2014年12月29日月曜日

絶対に当たる占い師「武庫川散歩」さん。~確実な未来を予想します~

 世の中の人たちの「占い」に対する希望や需要というのが、ものすごく多いと知って、多少驚いている武庫川散歩です。

 ぎょええええ。


 へーほーふうん、そうなんだ。とさらっと思っていたのですが、よく考えると


「占い師」





「預言者」





「予言者」


は似ているようで、全く違うんですな。当たり前だけど、ついでに「解脱者」も仲間に入れてほしいのですが、話がややこしくなるからやめておきましょう。


 ちなみに、もう一度確認しておきます。




「占い師」というのは、お箸でもトランプでも花札でもいいのですが、何か道具を使って「未来を占う」ことを実行する人のことです。

 え?あれお箸じゃないの?トランプじゃなくてタロット?へーそーなんだー。


基本は占いの結果を出すのは「神様の領域」ですから、それが道具を通じて具現化され、またまたそのデータから相手にふさわしい言葉に変換して伝える、というのが占い師の主な役目です。





「預言者」というのは、神様からのお告げを預かる人です。古代政治のミコさんなんかもそうですね。

「・・・神はこれこれこう申しているぞよ」というお姉ちゃんは預言者の一種です。ついでに、聖書に出てくるモーセとかも預言者です。






「予言者」は未来のことを言っちゃう人です。

「西暦1999年の7の月に、滅びがきますよ!」とか、「30年以内に、大地震が来る確率は・・・」とか、ああ、これは違いますね。



 というわけで、似ているようで3者は全部ちょっと違います。



 ちなみに、私は神からのお告げは預かっていないし、別に未来予報師でもないのですが、占いくらいはできますよ。


 ほれ、そこらへんにあるお花を摘んで来てですね。あの人が自分のことをどう思っているか占うわけです。

「好き、きらい、好き、きらい、好き・・・・」


女子なら一度くらい試してみた経験があるでしょう。このように「占い師」になることは別に特別に難しいことではないわけです。




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 さて、つまらぬ前置きはこれくらいにして本題に入りましょう。ワタクシ武庫川散歩は、「絶対に当たる占い師」として有名です。なんなら、ひとつ占ってしんぜましょう。


「・・・むむ。むむむむ。わかりました。あなたの未来を占いました。あなたは確実に死にます。そう、あなたは、絶対に死ぬのですババババーン!」


 少なくとも、この占いに関しては的中率100%です。・・・え?そうじゃなくて?もう少しマシなヤツ?

 じゃあ、乳児死亡率がどれくらいあるかとか、同世代の終身結婚率がどれくらいあるかを基にして占ってみましょうか?

 成人男性の5人に1人は結婚できません。とか。ぜんぜん行けますよ?その手の占いは得意です。


・・・・・・・。冗談みたいに言ってますが、たとえば占いの中でも手相とか、姓名判断というのは、それ専門の占い師に聞いてみてくださいな。


「あの、どうして手相は当たるんですか?」

「ふほほほ、これはなお嬢ちゃん。占いとはいえ統計学なのだよ。それはそれは何千年もの昔から、この手相の人はあーなってこーなったという記録をつけたエラーい占い師が、統計を基に生み出したものなので、だから当たるのじゃ。」


と答えてくれるはずです。そうです。彼らは統計学という科学を元にしているからこそ、占いはしっかり当たるのだと答えてくれるのです。



 と、いっているそばから、お嬢さんが1人私のもとへやってきました。


「あの、どうして武庫川散歩さんの、結婚できるか占いは当たるのですか?」

「ふほほほ、これはなお嬢ちゃん。占いとはいえ厚生労働省の白書に基づいた統計学なのだよ。それはそれは戦後から歴代の統計処理班が、国民のうち結婚できた人が何人いてできなかった人が何人いたかを数えたので、だから当たるのじゃ」

というわけです。


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 話が脱線しました。ここまできてまだ本論じゃないというのだから驚きです!


 さて、気を取り直していきましょう。私は解脱者ですから、占いの結果がどうのとか、そんなちんけなことは言いません。

 繰り返しますが、人はかならず死ぬのです。どんな道順を選んだとしても、最後は死ぬのです。


 だとすれば、そのひとつひとつの途中のコマの良し悪しで悩んだりしてはいけません。そんなことはどうでもよろしい。


 今の彼があなたにふさわしいかどうかなんて、どうでもいいのです。あなたにふさわしいのはこの僕です!!!!


 就職試験がうまくいくかどうかなんてどうでもいいのです。あなたを待ち受けている上司はブラック上司なのですから!!!!


 希望の大学に入れるかどうかなんてどうでもいいのです。あなたはそこで、一生を台無しにするあんな女に出会ってしまうからです!!!!!


 自分がどんな生き方をしたらいいかなんてどうでもいいのです。占い師に頼ってないで、自分の力でたちあがれええええ!!!!!


 ・・・・はあはあはあ。


 解脱者でもあり、占い師でもある預言者武庫川散歩が、神から預かってきた言葉をみなさまにお伝えしましょう。




「人生はどうせ死ぬ。いつか死ぬ。ああ、死ぬったら死ぬ。だからそれまでの間に、あなたがどんな体験をしたかがあなたの人生そのものなのです。


 体験が人生そのものだとしたら、あなたは思うことでしょう。それなら、できるだけ幸せな体験をたくさん味わって死に向かいたいと。


 ですが、本当にそれでいいのですか?あなたの人生は、最初から最後まで幸せな体験で満ちている、それがほんとうにあなたの人生だと言えるでしょうか?


 本当にそれでいい、とあなたが頷くなら、あなたのごはんはこれから死ぬまで3食全部ケーキか甘いものです。甘いものだけを神であるワタクシがあなたに与え続けましょう。

 もう、ウエッとなってもケーキです。ゲホッとなってもティラミスです。飲み物はホットココアかみかんの缶詰の汁の部分です。それでいいんですね?本当に。


 ほれ、これで気付いたのではありませんか?


 幸せというのは、甘いケーキのようなものです。たしかにそれは甘く、幸せのように感じられます。


 しかし、幸せや甘さは、それだけで死ぬまで満足させてくれる要素ではありません。


 辛いものも食べたいし、苦いものだって気になるし、ちょっぴり発酵してたり腐っていたり、グツグツ煮えていたり、キンキンに冷たくてもいいのです。


 そう、人生は幸せもつらさも、さみしさとせつなさと心強さも全部抱きしめて君と歩いていこうなのです!!

 誰だ、JASRACに通報したやつは。


 だから、あなたが知るべき未来はたったひとつ、それはあなたがいつか死ぬということに他なりません。そして、それまでに、どんなに彩り豊かな体験をしたかが、あなたの人生の豊かさそのものだというわけです。


 もちろん、辛いときも悲しいときもあるでしょう。つらさやかなしみに押しつぶされそうになる瞬間もあるでしょう。

 そう、ワサビをつけすぎて「ふんごっ!!!!!」となる時のように。

 そう、たまねぎを切りすぎて涙がとまらなくなる時のように。


 しかし、そんな苦しみは時間が解決してくれるか、私が解決します。ズバット。


 さ、さあ。はやく私の胸に飛び込んできなさい!は、早くおいでったら。いいじゃ~ないの~。以下自粛」



というわけで、ありがたい神のことばを胸に、生きていこうじゃありませんか。









2014年12月18日木曜日

☆お金がみるみる増えるキリストの教え☆ 愛が増えるとお金も増える!

 砂漠の民の宗教だったユダヤ教から、全人類の幸せを願う「キリスト教」へと変化したのは、基本的には



「おまえら、戒律をしっかり守れよ。さもないと死ぬぞ」



という考えからの脱却でした。


 ですので、「約束の地を求めて彷徨い歩く」感じの旧約聖書と比較して、新約聖書のイエスキリスト以降は、「もっと他人を愛しなさい」というポジティブな宗教へとグレードアップしてゆきます。




 では、イエスキリストの教えとはいったいどんなものだったのでしょう。簡単にまとめてみましょう。




<1>心の貧しい人は幸いです。そういう人に天国の扉は開かれています。

<2>あなたの隣人たちを愛しなさい。

<3>こころを尽くして神を愛しなさい。

<4>神以外に、何かを誓ってはいけません。

<5>右のほほをぶたれたら、左のほほも差出しなさい。

<6>迫害する者たちを恐れず、最後まで耐え忍んだものは救われます。

<7>あなたの敵を愛しなさい。

<8>施し(善行)をするときは、人に知られないようにしなさい。

<9>富は天に蓄えなさい。

<10>誰も二人の主人(神と金)に仕えることはできません。

<11>求めよ、さらば与えられん。

<12>カエサルのものはカエサルに返しなさい。



 このほかにもたくさんあるでしょうが、誰もが知っていそうな主要なイエスの教えを挙げてみました。宗教的な側面でのそれぞれの意味は、なんとなくわかると思います。


 ではこれを金銭的に置き換えて考えてみましょう!いよいよ本丸です。




<1> 貧しい人は幸いです。そういう人こそお金持ちへの扉が開かれています。


 ・・・金持ちへの道は、金持ちだけに開かれているのではありません。貧しくても、お金持ちになるチャンスとヒントが本当は存在するのです。

 むしろ、自分はお金持ちだと誤解しているプチセレブのほうが、収入より多く消費してしまい金欠になるのはよくある話です。


<2> あなたの身の回りの人たちによくしましょう。


 ・・・上司や先輩によく仕えている人は、チャンスを与えられる機会が増えます。なんてったって可愛いからです。上司の文句や愚痴ばかり言っている人は、おそらく昇進のチャンスをつぶしています。

 ・・・ご近所づきあいや、親戚づきあいも大切です。そうしたコミュニケーションがとれない人は、困った時に誰も助けてくれないでしょう。


<3> こころを尽くして金を愛しなさい。

 ・・・あなたは心からお金持ちになりたいと思っていますか?それとも虚栄心を満たすために「高いモノ持ち」になりたいのですか?

 お金をほんとうに愛しているのなら、無駄な出費は一切しないはずです。高価なモノに変換することすら、罪悪です。こころから金を愛してみてください。


<4> 金以外に何かを誓ってはいけません。

 ・・・あなたは独善的な「相場のカン」のようなものに頼ってはいませんか?FXや先物取引など、バクチを打つような資産運用をしていませんか?金を心から信じるのではなく、どこかの営業マンのことばを信じていませんか?

 ・・・それらはすべて違います。心底信じられるのは、今そこにあるお金の動きだけです。


<5> 右の損失を出したら、左の損失も差し出しなさい。

 ・・・損切りを明快に示した指針です。含み損をいつまでも抱えず、切るときは切り、損であっても確定させましょう。

 損が出ているのに、「まだ持ち直すだろう」といった期待に引きずられるのではなく、神の御意思のままに、「ここは損として、差し出そう」と思うことが大切だったりするのです。


<6> あなたを非難し、誘惑するものがあっても、最後まで耐え忍びましょう。

 ・・・「けちけちするなよ!」とか、「今日一杯いこうぜ」といった誘惑やプライドをくすぐる批難を浴びせられることがあっても、あなたはストイックにお金を愛するべきです。


<7> あなたの敵を愛しなさい。

 ・・・ライバルに貸しを作りなさい。同僚のいやな役回りを引き受けなさい。上司の無能ぶりをさりげなく支えてみましょう。きっとすべてはあなたに帰ってくるでしょう。


<8> 成果を挙げたことを自慢しないようにしましょう。


 ・・・もう、そのまんまですね。あなたの手柄でも、あくまでもさりげなく振舞うことです。


<9> 金は天に蓄えなさい。


 ・・・「天引き」ということばがあります。天とは、先によけておくことです。あなたの収入のうち、かならず最初に貯蓄を取り分けておき、自ら天引きしておきなさい。

 ・・・その残りで生活するようにすれば、確実に資産は増えるのです。


<10> 誰も金とモノとの両方に仕えることはできません。


 ・・・マンションを買い、車を買い、バッグを買い、といったぜいたく品を揃えることと、お金持ちになることは同じではありません。お金は使えば減るのです。

 ・・・モノとして所有することに満足するのか、金として所有することに満足するのか、もういちどあなたにとっての「主人」が誰になっているのか見つめなおしてみましょう。

 ・・・あなたは物欲に支配されているのではないですか?


<11> 求め続けなさい、そうすれば与えられます。

 ・・・お金が欲しい、お金とともにありたい!と願い続け求めつづけなさい。たいていの人は、「金持ちになりたい!」と一瞬だけ思いますが、もう次の瞬間には別のことを考えているものです。

 ・・・そのためにはどうしたらいいのか。自分は何をしていて、何をしていないのか。ストイックにお金について考え続ければ、道は開けるのです。


<12> 税金は払っとけ。

 ・・・もともとのエピソードは、イエスキリストが、「この貨幣にはカエサルの刻印が打ってある。つまり、このお金はローマのものなので、きちんと税として納めるべきだ」と話したものです。

 ・・・いくら儲けても、税金を逃れようとすると全ての権限を使って徴収されます。税の差押さえは、何者にも勝る国家権力の行使です。イエスの言うとおり、税金は払っておきましょう。



 さあ、いかがだったでしょうか?

