2022年12月16日金曜日

どうか、この泥棒めに盗まれてやってください 02

 

 

 

 えーっと。

 

 カリオストロの城に閉じ込められた可憐な少女クラリスを、泥棒のおじさまが救いにゆくお話の続きである。

 

 いや、全然ちがう。

 

 ものみの塔に閉じ込められた少女を、解脱者のおじさまが救いにゆくお話だった。

 

 つづきが始まるぞ。

 

 

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 大量殺人や自爆自殺を含んだキリスト教系新興宗教がそうせざるを得ないのは、基本的には

 

「ハルマゲドンやキリストの再臨の期日を設定してしまう」

 

ことにある。これは現実にはその通りにならないので、信者や組織の心を破壊してしまうことは前回の説明の通りである。

 

 予言を外したことに耐えられなければ、死ぬしかない。それはプライドの問題というよりは

 

「希望が失われたことへの絶望」

 

でもあるからだ。だから、生きてゆくためには予言を修正する必要がある。

 

 そのため、「期日設定系カルト」の多くは、期日を修正し、教義を変更することでなんとか命脈をつなぎ、ごまかしながら生き延びている。

 

 かわいそうなのはそうした「経緯」を知らずに入信した人たちで、「そもそも予言を外している」連中が傷のなめあいのために集っているだけなのに、「修正された予言」を信じさせられて、なおかつそれに生活のすべてを投げ打たされているということなのだ。

 

 これは外部から見れば喜劇だ。バカみたいな話だが、内部にいたものにとっては悲劇でしかない。

 

 

 さて、期日設定系カルト、エホバの証人やブランチ・ダビディアンに共通する元ネタとは何か。それは、

 

「1800年代前半に北米で起こった再臨待望運動」

 

に起源を持つ。(これはアメリカの話で、だからエホバの証人はアメリカ発なのだ)

 

 

 再臨待望運動は、ウィリアム・ミラーという人物が、聖書の期日からキリストの再臨日を「計算」したことによって始まる。

 

 彼はその年号を1843年とした。この年号をはじき出す数式の考え方は、複数あるのだがたとえば、分りやすいのはこんな感じだ。

 

『ダニエル書8:14に”2300の夕と朝”と書かれている。エズラがエルサレムに帰還したのが西暦前457年であり、そこから2300年を足すと1843年になる』

 

『ダニエル書4:16に”七つの時”が出てくる。聖書予言における1年は360年なので、360×7=2520年になる。ユダヤ人独立を西暦前667年と歴史学者が算出していることを考えると、そこから2520年を加算すると1843年になる』

 

といったものだ。

 

 これは一体何をやっているのかというと、聖書好き以外にはなんのこっちゃわからないかもしれないが、要するに

 

「聖書に出てくる記号や年号や、物理的な年数に相当する暗号になっていて、その暗号を解読すればキリストが再臨する(あるいはハルマゲドンが起こる)具体的な期日をちゃんと予言しているのである」

 

ということを考えているのである。

 

 彼らは「聖書に書いてあることは、象徴的なお話なのね」とは思っていない。

 

「聖書に書いてある数字は、マジでガチなので、その数字をちゃんと計算し、解釈すればそのとおりのことが起きる」

 

と思っているのである。これはウィリアム・ミラーもチャルズ・ラッセルもまったく同じで、だから彼らはそれを

 

「聖書を研究する」

 

と呼ぶのだ。 聖書の暗号を解き明かそうぜ!ということなのである。ダ・ヴィンチ・コードかよ。

 

 

 さあ、七つの時が出てきた。真面目なエホバの証人なら知っていることだが、当然ミラーのコピーであるラッセルもおなじことをやる。

 

 ラッセルの場合は、年号をミラーより修正している。その修正方法はWikipediaに詳しく載っているから、読んでみてほしい。

 

七つの時

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E3%81%A4%E3%81%AE%E6%99%82 

 

「イスラエル人の帰還・西暦前537年」-70年(エズラ記による)=西暦前607年
 

7年×360日=2520日
 

「エルサレムの滅び・西暦前607年」+2520年=西暦1914年

 

 

  ぶっちゃけ、これらの数字はどうでもいい。どうせ暗号解きの遊びに過ぎないのだから。

 

 しかし、ここで、ラッセルが1914年を引っ張りだしてこなくてはならなかった大きな事情があるのだ。

 

 それは賢明なあなたならわかるだろう。そう

 

1843年に、なにも起こらなかったから

 

である!!!!!

