2015年3月28日土曜日

「怒り」はなぜ生じるのか。 怒りとは何か。

 悟りを開いてからというもの、ワタクシ武庫川散歩は全然、というか全く「怒り」というものを覚えなくなったのですが、おかげで日々穏やかに暮らしています。


 そりゃまあ、そうですな。解脱してるのに俗世のことに逐一怒りを覚えるのは矛盾しています。この世は無常、無常ったら無常なんだから、そんなん別にどうでもいい(笑)


 ・・・とまあ、そう言いたいところですが、つい先日珍しく「怒りに似た感情」のようなものを感じたので、なんにでも興味を持つ、欲の塊である武庫川散歩は、



 はて、この感情はなんだろう?



とそれを追求してみることにしました。


 すると、面白いことに気付きました。最弱解脱者を持って、さらに怒りを生じさせしむるところの原因とは一体なんなのか。これはなかなか奥深く・そしてさらなく解脱に通じるものが潜んでいるのです。


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 さて、怒りです。 そもそも、あの日、正常で穏やかなる心で過ごしている武庫川散歩さんに何があったのでしょうか。


 ええ、実は武庫川さんは、ツムツムしてました。ツムツムって何?という人は、ネットで調べてください。まあ、簡単に言えばゲームです。


 ツムツムが嫌いな人は、ドラクエでもモンハンでも、七並べでも脱衣マージャンでも何でもいいのですが、ようはゲームをしていたわけです。


 ・・・え?解脱者がゲームするのかって?しますよ?それが何か?

 解脱者がゲームをしようがしまいが、そんなことは無常で色即是空なのだからどうでもいいのです。別に、ゲームをしたいという欲望にまみれてしているわけでもありません。

 通勤電車の中で、時間をもてあましてちょっとスマホでゲームをしてみるとか、そんなもんです。どうしても解脱者はゲームをしてはいけないというのなら、そうしたい人はそうすればよろしい。


 ワタシはどっちでもいいです。別に(^^


 ・・・さて、話は戻ってツムツムしてたんですが、そうすると幼い武庫川散歩のこどもがちろちろやってきて、スマホの画面に指を出していろいろ操作をしよるわけです。


 まあ、簡単にいえば、本人はお手伝いのつもりかわかりませんが、私とおんなじように、指先で画面を触ってボムを消しよるのです。


 そこで、最弱解脱者武庫川散歩は、ひるみました。



 「お、おおおおっと。ちょっとまってくれ。君の指のせいで画面が良く見えない。ぶっちゃけていえば邪魔!」


という感情が、にわかに巻き起こったのです!!!


 よく考えてみると、・・・いや考えるまでもなく。所詮ゲームですから、ワタクシ武庫川散歩は、最初からゲームをすることに価値を置いていません。別に高得点を狙っていたわけでもない。

 子どもが嫌いなわけでも、彼がいやがらせでそれをしているから否定的になってるわけでもないのです。

 しかし、余計なことをされたことに、「怒りの感情」の芽が萌え出たことだけは確かです。


 平たくいえば


「いらんことするなアホ!いまお父さんがゲームしてるんやから触るな!」


という怒りの感情なのです(笑)


 そして、その瞬間。解脱者武庫川散歩ですから、


「はて?別に何の価値もおいていないゲームであり、別に真剣にとりくんでいるわけでもないのに、なぜこうした感情に襲われるのだろう。悟っちゃわないと!」


と思ったというわけです。



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 読者のみなさんの中には、



「そりゃあんたが、解脱者とか名乗っているけど本当には解脱していないから怒るんでしょ」


と論破なさる方がいるかもしれません。そうなんです。ワタクシ、真性解脱じゃなくて仮性解脱だったんですね。


 まあ、そんな下ネタはさておいて。真性だろうが仮性だろうが清潔にしていればよろしい。


 わたしも、仮に仮性だったとしても心は清浄です(^^


 一皮むけたいい男をめざして頑張ります。



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 当ブログのファンの方からみれば、そもそも武庫川散歩が「本当の解脱者かニセモノの解脱者か」を議論するブログじゃないことは百も承知の上でしょうので、ここはその問題はすっとばして次へいきましょう。



 ここから、まじめに進めます。



 怒りという感情は、上の事例の場合「ゲームに集中しているところへ、他者から、故意ではないにしろ介入を受けた」ということが原因になっています。


 これ重要!


 いいですか?怒りというのは、自分とそれ以外の存在がいて、「自分という存在に対して、他者が攻撃や介入、あるいはなんらかの反対の提示をする」ことによって起きるのです。


① 攻撃される。 ・・・これはわかりやすいですね。どつかれたら「何すんねん!」と思いますよね。怒り発生です。


② 介入される。 ・・・話してるところに割って入られたり、車で横入りされても怒りはおきます。


③ 反対の提示。 ・・・憲法9条守ろうな人が、「憲法改正しようぜ」ポスターを見るだけで怒りです。



 もっとつっこんで言えば、「他者が自我に対して、自我と逆の提示をすること」が、怒りの源泉なのです。



 ゲームの場合は、たとえどうでもいいゲームでも、ゲームをしている主体である自我に対して、他者が、「自分の進めようとしているゲームに対して介入的な」提示をしたので怒りが生じたのです。



 もっと平たく言いましょう。


「主体が、客体から主体の意図と反対の提示を受けただけで、怒りは生まれる」


のです。



 世間では「はだいろ」のクレヨンやら色鉛筆が無くなったそうですね。「はだの色は人種によって差がある」というクレームがあるから、ペールオレンジに名前が変えられました。


 はだいろは誰も攻撃しないし、はだいろはあんたの肌の色に介入しないけど、怒る人がいるのです。


 つまり、「人は自分の考えと違うものごとを見ただけで怒る」とも言えるわけです。ああ、しょーもない!人はしょーもなさすぎる!



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 さて、では真の解脱者はどうすれば、こんなに単純な「怒り」を超越できるのでしょうか?


