2014年10月29日水曜日

あの世は存在するのか

 めっきり寒くなってきましたがいかがお過ごしでしょうか?あなたの心をほんのり暖める武庫川散歩のお話の時間ですよ。

 でも、あまり長い時間当ブログに触れていると低温ヤケドすると思うので、気をつけて!




 さて、今日はモザイクまで超越した解脱者である武庫川散歩が、「あの世」はあるのか、について語ってみたいと思います。


 なぜ、突然あの世の話になるかというと、最近タヌキが車に轢かれて仕事場の近くの前の道路際で


 九相図


状態になっており、それを毎日変化を見ながら、「ああ、この世は無常なり。南無武庫川散歩、南無武庫川散歩」とついつい唱えてしまうからです。


 ちなみに、南無武庫川散歩というのは、勝手につくった言葉です。あしからず。


 ああ、九相図を知らない方もおられるでしょう。説明しておきます。




 ウィキペディアより 九相図




 うええええ!おええええ!ぎょぺーーーー!


となる人は、解脱には不向きですので、ヤホーのトップページまで戻ったほうがいいと思います。


 ちなみに、うちの会社の前のタヌキは、いまレベル8まで来ています。かなりスカスカになってしまいました。約1週間の出来事です。


 というわけで、通常の仏教徒であれば


「成仏してたも。南無阿弥陀仏南無妙法蓮華経」


と念仏のひとつでもとなえるところですが、あれ?よく考えれば仏教の輪廻転生では、信心をしないものは畜生に生まれ変わるんだっけ?


 ダメです。成仏しません。残念っ。



~~~~~~~~~~


 というわけで、仏教における成仏やあの世の概念はともかくとして、ワタクシ武庫川散歩の説くところの「あの世」はどうなっているのか、というお話を改めてしておきましょう。


 結論からズバっと言います。



 この世もないって言ってるんだから、あの世もないに決まってるやないかボケーッ!!!



 というのが公式見解です。ちょっと熱が入って小汚い言葉を使ってしまいましたが、お許しください。


 あの世なんてありません。死んだものが行き着くところなんて存在しません。


 死んだあとはなーんにもありません。ましてや天国も地獄もありません。


 
 ちなみに、ここでいろんな宗教の「あの世」についての考え方をまとめておきますが、



<仏教>

基本輪廻転生するって言ってんだから、またこの世に戻ってくるわけで、一時的にあの世っぽいところで三途の川を渡って閻魔様とご対面とかするとかしないとかを経ようが経まいが、

 やっぱりこの世に何かとして生まれ変わる


という思想ってことは、来世ってつまりこの世のことなんだっけ?


という状態です。(一時的なあの世説を取るのが、仏教ですな)


 そして、そういうぐるぐる状態を完全に離脱したら、ふわーんふわーんとした真の解脱状態へ行くことになります。輪廻からも解き放たれてるというわけですね。



<キリスト教とイスラム教>

 天国と地獄があって、信じるものだけ天国へいけて、それ以外の異教徒はみな地獄へ落ちることになっています。

 もうこうなると、どっちの宗教に入ると「当り」なのかという一種のバクチと化していますが、嬉しいことにどの宗教宗派の確率が高いか、


 競馬予想屋


のように、いろいろと教義を説明してくれる神父やら牧師やらがいるので、聞くのはタダです。


 まあ、究極的には、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教もおなじ神様を信仰しているので、そういう意味ではどっちでもいいのかもしれません。


~~~~~~~~~~


 さて、本命大穴かきわけて登場の「武庫川散歩」のあの世ですが、何度も言いますが、そんなものはありません。


 未だかつて、あっちのセカイとこっちのセカイを行き来した人間はおらず、


「死にかけて臨死体験」


ぐらいした人はナンボでもいるかもしれませんが、


「いっぺん死んできた人」


はこの世にいらっしゃらないのです。いっぺん死んで、「あの世」がこうだったよ、ああだったよ、と説明してくれた人がいない、ということがとても大事です。


丹波哲郎氏はあの世のエキスパートですが、残念ながら、いっぺん死なずに語っておられますので、公正な目で判断すれば基準をクリアしていません。


私の知っている「いっぺん死んできた人」は2人ぐらいはいるのですが、


イザナギ


キリスト


(イザナギ・・・奥さんをおっかけて黄泉の国へ行ったけど、蓋しめて帰ってきた)

(キリスト・・・処刑されたけど3日後に蘇った)


だけです。彼らは神様なので、人ではありません。残念。



 嘉門達夫さんのネタで、「見たんか!」というギャグがありますが、「あの世がある」と主張する人には「見たんか!」と突っ込みたくなるのは関西人のサガです。



 
 ・・・とまあ、観念的な話だと相手方との主張とは堂々巡りなので、武庫川散歩らしく、さらっとカッコよく決めてみましょう。


 まず、武庫川散歩の解脱的には、「人間が思考するということそのものが物理科学の原理によって引き起こされている」としています。



 考えること、感じること、意識。そういったものすべては電子であったり原子であったり、そういうものの働きによって成り立っているということですね。


 そこから翻って「神というのは意識をもつ存在ではなく、むしろ物理科学の事象そのものの領域に近い」と説明しているわけです。


 だとすれば、あの世がもし存在するなら、「あの世は物理科学的に定義できうる空間」だということになります。



 あれ?


