2016年10月24日月曜日

宇都宮爆発事件が、現代日本社会に潜む病理の塊である件 ~そして、そのどれもが解決できない難問だという恐ろしさ~




 昨日発生した宇都宮における爆発事件は、その全貌が徐々に明らかになってきていますが、その背景がわかればわかるほど、


「これは現代の日本社会の病理の縮図だな」


と思わずにはいられません。



 そして、そのすべての問題が、今まさに現代日本に突きつけられた課題であり、未だそれらの解決の糸口すら見えていないということが、恐ろしくもあり、哀しくもあり、大変なことだと思うわけです。






 
 ■ 宇都宮爆発事件 何が起きたのか ■


 まずは、事件の概要をおさらいしておきます。まだ発生して日も経っておらず、断片的にしか事件のことを知らない方が多いと思うからです。


 10月23日に、宇都宮市で3箇所の爆発炎上事件が発生しました。


 この日は、宇都宮城址公園でイベント(祭)が行われており、多くの人出がある中での爆発でした。


 1箇所目は、城址公園近くのベンチにおいて、爆発があり人が燃えているという事件。

 2箇所目は、宇都宮市中央のパーキングに止めてあった車が爆発炎上した事件。

 3箇所目は、宇都宮市内の住宅から出火した事件。


 当初は、何が起きたかわからぬまま「テロだ」と感じた人も多いようですが、実際には、これらの3つの事件は一体であり、


 容疑者とされる、72歳の元自衛官、栗原勝敏という人物


が、


 自宅に放火し、車を爆発させ、自分は自爆して死んだ


ということが明らかになってきたわけです。










 ■ 事件に至るまでの経緯 ■


  この連続爆破事件。多くの人が行きかう公共の場所での爆発だったため、巻き添えになった被害者が多数ありました。

 その意味では、容疑者の行った行為は、法のもとにおいては断罪されるべきですが、その背景にとんでもない事態が隠れていることが今日になって明らかになってきたわけです。


栗原敏勝容疑者のブログ
 http://blog.goo.ne.jp/jpkingkoko
 
http://blogs.yahoo.co.jp/bwssf171


栗原敏勝容疑者のtwitter
https://twitter.com/kurihar87229662


栗原敏勝容疑者のyoutube
https://www.youtube.com/channel/UC23z6J7CwFbUDMGiWZ2JDYw



 まず、彼が爆発事件を決行する前に、これらのブログやtwitter、そしてyoutube動画まで使って、あることを主張しようとしていたことは明らかです。


 彼はそうとう過激な内容をわざとブログや動画に挙げて、意図的に


「炎上」



することを狙っていました。


 しかし、それらの主張は、あまり市井の人々に注目されることなく、あるいは批判の対象となった公的機関にも、直接的には相手にされませんでした。



 ネットを用いても、自分の主張が通らないと感じた容疑者は、そのことにも不満を覚え、


「事件を決行するしかない」


と考えるようになったのだと思われます。






 ■ 事件の背景にあったもの ■


  では、彼が主張したかったのは一体なんだったのか。この事件の背景には何があるのか。その動機は?

 すべての答えは、上記のブログや動画にも出てきますが、以下のようなことでした。


 ◇ 自分の娘が精神的な障害を持った

 ◇ 妻が、そのためにカルト宗教にのめり込み、大金を使うようになった

 ◇ 退職金までつぎ込んだので、夫婦喧嘩になるとDVだとされた。

 ◇ 家や車などの財産を差し押さえられた。(裁判で負けた)