 畳み掛けるようにポジティブに、イエスの言葉が響きます。あなたにも、愛に溢れたお金生活が送れそうな気がしてきませんか?


 お金もちになるということは、小さな物欲を満たすためのものではありません。周りの人たちと喜びを共有しながら、かつ無駄遣いをやめて真のお金持ちを目指すものなのです。


 




2014年12月17日水曜日

☆お金がどんどん増えるイエス・キリストの教え☆ ~モーセの十戒でお金持ちに~

 好評連載!「お金が貯まるブッダの教え」シリーズの第二弾はなんと!


 「お金が増えるキリストの教え」


シリーズです。ちゅどーん!!


 もともと、「経済社会というのは、無常なのである」というところから、仏陀の教えを金融生活に置き換えたのが、エコノミカル仏教でしたが、第二弾はエコノミカルクリスチャンをめざします。


 もともとキリスト教というのは「砂漠の民」の宗教ですから、「何もないところから、豊かさを得る」という方向にベクトルが向いています。


 このあたりは、仏教のように「捨てる」方向ではなく、むしろ「手に入れていこうぜ」というスタンスですから、


「お金を増やす」


にはもってこいです。



 とはいえ、これからお話することは、クリスチャンであれば「当然知っていること」のはずですので、別に教義をねじまげようというわけではありません。


 ではでは、お金に関してキリスト教がどのように語っているのか、学んで見ることにしましょう!



~~~~~~~~~


 ご存知かどうかはわかりませんが、もともとキリスト教やユダヤ教の教えというのは、砂漠の民の宗教ですから


「神様のいうとおりにすれば、オアシスへ連れて行ってやるぜ」


という思想がベースです。何も無い砂漠、飢えと乾きに悩まされている荒地から、緑豊かな土地へと彷徨い歩くのが、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の基盤の部分なのです。


 この「無い状態から、在る状態へと変化させること」はまるで、ないお金が増えてゆくことを連想させますよね。



 さて、キリスト教の経典である「聖書」には、モーセの十戒といって、ユダヤ人が「これを守ったら、豊かな地へ連れて行ってあげるよ」と神様と交わした約束事が書かれています。

 聖書の最も基本的な教えである、十戒は神様についての決まりと、人間関係の決まりの2つから成り立っています。



<1>ヤハウェ以外を神としてはいけない。。
<2>偶像を作ってはいけない。崇拝してはいけない。
<3>神の名をみだりにとなえてはいけない。
<4>安息日(休日)をしっかり守れ。
<5>あなたの父と母を敬え。
<6>殺してはならない。
<7>姦淫してはならない。
<8>盗んではならない。
<9>偽りを述べてはならない。
<10>隣人のものを欲しがってはならない。





 さあ、神様にバチが当たりそうですが、そこをグッとこらえて、「神」を「金」に置き換えて考えてみましょう。


<1>お金以外を神として崇拝しないこと。

 ・・・有価証券?不動産?株?そういったものは「お金」とみなしてはいけません。投機的なものに迷わされ、崇拝してはいけないのです。


<2>ブランドを崇拝してはいけない。

 ・・・ベンツ?プラダ?シャネル?だめだめ、そんなものにお金をつかってはいけないのです。偶像です。偶像。


<3>むやみにお金の話をしないこと。

 ・・・ぐははは!何万儲かったぜ!とか、お金に関することは口をつぐんでいなさい。成金のように振舞わず、堅実に生きるのです。


<4>休日をしっかり取りなさい。

 ・・・馬車馬のように働くことだけが資産を増やすことではありません。しっかり休日をとり、心身ともに健康でありなさい。



<5>以降は文字通りそのままです。年長者を尊敬し、犯罪を犯さず、女性問題には気をつけて、他人と比べて物を欲しがらないこと!

 いずれも、まっとうな生活には大切なことで、これらから足を踏み外せば経済的にも大打撃になることは疑いありません。




 こうしてみると、旧約聖書には、経済的側面からみても「意外にいいこと書いてるなあ」というイメージがわいてくると思います。


 そうなんです。この10の決まりごとだけでも、普通の人はやっぱりきちんと守れなかったりするわけで。

 これらを守れば、堅実な資産が築けることは、ある程度わからんでもない、という感じですよね。


でも!なんだかパンチが足らないような気がしませんか?


そう、どちらかといえば、これは砂漠で飢え死にしないための教えなので、ここまでのお話は


「資産を減らさないためのポイント」


だったりするわけです。だから、まだ「お金が増える」というところまでは到達していません。


 そこで、次に登場するのが新約聖書!つまりイエス・キリストの出番なのです!


(つづく)







2014年12月11日木曜日

<15>"人間、イエスキリスト" と 神は存在するのか

 21世紀になって、「人間・イエスキリスト」の実像にスポットが当たることが特に多くなってきたように思います。


 ”人間・イエスキリスト”という視点は、文字通り、これまでのカトリック的な

「神とイエスと精霊は三位一体である」

という価値観でもなく、あるいはキリスト教原理主義者的な

「イエスは神によって使わされた預言者であり、救世主である」

という価値観でもない、


「1人の宗教者、人間として生きたキリストの思想と行動」


という人間的なイエスの側面に注目するものです。



 もちろん、イエスキリストの真の姿を追い求める姿勢は、聖職者の中にも歴史的にあったし、聖書学者歴史学者たちも、純粋に研究を進めてきました。


 ところが、長いヨーロッパの歴史観・宗教観の中で歴史的事実としてのイエス像と信仰的なイエス像をどう折り合いをつけて解釈するかは、実際にはなかなかすんなりとは解決してこなかったわけです。

 聖職者がイエスについて真面目に考えると、それは時に「異端として排除」されたり、聖書学者は聖書がベースであるがゆえに「とってつけたような解釈」をせざるを得なかったり、歴史学者が発表したデータは教会や信者からの批判に晒されたりするのが、これまでの常でした。


 従って、


”イエスキリストは、一介の人間であった”


という視点は、その仮説を抱くことすら、不敬な罪なのではないかという観念が、少なくとも20世紀まではまだまだ一般的なイメージであったように思います。


 しかし、厳密な歴史学者はともかく、いわゆる一般の人たちにも「人間イエス」について考えさせるきっかけとなったのは、やはり


ダヴィンチ・コード


という小説と映画によるものが大きいと言えるでしょう。


 この物語では、イエスキリストに妻と子がいて、いかにも人間的に子孫をつないでいる。またその事実を宗教的にはカソリックが異端として隠そうとし、またその事実をひっそりと守ろうとするものがいる、という展開でミステリーが進行しました。


 ダヴィンチコードが、単なるフィクションであるのか。あるいは事実を踏まえた物語であるのかは、さまざまな書評が出ているので繰り返しませんが、少なくともこの物語を通じて


「人間らしいイエスの姿」


をもう一度追求したい、という人類の興味が再燃したことだけは間違いではないと思います。



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 人間的なイエスの姿の概略を知りたい人は、



 橘玲さんの書評
http://diamond.jp/articles/-/63202



がわかりやすいのでお勧めします。


 似たような話はどこにでも転がっていますので、ここでもざっくりと人間イエス像の概略をまとめておきましょう。

 以下に書くのは、神の化身ではない、宗教家としてのイエスの人間的あゆみです。



「イエスという人は、何か理由があってマリアの私生児のような形で生まれ、父親の子ではないということが知られていました。


 彼は約30歳になる頃まであまり記録に残るような活動をしていませんでしたが、当時腐敗した神殿系のユダヤ教をよしとせず、野に出てより神に近い(と彼らが考えている)宗教活動を行っていたユダヤ教原理主義者のヨハネに弟子入りし、洗礼を受けます。


 ヨハネたちは「律法を守ることが目的になってしまっている」その時代のユダヤ教を批判し、「神への純粋な信仰を取り戻す」ことをテーマに活動していましたが、やがてイエスはその思想を一歩推し進め、腐敗した現在のユダヤ教と直接対決する「行動的」なアクションを起こすようになりました。ヨハネ派からイエス派を創設したともいえます。


 イエスの教えというのは、簡単に言えば「神に帰り、神の王国を待て」というものでしたが、イエスのファンたちからすれば、イエス自身が神の預言者であるかのような期待感を持って迎え入れられたため、当時の主流派ユダヤ教徒からは嫌悪されることになりました。


 そこで、旧来のユダヤ派は、当時ユダヤを支配していたローマ帝国に「あいつは、クーデターを考えている新しい王となろうとしている危険人物だ」と訴えることでイエスを排除しようとします。


 結果、イエスは政治犯として十字架刑になり、彼の死後、「イエスは復活した、だからやっぱり彼は神の子だったんだ」という伝説が生じることで宗教化がいっそう進んでゆき、現在に至ります」



 上記のような人間イエス像は、キリスト教信仰者にはやや拒絶的な話ではありますが、イスラム教信者にとっては、


「その後、より新しい預言者としてムハンマドが使わされた」


という意味においては、イエスは神そのものでなくても全然OKということになるわけです。


 実際にイスラム教においては、預言者モーセのような存在として、預言者イエスが人として位置づけられているからです。



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 しかしながら、政治的・経済的に混迷を極める国際社会において、こうした形で「イエスの神聖」を否定したり疑問視することで、私たちはより一層



「では我々は何を信仰して生きるべきか」


という疑問を突きつけられることになっています。


 イエスにこだわらないのであれば、ヤハウェといった「ユダヤ・キリスト・イスラム共通のそもそもの神」への信仰に再度目覚めることになり、それは現在のイスラム社会の注目に繋がっているわけです。


 たとえば、欧米の若者にとって、キリスト教的信仰観に疑義が生じることがあれば、あるいはより原理的な宗教へと気持ちが向かうことはなんら不思議ではないと思われます。




 しかし、武庫川散歩個人のことを言えば、私がキリスト教への疑問を感じたのはそもそもの


「聖書に登場する神そのものの姿勢」


についてでしたので、キリストの否定をすなわちヤハウェ神への回帰とつなげることは、大変問題があると考えたのでした。



 これまた簡単に言えば、旧約聖書の神・アブラハムの神は


「ユダヤ民族に約束の地を与える。その地にはびこる異教徒や異民族はことごとく焼き払いなさい」


という姿勢を持つ神であり、これを日本人である武庫川散歩が心から信奉するにはかなり無理があると言わざるを得なかったのです。



 これまで、当ブログにおいて「神はいったいどんな存在なんだ?」ということを自問してきたのは、こうした難問を解決するためのプロセスだったわけです。



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 というわけで、21世紀の世界においては、人間イエスキリスト像を軸にしながら、


「新しい・究極の宗教観」


というものがどうしても求められる時代だと考えます。



 また簡単に言いますが、


「それなら、じゃあ本当に正しいこのセカイの姿はどうなってるんだ!」


という純粋な人々の気持ちを納得させる「答え」が必要なのではないでしょうか。




 というわけで、次回は「究極の宗教とは」というお話をしたいと思います。




・・・あ、今回全然ボケなかった。(^^;;

2014年11月29日土曜日

プラナリアを二つに切ると、魂もふたつになるのか

 めっきりくっきり寒くなってきましたね。こんな日はほっこりずっぽりねっとりと暮らしたい武庫川散歩です。


 さて、ネットを徘徊していたら、こんな面白そうなお話を見つけました。


『プラナリアって切って二匹にしたら魂も二つになるの?』
http://world-fusigi.net/archives/7657113.html


 いやあ、なかなかすばらしい視点です。そもそもプラナリアという生き物は、2つに切ったら2つとも元の形に再生してよみがえると言う


復活


ができる生き物です。ああ、まるでキリストのようですね。


 2つに切ったら2匹になる、4つに切ったら4匹になる、8つに切ったら・・・・。けしてネズミ算的に増えるわけではありませんが、よく考えたらいったいいくつまで分割可能なのでしょうか?


ウィキペディアによると
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%A2


100分割くらいまではいけるそうです。なんという神の被造物!!!



 ・・・まあ、そういう謎な生き物が存在しているのは、創造主の設計なのだから受け入れなきゃ仕方ないわけですが、はて?魂はどうなるのでしょうか?

 最初の引用元では、いろんな人が好き勝手言ってますが、まあふつうに考えたら、プラナリアを2つに分けたら


プラナリアの意識は2つになる


でしょうね。AプラナリアとBプラナリアは好きなようにそれぞれ動くし、それぞれ一個体として存在してゆけることでしょう。

 そういう意味では、魂は2つになっても全然OKです。


 みなさんの議論の中には、面白いヒントが隠れています。


『じゃあ、クラゲはどうなってるの?』

とか

『男と女がこどもを作るってことも不思議』

とか

『クローン人間だったら?』

とか

いろんな事例を考えると、答えが見つかりそうな気もします。


 武庫川散歩的には、「一卵性双生児の卵が分裂するときに、それぞれの意識も分裂し独自化するんだから、魂やこころやいのちはそこで分割されることはなんら不思議ではない」と思います。



 もし、あなたの細胞からクローン人間ができたとしても、そいつは勝手な意識を持つ他人(赤ちゃん)であり、あなたではけしてありません。そんなもんです。


 ということは、意識や魂や心みたいなものは、それが機能するハードウエアの上に乗っかってるんだ、ということも見えてきますね。

 なので、私は「魂や心や意識が肉体とは別に存在していて、宙を飛んだりする」なんてことは、これっぽっちも思いません。なんだバカやろう。


 肉体が滅びると意識も滅びます。魂も滅びます。みんな死んじゃえばいいのよ。なーんて(笑)



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 しかし、この話を考えている最中にすごいことを思いつきました。そうそう、そういえば、わたしたちの命はいったいどこからやってくるのでしょうか?


 さっきもちらりと「男と女がうんぬんかんぬん」という話がでましたが、私たち人間は、男性の命と女性の命が合体して新しい赤ちゃんが生まれるように設計されています。


 ここのところをもっと切り込んで考えてみましょう。


<仮説1>

 精子と卵子には「いのち」が宿っており、「こころ」や「たましい」や「いしき」が宿っている。そもそも霊性も宿っているし、私たち生物レベルの生命性も元から有している。


<仮説2>

 精子と卵子それぞれ単体では「いのち」は宿っていない。二つが合体してはじめて「いのち」や「たましい」や「いしき」が発生する。霊性みたいなものは存在せず、あくまでも合体時がスタート。生命性は受精卵から始まる。


<仮説3>

 精子と卵子には、霊性だけが備わっていて、合体することでそこから「いのち」や「たましい」や「いしき」が発生する。



 軽ーく挙げてみましたが、こんな考え方が思いつきそうです。他にもあるかもしれません。


 さあ、いのちやこころやたましいはどこからやってくるのでしょうか。



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 そもそも精子や卵子は生きているのでしょうか?確かに、体から離れて受精できないまま数日が経つと機能を失いますので、「生きている」に近い存在であることは確かです。


 この「生きている」(動いている)ということを「霊性」みたいに捉えることはなんとかできそうです。


 しかし、「生きている」けれど、「こころやいしきやたましい」を持っているとは言えなさそうです。


「いや、精子と卵子は心・意識・魂を持っている」

と主張するあなたがいたとしたら、そいつは超殺人鬼です。


 なぜなら、そいつが男性だとしたら放出された何億もの「心・意識・魂」を持つ精子を受精させずに見殺しにしているわけですから、大量殺戮です。


 そもそも、1匹しか受精できないという仕組みは、神が設計したわけですから、神こそ大量殺人鬼ということにもなります。


 女性だって一緒です。生涯500個くらいの卵子を放出するわけですが、人生で500人も子供を生んで、すべての卵子を受精させた人はこれまでにいません。


 ということは、女性はみな殺人鬼だということになってしまいます。


 ・・・というわけで、精子と卵子は「動いている」という意味で霊性を持っている感じはあるけれど、ヒトとしての生命性は持っていないとするほうがよさそうです。つまり、精子と卵子は(意識体としては)生きてはいない、と。


☆厳密な話をすると精子は「生きている」のですが。一個の細胞であり、細胞として活動でき動いていますので生きています。自分で持っているミトコンドリアからエネルギーを供給されて動きます。


・・・ほら、難しくなってきたでしょ?


 簡単に言えば、精子や卵子は「細胞」ですから、クローン人間のもとになったいち細胞のようなものと同等ということになります。


 もし毛髪の細胞からクローン人間が再生できるとしたら毛髪みたいなものということになるでしょうか。


 しかし、毛髪は生きているしヒトの一部ですが「ヒトのこころ・いしき・たましい」を持つものとは認識されていません。


 だから毛髪を殺しても倫理的に大丈夫なのです。


 生きているということと、「ヒトとしてこころ・いしき・たましいを持つ」ということは別だとわかりますね。



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 こうして精子・卵子殺人事件をもとに考えてゆくと、私たちのいのちは2段階になっていることがわかります。


「生きている」ということは、「こころ・いしき・たましい」よりも下のレベルでなにやら生きて動いているものらしいということがまず存在し、

その上に「こころ・いしき・たましい」といった生き物・ヒト・生命体らしい活動が起きているらしいということですね。


 心や意識は、第二段階で発生するものなので、私と息子が「生きている」レベルでつながっているから血縁関係があり、存在しているのに、「意識はまったく別物」ということが可能になっているわけです。



 ここで、プラナリアのことが正しく判明しました。プラナリアちゃんは、切られた時点で「生きている」レベルでは二つに分割されても成立します。だから元はおんなじ命なわけです。


 しかし、意識や心は分割後それぞれ独自性を持ちますから、別物です。


 もっと平たく言いましょう。



命は共通だけど、意識や心は独立している。



 これが生きているということの真実です。



 そして、もっと面白いことに、共通した命だったはずなのに、その基盤となるボディ(肉体)が分裂したとたんにそれぞれが別の意識や心を持つということがわかりましたから、


心や意識、魂


というものは、勝手に増える。勝手に分かれる。勝手に発生する。ということになります。


 ちょっと難しいけど意味わかります?


 もしあなたの手がちょん切られて、そこから細胞がうまく増殖してヒトが再生されたとしましょう。そしたら、そいつは、あなたじゃないのに


「なんか勝手に意識を持って自分で考えたりし始める」


ということなんです。あなたじゃないのにそいつは~ハッハーア!♪


 彼はどんな記憶を持っていて、どんな性格で、どんな話をして、どんなヤツなんでしょうね。すごく気になります。


 プラナリアAくんとBくんではそれが起こっているわけですから、神様の設定としては「あってもおかしくない」わけです。


==========


 そうすると、今度は「あなたやわたしを形作っている意識・心・魂とは何に由来するのか」ということを考えなくてはいけません。


 これまでの記憶やメモリー・経験があなたをあなたらしくさせているのでしょうか?

 腕から生まれたあなたのクローンは、記憶や経験を有していればあなたに似ているかもしれませんが、もしその部位を持たずに再生されたなら別人の人格なのでしょうか?


うーん、マッドサイエンスですねえ。



長くなってきたので、ここから先はまた別の機会に。

2014年11月18日火曜日

久しぶりに中島義道 「私の嫌いな10の言葉」

 どうも。最近は仕事が忙しくてサボって昼寝をする間もない武庫川散歩です。こんなにしっかり働いてしまうと、ボーナスが増えてしまいそうで、おおこわい。ボーナスこわい。


 さて、最近当ブログのアクセス数がちょっと平坦になってきたので、刺激を入れるために「中島義道」ネタを投下することにしました。



 戦え!といえばラーメンマン(古い)ですが、戦う哲学者と言えば中島義道です。彼の著作に

「私の嫌いな10の言葉」

という本があるらしいことを知りました。さっき。その10のセリフとやらは、


1 相手の気持ちを考えろよ!
2 ひとりで生きてるんじゃないからな!
3 おまえのためを思って言ってるんだぞ!
4 もっと素直になれよ!
5 一度頭を下げれば済むことじゃないか!
6 謝れよ!
7 弁解するな!
8 胸に手をあててよく考えてみろ!
9 みんなが厭な気分になるじゃないか!
10 自分の好きなことがかならず何かあるはずだ!


なんだそうですが、すぐ脱ぐ解脱者こと武庫川散歩がちらりと見れば、ああなんだ単純なことじゃないか、と思いました。



 中島大先生は、こうした言葉の影にかくれている「一見もっともらしいけど、実際はどうやねん」的な側面についてその本質を暴いておられるそうですが、なぜ、これらの言葉が「正義のように見えて偽善」なのかは、超簡単に暴き出すことができます。


 というわけで、私の持っている妖怪ウォッチの照射により、上の言葉に潜む本心を暴いてご覧にいれましょう。




