2016年5月27日金曜日

ストーカーは正義である! 〜ストーカー事件が、絶対になくならない理由〜



何度となく繰り替えされるストーカーによる殺傷事件。

今回も一人の女性が刺傷されたり、ましゃ(福山)の家に女が忍び込んだり、と悲劇が繰り替えされているのだが、



 なぜ、ストーカー事件は何度でも起こるのか! ーその答えは、ストーカーは正義だからである!


 
ということは、一切報道もされないし、指摘されることはない。





 というわけで、解脱系社会派記事をお届けしている当ブログとしては、


なぜ、ストーカーは正義なのか!?


を炎上覚悟でご説明申し上げようと思うのである。





 ちなみに、最初に断っておくが、このブログの主は、悟りを開いた解脱者(ぱっかーん)なので、誰か特定の異性に対して、


「ストーカーを行うことや、ストーキングを行うような気持ちは一切ないし、ストーカーを弁護するつもりも全然ない」


ということをあらかじめ宣言しておきたい。


 そうじゃないと、「不倫は文化だ!」と発言の一部を切り取られてしまった石田純一氏のように、本意でない発言が一人歩きして炎上してしまう恐れがあるからだ。




 そういえば、一部を切り取られてしまった弁護士がおられたが、いかがお過ごしであろうか。





 なので、炎上しないように、何度も繰り返し述べておこう!




「ストーカーは正義だ   (と加害者は思っている)


「ストーカーは正義だ! (加害者目線では)


「ストーカーは正義だ!!!!(と加害者は妄想している)



 これで、ばっちりのはずである。



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 さて、悲しいかなストーカー事件は、これまでもこれから無くなることはない。なぜなら、ストーカーは正義だからである。



 一般的には、ストーカーは次のような心理パターンを取ることが多いとされている。


① 元親しい人や、親しいと思っている人から拒絶されたことによる復讐型。

② 親しくなかったり知らない人に対して、攻撃を行う憎悪型。

③ より親しくなろうとして度を越した行動を起こす親密希求型。

④ 人格障害などの病気のせい。



 しかし、こうした分類よりも着目すべきは、すべてのストーカーが「自分は正当な行為をしている」とか「自分は間違っていない」と考えている点ではなかろうか。



 そうなのである!


 ストーカーは、たとえば親しいあるいは親しいと思っていた人に理不尽な拒絶をされ、「どうして自分が悪者や忌避扱いされないといけないんだ!」と憤慨しているのである。



  ちょっと、想像していただきたい。



 あなたがこれまで友人や同僚だと思っていた女性から、


「うわ、まじキモいんだけど~。近寄らないでほしいんだけど~」


と突然言われたとしよう。 たぶん、すべての男性は、変態マゾヒスト以外の全員


「ちょ、ちょっと待て!なんで俺がそんな風に言われなあかんのや!」


と思うに違いない。


そこ!そこのあなた!それがストーカーなのです!!!!!


 ましてや、そんなことを言われると、さらにあなたは憤慨することだろう。そして、


「なんでや!ちょっとその理由とか、キモいだの言われる意味がわからんから説明しろや!」


とちょっと詰め寄ったりなんかしちゃうのである。するともう、つきまとい扱いなのだ。



 こんな状態に陥ったら、あなたはとても理不尽に思い、「自分は悪くない、相手が何かおかしい」と思うようになる。



 つまりである。



 ことの次第はともかく、ストーカーは↑のように考えていることがわかるだろうか。



 彼にとっては、自分は「正義で正しい話をしているだけで、当方が悪だなんてこれっぽっちも思っていない」ところに女子たちと完全に意見の相違があるのだ。



 このことを解決しない限り、ストーカー問題は絶対に解消しない。




 このストーカーからみた理不尽さが、外部の人間にはわかりにくいことも、話をややこしくしている。なぜなら正義は多面性を持つからだ。



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 今回のシンガーソングライター刺傷事件に対して、あるアイドルがこんな主張をした話が出ている。



「アイドルを一人の女子と見るのではなく、アイドルと見るべきだ。アイドルはあなただけのものではないし、あなただけに接しているわけではない。アイドルに嫌がらせをしているあなたはもうファンではない。アイドルは関わっているみんなで作っている商品である」


と。


 もちろん、これは正義正論である。


 アイドルはお金をもらって偶像を売っている商売なのだから、そのルールに逸脱して本当の恋愛になってはいけないとか、特別扱いしてはいけない、というのはたしかにアイドルの側から見れば正論に他ならない。



 ただ、正義正論で話を通そうとすると、今度は顧客の側にも正論が出てくることになる。


「だとすれば、アイドルはいかなる場合でも笑顔で応対すべきであり、すべての贈り物を有難く受け取るべきであり送り返すなどもってのほかである。逆に言えば、特定の個人を排除するなど、顧客に対する差別である。私はよろこんでもらおうと通いつめているだけであり、それ相応のお金も払っているし、それを嫌がらせだなんて錯誤もはなはだしいし理不尽である。」