 

 

 

 ミラーの再臨待望運動を信じた人たちは、1843年を待ち望んだ。

 

 ある者はすべての家財を投げ打って、活動に身を投じた。

 結婚を諦めた者もいた。

 進学をやめた者もいた。

 畑を耕すのをやめた者もいた。


 その数、なんと5万人という。



 彼ら全員の希望は、一日のうちに打ち砕かれたのである。

 

 

 



 この話が載っているのは、「ものみの塔の源流を尋ねて(中澤)」という名著なのだが、ここを読んだ時は涙が止まらなかった。

 

 ああ!なんて愚かなことを、1800年代のアメリカ人どころか、現代の僕らの仲間が同じ目に遭っているだなんて!

 

と!!!!!

 

 こんなことをいつまで繰り返すのか!!!

 

 こんなバカらしいことを、絶対に止めなくてはいけない!!!

 

と!!!!!

 

 

========

 

 

 ラッセルは、その日を生き延びた。

 

 ミラー主義者として、いわゆるセブンスデー・アドベンチスト派として活動した彼は、

 

「期日の修正、正しい日はいつか?」

 

ということに執念を燃やした。

 

 それが最も愚かな行為であり、新たな犠牲者を生む行為であることも知らず、

 

「それが正しい行いで、自分こそが真理を見つけるのだ」

 

という執念に変わったのだ。頼むからやめてくれ。

 

 彼はフリーメイソンのメンバーでもあったので、他にかならず「聖書以外にも答えを導き出すヒントがあるはずだ」と考えた。

 

 すでに妄想か、オカルトに取り付かれていた可能性もある。

 

 仲間の数人かで何度かエジプトに行き、各所の数値を計ってきた。ピラミッドの数値にも、自分の説が正しいことの証明が隠されていると思い込んだからだ。

 

 ピラミッドの内部構造の位置関係から、神エホバは「プレアデス星団にいる」とも算出した。

 

 それがどれだけアホらしい数値かと、他人が説いても聞く耳はもたなかっただろう。

 

 1914年、第一次世界大戦が勃発して、彼の妄想は確信に変わったかもしれない。

 

 その2年後、その後を見ることなくラッセルは死んだ。

 

 ラッセルの墓の隣には、ピラミッド型の記念碑が今もあるという。

 

 

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 チャールズ・ラッセルの考えた「聖書研究」の問題点は、すでにこれまでに多くの出版物や記事などが出ており、検証作業はたやすい。

 

 反エホバの証人の立場を取る人たちの多くは、そうした矛盾をつまびらかに取り上げることで説明する人たちもたくさんいる。

 

 しかし、本質論や、核となるのは、今回お話した部分ではなかろうか。

 

 「期日」を、まるで「新聞テレビ欄の縦読み」や、「におわせツイートの読み解き」や、あるいは「コナンくんの暗号解き」レベルの話で算出し、それを広め、それを信じさせたことの愚かさ、そこに尽きるだろう。

 

 

 その日はやってこない、永遠に。

 なぜなら、それは言葉あそびの妄想だからだ。

 

 そして、その予言が外れても、それでも信じ、捏造し、さらにでたらめを深めてゆくことは、愚かしい。

 

 さらに、そのことによって、多くの人たちの人生が、いのちが、生き様が犠牲になっていることを思うと、怒りしか覚えない。

 

 こんなバカみたいなことが、1800年代のアメリカから、200年後の日本や世界で続いているということを、一刻も早く止めなくてはいけないのだ。

 

 

 

 泥棒さんは少女を塔から救い出した後、かならずやその塔を倒すだろう。

 

 この予言こそ、成就されなくてはいけないものなのだ。

 

 

(おわり)

 

 

 

 

 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どうか、この泥棒めに盗まれてやってください 01

 

 

「私の獲物は、悪い魔法使いが高い塔のてっぺんにしまい込んだ宝物。

どうか、この泥棒めに盗まれてやって下さい」

 

 

 ・・・さて。全国1億二千万人の武庫川さんファンのために、いちおうは公的な話、普遍に通じる話をブログで公開しているのだが、今回はちょっと業務連絡的側面が強い。

 

 なので、あとで整理して、この記事については改訂の上、再公開する予定であるが、まずはざっくりと。

 

 というもの、どうもPCの調子が悪く、ネットに繋げたり繋げなかったりするので、PC上で原稿書きするのを諦め、とりあえずブログとか、noteのオンラインエディタに書きこんでおいて、あとでテキストとして引っ張り出して整形しようと目論んでいるのだ。

 

  なので、bloggerさんをエディタ代わりに使っている。

 

 

 もとい。 冒頭の台詞、今や老若男女誰もが覚えていて、TVの金曜ロードショーではアホみたいに再放送しているので、 みなさんもよくご存知であろう。

 

 そう、かの希代の大泥棒、ルパン三世の台詞である。

 ぼく、宗教二世。



  この台詞、カリオストロの城に幽閉されていたクラリスのところへ、ルパンが現れて言ったものだ。

 

