しばらく更新をしていませんでしたが、みなさんいかがお過ごしでしょうか?
ワタクシ武庫川散歩は、私的な出来事でここのところバタバタしており、ブログを書く時間があまりなかったのですが、本人は至って幸せです。
そういえば、今年武庫川散歩は厄年だったので、災厄のようなものがうじゃうじゃと悟りを開こうとする仏陀の邪魔をする悪魔のごとく襲い掛かってきたのですが、本人はのんきなものです。
さすがは解脱者、どんな災いがやってきても一向に介しません。
~~~~~~~~~~
そんなお気楽なワタクシのような人間がいる一方で、次から次へと災厄に襲われるというか、「不幸を呼び寄せている」ような人も存在するので、大変なことです。
私は普段、会社勤めをしている一見普通のサラリーマンなのですが、私の会社の部下でこんな人がいます。
①最近嫁はんと離婚をして、住宅ローンの残額と養育費を抱えている。
②滞納していた税金の差し押さえ通知が、会社に届いた。
③この間も、先日も交通違反で捕まった。現在免停一歩手前。
④タイヤがパンクした。
⑤嫁はんが買っていたウン十万の鍋のローンが払えない。
⑥腰痛が痛い。それはもう痛い。
数え上げれば、彼の不幸エピソードはなんぼでも出てくるのですが、自他共に認める
「どん底野郎」
という生活で、見ているこっちもハラハラどきどき、スリルとサスペンスです。
もちろん、いちおう武庫川は上司なので、税金の差し押さえを免れる方法を教えてやったり、免停前講習のために仕事を休ませたり、いろいろと相談に乗ってはいるのですが、根本的にはおそらく解決にはなりますまい。
彼の不幸な生活がしばらく続くであろうことは、容易に予想がつくのですが、なぜそうなってしまうのか、という根源については、彼はまったく気づいていません。
なので、ここらでちょびっと、彼が普段どんな生活をしているかを紹介すれば、みなさんにはその理由がすぐにわかることと思います。
①10代で結婚した。
②嫁はんと結婚していた時には、子供が4人もいた。
③現在の会社に出社する時間は、社員の中で最も遅い。
④取引先に、「ボクよくわからないんで、他の人に注文してください」と言ったことがある。
⑤家ではシャコタンにした車に乗っている。それもかなり古い中古車。
⑥転職歴3回。
なんとなくわかってきましたね。
そうです。彼はこれまでの人生をかなーり行き当たりばったりで生活しており、そのためお金もなく、給料が増えるような努力をすることなく、すべてをギリギリで生きているわけです。
なので、彼の人生の要素のうち、ひとつや二つが好転しても、基本的には彼の人生は不幸なままです。
彼が不幸の自転車操業に陥っている原因のひとつは、直近お金がないことですが、仮にまとまったお金が天から降ってきても、またおなじパターンに陥ることは容易に想像がつきます。
ということは、彼は
「結果論として不幸なのではない。生き方が幸せではないのだ」
ということになるわけです。
~~~~~~~~~~
では、人が幸せになる方法、幸せを引き寄せるにはどうしたらいいのでしょうか?
解脱者である武庫川散歩が、巷に広まっているいろいろな言説を差し置いて、ズバリと物申しておきたいと思います。
そのたった一つの幸せの法則とは、次の法則です。
”結果の幸せを求めるものは、幸せになれない。幸せな”今”を求めるものは、幸せな結果を手に入れることができる”
幸せな結果とはなんでしょう。
たとえば、お金持ちになりたい、とかブランドのバッグが欲しいとか、いい男と結婚したい、とか、最終結果としての幸せを求めることを意味します。
これを追求する人は、けして幸せになりません。
彼らは、お金を持っている寂しい人や、バッグを持っている貧しい人、いい男と結婚して浮気された哀れな女になるだけなのです。
では、そうではなく「幸せな今」とはいったいなんのか?
