2016年8月31日水曜日

覚醒剤などの薬物を摂取するとどうなるのか ~歴史上、宗教とは切ってもきれないドラッグのセカイ~



 昨日から今日にかけて、薬物や銃がらみで殺人やたてこもりなどの事件がニュースになっていますが、亡くなられた人もいるので、痛ましく思います。


 俗世であれば「ご冥福をお祈りします」という表現を用いるところでしょうが、解脱者は来世を信奉しておりませんし、冥界は無いと考えますので、まさに哀悼の意を表するのみです。



 解脱者、武庫川は薬物というものを基本的に信用しておりません。別に悪いほうのドラッグに限らず、医薬品であっても万能ではないし、何がしかの効能をサポートするものではあっても、


「あなたやわたしの何かを大きく変えてくれるような薬」


というものは、あまり期待すべきでないと考えています。



 ですので、たとえば「うつ病」や「パニック障害」などの心の病を発した人に対しても、できるだけ薬には頼らずに、別の方法で状況をよくすべきだと思っています。


 それが、医学界の一部からは反発をまねくことであっても、私の基本的な心情は


「人間関係によって心にストレスが生じたのであれば、それは人間関係によって元に戻すことが筋だ」


というものです。


 なので、私は心に苦しみを抱えている人がいれば、できる限り「関わり」によってそれが改善できないものかと考えるのです。


 「たとえ世間の全てがあなたの敵となっても、私はあなたを愛している!」


という強い愛によって、人は救われるのではないでしょうか。



(うーむ、こんな台詞、誰かに言ったことがあるぞ)




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  さて、仏のように解脱者で、キリストのように愛に満ちた男、武庫川散歩です。


 あらためてよろしく。



 というわけで、今日はお薬のお話から、おなじ薬でも悪いほうの影響を及ぼす「薬物やドラック」がどのように



 あなたの心と身体を蝕んでゆくか



についてお話しようと思います。



 ふだん、このブログでも


「宗教的、あるいは神秘的な何か不思議な体験がしたかったり、全能感や幸福感がほしいだけだったら、ヤクでもやっとけ!」


と、スピリチュアルなものを求める愚か人たちに暴言を投げつけている武庫川ですが、 そのしょーもない効果を昔から人間は


「宗教」


の場面でも用いてきました。



 原始的な宗教が、祭祀においてなんらかの薬物を使うことはよくあることです。

 幻覚や多幸感によって、宗教が真実であり、神秘的なものだと感じるためです。


 自然に生えている草花の中には「アルカロイド」類が含まれるものが多くあり、それらを用いることで、さまざまな心身の作用を幻惑することができます。


 そうした自然草などの効果が、のちに医学の発展にも役立ってきた面もありますが。



 近代、近年においてはアメリカのヒッピー文化がLSD等を摂取しながら広がった経緯があります。


 偉大な音楽家、エリッククラプトンやジミ・ヘンドリクスでさえ、薬物中毒だったのです。



 現代日本のミュージシャンたちが薬物に手を出すのも、こうした流れに関係があって、「60年代70年代の欧米ミュージシャンたちは薬物とともに最高の音楽を生み出した」と心のどこかで、それらの行為を肯定している部分がある、というわけです。



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 また、宗教に戻ればオウム真理教が覚醒剤等を用いて神秘体験を「与える」ことで、自分たちの信仰が特別なものであると錯覚させるよう仕向けたことなどもあるでしょう。


 古代・現代を問わず、宗教と体験と薬物というのは、意外に多くの場面で見られるものなのです。




 さて、いよいよココからが本題。


 覚醒剤などの薬物を摂取すると、いったいあなたはどうなってしまうのか?!



 これは実は、「哲学」の問題と似ている部分があって、それは不可思議で、それは難しい問題を秘めているので、今日は解脱者の観点からこれをとりあげようと思います。




 薬物と、哲学の共通点、それは「自己と他者」「自己の内部と外界」「ジブンとセカイ」に関わる



部分です。



 「我思う、ゆえに我あり」という言葉があるように、「自分というものが認識し、知覚することによって、このセカイを把握することができる」ということは、哲学的な問題として長年捉えられてきました。



 そして「自分の中から見ている自分と、他者が見ている自分とは違うのか」といった問題も、心の病を考える上では大切な視点でもあります。



 また、このブログでも何度か取り上げているように、「自分の中にある正義と、外側のセカイにある正義の矛盾」なども、大きなテーマとなりえることでしょう。




 自分とは何か。



 セカイとは何か。




 この主題を念頭に置いて、薬物をみてゆくととても興味深い現象がそこで起きていることがわかります。




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 武庫川は、以前に覚醒剤などの薬物の専門家に、勝手に取材をしたことがあり、とても納得のゆく説明をおしえてもらったことがあります。


 彼は、覚醒剤中毒者が、実際にどうなってゆくかを目撃しており、薬物というものが



「まったく、無意味なものである」



ということを武庫川に教えてくれました。


 ポイントは、「どこが無意味なのか」という部分です。心身を滅ぼしたり、中毒になるからダメだという話を超えた、深い深い話がそこにはありました。



 
  その重要なポイントは、「自分の中のセカイ」と「外部のセカイ」のズレに他なりません。



 たとえば、その方が目撃したおっさんは、注射器を自分の腕に何度もブスブス刺しながら


「おっかしいなあ!なんで刺さらないのだ」


といいながら、注入しまくっているそうです。


『いや、刺さってるがなおっさん!』と外部のセカイからは見えるのですが、 彼の内部のセカイでは「刺さっていない」と認識しているのです。



 そして、何度も刺しているので、当然ごっつい量が体内に入っているので、本人はそのまま白目向いてぶっ倒れるのですが(いちおう、生きています)、そのうち半日ほど経って目を覚まして、にこやかに


「いやー、今日はめっちゃキマッった(←薬物が効くという表現です)。良かった!」


と言い出すというのです。


 おっさんの内部では、「とてもキマッて最高で、イケテるセカイ」が広がっていたようですが、 外部では


「血だらけの腕のおっさんが、失神しているだけ」


という状況がおきているわけです。



 とても哲学的な状況が生じていることがわかりますね?!



  ここでは、おっさんが哲学者だとすれば



「我、キメる、ゆえに我キレッッキレ!」


だと認識しているというのです。




 しかし、現実は(なんども言いますが)



「穴だらけの腕のおっさんが、逝っちゃってるだけ」



なのです。これが哲学でなくて、なんだと言うのでしょう!!!



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 覚醒剤によって得られている「何か良いとされる感覚」は、外部のセカイから見ると幻影に過ぎません。


 一般的な説明にあるような「薬物によって多幸感が得られる」という表現は、とても奥深いことばです。


「多くの幸福がやってくる」


ではありません。


「多くの幸せが感じられる」


のは、内部だけで、その外側にはやっぱり「しょーもない日常」が広がっているだけなのです。




 もっと恐ろしい話があります。覚醒剤にハマるきっかけが「薬物を摂取して性行為をすると、この上もなく気持ちがいい」らしいというネタをみなさんも聞いたことがあると思いますが、 ここにも、おおきなズレが潜んでいるというのです。



 ちょっと難しいのでよく読んでくださいね。



 薬物を摂取すると、神経細胞が敏感になって、なんども研ぎ澄まされて感じるようになる、といいます。

 なので、「元気になる」とか「知覚がすごくなる」とか、そういう風に体験者は話すのです。


 しかし、上で説明したように、実際には何も敏感にはなっておらず、「そういう風に誤認をする」というのが実態ですから、


「元気になるぜ!と言いながら、どよんとした目でふらついている」


とか


「知覚がすごいぜ!と言いながら、別に何もスピードは上がっていない」


のが現実なわけです。



 ということは、結局


「キメながらすると、凄く気持ちいいぜ!と言いながら、気持ちよさは実はおんなじ(もしくはいくぶん下がっている)」


というのが真実なのだと言うのです!!!!