 ◇  そうした経緯が不当だとネットで主張しようとしたが、見向きもされなかった。

 ◇ 自暴自棄になり、自爆。



  恐ろしいことですが、ここには現代社会における問題や課題のすべてが塊のように詰め込まれているのです。



① 心の病や精神病の問題と、それらの介護や補助をどうするかという課題。

② カルト宗教や自己啓発などの、トラブルを抱えた人への救いの問題。

③ 夫婦や男女間におけるDVの様相。

④ 裁判において本当に正義の裁定が行われているのかという不審。

⑤ ネットにおける自己顕示や、承認欲求の肥大。

⑥ 自力救済が法的に許されていない件。

⑦  テロという手段。



 ざっと挙げただけでも7つの問題が栗原を取り巻いていました。



 そして、そのたった一つですら、なかなか個人の力ではなんとかできない大変な問題である、ということは、万人にピンとくるところだと思います。





★ 家族や自分が心の病にかかってしまったら、いったいどうすればいいのか。


★ カルトにはまってしまった家族をどうしたらいいのか。あるいは、自分がそうしたものへ引き寄せられるしかない現状だったら、どうすればいいのか。


★ 夫や妻や、彼氏や彼女においてDVや、熟年離婚などの激しい意見の相違がある問題をいかに解決すべきか。


★ 裁判所がわかってくれないとき(あるいは冤罪などについて)どうすれば救われるのか。


★ ネットで誰かに訴えようとしても、誰もがスルーしてしまうという現実。


★ 復讐や自力救済が法的に認められておらず、泣き寝入りするしかないのか。


★ 自分が正義だと思うことを、人々に伝えるにはテロのような暴力しかないのか。




 これらすべてが重く、濃すぎる問題だと言わざるを得ません。







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 私は栗原という容疑者がもし犯人であったとしたら、彼の行為は法のもとでは許されざるものだと断罪します。


 しかし、もし、上記のような現代社会の病理や問題に自分が巻き込まれたり、その渦中にあったとしたら、



 それに対して有効な解決手段や、本当に助けとなるものがいない



という現実に絶望せざるを得ないことは理解できます。








 論点としては、「絶望したから自爆していいのか」という話が出るでしょうが、それはきっぱり間違いだと私は主張します。


 あるいは先日の電通女子のように「絶望したら自殺しかないのか」という話になったとしても、それは哀しすぎる、と私は主張するでしょう。









 しかし、このブログを読んでいるあなたも、薄々は気付いているはずです。



「もしおなじ目に自分がなったら、そこには絶望しかないだろう」



という恐ろしい予感に。






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 私、武庫川散歩が、「解脱者」というスタンスを取りながら、ささやかながらこのブログでやっていることは、


「こうした事件が少しでも減ることを望んで」


の行動だと自分では思っています。



 心の病には、できるだけ寄り添い、


 カルト宗教ではなく、本当の信仰心とは何なのかをできるだけ平易に明らかにして、


 自己の主張や正義がほんとうに正しいのかを問い直すヒントを提示し、


 自己顕示欲や承認欲求とのふさわしい付き合い方を提案し、


 (裁判関係については、別の名義でやっているのでここでは書きません)


 そして、テロルでは解決しないことを示す



ということを、このブログでは最初からやってますが、 まだまだ人のためにはなっていないようで涙を流すだけです。



 









 

2016年10月20日木曜日

ゴータマ・ブッダのマネタイズ ~人はメンタルと生活の両面で救われたい~




 すっかり肌寒くなってきた秋の夜ですが、みなさんいかがお過ごしですか?あなたの心をあたたたたたたああ!めたいナイスミドルの武庫川散歩です。


 え?北斗の拳とか知らない?ひでぶ!とかあべし!とかも? ・・・さみしいね。



 さて、経済戦争によって文明と秩序が脅かされ、ブラックが支配する弱肉強食の世の中で絶望しているみなさんのために、武庫川散歩は日夜戦っているのでありますが、この世は無常ですので


「お前らは(ある意味)もう死んでいる。っていうか俺も?」


の精神で頑張っているところであります。



 さて、武庫川散歩はどちらかというと筋肉ムキムキのケンシロウというよりは、


 ハートさま(笑えよ~。ここしか笑うとこないぞ~)


 に近い怠惰な体ですが、心優しい勇者だと思い込んでいます。ぜひ心の眼でワタクシを見てくださいませ。


 ところで、日夜、解脱者・救世主として活動する中で、仮にここに一人の心に迷いを抱えた美少女がうずくまっているとして、


 彼女をどうやって救えばよいのか


ということについては、解脱者とはいえ悩み深いと言わざるを得ません。



 その美少女が、メンタルに問題を抱えているのであれば、武庫川は多少のおべっかと口車と、カウンセリングの技術を持って、それなりに彼女の心を和らげることくらいはできるでしょう。



 しかし、だからと言って、明日からの彼女の毎日の生活、そう!経済的な生活を救うことは、実は意外と至難の業なのです。


 
 たとえば、彼女が、鬼畜生のように酷い両親の元から逃げ出してきた哀れな被DV女子であったとしても、18歳未満であれば衣食住を確保して保護しちゃったりなんかすると、誘拐扱いになってしまいます。


  公的な機関に援助を求めても、彼女に自発的なSOSの意思やその表示ができなければ、彼女を保護した援助者はほとんど力になれなかったりもします。


 同じことは、別に20歳を過ぎた大の大人であってもそうで、町の占い師さんや新興宗教の宗教家が「仮に一時彼女のメンタルに手助けができた」としても、その後の人生が立て直せるまでその生活のバックを支えるということは、かなり難しいと言わざるを得ないでしょう。