~~~~~~~~~~

「相手の気持ちを考えろよ!」 


→ 本音 「俺の気持ちを重視しろや」



「ひとりで生きてるんじゃないからな!」


→ 本音 「俺が助けてやってるねん」



「おまえのためを思って言ってるんだぞ!」


→ 本音 「俺の言うことを聞けや」


「もっと素直になれよ!」


→ 本音 「はやく俺の言うとおりにしたらええねん」



「一度頭を下げれば済むことじゃないか!」


→ 本音 「俺に歯向かうな」


「謝れよ!」


→ 本音 「俺に謝れよ」


「弁解するな!」


→ 本音 「俺の理論が間違ってるってのか」



「胸に手をあててよく考えてみろ!」


→ 本音 「俺に逆らうと損だということに気づけよ」


「みんなが厭な気分になるじゃないか!」


→ 本音 「俺がいまお前にむかついている」



「自分の好きなことがかならず何かあるはずだ!」


→ 本音 「俺が知ったことか」


~~~~~~~~~~~


 一見正義正論のように見えることばは、「主体を隠す」というワザによってそう見えているだけ、ということが多々あります。


「■■しろよ、常識だろう?」とか「みんなそう思ってるよ、当たり前じゃん」とか「それが普通の大人やで」といった言説は、一見正しそうな


世間一般の合意


のような主体がありそうに思えます。しかし、たいていの場合、上のようなシチュエーションに遭遇したら、


「イスラム圏では常識ではない」「ヒンズー教の人はそう思ってない」「ヨーロッパの普通の大人は違う」ことが大半です。


ましてや、関西での常識と関東での常識は違うし、1940年代生まれの常識と1980年代生まれの常識は異なるのが普通です。



 ということは、そこの世間一般の合意なんてないわけです。もし日本中が一般的合意に基づいて世論形成されているのだとすれば


自民党と民主党に分かれるはずがない


ことにも気付くべきです。あたりまえじゃん。



というわけで、上の例では、それらしいことを言うやつの心の中をビームで照射してみたわけですが、この本音を理解すれば、


ああ、なるほど


と納得がいくというものです。



 ちなみに、上の青文字を読んで「魚屋のおっさんのうた」を思い出した人は、きっと1970年代に青春を過ごした人だろうと想像できます。


 なんのこっちゃわからないよいこのみんなは、お父さんに聞いてね。けしておかあさんに尋ねてはいけませんよ!












2014年10月29日水曜日

あの世は存在するのか

 めっきり寒くなってきましたがいかがお過ごしでしょうか?あなたの心をほんのり暖める武庫川散歩のお話の時間ですよ。

 でも、あまり長い時間当ブログに触れていると低温ヤケドすると思うので、気をつけて!




 さて、今日はモザイクまで超越した解脱者である武庫川散歩が、「あの世」はあるのか、について語ってみたいと思います。


 なぜ、突然あの世の話になるかというと、最近タヌキが車に轢かれて仕事場の近くの前の道路際で


 九相図


状態になっており、それを毎日変化を見ながら、「ああ、この世は無常なり。南無武庫川散歩、南無武庫川散歩」とついつい唱えてしまうからです。


 ちなみに、南無武庫川散歩というのは、勝手につくった言葉です。あしからず。


 ああ、九相図を知らない方もおられるでしょう。説明しておきます。




 ウィキペディアより 九相図




 うええええ!おええええ!ぎょぺーーーー!


となる人は、解脱には不向きですので、ヤホーのトップページまで戻ったほうがいいと思います。


 ちなみに、うちの会社の前のタヌキは、いまレベル8まで来ています。かなりスカスカになってしまいました。約1週間の出来事です。


 というわけで、通常の仏教徒であれば


「成仏してたも。南無阿弥陀仏南無妙法蓮華経」


と念仏のひとつでもとなえるところですが、あれ?よく考えれば仏教の輪廻転生では、信心をしないものは畜生に生まれ変わるんだっけ?


 ダメです。成仏しません。残念っ。



~~~~~~~~~~


 というわけで、仏教における成仏やあの世の概念はともかくとして、ワタクシ武庫川散歩の説くところの「あの世」はどうなっているのか、というお話を改めてしておきましょう。


 結論からズバっと言います。



 この世もないって言ってるんだから、あの世もないに決まってるやないかボケーッ!!!



 というのが公式見解です。ちょっと熱が入って小汚い言葉を使ってしまいましたが、お許しください。


 あの世なんてありません。死んだものが行き着くところなんて存在しません。


 死んだあとはなーんにもありません。ましてや天国も地獄もありません。


 
 ちなみに、ここでいろんな宗教の「あの世」についての考え方をまとめておきますが、



<仏教>

基本輪廻転生するって言ってんだから、またこの世に戻ってくるわけで、一時的にあの世っぽいところで三途の川を渡って閻魔様とご対面とかするとかしないとかを経ようが経まいが、

 やっぱりこの世に何かとして生まれ変わる


という思想ってことは、来世ってつまりこの世のことなんだっけ?