 その「いつもより何倍も気持ちいいぜ!」という感覚そのものが、もはや真実ではなく、薬物の起こす誤認の影響下にあるだけだ、ということを知ると、愕然とするのではないでしょうか。




 つまり、本当は気持ちよくなるわけではない、のです!!!!





 それほどまでに、本来のあなたの感覚を劣化させるのが、薬物なのです。






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 武庫川は、いつでもしらふで脳内麻薬が出ているタイプのエキセントリック少年ボーイですから、今の状態で明晰な頭脳を味わうほうが幸せなので、これ以上神経を鈍化させたくありません。


 なので、絶対に薬物はやらないし、酒も飲みません。タバコも吸いません。


 そしてできることならば、自己の内部とセカイをある程度合致させながら生きるのが望ましいと思っています。



 ちなみに、本当に凄く気持ちいいのはやっぱり愛のあるほにゃららだと思います。 


 愛してる!











2016年8月30日火曜日

【勝手に人生相談シリーズ 15】 「小説家ってみんな不倫してるんですか?」



 先日、某女子に「武庫川さんは(異性に)モテモテですね」みたいなことを言われて、



 そんなことあるか!


と内心思わず否定した武庫川散歩ですたい。こんにちは。




 思い起こせば、人生において「モテる」なんてことは、記憶があまりないのだが、



「なんか、得体の知れない(異性な)モノが寄ってくる」



ということはあったかもしれない。



 某所では顔を合わせる度に、


「○×△(むこがわの本名)〜ん♪!」


と叫びながら全力で、私に体当たりをしてくる女子高生がいた。


「○×△〜ん♪ うふん♪ あはん♪」


みたいなしゃべり方をいつもしている明るい子だったが、いつの間にか姿を見なくなったので、知っている人に尋ねると「なんでも貧しくて学校もやめて、ここにも通わなくなり、音信不通になった」そうだ。




 哀しいものである。



  きっと、彼女は、私にわけのわからない絡みをするのが、小さな楽しみだったに違いない。忍たま乱太郎の「とても可愛い」おしげちゃんに似ていた。




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 武庫川の話には寄ってくる(変な)異性の話がよくでてくるので、どれだけイケメンの解脱者なのかと妄想している女子が多いことだと思うが、この際はっきり言っておこう。



 武庫川散歩という男は



 秋元康とタイムマシーン3号の容姿が面白い方と六角精児を足して3で割った



ような姿形(すがたかたち)をしている。





 うちには秋元康氏と対談したときの写真があるのだが、




 おんなじ(ような)顔が2つ並んでいる



と言っても過言ではない。


 秋元大先生の名誉のために言っておくが、きっと秋元氏のほうが男前であろうと思うが、このブログを読んでいる大抵の人にとっては、



 誤差の範囲



かもしれない。





 というわけで、武庫川の容姿については、どう頑張っても一定の領域を超えることはできないので、せめて中身くらいはイケメンになろうと思っているのだが、


 めざしているのは、もちろん古田新太大師匠


に他ならない。知らんだろうが、劇団新感線で主役やってる時の古田新太はめちゃくちゃカッコいいんだぞ。斉藤さんじゃないぞ。




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 ここから口調が変わります。



 あいかわらず話が逸れにそれてしまいましたが、このブログの愛読者の方はもう慣れっこになっていると思うので、このまま続けることにしましょう


 というわけで、今日のお題は、勝手に人生相談シリーズ。



 妄想によって生み出された相談を、空想によって答えようとする新たな局面に突入です。



 話は、先日とあるニュースで掲載された、こんな記事からはじまります。


 寂聴氏、乙武氏へ「小説を書け」

 http://www.daily.co.jp/newsflash/gossip/2016/06/27/0009227049.shtml



 記事は、デイリースポーツさんが元ネタ。


 このブログでもおなじみの生きる破天荒「瀬戸内寂聴さま」が、あの乙武氏へこんなエールを送ったとのこと。


「 (不倫相手が)5人いるってことは10人いるってこと」

「だから私は小説書けと言ったんですよ。小説家は全部そんなことしてますから」

 
いやあ、なかなか言いますなあ。


 しかし、そこは不倫の経験豊富な寂聴氏の言うことですから、きっと当たってると思います。


不倫とはゴキブリのようなものである。相手が5匹いるってことは、10匹くらいいるってこと!


・・・名言が生まれました。



 ところで、ここで素朴な疑問が!


「小説家って、全部そんなことしてるんですか?!」


・・・聞き捨てならんなあ。これを今回の勝手に人生相談ネタといたしましょう。



A.してます。かなりの高確率で、たぶんしてます。きっとしてます。うふん。


・・・というのは、かなり失言ではございますが、小説家に限らず、特に異性関係において繊細な人、というのは多くの確率で存在し、そうした人は色恋も盛んですが、芸術的な才能を発揮する場合もあります。


 誰とは言いませんが、歌舞伎俳優の方々とか、誰とは言いませんが、画家などの芸術家とか、誰とは言いませんが音楽を演奏なさるゲスな方の中には、

「不倫」

上等な方もおられるでしょう。



 これについては、奇しくも寂聴氏が、すごくわかりやすいことを言ってくれています。


「人を好きになるなんて、雷と一緒。落ちてくるもので防げない。どうしようもない。そのときに焼かれてしまうか、逃げるかだけ」


  芸術にセンシティブな人たちにとっては、異性との出会いや色恋というのは、ひとつの衝撃をもってビビビと心に入ります。


 なので、まさに雷のように、その色恋に「良い意味でも悪い意味でも」打たれ、心の琴線に響くわけです。


 さあ、そこでその恋の業火から逃れようとするのか、それとも情熱によって我が身もろとも焼かれてしまうのかは、まさにその人の時の運なのかもしれません。




 武庫川散歩は、解脱前に小説家をちょっとだけしたこともあります。生計を立てるほどではありませんが、この世にワタクシの何かが飛び出たことは事実です。


 そしてもちろん、「不倫した」こともあります。


 はい、当てはまりました。



 ちょっと他人より、異性との関係においてセンシティブなだけなのに、武庫川は女子たちから



「あんたは出会う異性を全員恋愛対象にしすぎだ!」


とののしられたり、


「武庫川さんにとって、みんなキープなんですね」


とさげすまれたりするんですが、誤解です!



 ご、誤解だ!誤解だそんなはずはない!


と六角精児が言ってるんです。説得力があるでしょう!




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 武庫川の話になると分が悪いので、寂聴さんの話に強引に戻すことにしましょう。


 どうも、出家をするとなんでも許されるような風潮が日本にはあるらしく、まったくもっておかしな記事が別にありましたので紹介しておきます。



なぜ人気?エンタメ界に進出するお坊さん
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160830-00000300-oric-ent

 
TVのバラエティなどでお坊さんネタが人気だね、というしょーもない記事ですが、この中に重大な事実誤認があったので、指摘したい!のです。



以下引用


「 “生臭坊主”、“破戒僧”的なキャラが先行した織田ブームへの反動かどうかはわからないが、やはり本来の宗教家としての僧に注目が集まり出し、“瀬戸内寂聴に話を聞く”的な人生相談や、哲学的思想を語る僧侶に世間の興味がシフトしたのかもしれない。」



ま、ま、ま待てーいいいいい!!!