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 江戸時代なんかには、DV夫から逃げてきた妻が駆け込んだら、「とりあえずなんとかしてくれる」縁切り寺(駆け込み寺)のようなものがありました。


 縁切り寺の凄いところは、門を入ったらその瞬間外界とはシャットアウトされることになっているので、


「メンタル面での、DV夫からの救い」


も得られるし


「その寺で生活するという当面の経済的救い」


も得られるようになっていて、物心ともになんとかしてもらえるところが素晴らしいと思います。



 DVなんかの場合は、可愛そうな女子たちが一時的に逃げ込めるシェルターのような施設が現在もありますから、駆け込み寺のように物心ともに救われる瞬間はあるのでしょうが、


「仕事でパワハラを受けてメンタルをやられた女子」


に対してのシェルターなんかはありませんから、 メンタル方面でのカウンセリングは仮に受けることができたとしても、


その後の生活援助なんて、誰もしてくれない


のが実情で、生活保護なんかを申請しようにも、手続きに手間がかかり、仕事が出来ないこと等証明しなくてはならないという色々なハードルがそこには横たわっているのです。



 だいたい、メンタルをやられて仕事をやめているのに、経済援助がされないというのは、絶望以外の何ものでもありません。



 なので、心優しい解脱者さんとしては、


「メンタルに対するケアと経済的ケアは常に表裏一体だ」


と考えるようになりました。




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 そこで今回のテーマなのです。(前置きが長い)


 ”ゴータマブッダのマネタイズ”


というビジネス書新刊みたいなタイトルをつけましたが、けっこう真面目なんです。


 ようするに、仏教集団しかり、キリスト教しかり、あるいはイスラムにおいても


「どのように、信仰者は物心両面で救われたのか」


を問い直そうというわけです。それぞれの宗教の初期教団の姿を見れば、彼らが信仰的生活(メンタル生活)と、経済的生活(日々の暮らし)をどのように両立させてきたのかについて、何かわかるかもしれない!と考えました。







<その1 仏教のマネタイズ>


 仏教教団というのは面白くて、実は、サンガという集団生活体を作って経済的には生き延びようとします。

 いわゆる出家信者の集まりなのですが、釈迦・ブッダはそのサンガの経済的運営は


「お布施(寄付)」


によってなされるべきだと考えました。 つまり、労働するのではなく、サンガの外側の社会の人たちから施しをもらって生きることをシステムとして設定したのです。


 出家するということは、俗世の持ち物をすべて捨ててくることでもあったので、サンガのメンバーである僧たちは、身体を包む最低限の布(それが袈裟にあたる)と、托鉢の鉢(ごはんをもらうお椀)だけを持って、あとは宗教生活に没頭していました。


 そこにあるのは、メンタルの救いと、最低限の経済生活ということになります。


  仏教の思想は、欲を持たないことなので、すべてを寄付に頼って、自分からは欲しないというスタンスはある意味整合性が取れているのですが、これが実現できたのは、当時のインドで


「聖者や貧しいものには施しをするものだ」


という概念が一般常識として定着していた、ということがあります。



 こういう思想は意外と世界中にあって、「落穂拾い」の絵にかかれているように、全部収穫しないで貧者のために作物を残しておくとかは、当然だったのですね。



 しかし、生活保護バッシングなどの酷い現代日本では、「メンタルに問題を抱えたものが、施しで生きる」なんてことは、おっそろしくて成立しそうにありません。



 その意味では、ブッダのマネタイズを応用することは、とりあえずは難しそうです。








<その2 キリスト教のマネタイズ>


 初期キリスト教というのは、実は職業人の宗教で、そもそもイエスキリストは、


「大工の息子」


で有名なくらい、大工さんなのです。 それからイエスの12人の弟子・使徒のうち、わかっているだけでも


「5人くらいは漁師」


なので、 基本的に彼らは職業集団だったと言えそうです。


 簡単に言えば、「手に職を持っているので、信仰生活に没頭していても、最低限は食える」ということですね。


 これは大変にうらやましいことです。メンタルをやられて会社を辞めても、なんらかの技術や腕を持っていることで、なんとか食べることくらいはできる、というスタンスは理想的です。



