2021年3月13日土曜日

■ 虚構と現実の間で 〜エヴァンゲリオン最終シーンは現実か?〜(ネタバレあり)

 


 四半世紀におよぶ、エヴァンゲリオンの完結とあって、先陣組からは少し遅れて本日、映画館へ行くことができた。

 わたくし武庫川は46歳。今年小学生中学年の息子と二人での参戦。

 息子はなぜか、エヴァシリーズが大好きで、逆に「聖書を読みたい!読んでみたい!」とアブナイ方向へ走り始めている。

 そのアブナイチビぶりは映画を見終わった後も全開で、

「ゲンドウがすげ〜!」

と、ずっと帰りの道中で騒いでいたくらいである。

 何がすごいのかと言うと、「神のごとき存在になった」点だという。うーん、そこ?

 3時間ちかくもおしっこを我慢していて、得た一番の学びが「そこ?」とツッコミたかったが、メカよりも神のみわざのほうに興味があるというのだから、そりゃあかつてキリスト教カルトのエホバの証人2世であった、父譲りである。


 ところで、その父親=すなわち私のほうは、劇中に出てきたある一点に、目も耳も釘付けになっていた。

 それはおなじくゲンドウによって語られた

「虚構と現実を同時に認識できるのが、人間」

である、という話である。

 正確なセリフ回しは異なるかもしれないが、それを聞きながら

「虚構と現実をどちらも認識できるのが人間」の良さであり、それは時に希望にもなり、呪いにもなるのだ

ということばかり考えていた。

 エヴァは虚構である、ということは、庵野監督においては重要なテーマの一つであっただろう。それは旧劇場版でもそうだったし、シン・エヴァすなわち今回でもそうだった。

 旧劇では、映画を見る観客を客観視する映像を放り込むことで、それを意識させ、今回は心理描写の中に数々の撮影セットなどを放り込んで表現していた。

 まるで入れ子構造のような「現実の中にある虚構」を印象づけることは、「ねらい」のひとつだったのだろう。


 しかし、今回ムコガワが感じたのは、”そこ”ではない。監督が聴衆や、観客やファンに向かって放り投げた「これは虚構である」というメッセージではなく、あくまでも映画内部での話においても、「虚構」と「希望」はもしかしたら繋がっているのではないか?と感じたのである。


 突然だが、パタリロの話をしよう。パタリロはもう古典になってしまった”現在絶賛連載中"の変態ギャグマンガだが、こんな回がある。

 それは、宇宙人が地球に攻めてくるのだけれど、その宇宙人には「虚構」ということがあまり理解できずに、地球から送られてくる情報をそのまま「現実」として受け止める話であった。

 だから地球のテレビ番組を受信してしまい、「なんとかレンジャー」や「なんとかマン」がやたらたくさん地球にはいて、「こんな強い奴らがいっぱいいる星には勝てない!」と退散するというオチである。

 つまり、その宇宙人には「現実と虚構の区別がつかなかった」のだ。だから地球からこぼれ出てくるテレビの情報を、真実だと思ってしまったわけだ。

 ところが、我々本来の地球人=人間は虚構と現実の境目を理解しているつもりでいる。

 なんとかマンは虚構であり、それは真実ではないと知っていることになる。


 ところがである。たとえば、これから起こる未来の出来事や、証明されていない出来事が本当に「起きるのか」「成り立つのか」「真実なのか」は、わからない。

 だからそれは、ある時点においては虚構に過ぎず、実際に起きないと現実にはならない。

 「原発は爆発するだろうか」とか、「未知のウイルスが人類を襲うか」とか、「大地震で多くの人が死ぬだろうか」とか、そういうことはそれがやってくるまでは、ほぼほぼ「夢物語」として笑われたりもするわけだ。

 それと同じように、ゼーレがやろうとしていた「人類補完計画」とか、ゲンドウがやろうとしていた「ユイとの再会」は、虚構と現実のはざまにある。

 そして、映画の最終盤まで、それは当のゲンドウやシンジたちにもわからないのだから、虚構でもある。

 ただ、虚構を信じることは希望になるのだ。

 そこに希望があるということは、虚構を信じるということなのだったりするのだ。

 だから、そう簡単に「それは虚構だよ」と笑い飛ばすわけにはいかなかったりもするし、それでも周囲からみれば「それは単なる虚構だ」と一笑に付されてしまったりもするわけである。


 さて、物語の中での現実はどうだっただろうか。

 ゲンドウは、ある意味ユイと再会することはできたが、ユイの意識はゲンドウもろともの滅びを選択した。つまり、ゲンドウは希望を持って虚構を追い求めていたが、それは最後まで実現しなかったとも言える。