 実はこの問題に、さらなるステージの「超解脱」のためのヒントが隠れていました。


 そうです。「この世界は無常でどうでもいい」と思っていても、怒りは覚えてしまう。なぜか。


 それは、あなたやわたしに「自我」があるからです。ワタシという主体があるから、主体と反対のものごとを提示されるだけで怒ってしまうのです。


 では、真の解脱を得るためには、「主体」を超えればいいということなのではないか!と誰でも気付きますね。



 そう!その通り。簡単に実行するには「自分。ワタシ。自我」という主体を、飛び越えればいいのです。


 こんな書き方をすると、なんだか難しそうですが、やり方はとっても簡単。


 自我や主体、自分について意識するときに、同時に客体で他者、天上からの視点を同時に持てばいいのです。


 たとえば、ゲームをしているのであれば、画面に注力するだけだと完全な「主体自我自分」ですが、その瞬間に、それをしている自分を客観視できる視点を持つことができれば、主体自我自分に溺れることはありません。


 ゲームをしていると同時に、小さな画面に拘泥しているしょーもない小さな男がそこでうつむき加減に必死で指を動かしている姿を自身の中に見出す、これが怒りを生むでしょうか。



 この客観視ができた時点で、「怒る」必要はありません。そもそも、怒りの源泉であった「主体」が「客体」と一体化しているから、怒りは生まれないのです。




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 「主体と客体の合一」は仏教でも説かれる概念ですが、一般的な仏教解釈では



「わたしとあなたの境目がなく溶け合った状態。世界はひとつ」


みたいな解釈が添付されることがあります。そっちが好きな人は、エヴェンゲリオン映画版でも見て楽しんでください。





 また、哲学者の西田幾太郎も「主体と客体の合一」を説いていますが、そちらでは、


「たとえば愛のように、わたしがあなたと合一する、対象と合一する」


などの意味合いで使っています。こちらだと、自分の愛する人が傷つくと自分も悲しいように、主体と客体が独立しているのに、痛みを感じるなどを挙げています。


 しかし、武庫川散歩はこれらの説とはあんまり関係ないですね。


 武庫川散歩のいう「主客合一」とは、自分という主体自我、わたしの視点観念イメージと同時に、それを横から見たり、神様みたいに上からみたり、あるいは対象の目線でみたりできることを指します。


 自分という枠にこだわらない。


 自分というものに固執しない。


 自分を飛び出た視点で見る。


 
 それが、武庫川散歩の超解脱です。ハンドパワーです。




 



2015年3月27日金曜日

また久しぶりに「中島義道」さんがやらかしているので面白い。 ~哲学塾からこんにちは~ 一読おすすめ

 東洋経済オンラインさんで、またあの「中島義道」さんが面白連載をやらかしてくださっているので、ご興味のある方はご一読あれ。


 中島義道さんを知らない人もいるでしょうが、


 知らんのやったら帰れ!



とは申しません。(申しとるがな)

 ええ、この世界はどうせ死んでなくなるんだもん。はあと。ということをモットーに生きておられる哲学の先生です。ああ、もしかしたら本人は先生だなんて思ってないかも。


 そう、簡潔に言えば 哲学な人 ですね。


 そんな中島センセイの新連載は


 哲学塾からこんにちは
 http://toyokeizai.net/category/tetsugakujuku


 から読めますのでどうぞ。別に私は回しもんではありませんが、どうぞ。


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 さて、当ブログのファンなみなさんにとっては、中島氏のある種の面白さについてはすでにご存知でしょうが、上の連載では哲学を求めていろんな

 変なヤツ・いかれたヤツ・コミュ症な人たち

がやってきては、消えてゆくさまなどが描かれています。

 まあ、そうした愉快な仲間たちを、どうでもいいと思いながら一喝しておられる話が多いのですが、ぶっちゃけ、中島先生は結果として至極まっとうなことを言っておられることに、読者のみなさんはお気づきでしょうか?


 真の哲学者になるにはどうしたらいいか!


 いいですね。私もどちらかというと宗教家としてはたいしたことをするつもりは毛頭ないので、(いえ、頭に毛はあります)、せめて哲学者として生きてみようかな、と思ったり思わなかったり。


  しかし、中島氏によれば、真の哲学者になるにはいくつかのルールがあるようです。


① まず、自分の中に強い哲学的問題・課題があること。

② 他者とコミュニケーションがとれ、凝り固まった自説に執着しないこと。

③ これまでの哲学者の唱えてきた話をきちんと踏まえていること。

④ 主観的世界を客観的に説明できること。


など。


 これ、面白いですね~。哲学者として、必要な「哲学的なその人なりのツボ」があるのはまあ、いいでしょう。しかし、自分のことばっかり話して他人の言うことをまったく聞かず、おまけに哲学の歴史について勉強もしておらず、自分の世界だけで逝っちゃってる、ヤツが多いから


 そいつらはダメだ


と一喝なさっているのです。

 いやいや、哲学者以前に、ふつうの社会人としても彼氏としてもダメじゃん。


 ということはですよ。中島氏ほどの倒錯的哲学者をもってしても、


「人間として基本ができてないと、哲学もクソもねえよ」


ということが結論なのだとすれば、すごいことです。


 そもそも、ふつーの人から見ると、哲学者なんてのはすっごい変わっていて、話が通じなくて、なんだかすごそうなことを言ってるけど、さっぱりわからない人種なんだとおもいがちですが、そうではないということなのです。


 目的意識がハッキリしていて、相手の意見をきちんと受け入れ、過去の資料をしっかり頭に入れながら話し、とても説明がわかりやすい人


がベストな哲学者なのですから、 まるで、


 すっげーデキる営業マンとか、すっげーいい人なビジネスマンとか、そもそもモテルよね彼


ってことですよね?結局。リア充じゃないですか。


・・・・そういうのが全然ダメだから、哲学の道へ入ろうと思っている人には、完全に


氏ね


と言っているようなもんです(苦笑)


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 さて、そんな人たちを尻目に、その上で「より一層哲学者たる者」とはどんな人たちかを説明なさっているので、ぜひこれもどうぞ。


 本物の哲学とは。


 哲学のコア(中心)部分とは。


 そんな話が出てきます。


  中島氏によれば、究極的には「存在」と「認識」の話こそが哲学のコアだと言っておられます。


 存在、つまり「あるとはどういうことか」です。

 認識、つまり「いるとはどういうことか」です。


 あるのか、ないのか。わかるのか、わからないのか。 同一なのか違うのか。


 そうした単純な問いが、哲学の本質だといいます。




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  当ブログのファンであれば、「ああ、なるほど」とちょっと腑に落ちた点があるのではないでしょうか。


「ああ、存在と認識の話は、「色即是空・空即是色」に似ているな」

とか

「この世界は存在するのかしないのか、いっつも武庫川散歩が言ってるやつだな」

とか

「いちばん小さいものは、それ以上壊れないとしたらそれは何なのか」

とか  


「武庫川散歩が、存在しないのに『いる』と感じているこの人生はなんなんだ、とかほざいてるな」


 とか。



 そう!実はこのブログで話していることは、宗教のようでいて哲学の話だったりもしたんですね~。



 武庫川散歩は、いつも考え続けています。もう、とりつかれています。


この世界は何なんだ!