それは、生活や生き方のひとつひとつをより良いもの、幸せな方向へ向けることを意味します。
お金に苦労したくないのであれば、浪費せず慎ましやかに暮らすことです。
いい男との結婚ではなく、よき彼氏やよき友との出会いや関係を深めることです。
ふだんは質素なバッグを持ち、お金を貯めていつかブランドバッグを持つという夢を見ているこの時間が、幸せなのです。
こうしたことを積み重ねていけば、おのずと結果は後から必ずついてきます。
~~~~~~~~~~
ヒモ体質の男性が、たいしてかっこよくもなく、小太りでどちらかと言えばキモくても、女性に不自由しないのはなぜだか考えたことがありますか?
そこには、明確な「ヒモ体質の幸せの法則」がちゃんとあります。
一般的に、ヒモ男子は「あの人はだらしないけど、優しくてマメなの」と言われたりします。
これは、単純な言葉のようで、奥深いのです。
ヒモ男子が彼女に提供しているのは、最終結果としての「パートナーとしてのすばらしい男性像」ではありません。むしろ「ダメオトコ」を提供しているわけですが、しかし、彼は、
「女性を思いやり、丁寧な応対を心がけている」
ことは事実です。 これこそが「幸せである”今”」を提供しているということなのです。
【幸せな”今”なう】
の積み重ねこそが、真の幸せであり、それが結果の幸せを呼び寄せることは、知っている人はすでに実践しています。
先ほども言ったとおり、私はふだんビジネスパーソンですが、
「顧客応対を丁寧に誠実に積み重ねる」
ことで、管理職の地位を手にしています。ビジネスの成果ですら、まったく同じです。
「幸せな今、よりよき今の提供」
でしか、ビジネスの結果はついてこないのです。
~~~~~~~~~~
最後に、不幸を呼び寄せる法則を反面教師として列挙しておきましょう。これに当てはまる人は、現在すでにおそらくかなり不幸のはずです。そして、そこから抜け出せないことは、間違いありません。
①自分が楽できればいい、などの不誠実な対応をする。
②相手の利益よりも、自分の利益を考える。
③努力をしない。必死にならないまでも、意欲を持つことすらない。
④結果の幸せだけを夢想しており、日々の生活はそこから遠く離れている。
⑤ルール等に誠実ではなく、誰かに迷惑をかけたり、疎ましく思われている。
⑥嫌なことがあると、怒りを覚え、それを周囲に表現する。
⑦お金を貯めることではなく、使うことで喜びを覚える。
⑧虚栄心が強く、見栄っ張りである。
⑨誰かに何かをしてあげることがない。
⑩ていうか、めんどうくさい。
みなさんは当てはまるものがありましたか?
2015年8月22日土曜日
2015年8月11日火曜日
命を奪ってもいいのに、人を殺してはいけない理由 ~いのち、は殺しても良いという衝撃~
以前にも、一度「どうして人を殺してはいけないのか」という問題についてお話をしたことがありますが、
なぜ人を殺してはいけないのですか?
今回は、そこから一歩進んで考えると「おっそろしい事実」が発見されたので、その衝撃のお話をしておこうと思います。
まずは、みなさんにもびっくり仰天していただくために、人類の中で暗黙の了解になっている恐ろしい真実を先にお知らせしておきましょう。
それは以下のような事です。人類はなんと、
別に、命(いのち)を殺すことは全然かまわない
と考えているというのです!!! なんということでしょう!
・・・と、これだけ書くと、ほとんどの人は
「そんなことはない!人類は、命を殺すことについて大変厳しく臨んでいるし、そういうことを許してはいない」
と反論なさることでしょう。
・・・あまい!あまっちょろい!そんなことをいうのはどの口だ!!!