 人類補完計画の真髄は精神世界であるから、シンジを取り巻くすべてのチルドレンたちのこころが、解決し、満たされ、補完されたところまでは、まあOKかもしれない。

 エヴァを取り巻く精神世界の中で、それらは「現実に」解決された、と言ってもよいだろう。


 ところがである。エヴァシリーズの最後の最後は、その観点からみれば不可解なラストシーンということになる。

 海辺に現れた最後のエヴァとマリの帰還、そして、駅には大人になったシンジとマリの姿があった、というラストだ。

 よーく思い出して見ると、

◆ ミサトは、アスカとシンジの救出(サルベージ)をマリに託した

のを覚えているだろう。そして、悲しいけれどミサトは死ぬ。

 アスカは、そのこころは救済されたシーンが描かれるが、帰還はない。浜辺で帰ってきたのは、マリだけだった。

 レイはユイと同一であるから、ゲンドウとの死を選択した。これもこれでいいだろう。

 しかし、アスカのその後は描かれていない。

(使徒化したので生きていない、ということもあるだろう)


 数々のエヴァの機体は、槍によって貫かれ滅ぼされる。しかし、マリが乗っていた最後の機体は、ほとんど物理的に意味をなさないほど、その消滅が簡略化されていた。

 この時点で、

◆果たして、マリはちゃんと帰ってきたのか?

という疑問が生じるわけだ。ミサトとの約束とは、かなり違う形でシンジとマリは帰還しているのだから。


 そして、最終シーンである。

 シンジは大人になっている。マリも大人びている。なぜかシンジの首には「チョーカー」がまだついている。

 マリはそれをいとも簡単に「はずす」ことができる。

 なにか変じゃないか?

 合理的に、現実的に考えれば、第三村などを中心に世界が再生し、地球はなんとか命運を保ったということは最大限解釈してもいいが、山口県の宇部新川駅は復活するだろうか?

 あるいは、シンジが大人になったというわずか10年程度で、元の地方都市が「普通に」なるくらい最び発展するだろうか。

 あるいは漫画版のように、最後のシーンの世界は「復元」された「エヴァのない世界」とも推測できるが、そうするとチョーカーは不要である。復元された世界であれば、チョーカーがそもそも存在しないのである。

 あのチョーカーが曲者なのだ。


 まっとうに考えれば、最後の決戦後の世界がそのまま続いていたとして、チョーカーを外すのは、生き残った組織の手によってであり、駅のホームでマリが外すべきものではない。

 なにか変だ。


 そして、現実描写の駅の外を俯瞰して、物語はエンディング暗転になる。

 なにが、変なのか。

 そうだ。ゲンドウとユイが滅びた後の描写はすべて、何かが現実とは噛み合わないのだ。

 だから、あれは「虚構」、イマジナリー、イマジネーションの世界なのである。


 チョーカーはもちろん「エヴァからの解放」の暗喩ではあるが、たんなる暗喩をわざわざ物語の中の現実世界(リアリティ)に紛れ込ませる必要はない。


 となると、チョーカーの存在は次の2つに絞られる。

■ 物語の中の「現実世界」において、実際にチョーカーが存在しており、それはマリによって容易く外されることができるものである。

■ チョーカーが描かれていることで、あれが「現実世界ではない、幻想の世界」であることを示している。

 だが、先に考えたとおり、前者は不自然であり、成り立たない。

 だから、後者しかないと断言できる。



 衝撃的なことをいち観客が勝手に述べるとすれば、

「シンジは死んでいる」

「マリも死んでいる」

「アスカも、死んでいる」

「レイは言わずもがな」

「ミサトも死んでいる」

ということだ。

 たぶん、みんな死んだのだ。


 戦線を脱出した残りのヴィレメンバーはもしかしたら生き残ったかもしれない。第三村の仲間も、もしかしたら生き残ったかもしれない。

(しかし、それらは一切描かれない。ゲンドウが滅びたとて、世界の維持は不可能だった可能性もある。)


 だったら、最後のシーンはなんだったのか。

 それは、あれこそが

「虚構という希望」

なのではないか?と思うのである。

 すべてが崩壊して、シンジが死の数秒前に見た、幻影のようなもの。それが浜辺のシーンと駅でのシーンだったのではないか。

 それは虚構である。けれど、ああしてシンジが大人として生きている、という幻影こそが、今まさに消滅しようとするシンジにとっても、我々観客にとっても

「希望」

なのではないか、ということだ。

 あるいは、すべての任務を全うしようとしたマリにとっても、そうであったかもしれない。


 ・・・庵野監督は、その答えをおそらく回答しないだろう。彼にはわかっている。

 虚構は、希望にもなり、呪いにもなる、ということを。


 そしてできるなら、

人は、希望を持って生きるほうがいい


と信じているのではないか、と思う。


 それが、四半世紀25年以上に渡る、エヴァンゲリオンの最後の福音だと、私は信じたい。

 僕らには、希望があるんだ、ということを。


 もし、シンジが死んでいてもそれでいい。もし、その後生き延びた人たちがいたとすれば、第三村の人たちや、元ヴンダー帰還兵の人たちにとって、

 少年は、神話になったのである。


(おわり)