この世界を知覚しているワタシは何なんだ!

この世界は存在しているのか!

このパンツは、誰のなんだ!

そして、あんたは一体誰なんだ!


 まあ、そんなことを日々夢中になって考え続けているのです。



2015年3月20日金曜日

地下鉄サリン事件から20年という節目 解脱をめぐるエトセトラ

 20年前の今日、3月20日。日本中を震撼させるようなテロ事件がありました。奇しくもこの20年前1995年は、阪神淡路大震災という現代未曾有の自然災害もあり、日本という国家のあり方が大きく

「揺さぶられ、試されることになった転換点」

になったように思います。


 さて、その地下鉄サリン事件を起こした人物は、自称「解脱者」を名乗っており、解脱を求めて修行していた教団組織は、同時に人身を傷つけるテロ組織と化していたことがわかったわけです。


 あれから20年、首謀者の裁判はまだ続いており、最終局面を迎えてはいません。20年という時が経っても、被害に遭われた方の苦しみと怒りは消えることがないでしょう。


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 あろうことか、そんな凶悪事件を起こした集団と、偶然ではあれ同じ「解脱」というテーマを扱っているこのブログなので、ここではっきり、


 あっちの解脱とこっちの解脱の違い


説明しておかねばなりません。


 あっちの解脱に関しては、好きなようにお調べになればいいのですが、基本はなんかとっても最高な気持ちになって快感を得られるらしいです。



 以前にも、お話しておりますが、真の解脱は、気持ちよくなったり、浮いたり、ビームが出たり、何でもできるぜー!みたいな感じには一切なりません。


 快楽とか無縁です。むしろ、気持ちいいとかどうでもいい。だって無常なんだぜベイベ。


 ロックとヒッピーに詳しい人ならご存知の通り、そうした直接的快感とか、研ぎ澄まされた感覚をお求めな方は、いっそソッチ系のお薬を服用なさったほうが早いと思いますがいかがでしょうか?


 ・・・そんなもんです。そんな解脱は薬物レベルのしょーもないもんだということです。




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 肉体的な解脱感覚が、薬物でも得られるのだとすれば、それは所詮薬物レベルに過ぎません。

 超能力にしてもしかりです。


 スプーンを念力で曲げるより、手で曲げたほうが早いじゃありませんか。

 
 超常現象が手品で代用できるなら、「超常現象は所詮手品レベルだ」ということの証明にもなってしまうわけです。


 
 いいですか?ここでテストに出る大事なことをはっきり言っておきましょう。


 超能力や、超常現象は、人間が物理科学の力で出来ること以上のレベルのことを実現できていない。


ということ。これがすべてです。ということは、仮に超能力が存在していたとしても、それは物理科学技術を超えることはできないということです。



 では、この世界の物理科学を超える超常現象とはどんなものか、考えてみましょう。



① 人類っていうか、なんか新しい生き物を手のひらから生み出してみて、新種決定!


② ブラックホールを部屋の片隅に出現させてみて、町消滅。


③ ロケットより、自力で飛ぶ。もう成層圏まで行って帰ってきてゆっくり着陸。


④ 水中で生活。エラ呼吸で10年くらい生きてみる。


⑤ ダイオウグソクムシ以上に小食で、かつ動かないで飼われてみる。


⑥ アメリカの大統領になりすまして3年くらいバレない。


⑦ ウルトラマンくらい、でっかくなってみる。




 こんだけいろいろやっても、おそろしいことに大半は物理科学レベルに留まっているんです。


①は超えてる。神以外やったことない。

②は物理科学現象の範囲内。だってブラックホールはすでに存在するから。

③はちょっと超えてるかな。推力が不明だし。

④ 魚類と同等。べつにすごくない。鰯レベル。

⑤ もう完全にダイオウグソクムシれべる。

⑥ いろんな意味で物理科学の範囲内だけど、実現したらすごい。
 
⑦ 現代の物理科学は超越してる。これはすごい。



 こういう風に考えると、インドのなんとかさんが手の中からブレスレットを出すとか、べつにどうでもいいと思いませんか?僕だってポケットからブレスレットくらい出せますよ。

 インドの何とかさんが、鼻の中から美女を出したら、私は一生ついてゆきます。


 日本のテロ事件の首謀者は数センチ浮いたらしいですが、ほんならライト兄弟は超解脱者ですな。


 
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 真の解脱とは、そういう肉体的・物質的にふつうの人類でも提供できることとは、完全に無縁なのです。


 じゃあ、3の倍数で気持ちよくもならないし、おだてても何にも出ないのであれば、解脱することになんのメリットがあるというのでしょう。



 それは、めっちゃ簡単。


 苦しみから解放される


ということです。


 ぶっちゃけ、苦しみから解放されるのは薬物でもできますので、某イスラムなテロリストは、薬物を摂取してわけわからんまま自爆とかするらしいですね。


 地下鉄サリン事件の首謀者さんは、拘置所で実の娘が面会に来ていても、その前で自慰行為するそうですから、


 別な意味で解脱


してしまっているのかもしれません。もう、完全にあちゃらの世界です。


 そんな、変な意味で解脱したい人は、どうぞお好きなようにしていただいてかまわないのですが、真の解脱を得たい人は、そうした過ちを犯さぬように、正しい道を求めてほしいものですね。



 話がそれてしまいました。


 解脱ということばが、悪い意味で一人歩きする歴史が刻まれた昨今。まあ、あれからもいろんな宗教が現れています。

 ワタシ武庫川散歩は、別に衆生を救いたいとか、間違った人々を正したいとか、選挙に出たいとか全然考えていません。

 このブログでも書いているとおり、本来の解脱は個人が勝手に会得して幸せになるものなので、



「他の人なんて、別にどうでもいい。だって無常なんだし」



というところが、グサリと本質だったりします。



 そんな悟り・解脱でもよければ、たまにこのブログをみてニヤニヤしてやってくだされば、それで十分です。


 ばっははーい。





 