と、ストーカーはまじめに考えている。正義はワレにあるのだ!と。




~~~~~~~~~~



 この話は、宗教とおなじである。どちらが正義かで話を戦わせれば、議論は尽きないし終わらない。あるいは議論をしようとしている人間に対して強制的に議論を打ち切れば、彼は「議論」以外の何がしかの力を持ち出そうとするであろう。


 これは国家間の戦争のはじまりも全く同じである話し合いで解決なんかしないから、武力が飛び出すわけだ。


 


 そうすると、もしアイドルが刺されないようにしたり、恋愛でストーカーを生じさせないように防衛するとすれば



「このアイドルは擬似恋愛を楽しむ商売であって、触れそうで触れず、心が通じそうで通じないという風流さを楽しむごっこ遊びです。そのベースとなるのは、お金です。お金とハートが入り混じり、運営側の営利と、ちょっとした虚栄心と華やかさ、それに顧客の一時の誤解に基づくハートフルな気持ちのバランスを楽しむ商品ですので、のめり込みすぎにはご注意ください」


とテレビの画面やCDに書くべきであって、


「あなたとの恋愛は、たまたま最初はいいなと心が通じ合うような気持ちになるかもしれないけれど、そのうちに冷めたり心変わりもあり得るという微妙な乙女心を十分に理解した上でお付き合いください。今日はラブラブだけれども、明日にはキモいとかクサいと思ったりしちゃったり、もうマジでウザいんだけど、という変化もあるかもしれない危ういものだとわかったうえで、そんな我侭も受け止めて、つ、つきあってください!」


と言うべきなのだ。




 消費者庁の指導によれば、優良誤認を起こさないように、小さい字で隅っこにちゃんと書いておけ!となっているわけで、アイドルも商品なんだから書いておくべきなのである。




 しかし、そこはホレ。その部分をなんとかごまかしながらお金を動かしてゆきたい、というのが資本主義なので、そこにはストーカー君の正義は無視されてしまうことになる。


 あるいは、口ベタで純朴なオタク男子の心はもてあそばれちゃったりするわけである。



  先日、小学生のケンカで相手が亡くなる、という惨事があったようだが、小学生にしてみれば


「お前なんてぶっころしてやる!」


と思えば、本気で殺そうと思っていることは間違いない。それはジャイアンにいじめられたのび太も


「あいつを殺してボクも死ぬ!」


となんどもドラえもんに言いまくっているくらい、そうなのだ。




 その小学生くらいのコミュニケーション度しかない、大きなお友達が、本気で恋してしまったら、それはもう殺意だって本気に他ならない。



 私くらいの解脱者になれば




「女なんてしょせんクソ袋である」

※by 『仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か』 魚川祐司・新潮社





というブッタの言葉が心から理解できるため、クソ袋に本気にはならないのだが、小学生で止まっている大きなお友達には、そういう「達観」は無理なのである。




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 というわけで、ストーカー事件は今のところ絶対になくならないのだが、もし本当にストーカーをなくそうと思ったら、ストーカーが抱いている正義を破壊しなくてはいけないということだ。


「これこれこういう理由で、あなたが正義だと思っていることは、客観的にはそうではない」


ということを理解させるよう、諌めることができる存在がいなければ、彼は最後まで正義を貫こうとするであろう。



 そして、この役目ができるのは、被害者サイドについているものではない。なぜなら、正義の執行者から見れば、「被害者側からグダグダ一緒になって言うやつは、正義の反対、つまり悪」だからである。


 ということは、できればこの諌め役は、ストーカー側の人間か、もしくは中立公平な立場の人間しかいないということになる。


 たとえば、ストーカーにとっての親兄弟は、この諌め役になれる可能性があるだろう。しかし、中立な立場でこれを実現できる人間はなかなかいないのが実情だと思われる。


 たとえば裁判官か?


 たとえば民生委員か?


 たとえば卒業学校の元恩師か?



 まあ、誰もそんな役はやりたくないわな。



 だから明日もまた、誰かがストーカー被害に逢うだろう。と預言者は高らかに述べるのであった!

















2016年5月26日木曜日

<勝手に人生相談シリーズ 10 >「テレビに出たいです!簡単にテレビに出られる方法ってありますか?」 ~あなたもすぐに有名人になれる!とっておきの秘策とは~

 前回は、「有名人というのものは3つの段階がある」というお話をしました。

 そして、有名人になりたい場合は、まず、第一段階であなたが有名になることを目指しなさい。ということもアドバイスしたと思います。


 前回はこちら↓





 さて、第一段階というのは、「それぞれ、自分のジャンルで頑張る」ということだったので、もっと貪欲で欲深いあなたには満足できないレベルだったかもしれません。そこで、今回は、誰もが


 簡単に有名人へのステップ第二段階へと進むことができる魔法のテクニック!


を伝授しちゃいましょう!!!


 ・・・こんなことばっかり言ってると、「本当にあんたは解脱者なのか」と疑われそうですが、紛れもない解脱者です。キリッ。パンツ脱いでますもの。




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 表題に「簡単にテレビに出られる方法」と書きましたが、そんなものが本当にあるのか?と思うかもしれません。

 ありま~す。STAP細胞くらいあるのです!!!


 テレビに出れば、一応「ああ、この人はこんな活動をしてるんだな」ということを活動のグループ外の人にも知ってもらうことができます。

 つまり、第二段階に突入というわけですが、それは難しいことではありません。



 そこに至るためには、武庫川散歩が、テレビやらラジオやらにどうやって出たのかを学ぶとよいと思います。では、そのあたりの裏話をお話いたしましょう。




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 まず、ラジオに出たのは子供の頃でしたが、その直接の方法は「親が勝手に番組に応募したから」というものでした。「うちの子はこんなに面白くて、いつも番組のテーマ曲を歌ったり、まねばっかりしているのでおたくの番組が大好きだ」という趣旨を放送局に(当時はおそらく電話か葉書)で送ったので、その話が採用された、ということでした。


 ここからとても面白い話をします。

 ある日、番組のスタッフから電話がかかってきて、「お話が聞きたい」ということで、まだ解脱前の子供であった武庫川は、そのスタッフと電話で話をしたのですが、実はそのスタッフさんをMCの司会者に見立てて、「実際の番組で行われるであろうやりとり」を一度最初から最後までやらされているのです。


 どんなことができるのか?どんな話が面白いか?をいわゆる大人の話で言えば、「ネタあわせ」をしたし、「リハーサル」を行った、というわけです。

 そして、ここから先も興味深いのですが、「面白いので、本番でもお願いします」とスタッフが採用を決め、(つまり、それが審査になっている)、その後のラジオ本放送で、幼児な武庫川は、


 まったくおなじネタを、もう一回やった


わけです。



 はい。ここで教科書に出るポイントがいくつかありましたね?覚えていますか?