 織田無道氏が百歩譲って生臭で、破戒僧なのはいいとして、瀬戸内寂聴さんが


「本来の宗教家」


とはどういうこっちゃ!!!



 あんたら瀬戸内寂聴がどんなお方か、知らんのか?!



 生臭で破戒的な人生といえば瀬戸内晴美を指すというくらいの寂聴さんだぞ!!ペ。


 それも、はるみちゃんが出家しようとした時、どこの寺も引き取ってくれなくて、唯一彼女の面倒をみてやろうと言ったのが、


昭和の怪人 今東光 さま


だぞ!



 作家でもあり、参議院議員でもあった今東光氏の大ヒット作が



「極道辻説法」

(のちに「毒舌身の上相談」と改題)


(中身はこのへんに転がってます)

http://okanejuku.blog92.fc2.com/blog-entry-242.html

http://homepage3.nifty.com/slowly/newpage23.htm

なんだからねっ!!





 このあたりの話が理解できる人は、正直に申し上げて



かなり、エロい



ことは間違いない。


 今日は最初から仏僧の話しかしていないのだが、それでも



エロい



ことは疑いようがない!




 というわけで、解脱者・武庫川散歩の覚者としてのジャンルがどのへんに位置するかは、推して知るべし。



 文句があったら、一回不倫ぐらいしてこい。



 ちゃんちゃん。


2016年8月25日木曜日

性行為は愛と暴力どちらに基づくか 〜拝啓 ニャートさま〜



 昨日、武庫川にとってはとても興味深い記事を書いておられる「ニャート」さんのブログを紹介したところだが、実は私がとても関心を寄せた記事があったので、今日はまじめにその話をしておこうと思う。



 一橋を出てニートになりました
 http://nyaaat.hatenablog.com/
 



 その記事というのは、今回の武庫川の記事のタイトルにも使わせていただいた



「性行為は愛と暴力のどちらに基づくか」
 http://nyaaat.hatenablog.com/entry/love-violence



というかなり重たい、かつ大事な話である。



 ニャートさんは、女性のようなので、「夢見がちでややメルヘンな女子」だった過去の自分目線からこの話を書いておられるが、武庫川は当然男性なので、男性の目線から論を立てていきたいと思う。



 ニャートさんはおそらく、武庫川のブログをこれまで読んでいないと思われるので、基本的にこのブログは「超真面目で、超かたくるしい話を、下ネタとおそらくはセクハラの類に偽装して書かれた変なブログ」であることをご存知ないと思われるので、いつものノリは封印して、真剣な「きりっ」とした眼差しで書こうと思うが、それはレディに対する礼儀というものであろう。



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 ニャートさんの書いている基本的な筋道はこうだ。


1) 少女マンガなどの中には、理想化された男女の100%の愛というものがある。

2) 一方、エロ本や男性誌、男性向け小説には、暴力的な性の描写がある。

3) では現実の男女の営みは、どれくらいの割合で愛と暴力が混在するのか。



 この考え方は、とてもよくわかる。奇しくも、つい昨日、うちの弟子筋の一人から似たような話をされたので、私は自分のこととしてこの問題を真剣に考えるようになった。


 弟子(といっても、ほんとうに師弟関係があるわけではないが、話の流れ上いつも私が指南役で、相手が聞き手になる関係ぐらいに思っておいていただきたい)は、現役の女子大生であるので、まだまだこの俗世の「いろんな意味でいやらしい、汚らわしい」社会の実態を想像でしかしらない存在である。


 また、彼女がこれまた奇しくも「自分は、大人の社会というのは『良きこと』を目指すことが善であり、また多くの大人や社会は実際に善であると思っていた」という意味のことを言っていたので、これはニャートさんの言うところの


「漫画やアニメの理想化された愛の世界」


と本質的には同じだと考える。




 さて、そんなまだまだ理想化されたセカイの側にいる女子大生の弟子からすると、武庫川がいわゆる


「いい話」「役にたつ話」「この世界の本質を突いた話」


をするのに対し、同時に、


「下ネタで茶化したり、アホなことを言ったり、まるで悪人であるかのように偽ったり」


することとの間で、 それが同一人物によって成されているということの理解が、イマイチ納得いっていないのだと思われるのである。



 彼女からすれば、どこまでが本当の武庫川であり、どこまでが演じられた武庫川なのか、その境界を読み取るのが難しいのではないか、と思う。



 もちろん、男女に限らず、学生から社会へ出ていこうとするいわば後期思春期の人間は、「大人になったフリ」や「大人を理解したフリ」をしたいのがこれまた世の常なので、


「武庫川さんはそうやって、アホなことをわざとやっているんですね」


と、表向きは理解したような言説で「武庫川の矛盾を納得しよう」とするのであるけれど、その実はギャップに


「一抹の恐れ」


を抱いているのではないだろうか。



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 話がブレそうになっているが、引き戻しておこう。


 武庫川が希代の解脱者で、聖人君子なのか、それともただの変態なのかは彼女には絶対にわからない。


 それは武庫川の内部の問題であって、武庫川自身にも、もしかしたら二面性が潜んでいるかもしれないし、ニャートさんの論の立て方に添えば、


「50%の聖人と50%の変態でできている」


ことだってありうるわけだからだ。



 個人的な話をここで書くのは恐縮だが、最終的には弟子の女子大生にとっては、選択肢は3つしかない。


1) 武庫川が本当は聖人であり、変態は仮の姿だと信じ込んで接する。

2) 武庫川は本当は変態であり、拒絶すべきだと距離を置く。

3) そのままの武庫川をそのまま受け止めて、どっちもアリな人なんだと接する。



 さあ、選択せよ(笑)




 ・・・冗談は横に置いておいて、 一番リアルに近いことを言えば、


「人間というのは、どのような割合においても清濁併せ持つ存在であり、そうして生きてゆくのが大人だ」


というのが正解に近い。



 だからニャートさんへのひとつの回答にもなるが、


「性には愛も暴力性も、いろいろなぐちょぐちょな感情や感覚が混載しているのだけれど、それを感じ味わうのが人生というものの機微なのではないか」


ということも、言えるかもしれない。





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 さて、それはそれとして「わかったような大人の回答」をしてみたが、武庫川はもっと違う観点で、ニャートさんの話を考えている。



 武庫川には疑問があるのだ。


 (解脱者だって疑問くらいあるわい)




 それは、性の暴力性に直結する話なのだが、どうして人間は自分より劣っていると判定した異性に対して、暴行しようとするのか、という問題である。


 たとえば、Aという国がBという国に攻め入り、Bという国を支配するような状況になると、ほとんどといっていいほどA国の男性がB国の女性を性的に暴行するという事例が発生する。


 沖縄米軍基地問題もしかり、韓国の従軍慰安婦問題もしかりだが、


「征服者という暴力に基づく性衝動」


というのは、たしかにこの世界に存在するのだ。


 これがどうして武庫川にとって疑問かと言うと、以下のことを考えてみてほしい。



1) 征服による性衝動は、そこに確実にAからBへの蔑視・さげすみの観念が存在する。

2) しかし、男性にとって本来は自分のDNAを残すことは、できるだけ”良い子孫”を残したいはずではないのか?