2015年3月18日水曜日

<17>ボクは原理主義者だった ~エホバの証人の王国会館から飛び出した少年の話~

 これまで「書く書く」といいながら、ちーっとも書いていなかった話があったので、忘れないうちに書いておこうと思います。

 そうそう、ワタクシ武庫川散歩が、解脱に至る上で踏んだいろんなプロセスのうち


「神様とケンカした話」


については、これまでこのブログで、チラつかせながらきちんと書いていませんでしたね。


 というわけで、今回はこのネタをしっとりとお届けしようと思います。


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 ♪盗っすんだバイクで走り出す~

というのは言わずとしれた尾崎豊の「15の夜」ですが、私にも若い頃がありました。




 そう、あれは中学生の頃だったかな?たぶん、12か13か14か15の昼もしくは夜の話です。


 その12か13か14か15くらいの少年が、泣きながらとある建物から飛び出し、無我夢中で走り出しているのです。顔面がぐちゃぐちゃになるくらいの号泣で、道なき道を走っています。

 ああ、あれは昔のワタクシ、武庫川散歩の可愛らしい少年姿に相違ありません。

 いったいそのあと、どうやって家に帰ったのかとか、今となってはいっさい覚えていませんが、武庫川散歩少年は、


「エホバの証人の王国会館」


からたった1人、涙を流して飛び出していったのでした!



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 えーっと、ここで解説をしておきますが、最近はあまりネタやニュースにならないので「エホバの証人」を知らない人もいるかと存じます。


 エホバの証人というのは、キリスト教の新興宗教のひとつで、アメリカや日本では相当数の信者を有している「原理主義的」傾向を持った宗教なのですが、


 いっちばんわかりやすい例で言えば、「輸血をしない」信者


で有名です。なぜ、エホバの証人が輸血を拒むのかといえば、カンタンにいうと「聖書にそう書いてあるから」で、基本的に彼らは「聖書原理主義」の傾向が強く、エホバ(ヤハウェ)の神にかなり強い直接的な信仰心を持って生きています。



 さてそのエホバの証人、今週も日曜日になると、日本のどこかで玄関をピンポンして2人組みで回っていると思いますが、あの中に可愛いワタクシもいたわけです(^^


 当時、うちの両親が(熱心かどうかはわからんけど)一応夫婦揃ってエホバの証人になっており、幼き武庫川散歩少年も、「2世信者」として教会に通っておりました。


 ちなみに、エホバの証人は、「バプテスマを受けて正規メンバーになる」ものと、そうではない「聖書を学んでいる期間の人」という2段階の構成員がいるのですが、うちの両親は正規メンバーで、ワタクシはまだ「バプテスマ」を受けていない段階でした。


 まあ、この辺は専門的なので、ようは「出家信者か在家信者か」「洗礼を受けたか受けてないか」ぐらいに聞き流してくれればOKです。



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 さて、そんな環境で育った武庫川少年は、なんと言っても「キリスト教の神を心から信仰して育って」いますので、


□ 当然、輸血は拒否する

□ 当然、暴力反対。(剣道の授業を拒否る)

□ 俄然、神以外賛美しない。(学校で校歌を歌わない。授業は不参加)


などの、超バリバリ信者として活躍していました。小学校時代には、ジャングルジムの上から同級生を集めて


「神について説話する」


という、まさにクリスチャンのかがみのような生き方をしていたわけです。



 聖書に書いてある教え、エホバの証人の中心である「ものみの塔聖書冊子協会」の教えには、もちろん忠実でしたので、まさに


「歩く原理主義者、少年ジハード野郎」


を地でゆく、強烈な行動派だったことを覚えています。なるほど、昨今のイスラム原理主義における、テロの理屈とか、自爆とか、ワタシも少年原理主義者でしたので、いわんとするところはわかります。


 さすがに、エホバの証人の教えには、「誰かを傷つけろ」というものはなかったので、テロルな行動はありませんでしたが、


音楽の授業中に、先生の指導を完全無視して口を開かず、『神の教えにより、わたしは神以外賛美しません!』


なんてやってましたので、破壊力はMAXだったと思います。先生ごめんね。ややこしくて。


 ふつうの人にはわかりませんな。そもそも、校歌が「元気な僕らほにゃ校生~」とか歌っているのもダメなんです。


 神以外賛美するなと聖書に書いてあるから。



 ・・・まあ、そんな筋金入りの「本気野郎」だったので、あるとき同級生の女の子に呼び出されて、

(その子も、おなじエホバの証人の信者の娘だった)



「武庫川くん、どうしてそんなに頑なに頑張ってるの?」

「じゃあ、なにかね。君は、本気で神を崇拝していないのか」

「・・・学校では多少融通してもいいじゃない、と思うの。今のままだったら、あなたがとても浮いてしまうもの」

「フン、きさまなど地獄へ落ちればいいのだ!」


なんて会話があったくらい、ボクは心から神へこの身を捧げていたわけであります。


ちなみに、音楽の成績は1でした。1でした!!!!!!いちでした!!!!!!



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 そこまでやるほどの信仰者だった私が、神様とケンカする羽目になったのは、とてもカンタンなことです。


 本気と書いてマジと読むぜ



というバリバリ原理主義者のワタクシですから、当然、聖書を最初から最後まで読もうとします。 


 そうすると、「創世記」くらいを読んでいるうちに、



ん?


とか


へ?


とか


が?


とか、そういう感じになる箇所に何度も出くわすハメになるのです。



 どこのキリスト教系教団でも、「神・主・エホバ」というものの立ち位置は共通です。


 まずは、世界を創造し、人を作り、でもその人がサタン・悪魔に惑わされたので、原罪を負ったということ。そして、神は愛と父性で、その罪を許してやろうとしてイエスキリストを使わす、ということ。

 この世が悪で満ちているのは、サタン・悪魔にすら優しく「ほな、あんたがいっぺん世界を統治してえみなさい」と許しているからであること。


などなどですが、基本的に、神は全能者であり愛に溢れるお父さんなのです。



 しかし、聖書を最初から読むと、全然違うことが書いてあるわけ!