 ■ 番組に出られるかどうかは、かならず事前にスタッフの審査が入る。

 ■ 自身のネタをスタッフ相手に一度リハーサルする。


の2点です。


 ああ、そして大事なことを忘れていました。


 ■ 自分から応募する、という方法でメディアに出ることができる。


も忘れてはいけません。



 さて、今度は雑誌の取材とテレビの話をしましょう。雑誌もテレビも、武庫川の場合は、


「先方から取材依頼を受けた」


のが実態でした。武庫川は第一段階ではすでに有名人になっていましたので、その話を聞きつけたメディア側が、こちらに取材を申し込んできたというわけです。


 ここからまた面白い話をします。


 雑誌は記者さんでしたが、テレビはまず放送作家が連絡をしてきました。そして、


「かならず掲載(あるいは出演)になるかはわかりませんが、まずお話をお聞きしたいです」


と言うのです。(つまり、これも先方から見ると、ネタの審査になっている)




 そして、ネタがOKになると、今度は実際に会っての取材がはじまります。 雑誌の場合は、記者さんが直接当方へ来られて、会話での取材と写真撮影がありました。


 テレビの場合は、さらに面白くて、番組ディレクターが直接訪問してきて、放送作家との話をもう一度同じように確認されたのです。


 つまり、これで話の内容としてはリハ2回目、ということになりますね!



  テレビの時は、今度はタレントさんと実際にやりとりをするわけですが、ここまでくると、


「おなじネタをやるのは3回目」


というわけです。面白いでしょ?


 これはちょっと前に勉強したポイントとまったく同じです。「先方の審査があり、そしてリハに相当することがかならずある」という事実は、覚えておいて損はありません。


  さて、さらに面白いことをお話しましょう。


 そもそも、雑誌やテレビのスタッフが、なぜ武庫川に連絡をしてきたか?を知っておくのは重要です。


 私は、なぜこいつはワシのことを知ってるんだ?とずっと思っていたけれど、テレビのスタッフがこんなことをふと漏らしまして謎が解けたのです。



「武庫川(仮名)さんって新聞に出てはりましたよね?」

と。


ああ!そうさ!そのとおりさ。イベントをやるのに、新聞に出たのが数回あるけれども、そのうちの半分は


「イベントやるよ!という告知を新聞社に送りつけた」


のが誰も知らない真実なのです!



 つまり、こういうことです。よく覚えておきなさい。



 メディアに出るには、「向こうから取材を申し込まれる」こともあるけれど、そもそも「こっちから情報を発信する」ことがなければ、誰もあなたのことは知らない、ということがポイントなのです。



 メディア関係者は、何をしているか?彼らの気持ちになって考えましょう。



まず「新聞や雑誌などの他のメディアを調べて、面白そうなネタを探す」のがスタートです。

そして「そのネタが、今回のメディアのテーマに合っているかどうか、おもしろいかの審査をする」のが第二段階です。

さらに「かならずリハをして、面白さをハズして失敗しないように、下支えする」というのが定番なのです。




  だからかならずテレビ番組のサイトなどには「面白情報送ってね」とか「この町の情報募集しています」とか小さく書いてあるのです。


 彼らはもともとから「ネタを探して、待っている」わけです。



 だからテレビに出たいあなたに送る、とっておきの秘策は、



「自分で応募しろ」



ということなのです!!!もちろん、審査に相当するものがあるので、あなたに実力がなければそれまでですが、待っていてもあなたのことは誰も知りません。


 あなたが有名になれるかどうかは、あなた自身にかかっているのです。



















<勝手に人生相談シリーズ 9 >「有名になりたいんですが、どうすれば有名になれますか?」 自意識過剰で、承認欲求が強いあなたへの具体的アドバイス!

 どうも、最近周囲の人から「よ!有名人!」とやたら声を掛けられる武庫川散歩です。

 武庫川散歩本人は、世間のスキマを掻い潜りながらひっそりと生きているので、見かけても路傍の石のようにほったらかしにしておいてください。


 というわけで、今日の勝手に人生相談のコーナーは、


「有名になりたい!」


という自意識過剰で、承認欲求が強いおまいらへの、心あたたまる処方箋をお届けしましょう。



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 最近は、小学生に尋ねた「将来なりたいものランキング」になんと!


youtuber


がランクインするほど、人前に出て有名になったり、メディアに露出してお金を儲けたい子供たちが増えているそうで。


 おぢさんから見れば、この世は無常にもほどがあるなあ、という次第。


 しかし、それはそれとして、「そうなりたい」人たちが山ほどいても、彼らの大半は、「有名にもなれず、お金も儲からず」の死屍累々としてのたれ死んでいくのが関の山といったところ。


 なので、ここは解脱者の武庫川散歩が、このブログを見ている信者だけに、ひっそりと「あなただけは有名になれる」という秘策を伝授しよう、というわけです。



 そんな偉そうなことを言うお前は何者なんだ!というお叱りや疑いの声があるのはもちろん承知しております。


 しかし、聞いて驚け見て笑え。 この解脱者武庫川散歩なる人物は、悟りを得た者としてこんなふざけたブログをひっそりと書いているだけだと思うでしょうが、



 世を忍ぶ仮の姿である俗世間では、俗世のメディアにどっぷりと染まったこの世の権化みたいなオトコ



なのであります(笑)。


 告白しましょう。


■ 武庫川散歩は、youtuberである。それも、グーグルから直々に、「我々のプロジェクトにぜひ参加していただきたい」という向こうからの依頼があった、古参のパートナーなのである。その割には、毎月500円ぐらいしかよこさないのは、どういうこっちゃ、こらグーグル!

 しかし、武庫川の動画は、収益をもたらさないものに限れば100万回の再生を突破している。



■ 武庫川散歩の商品は、あの検閲の難しいアップルストアの審査に合格して、iphoneでアプリになっている。

 どうだ!すごいだろう。でも、無料なので、これも一銭も儲からんのはどういうこっちゃ!




■武庫川散歩は、ラジオ・テレビ・新聞・雑誌・すべてのメディアに出ている。それもラジオはなんと5歳から出ている。変態といってもいいくらいだ。誰が変態だこら!



■武庫川散歩には、毎月とあるところから印税が入ってくる。うれしい、これは本当にうれしい。家計が助かる。誰だ!?それで家を買ったとか言っているやつは!登記費用に当てただけだ本当は。家はローンで買ったに決まってるだろう!
 



■武庫川散歩は、これまで数々の芸能人や映画監督、メガネをかけて腕組みする作詞家などと出会っている。本人は芸能人ではなったくない素人だが、みんなが会いたいと行って招待してくれるのだから仕方ないだろう。
某県の知事表彰、他県の副知事表彰を受けたこと計3回。兵庫県公館に招かれたこと2回。のじぎくの間はいいぞ!じゅうたんふかふかだぞ。


・・・自分で書いていても、なんかいろいろ出てくるのでこのへんで勘弁しておきますが、ワタクシ武庫川散歩の正体を知るものからすれば、「いや~、ほんとに武庫川さんっていろんなことやってるよね」という評価で、きっと正しいと思います。

 そう。普通の生活を送る、世を忍ぶ者としては、その割りに露出度が高いのは否めません。