 物理科学的に定義できる空間があるとしたら、それはこの世そのものじゃん!


ということになり矛盾します。


 だから、あの世はない、と結論づけるのですが、世の中には奇特な人がいて、


「あの世というのは、M78星雲のあのあたりにあってな」


と真面目に信じている方もおられます。宇宙空間の物理的な一部があの世に相当するのではないか、という比較的まともな発想です。



 しかし、そうなると死んだ人の何かは、M78星雲まで物理的に移動するわけで、それは肉体を離れて目にみえないぐらいの何かになっているわけですから、つまり


「地球から宇宙空間へ放出されるチリのように小さなもの」


ということになります。


 スペースデブリか!!!!!


(宇宙空間を漂う、ゴミ)



~~~~~~~~~~~

 さて、そうなると今度は「あの世に行くのは霊魂であって、物質ではない」と言う人が出てくるでしょう。

 霊魂というのは、何か。うーん。もやもやっとふわふわっとしたもので、でもそれが元々人だったりするわけで、でも、肉体は離れているので喋ったりはできなくて・・・そう!意識!意識なんだよ!


とその人たちはよく言います。


 肉体は滅びても、意識は残りそれが飛んでゆく!というわけですね。


 ・・・だから、さっき「意識は物質に由来するじゃん」とワタシが説明したのに。


 そうすると、やっぱり物質が飛んでゆくとかそういう堂々巡りな話になってしまいます。


 おう!ディスイズ輪廻(ぐるぐるまわっている)



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 なぜ解脱者である武庫川散歩が、こんなに「あの世がない」ということを力説するかと言うと、


「みなさんに、充実した生を送ってほしいから」


に他なりません。


 今流行のアドラー心理学風に言えば


「あの世に逃げるな、今をしっかり生きろ!」


ということです。


 人生はRPGみたいなもので、電源を切ったら終わりです。



100歩譲って、電源が切れてもプログラムはROMの中に書き込まれているとしましょう。


 つまり、肉体は滅びても霊魂が残っていて、それがROMのように消えないとしようじゃありませんか。


 だとしても、その意識やら霊魂やらは一切動きません。電源を入れない限り、動くわけがないんです。


 書かれているプログラムは、ただの文字の羅列と記号にすぎません。


 そんな存在は、あなたの二回目の来世での人生とはまったく関係なく、ただそこにあるだけです。


 つまり、


 あなたの「あの世」はただ、そこにあるだけで、動くこともないし感じることもないし、永遠に止まっているところ、それが「あの世」だというわけです。


 ・・・そんなもの、求めるな!!


 そんなもんに逃げるな!!!


 永遠に止まってることを「死ぬ」っていうんだ!!!


 生きろ!!!(byもののけ姫)







2014年10月26日日曜日

<日常>”嫌われる勇気”アドラー心理学の真髄!「今、あなたはどう生きるか」

 面白いので、このブログでもたまーにチェックしている”嫌われる勇気”「アドラー心理学」ですが、またネタを拾ってきたのでご紹介しておきましょう。




 過去や他者のせいにしても何一つ解決しない!「今、自分にできること」にスポットを当てよ
 (ダイヤモンド・オンラインさんより)

 http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20141008-00060178-diamond-soci&pos=1




 上記記事では「陽転思考」(和田裕美氏の造語)なる単語でまとめていますが、これは同じく文中の言葉で言い換えるならば


 “事実はひとつ、考え方はふたつ”



という見方をすると世界観は大きく変わる、ということです。


(おなじ事実でも、受け止め方を変えれば対応や生き方が変わってくる)



 ワタクシ、今世紀最後の解脱者、武庫川散歩も基本的にはおなじ考え方をしているのですが、私の場合は、いろんな意味を含めて「正義のゆらぎ」ということばをよく使います。



 あっ!


 ・・・このブログではまだ使ったことなかったっけ?「正義のゆらぎ」。じゃあ、それはまた後ほどしっかり説明しますな。




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 さて、アドラー心理学の面白いところは、表面的に人は「何々できない、何々するのにトラウマがある」なんてことを抱えているときに


「それは、本当はトラウマなんじゃなくて、やりたくないから言い訳にしてるんだろ?」


ということをズバズバ言うところです。そういう意味で、アドラー心理学では「過去」を否定し、


「今どうするのか?」


ということを積極的に問いかけてゆくわけですね。



 記事の中で面白いテクニックが紹介されていたので、引用しておきます。



①三角柱を用意する。


②その一面に「かわいそうな私」と書いておく


③もう一面に「悪いあなた」と書いておく


④最後の面に「----(まだ内緒)」と書いておく。



 これは、岸見氏がカウンセリングの際に用いるそうですが、なかなかよく出来たツールです。


 相談者がいろんな話をする、悩み問題を話してくるときに、今は「かわいそうな私」の話なのか、「悪いあなた」の話なのかを表示するわけです。


 そうするとたいてい彼ら彼女らの話のほとんどの部分は「私はかわいそうな状況」「悪いのは他者」ということしか言ってないことが明らかになってくる。



 で、最後の面「-----」に何が書いてあるかというと「私には何ができるのか」という表示がされている!!!