” 「私の獲物は、悪い魔法使いが高い塔のてっぺんにしまい込んだ宝物。どうか、この泥棒めに盗まれてやって下さい」
 

「わたくしを?」

 

 頷くルパン
 

「金庫に閉じ込められた宝石たちを救い出し、むりやり花嫁にされようとしている女の子は、緑の野に放してあげる。これみんな、泥棒の仕事なんです」”

 

 塔に幽閉された女の子のモチーフで言えば、「塔の上のラプンツェル」のほうも十分有名だが、個人的にはこちらのルパンのほうが好きである。

 

 なぜなら、この自称解脱者、武庫川さんもどちらかと言えば、『泥棒』寄りだからである。

 

 そもそもまともな人間であれば「解脱者」を自称しない。実は来年そうそう、キリスト教かいわいのお招きで「武庫川散歩」名義のトークショー(笑)のゲスト出演があるのだが、

 

「え?解脱者がキリスト教界でデビューするんですか?世も末ですね!」

 

と、弟子のハガネちゃんに爆笑された。 そうなのだ。時代は世紀末・ハルマゲドンが近いかもしれないぞ。

 

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 そーんな与太話、落語のマクラみたいなのがあまりにも長いので、本題へ行くのを忘れそうだが、


 希代の解脱者、武庫川さんも塔に囚われた「か弱き少女」を救いに来た。


 その塔とは、いわずもがな、「ものみの塔」である。


 ものみの塔のてっぺんに幽閉された少女に、解脱者のおじさま(←オイ)は言うのである。

 

「どうか、この泥棒めに盗まれてやってください」と。

 

 

 そして、物語の最後には、銭形警部にこう言われるだろう。


『奴はとんでもないものを盗んでいきました ・・・あなたの心です』

 


 ルパンごっこはいいから、早く本題へ行け!!!!!

 

 はい。

 

 

 ========

 

 

  宗教2世問題が社会的に取り沙汰されるようになり、山上事件から急転直下、統一教会をはじめとした多くの新興宗教の現状が着目されるようになったが、これは実は

 

「政府や公的な機関から、宗教団体に対してメスが入った」

 

わけではない。そうではなく、山上事件とリンクして、

 

「多くの宗教2世当事者から、実態についての叫びが溢れ出た」

 

のである。

 

 そもそも、山上容疑者の行為も、これに類するものであり、この日本中に渦巻くものすごいエネルギーが、社会を突き動かしている真っ只中に僕らは、いることになる。

 

 政府の落としどころは、基本的には統一教会への締め付けであろうから(そうでないと創価学会へ飛び火する)、他の新興宗教団体へは、さてどこまで制限を加えることができるか現時点では不明だ。


 ただ、そうした公的支援、援助のみならず、私は泥棒さんであるから、こちらはこちらで銭形のとっつぁん達には頼らず、盗みを決行するわけだ。


 そのとっかかりが、今回書き始めたこのシリーズということになるだろう。

 

 

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 ものみの塔、つまりエホバの証人の教義は、シンプルに整理すれば以下の通りである。

 

「もうすぐハルマゲドンがやってきて、人類は審判を受ける」

「その時、エホバを信じるものたちだけが救われ、天国(もしくは地上の楽園)へ行ける」

「だから、一人でも多くの人にこれを伝えるために、毎日玄関ピンポンして回る」

 

というものだ。

 

 ただし、この本質部分を抽出してしまうと、逆にこの宗教のカルト性を見失うことになる。

 

 なぜなら、上に挙げた3つの項目は、基本的には既存のキリスト教と別になにも変わらないからである。

 

 カトリックもプロテスタントも、ベースは同じだ。

 

ハルマゲドンが来る。楽園がくる。信じるものは救われる。伝道しよう。

 

 これはどのキリスト教でもいっしょで、なんならザビエルだって戦国時代からやっていることである。

 

 

 では、この「塔」のカルト性はどこに起因するのか。なぜこの「塔」は人々の心を閉じ込め、幽閉し、その中で壊してゆくのか。

 

 それは次の二点で説明できるだろう。

 

◆  救済と審判という霊的、心象的なものを具体的期日を示して具現化したこと。


◆ 聖書原理主義を標榜しながら、オカルトまがいの理論を設計したこと

 

である。

 

 この言い方だと、何を言っているかわからないが、もっと平たく言おう。

 

◆ 「ハルマゲドンが、西暦何年何月何日に来る」と明言したこと。

 

◆ 「聖書に忠実に読み、読解するという行為に、オカルトを加算したこと」

 

である。



 エホバの証人の行動原理は、実はすべて最初の項目に起因する。宗教2世に対する虐待が行われるのもそうだ。

 