と、思わず武庫川散歩も大声を上げそうになりますが、よくよく考えてみましょう。
「人は命を殺すことをなんとも思っていない」という事実と、では「一体何を殺してはいけないと考えているのか」というもうひとつの事実を。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
まず、人類が命を奪っている事実を、しっかりと認識したいと思います。
「命」というのはなんでしょう。
それは、ただモノがモノとしてそこにあるのではなく、何がしかの生命活動をしていることを「いのち」と呼ぶわけです。
その意味では、私達は肉や魚を食べるし、草木植物を活動停止させて食にしていますから、基本的には
「いのちをいただいている」「いのちを奪って食としている」
ということは疑いがない事実であるということになります。
動物の中に命が宿っているという事実、またそれを奪って私達が生活していることを「重く受け止めている」人たちの中には
ベジタリアン
というライフスタイルを通して、なるべく命を奪わないように気をつけておられる方もいるでしょう。
しかし、ベジタリアンだからといって「命を奪っていない」ということにはなりません。確かに彼らは動物の命を奪ってはいないけれども、植物の命は奪っているからです。
ベジタリアンの中には、動物と植物の間には一定の線引きがあるようです。これは、命を考えるときに大きなヒントになるかもしれません。
動物にあって、植物にないであろうもの。「それを奪う」ことは、どうやらベジタリアンには許されざることなのでしょうから。
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話の見方を少し変えてみましょう。
もし、神が「いのちをむやみに奪うこと」を許さないのであれば、おそらく人類のすべては、その命令に背き、神から滅ぼされることになるでしょう。
なぜか?
それは、人はかならず、自分自身のいのちの分身を奪っているからです。
人が、次の世代にいのちをつなぐ方法はたった一つしかありません。
男性は精子を作り、女性の作った卵子と結合させて子供を作ることです。
ということは、精子はいのちの一部であり、卵子はいのちの一部であるわけですが、残念ながら人類は、すべてのいのちを助けることは不可能なのです。
どういうことか?
たとえば男性であれば、1回の射精において数億ものいのちを生み出しておきながら、そのいのちを継続させられるのはたった1いのちであり、その他はすべて死滅させることになります。
女性は人生で500個ほどの卵子を妊娠可能卵子として放出しますが、これまた残念ながら500個すべてを受精させることは不可能です。
ということは、男性女性とも「いのちの一部」を残忍ながら見殺しにしており、人生でわずか数個のいのちを人として育て上げることしかできていない、ということに気付かされるわけです。
(あくまでも「いのちを奪ってをならない」と考えるならば、そうなってしまいますね)
ですので、現実的には、捕食のためにも人は命を奪っているし、生殖においても多数の命を破棄していると考えるのであれば、
人は命を殺しつづけている
と定義できることになるのです。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
しかし、大半の人は、人が命を奪いつづけている事実からは目を背け、「自分たちは殺してはいない」と思い込んでいます。
これは、別の考え方を持ち込めば、たしかに成立するかもしれません。
そうです。人は「命は殺しているけれど、その他の何かを殺してはいけない」と考えているっぽいのです。
ベジタリアンが動物を殺さない理由、それは
「いのちを奪わない」
ためではありません。
でも、「いのちではない何かを奪わない」ということは、どうやら守ろうとしているようです。
その「いのちではない何か」とはなんでしょう。
それは、とてもわかりやすい言葉で説明するならば「意識」です。
以下のような言葉の例を考えてみてください。
■ 動物には意識があり、考えているからその意識を奪うのは殺すことになりいけないことだ。
■ 植物には意識がないが、動物には意識がある。なので植物は食べてもよい。
■ イルカには高度な意識があり、人間に近いので食べてはいけない。
■ 受精卵には意識がない。なので堕胎してもよい。しかし生まれた赤ん坊には意識がある。
こうした具体例を上げてゆくと、人類が守ろうとしている何かがはっきりしてきます。そうです、人は
「いのちを殺すことはやぶさかではないが、意識を殺すのはいけないことだ」
と考えているらしいのです。
こうして考えると、なぜ人が人を殺してはいけないとされているのか、その理由がわかってきます。
誰かが、誰かを殺すとその人の意識が失われます。いけないこととされているのは、意識を失わせることです。
ではなぜ、意識を失わせ、意識を奪うのはいけないのでしょうか?