という状態です。(一時的なあの世説を取るのが、仏教ですな)


 そして、そういうぐるぐる状態を完全に離脱したら、ふわーんふわーんとした真の解脱状態へ行くことになります。輪廻からも解き放たれてるというわけですね。



<キリスト教とイスラム教>

 天国と地獄があって、信じるものだけ天国へいけて、それ以外の異教徒はみな地獄へ落ちることになっています。

 もうこうなると、どっちの宗教に入ると「当り」なのかという一種のバクチと化していますが、嬉しいことにどの宗教宗派の確率が高いか、


 競馬予想屋


のように、いろいろと教義を説明してくれる神父やら牧師やらがいるので、聞くのはタダです。


 まあ、究極的には、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教もおなじ神様を信仰しているので、そういう意味ではどっちでもいいのかもしれません。


~~~~~~~~~~


 さて、本命大穴かきわけて登場の「武庫川散歩」のあの世ですが、何度も言いますが、そんなものはありません。


 未だかつて、あっちのセカイとこっちのセカイを行き来した人間はおらず、


「死にかけて臨死体験」


ぐらいした人はナンボでもいるかもしれませんが、


「いっぺん死んできた人」


はこの世にいらっしゃらないのです。いっぺん死んで、「あの世」がこうだったよ、ああだったよ、と説明してくれた人がいない、ということがとても大事です。


丹波哲郎氏はあの世のエキスパートですが、残念ながら、いっぺん死なずに語っておられますので、公正な目で判断すれば基準をクリアしていません。


私の知っている「いっぺん死んできた人」は2人ぐらいはいるのですが、


イザナギ


キリスト


(イザナギ・・・奥さんをおっかけて黄泉の国へ行ったけど、蓋しめて帰ってきた)

(キリスト・・・処刑されたけど3日後に蘇った)


だけです。彼らは神様なので、人ではありません。残念。



 嘉門達夫さんのネタで、「見たんか!」というギャグがありますが、「あの世がある」と主張する人には「見たんか!」と突っ込みたくなるのは関西人のサガです。



 
 ・・・とまあ、観念的な話だと相手方との主張とは堂々巡りなので、武庫川散歩らしく、さらっとカッコよく決めてみましょう。


 まず、武庫川散歩の解脱的には、「人間が思考するということそのものが物理科学の原理によって引き起こされている」としています。



 考えること、感じること、意識。そういったものすべては電子であったり原子であったり、そういうものの働きによって成り立っているということですね。


 そこから翻って「神というのは意識をもつ存在ではなく、むしろ物理科学の事象そのものの領域に近い」と説明しているわけです。


 だとすれば、あの世がもし存在するなら、「あの世は物理科学的に定義できうる空間」だということになります。



 あれ?


 物理科学的に定義できる空間があるとしたら、それはこの世そのものじゃん!


ということになり矛盾します。


 だから、あの世はない、と結論づけるのですが、世の中には奇特な人がいて、


「あの世というのは、M78星雲のあのあたりにあってな」


と真面目に信じている方もおられます。宇宙空間の物理的な一部があの世に相当するのではないか、という比較的まともな発想です。



 しかし、そうなると死んだ人の何かは、M78星雲まで物理的に移動するわけで、それは肉体を離れて目にみえないぐらいの何かになっているわけですから、つまり


「地球から宇宙空間へ放出されるチリのように小さなもの」


ということになります。


 スペースデブリか!!!!!


(宇宙空間を漂う、ゴミ)



~~~~~~~~~~~

 さて、そうなると今度は「あの世に行くのは霊魂であって、物質ではない」と言う人が出てくるでしょう。

 霊魂というのは、何か。うーん。もやもやっとふわふわっとしたもので、でもそれが元々人だったりするわけで、でも、肉体は離れているので喋ったりはできなくて・・・そう!意識!意識なんだよ!


とその人たちはよく言います。


 肉体は滅びても、意識は残りそれが飛んでゆく!というわけですね。


 ・・・だから、さっき「意識は物質に由来するじゃん」とワタシが説明したのに。


 そうすると、やっぱり物質が飛んでゆくとかそういう堂々巡りな話になってしまいます。


 おう!ディスイズ輪廻(ぐるぐるまわっている)



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 なぜ解脱者である武庫川散歩が、こんなに「あの世がない」ということを力説するかと言うと、


「みなさんに、充実した生を送ってほしいから」


に他なりません。


 今流行のアドラー心理学風に言えば


「あの世に逃げるな、今をしっかり生きろ!」


ということです。


 人生はRPGみたいなもので、電源を切ったら終わりです。



100歩譲って、電源が切れてもプログラムはROMの中に書き込まれているとしましょう。


 つまり、肉体は滅びても霊魂が残っていて、それがROMのように消えないとしようじゃありませんか。


 だとしても、その意識やら霊魂やらは一切動きません。電源を入れない限り、動くわけがないんです。


 書かれているプログラムは、ただの文字の羅列と記号にすぎません。


 そんな存在は、あなたの二回目の来世での人生とはまったく関係なく、ただそこにあるだけです。


 つまり、


 あなたの「あの世」はただ、そこにあるだけで、動くこともないし感じることもないし、永遠に止まっているところ、それが「あの世」だというわけです。


 ・・・そんなもの、求めるな!!


 そんなもんに逃げるな!!!


 永遠に止まってることを「死ぬ」っていうんだ!!!


 生きろ!!!(byもののけ姫)







2014年10月26日日曜日

<日常>”嫌われる勇気”アドラー心理学の真髄!「今、あなたはどう生きるか」

 面白いので、このブログでもたまーにチェックしている”嫌われる勇気”「アドラー心理学」ですが、またネタを拾ってきたのでご紹介しておきましょう。




 過去や他者のせいにしても何一つ解決しない!「今、自分にできること」にスポットを当てよ
 (ダイヤモンド・オンラインさんより)

 http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20141008-00060178-diamond-soci&pos=1




 上記記事では「陽転思考」(和田裕美氏の造語)なる単語でまとめていますが、これは同じく文中の言葉で言い換えるならば


 “事実はひとつ、考え方はふたつ”



という見方をすると世界観は大きく変わる、ということです。


(おなじ事実でも、受け止め方を変えれば対応や生き方が変わってくる)



 ワタクシ、今世紀最後の解脱者、武庫川散歩も基本的にはおなじ考え方をしているのですが、私の場合は、いろんな意味を含めて「正義のゆらぎ」ということばをよく使います。



 あっ!


 ・・・このブログではまだ使ったことなかったっけ?「正義のゆらぎ」。じゃあ、それはまた後ほどしっかり説明しますな。




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 さて、アドラー心理学の面白いところは、表面的に人は「何々できない、何々するのにトラウマがある」なんてことを抱えているときに


「それは、本当はトラウマなんじゃなくて、やりたくないから言い訳にしてるんだろ?」


ということをズバズバ言うところです。そういう意味で、アドラー心理学では「過去」を否定し、


「今どうするのか?」


ということを積極的に問いかけてゆくわけですね。



 記事の中で面白いテクニックが紹介されていたので、引用しておきます。



①三角柱を用意する。


②その一面に「かわいそうな私」と書いておく


③もう一面に「悪いあなた」と書いておく


④最後の面に「----(まだ内緒)」と書いておく。



 これは、岸見氏がカウンセリングの際に用いるそうですが、なかなかよく出来たツールです。


 相談者がいろんな話をする、悩み問題を話してくるときに、今は「かわいそうな私」の話なのか、「悪いあなた」の話なのかを表示するわけです。


 そうするとたいてい彼ら彼女らの話のほとんどの部分は「私はかわいそうな状況」「悪いのは他者」ということしか言ってないことが明らかになってくる。



 で、最後の面「-----」に何が書いてあるかというと「私には何ができるのか」という表示がされている!!!




 こりゃすごい!私もいつも相談を受けると「で、あなたはどうしたいの?」と必ず聞くのですが、それを完璧にわかりやすくしたのがこのツールです。



ぱ、パクりたい・・・・!!!(笑)



 そうなのです、結局大事なのは


 今、そしてこれからあなたはどうするのか?どうしたいのか?何ができるのか?


なのです。それしかないんです。




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 私がまだ俗世にいたころ、とある仕事の先輩が面白いことを言っていました。


「自分は後悔はしない。どんな選択をして、結果的にそれが最悪な方向へ向かったとしても、それはそのときしっかり考えて、どうしようもなくそれしかなくそれを選んだ結果なので、それ以外は考えられないから、後悔はしようがない」


という話です。


 なるほど、それはアドラーちっくです。


 今、全力でそれを選ぶ。


 全力で選択した結果だから、良いも悪いもなく受け入れる。


 それ以外の未来は、そもそもあるはずもなかったのだ!



ということ。



 これは、悩みなく生きるためには必要な決断かもしれません。




 ・・・今日は、えらく真面目でしたな。ここらで卑猥な言葉でも叫んでおくべきか・・・・。



 なーんて!ではでは。


 

2014年10月25日土曜日

☆お金がじゃんじゃん貯まるブッダの教え☆ 経済的「出家」をしてみよう



 好評連載も今日で4回目!



 というわけで、ブッダ・お釈迦さまの考え方を「経済生活」に当てはめてみることで、なんとなくお金の貯め方がわかってきたことと思います。



 では、ここからは一層の仏道にまい進すべく、「経済的出家」に挑戦してみようではありませんか!



 経済的出家のやり方は、簡単!


① 108つの煩悩こと108つの消費をやめる。


 まず、「生きてゆくのに必要なもの(食費や光熱費)」だけに出費を絞る。その他の「あれが欲しいな」とか「これが欲しいな」を一切やめる。これがエコノミカル出家の第一歩。


② 通帳にお布施してみる。


 仏教といえばお布施!もともとは他人に施しを与えることですが、今回はエコノミカル出家ですので、あなたの「煩悩」に相当する額を全部通帳にお布施しましょう。

 お給料をもらって、生活費・光熱費以外は、とりあえず全部通帳にぶちこみます。「出家じゃー!!」と叫びながら。


③ お経、レシートを読む。


 仏道にまい進するためには、お経を読まねばなりません。家庭経済におけるお経とはもちろんレシートのこと!

 レシートを読みながら、「買わなくても良かったもの」をチェックしてゆきます。家計簿なんてメ面倒なものはつけなくてよろしい。

 買わなくて良かったものが、即「あなたの経済的煩悩」そのものです!カーツッ!!!!




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 これを1年間続けてみなさい。あなたの通帳は「極楽浄土」と化しているはずです。



 目標金額は、まずは月収の1割。年収200万なら20万貯金、400万なら40万貯金できているはずです。


 徳の高い高僧になると月収の2割はいきましょう。年収500万なら100万円貯金できています。


 10年で1000万の単純貯蓄になるはずですね!


 すごい!凄すぎるぞブッダの教え!


2014年10月24日金曜日

☆お金がぐんぐん貯まるブッダの教え☆ ~お釈迦様を真似ればお金持ちになる?~

 ところで、仏教を学ぶ人は、どうして修行をするのでしょう。


 座禅を組んだり、掃除をしたり、瀧に打たれたり、荒行をしたり。いろいろな宗派ややり方があるにせよ、何がしかの修行をして、お釈迦さまに近づこうというスタンスは仏教に共通なことのように思われます。



 しかし、これまた有名な話ですが、ブッダ・お釈迦さま自身が「いろいろな修行や苦行に身を投じてみても、全部あかんかった」と確信し、「こんなことしてても無駄だ」とお思いになったのです。



 ということは、ぶっちゃけて言えば、修行は無駄ということでもあります。


 
 それなのに、世の中の仏教を学ぶ人は、やっぱり無駄と知っていても修行してしまいます。それはなぜかといえば


「お釈迦さまがやったように自分もやってみたら、悟りが開けるかも」


という期待とお手本によって、その真似をしているということになるわけです。



~~~~~~~~~~

 というわけで、経済的解脱・経済的悟りを得るために、私たちもお釈迦さまの真似をしてみようと思います。


 前回、煩悩とは消費だと言いましたが、煩悩を捨てるために苦行をするというのは、消費をしないように頑張ってみる、ということに置き換えることができるかもしれません。



 消費をしない苦行、考えるだけでいろんな荒行が思いつきそうですね。



「住居を持たず、家賃を払わない」

「何も買わず、何も食べない」

「服を買わない。バッグも買わない」

「・・・つまり、全裸で野ざらし。消費をしないので、狩猟採集で生きてゆく」



・・・。


・・・。


・・・解脱うんぬんの前に、野獣やないかーい!!!


 消費をまったくしない、何も買わない、というのはそういうことです。野生に従って生きてゆくということですから、荒行好きやマゾな方にはいいかもしれませんが、こんなことをいくら繰り返しても幸せにはなりそうもありません。


 そう!ブッダ・お釈迦さまもそういうことを言いたいのです。




 消費を捨てろ!(煩悩を捨てろ!)というのは、何も買うなということではない。


 そうではなくて、そこから一歩奥深いところにある真理があるのです。それは何か?



