2016年1月24日日曜日

人はなぜ戦争するのか ~戦争が絶対になくならない理由~

 なぜ、人類は戦争をするのだろう・・・。そんな哲学的疑問に心を痛めている武庫川散歩です。


 え?解脱したのに、そんな俗世のことに気を病むことなんかあるのかって?


 もちろん、ありません。すべてはポーズです。 しおらしいフリをして、週刊文春をセンテンス スプリングと陰で呼ぶようなものです(^^


 ちなみに、ベッキーさんがこれからどうすればよいかと言えば、いっそゲスの極み乙女に加入して、


「ゲスの極みベッキー」


と呼ばれるようになれば、 サンデージャポンには常連で出られるようになろうかと。



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 今日もまた、つまらぬものを斬ってしまった、武庫川散歩ですが、もとい。


 そういえば、前にも


「なぜ戦争はなくならないのですか?」
http://satori-awake.blogspot.jp/2014/08/blog-post_11.html


という記事を書いていましたが、今回はもう少し面白い情報を発見しました。


 WIREDより 

「文明は農業ではなく、戦争によって発達した」:数学モデルによる歴史分析

http://wired.jp/2013/09/26/computer-simulations-suggest-war-drove-the-rise-of-civilizations/ 

 

これは、簡単にいえば古代の世界の成り立ちをシュミレーションしたところ、文明というものは「地形、農業、環境」をもとに計算すると、精度が16%しか上がらないのに、そこに


 軍事技術


を加味すると、帝国の出現を65%の精度で算出した、というものです。


 たしかに、よく考えてみると「戦争」が文明の発展に寄与する役割というのはものすごく大きいものがあります。


 身近な例はたくさんあります。


 ロボット掃除機、ルンバは「地雷除去プログラム」によって動いていますし、気象衛星や衛星放送は、もともと軍事衛星の技術の応用です。

 オリンピックの競技の大半は、軍事能力そのものです。砲丸投げ、幅跳び、槍投げ、射撃、乗馬、・・・短距離長距離走ですら、軍事行動の基本なのです。



 しかし、記事ではそうした単純な軍事的要素だけでなく、たとえば「官僚制度や、社会制度といった効率的組織の生成(=帝国の出現)」までが、


戦争によって発展する


ことを示しているというのです。


 となると、戦争は必要悪といった押さえどころか



戦争は文明にとってマストである


といえるのではないでしょうか?





 日本においても、明治になってすべての国民に「苗字」を与え、「戸籍」を整備し、四民を平等にしたのはなぜか?


 それは、完全に平等で効率的な「徴兵」を実施するためです。


 また、昭和になって「厚生年金制度」が設立されたのも、太平洋戦争の戦費調達のためであることは有名な話です。


 戦後焼け野原になった、日本が復興したのは、朝鮮戦争のおかげです。


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 このように考えると、人類は戦争のために文明を育てている、と言っても過言ではありません。


 人は争いたいのです。


 人は戦いたいのです。


 そのために努力は惜しまないのです。








2016年1月20日水曜日

宗教の教祖になりたいあなたへ! カリスマになるには?! 〜今日から君もカリスマだ!〜

 ・・・解脱、してますか?




 ・・・解脱ですか!? 1・2・3ダーッ!





 どうも、あなたの心の隣人、武庫川散歩(オス♂)です。



 世の中には


「あー、教祖になりてーなー」

とか

「宗教をはじめたいなー」

とか

「信者にいちゃいちゃされたいなー」

とか、


そういう妄想に取り付かれ、明日の教祖を夢見ている方もたくさんおられると思いますが、そんな方に朗報です!



 『デイリー新潮』に掲載されている藤倉善郎さんの記事、


”なぜ「新興宗教」指導者の演説に惹きつけられるのか”

(1) http://www.dailyshincho.jp/article/2016/01190410/?all=1

(2) http://www.dailyshincho.jp/article/2016/01200410/?all=1


が秀逸で、今をトキメク新興宗教の教祖たちが、


どんなテクニックを使って、カリスマとなっているのか


を徹底解明しておられるのです。


 詳しくは上記記事を参照願いたいのですが、まずはヒトラーの話術からはじまって、カリスマ教祖の使うテクニックの実例をたくさん挙げています。



 その中からいくつか紹介してみましょう!



<テクニック1  じらし>

 少しざわついている聴衆、しかしカリスマは一言も発せず、数十秒は沈黙しています。その沈黙を異変に思い、聴衆のざわつきが静まったその瞬間!カリスマは話しはじめる・・・。


 これは、ヒトラーも使ったという「じらし」のテクニック!あえて何も言わないことで、「何を言うのか、何がはじまるのか」と興味関心を集中させたその瞬間に、カリスマの言葉を埋め込もうとするテクなのです。




<テクニック2  自分を大きく見せる方法>

 小林幸子のように、でかいものを背後に背負うなど、物理的に大きくみせることで、聴衆はその大きさをカリスマの偉大さと勘違いするのです。

 仏像に光背がついているように、タカラヅカの羽かざりのように、あるいは歌舞伎の衣装のように、大きいことはよいことなのです。

 ちなみに、関西No1と言われる、大物司会者はシークレットシューズを愛用しているとかしていないとか。ありがとう。



<テクニック3  二元反復>

 連呼すること、繰り返すことでその言葉・フレーズを強調し、聴衆に刷り込むのは古来からの基本的なテクニックです。

 とある宗教団体でも「修行するぞ、修行するぞ、修行するぞ」を繰り返させていましたし、「気合だ!気合だ!気合だ!」と連呼する大物スポーツマンも有名ですね(^^

 繰り返しのテクにやられるのは、お笑いでもいっしょ!