3) そのために胸の豊かな女性が好まれるとか、男性の本能には「よき異性」を求める指向が備わっているはずであるのに

4)なぜ、自分より劣った者だと認識した相手に対して、劣情するのか。



この流れが、まったく説明できないのである。



 良き遺伝子を残す、ということが本来であるとするならば、男はいつも


「良家のお嬢様か、豊満な体の元気な女子」


を選択し、それに欲情しなくてはならないのだが、実際はまったく違う!


 たとえばロリコンだとか、そういうのも含めて、


 大抵の場合は、男は自分よりも「劣っている」と認定した異性に対して、暴力性と支配性を発揮するのだ。


 これは甚だ矛盾するのではないか?



 このことは、ニャートさんが心のどこかで不信感を抱いているように、


「性には、その根底に暴力性が潜んでいる」


ということの、一種の証明になってしまうのかもしれない。



 私は個人的には、「それならなぜ、子孫のDNAが劣るであろうと想定される形で、本能が動くのか」を解明したい気がするのである。


 そこに潜むのが、恐ろしい”魔”なのか、それともあっと驚くような遺伝子の策略があるのか、科学の発展に期待したいところである。







 

 

2016年8月24日水曜日

すべての「心悩める女子」のために ~ニャートさんのブログを勝手に紹介する~



 解脱者という仕事柄、俗世のことには人一倍アンテナを張るようにしているのですが、←オイ 

久々に「これは好きだなあ」というブログがあったのでご紹介しておきます。



 一橋を出てニートになりました
 http://nyaaat.hatenablog.com/



 ニャートさんという女性の方が書いておられるのですが、内容といいテイストと言い、武庫川とまったくジャンルは違いますが、



 私は好き



ですのでお勧め。語り口は武庫川とは(決定的に)違いますが、根底に流れる視点のようなものが好きなのだと思います。



 もちろん、この紹介記事は、ネタ元にはまったく連絡せず、あくまでも勝手に紹介していますのであしからず。




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 この方がどういう方かがなんとなく伝わってくる記事をチョイスするとすれば


 引きこもりが再び働きはじめた朝に
http://nyaaat.hatenablog.com/entry/hikikomori-neet


かな。



 特にお父さんの話のあたりが、いろいろ考えてしまいます。



 私も一時期パニック障害(あるいは、境界性かもしれません)の女性と関わったことがありますが、 彼女と父親の関係や、家族をとりまくいろいろに関わる中で、武庫川という存在があることでうまくいった部分もあるだろうし、うまくいかなかった部分もあります。



 そういうのを多少思い出したりしました。


”あと、私たち家族を支えてくれる「外からの手」は皆無だった。”


という一節が、心に響きますね。


 私は、いつも彼らや彼女たちと関わる時には「外からの手」として関わってきたのですが、私は家族そのものではないので、



 どこまでできるのか、できないのか

 どこまでしていいのか、してはいけないのか



という物理的な問題にも必ず突き当たるのです。



 アドラー風に言えば、最終的にはそれは


「彼ら、彼女たちの問題であって、武庫川の問題ではない」


ので、武庫川が関わったことによる最終決定や判定は、その人たちが行えばいいということになりますが、まあ、人間というのはいろいろな感情があるので、難しいものです。



 武庫川的には、なるべくニュートラルでフラットであるように、というキモチはありますが。




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 さて、ニャートさんのブログは、全体を通してみると「女性がなぜこの社会で生きづらいのか」ということをデータで分析なさっている感じになっています。


 そこで取り上げられている内容については全く同感で、これからの混迷の日本社会においては、いっそう


「女子であることの生きづらさ」


が表に表れてくるのではないか、と思います。



 うちにも幼い娘が2人いるので、そういう意味では彼女たちの将来を思うと、考えなくてはいけないことが山ほどあります。


 
 女性の貧困については、こんなブログ記事がありました。



貧困女子がなんぼのもんじゃい ~だって、そもそも女子はみな貧困じゃないか!~
http://kotaro-yoshiie.blogspot.jp/2015/04/blog-post_56.html



 基本的に、これまでの日本社会で女性の所得が男性を上回ったことはなく、これからもないのですから、結果の平等を実現するには、


「女性に、最初から女性手当てを渡す」


以外にない、という発想です。おもしろかろ?




 というわけで、心悩める女子の方は、武庫川のこんな下品でお下劣で気持ち悪いブログ見てないでニャートさんのブログのほうをチェックするほうが良いと思いますよ!


2016年8月23日火曜日

【勝手に人生相談シリーズ 14 】 アラフォー女子ですが、結婚できません!結婚するにはどうすればいいですか?

 みなさんこんにちは。

 既婚、バツ1、子供ありのアラフォー男子解脱者こと、武庫川散歩です。


 今日は巷で「結婚できるかできないか」で盛り上がっている40前後の女子の方から、妄想人生相談が届きましたので、やっぱり「勝手に人生相談」を推し進めてみたいと思います。




 さて、話は変わりますが、日曜日は某公的機関に呼ばれて、ちょっとした催し物の講師をしてきました。


 武庫川は別に講師業で食べているわけではないのですが、片足を突っ込んでいる俗世のほうでは、年に数回ぐらいは何がしかのセンセイ役で呼ばれて、お話をしたり、あんなことやこんなことをしたりしています。



 ご存知の通り、「武庫川散歩」というのも、ワタクシの数ある芸名のうちの一つでございまして、ざっと数えてもあと3つくらいは


 名前を変幻自在に使い分けながら、世を惑わして


いるのでございます。 ええ、目標は怪人二十面相です。








 しかし、さすがにまだ「解脱者、武庫川散歩のありがたーいお話」シリーズではお呼ばれしていませんので、これは世間の片隅でひっそりとつぶやき続けようと思っています。



 私が、「武庫川散歩」の名前で世に出るようになったら、世も末だと思ってください。わはは。



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 さて、アラフォー女子さんからの相談です。


「40歳を超えました。仕事は現役でやっているし、そこそこお給料をいただいていますが、未だ独身です。結婚しそうにありません。こういってはなんですが、一般的なレベルと比べると、美人なほうだと思っているし、ファッションはいつも”ゆるふわ”です。

 おつきあいしてきた方も何人もいるのですが、どうにも結婚というところまでは行きません。

 解脱者さんはどのようにお考えですか?」





 ・・・この空想妄想勝手に相談は、実在の人物をモデルにお届けしています。


 ええ、そうです。ワタクシがその昔、おつきあいをしていた同い歳のSさんからの、ありえない依頼を妄想しています。


 Sさんとはその昔、おなじ職場で仕事をしていたことがあり、歳も同じだったこともあって、すぐに親しくなりました。


  Sさんは、私に結婚してほしい!と思っていたようですが、私はいろいろ、いろいろ、いろいろ考えたり悩んだり、苦しんだりした挙句、


 Sさんとは結婚しない!!!


ということを硬く心に誓ったのでありました。


 そして、若い女と遠い地に逃げた武庫川は、その若い女と結婚し幸せにくらしましたと、さ。


 めでたしっ!!め・で・た・しっっっ!!!!!