~~~~~~~~~~


 お釈迦さまは、そうした荒行・苦行・修行が「無駄だ」と気付いて、死に掛けて横たわっているときに、スジャータ・めいらくのスジャータ♪が現れて、一杯の乳粥を施してもらって息を吹き返します。


 そして、ついに悟りを得るわけです。


 経済的解脱・悟りにおける「乳粥」とは一体なんのことでしょう。経済的解脱・悟りにおけるスジャータとは何のことだというのでしょうか。


 ブッダが体験したことは、「誰かに何かを与えられて、命をつないだ(元気になった)」ということでした。


 経済的解脱・悟りにおいては「与えられること」「必要なものを摂取すること」はとても大事なことだ、と言い換えることができるでしょう。



 あなたには今、仕事があるでしょうか?仕事を与えられているということを思い出しましょう。


 あなたには住まいがありますか?住居を与えられているということを感謝しましょう。


 あなたはご飯を食べないと生きていけません。食べ物を買うことは必要なことです。


 

 なんとなくわかってきましたか?



 そうです。経済社会において「必要なものを買うこと」はけして単なる消費ではありません。経済学的には、そうしたものを買うことは明日への投資と考えられています。一日の休養と十分な栄養がなければ、次の日の労働が行えないからです。


 そして、経済社会においては、親が残してくれている資産や、あなたに与えられている環境は、とても感謝すべきものです。


 親が貧乏なので大学へ行けなかったり、産業が衰退して仕事がなかったりすることはどこにでもあります。


 あなたは「何かを与えてもらっている」ことに気付くべきです。




 さあ、これで、悟りへの下準備は整ってきました。



①108つの消費・浪費をやめる。

②必要なものは投資してかまわない。

③与えられた環境に感謝する。



 この3つが、あなたを経済的悟りへと導いてくれます。



(つづく)



2014年10月23日木曜日

☆お金がみるみる貯まるブッダの教え☆ ~108つの煩悩の正体~

 仏教の修行において、その目的は何かと問われれば、「108つとかの煩悩を捨てて、悟りの境地を得ること」というのが、わかりやすい答えだと思います。


 というわけで、ブッダ・お釈迦さまは悟りの境地に到達して、真の平和と喜びを得ることができました。


 では、「お金がみるみる貯まるブッダの教え」的には、経済的解脱・経済的悟りを得るために、どうしたらいいと言うのでしょうか?


 仏教で言うところの「煩悩」に相当するものは、経済社会では一体何なのでしょう。



 それは、少し考えてみると、誰にでもわかる簡単なことです。




 煩悩というのは「食べたい、飲みたい、女性と付き合いたい、偉くなりたい、お金持ちになりたい」といった欲望のことで、一般的な仏教ではそれが


108種類


もあることになっているのはご存知の通り。


 ほにゃららしたい、という欲望が煩悩なのですから、経済社会における煩悩とは、



「ほにゃららが欲しい」


という考えや行為に他なりません。



 これまたわかりやすく言えば、私たちが毎日行っている「消費」が、それに当ります。


 つまり、煩悩とは消費そのものなのです。



「お、今日は鶏肉が欲しいな」

「ブランドバッグが欲しいな」

「ベンツ、買おうっと」

「マンションが欲しい!」


といった、消費生活。消費はすなわち「煩悩」が経済的に現れた姿です。




~~~~~~~~~~


 ブッダが考えたのは、「煩悩」に惑わされず、それを捨て去ることで幸せがやってくる、ということでした。煩悩や欲望から自由になると、人は幸福の境地に立てる、ということです。



 それを経済生活に当てはめてみると、つまり


「消費から自由になると、人は幸せになれる」


ということに他なりません。



 ここで、気をつけておきたいのは、ものを購入する行為を全て消費とみなす必要はないということです。


 おなじ何かを買うという行為でも、「消費」もあれば「浪費」もあるし、「投資」の場合だってあります。


 お金を金の延べ棒に変えるのは、あまり「消費」とは言いません。単なる姿形を変えた変換だとみなせるものは、消費ではないと考えることもできますね。



 なので、ここでは、ブッダが捨て去るように薦めているのは「モノを買う行為」ではなく、「浪費も含めて、消費すること」だと仮押さえしておきましょう。


 人には108種類の消費があり、その消費を一つずつ捨て去ることができれば、悟りを開くことができる、というわけです。



(つづく)






2014年10月22日水曜日

☆お金がどんどん貯まるブッダの教え☆ ~ 一生お金に困らない解脱の仕方 ~

 どうも、この世で最も下世話な最羞解脱者こと、武庫川散歩です。ぐへへへ。


 本人は解脱した、解脱したと騒いでいますが、けして耳をかさないほうがいいと思います。あらかじめお断り申し上げます(ニヤリ)




 さて、悟りを開いてからというもの、仏教の創始者であるお釈迦様と同じく、はじめは


「わし1人で独占して、誰にも言わずにこの楽しみを味わうもんね、うへへ」


と思っていたのですが、梵天が現れて、


「なんでお前だけで独り占めしとんねん。みんなにも教えてやれや」


というので、この連載を開始しようと思いました。





 そう!これからの連載のテーマはなんと


☆お金がどんどん貯まるブッダの教え☆



という壮大なテーマです。これまでの仏教界ではけしてかみ合うことのなかった


”お金の話” と ”解脱と救済”


の話が同時進行してしまうという、スペクタクルなお話です!!!




 自分で書いていて、ドキドキしてきました。なんということでしょう!仏の教えと、お金の話が、実は


どちらも同じ話だった!


というのですから驚きです。



 さあ、お立会い。悟りに興味がある人も、お金に興味がある人も、まずは騙されたと思って、お話聞いてみてくださいな!


~~~~~~~~~~

 さて、今日のタイトル、「一生お金に困らない解脱の仕方」ですが、本当にそんなことができるのでしょうか?


 悟りを開くことと、お金が貯まることは一見ぜーんぜん関係ないように思いますが、実は大有りなのです。



 それを学ぶために、まずは仏教の教えを読み解いてゆくことにしましょう。


 仏教ではこの世界を「諸行無常」であると説きます。「色即是空・空即是色」だとも説きます。


 かるーく説明すると、「すべてのものはあるようでいて、無い。そして、無いようでいて、ある」というのが仏教の基本概念です。


 または、すべては移り変わって一定の姿があるようでいて、無いので「無常」というわけです。



 仏教において、お釈迦さまが考えたこの世界のありようは、「すべてが定まっていないものだ」ということなのですが、経済社会(つまりお金の話)も、おなじこの世界の一部なのですから、お釈迦様の捉えた世界そのものと同じ、またはその一部であるはずですね。


 ちょっと難しい言い回しをしましたが、簡単に言えば、「セカイが諸行無常なんだから、お金だって諸行無常なんじゃないの?」ということです。


 そうです。お金は諸行無常で色即是空なのです!!!


 私たちは、お金が無常であることを毎日ニュースで聞いています。株価が上がったとか、下がったとか、金利が上がったとか下がったとか、1ドルが何円だとか、ユーロがどうだとか・・・。


 そう!すべては一定でなく、移り変わります。これは、株価や為替の話だけでなく、あなたが住んでいるマンションの価格が買ったときと売った時で違うとか、おなじマヨネーズなのに、違うスーパーだと値段が違うとか、そういうことと全く同じです。


 つまり、モノの価格とモノの価値は、いつも無常であり、経済社会というのは空即是色だということです。



~~~~~~~~~~


 この国の経済事情を見てみましょう。借金が何兆円もあり、借金で毎日の政治経済が動いているということは、本来は「お金がマイナス」「お金が空」であることを意味します。


 マイナスということは、所有していなくて、お金が無い状態なのに、お金を借りるという帳簿上の(実態とはことなる世界観での)処理で、私たちの政府は今日もしっかり存在しています。


 ほら、「空(ない)なのに色(ある)」でしょ?


 しかし、あると思っている私たちの政府は、もし破綻すればその瞬間に「ない」ことになります。今この瞬間は政府も経済もうまく回っていますが、明日はわかりません。


 基本的に、私たちの経済社会というのは、あやういものだということになります。



~~~~~~~~~~


 というわけで、このセカイにおける「お金」つまり貨幣や経済が「無常」であることを納得できれば、みなさんも解脱への第一歩が踏み出せた、ということになります。



 そうですね。経済学者さんにとっては当たり前のことですが、私たちはまだ「この経済社会が空である」という実感までは至っていません。しかし、知識としてはそうなのかな、ぐらいでも感じ取ってくだされば、まずはOKです。



 というわけで、めざすは「経済的な解脱・経済的な悟り」の境地です。そう、これからあなたも、エコノミック・ブッダをめざしましょう!


(つづく)






2014年10月16日木曜日

「悟り」の正体 解脱に隠された真実?!

 めっきり秋めいて参りましたが、皆様におかれましては益々ご清祥のこととお慶び申し上げます。


なーんて、たまにはかしこまっちゃったりしてみましたが、性に合いませんな。


どうも、今世紀最弱の解脱者、武庫川散歩(厄年)です。




 さて、このブログのテーマは、「悟り」です。というわけで、このセカイにおいて、最弱解脱、魂の全裸を目指して日々活動しているのですが、今日は「悟りの正体」について書いてみましょう。



 結論から言いますが、悟りというものは、ものすごく不公平なものです。仏教でもキリスト教でもイスラム教でも、そもそも宗教というのは大変に不公平なもので、


「信じるものしか救われない」


という側面があります。


 誰でも救われる(可能性がある)という概念が出てきたのは、仏教では浄土系の後(悪人でもいけるよ)とか、キリスト教ではルターの宗教改革以降ということになりましょうか。




 まあ、それは横に置いておいて、この不公平な悟り、から話を進めてみましょう。




 ここで問題を出します。


”水子は悟りを得ることができるか”


 悟りというのは、結果的には不公平(悟りを得られる人と得られない人がいる)わけですが、そのスタート段階では果たして平等にチャンスがあるのでしょうか?


 人は生まれて、生きてゆく中で解脱を得て幸福になるチャンスを誰もが持っている、と仮定したいところですが、そこで先の問題がカギになるわけです。


 水子は悟りを得ることができるか、ほんの赤ちゃんが悟りを得ることができるか。そういう状態を仮定すると、


「あれ?これはどう頑張っても、水子や赤ちゃんのまま死んでしまったら『悟りを得るチャンス』がなさそうだ」


ということになりますね。


 もっと言えば、もう少し成長していても、悟りを得る前に「不慮の事故で死んでしまったら」どうしたらいいのでしょう。その死は本人の責任とは無関係なのですから、そのせいで「悟れない」「悟りを得るチャンスを失う」としたら不公平ですね。



 となると、悟りを得られる・得られないという結果論としての差の前に、そもそも「悟りを得るチャンスを得たか、得られないか」という差があるということに気付きます。


 これを突き詰めると、


「人は生まれながらにして、悟りを得られるチャンスがあるものと、そうでないものに分かれる」


ということが成り立ちますね。


 これは大変に不公平な話です。


~~~~~~~~~~~



 なんてこった!どうしてこんなにこの世は不公平なんだ!


と、怒りを覚えたあなた。そこが悟りへの第一歩です。どうしようもなく、この世はそもそも不公平である、という事実はすなわち


「無常観」


に直結します。


 そう、この世は無常なのです。どうしようもないのです。これが悟りへの前段階。


 この世がどうしようもない腐った大人たちの世界であるとするならば、尾崎くんであれば盗んだバイクで走り出すところでしょうが、そんなことをしても、やっぱり何も解決しません。



 さて、話を戻しましょう。そんなどうしようもないセカイですが、あなたが今この文章を読んでいるということは、なんと素晴らしいことに、今この瞬間不慮の事故や病で


「死んでない」


ということを示します。ラッキーですね!あなたは今死んでない!だから悟りを得るチャンスがある方の人だということです。


 悟りを得るチャンスすらない人たちがいるなかで、あなたはチャンスがあるほうの人なんです!


 まさにラッキー!


・・・これが、悟りの本質、真の姿です。


「自分には悟りを得られるチャンスがある」ということに気付くこと、それに気付いた瞬間が、「悟り」そのものなのです。


 つまり、自分には生まれながらにして幸運であったり、チャンスがあったり、与えられているものがすでにあるという、と気付くことが「悟り」の本質なのです。



 まだ、ピンと来ていない人も多いことでしょう。なんでそれが解脱なのか、と。


 先ほど説明したとおり、この世界はもともと無常です。その中でいま自分が生きているというそもそもの根源的ラッキーに気付くことができれば、それ以上のものはすべて「余剰の幸福」ですので、追い求める必要はありません。


「あなたはすでに、水子よりラッキー」


なのですから、そこを実感できたら、誰かさんのように「生きてるだけで丸もうけ」ですよね?


余剰の幸福をさらに追い求めることが「煩悩」です。あんたは、すでにラッキーなのに、まだ欲しいのか?なんて欲深いんだ!というわけですね。


「生きてるだけで丸もうけ」の境地にたどりつけば、煩悩は要りません。


煩悩を捨てる、なんていいますが、もともと「捨てる」必要なんてないのです。欲は余剰のものなのですから。


~~~~~~~~~~


 これが、解脱・悟りを得て幸福な状態になる、ということです。既に自分がある、ということをそれだけで喜びとできることが解脱した状態なのです。





 とは言え、ここからは少し別の見地でお話しますが、仏教というのは、なかなかに「金持ちの論理」ではありますね。


 考えてみてください。飢えやら戦争によってズダボロになっている貧しい民がいて、その人たちに「すべての欲を捨てなさい」と言うやつがいたら、かなりのドSです。ひどすぎます。


「ふははは、お前たちの境遇は無常なのだ~。すべて無意味で死んでしまえばいいのだ~。何も欲しがるな~。全部無駄だ~!」

と叫んでいるやつがいるのです。ひどいヤツです。



 というわけで、仏教の論理はもともと「王様の出」であるシャカの論理らしく、


「自分は既に持っている、与えられている、その幸福に気付く」


という悟りであり、それは「金持ちの論理」なのです。だから、もう何もいらないわけです。(余剰のものに執着しない)




 ところがです!