 今後は自重することにいたしませう。



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 というわけで、自他共に認める自称有名人である武庫川散歩が、「有名になるにはどうしたらいいか」について、きちんと説明申し上げることにいたしましょう。


 まず、みなさんが知っておくべきなのは、「有名には3つの段階がある」ということです。これを「有名人への三段活用」とでも勝手に言っておきましょう。



 <有名人への第一段階>

 閉じたグループ、閉じた関係内で、その内部の人たちから見て、有名になること。
 閉じた活動で有名になること。


<有名人への第ニ段階>

 閉じたグループの外側にいる人間から、有名になること。
 外側から見ると、「あの人は○○をしている人」として有名になること。


<有名人への第三段階>

 万人に有名になること。
 何をしている人かは関係なく、有名になること。


 すべての有名人は、この3段階を経て有名になってゆきます。いきなり第三段階へ突入できるのは犯罪者だけなので、いきなり有名になりたい人間が暴れるのは、一応は理にかなっています。

 それ以外のまっとうな手段で有名になるには、かならず上の3つのステップを意識して、それぞれの段階をクリアしてゆく必要があるわけです。



 では解説します。




 第一段階では、「閉じた世界・閉じた業界」の中で有名になることを意味します。たとえば、フィギュアを作るモデラーという人たちがいますが、モデラー業界で「あいつはうまいぞ」とか「いい作家がいるよ」と思ってもらうことを指すわけです。これはプロでもアマでもかまいません。とにかく、閉じた世界内で頭角を表すことが大事です。

 別に上手である必要もないです。「あいつは変なフィギュアを作る」でもいいのです。

 そして、この段階では、業界やグループ内では有名でも、世間から見たら誰も知らない状態にある、ということになります。




 第二段階では、「その業界や、その世界の外部から認められる」というポジションに上がります。フィギュアに全然興味がない人でも、「海洋堂の人形は作りがすごいらしいね」みたいに、知られることを意味します。

 しかし、万人が知っているわけではありません。巣鴨のおばあちゃんや、天六のおっさんは、たぶん知らないしなんのことかわからない、というレベルです。




 第三段階では、その人が何者かを超越して、ほぼ誰もが知っている、という段階に到達します。「ああ、知ってる。テレビでみたことある」とか「ああ、知ってる。アイドル?歌手?女優さん?」「いつもみてますよ」というレベルです。




 芸能人でいえば、タモリさんやさんまさんクラスだと間違いなく第三段階まで到達です。でも、おなじテレビに出ている芸能人でも、「タージン」さんあたりになると関西では第三段階かな?もしかすると中部地方では第二かな?というレベルになってしまうわけです。

(タージンさんごめんなさい!ごめんなさい!)


 ラジオの神様 浜村淳さまでも、関西以外では第二段階ということになります。だって北海道の日高晤郎ショーとか、名古屋のつぼいノリオ御大のすごさを関西の人は知らないでしょ?


 
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 こうして考えると、 みなさんが「有名になりたい!」と思うのは一見すると第三段階をイメージしているようですが、そこまで到達しなくても、ほとんどの人は


第一段階で十分満足できる。充たされる。


ことに気づくことでしょう。


 どういうことか?


 たとえばあなたが思春期の女子高生だとします。一部の上昇志向の強い人は、「なんとかアイドルグランプリ」や、「宝塚音楽学校入学」とか、超難関を目指しそうですが、それいがいの99%の人は、雑誌にスナップが載ったり、読者モデルの真似事レベルで採用されたら十分満足する、ということなわけです。


 またあなたが何がしかのスポーツをやっていたとしたら、そのスポーツ内部で「どこそこに凄いのがいるらしい」とうわさされるだけで、十分満足できるのです。



 ということは、まずは「あなたが普段やっている、好きなことやテーマにしていることを、その業界内で目立つように頑張る」ことが、有名になるためのファーストステップであり、かつ近道である!ということなのです。


 youtubeのCMで「好きなことで、行きていく」というのがありましたが、武庫川のアドバイスとしては、


「好きなことを好きなだけ」


というのが真理です。好きなようにやればよろしい。ただし、精一杯!


 ついでに、もう一つCMを。


「うまいすしを、腹一杯」byスシロー




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※ えーっと、貪欲なあなた。どうしても第二段階までは行きたい、という人には秘策があります。

それは次回お話しましょうね。







 















2016年5月23日月曜日

人生に成功する秘訣 ~あなたがなぜ成功しないのか!その理由はズバッとまるっとお見通しだ!~


 やあどうも。みんなのアイドル武庫川散歩だよ。


 でも、ボクに恋愛感情を持ったり、刺しに来たりしちゃあ、ダメだよ!ボクは解脱アイドルなんだから。


 距離感というものが、大事なんだよ。距離感が。





 ・・・とまあ、不謹慎なネタで申し訳ないと一応は謝る誠意を見せている不誠実な男、武庫川散歩です。



 さて、今日はダイヤモンドオンラインに、


「極めて重要な、そして興味深い指摘」


が載っていたので、賢明なる読者諸君のためにぜひ紹介したいと思っているわけで。




子どもの将来の成功を決める最重要ファクター「グリット」とは何か?

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160523-00091399-diamond-soci

(ダイヤモンド・オンライン)




  さてこの記事、一見すると子育て論みたいに見えますが、なんのなんの南野洋子。あなたの人生を成功に導く


「魔法のような秘策」


について、本人たちも知ってか知らずかズバズバ書いておられるので、ここは学んでおきたいところ。



 詳しくは本文を読めばいいのですが、そこは稀代の解脱者が、ありがたーい解説とともにお届けします。



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 さて、この記事の中には、「グリット」という言葉が登場します。間違っても上田次郎と山田奈緒子のことではナイ。

 ・・・それは「トリック」


 記事の中心は、もちろんこのグリットについてですが、そこへ至るまでの話がとても重要なので、武庫川的にしっかりここらへんをお話してみたいのです。




 「どうしたら人は成功したり、高い成果を出すことができるのだろう」というテーマを探求するところから、話ははじまります。


 記事によると、そもそもいわゆる18世紀までの封建社会では、領主と搾取される農民の立場は確定しているので、「頑張って努力する」なんて発想が存在しなかった、ということがわかります。


 それが19世紀になって産業革命前夜ごろから「努力すれば、成功できるんじゃないか?」みたいな機運が生まれてきて、農民が封建社会から切り離され、都市へ出てきて

「努力すれば、境遇が変わる」

ということを発見するようになった、というのです。