 ハルマゲドンが、「わたし・あなたが生きているうちにくる」から、組織に従わねばならない

 

という理屈なのである。 


 他人事だと面白いだけだが、エホバの証人はこの「期日」を外しまくっていて、本来的にはそこになんのリアリティもないのだが、信者にとってはそうではない。

 

「具体的期日」

 

が設定されていることは、体感的な恐怖を呼び起こし、また期待を生じさせる。虚構と現実がそこで交差するから、オカルトがオカルトではなく、真理になってしまう。

 

 いや、真理に見えてしまう、といったほうがいいだろう。

 

  虚構と現実、イマジリィとリアリティ。

 

 他者からみれば笑い事の「エヴァンゲリオン」もどきに過ぎないが、それこそ信じるものにとっては

 

 すべては真理で現実

 

だと思っているのだ。そこは笑ってはいけないし、笑えない。

 

 だからこそ、その塔から救いだし、盗み出すことが必要なのである。

 

 

========

 

 まず、押さえておかねばならないのは、宗教界、あるいはカルト界隈において「期日を設定する」というのは最大の危険行為である。

 

 「具体的期日にハルマゲドンや最終戦争が起こる。あるいはキリストが再臨する」

 

という思考は、かならず破滅をもたらすヤバい教理である。なぜなら、

 

「はっきりとその期日に何も起きないことが判明する」

 

からである。(なので、地震予知とかも、これに配慮された運用がなされている)

 

 

 その「はっきり答え合わせがなされてしまう」ということにより、信者はそれまで信じていた心を破壊されるため、その次の行動パターンは限られてくる。

 

◆1 騙された、と我に帰る。

◆2 予言が間違ったことを受け入れられず、こわれた心のほうを擁護する。

◆3 つぎの「より正しい予言」を待ち、期待を更新する。

 

 

1ならばまだマシだ。それでも失われた時間は戻らない。

2の場合、すでに心は二律背反により破壊され、誤ったほうを選択している。

3は先送りだが、永遠に心が囚われたままになる。

 

 ぶっちゃけ、現代のエホバの証人は2と3しかいない。1の人間はすでに脱塔しているだろうからだ。

 

 そして2と3しかいないことは、あるもっと恐ろしい状態を先延ばしにしていることをも意味する。実は4があるのだ。

 

◆4 こわれた心のほうを守るために、死ぬ

 

である。 あるいはエホバの証人の中に、こちらを選択してしまった人がいるかもしれないが、その人はもう語ることはできない。



 さて、ここで、カルトに詳しいものでなくても、この4のパターンで大事件をおこした宗教集団があったことを思い出すだろう。それは


「人民寺院事件」と「ブランチ・ダビディアン事件」

 

である。

 

人民寺院

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%AF%BA%E9%99%A2 

 

ブランチ・ダビディアン

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%93%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3 

 

 

 人民寺院は1978年、南米ガイアナ・ジョーンズタウンで「楽園へ行くために」大量殺人と集団自殺で918人が命を落とした。

 

 ブランチ・ダヴィディアンも、1993年の強制捜査の際、本拠地を自ら焼いて81名もの死者を出している。

 

 

 これらのカルト虐殺・集団自殺事件のことはかなり有名なので、ぶっちゃけエホバの証人の兄弟・姉妹であっても「そういう事件があったらしいわね」ということは知っている。

 

 そしてこれらの自爆系カルトの教義の共通点として「いついつに終末が来る」という具体的期日を持った終末思想を持っていたことも、漠然とは知っているだろう。

 

「そういう人たちがいたらしいわね」

 

と。まるで他人事のように。

 

(余談だが、大量殺人系カルトは現代社会で6つしかないと言われる。

「人民寺院」「ブランチ・ダビディアン」「太陽寺院」「オウム真理教」「ヘヴンズ・ゲート」「神の十戒復古運動」である)

 

 

 この2つのカルトに限らず、「具体的期日を持つ終末思想団体」は他にもあるだろうが、ここで、ものすごく恐ろしいことをはっきり明言しておこう。

 

 自爆系カルトにしてもエホバの証人にしても、ハルマゲドンを期日で予想する計算式は、実は同じだ。

 

という衝撃の事実である。

 

 実は、自爆系カルトが算出した「期日」の計算式と「エホバの証人」が算出している「期日」の計算式は

 

 

 おなじもの

 

 

なのだ!!!!!




