られて、議員を辞めなくてはいけない」のです。



 中島先生は、この原因は近代ヨーロッパの「ロゴス中心主義」にあると見ています。


 ロゴス中心主義では、人間は理性的であるとされます。ロゴスというのは言葉であり論理です。


「結婚という約束」=契約という論理です。


「結婚するという意志と意思表示」=首尾一貫する論理的言説なのです。



それに反する不倫は、理性的ではない。野蛮で動物的である、というわけですね。


 道徳的であることは理性的であることだし、理性的で合理的な生活を送ることこそが「善であり理想像」だとするのです。


 そして、そちらのほうが、”人間の本性”だという立場が近代欧米の発想なのです。





 しかし、逆にいえば、


「不倫をしてしまったり、約束を破ったり、仕事をめんどくさいと思ったり、時にはサボったり、感情的で情緒的な言動をとってしまい、薬物に手を出したり、6股をかけたりするのも、人間」


なわけで、それを善いとか悪いとか言うよりも、


それもまた、人間の真実


なのです。


 哲学者はそのせめぎあいの中に真実を探り、解脱者はそのあやふやさの中に無常を見いだすのでありました。



0 件のコメント:

コメントを投稿