 すると、成功の第一仮説として「不屈の努力によって人は成功するのではないか」という説が登場したわけです。


  ところが、これは小さな領域で、決められた手順を努力すればある程度なんとかなったかもしれないけれど、世紀が進んで、サービスや事業の内容が多種多様になってくると、「適応できる努力や頑張りの種類が増えすぎて、単純にそうとは言えなくなった」という問題が出てきたのです。



 わかりやすく言えば、武士であれば剣術だけ努力すれば、それが立身出世に繋がったかもしれないけれど、平和な世の中では武芸だけでは偉くなれなくなった、というのと似ています。



 そこで、今度は、「成功した人たちのデータを調べて、成功の秘訣を見つけよう」という研究がなされるようになりました。


 で、登場したのが第二の仮説。「夢を持って、それを実現させるプランを着実に実行出来る者が、成功するのではないか」説です。





 ところが、この第二仮説は「夢を持て」ばかりが一人歩きして、その後にやらねばならない「着実にやり続ける」部分の印象が消えてしまった、といいます。



 そこで、第三の仮説が生まれます。「じゃあ、やり続けられる能力はどこからくるのか」説です。



 ある人は、「IQが高いとやり続けられて結果が出るんじゃないか?」と考えましたが、データの結果は、どうもそれは違う、ということに落ち着いたとか。


 またある人は「IQじゃないなら自尊心だ!ほめて育てればいいんじゃないか?」と考えましたが、偉そうなガキが増えるだけで失敗に終わりました。


(どうやら、自尊心があるから成功するのではなく、成功するから自尊心が付くようです)



 そこで、第四の仮説が登場したのが現代で、

「やり続ける力というのは、”セルフコントロールと興味の一貫性”ではないか?」

というのです。これが最新版!!


 そして、このやり続ける力そのものを「グリット」と名づけたわけです。




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 記事では、この「やり続けられるための要素」をもう少し丁寧に挙げています。


■ セルフコントロール

■ 興味を持ち続けること

■ 見返りがなくても、努力できること。

■  まじめであること。

■ 外交的であること。

■ 新しいことに取り組めること。



 これらはたくさんの要素のように見えるけれど、実はまとめると単純なことに集約できます。


「明るくさわやかで、コツコツできる人」


ということです。



 成功する、ということは、つまり、嫌な顔をせず何かをやり遂げられるまで続けることに他ならないのかもしれません。



 逆に言えば、もし成功しない人がいるとすれば、それはこういうダメな点があるということにもなります。




■ 自分をコントロールできず、イライラして投げ出してしまう。

■ 興味を失って途中でやめてしまう。

■ 見返りがないとやめたり、嫌になってしまう。

■ 不真面目で、途中でやる気を失う。

■ 内向的で、内弁慶。

■ 新しいことを始められない。



 ああ!なるほど。こいつら全員、成功しそうにないわ(笑)


 もし、あなたやわたしがこれに当てはまるのであれば、早いうちにこうした傾向を克服しておかねばなりません。


 なぜなら、人生に失敗するということが、明らかだからです!!ババーン。










2016年5月21日土曜日

「ハーバードの人生が変わる東洋哲学」なる本が出るらしい。 ~あなたの人生を大きく変えますスペシャル~


ハーバード大で熱狂的に当たった講義といえば、やっぱり


「マイケル・サンデルの白熱教室 ~これからの正義の話をしよう~」


が記憶に新しいですね。日本でも講義番組が大ヒットしました。


 で、今回はその二番煎じ、というわけではありませんが、「東洋思想」でひとネタやってくれるようです(笑)


 ちょうど、早川から出ている


「ハーバードの人生が変わる東洋哲学」(マイケル・ビュエット/クリスティーン・グロス・ロー)


のカンタンな紹介があったので、それを引用しながらお話を進めて参りましょう。



 ”ハーバードの学生が大熱狂!必ず人生が変わる「東洋哲学」白熱講義エリートはなぜいま孔子や老子に惹かれるのか?”  現代ビジネスより
 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/48694 



 まあ、簡単に言えば、現在私たちが生きているセカイの価値観は「西洋思想、それもキリスト教プロテスタンティズム」に支配されていて、それに対するアンチテーゼとしての「東洋思想、この本の場合は中国の老荘思想」をぶつけてみよう、ということです。



 この話は、奇しくもつい先日、このブログでもお話したところなので、当ブログのコアなファンにとっては、ちょうどよいおさらいになることでしょう。


 <参照>

セカイ系解脱者(笑)が解き明かす、この世界の真実! ~セカイは実はシンプルなんだ!~ 

 http://satori-awake.blogspot.jp/2016/05/blog-post.html



 解脱者は、このセカイのすべてを理解する。 ~世界は、とっても単純でカンタンだった!~

http://satori-awake.blogspot.jp/2016/05/blog-post_12.html


 
 先日の武庫川の話では、西洋思想はミクロな視点で、東洋思想はマクロな視点だ、みたいなことをさくっとご説明したのですが、そのあたりのもうちょっと詳しいことが、現代ビジネスさんの記事にも出ていたので、解説をしておきます。



 まず、現代人というものは、ほとんどが


「自分には、進むべき道のような真実の生き方があって、それに向かって、なおかつ善で良き方向に努力して歩いてゆくべきである」


ということが当然だと思い込んでいますが、そうした思考は、実はキリスト教、それもプロテスタントの発想だ、というところから物語はスタートします。

 実際の自分は、「理想の状態にはなかったり、ほど遠かったり、苦労し悩んでいたりする」んだけれども、仕事や家庭や生き方全体において”こうありたい、こうあるのが理想なんだろうな”という漠然としたイメージがある、というのが普通だとみんな思い込んでいるわけです。


 ところがこうした思想は、カトリックからルターと同じように宗教改革で飛び出したカルヴァン派が主張した「人は神に選ばれるものとそうでないものが最初から決まっていて、人は神のために理想的に働き、生きるべきである」という考え方に影響を受けている、というのです。


  まあ、冷静に考えると「救われるものと救われないものが決まってるんなら無駄じゃん。わしはたぶん無理」と思うのですが、そこはホレ。もともとエホバ神に選ばれたと思っているユダヤ人たちの宗教からはじまった選民思想のキリスト教ですから


「ボクは、ワタシはきっと神に選ばれてる、だからちゃんと生きなきゃ」


とみんなが思う、というのがミソなのです。




 というわけで、現代人の万人は、西洋資本主義と民主主義をベースに生まれ育っているので、日本においても(神様こそどこかへ行ってしまったものの)


「こうあるべき理想的生き方と、それに向かって努力すべき人間像」


を勝手に規定してしまっているわけです。




 ところが、東洋思想になると、全く逆の視点を持つことになります。


 今回たまたまハーバードで扱われたのは、中国の哲学(孔子や孟子、老子など)ですが、別にそんなたいそうな人物を持ってこなくても、あるいは深い仏教の知識がなくても、私たちは既に、東洋思想の素地をちゃんと持っています。