「違う宗教を信じている異国民をブチ殺せ!ひとり残らず始末しろ!」


「俺は妬む神で、ひがむ神なんだぜ。ちがう神を崇拝するやつは火の海だ!」


「俺のいうことを聞くやつは可愛がる。そうでないやつはこんな目やあんな目だ」


「俺の力をきちんと伝えるヤツには、約束の土地をやろう。ただの預言者がでしゃばるな。お前の力じゃないんだ。お前はでしゃばったからここで死ね」



 
 おまけに「俺への信仰心があるかどうか、長男を殺して示してみろ」とかそんなことまで言い出すわけです。

 もう、基本的にピー(自主規制)です。



 言ってることは、某国の将・軍サマーと全く変わりません。もともと、砂漠の神は、そういう神だったんです。


 だ・か・ら


 バリバリの信仰心を持っていた、少年原理主義者は泣き出したのです。


 エホバの証人の王国会館で、まさに集会が行われているその中で、聖書を読んでいた武庫川少年は、号泣し、すっくと立ち上がります。



「あなたが、本当の神なのだとすれば、ボクはあえてあなたと対峙する!あなたが真の神だと言うのなら、ボクを滅ぼせばいい!地獄にだって悪魔にだってなってやる。しかし、はっきりと言っておく、ボクはあなたを信仰しない!」



そう叫んで、少年はそのまま王国会館から走り出しました。





 ・・・たしかに神はいるかもしれない。しかし、キリスト教の神はほんものではない。

 ・・・いや、もし仮にエホバが本物だとしても、僕はエホバに仕えるつもりはない。

 ・・・そのためにハルマゲドンで滅ぼされ、地獄に落ちようともそれでかまわない。

 ・・・背教者でもいい、悪魔と呼ばれてもいい。これが僕の真理だ!!!!!



 そう思いながら、走る。走る・走る。走る。転ぶ、走る。また走る!


 少年はこうして、もっとも信仰に富むものからサタンと変化したのです!



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 というわけで、キリスト教原理主義者だった武庫川散歩は、より一層、



果たして、僕が捨てた神は、本当はどんな存在なのだろう



ということを、既存の宗教を一切排除した状態で探ろうとはじめます。
 


 その結果が、このブログにつらつら書いてあるわけですが、簡単に言えば、



神は、だいたい妬んだりしねーよ



ということに尽きます。



 自分の言うことを聞く民だけを救う神なんて、そもそも器がショボイのです。



 真の神、それもこの世界を作った神ならば、そんな低レベルのことであれこれ思うことは一切ありません。


 そう、つまり、神は意識なんてもたないのです。



 ・・・まあ、ここから話し出すと長くなって夜興奮してみんな寝られなくなると思うので、今日はここまで。


 そんじゃーね。


(↑ちきりん風。神について「自分の頭で考えろ」ということです)



2015年3月17日火曜日

■『悟りを開きたい』あなたへ ~初心者でも簡単!誰にでもできる解脱講座~

CMです。


『春!新学期からはじめる解脱!とびっきりの悟りを開いちゃう4月コース開催!』


『誰にでもできる解脱!~じつはこんなに簡単だった悟りの開き方~』


『ちょっぴりオシャレに悟っちゃおう!ライバルに差がつく解脱コーデ』


『馬でもわかる念仏講座!サルでもキジでも悟れます!』


『今なら無料で悟りを開ける!心もカラダも解脱できる、おためし期間スタート』


『あの修行がたったの数週間で!ビックリするほどの解脱体験をあなたに!』



・・・・いやあ、つぎつぎとめどなく作れそうな、解脱と悟りの商品コピーからスタートしました。どうも、孤高の解脱者こと、武庫川散歩です。


 こんな風に書き連ねていると、ほんとうに悟りを開いたり解脱するのが簡単に思えてくるからすごいですね。


 それだけ世の中のコピーライターの方々は、テクニックを駆使しながら我々を消費生活にいざなっていることがよくわかります。


 いったい、のっけから何をやっているのか不思議に思われるかもしれませんが、このブログのコアなファンにとってはおなじみのスタートですのであまり気になさらぬよう。


 それ以外、検索からやってきたみなさんにとっては、「求めていたものとなんか違う」と思われると思いますが、


 こ、ここで帰らないで!とりあえず最後まで読んでって!


という気持ちですのであしからず。



 まあ、世の中には本当に「悟りを開きたいなあ」「苦しみから逃れたいなあ」と思っておられる方がたくさんいることは事実ですし、そうした方にできるかぎり何かを伝えたいと思っているワタクシ武庫川散歩なんですが、


 とりあえずは、他者からみても


『武庫川さん、いつも楽しそうね。ほんとお気楽なんだから!』


と言われそうな雰囲気をかもし出すことに務めております。


 だって、解脱してるのに根暗とか、解脱してるのに辛気臭いとか、解脱してるのに毛が濃いとかおかしいでしょ?

 あ、毛が濃いのは脱毛でしたね。えへ。


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 と、今回もやっぱりいつもどおりの悟りを開ききった底抜けの明るさではじまります。



 悟りを開きたい、と思いながらこのブログを訪れ、いつもなんだか狐につままれたような気持ちで帰ってもらっていることは承知しているのですが、おそらく全てのみなさんが



苦笑/失笑という名の笑み



を浮かべて当ブログを読み終わり、ほんのちょっとハッピーな気持ちになってお帰りになっておられることと信じております。


 ぶっちゃけ武庫川散歩本人に在ったらびっくりしますよ。なんてったってチビでデブで加齢臭がはじまっているのですから!

 ああ、ちなみにハゲではないです。それだけは大丈夫。


 ・・・なーんて。


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 さて、本題。


 誰にでもできる解脱講座、というタイトルとつけましたので、悟りを簡単に開くための秘密の手法について説明しておきたいと思います。


 と、そのまえにせっかくなので、あなたが望む「解脱」への道の適性をチェックしておきましょう、ということで。


カンタン悟りチェーック!