・・・とまあ、武庫川サイドから言えば、武庫川は幸せに暮らしているのでなんの問題もないのですが、最近Sさんが


「今も仕事を続けていて、独身で、まだ結婚していない」


ということを、思わず知ってしまったのであります。



 ワタクシと別れた後も、新しい彼氏を作って、元気に暮らしていたらしいという忍びからの報告がその昔ありましたので、


「武庫川のことなど、すっぱり忘れてくれたまえ!アディオス!」


と思っていたのですが、あれから10年くらいが過ぎ、 まだ独身でおられることを知り、思わず人生相談してしまった次第。


 あれだけ結婚願望があり、武庫川にも「子作りを迫って」くるような女子だったSさんが、未だに結婚していないとはどういうことか・・・。



 その答えになるような名回答が見つかったので、今回は武庫川の言葉ではなく、引用で処理してしまうことにしましょう。


(武庫川が回答すると、関係者なのでいざという時ひっじょーにマズい


  わ、わしはなんも言ってないからね!!!




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結婚できない筆頭は「昭和の男とピアノお嬢さん」
http://diamond.jp/articles/-/99588


 ダイヤモンドオンラインからの記事紹介ですが、結婚相談所の方のお話です。


 簡単に要旨をまとめれば、基本男尊女卑で「してやった」的なところの強い『昭和男子』がまず結婚できず、そして


 家にグランドピアノがあるような良家の女の子


が結婚できないというのです。


 なーんでか?


 子供を相手にしている教師やピアノ講師など、あるいは芸術に関わっているけれど親元から独立できていない女子の方々はどうしても俗世と乖離しがちであり、


 どこそこさん家の綺麗なお嬢さんのまま40代に突入!!!


することが多々あるのだそうです。



 そしてなんと言っても、「グランドピアノがあった自分のおうち」を再現できることを自分たちの結婚生活にも望むので、一層俗世とはかけ離れて行くのだとか。


 メルヘンの世界ですな。



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 私の知り合いにも、グランドピアノが2台鎮座しているという超プロ音楽家の方がおられますが、彼の場合は


 職業=プロピアニスト、おまけに男子


という本気と書いて「マジ」と読むタイプの方なので、それは横に置いておくとして。






 話をSさんに戻しましょう。


 一度だけ、Sさんの育った自宅を訪れたことがありますが、なんということでしょう!!!


 ありましたよ、ありました。


 グランドピアノが、リビングの中央に鎮座していました。



 そのおうちは姉妹ばかりだったのですが、姉妹揃って


「ピアノとバイオリンを習って」



おり、これまた別の時には


「うふふ、60万円のバイオリンを買いに行こうと思ってるの、武庫川さん御一緒してくださらない?」

という感じで、 プロでもないのに高級なバイオリンをご購入にお成りにおあそばせでした。


註)彼女の仕事は音楽とはまーったく関係ない。 別にピアノを弾く機会も、バイオリンを弾く機会も特には、ない。


 ここから先は、武庫川とSさんが、どのようにすれ違っていったかを書くのは野暮というものです。



 察してください。


 武庫川には、彼女を幸せにすることは、できなかったのであります!!!!






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 北村想という方の戯曲・小説に「怪人二十面相・伝」という作品があり、私はとても好きな作品なのですが、二十面相がこんな台詞を言う場面があります。



「男と女が一緒になれるかどうかは、縁っちゅうもんや」


あるいは、時の縁だったかもしれません。



 私は、今の妻と縁あって一緒になっていますが、前の妻もおりました。


 あるいはそれらの女性以外でも、人としてお慕いしている方もおります。


 ・・・誰だ!「押したい」しているとか言うやつは!!


 ああ、押したい!押し倒したい!!!!!!


(と、今日はこんな所で突然いつもの病気が始まったりして(><; )




 みなさんもきっと、男女問わずいろんな人に出会い、また別れて人生の機微が増えてゆくというものなのです。


 Sさんはきっと仕事も充実しているようで、幸せなのだと思います。少なくとも私と結婚していたほうが良かったかどうかは、わかりませんが、しなくて正解だと武庫川は思います。




 なぜなら、武庫川はとっても悪いやつで、本当はあんなことやこんなことをのけぞるくらいしちゃうような稀代の大悪人だからです。


 まるでカリオストロのルパン3世のようにおじさんは悪い人なので、黙って去ったのです。なーんて。


2016年8月18日木曜日

現代は、人類史上最も幸せな時代である 〜少なくとも、先進国民(日本を含む)にとっては〜



 今、自分が「幸せではない」と感じている人は多いと思います。


 あるいは、自分は「これから幸せではなくなるのではないか」という不安にかられている人も多いかもしれません。


 それは、ある意味正しく、ある意味間違っているのですが、希代の哲学者にして解脱者である武庫川が、先進国民にとっての現代の私たちが



 歴史上、最も幸せな時代に生きている



ことを明解に説明することにしましょう。



 産業革命によって、飛躍的な経済成長が欧米を中心に生まれましたが、それまでの世界の社会と言うのは、ほぼ「横ばい」の成長をしており、簡単に言えば


「鎌倉時代ぐらいから、江戸時代まで、日本人は同じような生活ぶりを延々とくり返していた」


というイメージだとよくわかると思います。



 その間、日本人の多くは、「食って寝て、子供が出来てまた食って寝る」という生活を基本的には延々と続けていたし、多少科学技術のようなものが発展したとしても、これらも「動物の力か、あるいは人力をメインとする」技術に過ぎませんでした。



 日本だけではなく、こうしたイメージは実はヨーロッパでも同じで、中世の貴族の流れを組むエリザベス女王が、英国のトップとして現在も君臨していることからもそれがわかります。


 欧米諸国に貴族の末裔がいるのは、日本で言えば「やっぱり源氏は土地をたくさんもっている領主だよね」とか、「藤原氏の子孫は、いい大学に行くもんだよ」と言っているのと同じです。


(ちなみに、ヨーロッパは日本よりも遥かに『出自による身分、階級差』が色濃く、現在も残っています)



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 ところが、産業革命により、主に蒸気機関が発明されてからは「あれよあれよ」という間に、世界の情勢は変化しました。


 いわゆる欧米諸国は、「蒸気エンジンの船」を使って世界中を制服し、『宗主国と植民地』という立場を作ってゆきます。


 日本は、なんだかんだ言って植民地にされそうな雰囲気でしたが、実は秀吉がキリシタンを弾圧したり、家康が鎖国をすることで、列強の思惑をはねのけ、結果的に明治維新を経て「支配者側」の立場に立つことに成功しています。



 植民地モデルというのは、とても簡単です。


 植民地から資源を安く買い叩いて引っ張ってきて、宗主国が潤うという形態ですから、植民地のみなさんが苦しんで、宗主国が幸せになるということでした。


 この、単純に資源をあっちからこっちへ引っ張ってきて、こっちが潤うというのが、植民地モデルの基礎だとすると、第二次世界大戦後は、もう少しレベルが上がった「擬似植民地モデル」が生まれます。


 擬似植民地モデルというのは、植民地の場合は「宗主国が直接統治」していたのに対して、「先進国の言うことを聞く現地統治者」を立てて、政治的には独立しているのに、経済的には支配するスタイルを指します。


 もちろん、戦後の日本もこのモデルを適用されて支配されているので、「コカコーラ社やマクドナルドの店が日本にある」とか「ヤマザキがナビスコの下で働いている」とか、アメリカ経済の影響下にあったことは否めません。