 わかりやすい例を挙げましょう。


 理想的な生き方や、そうすべき人格があるってのはわかるけど、


「にんげんだもの」 みつを


そうそう完璧じゃないよね。


 ・・・これなんか、東洋的思想そのものです。理想像をいきなりぶっこわしているんだけれど、理想的でない自分も肯定しちゃうという、スゴ技に他なりません。


 哲学者でなくても、日本人の感性にはもともとこういう東洋思想が根付いていますから、たとえば、金子みすずの詩なんかをちょこっと持ってきても、すぐにわかります。

 

  海の魚はかわいそう。
  お米は人につくられる、
  牛は牧場で飼われてる、
  鯉もお池で麩を貰う。

  けれども海のお魚は
  なんにも世話にならないし
  いたずら一つしないのに
  こうして私に食べられる。

  ほんとに魚はかわいそう。


 「お魚」という詩ですが、これなんかまさしく人間と魚が相対的に描かれています。西洋思想だと、この場合は「人は救われるのか?それとも魚の魂が救われるべきか?」というややこしい命題になってしまうことがすぐにピンとくるでしょう。

 あるいは、「いやいや、人は神に選ばれた存在なので、魚は人に食われてもそれはよいのだ」とか、「いやいや、魚だって他のものを捕食しているので、罪深き存在なので食われてもいいのだ」とか、そんなことをどんどん屁理屈でつけていかないと成り立たなくなってくるのです。



 ところが、いくら理論付けたり、理想を語っても実態としてあるのは、

「お魚さん、いただきます。ありがとう、そしてちょっとごめんね」

というただそれだけのことで、それは翻って、自分たち人間も、ちょっとしたことで殺められたり、不幸になったりするかもしれないけれど、それもまた人生だよね、ということになるわけです。



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 さて、この本では以下のようなネタが書かれているそうで。



●自分探しをするな
●“ありのままの自分"などどこにもいない
●強くなりたいなら徹底的に弱くなれ
●自然を賛美しすぎるな
●がんばっても報われるとはかぎらない
●“ポジティブ"がよいとはかぎらない




これらのネタを見るだけでも、無常観がひたひたと押し寄せきそうな感じがします。


残念ながら、この本では仏教思想が取り上げられていないので、そこが物足りないのですが、興味があればどうぞ。



 ちなみにすでに解脱している武庫川は、今さらこの本を読んでもなーんとも思いませんが、なにか?
  







 


2016年5月20日金曜日

日本社会はこれから「一億総うつ病」に罹患してゆくだろう。


 今日も、東京都知事の舛添氏が会見を開いて、第三者に調査依頼をするだのなんだのおっしゃっていたようだが、解脱者の私としては


「探偵ナイトスクープに調査依頼を出す」


ほうが、よっぽど真実に近づけるのではないかと思う今日このごろ。


 舛添氏のオチが、チャッ♪チャッ♪チャッ♪となるであろうことは、疑いの余地もないが。




  残念ながら、私は東京都民ではないので、この問題については、口をさしはさむ権利がないことは充分理解しているが、もうこうなったらぶっちゃけ


「猪瀬氏と舛添とどちらがマシか」


とか


「舛添と野々村はどちらが悪か」


とか、そういう哲学的次元へと突入していることは、明白である。



 まあ、そんな政治経済ネタを織り交ぜながら、今日も本編スタートである!!!




〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



 猪瀬氏と舛添氏のどちらがマシか、と言う問題は、実はこれからの日本社会の行く末を占う上で、とても重要な視点であると思うのだが、いかがだろうか。



 もちろん、私は解脱者なので、そんなことはどうでもいいのは当然なのだが、まあここはちょっとくらい話に付き合ってくれてもいいじゃないか。


 「・・・休んでいこうか、」


とかそんなことを言っているわけではないのだから。キリッ。




 そもそも、政治家やら権力を握った者は、多かれ少なかれ、叩けばホコリが出るもので、まさしく猪瀬VS舛添(まちがっても、猪木VSハンセンではない)のどちらが悪か論争が無意味なのと同じで、



「みんなに決まってんじゃん」



と昔の人はちゃんと気づいていたものである。


 その真骨頂が、たとえば高度成長期における「T中K栄」元首相なんかなわけで、


 善か悪かで言えば、悪なんだけど、それをちゃっかり利用して豊かになっちゃったりする国民


が居たわけである。



 そういう意味では、少なくともついこの間までの政治と権力と罪と罰の問題で言えば、


 「権力者が、金にまみれながら力をつけてゆく」



「それ相応のおこぼれを地元にも落として、豊かになってゆく地方がある」



「ある程度おこぼれ事業をやりきったところで、罪が明るみに出る」



「権力者は失脚し、タイーホ」


という流れが定着していた。



 これを政治哲学的に言って見ると、



「市民は、悪しき権力者を手の平の上で転がしつつ、コントロールしてきた」



ということになる。おお!なんかすごいな市民社会!!



 ところが、昨今の風潮を見ると、政治だろうがアイドルだろうが、タレントだろうが、


「規範的な道徳ありきで、その陰に隠れた悪を見つけ出しては、誰も成果を得ない前に引きずり下ろす」


ことが流行しているように思える。



 特に文春(笑)



 結果論で言えば、猪瀬氏はもうちょっとやらしておいて、後からツブせば良かった。舛添は、早いうちに叩いてOK、ということになる。


 そのコントロールができてこその市民である、というわけだ。



 まあ、何度も言うが、私はベッキーがどうなろうが、AKBが恋愛禁止だろうが、アイドルに何が発覚しようが、愛之助氏がどう思おうが知ったこっちゃないのだが、今の日本社会の市民は



「規範に自縄自縛になって、利益を損なっている」


面があるのではないか?



と思う。(炎上させないでね。ひっそりと書きたいので)




 よろしいか?


「アイドルは恋愛してはいけない」

とか

「政治家は金にまみれてはいけない」

とか

「不倫はいかん」

とか


そういうのは、


「聖子ちゃんはウン○をしない」


と言っているのと同じだ。



 そんなことはない。する。するったらするのだ!!人間だもの。みつお。



 こんな風に書くと、ちょっと意識高い系のあなたは

「いやまて、聖子ちゃんと汚職を一緒にするのはおかしい」

とかいろいろ言い出すことと思うが、解脱者からすれば、そんなショボいことは言わないでいただきたい。


よろしいか?



「〜してはいけない」という言説と、「〜しない」はほとんど同じだということを説明しよう。



「アイドルは恋愛しないものである」

「政治家は汚職しない」

「不倫はあってはならない」



こう書けば、意識高い系(そのうちハゲるぞ)の方でも気付くことであろう。



「いやいやいや!アイドルだって陰で恋愛してるだろうし、政治家は金もらってるし、不倫だって、みんなやりまくりじゃん!・・・ああ、そうか、聖子ちゃんもウン○するわな」



と納得してもらえるはずだ。これは二つとも同じ話なのだ。実は。





 聖子ちゃんがもしウ○コできない存在であれば、そんな人間は成立し得ないのと同じように、