 さて、人民寺院の場合は、教祖が神がかりを受けて期日を設定したため、エホバの証人とは無関係なのだが、「ブランチ・ダビディアン」のほうは、めちゃくちゃ関係がある。

 

 すべての自爆系カルトがおなじ期日を設定しているわけではないが「元ネタ」が同じ宗教の場合は、計算式が共通している。

 

 

  どういうことか。エホバの証人の期日計算式は、創始者のラッセルのオリジナルではないのである。

 

 その計算式には「元ネタ」があり、その元ネタから分流したのが、たとえば「エホバの証人」であり「ブランチ・ダビディアン」なのである。

 

 

 そこで、みなさんは知りたいと思うだろう。その元ネタとは何か?を。

 

 それは「セブンスデー・アドベンチスト教会」という今もバリバリ活動している新興宗教である。

 

 

 セブンスデー・アドベンチスト教会

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%96%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%87%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%81%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E4%BC%9A

 

 

 もっと厳密に言えば、セブンスデー・アドベンチストにもその源流があり、ラッセルはその総元ネタ思想からも多分に影響を受けていた。

 

 

 さあ、その元ネタでは何が説かれたのか?そして終末期日を計算するという魔法の方法とはどういうものだったのか?

 

 それを次回は解き明かしていこう。

 

 

(つづく)

 

 

2022年12月15日木曜日

イベント出演 告知です。 武庫川散歩 生出演する!の巻

  2022年ももうすぐ終わりですが、新年早々 2023年になんと!

 

 武庫川散歩さん、メディア出演のお知らせ

 

でございます。

 

 

新春特別企画3時間生配信「発信者たちの宴」

オンライン | By 株式会社 キリスト新聞社

https://utage2023.peatix.com/ 

 

 


 

 

主催はあの知る人ぞ知る、「キリスト新聞社」さんです。

 

 え?キリ新を知らない?! もう!いやだなあ、武庫川さんが

 

 聖書ラノベコンテスト

 

に応募して、みごと玉砕した新聞社さんですよ!

 

 その歴史、馴れ初めを話せば長くなるのですが、元々「ニャートさん」というブロガーの方がおられまして、その方に

 

「武庫川さんのキャラに、きっと向いてるコンテストあるよ~」

 

とわざわざ紹介していただいたのがきっかけ。

 

 それで作品を応募したり、ツイッターのご縁などで、ほんのわずかキリ新の松谷さんと意見交換できたりしたのが、今に繋がっています。

 

 これも縁なのか、神のお導きなのか・・・(^^

 

 というわけで全国1億2千万人のムコガワさんファンにとっては、初の肉声を聴くチャンスでもあります。

 

 ぜひ、どんなイカれたヤツなのか、覗いてみてくださいませ。

 

 以上、告知でございました!

 

 

 

 

 

2022年12月9日金曜日

結婚式に祝電を送った話。

 

 

「今日はどうしても大事な話があるので、直接電話してもいいですかー」

 

というLINEだか、メッセージが来たのは、もう半年前くらいのことだったろうか。

 

 そう言って来た相手、というのは、このブログのコアなファンであればもうおなじみの弟子ことハガネちゃんである。

 

 ええ?直接電話だなんて、どんな恐ろしいことを言い出すのやら?

 

と師匠は内心恐怖に怯えていたのだが、おそるおそる電話に出ると、

 

「師匠!結婚式するから、ぜひ出席をお願いしようと思って!」

 

というものだった。ほっと胸をなでおろす。・・・ああ、ビクビクしたぜ。

 


 最近はずっとnoteに行ったきりで帰ってきてなかったのだが、実はハガネちゃんが結婚する話は、この記事の数話前に載っている。



あの人がついに・・・。

https://satori-awake.blogspot.com/2020/12/blog-post.html


 

 ちょうど2年前の話なので、勘が悪い読者の方なら


「え?再婚?」

 

と思うかもしれないが、そうではない。

 

 勘のよい読者の方ならすぐわかると思うが、コロナ禍で結婚式を実施できていなかったのである。

 

 というわけで、2年遅れの結婚式。こちらのブログでも、ちょうどそれくらい間が開いていて、縁というのは奇妙なものだ。

 

 

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 ところが、残念なことにその日程ではどうしても都合が付かず、祝電を送ることで納得していただいた。

 

 彼女的には、どうしてもムコガワ師匠に「結婚式に出てほしい」と思っていたらしいのだが、いくらお父さんやお母さんとは以前に何度かお会いしたとはいえ、

 

「なぞのおっさんが式場に鎮座している」

 

というのは、社会通念上、非常に意味がわからないことくらいは理解できる。

 

「あのおっさんは誰なんだ?」

 

と話題の的になってしまうだろう。

 

 実は、彼女の夫とも一度電話でお話したことがある。ハガネちゃんは、自他ともに認める暴れん坊娘なので、どうもその夫・その頃は当然彼氏だったのだが、何を暴れたのか喧嘩したのか忘れたものの、もう手に負えないと判断したらしい。

 

