2015年10月30日金曜日

 中島義道が怒鳴る”バカモノ!マヌケ!アホ!シネ!”

 いやあ、今回も中島先生は好き放題言っておられますな。


 私も言ってみたい!



 バカ!アホ!間抜け!死ね!



なーんて。



 ・・・毎度どうも。稀代の解脱者!こと武庫川散歩です。





 稀代の解脱者、なんて言うと、あれですな。


 錠前のついた箱とかに入れられて、空中に吊るされて、火を付けられてどっかーん!

 とか、そんなことになっているのに、あら不思議。あちらをご覧下さい。


と見れば、笑顔で箱から抜け出してポーズを決めているという


・・・ああ、それは解脱じゃなくて、脱出でしたね。


 稀代の大解脱!木下大解脱!こと武庫川散歩です。あれ?さっきこれやったね。




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 毎回まいかい、わけのわからんツカミに付き合わされる読者もいい加減困惑なさっていると思いますが、そういうブログですので、以後よろしく。



 さて、今回も稀代の哲学者、中島義道センセイが好き放題言っておられるので、レポートです。




 東洋経済オンライン 哲学塾よりこんにちは から
http://toyokeizai.net/articles/-/89938




 今回先生が吼えておられるのは、簡単にいえば



「哲学をみんなが学べば人類は幸せになれるのに」


といった言説はすべて幻想で、



そんなわけあるかヴォケ!


だということです。


 そもそも哲学は生きるために必要な知識ではないし、生活の役には立ちません。哲学を究めても人類は幸福になったり、人生は豊かになったりしないのです。


 まあ、よく思い返してみれば、現代でも


「資本主義哲学と共産主義哲学のどちらが人類が営むべき社会体制として正しいか」


について、まじめに哲学され議論されているのに答えが出ないのと同じで、人類がみな哲学しても「生きるべきか死ぬべきか」「あれは誰だ、オレは誰だ」なんてことには答えがまったく出ないのです。



 しかし、中島センセイによれば、「それでも哲学することで救われる人がいる」から哲学する意味が少しだけあるのであって、そうなるとこれはますます



 哲学は解脱に似たり



と思わずにはいられません。


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 考えてもみてください。もし万人が悟りを開いてしまったら、この世界では経済が一切回らず、世界中の人たちがみな


「人生に悩みなんかないもんね~。空しいよね、涅槃だ涅槃」


と呟きながら横になってしまうわけですから、世界は完全に崩壊し、停滞します。



 誰もが、物欲も性欲も何もかも捨ててしまったら、恐ろしいことにモノは生産されないわ、子供は生まれないわ、一人ずつ絶滅してゆくだけです。



 そこらへんにある雑草を食べながら半裸でヒゲも髪の毛も伸び放題の男女が、のそのそと歩いている姿を想像して御覧なさい。



 まさに地獄絵図ではありませんか!!!!!




 ということはですよ。あなた!!


 人類にみな解脱してもらっちゃあ、困るわけです。世界は。


 解脱した本人は、すべてのものから解放されて満たされているかもしれませんが。あるいは、なんならそのまま即身成仏していただいてもかまいませんが、そんな風潮が蔓延してしまうと人類は滅亡するに決まっています。


 

 ベンガル虎とか、コウノトリとか、絶滅危惧種がですよ。食欲も失ってごはんも食べないわ、子孫も増えないわ、なんだか幸せそうに眠っているだけだとしたら、


 完全に絶滅するに決まってる


わけです。もう、二度とふやせっこありません。ワシントン条約万歳!!!




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 ということは、お釈迦さまでもブッダでもなんでもいいですが、彼が広めようとしていることは



けして社会体制をそうせよとか、万人受けするものではなかった



ということがわかるのです。


 解脱とか、涅槃とか、悟りとか、そういうのは極めて個人的な主観としてのセカイの捉え方



であって、物理的な実体そのものであっては大変にマズイということです。



 それこそ哲学的にみて、


「このセカイは、諸行無常だよね」


としみじみするのはOKだけれども、



「このセカイは諸行無常ですので、法律も罪も罰もそんなの無意味です」


とマジでやられると困るわけです。




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 わたくし武庫川なんかは、



「このセカイは存在しないのだ!」



なんて嘯いていますが、



「じゃあ、ほんとに消し去ってやろうか」



とか言い出す独裁者がいたりしたら、これはマズイのです。



 地球上には、地球を何回も消滅させられるくらいの核兵器がまだあるそうですが、諸行無常を実行されてしまうと、それはもう取り返しがつかないくらいの無常なのであります。




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 ということはですよ。哲学することも、解脱することも、重要なのは



「個人が生きていく上で、悩みや苦しみ、そもそも抱いている未知なるものへの空虚さを解決する極めて個人的な手法」


として成立することなのであって、ポイントはやっぱりそこなのです。



 なあんだ。解脱って結局、個人的なレベルに過ぎないんだ~。



 そう思うと、すっごく解脱がチャラくて軽いものに思えてきませんか?それでいいんです。


 軽いんですよ。軽いの。あなたの存在が交通事故で一瞬に消えて亡くなるように、それくらい生の悩みも、解脱も哲学も



 軽くて儚くて、やっぱり無常なもの



なのです。



 ほら!またひとつ解脱したでしょ?