 こりゃすごい!私もいつも相談を受けると「で、あなたはどうしたいの?」と必ず聞くのですが、それを完璧にわかりやすくしたのがこのツールです。



ぱ、パクりたい・・・・!!!(笑)



 そうなのです、結局大事なのは


 今、そしてこれからあなたはどうするのか?どうしたいのか?何ができるのか?


なのです。それしかないんです。




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 私がまだ俗世にいたころ、とある仕事の先輩が面白いことを言っていました。


「自分は後悔はしない。どんな選択をして、結果的にそれが最悪な方向へ向かったとしても、それはそのときしっかり考えて、どうしようもなくそれしかなくそれを選んだ結果なので、それ以外は考えられないから、後悔はしようがない」


という話です。


 なるほど、それはアドラーちっくです。


 今、全力でそれを選ぶ。


 全力で選択した結果だから、良いも悪いもなく受け入れる。


 それ以外の未来は、そもそもあるはずもなかったのだ!



ということ。



 これは、悩みなく生きるためには必要な決断かもしれません。




 ・・・今日は、えらく真面目でしたな。ここらで卑猥な言葉でも叫んでおくべきか・・・・。



 なーんて!ではでは。


 

2014年10月25日土曜日

☆お金がじゃんじゃん貯まるブッダの教え☆ 経済的「出家」をしてみよう



 好評連載も今日で4回目!



 というわけで、ブッダ・お釈迦さまの考え方を「経済生活」に当てはめてみることで、なんとなくお金の貯め方がわかってきたことと思います。



 では、ここからは一層の仏道にまい進すべく、「経済的出家」に挑戦してみようではありませんか!



 経済的出家のやり方は、簡単!


① 108つの煩悩こと108つの消費をやめる。


 まず、「生きてゆくのに必要なもの(食費や光熱費)」だけに出費を絞る。その他の「あれが欲しいな」とか「これが欲しいな」を一切やめる。これがエコノミカル出家の第一歩。


② 通帳にお布施してみる。


 仏教といえばお布施!もともとは他人に施しを与えることですが、今回はエコノミカル出家ですので、あなたの「煩悩」に相当する額を全部通帳にお布施しましょう。

 お給料をもらって、生活費・光熱費以外は、とりあえず全部通帳にぶちこみます。「出家じゃー!!」と叫びながら。


③ お経、レシートを読む。


 仏道にまい進するためには、お経を読まねばなりません。家庭経済におけるお経とはもちろんレシートのこと!

 レシートを読みながら、「買わなくても良かったもの」をチェックしてゆきます。家計簿なんてメ面倒なものはつけなくてよろしい。

 買わなくて良かったものが、即「あなたの経済的煩悩」そのものです!カーツッ!!!!




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 これを1年間続けてみなさい。あなたの通帳は「極楽浄土」と化しているはずです。



 目標金額は、まずは月収の1割。年収200万なら20万貯金、400万なら40万貯金できているはずです。


 徳の高い高僧になると月収の2割はいきましょう。年収500万なら100万円貯金できています。


 10年で1000万の単純貯蓄になるはずですね!


 すごい!凄すぎるぞブッダの教え!


2014年10月24日金曜日

☆お金がぐんぐん貯まるブッダの教え☆ ~お釈迦様を真似ればお金持ちになる?~

 ところで、仏教を学ぶ人は、どうして修行をするのでしょう。


 座禅を組んだり、掃除をしたり、瀧に打たれたり、荒行をしたり。いろいろな宗派ややり方があるにせよ、何がしかの修行をして、お釈迦さまに近づこうというスタンスは仏教に共通なことのように思われます。



 しかし、これまた有名な話ですが、ブッダ・お釈迦さま自身が「いろいろな修行や苦行に身を投じてみても、全部あかんかった」と確信し、「こんなことしてても無駄だ」とお思いになったのです。



 ということは、ぶっちゃけて言えば、修行は無駄ということでもあります。


 
 それなのに、世の中の仏教を学ぶ人は、やっぱり無駄と知っていても修行してしまいます。それはなぜかといえば


「お釈迦さまがやったように自分もやってみたら、悟りが開けるかも」


という期待とお手本によって、その真似をしているということになるわけです。



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 というわけで、経済的解脱・経済的悟りを得るために、私たちもお釈迦さまの真似をしてみようと思います。


 前回、煩悩とは消費だと言いましたが、煩悩を捨てるために苦行をするというのは、消費をしないように頑張ってみる、ということに置き換えることができるかもしれません。



 消費をしない苦行、考えるだけでいろんな荒行が思いつきそうですね。



「住居を持たず、家賃を払わない」

「何も買わず、何も食べない」

「服を買わない。バッグも買わない」

「・・・つまり、全裸で野ざらし。消費をしないので、狩猟採集で生きてゆく」



・・・。


・・・。


・・・解脱うんぬんの前に、野獣やないかーい!!!


 消費をまったくしない、何も買わない、というのはそういうことです。野生に従って生きてゆくということですから、荒行好きやマゾな方にはいいかもしれませんが、こんなことをいくら繰り返しても幸せにはなりそうもありません。


 そう!ブッダ・お釈迦さまもそういうことを言いたいのです。




 消費を捨てろ!(煩悩を捨てろ!)というのは、何も買うなということではない。


 そうではなくて、そこから一歩奥深いところにある真理があるのです。それは何か?