 しかし、先進国となった日本は、今度は海外で同じことをしたので、今では「スズキ自動車がインドにある」とか「ハリウッド映画にJVC(元のビクター)の家電が映っている」とか、そういうことも起こっているわけです。


 途上国に目をやると、欧米諸国などの先進国が、軍備を優先的にある政治家に譲り渡して、間接的に統治をする、ということも多々あります。

 中東に欧米諸国の傀儡政権ができたり、韓国がアメリカの支配下にあったりするのも同じです。




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 さて、植民地モデルや擬似植民地モデルでは、「先進国」に所属する国家の住民は、途上国や支配下にある国々からの上前をはねることができたので、



「先進国の国民みんなが、それなりに豊か」


になることができました。


 ところが、21世紀に入ると、世界の情勢が怪しくなってきます。


 まず、欧米が隠れて支援していた各地の独裁政権が、欧米に反旗を翻したり、独立しようとしたりしはじめ、ボロが出てきます。


 これまでのように、宗主国や先進国のコントロールが効かない状況が、世界のあちこちで生まれ始めているわけです。


 その一方で、経済はどんどん国境がないグローバル化が進んで、「世界企業」が直接、各国の経済で活動するようになりました。



 例を挙げれば、アマゾンが直接各国で販売を行うとか、アップルが世界中でiphoneを売るとか、グーグルがネット検索と広告を支配するとかですね。

(これまでの擬似植民地モデルだと、iphoneのような製品は、海外に現地工場を立て、現地工場で製作されたものがその国で販売されるようなスタイルでしたが、iphoneは、アメリカで企画し、台湾の会社に製作を依頼し、中国の工場で作られ、世界中に送るというスタイルになっています。企画から製作販売までもがグローバル化されているのです)


 この第3段階の形態では、恐ろしいことが起こります。


 これまでだと、宗主国や先進国民にも当然おこぼれがあり、その国民は豊かであり得たのですが、iphoneの例を見てわかるように、


「製品を企画する企業は、まず儲けを得ることができる」

「製品を製造する現地企業は、製造の対価を得ることができる」


のですが、それ以外の国民には、全然利益が還元されないことが生じてくるのです。


 iphoneでは、sony製カメラが搭載されているので、sonyの工場で働く者には、対価が還元されるかもしれませんが、次のカメラが仮に、sumsung製でチョイスされたら、日本人には何も還元されなくなる、というのがグローバル企業のやり方なのです。



 つまり、グローバル企業の本体そのものが「宗主国や、先進国」のような動きをして、その都度自分に都合のいい外野の企業(それがどこの国にあってもあまり関係ない)が、植民地のような動きをするという


 「(流動的)植民企業モデル」


 のようなものへと移ってきているわけですね。




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 これをやられると、「宗主国民である」とか「先進国民である」ということは、ほとんど意味をなさなくなってくることがわかるでしょうか?


 「先進企業の中核に所属している」者と「(一時的に)先進企業の下請けをさせてもらっている」者


しか、利益の配分を受けることができません。なので、日本人よりも中国人がお金持ちとか、イギリス人よりも東南アジアの人がお金持ち、ということがどんどん起こってくるのです。



 これが世界中の先進国で起こっているために、欧米人が移民に仕事を奪われた、とか、日本人に格差が生まれたとか、そういうことが起きはじめた、ということになります。



 簡単に言えば、今はちょうどその過渡期ですから、



「今、まさにこの瞬間が先進国民にとって最も幸せの絶頂であって、ここから先は落ちるしかない」


ということが言えるのです。



 そう!今は人類史上、最も幸せな瞬間だったのです!!!



 これから先、この幸せを維持しようと思えば、最も良いのは、グローバル経済を支配する側の企業に回る、ということですが、これが叶うのは日本人や先進国民の一部だけにとどまります。


 なので、中流層という身分がいっそう少なくなってゆき、格差は拡大することでしょう。





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 パソコンの進化が止まり、テレビの進化が止まり、iphoneですら特段革新的機能がつかなくなりました。

 武庫川は今40歳代ですが、casioの液晶テレビを持ち歩き、sonyのCDラジカセで音楽を聴き、ウォークマンにカセットを入れて闊歩していた頃と、現在を比べても、当時は当時で十分幸せだったな、と思います。


 たしかに、80年代、90年代よりも電化製品やIT製品は進歩しましたが、それも今が頂点で、ここから先はそれほど変わらないかな、とも思います。


 自動車ももう何十年も変化していないし、ちょっと自動ブレーキが増えたくらいのものです。


 飛行機だって誰もが自家用で空を飛べる時代は、おそらく来ないでしょう。


 宇宙開発も、月面着陸以降、ストップしています。


 
 ようするに、技術の発展や進歩も、あと少しくらいは伸びしろがあったとしても、まあまあここが限界なのです。



 だから、何度も言いますが、



 あなたやわたしは今、とても最上級に幸せな生活を享受しているのです!!!




















2016年8月12日金曜日

千日回峰行における「悟り」を追う ~修行に悟りはあるのか~





 毎日暑い日が続きますが、いかがお過ごしでしょうか?


 先日夏風邪のようなものにやられた武庫川は、今頃になって「実は熱中症だったのではないか?」と思うようになりました。


 みなさまもご自愛くださいませ。




 さて、世界中でTEDがけっこうブームになっていますが、大峰山千日回峰行を達成した塩沼さんの講義が上がっていましたので、今更ですがご紹介。



 TEDって何かって?


 ええ、下劣で下品で、毎晩売春婦を呼んで乱交パーティをするようなクマのぬいぐるみのことです。


 世界中で大ヒットしたのでなんと「パート2」まで作られてしまいました。R指定ですが。



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 って、そっちのtedじゃなーいい!!!!
 http://ted-movie.jp/


 TEDのほう!
 https://www.ted.com/talks?language=ja



・・・まあ、世界中で「いろんな良い話」を講演会として提供しているプログラムのことです。



 で、

http://headlines.yahoo.co.jp/ted?a=20160726-00000000-ted



に千日回峰行をやらはったお坊さんの講話が映像+本文全部で掲載されているので、



山岳系修行


が好きなグレートトラバースなあなたは一度くらい視聴するのもよいかと。



 武庫川的には「仏教系山岳修行者、塩沼亮潤氏」と「アドベンチャー系山岳走破者、田中陽希氏」のスペシャル対談を聞いてみたいのですが。





☆NHKグレートトラバース ~日本百名山一筆書き~
http://www.greattraverse.com/




 ちなみに、武庫川は激しいのはきらいですが、小登山は好きです。甲山とかね(爆)


 けっこう、1人でものを考えたい時には、地元の山に登ったりします。誰もいない、小道を1人で歩くのは、よい精神修行になるものです。





 千日回峰行というのは、もともとは比叡山で始められた、山を登って降りて歩きまくる修行ですが、比叡山は天台宗なので、密教系の修行として山登りをするのでしょう。


 一方、大峰山は開祖が役小角(えんのおづの)ですから「山伏(修験道)」系の山登りですね。




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 さて、厳しい厳しい、それは死んでしまうような修行の果てに、塩沼氏が行き着いたものはどのような境地であったのか。


 それが講義に出てくるわけですが、世界の宗教に詳しい武庫川としては、


「仏教の修行の話が、いつのまにか神道的自然観になってるんですけど」


つっこまずにはいられません。



 大自然に生かされている、という我々人類は、その前では平等でただ小さな存在である。というひとつの真理は、まさしく


神道


的な発想ですね。



 彼のたどりついた境地を引用させてもらうならば、



それを考えたならば、もっと心豊かに生きていかなければならないと思いました。自分の胸に手をやれば心臓が動いています。しかし、永遠に動いていることはないと思えば人生という与えられし限られた時間を大切に生きれるはずです。”


ということで、これは武庫川がいつも言っていることです。


 私たちは、無常の世界の中に、なぜか生み落とされてしまった。では、その中で精一杯生きねば(そして楽しまなくては)損じゃないか。


という、武庫川の悟りと同じです。




 武庫川は、千日も山に登るという激しい修行はしておりませんが、悟りに至っては共感できることが多々ありそうです。



 しかし、どんな凡夫であっても達成できるというもう少し、軽めの行を江戸時代の川柳を引用しながら紹介しておきましょう!