それが許されるのだとすれば、今世界を知覚している自分の意識がもろく危ういものになるからに他なりません。
そうです。人は「自分の意識が失われることは、自分と自分をとりまくセカイそのものが瞬間にして消え去ることだ」とわかっているのです。
なので、「自分の意識が失われるようなことがあってはならない。なので(そこから想像するに)、相手の意識を奪ってはいけない」と考えているのです。
こうして「命は奪ってもいいのに、人を殺してはいけない理由」というものが出来上がりました。
人は自分の意識に近そうな動物をも殺してはいけないと考えるようです。興味深いですね。
2015年8月3日月曜日
帰ってきた勝手に人生相談シリーズ スペシャル その7 「勝手に中島義道と議論する」 ~稀代の哲学者と稀代の解脱者が勝手にバトル!~
夏真っ盛り。
今日も熱中症で熱中時代なみなさん、おはこんばんちは。あなたの血圧をそっとアップさせる解脱者武庫川散歩のヨタ話の時間がやってきましたよ。
わたくしは、いつも 東洋経済オンライン さんに連載されている中島義道センセイのネタをたのしくほがらかに拝読しているのですが、 今日は、
勝手に人生相談シリーズ、スペシャル!
と称して、勝手に中島センセイとの議論を楽しんでしまおう!という神回をお届けしようと思います。
この勝手に人生相談シリーズは、ネットに転がるさまざまな人生相談や悩みに対して、頼まれてもいないし、誰もみていないのに勝手に考えて勝手に答える、というどう考えてもまともじゃないコーナーなのですが、それなりに愛読者がいるようなので、わたくしの勝手な判断でだらだらと続いております。
~~~~~~~~~~
さて、今回の相談者、というか別に相談なさっているわけではないのですが、中島先生が勝手に何かお書きになっているので、わたくしも勝手に回答しようと考えております(笑)
元ネタはこちら
東洋経済オンラインより 「哲学者のほとんどが、はなはだしく独善的だ」の巻
http://toyokeizai.net/articles/-/78531
中島センセイの愚痴?はカンタンにまとめればこんなことです。
「たとえば、絵画を教えるといったことは、決まったルールがあったり、基礎基本的に体系が作り上げられたものがあるので、具体的に説明したり、修正したり、手助けすることができる」
しかし、
「哲学というのは、 なぜそうなのか、ということを説明しがたく、あるいは、一見論理的に説明できたとしても、それの正誤をきちんと判定したりすることが大変に難しい。」
そして、
「で、結局哲学者の意見の交換は、独善的で自分の感情に寄ったものになってしまい、明確な結論が出たり、答えにたどり着いたりしない。」
のだそうです。
というわけで、哲学の議論たるものは、結局は感情的なものになり、誰も自分の説を曲げないし、むしろ哲学者が全身全霊をかけてその説について考え抜いているのであれば、いっそうそれに反する結果など求めず突っ走るのである、とのこと。
~~~~~~~~~~~
とまあ、こういう話を読めば読むほど、わたくしなんぞは、
「なあんだ、哲学者ってやっぱり当初の予想通り、ひねくれモノで頑固な変なおっさんに過ぎないのだ」
ということを確信するわけですが(爆笑)、哲学を知らない者から見たファーストインプレッションと、哲学を究めた中島センセイの結論がおんなじなのだとすれば、こんなに
可笑しい
ことはない!わっはっは。
~~~~~~~~~~
さて、中島センセイと議論したいことがあるとすれば、わたくしは結局次のようなことしか残されていないのではないか、と考えます。
哲学が、それぞれの哲学者や探求者によって多様な独善的解釈が可能となり、かつそれらの矛盾を突き合わせて、何がしかの真理真実を見つけることは難しい、というのが結論なのだとすれば、
「いったい全体なぜそんなはめになってしまうのか」ということを考えるのもまた、哲学の哲学なので面白いわけで。(入れ子構造になってますがね)
武庫川散歩的には、これは結局「哲学が生のありようというものをテーマにしている」から生じる問題点なのだと思われます。
そう!哲学っていうのは、「なぜなにどうしてわたしは生きているの?私の生きていることと、あの子が生きていることはどう違うの?おんなじなのだったらどうしてあの子とわたしは合体してないの?」という生に対する探求なわけなので、