~~~~~~~~~~


 お釈迦さまは、そうした荒行・苦行・修行が「無駄だ」と気付いて、死に掛けて横たわっているときに、スジャータ・めいらくのスジャータ♪が現れて、一杯の乳粥を施してもらって息を吹き返します。


 そして、ついに悟りを得るわけです。


 経済的解脱・悟りにおける「乳粥」とは一体なんのことでしょう。経済的解脱・悟りにおけるスジャータとは何のことだというのでしょうか。


 ブッダが体験したことは、「誰かに何かを与えられて、命をつないだ(元気になった)」ということでした。


 経済的解脱・悟りにおいては「与えられること」「必要なものを摂取すること」はとても大事なことだ、と言い換えることができるでしょう。



 あなたには今、仕事があるでしょうか?仕事を与えられているということを思い出しましょう。


 あなたには住まいがありますか?住居を与えられているということを感謝しましょう。


 あなたはご飯を食べないと生きていけません。食べ物を買うことは必要なことです。


 

 なんとなくわかってきましたか?



 そうです。経済社会において「必要なものを買うこと」はけして単なる消費ではありません。経済学的には、そうしたものを買うことは明日への投資と考えられています。一日の休養と十分な栄養がなければ、次の日の労働が行えないからです。


 そして、経済社会においては、親が残してくれている資産や、あなたに与えられている環境は、とても感謝すべきものです。


 親が貧乏なので大学へ行けなかったり、産業が衰退して仕事がなかったりすることはどこにでもあります。


 あなたは「何かを与えてもらっている」ことに気付くべきです。




 さあ、これで、悟りへの下準備は整ってきました。



①108つの消費・浪費をやめる。

②必要なものは投資してかまわない。

③与えられた環境に感謝する。



 この3つが、あなたを経済的悟りへと導いてくれます。



(つづく)



2014年10月23日木曜日

☆お金がみるみる貯まるブッダの教え☆ ~108つの煩悩の正体~

 仏教の修行において、その目的は何かと問われれば、「108つとかの煩悩を捨てて、悟りの境地を得ること」というのが、わかりやすい答えだと思います。


 というわけで、ブッダ・お釈迦さまは悟りの境地に到達して、真の平和と喜びを得ることができました。


 では、「お金がみるみる貯まるブッダの教え」的には、経済的解脱・経済的悟りを得るために、どうしたらいいと言うのでしょうか?