 『千摺は日本一の富士の山 甲斐で見るより、駿河一番』


・・・掻(か)くより、擦(す)るのがいいと江戸の人もいってます。



やっぱりtedやないかーい!!!!!!!!!


題して 千摺回峰行。


(女性の方には分かりにくいでしょうが、下ネタです)



2016年8月9日火曜日

【勝手に人生相談スペシャル 13 】”時をかける少女”さんからの相談です。「解脱者さんは、過去に戻れるとしたらどうしますか?」



 どうも、俗世に片足つっこみながら解脱者をしている武庫川散歩です。



 武庫川は、どちらかというと、煩悩を避けたりせず、大きな器で受け止めるタイプの解脱者なので、テレビも見るし、メディアもバンバン読んだりするのですが、ええ、先週まで5回連続でやっていた



「時をかける少女」
 http://www.ntv.co.jp/tokikake/



のドラマを楽しみに見ておりました。



 しかしまあ、なんですねえ(小枝風に)


 この時をかける少女も、いったい「何回目のドラマ化やねん!」と誰もがつっこむくらい再演されていますが、作者の筒井康隆氏もウハウハなことこの上ないのではないでしょうか。


 原作の小説が出たのが1967年だそうですから、既に50年近く時を駆け続けているわけで、なかなかたいしたものです。



 Wikipediaで調べてみると、この作品、「映画4本、テレビ5本、舞台1本」になっていて、その他ドラマCDやらなんやらを合わせると、数えきれないぐらい再演されているそうで。


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 さて、今回の「時をかける少女」ですが、



 仮面ライダードライブこと泊進ノ介


が出るというので見始めたのですが、 竹内くんは爽やかでよろしい。ドライブの時は30代のおっさんみたいに落ち着いていましたが、今回は高校生役。どちらもすばらしかったです。



 ああ、もちろん主役の黒島結菜ちゃんもたいへん可愛かったですが、前髪ぱっつんの時がツボでございました。


 ええ、若い子が好きですが何か?



 解脱者ムコガワは、あんまりドラマにハマったりはしないのですが、今回はめずらしく



 ブルーレイが出たら、買おう!



と密かに決めているくらい、よろしかったですね。このドラマ。



 ・・・というのも、最終回はどうでもよいのですが、第一回がとてもよくできていて、


「大林宣彦・原田知世版の時かけ」



「細田守・仲里依沙版のアニメ」


へのオマージュが全編にちりばめられており、


「ああ、これはよく考えて作ってあるなあ」


という撮り方だったので、武庫川の評価が高いのです。


 ちなみに、第二回以降は意外と普通です。見るなら第一回のみでOK。




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  さて、というわけで、今回は「時をかける少女」さんから勝手に相談をいただきました。


「武庫川さんは、過去に戻れるとしたら、どうにかしたいことがありますか?」


という難問に、お答えしようと思います。




 ご存知の通り、武庫川の人生は波乱万丈、いろんなことがありました。


 さすがに「殺人と逮捕歴」こそないものの、世間で言うところの過ちや失敗も数多く経験しています。



 あるいは、人生の歩み方も紆余曲折があり、けして思い描いていたとおりの人生を歩んでいるわけでもありません。



 しかし、どう考えても。


 どう考え抜いても、私は過去に戻ったりやり直しをしたいとは思えないのです。



 逆の言い方をすれば、「今がパーフェクトで納得しているわけでもない」のですが、それでもやっぱり、過去に戻ることができると言われても、あまりそれに魅力を感じたりはしないようです。





 どうしてなのでしょう?



 そこには、解脱者ならではの「斬新なものの見方」が根底にあるような気がします。




 もともと、武庫川は、将来”小説家になりたい”という夢を持っていました。


 その夢は、結果としてある程度かなっており、武庫川が世をしのぶ仮の姿で書いた文章は、この俗世に出ているので、ちっちゃな満足がそこにあるのですが、それは別にしても、


 「作家になるのだから、どんな経験であってもそれは将来ネタになるはずだ」


という感覚を持っていたのです。


 ですので、それが苦しいことや辛いこと、あるいは過ちであったとしても、「そこから得る人生の機微がきっとある」と武庫川は常に思っています。



 その体験は、けして無駄ではないと考えたのですね。



 ・・・さて、翻って現在の武庫川にとっては、「作家としてより、人間としてそれらの経験は自分の器を大きくしてくれている」と感じるようになりました。



 武庫川が解脱者として、たいていのことには動じず、むしろ喜びをもって接することができるようになったのは、そうした人生経験の積み重ねのおかげなのかもしれません。


 


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 しかし、こんな話だけでは武庫川の理論はたいしたことはなさそうに思えるでしょう。


「どこが斬新なのか」


と突っ込まれそうです(笑)



 そこで、例題。



 今回の「時をかける少女」では、高校生らしく恋愛がモチーフになっていましたが、もし仮に黒島結菜ちゃんが、


「奥さんと出会う前の時代へ戻ってあたしとつきあってください!」


と武庫川に迫ってきたとしましょう。



(え?何を言ってるんだ?って?? ・・・だから勝手に人生相談ですから、黒島結菜ちゃんには断りもクソもいれてませんが?)



 俗世の感覚だと、そこはたしかに分岐点です。 実際にドラマの中でも、結菜ちゃんは泊進ノ介に告白されるたびに時間を戻してはぐらかそうとします。


 似たようなネタは、細田版のアニメ映画でもありましたね。告白されないことにしてしまうという。



 しかし、武庫川は「過去に戻って恋愛をやり直す」ということは、やっぱりピンとこないのです。


 それよりもむしろ、「奥さんがいるのに、若い子とも付き合うという悶々とした体験をしながら、愛欲に苦悩する中年男性という生き様を体感する」ほうがよいのではないかと思うのですがいかかでしょうか?


・・・え?何を言うてるんだ?と思われるかもしれませんね。


 いやいや、こういう話は私が言ってるんではなくて、石田純一(都知事候補だった)が言ってるんです!!!!!



 「不倫は(そういう悶々とした体験が)文学作品に描かれたりしますよね」と彼は言っていたのです。



そう



「不倫は文化だーっっっ!!!!」



と。




 冗談はさておき、愛欲に生きてそのまま出家した瀬戸内寂聴さんも、似たようなことを実体験でやっているわけですが、人間というのは


「過去に戻って正解だけをチョイスできる」


存在ではない、ということは覚えておくべきです。


 不倫が良いか悪いかは一旦となりに置いておきますが、そうした過ちを含めて人は


「過去を抱えながら生きてゆくのだ」


ということも忘れてはなりません。



 現実世界では、あなたやわたしがやらかしたこと」は消えません。忘れようとすることや隠すことくらいはできますが、消えることは絶対にないのです。



 それを受け止めながら生きてゆくことも、また人生です。



 映画の話で言えば、高倉健さんは、そういう過去を抱えた人柄を演じるのがとてもすばらしい俳優さんでしたが、



 ああ、まるで俺は高倉健みたいだな!