そりゃ、多様な生に対する考え方が生まれても仕方あるまい、ってわけですよ。
~~~~~~~~~~
だとすれば、万人に共通する共通項を探り出せば、面白いことになるのではないかしら。武庫川散歩は、哲学の新たなる根源は、
「死」
にこそあれ、と思うのです。
これは奇しくも中島センセイのテーマと結局合致するのだけれど、多様な哲学もクソもねえよ、命あるものはみんな必ず死んじまうんだよ、ちくしょー!ということこそが、すべての哲学に連なる根源に思えて仕方ありません。
哲学だろうが、なんだろうが、構築されたものは、電源が落ちれば消えるのです。人類が哲学という資産をたくさん持っているように思えるけれど、太陽が寿命尽きれば、全部パーです。
だとすれば、東洋哲学と仏教が言うところの、「無常」観(実はやっぱり何にもないのよ)こそが、いちばん面白そうだと武庫川散歩はやっぱり思います。
~~~~~~~~~~
こうなると、感情的もクソもありません。どうせ死ぬんだもの。そっちの説が正しかろうが、こっちの説が正しかろうが、すべてかりそめの
「気分」
みたいなものに過ぎません。
いいんじゃなーい。別に。どうせ死ぬんだしー。
ということが根底にあればこそ、 自説に固執してそれを戦わせることに意味があるとは思えなくなるのです。
いいいですか?もし法が存在せず、ここに銃が存在すると想像してみてください。
あなたの隣には、何がしかの哲学を大いに語っているおっさんか若造かがいるわけです。そして、口の端からつばを飛ばしながら、
「これこれこうだ!こうあるべきだ!」
と語っているとしましょう。
その説が正しいか、その説が正しくないかなんてどうでもよいのです。
あなたが一発の銃弾を彼に打ち込むだけで、そんな哲学は消えうせる。一瞬のうちに。その哲学が存在していたかどうかなんて、どうでもよくなるのです。
彼はもう、その説を考えることなんてできないのだから。
なんなら、あなたが自分に向けてもう一発発射すれば、そこに哲学はありません。
静寂だけが残るのみ。彼が発した哲学の説を、覚えているものすら、存在しないのです。
それで果たして、「とある哲学がたしかに世界に存在した」と誰が言えるでしょう。
そんなものは、あってもなくても、どうでもよいのかもしれません。死の前には無力ですとも!
今日も熱中症で熱中時代なみなさん、おはこんばんちは。あなたの血圧をそっとアップさせる解脱者武庫川散歩のヨタ話の時間がやってきましたよ。
わたくしは、いつも 東洋経済オンライン さんに連載されている中島義道センセイのネタをたのしくほがらかに拝読しているのですが、 今日は、
勝手に人生相談シリーズ、スペシャル!
と称して、勝手に中島センセイとの議論を楽しんでしまおう!という神回をお届けしようと思います。
この勝手に人生相談シリーズは、ネットに転がるさまざまな人生相談や悩みに対して、頼まれてもいないし、誰もみていないのに勝手に考えて勝手に答える、というどう考えてもまともじゃないコーナーなのですが、それなりに愛読者がいるようなので、わたくしの勝手な判断でだらだらと続いております。
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さて、今回の相談者、というか別に相談なさっているわけではないのですが、中島先生が勝手に何かお書きになっているので、わたくしも勝手に回答しようと考えております(笑)
元ネタはこちら
東洋経済オンラインより 「哲学者のほとんどが、はなはだしく独善的だ」の巻
http://toyokeizai.net/articles/-/78531
中島センセイの愚痴?はカンタンにまとめればこんなことです。
「たとえば、絵画を教えるといったことは、決まったルールがあったり、基礎基本的に体系が作り上げられたものがあるので、具体的に説明したり、修正したり、手助けすることができる」
しかし、
「哲学というのは、 なぜそうなのか、ということを説明しがたく、あるいは、一見論理的に説明できたとしても、それの正誤をきちんと判定したりすることが大変に難しい。」
そして、
「で、結局哲学者の意見の交換は、独善的で自分の感情に寄ったものになってしまい、明確な結論が出たり、答えにたどり着いたりしない。」
のだそうです。