を最初に試してみてください。


 誰にでも悟りの世界が体験できるように、とっても楽ちんな方法で、あなたの悟り適性を確認しておきましょう。





<かんたん”悟り”チェックの方法>


TSUTAYAかゲオに行って、スタジオジブリの「かぐや姫の物語」を借りてきてください。


ちょっと長めの映画ですが、ポテチとコーラでもいいので食欲にまみれながら見てください。


映画が終わったら、あなたが「居たい・住みたい・行きたい」世界をチョイスしてみましょう。



チョイス①   かぐや姫が育った田舎へ行きたい、田舎で暮らしたい。

チョイス②   都で生活したい。

チョイス③   月に戻りたい。いっしょに飛んで行きたい。




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では、適性チェックです。




①を選んだあなた。

 悟り適性50%です。もしかしたら悟れるかもしれませんが、その前に自然食品とかオーガニックとか、ヨガとか、そういう「悟り」そのものより、それっぽい「自然派ナチュラルカルト」に進んでしまうかも。

 過激な人だと脱原発の運動家になったり、宗教にハマったりするタイプですね。リーマンやめて突然田舎ぐらしをはじめたりする「北の国からの五郎さん」タイプでもあります。




②を選んだあなた。

 悟り適性20%です。そもそもあなたの場合、悟りたい、という気持ちは「現状でうまく行かない」からそれから逃れたいだけで、どちらかといえば、「ビジネス書」とか「自己実現系セミナー」とかそっちにハマってビッグになりたいんだ!というほうが合っているかもしれません。


 悟りをひらくとビッグにはなれないので要注意です。自己啓発セミナーに通うと、一応はその気になれるので解脱するよりお勧めです。




③を選んだあなた。

 悟り適性90%です。まさに解脱者に向いています。すでに仏頂面で無感動・無関心のまま、そのまま月へ飛んでいっても全然問題なく、祖父母兄弟や友だちなんかも気にせず捨ててしまえそうなところが「悟り適性」ありです。

 
 田舎も都会も、自然も科学もまさにどうでもいい、できることなら一生俗世に関わらずに生きていたい、という超人ぶりは、まさしく阿弥陀如来に匹敵です。

 
 そんなあなたにとって、別に月でなくても、土の中とか筒の中とか、行ける場所ならどこでもいいはず。いっそ、即身成仏もお似合いです。埋まっちゃいましょう。



 
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 前回の記事で、実は「かぐや姫の物語」を取り上げていますが、そういうことなんです。

 「悟りの世界の向こう側」を覗くことは、実はカンタンです。誰だって、解脱はできるんです。



 問題は、本当にあなたはその世界に行きたいのか?ということ。



 解脱して、すべての煩悩から解き放たれたいのが本心なのか、それとも欲にまみれていても生き生きとした生の実感を得たいのか。



 そのへんの本音を、しっかり叫び、声に出すことがまず大切なのです。



 あなたが本当に、すべてを捨てたいなら、捨ててしまえばいいことです。


 そうではなくて、あなたが本当は生の充実を得たいのであれば、いますぐ悟りを得ようとするなんてやめておしまいなさい!

2015年3月14日土曜日

スタジオジブリ「かぐや姫の物語」を読む ~”悟り”のための神話~

 昨日は、テレビ初放送ということで「かぐや姫の物語」をご覧になった方も多いことでしょう。

 今回ワタシもじっくり拝聴したのですが、原作の「竹取物語」に忠実な部分もあり、また翻案されている部分もあり、楽しく見ることができました。


 ところで、全体を見終わって、ひとつ実に簡単な感想をいただいたことがあります。


 それは


「ああ、これは悟りと解脱の物語なのだ」


ということでした。


 象徴的なのは、やはりかぐや姫が月へ帰るシーンで、月からの迎えがなんと


「如来来迎図」


状態になっているところだと思います。


 如来来迎にしては、奏でている音楽がやたらポップだったのは苦笑しましたが、まあ、簡単にいえば


「美しいかぐや姫を、ホトケさんが迎えに来る」


絵になっているわけです。ちょっとシュール。



 ふつうのイメージだと、月からの迎えはどちらかといえばこの世のものではない高貴な何か、という描かれ方をしそうなものだと思いますが、ジブリ版「かぐや姫の物語」では、そのものズバリの如来像だったのでなかなか面白いわけで。




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 さて、そうした絵柄になっているのも、もちろん製作者の意図があります。竹取物語の舞台となっているのは、奈良時代の初期、登場人物のうち


阿倍御主人、大伴御行、石上麻呂


の三人は実在の人物なので、話が奈良時代だとわかるのです。


 この奈良時代、奈良の東大寺で有名なとおり、「仏教バリバリ」な時代です。この現世は穢れていて、すべての煩悩を取り去った清浄なる世界が悟りのあちら側だと考えられていたまさにその時代の話であるので、映画で描かれているように、


「月の世界は悟りの向こう側、清らかで迷いなき世界、対して地上の世界は不浄である」


という世界観は時代背景とマッチするわけです。


 ちなみに、「讃岐のみやつこ」ことかぐや姫のおじいが、お金と身分とぜいたくな暮らしや名誉にまみれてゆくさまは、たしかに現世の煩悩をイメージさせます。


 いっぽうのかぐや姫は、「草木やけものや虫の世界」のすばらしさを常に感じ取っているわけですが、この部分は監督の創作です。


 竹取物語の根幹でいえば、「聖なる月の世界と不浄なる地上世界」の対比構造だけをみることになります。



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 さて、このように、「かぐや姫の物語」の基本構造に「仏教的悟りのあちら側と、煩悩なこちら側」が舞台装置として設定されていることがわかるわけですが、ではあなたは、いったいどちらの世界に幸せを求めるでしょうか。


 ここが、「かぐや姫の物語」を説くカギとなります。


☆注意☆ 「竹取物語」本体ではなく、あくまでもジブリの「かぐや姫の物語」の観点です。



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 一般論でいえば、悟りをひらくというのは、俗世の欲から解き放たれて、無欲で清浄なる世界へ到達することを言います。


 つまり、月の世界へ帰ってすべてを忘れてしまう、あるいは何も感じなくなることを指します。


 地上の世界の人間は、さまざまな欲を持っており、5人の公達に代表されるようにみな嘘つきであったり、不誠実だったりするのです。


 かぐや姫のおとんですら、名誉と地位に心を奪われてしまいます。


 そうした地上世界の醜さと対比される月の世界は、たしかに「解脱の向こう側」にあると言えるでしょう。


 しかし、かぐや姫の観点は違います。その聖なる世界を否定こそしませんが、「生きとし生けるものの自然な世界」に対して憧れを抱き、そのためにそれを罪として地上に落とされるわけです。


 あるいは、物語中に出てくる「羽衣の天女(いちど地上に行った事がある)」もそうだし、月へ帰る途中のかぐや姫もそうなのですが、「草木やけものや虫たちの世界」にうしろ髪を引かれて涙を流すのです。