 もともと砂漠の民の宗教であるユダヤ教、キリスト教、イスラム教になると「食べ物がない、水がない」という地域ですので


「渇望の宗教」


と化します。


 一言でいえば「与えて欲しい!くれ!」ということです。


 救われたい!神の王国へ招かれたい!約束の地を与えて欲しい!イスラエルという国が欲しい!最後の審判で選ばれたい!


 とにかく、基本は「飢えてる」んです。


 飢えてますから、逆に「与える」ことも必要です。キリスト教が愛の宗教なのは、基本飢えてるから、持っている者が持っていないものに「愛を分け与えないとダメ」なのです。


 だって、死んでしまいます。飢えてるんだから。ちょっとぐらいやれよ、あいつにも、ということです。




 日本人は、どちらかと言えば、「すでに持っているほうのジャンル」です。海もある、山もある。魚や作物は基本的に採れるし、豊かな雨(水)がある。


 金持ちなんです。日本人は。だから渇望せずに、余剰のものはいらないよね?十分満足だよね?ということになります。



 神道の場合は、悟りによる救いや、神の救いをまったく想定していません。


「常に現世で五穀豊穣、子孫繁栄でハッピー」


な宗教です。平和でよかったですね。




2014年10月15日水曜日

原理主義を読み解く ~少年よ悟りを開け~

 しかし、まあ、なんですねえ~。

 というツカミは、桂小枝師匠の定番ネタですが、最近の武庫川散歩はずっとそんなキモチです。


 おひさしぶりですね。あなたの武庫川散歩です。


しかし、まあ、なんですねえ。イスラム国の話題とか、ヘイトスピーチの問題とか、日中のわだかまり、日韓のわだかまりとか、いろんな事件が起こっていますね。


 それらに共通する、「原理主義」的な感覚と言いましょうか、ある思想・考え・傾向に固執してその方向に突き進む姿をよく見かけるようになりました。


 原理主義的な感覚そのものは、もともとは純粋な感覚に近いので、一見すると、そのカテゴリにおいては


 正しいこと


のように見える場合があります。


 それが、誰かを思想的に魅了したり、その正しい感覚ゆえに、誰かを突っ走らせたりするのですが、私は少し違う視点でみています。


~~~~~~~~~~

 
 あ、ちなみに今日も、いつもよりかは真面目な話しぶりでお届けするつもりです。念のため。



 さて、昨今のように原理主義がはびこるのには、当然理由があります。その一番明快な答えは


「資本主義と現代型自由主義の終焉」


に他なりません。


 わざわざ私のような偉い解脱者が言わなくても、誰かが解説しているでしょうから、さらっと流しますが、ご存知の通り「資本主義」「自由主義」が一定の破綻をきたしつつあることは明らかですね。


 例えば、「資本主義」。


 日本をはじめとした先進諸国が、いちおう資本主義を標榜しているものの、リーマンショックやバブル崩壊など、いろんな経済的「もう、ムリぽ」な事態を引き起こしており、そもそも莫大な借金を背負いながら日々を過ごしている政治なんでどうやねん!な状態ですから


みんな、実は内心ドン引き


であることは明白です。


 「自由主義」社会だってそうです。これまでは「先進国民だけが自由」でしたが、あれよあれよと他の国まで豊かになってしまい、自分たちのパイを食われるようになると、自由主義の本音がつい漏れてしまいます。


 「俺たちは豊かであるべきだが、お前たちはもうちょっと非豊かであってほしい」


と。


「誰もが核を持てる自由な社会」


だなんて、誰も叫びません。ね、矛盾してるでしょ?最初から。



~~~~~~~~~~


 そんなこんなで、先進国であっても途上国であっても、全世界の国民が気付きはじめているわけ。


「どうも、これまでの世界秩序の枠組みには、問題があるぞ」


と。



 だから、そのどちらでも「不満や不平が起こり、それは互いのせいだと感じている」わけです。


 途上国が伸びてくると、既に利権を持っていた先進国民は抑圧されます。いやいや、途上国だって、先進国に抑圧されていたからこれまで伸びなかったんだ、と思い始めます。


 互いに、いろいろ思惑が生まれる。大変な事態です。



 こういう時に、「原理主義」は芽を出しはじめるわけです。


 わが国の歴史において、もっと原理主義的だったのは幕末から明治維新にかけてですね。


「そもそもわが国は、天皇を中心とした神の子孫による国家であり・・・」


という思想・感覚。実に原理主義的でありましょう。


 まあ、それは遠い昔のヨタ話だったわけですが。




 「原理原則に立ち返る」それも「正義の意味において」という原理主義の考え方は、


 小学生の終わりの会


に似ています。


 
「せんせー、山田くんが今日掃除をサボりました~」


「いーけないんだー、いーけないんだー、言ってやろー、言ってやろ」


「山田君はスカートもめくっていました。いけないと思います」


「いーけないんだー、いーけないんだー」


「ほら、山田なんとか言えよ~!」


「だまってんじゃねーよー」


というヤツです。



 原理原則に従えば、掃除をサボるのも、スカートめくりも「いけないこと=悪」です。その悪を正すために、一生懸命みんなで山田を叩きのめします。



 しかし、「個人攻撃」はどうなんでしょう。


「チクる」のはどうなんでしょう。


「全員で恫喝する」のはどうなんでしょう。



 個人攻撃は悪であり、反論の機会やチャンスはあってしかるべきです。もしかしたら山田くんは具合が悪くてトイレにこもっていたのかもしれません。

 チクるのは、こども社会においては「最大の悪」です。絶対に守らねばならない子供憲法第一条です。それなのに先生に言いつけるなんて、ひどいことです。

 全員で攻め立てるのは悪です。それを人は「いじめ」と呼びます。



 原理主義が持つ問題点は、ここ!なのです。原理主義に染まってしまうと、それから逸脱した思想や行動は、その時点で絶対悪とされてしまい、糾弾されます。


 しかし、人の世において「絶対悪」なんて存在しません。悪も善も、相対的なものだからです。



 いや、悟りを開いた武庫川散歩からすれば、悪も善も、そんなものは最初から存在しないのです。依拠する対象ではありません。


 
 世界が存在しないのに、悪も善もクソもないはずでしょ?


 だから聖子ちゃんはクソをしないのです!・・・ちがうか。



~~~~~~~~~~

 従って、原理主義を追求することは、言い換えれば「小学生レベル」だということになります。せめて中学生レベルになってほしい。

 できれば「中学生日記」を見直してほしい!ものです。


 
 とはいえ、原理主義にハマる人がたくさんいるのも事実で、それは「やはり、自分の生き方の指針になるものを見失っている」人が多いから、そうなってしまうとも言えます。



 なぜ、安保闘争がうまくいかなかったのか。それは当時の学生たちが、「いい会社に就職する予定があって、経済成長伸び盛りの社会に生き」ていたからです。


 もっとも賢かった彼ら(国内で最も高い学歴と学力を持っていた)には、平和で幸せな未来が待っていた。だから安保闘争はうまくいかなかったのです。


 だから彼らは、現実を見つめることができました。(できなかった一部の人だけが、あさま山荘事件を起こしたり、よど号を乗っ取ったりしたわけです)


 

~~~~~~~~~~


 これから、日本社会はこれまでのように経済的に豊かで幸せいっぱい夢いっぱいではなくなります。


 なので、原理主義的な考え方がはびこる要素がたくさんあります。


 私は、そうした考えに染まるのではなく、ぜひ「悟りを開いて」ほしいと願っていますが、この願いが届くかどうかはわかりません。



 なぜなら、このブログのアクセス数があまりにも少ないからですっっっ!!!


 というわけで、このブログを読んだあなた。ツイッターで今日から3日以内に3人の人にこのブログを紹介しなさい。そうしないと、新聞勧誘の人があなたの家に訪れます。太陽光つけませんかの訪問販売とか、東京にマンション買って投資しましょうの電話とかがかかってきます。

 いいんですか?そんな不幸が訪れても!テンションだだ下がりですよ!


 



 



2014年9月30日火曜日

<ニュース>御嶽山噴火と諸行無常

 御嶽山噴火のニュースが、大きな注目を集めているところです。

 人がたくさん亡くなっているので、今回はあまりふざけずに書きますが。


 

 山が噴火する、という当たり前の事実に対して、現代人があまりにも無警戒になっていたなあ、というのが率直な感想。ニュース等でも言われていますが、「雲仙普賢岳のことを忘れてしまっている」というのは正しいと思います。



 自然災害は、まさに諸行無常の象徴でもあります。人間の感覚でいうところの「誰も悪くないし、誰も責任がないのに」災難が降りかかり、人が傷つき、亡くなったりする。


 さっきまでふつうに会話をしていた人が、命を失ったり、さっきまで笑顔だった人が、息をしなくなるという現実。

 
 私たちは生きているようでいて、死はすぐ隣り合わせのところにある、ということでもあります。


 また、人から見れば災害を起こした自然は「悪」のように思えるかもしれないし、それをコントロールすべきだと思うかもしれません。


 しかし、自然の側から見れば、そんなことは知ったこっちゃなく。雨は降るし風は吹くし、マグマがたまれば外に出るだけです。


 今回の噴火で亡くなった方は、まさに不運、まさに偶然の結果によって、そうなったということに過ぎないのかもしれません。


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 武庫川散歩的には、仏教でいうところの「因果」のような考え方や、キリスト教でいうところの「信仰のある生活」といった考え方を明確に否定します。



 平たく言えば、なにがしかの「悪い行いをしていたから、罰を受けるんだ」というのが因果の考え方です。

 また、「神の言うとおり、よい行いをすれば救われるんだ」というのがキリスト教の信仰の基本です。



 私の考え方は、そんなもんは一切関係がなく、いいも悪いも無関係に「それは起きる」ということです。


 今回、災害に遭遇して亡くなった方は、そういう意味では「不運(タイミングが悪かった・めぐり合わせが悪かった)」と言うしかないでしょう。

 悲しい、というキモチになることではありますが・・・。



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 噴火のみならず、つい先日の広島の土砂災害や、その前の福知山の浸水など。もっと言えば阪神淡路大震災や東北の震災など、


「いのちが無常である」


ということに気付かされる出来事は、そこかしこに溢れています。


 しかし、私たちは「どうせ死ぬんだ」と思いながら生きているわけでもなく、また「私は常に安全だ」と確信しているわけではありません。


 ふだんは「自分はそれなりに安全だ」となんとなく思いつつ、事件や災害が起きるたびに、「もしかしたら・・・」とちょっと不安になるような、そんなちっぽけな存在として生きています。



 解脱してしまったしょーもない人間から、もし何か一言言わせていただけるのだとしたら、私はこんなことを伝えたいと思います。


「良い行いをしていれば救われるなんてことも、悪い行いをすればバチを受けるなんてこともなく。このセカイはもう少しドライでもあるし、もうすこし無慈悲で酷いことも起きる。今日のいのちが明日も続くかは、誰にとっても保証がない、わからないことである」


「じゃあ、そんな無常なセカイでどう生きる?どうせ死ぬならと好き勝手生きるのか?どうせ死ぬならと自ら命を絶つのか?」


「そうではなく。どうせ死ぬし、どうせ無常なセカイなんだからこそ。今のこの一瞬一秒を『悔いなく、全力で』生きよ、ということではないのか」


と。


 スティーブ・ジョブズが信念としていた


「明日死ぬと思って、今日を生きる」


という言葉の原典は、マハトマ・ガンジーだそうです。


 この言葉には、とても深い共感を覚えます。




 どうせ無常なセカイなのだから、精一杯生きてみませんか?




 災害救助、とくに遺体の収容に向かわれているチームのみなさんのことを思うと、胸が熱くなります。


 どうせ死んでいる。


 どうせ助からない。


 なんてことを思いながらでは、現場には向かえないでしょう。


 あるいは、そう思っていても、それを乗り越えてゆく勇気、自分の身を危険にさらしてまで行く勇気は、ものすごいものです。


 でも、日本の救助隊の人たちは、誰一人「俺はいかない」とはいいません。


 もし、あなたがその任務を負っていたら、あなたも行くはずです。

 

 無常なセカイであっても、全力で生きることは、実は誰にでもできることなのかもしれません。












2014年9月26日金曜日

<日常>シナリオアート ”アオイコドク”

 ブログ更新は久しぶりですが、いつも元気な武庫川でーす。

 ↑いつも元気なワンワンでーす、風に。

 


 。。。いつも元気なワンワンが何者か知らない人は、ぜひNHKをご覧になるとよろしい。



http://www.nhk.or.jp/kids/program/inaiinai.html


こいつですよこいつ。緑の犬です。


でも、この犬只者ではありません。どこが只者ではないかといえば!