というわけで、哲学の議論たるものは、結局は感情的なものになり、誰も自分の説を曲げないし、むしろ哲学者が全身全霊をかけてその説について考え抜いているのであれば、いっそうそれに反する結果など求めず突っ走るのである、とのこと。
~~~~~~~~~~~
とまあ、こういう話を読めば読むほど、わたくしなんぞは、
「なあんだ、哲学者ってやっぱり当初の予想通り、ひねくれモノで頑固な変なおっさんに過ぎないのだ」
ということを確信するわけですが(爆笑)、哲学を知らない者から見たファーストインプレッションと、哲学を究めた中島センセイの結論がおんなじなのだとすれば、こんなに
可笑しい
ことはない!わっはっは。
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さて、中島センセイと議論したいことがあるとすれば、わたくしは結局次のようなことしか残されていないのではないか、と考えます。
哲学が、それぞれの哲学者や探求者によって多様な独善的解釈が可能となり、かつそれらの矛盾を突き合わせて、何がしかの真理真実を見つけることは難しい、というのが結論なのだとすれば、
「いったい全体なぜそんなはめになってしまうのか」ということを考えるのもまた、哲学の哲学なので面白いわけで。(入れ子構造になってますがね)
武庫川散歩的には、これは結局「哲学が生のありようというものをテーマにしている」から生じる問題点なのだと思われます。
そう!哲学っていうのは、「なぜなにどうしてわたしは生きているの?私の生きていることと、あの子が生きていることはどう違うの?おんなじなのだったらどうしてあの子とわたしは合体してないの?」という生に対する探求なわけなので、
そりゃ、多様な生に対する考え方が生まれても仕方あるまい、ってわけですよ。
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だとすれば、万人に共通する共通項を探り出せば、面白いことになるのではないかしら。武庫川散歩は、哲学の新たなる根源は、
「死」
にこそあれ、と思うのです。
これは奇しくも中島センセイのテーマと結局合致するのだけれど、多様な哲学もクソもねえよ、命あるものはみんな必ず死んじまうんだよ、ちくしょー!ということこそが、すべての哲学に連なる根源に思えて仕方ありません。
哲学だろうが、なんだろうが、構築されたものは、電源が落ちれば消えるのです。人類が哲学という資産をたくさん持っているように思えるけれど、太陽が寿命尽きれば、全部パーです。
だとすれば、東洋哲学と仏教が言うところの、「無常」観(実はやっぱり何にもないのよ)こそが、いちばん面白そうだと武庫川散歩はやっぱり思います。
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こうなると、感情的もクソもありません。どうせ死ぬんだもの。そっちの説が正しかろうが、こっちの説が正しかろうが、すべてかりそめの
「気分」
みたいなものに過ぎません。
いいんじゃなーい。別に。どうせ死ぬんだしー。
ということが根底にあればこそ、 自説に固執してそれを戦わせることに意味があるとは思えなくなるのです。
いいいですか?もし法が存在せず、ここに銃が存在すると想像してみてください。
あなたの隣には、何がしかの哲学を大いに語っているおっさんか若造かがいるわけです。そして、口の端からつばを飛ばしながら、
「これこれこうだ!こうあるべきだ!」
と語っているとしましょう。
その説が正しいか、その説が正しくないかなんてどうでもよいのです。
あなたが一発の銃弾を彼に打ち込むだけで、そんな哲学は消えうせる。一瞬のうちに。その哲学が存在していたかどうかなんて、どうでもよくなるのです。
彼はもう、その説を考えることなんてできないのだから。
なんなら、あなたが自分に向けてもう一発発射すれば、そこに哲学はありません。
静寂だけが残るのみ。彼が発した哲学の説を、覚えているものすら、存在しないのです。
それで果たして、「とある哲学がたしかに世界に存在した」と誰が言えるでしょう。
そんなものは、あってもなくても、どうでもよいのかもしれません。死の前には無力ですとも!
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