 仏教で言うところの「煩悩」に相当するものは、経済社会では一体何なのでしょう。



 それは、少し考えてみると、誰にでもわかる簡単なことです。




 煩悩というのは「食べたい、飲みたい、女性と付き合いたい、偉くなりたい、お金持ちになりたい」といった欲望のことで、一般的な仏教ではそれが


108種類


もあることになっているのはご存知の通り。


 ほにゃららしたい、という欲望が煩悩なのですから、経済社会における煩悩とは、



「ほにゃららが欲しい」


という考えや行為に他なりません。



 これまたわかりやすく言えば、私たちが毎日行っている「消費」が、それに当ります。


 つまり、煩悩とは消費そのものなのです。



「お、今日は鶏肉が欲しいな」

「ブランドバッグが欲しいな」

「ベンツ、買おうっと」

「マンションが欲しい!」


といった、消費生活。消費はすなわち「煩悩」が経済的に現れた姿です。




~~~~~~~~~~


 ブッダが考えたのは、「煩悩」に惑わされず、それを捨て去ることで幸せがやってくる、ということでした。煩悩や欲望から自由になると、人は幸福の境地に立てる、ということです。



 それを経済生活に当てはめてみると、つまり


「消費から自由になると、人は幸せになれる」


ということに他なりません。



 ここで、気をつけておきたいのは、ものを購入する行為を全て消費とみなす必要はないということです。


 おなじ何かを買うという行為でも、「消費」もあれば「浪費」もあるし、「投資」の場合だってあります。


 お金を金の延べ棒に変えるのは、あまり「消費」とは言いません。単なる姿形を変えた変換だとみなせるものは、消費ではないと考えることもできますね。



 なので、ここでは、ブッダが捨て去るように薦めているのは「モノを買う行為」ではなく、「浪費も含めて、消費すること」だと仮押さえしておきましょう。


 人には108種類の消費があり、その消費を一つずつ捨て去ることができれば、悟りを開くことができる、というわけです。



(つづく)






2014年10月22日水曜日

☆お金がどんどん貯まるブッダの教え☆ ~ 一生お金に困らない解脱の仕方 ~

 どうも、この世で最も下世話な最羞解脱者こと、武庫川散歩です。ぐへへへ。


 本人は解脱した、解脱したと騒いでいますが、けして耳をかさないほうがいいと思います。あらかじめお断り申し上げます(ニヤリ)




 さて、悟りを開いてからというもの、仏教の創始者であるお釈迦様と同じく、はじめは


「わし1人で独占して、誰にも言わずにこの楽しみを味わうもんね、うへへ」


と思っていたのですが、梵天が現れて、


「なんでお前だけで独り占めしとんねん。みんなにも教えてやれや」


というので、この連載を開始しようと思いました。





 そう!これからの連載のテーマはなんと


☆お金がどんどん貯まるブッダの教え☆



という壮大なテーマです。これまでの仏教界ではけしてかみ合うことのなかった


”お金の話” と ”解脱と救済”


の話が同時進行してしまうという、スペクタクルなお話です!!!




 自分で書いていて、ドキドキしてきました。なんということでしょう!仏の教えと、お金の話が、実は


どちらも同じ話だった!


というのですから驚きです。



 さあ、お立会い。悟りに興味がある人も、お金に興味がある人も、まずは騙されたと思って、お話聞いてみてくださいな!


~~~~~~~~~~

 さて、今日のタイトル、「一生お金に困らない解脱の仕方」ですが、本当にそんなことができるのでしょうか?


 悟りを開くことと、お金が貯まることは一見ぜーんぜん関係ないように思いますが、実は大有りなのです。



 それを学ぶために、まずは仏教の教えを読み解いてゆくことにしましょう。


 仏教ではこの世界を「諸行無常」であると説きます。「色即是空・空即是色」だとも説きます。


 かるーく説明すると、「すべてのものはあるようでいて、無い。そして、無いようでいて、ある」というのが仏教の基本概念です。


 または、すべては移り変わって一定の姿があるようでいて、無いので「無常」というわけです。



 仏教において、お釈迦さまが考えたこの世界のありようは、「すべてが定まっていないものだ」ということなのですが、経済社会(つまりお金の話)も、おなじこの世界の一部なのですから、お釈迦様の捉えた世界そのものと同じ、またはその一部であるはずですね。


 ちょっと難しい言い回しをしましたが、簡単に言えば、「セカイが諸行無常なんだから、お金だって諸行無常なんじゃないの?」ということです。


 そうです。お金は諸行無常で色即是空なのです!!!


 私たちは、お金が無常であることを毎日ニュースで聞いています。株価が上がったとか、下がったとか、金利が上がったとか下がったとか、1ドルが何円だとか、ユーロがどうだとか・・・。


 そう!すべては一定でなく、移り変わります。これは、株価や為替の話だけでなく、あなたが住んでいるマンションの価格が買ったときと売った時で違うとか、おなじマヨネーズなのに、違うスーパーだと値段が違うとか、そういうことと全く同じです。


 つまり、モノの価格とモノの価値は、いつも無常であり、経済社会というのは空即是色だということです。



~~~~~~~~~~


 この国の経済事情を見てみましょう。借金が何兆円もあり、借金で毎日の政治経済が動いているということは、本来は「お金がマイナス」「お金が空」であることを意味します。


 マイナスということは、所有していなくて、お金が無い状態なのに、お金を借りるという帳簿上の(実態とはことなる世界観での)処理で、私たちの政府は今日もしっかり存在しています。


 ほら、「空(ない)なのに色(ある)」でしょ?


 しかし、あると思っている私たちの政府は、もし破綻すればその瞬間に「ない」ことになります。今この瞬間は政府も経済もうまく回っていますが、明日はわかりません。


 基本的に、私たちの経済社会というのは、あやういものだということになります。