 そこで師匠である私に電話をかけてきて、「とりあえず話を聞いてやってくれ」と頼み込まれたのであった。

 

( たぶん、概要はそんな感じ。細かいところが間違っていたらすまぬ。)

 

  電話口で、なぜかその彼氏に


「はあ、いつもお世話をしております」


という、これまた謎の会話が繰り返されるという、悲劇だか喜劇だかである。



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 そんなこんなで、この師弟はいまのところ非常にうまく行っているのだが、そこに至るまでにはそりゃあ、あんなことやこんなことや罵り合いや、怒りのぶつけ合いがあった。


 そもそも恋人同士でもなければ、親子でも教師生徒でもなかったハガネちゃんと、そこまでやりあったのは、結論から言えば「人間同士のぶつかり合い」だったからだろう。


 私は関西でもちょっと郊外に住んでいるが、夜中に阪神間まで自家用車で走っていって、


「貴様、今すぐ表に出て来い!」

「いやだっ!」

 

と戦ったこともあったが、ハテなぜそうなったのかもう覚えていない。

 

 

 こうなってしまうのは、たぶん師匠の側も「かまいすぎ」の傾向があり、いつも反省する。もちろん「距離感がおかしい」のは弟子もおなじで、突然宅急便で

 

「大型モニタのマック」(PC)

 

が送りつけられたかと思うと、あとからうちにノコノコ到着して、居候したハガネちゃんが、それで履歴書とかを作成しはじめるということもあったほどである。


 なぜかハガネちゃんが美少女になるべく、うちの奥さんとムコガワとで「化粧を教える」ということまであった。

 

これは自慢である。ハガネちゃんを美女にしたのは、私だ!(←ちがう)


 

 

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 距離感がおかしい、のはたしかに申し訳ない。反省しきり。

 

 でも、ムコガワと師弟関係になると、どうしてもそういうことが起きる。

 

 表面的な人間関係ではなく、ガチの本音でぶつかってしまうからである。

 

 だから来る者を拒まないときは最初に謝っておくことにしている。

 

「絶対にあなたと喧嘩したりする日がくるから、その時はごめんなさい」

 

と。 相手はまあ、一般的な社交辞令だと最初は思っているから、「こちらこそ」みたいに会話を交わすのだが、


 かならずホンマに、人生で最大級のどよーん・・・


みたいなのに襲われるという。(いやまあ、その時は師匠だって、おなじだけ痛いのだけれど)

 

 

 

 その理由は明白だ。

 

 人が真剣に腹を割って話すということは、きっとそういうことなのだろう。

 

 あるいは、自分がどう生きたいのか?みたいなことを刃として突きつけ合うからかもしれない。


 武庫川一門の勝負は、真剣によるつばぜり合いなのだ。



 そのことを「嫌だ」と思う人もいるし、「耐えられない」と去ってゆく人もいた。

 

いた。

 

けっこういた。

 

・・・めっちゃいた!

 

 

 このブログにも登場した「ウサギちゃん」は、「師匠が好きすぎて耐えられないから消える」と言い残して、ほんまに消えてしまった。

 

 そういえばウサギちゃんはエホバの証人だったので、自分の研究生にしようとワシは狙われていた(汗)

 

 

 新弟子が入門しました。

 (2017)

 

↑クリックすれば、とぶぞ。 


昔の記事を見ると、ああ、そうだったなあと思い出す。

 

(この間、ハガネちゃんすら「師匠と断絶しようとしてた」ことが、さらっと書かれているので、怖ろしや、おそろしや)

 

  うん、これ通過儀礼なのかもしれない。ワシはいつも絶交される憂き目に遭う。

 

 

 ウサギちゃんのことを思い出したので、検索すると、なんとたった2記事にしか登場していない。

 

 彼女はそれくらい弟子だった期間が短かったのだろう。そのもうひとつの記事が

 

可愛い女子の弟子との会話 

 (2017)

 

↑こっちも、とぶぞ。

 

である。

 

 今読み返したら、めっちゃいいことがたくさん書いてあって、驚いた。たしかに彼女に学んだこともたくさんあるのだ。

 

 当時の私のスタンスと、今のスタンスにちょっと違いや進歩が見られる?(ほんとに?)のは、そのためかもしれない。

 

 読み返してみて、よかった。

 

 

 それにしても「可愛いかわいい」とアホみたいに書いてあるのだが、アナウンサーの水トちゃんにそっくりだったので可愛いことは間違いない。

 

 よく、王国会館での清楚な集合写真を送ってきてくれたものであった。

 

 彼女も、当然ながら宗教2世であったが、いまはどんな思いなのだろう。

 

 

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 さて、話があっちこっちに飛んだが、ムコガワ師匠の思い出話もいったん休憩としよう。