アイドルは握手会が終わると彼氏とキスするし、権力を持つと怪しいお金が転がり始めるし、不倫は文化なのである。実態は。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



 これらのように、あらかじめ「そうあるべきだと設定された規範や基準に縛られている」状態は、うつ病を引き起こす。


 高い給料が欲しいのにこき使われるとか、

 彼氏が欲しいのに年齢=処女歴とか、

 高望みしかできない婚活野郎とか


そういう状態がつづくと、人間は「あるべき姿の自分と現実の自分の乖離が起きて、心の病になってしまう」とさんざん世間でも言われているではないか。



 まさに、昨今は、それを社会全体でやりまくっているのである。悲しいかな。



 そりゃ、たしかに世俗の基準に基づけば「悪いもんは悪い」。それは間違いないだろう。


 ただ、本来の人間は残念な生き物で、悪いと思っていてもやっちまうのである。いろいろと。



 その人生の機微や、ちょっとしたうら哀しさを、どのようにコントロールするのかが、

「心の病にかからない、ちょっとした気の持ちよう」

なのではなかったか?





 よろしいか?



「不倫ぐらい、あってはならないけど、やっちゃうよね」

「舛添、同額を熊本に寄付したらいいじゃん。そしたら許したげるよ」

「さしこだって復帰したんだから、まあ禊いできなよ」



という感覚を、ここ大事だから赤字で書くけど、



「当事者はそんな訳にはいかないけど、第三者なんだからこそ、そうやってさらっとコントロールすりゃいいのに」



と思うのである。


 

 さすがに、当事者に向かってそう言うのは不謹慎である。しかし、ツイートやブログに書いているあなたや私は


「どうせ他人」


なのである。しったこっちゃない。


 ならば他人の特権として、すっとぼけておけばいいのだ。人間なんてそんなもんだ、と。



 そうすりゃ、当人たちは修羅場でも、社会や市民の心が蝕まれることはない。



 こんなこと、いつまでも他人のあなたが「キリキリ白状しやがれ」と思っていたら、いつかあなたの心まで破壊されてしまうことは、自明ではないか。



 
 メディアに踊らされていたら、マジで心が弱っちゃうよ?!



 






2016年5月12日木曜日

解脱者は、このセカイのすべてを理解する。 ~世界は、とっても単純でカンタンだった!~



 前回の記事で、解脱者はこの世界をたった二つの定義で言い表すことを提案しました。



 それは


【定義1 この世界は平衡で、閉じている】

【定義2 創造主は、感情をもたない】


という、とてもシンプルな2つの定義でした。




 地球が丸く閉じた世界であるように、太陽によって生かされている太陽系も有限の閉じた世界でした。宇宙の果てのことはわからないけれど、宇宙が広がっているということは端っこがあるのではないか、ということを前回説明しました。



 閉じた世界というのは、その内部で総和が変化しないということも前回書きました。


 なので、


 人にとって食べることは善でも、動物にとって食べられることは悪である。


 先進国にとって豊かであることは善でも、その裏で搾取される国にとっては悪である。


 ヨーロッパに逃れられた難民にとっては救いでも、受入国にとっては迷惑である。


 あなたが苦しんでノルマを達成すると、雇用主と株主は喜ぶ。


 お金持ちになる人がいるということは、誰かが貧しいということだ。


などのように、 やっぱり閉じた世界で起きる現象は、すべて善悪でさえも平衡になっている、というわけです。



 この世界においては、万物にとって善である、という究極的なWIN-WINの関係は存在しえません。


 このことに気づかない人間は、とても不幸になります。



 なので、赤ちゃんが親を呼ぶときには不快な泣き声を発するのです。

 けして、心地よい声でおっぱいを求めないのです。






 ところが、人類というのは面白いことに「いや、そんなことはない。できれば、そしてできるだけ善でありWINである人間が増えるのがこの世界を良くする事だ」と考えて進歩を続けてきました。



 解脱者の定義は、それを否定するものではないので、まちがえないでね。



 さて、「人類は善を増やし、良くあることができるはずだ」という考え方は、実は西洋思想に顕著です。


 なので、歴史的に、西洋においては、「論理的で、合理的であること」が、追い求められてきて、それは現在の物質文明を高らかに構築するのに役立ちました。



 ところが、「万物は平衡であるから、何が善であるかわからない」という考え方は、東洋思想で発展しました。


 これは、みなさんにとっては仏教の「無常観」などでなじみがありますね。





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 たとえば、「おなかいっぱい食べ、幸せである」という人を定義したとしましょう。これは西洋思想的で、人は幸せになれるはずで、そうあるべきである、という合理的な理念に基づいた考え方です。


 ところが、「そのために、いくつもの生きとし生けるものの命が犠牲になっている」というとも同時に定義できます。これは極めて東洋思想的な視点です。



 ということは、西洋思想とは、


「まず一点の視座を定め、そこから良きこと、善を追求する」


という考え方だとわかります。



 東洋思想は、それとは真逆で、


「空からの俯瞰的な眺めで見たとき、何がみえてくるか」


という考え方だともわかってきます。




 これはどちらも全くおなじものを見ているのだけれど、西洋思想はミクロな視点、東洋思想はマクロな視点で捉えている、というわけなのです。





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 翻って、この世界において人類は


「どうしたら人類は幸せになれるだろうか」


という命題を考え続けてきたのも事実ですが、その影には


「どうしたら、私だけが、あるいは私の国だけが、幸せになれるだろうか」


という視点が隠れていることも忘れてはなりません。



 だから、この視座に疲れた人は、


「そもそも、何が幸せなのかわからない。何が正しいのか不明だ」


とも感じるのです。




  ここまでが閉じた世界で、日々起こっていることを単純化したものです。





 さて、ミクロな視点とマクロな視点、西洋思想と東洋思想で捉えてみたように、この世界というのは、


「合理的でありたいと願いながら非合理、善でありたいと願いながら善ではない」


という現実が渦巻いています。



 なので、人は、昔からその理由を「外側」に求めようとしたのです。


 つまり、神様などを定義して、「神がこれこれこう考えているから、こうなっているのだ」と空想を重ねてきました。




 ところが、この空想も西洋と東洋では考え方が異なるのです。


  西洋思想では、キリスト教のように、「理由があってこの世界は悪になっていて、それはいつか善になるだろう」とやっぱり合理的に考えようとします。


 東洋思想では、「しゃーないやん、無常だもの」とか、「ぐるぐる回っている」とか、合理性よりも、その状態をただ空想で定義しようとしてきました。




 そうすると、特に東洋思想では、創造主がいるかどうかはどうでもよくて、ただ流れていたり回っていたり、ふわふわしていて、その外側の世界は


「あなたに何の関心もない」


と捉えていることになるわけです。