~~~~~~~~~~


 というわけで、このセカイにおける「お金」つまり貨幣や経済が「無常」であることを納得できれば、みなさんも解脱への第一歩が踏み出せた、ということになります。



 そうですね。経済学者さんにとっては当たり前のことですが、私たちはまだ「この経済社会が空である」という実感までは至っていません。しかし、知識としてはそうなのかな、ぐらいでも感じ取ってくだされば、まずはOKです。



 というわけで、めざすは「経済的な解脱・経済的な悟り」の境地です。そう、これからあなたも、エコノミック・ブッダをめざしましょう!


(つづく)






2014年10月16日木曜日

「悟り」の正体 解脱に隠された真実?!

 めっきり秋めいて参りましたが、皆様におかれましては益々ご清祥のこととお慶び申し上げます。


なーんて、たまにはかしこまっちゃったりしてみましたが、性に合いませんな。


どうも、今世紀最弱の解脱者、武庫川散歩(厄年)です。




 さて、このブログのテーマは、「悟り」です。というわけで、このセカイにおいて、最弱解脱、魂の全裸を目指して日々活動しているのですが、今日は「悟りの正体」について書いてみましょう。



 結論から言いますが、悟りというものは、ものすごく不公平なものです。仏教でもキリスト教でもイスラム教でも、そもそも宗教というのは大変に不公平なもので、


「信じるものしか救われない」


という側面があります。


 誰でも救われる(可能性がある)という概念が出てきたのは、仏教では浄土系の後(悪人でもいけるよ)とか、キリスト教ではルターの宗教改革以降ということになりましょうか。




 まあ、それは横に置いておいて、この不公平な悟り、から話を進めてみましょう。




 ここで問題を出します。


”水子は悟りを得ることができるか”


 悟りというのは、結果的には不公平(悟りを得られる人と得られない人がいる)わけですが、そのスタート段階では果たして平等にチャンスがあるのでしょうか?


 人は生まれて、生きてゆく中で解脱を得て幸福になるチャンスを誰もが持っている、と仮定したいところですが、そこで先の問題がカギになるわけです。


 水子は悟りを得ることができるか、ほんの赤ちゃんが悟りを得ることができるか。そういう状態を仮定すると、


「あれ?これはどう頑張っても、水子や赤ちゃんのまま死んでしまったら『悟りを得るチャンス』がなさそうだ」


ということになりますね。


 もっと言えば、もう少し成長していても、悟りを得る前に「不慮の事故で死んでしまったら」どうしたらいいのでしょう。その死は本人の責任とは無関係なのですから、そのせいで「悟れない」「悟りを得るチャンスを失う」としたら不公平ですね。



 となると、悟りを得られる・得られないという結果論としての差の前に、そもそも「悟りを得るチャンスを得たか、得られないか」という差があるということに気付きます。


 これを突き詰めると、


「人は生まれながらにして、悟りを得られるチャンスがあるものと、そうでないものに分かれる」


ということが成り立ちますね。


 これは大変に不公平な話です。


~~~~~~~~~~~



 なんてこった!どうしてこんなにこの世は不公平なんだ!


と、怒りを覚えたあなた。そこが悟りへの第一歩です。どうしようもなく、この世はそもそも不公平である、という事実はすなわち


「無常観」


に直結します。


 そう、この世は無常なのです。どうしようもないのです。これが悟りへの前段階。


 この世がどうしようもない腐った大人たちの世界であるとするならば、尾崎くんであれば盗んだバイクで走り出すところでしょうが、そんなことをしても、やっぱり何も解決しません。



 さて、話を戻しましょう。そんなどうしようもないセカイですが、あなたが今この文章を読んでいるということは、なんと素晴らしいことに、今この瞬間不慮の事故や病で


「死んでない」


ということを示します。ラッキーですね!あなたは今死んでない!だから悟りを得るチャンスがある方の人だということです。


 悟りを得るチャンスすらない人たちがいるなかで、あなたはチャンスがあるほうの人なんです!


 まさにラッキー!


・・・これが、悟りの本質、真の姿です。


「自分には悟りを得られるチャンスがある」ということに気付くこと、それに気付いた瞬間が、「悟り」そのものなのです。


 つまり、自分には生まれながらにして幸運であったり、チャンスがあったり、与えられているものがすでにあるという、と気付くことが「悟り」の本質なのです。



 まだ、ピンと来ていない人も多いことでしょう。なんでそれが解脱なのか、と。


 先ほど説明したとおり、この世界はもともと無常です。その中でいま自分が生きているというそもそもの根源的ラッキーに気付くことができれば、それ以上のものはすべて「余剰の幸福」ですので、追い求める必要はありません。


「あなたはすでに、水子よりラッキー」


なのですから、そこを実感できたら、誰かさんのように「生きてるだけで丸もうけ」ですよね?


余剰の幸福をさらに追い求めることが「煩悩」です。あんたは、すでにラッキーなのに、まだ欲しいのか?なんて欲深いんだ!というわけですね。


「生きてるだけで丸もうけ」の境地にたどりつけば、煩悩は要りません。


煩悩を捨てる、なんていいますが、もともと「捨てる」必要なんてないのです。欲は余剰のものなのですから。