 と、悦に入りながら今日のお話を終えることにいたしましょう。



(あいかわらず、無茶苦茶なことばかり言っている武庫川でございますが、何か?







 



2016年8月4日木曜日

いかに日本はうつ病を信じるようになったか



 このブログでも、清濁併せ持つ感じで時にはぬったり、時にはねっとりと取り上げてはいますが、



 シンプルで、端的で、スパンっと簡単に



うつ病を理解するための良記事がありましたのでご紹介しておきます。




 いかに日本はうつ病を信じるようになったか

 http://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-36972140




 配信元はBBC


 クリストファー・ハーディングさんの短かめながら的確な記事です。


 
 私の記憶から考えても、たしかに1980年代くらいまでは「うつ病」という概念は日本においては一般的ではありませんでした。

 それが製薬会社のキャンペーンによって「一般化」したことについては


「良い面」「悪い面」


の両方が取り沙汰されるようになっています。現実的には。



 そのことも踏まえて日本のうつ病史と、これからの課題をシンプルに描いているこの記事はとてもわかりやすく、私はお気に入りです。




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 うつ病の難しいところは


「肉体と精神の酷使=つまり過剰労働によっても生じる」



「自己の内部と外部の精神の乖離=つまり、自分の認識と周囲の認識のズレによっても生じる」


ところでしょう。


 しかし、特に後者は「自己の精神の設定がそもそも間違っている場合、うつ病は自己責任か」という大問題を投げつけてきています。


 簡単にいえば「超わがままに育ったやつが、周囲に受け入れられないといってうつ病になるのはどやさ」ということです。



 この一部に当たるのかもしれませんが、新型うつなんかも、これから議論が増えてくることは否めないと思います。



 
 ただ、それはそれとして、今回の記事では



「ファッションとしてのうつ」



「感情労働」


の問題などにもさらっと触れているところが良かったです。



 うつやメンヘラは本当におしゃれなのか?

 感情労働は今後規制やコントロールがされるのか?



など考える部分はたくさんありそうです。


 まあ、今回は「うつ病」について武庫川が語る時間は、なしにしておきましょう。


 とりいそぎ、よい記事の紹介ということで!

2016年8月1日月曜日

どうすれば神秘体験を得ることができますか? ~あちゃらの世界を覗きたいあなたへのひ・み・つの方法スペシャル~


 突然ではありますが、仏教において釈迦は、女性のことを所詮



 九穴の糞袋



である!と言ってのけたという逸話があるようで。


 まあ、これはどういう話かというと、あるときシャカが偉い人から「うちの娘を嫁にもらってくれないか」という打診を受けたときに、


「女性は所詮九つの孔が開いた糞袋なので、いらん」


と拒絶したというお話だそうです。



 ・・・・。


 ・・・・・。


 ・・・・・・・・・。



 武庫川は、アホなのでよくわからないのですが。人間の目を「穴」として数えているらしいので、まあそれはそれでいいのですが。



 ・・・・・。



 ・・・・・・・・。



 えっと。ちょっとお釈迦さまに一言申し上げてよろしいでしょうか。


 女の人は、よく数えると「10穴」あるはずなんですが、本当に九穴しかないんだったら、その人はきっと、オトコ・・・。


 どっかーん!



 お後がよろしいようで。




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 さて、今日もいつもどおりあっち方面なネタ全開で始まりました武庫川散歩のお気楽極楽、ぶらり一人語りのコーナー。



 ちなみに一説によるとシャカ族の王子だったころのシッダールタは、女遊びが激しく、60人もの子供をもうけたとかもうけないとか、そういう話もあるくらいですが、


ちゃんと見とけ!!!!!!


と一喝してやりたいくらいです。


 ええどうも、ある一点において釈迦を超えた解脱者こと、武庫川散歩ですよ!





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 さて、本日のお題は、読者のみなさまから寄せられた


「神秘体験がしてみたーい!ドキドキっ!」

とか

「どうすれば悟ったようなキモチになれちゃうのですか?えへへ?」

とか、


そういった愚かで浅はかでふしだらな質問に「はりきって答えちゃうよ!」という、内容でお届けします。



 実は結論からお話させていただくと、


すべての神秘体験や擬似的な「悟り感」「多幸感」「研ぎ澄まされた感覚」などは、薬物や電気刺激による、脳みそがおかしくなった状態


というネタばらしになります。


(脳内麻薬は20種類以上見つかっていますので、20パターンくらいは方法が見つかりそうですね)




 なので、実際にあなたがこうした現象を体験したとしても、それは「そういう状態を体験した」というだけであって、明日のあなたが万能になったり幸せになったりするものではないということを、よくご理解しておいてください。



 ただまあ、その体験を得るための方法はいくつもありますので、列挙しておきます。ご参考まで。



 ただし、武庫川は、人工的薬物で快楽を得るのはダイッキライなので、それ以外で書きます。




<ランナーズハイはなぜ起こるか>
  
 長時間走っていたり、あるいは「クライマーズハイ」などと呼ばれるように、山登りなどの活動をしているとエンドルフィンという物質が脳内に出てきます。

 エンドルフィンは、モルヒネのような作用があるため鎮痛・多幸感・高揚感をもたらすとされます。


 おもしろいことに、これは”報酬系”と呼ばれ、「しんどいことやつらいことが続くので、無意識的にそれを緩和するために脳は物質を出す」ということなのだそうです。

 ええ、現実逃避ですね。



<ヨガの正体> 

 ヨガのように、体をストレッチすることで脳内麻薬様物質が出るということは、あまり知られていません。

 ところが、古代インド人達はヨガのように、いろいろな「体を動かす技」で「心に作用すること」ができないか研究しており、早い段階でこのことに気づいたようです。

 ヨガにおいてもエンドルフィンが出たり、呼吸法などではセロトニンが増えるなどが身体に起きるようです。




<ダンスビートに乗りまくれ>

 おなじリズムやビート、抑揚のある音階などの祭礼音楽やダンス音楽によって、一般的にも「トランス」なんてことばで言われますが、催眠状態が起きます。

 夏祭りの盆踊りや、仏教の読経・声明・アジア各地の宗教音楽なども、すべておなじ原理でできています。




<どうして信者は集団で活動するのか>

 オキシトシンという「幸せホルモン」なる物質が見つかっていて、人は肌と肌の触れ合いや、集団での交流においてこの物質が出て「闘争心や恐怖心を減衰」させることができるようです。

 なので、マッサージやなでる行為などから、家族団らんや居酒屋でくっちゃべるなどでもOK。

 人はひとりぼっちではさみしいようです。



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 まあ、こんな風に、あなたの心に何がしかの変化を起こすことは、とっても簡単ですので、刑に触れないあたりからはじめてみてください。

 でも、忘れてはいけないのは、それらは全部


「脳内体験」


に過ぎませんので、あなたをとりまくまわりの世界はなーんにも変わりません。


 それを忘れると、大変なことになるので、間違えないように。