~~~~~~~~~~

 興味深いことに、西洋の宗教では、「神の意思に人があわせること」を要求されていますが、東洋の宗教は、「自分が現状を超えること」を求めます。


 西洋思想が神に主権をおくのに対し、東洋思想は自分に主権がある、というわけです。





 それはさておき、この世界がそのように成り立っていると知れば、あなたの心はずいぶんと気楽になったことだろうと思います。


「こうあるべきだ」と頑なになる必要はありません。それは相対的なものだからです。


でも、「流されるまま、回されるままでは面白くない」という側面もあるでしょう。



「神様にすがるのは無駄なこと」だとわかったでしょうか?


でも、 「閉じた世界だからこそ、終わりの瞬間までは動かされ続ける」のも事実なのです。




 さあ、あなたは今からどのように生きるのでしょうか?





 




セカイ系 解脱者解く、この世界の真実! ~世界は実はシンプルなんだ!~



 それは昨日のことでした。


 なあんだ!セカイはとってもシンプルだったんだ!


と思わずSTRしてしまった武庫川散歩は、世を忍ぶ仮の姿で営業に出ていたのです。



 その時武庫川は、宝塚あたりをうろちょろしていたのですが、突然ビビビと来て、この世界の成り立ちについてDAIGOしてしまった!というわけ。





 え?STRって何か?



 SaToRiに決まってんじゃないすか(笑)




 え?DAIGOがどうしたって?


 あ、ごめん大悟だった!


 注)「大悟」 ・・・真理を悟ること。




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 はい。というわけで、今日も解脱小ネタをまくらにはじまった武庫川散歩のセカイノハジマリ。


  このブログのファン以外には、なーんにも面白くない、解脱ネタですが、今日は教義的にはなかなかの真理をぶちかますつもりです。






 この武庫川散歩、解脱者となってからというもの、



「このセカイは一体全体どうなっているのか」


とか


「このセカイは、今後どうなってゆくのか」


とか、哲学的な自問をいつも重ねていたのですが、それらがスカッと単純な理論で言い表せることに気づいた次第です。



 だから、今回のお話は、「悟り、であり哲学」でもあります。




 というわけで、昨日悟った真実によれば、この世界は単純な2つの論理で表すことができます。





 <この世界を表す定理>
 
1   この世界は、平衡で、閉じている。

2   創造主は、感情を持たない。




  はい。これだけで、私たちが生きているこの世界や宇宙をすべて包括することができる、と武庫川はえらそうに主張してけつかるわけです。



 
 でも、さすがに上の2つの定理をならべただけでは、なんのことかわからないと思うので、もう少しわかりやすい解説を付け加えておきます。





【定理1】

 この世界は平衡で閉じている。


 ・・・閉じている、というのは、たとえば地球であれば、無限に広がっているわけではなくて、球体の中にいわゆる世界は納まっているわけですから、開いているのではなく、閉じており、有限である、ということを示します。


 この有限で閉じている、ということはとても大事で、ビッグバンの理論でもわかるとおり、宇宙は始まりから現在、そして未来にむかって「広がっている」わけですから、その最も外周の縁があるわけです。

 とすれば、ビッグバン宇宙のように「無限に広がり続けるんじゃないか?」と一見思いがちですが、そのことは「広がる可能性がある」というだけで、過去から現在に至るまでは、常に「最外周の内側はずっと閉じ続けている」ということでもあるのです。


 もっとわかりやすく、話のレベルを落とすと、たとえば人類にとっては、宇宙そのものが存在しようが、太陽が消滅した時点で地球も終わりだということはわかると思います。


 つまり、太陽系は有限だし、閉じています。地球と人類の究極的な寿命も、基本的には有限で閉じているわけです。


 人がかならず死ぬのと同じで、地球もいつか死ぬのです。



 さて、この閉じた世界では、閉じているがゆえに、その内側にある物質の総量はほとんど変化しません。

 化学反応式の右辺と左辺の総和が同じであるように、地球や閉じた宇宙の内部で何が起こっても、総和としては変化しないわけです。


 これを「平衡している」と捉えます。


 平衡というのはシーソーのバランスみたいなもので、片一方が上がっていても反対が下がっているので釣り合いが取れます。

 地球内部で起きていることは、誰からにとって良いことでも、反対の視点から見ると悪いことですから釣り合いが取れているのです。



 ヒトにとっては、食べることは善で正義です。しかし、食べられる動植物にとっては、悪で、あってはならないことです。地球全体の俯瞰で見ると、善と悪という概念ですら、平衡バランスの一面であるわけです。






【定理2】

 創造主は感情を持たない。

 

  ・・・定理1が、閉じた世界の内側の話だとすれば、定理2は「外側」について定義するものです。

 創造主がいるのかどうかは不明ですが、世界が閉じているのだとすれば、その外側があるというのは特段おかしな考え方ではないと思います。


 その外側を「神」と捉えてもいいし、「創造主」と捉えてもいいでしょう。


 しかし、ここで間違ってはいけないのは、その神様や創造主なる「外側」は、感情を持ったりしないことです。



 なぜ?



 神様や創造主を信じる人たちは「神は意図や意思を持ってこの世界を創造した」と考えますが、その”意図や意思”の具体的な中身を論じぬままそれを語るのは問題があります。


 私たちの脳が行っている「意思や意図」というのは、化学物質による反応と、電気信号による伝達という純粋な物理科学現象によって具体化されています。


 とくに、わかりやすく言い直せば「感情や情動」の正体は、科学反応だということです。


 そして、この世界の全てが、物理科学現象によって生成されているとするならば、いわゆる私たちが考える


「感情・情動・意思・意図」


といったものは、すべて物理科学現象によってアンダーコントロールされている、と言うことができるでしょう。


 逆説的に言えば、「感情や情動や意思や意図は、物理科学現象の上に成り立っているし、物理科学現象の範疇からは出られない」ということです。



 ということは、閉じた世界の創造主が「自分で作った物理科学現象のしくみ」に支配された感情や情動や意思や意図を持つ、というのは構造的にナンセンスですよね?


 だから、閉じた世界の外側の存在は、いわゆる私たちがついイメージしそうな「感情(とそれに類するすべての脳活動とおなじもの)とは次元が違うところにある」と言えるのです。



 つまり、創造主から見て、私たちがどう生きていようが、どのように存在しようが、それを見ても「なんとも思わない」ということが明らかになるのです。




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 実は、この2点にさえ気づけば、この世界で起きているすべてのことは、



 完全に説明がつくし、すべてを表現できる



のです。



 次回は、そのあたりの説明をしてゆきたいと思います。


(つづく)