~~~~~~~~~~


 これが、解脱・悟りを得て幸福な状態になる、ということです。既に自分がある、ということをそれだけで喜びとできることが解脱した状態なのです。





 とは言え、ここからは少し別の見地でお話しますが、仏教というのは、なかなかに「金持ちの論理」ではありますね。


 考えてみてください。飢えやら戦争によってズダボロになっている貧しい民がいて、その人たちに「すべての欲を捨てなさい」と言うやつがいたら、かなりのドSです。ひどすぎます。


「ふははは、お前たちの境遇は無常なのだ~。すべて無意味で死んでしまえばいいのだ~。何も欲しがるな~。全部無駄だ~!」

と叫んでいるやつがいるのです。ひどいヤツです。



 というわけで、仏教の論理はもともと「王様の出」であるシャカの論理らしく、


「自分は既に持っている、与えられている、その幸福に気付く」


という悟りであり、それは「金持ちの論理」なのです。だから、もう何もいらないわけです。(余剰のものに執着しない)




 ところがです!



 もともと砂漠の民の宗教であるユダヤ教、キリスト教、イスラム教になると「食べ物がない、水がない」という地域ですので


「渇望の宗教」


と化します。


 一言でいえば「与えて欲しい!くれ!」ということです。


 救われたい!神の王国へ招かれたい!約束の地を与えて欲しい!イスラエルという国が欲しい!最後の審判で選ばれたい!