2015年10月20日火曜日

哲学的ゾンビは解脱者か、あるいは解脱者は哲学的ゾンビと化すのか。

 どうも、稀代の変態武庫川散歩です。


 ・・・変態変態言ってますが、某大臣のようにパンツを盗んだりはしません。


 いいですか?パンツは象徴であって、そこには例のものはないのです。女性の何がしかに興味をもつ十代の青少年男子がここにいたとして、彼が本当に望んでいるのはパンツなんかじゃないんです。


 そうだ!彼が本当に追い求めているのはパンツの中の・・・・!やめておきましょう。品がなさすぎる(苦笑)



 そんなツカミから入った今日のお話。一転して真面目に「哲学的ゾンビ」について考察します。



 小鹿のバンビでも、長靴下のピッピでもありません。そう、あの「哲学的ゾンビ」です。


 この哲学的ゾンビ、


「物理的化学的電気的反応としては、普通の人間と全く同じであるが、意識(クオリア)を全く持っていない人間」


として仮定される存在なのですが、ほんとうにそんな存在が実在するというよりは、人間とは何かを考える上で比較対照するために設定されたもの、と考えたほうがいいかもしれません。



 さて、この哲学的ゾンビは、普通の人間とまったく区別がつきません。


 あなたが話している隣の誰かが哲学的ゾンビだとしましょう。その人が人間じゃないかどうかはまったく判別できず、とにかく普通に反応し、普通に接することができます。


ところが、ここからはウィキの記述を引用しますが


【しかし普通の人間と哲学的ゾンビの唯一の違いは、哲学的ゾンビにはその際に「楽しさ」の意識も、「怒り」の意識も、議論の厄介さに対する「苛々する」という意識も持つことがなく、“意識(クオリア)”というものが全くない、という点である。哲学的ゾンビにとっては、それらは物理的化学的電気的反応の集合体でしかない。】


という存在だったりするわけです。


 さあ、こんな存在がいたとしたら、私たちはどうやってその人物との違いを定義できるのでしょうか?


というのが哲学的ゾンビの課題です。



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 しかし、ここであれ?と思いませんか??


 このブログでは再三、「解脱や悟り」について語っていますが、私たち人間が


「楽しいということも無であり、怒りもなく、いらいらもせず、ただ諸行無常にてそうろう」


という境地に達するとしたら、それはまさしく哲学的ゾンビなのではあるまいか、ということです。



 解脱者は、物理化学電気的には人間として生きているが、その意識はすでにあちゃらへぶっ飛ばしているのだとすれば!



 まあ、実際には解脱者や悟りを得たものは、「意識をすっとばして」はいません。よって哲学的ゾンビではない、ということになりますが、


 じゃあ、ヤク中の人は?


とか、


脳死の人は?


とか言い始めると、あやしくなってきますね。



 というわけで、解脱者が何をやっているのかということを再確認しておくと、まず、意識はちゃんとあります。


 しかし、その意識において沸き起こる各種情動(感情や生まれ出る神経データ・反応)のすべてに


 支配されないで、コントロールできる


というところがゾンビとの違いなのです。


 コントロールというと、これまた誤解を生む表現で、


「じゃあ、解脱者は自由自在に快楽を得られるのか」


とか


「意識を入れたり切ったりできるのか」


とか、そんなわけのわからんことを言う人がいるかもしれませんが、そういう意味ではなく、


「情動を意識の管理下に置くことができる」


という意味のほうが近いと思います。


 ほれ!原発のあれですよ。アンダーコントロールド。



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 ということはなんですか?


 人間というのは、2段階の脳によって形成されていて、動物的で生物的な機能を司どる中核部分と、論理的思考やいわゆる高等生物の意識を形成する大脳新皮質があるとして、


「大脳新皮質が、他のノーミソを管理できる」


ことを指すわけですな。


 
 ところが、普通の人間はこれができず、いわゆる動物脳・生物脳のデータに翻弄されるから苦しくて悲しくて楽しくていやっほい!なわけです。



 しかし、解脱者は、そのデータに翻弄されず「それが単なるデータであり、その他の意識と公平に扱うことができる」ということになるのでしょうか。



 ならば解脱者とは、もしかしたら人類を超えた超人類!なのかもしれません。(笑)



 いやあ、ドラゴンボールみたいになってきましたが、こういうのが好きな人は、どんどん悟っちゃってください(^^





 
 ってことはなんですか?

 もし、脳みそだけが機械に繋がっていて生かされており、そこに意識があるとしたら、動物機能・生物機能の大半は失われているわけですから、


 それって解脱してる?!


わけなのでしょうか?




「いや、どーせオレ、顔ついてないし。イケメンとかブサイクとかどうでもいいわ」

「いや、どーせオレ、味わえないし。無常だよね」

「いや、どーせオレ、何も感じないから。気にしないで」

「・・・っていうか、映像とか感覚とかはあるんだけど、でもオレなんにもついてないんだよね。実は」

「それより、オレいつまで生きてんの?電源切れたら死ぬの?痛いわけないよな。痛点ないし」

「おーい、誰かー。誰だよ、オレの脳みそ電極に繋いでんの。それって神ってこと?」

「もう、そろそろ飽きてきたし。・・・むしろ涅槃したいかも苦笑」


「・・・」


「・・・・」


「・・・・・・・むなしい。これってむなしいよね!むなしいって、こういうことなんだよね!きっと!げだつうううううう!」




 というわけで、解脱するってどういうことか、理解いただけましたでしょうか?