 これはいったいどういうことか。


 監督の意図を想像すると、


①地上の世界は、たしかに汚れているし、問題もある。

②ただし、自然と協和した農村社会も存在する。

③農村社会万歳というわけではなく、もちろんそこにも問題や苦しみ悲しみは存在するだろう。

④しかし、完全に清浄な世界よりも、問題はあっても人間らしい地上のほうがすばらしい。


ということになるでしょう。


 単純な「都会はダメ、田舎は良い」という話でもありません。その証拠に、おとんや捨丸といった主要な登場人物はみな都会でも田舎でも姿を現します。あるいは、都会における侍女は、最初から最後までかぐや姫のよき隣人として描かれます。

 つまり、究極的には


「人間の世界と神仙の世界とどっちがいいか」


という対比でもあるわけです。



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 悟りを得ようとすること、解脱して解き放たれたいと願うものは、「無感動無関心な月の世界」を求めていることと同義です。


 解脱して、すべての悩みから解き放たれることは、すべての喜びすらどうでもよくなることなのです。


 このブログを書いている私は、解脱者ですから、基本的にすべてが「無常であり、どうでもいい」ことに気付いています。


 しかし、仏教が求める解脱は、その時点で止まっていますから、実は真の意味での解脱にはそこからもう一歩先があるのではないか、と思うのです。


 それが「かぐや姫の物語」では描かれています。


 一度は解脱して、無常な世界・清浄な世界・ニュートラルな世界を知っている者にとって、


「苦しみも悲しみも、汚さも含めて、生きとし往けるものの世界は、輝いている」


ということに気付くことは、「悟りの先にあるもの」ということになります。



 このブログの書き方で言えば、


「この世は存在しないに等しいのに、それを存在するかのように感じ取る機能が与えられているのだから、それを味わおうよ」


というスタンスと全く同じです。


「嫌なことや苦しいこともあるけれど、その体験はすばらしいものなんだ」


ということです。


「全てが無常でどうでもいいんだから、守るべきものなんでひとつもないので、全部楽しんじゃえよ」

ということなのです。



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 かぐや姫は月に帰ってしまいましたから、その楽しみを味わうことはできません。


 しかし、地上に残された人間は、かぐや姫の存在を知れば「ああ、自分たちはむしろ幸せなんだ」と気付くチャンスがあるわけです。



 あなたは2度悟ることができます。



 1度目は、この世界が無常であって、なきがごとしであるということの悟り。


 2度目は、だからこそ、この世界であなたが感じるすべてが輝いているということの悟りです。


 
 ブッダは、一見すると一度目の悟りだけを説いたように思いがちですが、そうではありません。彼は恐らく、2度目の悟りまでふくめてわかっていたはずです。


 なぜなら、彼が解脱した直接のきっかけは、スジャータがもってきてくれた乳粥にあるからです。


 「ああ、私は生きている」


 という生の喜びを実感したとき、彼にはきっとすべてが繋がったのです。




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 ・・・とまあ、今回ははじめて全編おふざけなしで書きました。この武庫川散歩、やればできる子だというところも、たまには示しておきます(^^


 この記事を最初に読んで、他の記事も読んでみようと思われたあなた、やめといたほうがいいです。


 今日はとてもおだやかですが、いつもは



 ゲスの極み


みたいな口調で書いてますので、幻滅するに違いありません!



 それではみなさま、ごきげんよう。
 





2015年3月13日金曜日

「ひきこもり」とは何か ~現代の修行僧か、それとも~

 ひきこもり、と呼ばれる状態にあるものが、また罪を犯したとのことで、世間は騒がしいようです。

 ひきこもり、ニート、無職、ネット中毒など、それに関連するさまざまなワードや状態が渦巻いて、なんだかドロドロと屈折した雰囲気をかもし出しているのも、恐ろしい今日このごろ。

 というわけで、今回は、世をトキめく「ひきこもり」の世界について、解脱を交えながら解説してみようと思います。


 さあ、この文章を読んでいるネット上のあなた、ひきこもりについて理解を深め、そこから何がしかの悟りを得ることができるのでしょうか?乞うご期待!


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 俗世を離れて、誰とも会わず、どこともコミュニケーションせず家に立てこもっている人、それを「ひきこもり」と称するようですが、そんな彼らを現代の修行僧のように見立てる意見もあるようです。


オノ・ヨーコ 「ひきこもりは現代の禅僧侶」
http://news.mynavi.jp/news/2007/12/10/004/


どこかの校長先生 「ひきこもりではなく、修行僧」
http://www.at-mhk.jp/chairmanblog/post_505.html




 まあ、たしかに「外界と遮断されたところで、俗世とまじわらず生きる」という意味では、修行僧のようにみえなくもないですが、それは表面的なところをかすっているだけだと思うのは、武庫川散歩だけではありますまい。


 ではまず、「ひきこもりと(出家)修行僧の違い」についてきちんと説明してみましょう。


 俗世と離れている、という点ではたしかに両者とも、一般の世界と交わろうとはしませんが、その目的が大きく異なります。


 修行僧の目的は、解脱して悟りを得ることです。すべてのものから解き放たれることです。

 即身成仏系の仏教においては、そのまま何も摂取せずに生きながらにしてミイラ化することを意味する場合もあります。



 引きこもりが、俗世との交わりを絶って、生きながらにミイラ化していることがあるとすれば、それは確かに「修行僧」と近いかもしれませんが、たいていの場合、そういう引きこもりはいません。


 もし、すべてから開放されて、にこやかに心の満足のままに引きこもっている人がいたら、それはたしかにホトケへの道を進んでいるといえるでしょう。

 

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 さて、お金を稼ぐ稼がないの視点でいえば、あまり修行僧とひきこもりを比較する意味はありません。国家や檀家による守護を受けながら、他者からのお布施で生きている修行僧と、お父さんやお母さんの守護を受けながら、実家からの金銭で生きているひきこもりは、あまり本質的に変わらないからです。


 そういう意味では、他者から施されて生きる生き方をはじる必要はないと思います。


 もし、引きこもりが恥ずかしいと思っているあなたがいれば、今すぐ「この引きこもり行動は即身成仏のためであって、このまま部屋から出ないで死ねば、この世界の哀れな衆生が救われるのだ」と思いなおして、鈴を鳴らしながらネットをするのもいいでしょう。