「ラッスンゴレライ♪」も、「ラッセンがすきー♪」も、「ラララライ」もぜんぶそう。




<テクニック4  親和表現>

 親和とは「相手に親近感を覚えさせること」です。なんと!このブログで武庫川散歩が、いつもアホみたいなことを連呼しているのは、このテクニック!

 口当たりのよい話し方や、親しみ易いネタをはさむことで、相手に親近感を覚えさせるという魔法の手法を、解脱のカリスマ武庫川散歩も使っているのですから、恐ろしい!!


 けっして、だまされちゃあ、いけませんぜ(ニヤリ)



 ちなみに、恋愛でもこのテクニックは使えます。人は、出会う回数が多ければ多いほど、親近感を覚え心の扉をひらくもの。なので、若かりしころの武庫川散歩も、好きな女性の前には、たびたび姿を現し、お見かけさせたものです(^^




<テクニック5  コンシート話法>

 相手が思ってもみないことを言ったり、発したりすることで、好印象を植えつけるものです。


 これも武庫川散歩は多用していますね。毎回毎回、可笑しなツカミをもってきてから本題に入るなど、宗教家とは思えない話を連発するのが、武庫川のオチャメなところなのです。


 
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 とまあ、こんな感じで新興宗教のカリスマが、いろんなテクを駆使して人民の心をわしづかみにしていることがよくわかる良記事、勉強になりますねー。


 
 武庫川散歩が、いまいち宗教界でブレイクしていないのは、実は「直接法話をしていないから」ということもあります。


 現在武庫川は、このブログでしょーもないことを語るだけしかしていないので、ふつうの方々はその魅力に気付いてはおりません(笑)


 もし、あなたの前に武庫川が現れて、何か心に響くお話をしたとすれば、もうその瞬間から



 ハートがずっきゅーん!!!



になること請け合いです。なーんて。





2016年1月5日火曜日

<書評> 最良の仏教入門書 「知的唯物論」(宮崎哲弥・呉智英) を読む


 あけましておめでとうございます



 ・・・と言いたいところですが、悟りを開いた解脱者にとっては、別に「めでたくも」なんてこともないので、撤回します。


しかし、め、めでたくなんかないんだからね!といえばまるで ツンデレ女子みたいなので、それもやめておきましょう。


「めでたさも中くらいなりおらが春」という小林一茶の名句があるが、まさにそんなもんですね。


 さて、新年もあけて本日は5日。・・・もとい、仕事はじめの時期でもあり、世間のみなさまもこれから再び忙しくなってくるというもの。


 がんばりませう。ほどほどに。


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 さて、というわけで、正月休みの間に読んだ本で、面白いものがあったので何度かに渡り紹介しておきます。

 まず、一冊目は

「知的唯仏論」 宮崎哲弥・呉智英 共著 新潮文庫


 刊行は2012年ですが、文庫版が昨年12月に出たところだったので、文庫版をごちそうになりました。


 宮崎のてっちゃんは、TV番組などでもおなじみの若手評論家ですが、本人は仏教徒であり、信徒としての目線でも、仏教について冷静に語っています。

 呉智英氏は、不肖なる武庫川散歩の心の「師」とも言ってよい評論家です。もし、呉智英の著作に出会っていなかったら、武庫川はこんな風に解脱していなかったであろう!と言っても過言ではないくらいのスゴイ人(笑)

 (ちなみに呉氏は仏教者ではなく「儒教」をメインとしている方)


 呉智英氏は、どちらかと言うとマンガ評論で有名なのですが、そっち関連でない・まともな評論活動では、キレッキレの理屈をぶちかましてくる恐ろしい人物なのです。



 当時19歳の若造であった武庫川散歩は、阪急宝塚駅のトイレの前に打ち捨てられていた「サルの正義」(呉智英)を手に取り、そのまま3歩あるいて


 天上天下唯我独尊!


と叫んだとか叫ばなかったとか。


え?叫んでないですよ。だから「叫ばなかったとか」と申したまでです。

 しかし、19歳の武庫川散歩は、この書をきっかけになんと宗教の理論書を自ら書き始めます。

 その謎のノートに書き付けられた理論書「神の論理」は武庫川的解脱の最初の萌芽となったのでありました。



 ご興味のある方は、ぜひそんな呉智英の本をお読みあれ。


「サルの正義」(呉智英) 双葉文庫

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 さて、宮崎氏と呉氏の対談形式で進むこの本、マンガとしての手塚治虫版「ブッダ」の話からはじまって、このブログでも以前に取り上げた「神道系新宗教」との比較キリスト教との比較などを踏まえて


ブッダが始めた、原始的な仏教の姿


について解説が広がります。


 日本には多数の仏教の宗派があって、それらのほとんどは「大乗仏教的」(みんなを救うぜ)な理論で構成されているんですが、初期の仏教(オレだけ悟るぜ)な理論の本質を簡単に知りたい人にはかなりおすすめだと思います。