 とにかく、基本は「飢えてる」んです。


 飢えてますから、逆に「与える」ことも必要です。キリスト教が愛の宗教なのは、基本飢えてるから、持っている者が持っていないものに「愛を分け与えないとダメ」なのです。


 だって、死んでしまいます。飢えてるんだから。ちょっとぐらいやれよ、あいつにも、ということです。




 日本人は、どちらかと言えば、「すでに持っているほうのジャンル」です。海もある、山もある。魚や作物は基本的に採れるし、豊かな雨(水)がある。


 金持ちなんです。日本人は。だから渇望せずに、余剰のものはいらないよね?十分満足だよね?ということになります。



 神道の場合は、悟りによる救いや、神の救いをまったく想定していません。


「常に現世で五穀豊穣、子孫繁栄でハッピー」


な宗教です。平和でよかったですね。




2014年10月15日水曜日

原理主義を読み解く ~少年よ悟りを開け~

 しかし、まあ、なんですねえ~。

 というツカミは、桂小枝師匠の定番ネタですが、最近の武庫川散歩はずっとそんなキモチです。


 おひさしぶりですね。あなたの武庫川散歩です。


しかし、まあ、なんですねえ。イスラム国の話題とか、ヘイトスピーチの問題とか、日中のわだかまり、日韓のわだかまりとか、いろんな事件が起こっていますね。


 それらに共通する、「原理主義」的な感覚と言いましょうか、ある思想・考え・傾向に固執してその方向に突き進む姿をよく見かけるようになりました。


 原理主義的な感覚そのものは、もともとは純粋な感覚に近いので、一見すると、そのカテゴリにおいては


 正しいこと


のように見える場合があります。


 それが、誰かを思想的に魅了したり、その正しい感覚ゆえに、誰かを突っ走らせたりするのですが、私は少し違う視点でみています。


~~~~~~~~~~

 
 あ、ちなみに今日も、いつもよりかは真面目な話しぶりでお届けするつもりです。念のため。



 さて、昨今のように原理主義がはびこるのには、当然理由があります。その一番明快な答えは


「資本主義と現代型自由主義の終焉」


に他なりません。


 わざわざ私のような偉い解脱者が言わなくても、誰かが解説しているでしょうから、さらっと流しますが、ご存知の通り「資本主義」「自由主義」が一定の破綻をきたしつつあることは明らかですね。


 例えば、「資本主義」。


 日本をはじめとした先進諸国が、いちおう資本主義を標榜しているものの、リーマンショックやバブル崩壊など、いろんな経済的「もう、ムリぽ」な事態を引き起こしており、そもそも莫大な借金を背負いながら日々を過ごしている政治なんでどうやねん!な状態ですから


みんな、実は内心ドン引き


であることは明白です。


 「自由主義」社会だってそうです。これまでは「先進国民だけが自由」でしたが、あれよあれよと他の国まで豊かになってしまい、自分たちのパイを食われるようになると、自由主義の本音がつい漏れてしまいます。


 「俺たちは豊かであるべきだが、お前たちはもうちょっと非豊かであってほしい」


と。


「誰もが核を持てる自由な社会」


だなんて、誰も叫びません。ね、矛盾してるでしょ?最初から。



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 そんなこんなで、先進国であっても途上国であっても、全世界の国民が気付きはじめているわけ。


「どうも、これまでの世界秩序の枠組みには、問題があるぞ」


と。



 だから、そのどちらでも「不満や不平が起こり、それは互いのせいだと感じている」わけです。


 途上国が伸びてくると、既に利権を持っていた先進国民は抑圧されます。いやいや、途上国だって、先進国に抑圧されていたからこれまで伸びなかったんだ、と思い始めます。


 互いに、いろいろ思惑が生まれる。大変な事態です。



 こういう時に、「原理主義」は芽を出しはじめるわけです。


 わが国の歴史において、もっと原理主義的だったのは幕末から明治維新にかけてですね。


「そもそもわが国は、天皇を中心とした神の子孫による国家であり・・・」


という思想・感覚。実に原理主義的でありましょう。


 まあ、それは遠い昔のヨタ話だったわけですが。




 「原理原則に立ち返る」それも「正義の意味において」という原理主義の考え方は、


 小学生の終わりの会


に似ています。


 
「せんせー、山田くんが今日掃除をサボりました~」


「いーけないんだー、いーけないんだー、言ってやろー、言ってやろ」


「山田君はスカートもめくっていました。いけないと思います」


「いーけないんだー、いーけないんだー」


「ほら、山田なんとか言えよ~!」


「だまってんじゃねーよー」


というヤツです。



 原理原則に従えば、掃除をサボるのも、スカートめくりも「いけないこと=悪」です。その悪を正すために、一生懸命みんなで山田を叩きのめします。



 しかし、「個人攻撃」はどうなんでしょう。


「チクる」のはどうなんでしょう。


「全員で恫喝する」のはどうなんでしょう。



 個人攻撃は悪であり、反論の機会やチャンスはあってしかるべきです。もしかしたら山田くんは具合が悪くてトイレにこもっていたのかもしれません。

 チクるのは、こども社会においては「最大の悪」です。絶対に守らねばならない子供憲法第一条です。それなのに先生に言いつけるなんて、ひどいことです。

 全員で攻め立てるのは悪です。それを人は「いじめ」と呼びます。



 原理主義が持つ問題点は、ここ!なのです。原理主義に染まってしまうと、それから逸脱した思想や行動は、その時点で絶対悪とされてしまい、糾弾されます。


 しかし、人の世において「絶対悪」なんて存在しません。悪も善も、相対的なものだからです。



 いや、悟りを開いた武庫川散歩からすれば、悪も善も、そんなものは最初から存在しないのです。依拠する対象ではありません。


 
 世界が存在しないのに、悪も善もクソもないはずでしょ?


 だから聖子ちゃんはクソをしないのです!・・・ちがうか。



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 従って、原理主義を追求することは、言い換えれば「小学生レベル」だということになります。せめて中学生レベルになってほしい。

 できれば「中学生日記」を見直してほしい!ものです。


 
 とはいえ、原理主義にハマる人がたくさんいるのも事実で、それは「やはり、自分の生き方の指針になるものを見失っている」人が多いから、そうなってしまうとも言えます。



 なぜ、安保闘争がうまくいかなかったのか。それは当時の学生たちが、「いい会社に就職する予定があって、経済成長伸び盛りの社会に生き」ていたからです。


 もっとも賢かった彼ら(国内で最も高い学歴と学力を持っていた)には、平和で幸せな未来が待っていた。だから安保闘争はうまくいかなかったのです。


 だから彼らは、現実を見つめることができました。(できなかった一部の人だけが、あさま山荘事件を起こしたり、よど号を乗っ取ったりしたわけです)


 

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 これから、日本社会はこれまでのように経済的に豊かで幸せいっぱい夢いっぱいではなくなります。


 なので、原理主義的な考え方がはびこる要素がたくさんあります。


 私は、そうした考えに染まるのではなく、ぜひ「悟りを開いて」ほしいと願っていますが、この願いが届くかどうかはわかりません。



 なぜなら、このブログのアクセス数があまりにも少ないからですっっっ!!!


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