 「ああ、一階の電話のよこにある、ルーターのLEDがチカチカしなくなった、ついに息子は成仏して解脱したのね」


とお母さんに思ってもらうのも、なかなか感きわまるものがあります。



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 まあ、そんなことはありえません。なぜなら、引きこもりの方の心について、そうした見立ては完全に間違っているからです。


 では、「引きこもり」とは何なのか。その真の姿について問うてみることにしましょう。


 引きこもりの方の特徴は以下のようなものです。



① 外の世界で何か傷つくことがあって、その傷を勇気で克服することができない。

② もし努力して外部とコミュニケーションをとろうとしても、既にマイナスの判断をされるだろうと予想している。

③ 理想の姿の自分と、現在の自分の姿の乖離について十分理解している。

④ 基本的には繊細であり、自我を通すことが得意ではない。

⑤ 長期化すればするほど、復帰の道がどんどん狭くなることも理解している。



 つまり、簡単にいえば、「ひきこもりの状態が長引けば、いろんな意味で損であることを承知の上で、しかしながらそれ以上の逆回転にもってゆくための方策を見つけられない人たち」だということです。


 ぶっちゃけ、履歴書に空欄の期間があり、他者とコミュニケーションできず、何か核心を付かれるとしどろもどろにならざるを得ない状況で、それに傷つかずに跳ね除けることができるのは


 変態


以外の何者でもありません。


 例を挙げて考えて見ましょう。



 ある会社で偽の出張を繰り返して、特に城之崎に何度も行って、それが表ざたになったために号泣して釈明しているシーンがテレビで流されてしまった会社員がいる



とします。彼が、ほとぼりが冷めるまでしばらくどこかに身を隠していたとして、再就職のために面接に訪れたと考えてください。


「ところで、前職は何をなさっていたのですか?もしさしつかえなければ、おやめになった理由をお聞かせください。」


もうこの時点でグサグサ傷つくに決まってます!


「しばらくお仕事されていない期間があるようですが、どうされていたんですか?」



さらにグウの根もなくグサグサくるに決まってるでしょう!


 ・・・すでにこの時点で、面接官の目など見ることなんて不可能です。まともな人なら。



とまあ、こんな感じで、ふつうはひきこもりに陥ってしまったあと、挽回するのには大変な労力がかかるわけです。


 いわゆる「あなた・わたしの尊厳にかかわる部分をえぐられても耐える」という虐待プレイを跳ねのけねばならないわけです。


 
「いやあ、前職ではちょっとやらかしてしまいましてね!ええ、なんてことはないんですよ。この会社でも元気に明るくはつらつと頑張っていきますので、よろしくお願いします!」


と笑顔で面接を受けられたとしたら、ぜったいにこいつは変態ですので間違いありません!



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 現代において、引きこもりを脱出するには、引きこもり当事者に「変態になること」を要求するというムチャなプレイであることを理解いただけたでしょうか?


 グサグサくるあなたへのツッコミに耐え、あるいはうまくかわし、そしてそれを超えるようなポジティブさを表現して内定を勝ち取らねばなりません。


 あるいは、無事就職したとしても、「以前は何してはったんですか?」という同僚の何気ないことばに傷つき、おびえ、またそれをはぐらかしながら生きていかねばならないわけです。


 これは、永遠に続く無限地獄に相違ありません。ああ、いっそそれくらいなら、家でひきこもって餓死したほうがよほどマシかもしれない、ということなのです。




 さすがに、号泣会社員は例として飛びぬけているかもしれませんが、引きこもりになる人は、号泣ほどではないにしろ、何かしらの失敗や歯車の噛み違いを起こして引きこもりに突入します。


 一般人にとって、それは取るに足らないことかもしれないけれど、ヒキコモラーにとっては、それは号泣会見に匹敵するような黒歴史だったりするわけです。


 そこは、理解が必要でありましょう。



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 しかし、そうはいっても、だからといって悟りを開いた武庫川散歩は、「ひきこもりを許したり」はしません。

 ええ、一切許さず、成敗するのです!


 どういうことか?!

 さっき示したように、引きこもりに苦しむ人に「変態になれ」と強要するつもりなのでしょうか?


 違います。ぜんぜん、違います。



 解脱の観点からいえば、最初の時点からボタンを掛け違っているし、認識を間違っているのです。



 解脱者は、このように考えます。




 そもそも、この世界に起こっていることは無常でどうでもいいことである。


 ワタシ・アナタという存在も、さらにもうなんかどうだっていい存在である。


 頑張るも頑張らないも恥ずかしいも傷つくもクソもない、ニュートラルな存在なのである。


 そもそも、どうでもいいのだから傷つかないし、失敗を失敗と捉えるのは俗世の欲である。


 なので、失敗したら恥ずかしいとかそんな気持ちにすらならない。


 理想の姿とかも、俗世の欲が生み出した幻である。だれもが清濁併せ持つクソ野郎である。


 自分の意見があるとかないとかも、まやかしの一種で自己満足に過ぎない。


 履歴書に空白があることが悪だと誰が決めた?それは神か?少なくとも仏にとってはどうでもいい。


 前職をクビになってたっていいじゃないか、にんげんだもの。諸行無常なんだYO!


 
 
 そう、変態になれというのではなく、最初から飛び越えているのです。言って見れば、最初から変態だったので、困らないのです!!






 
 ・・・冗談はともかく、ひきこもりの方が抱いている感情の根底にあるのは、


「破壊されたくない自尊心」


にあると言っても過言ではありません。そう、彼らが守ろうとしているのは、


「自己の尊厳」


そのものなのです。


 これは、仏教的には、かなりの強欲です。煩悩そのものといってもいいくらいの悪です。


 専門的には「慢」というそうですが、


 
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%A2



 実は、引きこもりの人が恐れているのは、自分の心にひそむ醜い姿そのものだったりするわけです。



 だから、一刻も早く、そうした慢心を捨て、ニュートラルな姿に戻ってください。



 もし、無職で親に食べさせてもらっていたのであれば「さあ、そろそろ不労所得も終わりかな」とつぶやいてドアを開けて外へ出ましょう。


 無業期間について尋ねられたら「旅に出ていました」と答えたらいいじゃないですか。


 人と目をあわすのが嫌だったら、そいつのまつげと目を合わせてください。


 動きがたどたどしければ、いっそカクカクしながら「だめよーだめだめ」とつぶやけばOKです。


 理想の自分なんて捨ててしまいましょう。鏡に向かって「このクソ野郎!」と叫ぶのです。




 では、外界でお会いしましょう。