なんと、中に入っているのが、チョーさんなんですってば!!


え?チョーさんも知らない?!


あの、伝説の「たんけん僕のまち」に出ていた、「やあ、みんな!チョーさんだよ!」のチョーさんなんですよ!


そ、それもわからん?! うーん、この例えは使いたくなかったが、


「ワンピースのブルックの声の人」


です!ど、どうだッ。やっとわかってくれたか!


~~~~~~~~~~~


と、そんなどうでもいい話から始まった今日のおはなし。解脱者であっても、俗世のことは良く知っていて、そしてそれをちゃんとわかりやすく説明するという・・・。それは解説者ですな。



 ちなみに、今日のお話はワンワンはいっさい関係ありません。


 ラジオをつけながら国道を車で走っていると、タイトルどおりの


「シナリオアート」というバンドの「アオイコドク」なる楽曲


が流れてきました。


 ああ、若者たちが歌っておるなあ、と思っていたら歌詞が面白い。今流行の


セカイ系


のニュアンスなのかわかりませんが、





”このセカイの終わらせ方”




”ボクは何をするべきなんだろう”




”セカイをすくうためじゃない?”




”ただ、漠然と透明なキミ”





などなど。などなど。



・・・・・エヴァか!!!!!!



 というわけで、最臭解脱者からみた、このセカイについて、ちょっと語っておこうかな、と思ったので、メモ代わりに書いておきましょう。


 真面目なことを言えば、シナリオアートさんのこの曲は良く出来てきて、まあ中高生が悩んだり、苦しんだりラジバンダリするこのセカイを、ある意味「それっぽく」捉えているし、題名や歌詞ともマッチして、とても面白い曲だと思います。




 しかし、一方で、安保闘争の原理主義もそうだし、エヴァンゲリオンの逃げちゃだめだもそうなんだけど、若者たちはいつの世も


このセカイとの対峙の仕方


に悩んだり、苦しんだり、ラジバンダリしているわけで(もう、ええっちゅーねん)





 しかし、ここで最羞解脱者がはっきり言っておきます。


このセカイに意味はない


そう、ないのだよふははははは!


ということを。



 意味がない、という言い方を仏教的に言えば、諸行無常なのですが、少なくとも、中高生がメルヘンで捉えるようなイメージのこのセカイというものはありません。


 若者にとって、一見、このセカイの中心は自分であって、その中で自分はありようを迷ったり悩んだりしているように感じます。


 ところが、セカイにおける本当のアナタ・ワタシという存在は、


「みろ!人がアリのようだ!」(ムスカ大佐だ)


に過ぎないわけです。





 そのギャップ。つまり自分中心世界と、自分虫けら世界のギャップを生きることが、青春であり成長であるわけです。




 この虫けら世界の中で、うまくセカイとの立ち位置を見つけられた人は、無事に大人になれるし虫けらから脱皮できるのですが、虫けら世界から脱皮できないと、



ほら、シンジくんみたいになるんだよ。



というわけですね。



 エヴァ好きな人には、こう言い換えてもいいでしょう。


 たった一人の綾波が存在する世界がメルヘンで、たくさんの綾波が存在する世界が現実


なのです。


 シンジくんから見れば、たった一人の綾波の生に価値があるかのように感じていますが、これは単なる原理主義みたいなもので、実際にはクローンの綾波はたくさんいるわけです。


 若者にとって、自分の生と命はたったひとつの揺るがないもののように思いがちですが、実はセカイの一部としてしか生きることができない自分(社会の一部としてしか生きられないヒトという存在)が真実なわけで。



 おお、なんだか解脱のあまりに人類補完してしまいましたね。



~~~~~~~~~~


というわけで、シナリオアートさんの問いかけに武庫川散歩が答えるなら、こうです。




『私はセカイの終わらせ方を知っている。それは認知の問題で、キミたちがこれまで思っていたようなセカイと、実際のセカイはちょっと違うということをはっきりさせるということだ』



『存在すると信じて疑わなかったこのセカイ、それが記号に過ぎないと知ったら、君はどうする?』



『キミが何をするべきか?笑わせないでくれ、キミはそれほどたいした存在じゃない。キミが何をしようが、セカイは関心をもたない。キミが何もしなくても、セカイはどうでもいいと思っている』



『セカイを救う?そうじゃなくて、キミは本当はセカイではなく自分が救われたいだけだろう。誰かを救いたいと願うヤツは、真っ先に自分が救われたいんだ、本当は』




『そんなキミにふさわしい言葉がある。それをキミに伝えてこの話を終わりにしようじゃないか。


・・・・


・・・・


・・・・あんたバカァ?!





ちゃんちゃん。(笑)




2014年8月27日水曜日

幸せになりたいあなたへ

 北海道では、春の花見の時にも、夏のバーベキューの時にも、秋の行楽シーズンもみんなでジンギスカンを楽しむそうです。


 ラム肉の消費が著しい、北海道の人は凄いですね。


 迷える子羊のみなさんこんにちは、あなたの武庫川散歩です。じゅるる。


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 幸せになりたい!


 そう願うのは、全ての人にとって当たり前のこと。


 早く人間になりたい!


 そう願うのは、ベム・ベラ・ベロだけです。



 というわけで、今日のテーマは「幸せになりたいあなたへ」です。


 世紀の解脱者、武庫川散歩とともに、幸せについて考えることにしましょう。



~~~~~~~~~~

 まず、「幸せ」というものが「結果」だと考えている人、最初に断っておきますが、それは違います。


 男性で考えましょう。仕事で成功して、社長になって、お金持ちになって、嫁はんも愛人もいてウハウハな状態、そういう現象の「結果」が幸せだと考えるのは、ちょっと違います。

 
 なぜかというと、フルスロットルのビジネスマンはそれ相応のストレスもありますし、社長になってもいろいろな重責がのしかかったりします。嫁はんと愛人は仲が悪いし、もしかしたら離婚して莫大な慰謝料を請求されるかもしれません。


 つまり、何か「カタチに現れている結果」というものは幸せの定義ではないということです。




 女性で考えましょう。かっこい男性が現れて、奥さんになれて、ブランドものが買えて、可愛い赤ちゃんに恵まれた状態、そういう現象の「結果」が幸せだと考えるのは、ちょっと違います。


 なぜかというと、かっこいい男性は絶対他の女にも優しくしているし、奥さんになっても別に愛人がいるし、ブランド物は次々にほしくなるし、赤ちゃんが生まれてもそいつはアホでよその子より出来が悪かったりするからです。


 つまり、何か「カタチに現れている結果」というものが幸せそのものではないのです。



~~~~~~~~~~

 幸せを構成する要素には、いくつかの「状態」があることは確かです。いくらかのお金も必要だし、恋人や夫・妻、そして家族がいること、物質的に満たされていること、精神状態が安定していることなど、


「幸せだなあ」


と実感できるための、コマゴマとした「要素」があることは事実なのです。


 しかし、それらは幸せの本質ではありません。


 なので、要素のそれぞれをいくら手に入れても、それに勝るような不安や不満がやってくることになります。

 ここを勘違いしてはいけません。


~~~~~~~~~~


 さて、幸せを構成する要素は、しょせん要素ですから、どんなちいさなものでも、その要素になりえます。


 草原に吹くそよかな風、でもいいし、道端に咲く小さな花でもいいのです。


 それを見て「ああ、幸せ」と思うことは十分可能です。



 高級レストランのランチも、夏のビールも、幸せの要素になりえます。


 日本でどれだけの人が、ランチを食べ、ビールを飲んで


「あーっ、幸せ!」


と思っていることか。しかし、ビールを飲んでいる人が全て「幸せ」とは限りません。いやむしろ、貧しさの底辺にいても、ビールの一杯位は飲んでもかまわないし、だからといって、その人が幸せだとはとても言えないことでしょう。


~~~~~~~~~~


 では、幸せが「結果」ではないとすれば、いったいなんなのでしょうか?


 結論から言ってしまえば、幸せというのは、方向、ベクトルのようなものです。


 宝くじが当たっていて、明日換金に行けるとしましょう。それが1000万円でも嬉しいですが、きっとあなたは3000円でも嬉しいはずです。

 
 ということは、その嬉しさの根幹は、結果の大小ではなく、「宝くじが当たっていて、それが入手できる」という「良いことへ向かう方向性、意識」だということになります。


 明日は遠足だ、とか。明日から夏休みだ、とか。そういうことです。


 いくら充実して最高の夏休みを過ごしたとしても、明日から新学期である9月1日よりも、まだ楽しいかどうかわからない7月25日のほうが、幸せなのです。



 幸せとは、言い代えるならば、「願望」「希望」「野望」のサイクルです。


 これらはすべて、結果として確定したものではないけれど、その願望・希望・野望が叶えられそう、という予測が立つ限り、人は幸せでいられるのです。



願望とは、「こうなりたいなあ」と願うことです。

 第一ステップですから、「でも、むりかも・・・・」というキモチも同時に抱くこともあります。


希望とは、「あ、なんかいけそう」と感じることです。

 第二ステップでは、願望が実現しそうな予感に満たされます。


野望とは、「もっと幸せになりたい。もうすこし頑張りたい」と思うことです。

 希望がかなってもかなわなくても大丈夫です。第三ステップでは、「もうちょっとやれそう?」というさらなる上昇のキモチが生まれます。

 あるいは何かを手に入れたあと、「次のステップはどうなるの?」と前向きになる場合もあるでしょう。



 この3サイクルが回っている限り、人は「幸せ」だと実感します。



 たとえば、いくら貧しくても、給料が右肩上がりだった時代には、日本人は「未来に対して幸せ感覚を抱く」ことができました。

 これがじわじわ続いたのが「一億総中流」と言われた時代です。

 金銭的に、めちゃくちゃ豊かではないのに、なんとなく平和・温和でいられたのは、経済全体のベクトルが「願望・希望・野望」ベクトルに沿っていたからです。


”いつかはクラウン”


なんてキャッチコピーは、それを端的に示しています。

「クラウンに乗りたい、乗れるかもしれない」とか「今はマーク2、次はクラウン」とか、そういう感覚ですね。


 逆に、いくら今高い月給をもらっていても、不況で先がどうなるかわからないと、人は不幸を感じます。


 また、「病気を苦にして自殺する」なんてことがありますが、どうせ病気で死ぬのになんでわざわざその死を早めるのか、合理的には説明ができません


 そうではなくて、人は、願望希望野望のベクトルを奪われたり、逆に下向きに下げられることに耐えられないのです。


 ベクトルが下向きに下げられた時点で、すべての人は「不幸だ」という実感をすることになります。


 
==========


 ここまで説明してきて、幸せになる方法が実は簡単であることに気付きましたね。


 そう、それは自分の生きている実感のライン・ベクトルを


 願望・希望・野望のサイクル


に沿うように設定すればいいだけなのです。


 その設定を間違えると、とんでもないことになります。


 たとえば、初期設定を、「身長180センチで、上場企業の社長の息子で、超男前で、やや筋肉質で、汗臭くなくて、ベンツで毎日送迎されている同級生に壁ドンされたい」という願望に設定するとどうなりますか?


 その彼に出会える、という希望がまったく想像できず、そんなやつはいない学校生活を怠惰に過ごし、無意味な青春時代を過ごす結果になると思います。



 さあ、あなたは今日から、どんな願望を設定するでしょうか?



 あなたが幸せになれますように。

2014年8月26日火曜日

今もっともホットな話題  TOSHI地獄の12年 「洗脳は簡単だ?!」

 いやあ、芸能界はなかなかすごいことになっていますね。


 元X JAPAN のT○shi(伏せてない伏せてない)が自己啓発セミナー「ホームオブハート」の洗脳ぶりを告白!