 

 とりあえずはハガネちゃんが結婚式なのだ!めでたい。

 

 いろいろあったけれど、ハガネちゃんはとりあえず師匠から離れるつもりはないようだ。

 そして、いつか乗り越えてゆくだろう。

 擬似的お父さんは、嬉しいぞ。

 

 

(おしまい)

 

 

*もしハガネちゃんが、「あることあること全部書くなボケ!」と起こってきたら、消すかもしれません。あしからず。

 

*ウサギちゃん、これ見てたらぜひ宗教2世・界隈で会いましょう。

 

 

 

 

 

 

 


 

2022年12月7日水曜日

奇跡ってなあに? のお話

 

 たいへんご無沙汰しております。みなさんの武庫川散歩です。

 

 もうずーっと長年bloggerさんで、宗教やら哲学やら人生やら、なんやかんやのお話を書き連ねてきたわけですが、特に2022年今年は

 

「宗教2世」

 

という存在が社会的にも大きくクローズアップされたこともあって、基本的にはnoteのほうで、宗教2世がらみの話をすることが増えました。

 

 解脱者 武庫川散歩のnote

https://note.com/mukogawa_sanpo

 

 noteも最初のほうは話題を公平に振り分けておりましたが、今や宗教2世一色になっておりますので、しばらくはお許しください。

 

 なんせ私、エホバの証人2世だったもので(てへぺろ)

 

 

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 さて、今回は奇跡について、お話。

 

 おいおいいきなりオカルトでスピリチュアルかよ!と思われるかもしれませんが、ここ1ヶ月くらいで

 

 ズキューン!ドキューン!

 

と奇跡的なことを体験することがありまして、 「ああ、奇跡というのはこういうことなのだな」とひとつの納得をしたので、記憶のメモがわりにおいておこう、というわけです。

 

 

 奇跡というのは、一般的に「物理的にありえないようなことが神や心霊を交えて起こる」というニュアンスで語られますが、たぶんそんなものではありません。

 

昔いたサイババみたいに、手から金の粉を取り出すような、そういうトリックじみたことを奇跡と思うのは、おそらく間違っています。

 

 

 奇跡とは何か?

 

  そういうことをまじめに定義すると、究極的には

 

「愛」


という言葉を貼り付ける以外にありません。


 この言葉、実はベタすぎて使いたくないのですが、使わざるを得ないところが本当にもどかしい。

 手垢がつきすぎて、すでに上滑っている言葉なので、なんでもかんでも「愛してる」でごまかされているような節がありますが、まあ、それは横に置いておいて。



 もう少しわかりやすく書いてみますね。


 キリスト教においては、イエスが起こした奇跡というのは、主に「物理的にありえないこと」をメインに記述されています。

 

 魚を増やすとか、水の上を歩くとか。

 

 ただ、まあこうした奇跡は、実は奇術のトリックでも充分再現可能なわけで、物理的にへんてこなことが起きることが「奇跡」だというのは、ことばのアヤみたいな部分もあるでしょう。

 

 だって、みなさん、手品を見たからといって、あなたが幸せに生きる未来が訪れます?

 たぶん関係ないでしょう?

 

 

 

  イエスの奇跡のうち、ほんとうに聖書の記述者が言いたい部分はたぶんそこではなく

 

「多くの傷ついた人たちが癒された」

 

というところだと思います。


 これにも、実は言葉のアヤが紛れ込ませてあって、その時イエスは「病を治療した」のかもしれません。

 

 そうして病が治った。

 

 これは、実は奇跡に頼らずとも、「医療」に頼ればある程度は再現性があります。

 

 けれど、医療は奇跡ではなく、ドライな科学ですよね?

 

 医療はあなたの傷を治癒しますが、あなたを幸せな未来に連れて行ってくれるわけではなく、マイナスからゼロに戻すだけです。

 

 

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 では、人が信仰をもつような、自分の人生の希望をもてるような「奇跡」とはなんなのか?

 

それは、おそらく

 

「自分は愛されている。自分の中身から外側までまるごと愛されている」

 

という感覚や実感なのだと思います。これはあなたの人生をゼロからプラスに転じます。そういう力を持っている実感です。

 

 愛されている・あるいは同時に愛しているという実感が、「心の傷」をそっくり消してしまうわけ。

 

 それこそ「癒す・癒される」という言葉が合うかもしれません。

 

  イエスキリストが言いたかったことは、本当はこれなのだ、「人と人は心から愛し合える」ということなんだ、と推測いたします。

 

 

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 で、武庫川さんに何があったのか?ということですが、ごく平たく言えば、まるごとそのままで心の奥底から外側まで、共有できるような人と出会えた、ということです。

 