 地獄の12年


を激白しているようで。



 デイリースポーツさんより
 http://www.daily.co.jp/gossip/2014/08/26/0007272978.shtml



 これはひとつブログで取り上げないと!と色めき立つ武庫川散歩は


 化け物アホ


との異名を持っているとかいないとか。


どうも、パンツまで最羞解脱中の武庫川散歩です。お風呂に入ります。


~~~~~~~~~~

 ちなみに、武庫川散歩は、数々の洗脳とマインドコントロールの魔の手から逃れて、某宗教団体を勝手に抜け出したり、不屈の精神の鍛錬によって、その手のものを信じない屈強なソウルオブハートを手に入れ、フォーエバーラブに向かって、エンドレスレインなので、大丈夫です。


 
 悟りを開いてからも、いろいろな魔の手が、私を試そうと襲ってくるのですが、一刀のもとに切り捨てる毎日です。


 このあいだも、神のお話を伝えにこようとしている女性に「いやいや、ボクが神なので、ちょっと上がっていきませんか?」とハアハア息をしているだけなのに、そそくさと去っていきました。

 やはり神の前には悪魔の力は退散するようです。




~~~~~~~~~~


 というわけで、今日の記事では、現役解脱者の武庫川散歩ならではの「洗脳実験」をしてみたいと思います。


 一般的には、洗脳とかマインドコントロールというのは、暴力を振るったり、睡眠や自由を奪うことで、相手を意のままにあやつるようなイメージがありますが、そんなことをしなくても、洗脳するのは簡単です。



 まず、白い紙を用意して、そこに、なんかそれらしい人形(ひとがた)を描いてください。



 ・・・もうちょっと神々しい感じの絵とか、スピリチュアルな感じに仕上げてもいいのですが、洗脳パワーに支配されてはいけないので、ここはあえて


ぬけさく先生(懐かしい)


風にしてみました。



 さて、この絵というかイラストというか。なんとなく人の形をしたわけのわからんものですが、朝起きたら、一応この絵に手を合わせて、今日一日の幸せを祈ってください。


 いくらへんてこりんな絵であっても、あなたの筆によって描き出された、あなたの分身のようなものです。

 絵そのものはふざけていますが、あなたと何らかのつながりのものだと思って、いちおう、毎朝祈りを捧げてください。


 3日目になったら、1円玉をお供えしましょう。一日一円でいいので、この絵の前にいちおう、捧げ物をしておくことにします。


 
 これを、1週間に到達するまで実施します。



 1週間もたつと、毎朝「このわけのわからん絵のことが、どうしても気になる」ようになります。



 手を合わさないで学校や仕事にいくと、なーんか調子が出なかったり、どこか心がもやもやするようになります。捧げ物をしたほうがいいような気がしてきます。


 感受性の強い人だと、「今日は真剣にお祈りしなかったから、悪いことが起きた」と思うようになります。


 神様でもない、自分が描いたわけのわからん絵だとわかっているのに、それが自分に対して力を持っているかのように感じるようになるのです。



 これが洗脳です。 自己暗示、というにもレベルが低いようなことですが、ジンクスと呼んでもいいかもしれません。


 でも、1週間であなたは確実にわけのわからんぬけさく先生に支配されます。



 うそだと思ったら試してみてください。


 ぬけさく先生のことが気にならなくなるには、いったいどれくらいの期間がかかるでしょうか。


 ぬけさく先生を破り捨てる際に、心がちくちくするのは、どうしてなんでしょうか。もしかして、恋?


 

==========

 こんな簡易実験からでも明らかなように、人は基本的に洗脳されやすくできています。


 一定の「理屈」「論理」「約束事」「きまり」というものを与えられて、それを反復すると、それらの決まりごとは「定着しないと不安」になってゆくのです。


 これをベースに、暴力や心理学的なテクニックを加算すると、「絵が、ただのぬけさく先生である」というしょーもない事実に気付くための「まっとうな合理的感覚」を奪われるので、被害が大きくなるのです。


 
 このブログをひそかに読んでいるそこのあなた


 そう、あなたは今、椅子に座っていて、ややうつむき加減で前のめりの姿勢をしている、そこのあなたです。

 もう少しいえば、あなたは女性で、すこしばかり心にかすかな悩みを抱えていて、ひょんなことでこんなブログを見つけてしまったそこのあなたです。

 
 そう、あなたは、すでに、


「もしかして、この武庫川散歩という男は、アホなことばっかり言っているようにみえて、実はきちんとまともな話をしているのかもしれない」


と思い始めているころです。


「ぬけさく先生、って何のことかよくわからないけれど、まあ、言ってることはわかる」


と感心しはじめているところです。



 ・・・


 ・・・それは。


 ・・・それはです!



 ちょっと、洗脳してみました。てへぺろ。





2014年8月14日木曜日

『うつ病だったボクが、悟りを開くまでのたったひとつの方法』

 いやあ、のっけから刺激的なタイトルをつけてしまいました。




 どこかの本屋さんに並んでいるアニメ顔の表紙のビジネス書みたいなノリにしてみましたが、どうですか?

 つられてやってきた人がいたら、すばらしいことです。世の中の出版社のみなさんのマーケティング手法が、よく出来ているという証明です。



 そんな冗談はさておき、今世紀最後の超解脱者、武庫川散歩です。キリッ。よろしくね。



 先日、お○りから内視鏡を入れるという壮大な荒行をしてまいりました。その次の週には、口から図太い筒を入れるというこれまたすごい荒行をしてきました。



 もう、あれは完全にヨガです。上から下から大変なことになっています。



 結果として、腸内にポリー・・・煩悩がへばりついていたのを取り除いたり、したのですが、その前に、2リットルの塩水を2時間掛けて飲むという


 これまたすごい荒行をしたのですが、


 おなかの俗世の悪いものがすべて解脱してゆくという○秘体験をしましたね。


 便秘体験じゃないってば、神秘体験です。神秘。



 なにが神秘かというと、血液とおなじ濃度の塩水を飲むと、腸から水分が全く吸収されずに、おなかの中にあるものが全部そっくりそのまま解脱するのです。

 最後はしゃーしゃー状態になります。不思議な体験ですね。



==========


 まあ、今回のマクラはなかなか濃いかったですが、当ブログのファンの方にはおなじみの展開ですから、きっとニヤニヤもしくは爆笑しながらお読みになったことでしょう。たぶん。しらんけど。



 さて、看板に偽りがないタイプの記事をめざしている武庫川散歩ですので、タイトルどおり、





 うつ病だったボクが、悟りを開くまでのたったひとつの方法




について説明します。


 そもそもなぜ、私がうつ病だったのかは、当ブログのマニアの方はご存知です。




<日常>うつ病を治す最善の方法
http://satori-awake.blogspot.jp/2014/03/blog-post_9640.html




の以前の記事に書いている通り、三股をかけていたのにそのうちの女の子の一人に振られたからですね。



 愛欲生活の果てに、出家を求めるようなそんな最低で変態の人間だったボク。



 それはまるで、野坂昭如さんが、「火垂るの墓」も書くけど、実は変態でドエロスな小説も書くんだということを知ってしまったような衝撃です。

 なんといっても処女作は「エロ事師たち」ですし、最後の方は、「好色の家」とか「少女M」とか、変態な小説ばっかり書いてました。

 いやいや、野坂先生のことは置いといて。 とりあえずここまでが前半です。




 冗談はさておき。(二回目なので、そろそろ冗談じゃなくて、マジな話なのじゃないかと疑いが起きる気がしますが)



 さて、前回の記事では、認知療法的な考え方(物事の捉え方を変化させる)を説明して、その結果としてうつ病を克服するようなことを説明したと思います。




 では、実際の私がどうやってうつ病を克服したのか、それはとても簡単なことでした。





 まず、また別の女性問題で(オイ)仕事をクビになり、住むところを追われ、その後つきあっていたさらに別の年増の女の子(約30歳)からは結婚とかできなくなったので口汚くののしられ、マジで逃げるように遠く海を渡った土地へ引っ越さざるを得なくなり、





 ・・・最終的に、それまで持っていた全ての人生を捨てざるを得なかった、ということが大きかった





のです。


 そうまさに!全ての物欲を捨てて荒れ野をさまよう体験をしたことが、悟りへと繋がりました。



 そこで、何ものにも執着せず、(ていうか、自分が悪いから仕方ないよね)、すべてのカルマを振るい落として(ていうか、逃げ出したんだけどね)、清らかな心(どん底)を手にいれたわけです。



 ブックオフに持っていた本を全て売り飛ばして、タイヤのホイールも生活倉庫に売り飛ばして、身一つで過去を捨てた男の後ろ姿を、ぜひご想像ください。



 そんなとき、18歳の少女が、「それでもあなたが好き」とおいかけてきたので、最終的に結婚しました。それが今の奥さんです。


 彼女は本当にすばらしい奥さんです。まるでブッダが死にかけている時に現れた



 スジャータ



のようです。



 ん?

仏様と煩悩の塊のおまえをいっしょにするなって?何を言う。はやみゆう。


 一国の皇子でありながら、嫁はんも子どもも捨てて好き勝手したシッダールタだからこそ、悟りの境地に辿りついたのです。





 人は本当に好き勝手して、本当に打ちのめされた時に、この世の真理を掴むのかもしれません。




 いや、僕じゃなくてあの人が言っているんです。釈迦です。




(この話はフィクションです。実在の人物・団体等には一切関係がありません。信じるも、信じないもあなた次第です。)









2014年8月13日水曜日

【勝手に人生相談 その4】 「嫌われる勇気」アドラーとガチンコバトル! その1

 最近、中島義道さんネタと「嫌われる勇気」アドラーネタで当ブログに迷い込む人が多いので、それならその状況を楽しんでしまおうと、常に前向きな武庫川散歩です。


 というわけで、今回から”帰ってきた勝手に人生相談シリーズ”を大展開!

 
 解脱者、武庫川散歩ならではの、歌って踊れる楽しい人生相談を勝手に繰り広げたいと思います。


 うひひひ。ネタは山ほどあるので、しばらく試しにやってみよう。


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 第一回はもちろん、本家大人気企画「アドラー流お悩み相談室」(ダイヤモンドオンラインさん)から、勝手にお悩み相談に加わりたいと思います。



 元ネタはこちら
 http://diamond.jp/articles/-/53715



 Q 店長をしていますが、アルバイトがタメ口で話してきてイライラします。人手が少なく、注意して辞められても困るし、ふて腐れても困ります。どうしたらいいですか?



 A あなたが辞めるか、ふて腐ればいいと思います。




 ズバリ解決してしまったので、ちょっとばかり補足を。


 詳しくは元ネタを読んでから戻ってきてほしいのですが、アドラーさんの解決法は、


「年下のタメ口野郎のことは気にするな。人間はもともと平等なんだ。おまえが上だという設定がそもそもおかしいんだ。タメ口は彼の問題であって、おまえの問題じゃねえ」


ということです。なるほど、一理ある。




 簡単に言えば、アドラー心理学は「相手を変えるんじゃない、お前が変わるべきなんだ」ということですから、なので自己啓発でよく使われるんですね。



 しかし、相談者は本当にアドラーさんのアドバイスで納得できるのでしょうか?


 こんなちっぽけな悩みでいちいちイライラするようなちんけな男ですから、アドラーさんが何を言おうが、結局わかっていないと思います。


 本当に目にもの見せるのは、これからです。



 アドラーを越える男、武庫川散歩がお届けする強烈解決法!




① 辞めたらすべての悩みが解決する。


 上下関係が気になるんだったら、自分が辞めてアルバイトとか初任者に戻ればいいと思います。あなたの身分と状況が合致しますので、迷う必要がありません。

 給料が下がる?そんなの知ったことではありません。それはあなたの問題であって、私の問題ではない、とアドラーさんも言ってます。 





② ふて腐れたらいい。


 イライラする主体を、あなたからそのバイト野郎に一瞬で移動させることができる魔法のテクニック、それがこのワザです。

 それこそアドラーさんの言うところの、「あなたの問題を、相手の問題に切り替える」という超大技です。

 どうせイライラしているのですから、それを顔に出しても全然OKです。


 バイト君に、嫌われる勇気です。



 アドラー師匠は、甘いっ!


 元ネタでは、『バイト君はあなたと親しい関係を築きたいと思っているかもしれないよ?』なんてオブラートに包んだ言い方をしていますが、


 それはキミの問題であって、ボクの問題ではない!のです。



 俺は親しくしたくない!誰とも!そう、孤独でストイックな男なんだ!


と主張してみましょう。





 しかし、思い出してください。この世は存在しないRPGのようなものだというのが武庫川散歩の悟りです。

 すべてはゲームなのです。すべては演技です。このセカイを楽しむことです。



 バイト君に振り回されるのではなく、あなたがセカイを振り回してみてください。




 そして、「ふふ。こうやってふて腐れてみたら、ヤツはどんな反応をするかな?それを判断するのも、上司の務めだぜ」とニヤリと笑う余裕を忘れないように。


 そこまでできてはじめて、あなたは管理職として一歩大人になれるのですから。



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 ちなみに、真面目なアドバイスをするならば、


 毎日店の裏口に出て、携帯電話を片手に


「てめえ、誰に向かってもの言ってんだ。なめてんじゃねえぞ。はあ?お前俺を誰だと思ってるんだばかやろう!」


と口汚く誰かをののしればいいと思います。そして、笑顔で店内に戻りましょう。


 バイト君への愚痴も放出できるし、「裏の顔がある上司」だと思われれば自然に相手は敬語になってゆきます。






 私が勤めている会社に荷物を届けに来るI君というドライバーは、いつもふにゃふにゃしていて、


「どぶもずみばぜん。いづもあぎがとうごだいばず」


というかなり変わった口調のオドオドした男なのですが、実はトラックにのりこむとグラサンを装着し、


「てめえらなめてんじゃねえぞ!そこどけ!ばかやろう!」


猛スピードで車をぶっ飛ばすという性癖の持ち主です。




 そのあぶないキャラのおかげで、一目置かれています。あいつはヤバイ、と。


 なので、わたしも彼には丁寧に接するようにしています。


 もしかしたら刺されるかもしれないので。