 つまり、奇跡は人と人の出会いが起こすものでもある、ということでしょう。

 

 かのイエスですら、人々のところに出かけて行って、触れ合うことで奇跡を起こしたのですから。

 

 

 ちょっとだけ中間まとめです。

 

◆ 奇跡とは出会いであり、人と人が起こすもの

 

◆ その出会いが、「愛」を実感できるものであり、未来の希望になること

 

◆ その愛が、まるごと互いの心の奥底から、外側まで癒すことができること

 

 という感じ。

 

 



 さて、武庫川さん。人生においてそんな人物と出会えるとはまったく思っていなかったので、とても驚いております。

 

 このブログでもおなじみの通り、いろいろな弟子たちがいて、彼らと哲学的な交流はたくさん死ぬほどしてきましたが、それはこちらからの一方的な方向性であり、武庫川さんのことを理解しているか?と言えば謎です(笑)

 

 ところが、その人は、いきなり出会って「こちらの中を覗き込んできた」わけです。

 

 ああ、おそろしい。

 

 覗き込んできて、「みつけた!あたしと同じだ!」と言うわけです。めちゃくちゃ変わってますよね?そもそも武庫川がかなり変わっているのに。

 

 そこから後は、「何が同じなのか?」「それは本当に同じなのか?」「口先だけでそう言っているのではないのか?」といった検証作業がお互いに行われるわけですが、どうも嘘はないらしい。

 

 むこうも向こうで、当初は自分と同じと思ったけれど、そこに差異はあるのかなど、おのずと検証しますから、手探りです。


 その手探り状態が、たぶん2日くらい?けれど、その後は、


「あ、我々には検証作業は不要だ。それくらい同じだ。もしくは共有してる」


ということが判明してしまい。二人して「なんじゃこりゃ!わはは」と笑い転げる始末。


 その後も、心のいろいろな部分を共有していることを、互いに理解しはじめると、どちらも何十年もそういう相手が現れなかったのに、『今、この場で出会えた!』ということがわかってきたのですね。

 

 ええ、それはまさしく奇跡的であり、もう二度とそうした人は互いに得られないでしょう。

 

  だから奇跡なのです。一期一会どころか、唯一無二。

 

「この相手を互いに手放してはいけない」

 

というのが、恋だとすれば、

 

「いやもう、すでに中身は同じなので。離れようがない。離れていてもやってることは結局同じ」

 

ということになり、それをこのセカイの言語で説明するのに難儀しました。

 

 友情・同志・理解者・共通・相互・似てるね・同じ・・・・

 

どんな言葉を重ねても、どれもしっくりこない。全部言葉がたりない。

 

 そこで二人の間では、

 

「これは愛だ」

 

ということで決着がついたのです。

 

 手垢がついた言葉過ぎて、ぜんぜん説明になっていないのだけれど、まあ「愛」だと言えば、そうしか言いようがないのです。

 

なぜか?

 

「自分と相手が同一のこころであるなら、喜びや痛みもすべて共有しているから、互いに対してもの言わずとも、それはいつもやっぱり同じである」

 

のだとしましょう。その時に相手に対して行ったり抱いたりする気持ちや行動は、もはや「愛」としか言いようがない、ということだったのです。

 

 

 もちろん違う部分だってある。たぶんめっちゃある(笑)しかしながら、その部分もふくめてまるごと

 

「あ、それでいい。そこを含めても総合体としては同一だ」

 

と互いに同時に言ってしまうので、もはや説明はつきません。言語の領域を超えています。

 

 

 だから「奇跡」というしかないわけで・・・。

 

 

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 たぶん、これを見ている人は、

 

「 なにこれ?めちゃんこすごいノロケを読まさせられてる?」

 

と思うでしょうが、そちらにとってはそうかもしれません。

 

 こちらは大真面目に、「いったい何が起きているんだ」というこの壮大な謎に、二人して驚いているわけですね。

 

 正直、ビビっており、ヤバいと思っています。二人とも。同時に。

 

  そしてまた「愛」らしきものなので、二人して同時に深い安堵に満たされてるという感じ。

 

 

 というわけで、「奇跡はある」「それは愛だ」というお話ですが、結局それは奇跡に直面したものにしかわからない、ということだと思います。


 それが読者である「あなた」とってに、


 

やってくる日はあるのか?

 

いつやってくるのか?


ということはまったく不明なのですが、そうした奇跡が

 

この世に存在するらしい

 

ということは、 セカイにとっての希望なのではないか?というオチでした。

 

 

 

 

 この話、実はそこで終わりません。たぶん、このヤバい二人が出会ってしまった結果、次々にそれ以上の奇跡を何か起こしそうな予感です。

 

 それはセカイに激震をもたらすかもしれませんが・・・、こう御期待(笑)