 実はカソリックになってからも、修道院では「牛を飼って乳を売る」とか「菜園を耕す」とか、「パンをこねる」とか、労働的活動をやっていました。

 北海道のお土産に「トラピストクッキー」なる美味しいお菓子がありますが、これはもともとトラピスト修道院で作られていたものだ、というのが有名ですね。










<その3 イスラム教のマネタイズ>


 一番強力なのはやはりムハンマド氏だと思います。なんてったって商人の生まれで、世界を又にかけた隊商貿易のリーダーがスタートですから、ホリエモンやら孫正義が宗教を起こしたようなものです。


 そして、隊商貿易では、利害関係のある敵が物資を奪いに来たり、通行が妨げられたりもするので、当時の自然ななりゆきとして武装することになりましたから、軍事指導者としてのムハンマドの姿もありました。


 まるで武装した孫正義ですね。


 もちろん、最終的には自分の力が及ぶエリアで君主としても仕事をしたので、国家元首という見方もできるでしょう。


 ついに独立国を持った孫正義です。


 ムハンマドは商売人で軍人で政治家であり、そのエリア内部の人は、物心共に影響を受けた、ということになるわけです。




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 こうして考えると、心が傷ついた弱き乙女が、なんとか物心ともに救われる方法があるとすれば、やはり「会社や組織に属さずに、手に職のようなものを持つ」ということが大事なのではないか、と考えます。


 公的な組織や機関が、助けを差し伸べてくれる(布施に頼る?!)のであればそれにこしたことはありませんが、


 それを待っている間に力尽きる


ことのないように、意識を改めたほうがよさそうです。



 それから、修道院のように集団・チームでそれをやってもいいのですが、できれば「何かを作って売る」(小さな商売でよいので)ことができないかを考えたほうがよさそうですね。




 武庫川散歩は現在、メンタルの救いと経済的な救いが両立できるようなパッケージを考えようとしています。



 え?それってマルチじゃないの?って?!


 うーん。だとするとマルチは良く出来てるなあ・・・。


 メンタルをアゲアゲにしてモノ売りまくるってのは、たしかにそういうことかも・・・。



 いやいや、武庫川は解脱者なのでもう少し清貧なことをやります(苦笑)















 











2016年10月19日水曜日

『学力や学歴』とはいったい何なのか?! ”若者で弱者な”キミも目からウロコの究極の説明がこれだ!




 前回は学歴コンプレックスについて触れたので、ではそもそも


 学歴



とか


 学力



っていったい何なんだ?!ということをズバババンと解説しておきましょう。





 なぜ、ここで改めて「学力や学歴」を問い直す必要があるかといえば、

希望者全員が入れるようになった大学全入問題やらFランク大学の件

やら、

高校の学費が無料になった件

やら、

就職活動における学歴フィルター

やら、


高学歴で院までいったら仕事に就けない件
 
やら、


東大出たのに過労死


やら、それはもう「旧来の学歴や学力という概念では説明のつかないこと」がたくさん起きているので、ここらでその


真の姿


について再定義しておく必要があろうと思うわけであります。





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 さて、武庫川散歩は、実は学力や学歴については素人ではありません。


 「お前は賢いのかナンボのもんやねん!」


と言われたら、そりゃあハーバードなんて入ったこともないし、東大は「出たり入ったり」したことくらいはありますが、滞在時間数分です。


 しかし、一応関西で私学といえば4つくらいがそれなりに評価されているという風の噂ですが、その4つの大学のうちの一つを卒業していることは確かなようです。


ええい!まどろっこしいなあ。


 ルヴァンですよ。ルヴァン。YBCのルヴァン美味しいよね!



 それ以上は何も言いません(笑)



 で、実はそのあと、科目履修でちょっと別の大学へもぐりこんだり、さらに別の大学の大学院の科目履修なんかもしたので、入学だけして途中でブッチした大学も数えれば


「4つの大学や大学院に絡んだ」


ことは間違いありません。



 そういう訳なので、この解脱者武庫川も、学歴社会の申し子なのですが、後半の3つの大学は資格取得や単位が必要だったので勉強したわけで、基本的に勉強が好きな好青年だったというそれだけです。


 ちなみに、武庫川はルヴァンの某専攻を2番で卒業したので、卒論が学校に残っているそうです。1番の子は金時計かなんか貰ってましたね。



 『2番じゃダメなんですか!!!!』by二重国籍女子



 話が逸れました。



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  高校までの勉強というのは、基本的に「設定された解を探すゲーム」に過ぎません。いわゆる「答えのある問題」を解くのみです。

 ですから、その解を探すためには「たくさん情報を持っていたほうが有利」になるし、「その解き方をたくさん練習した方が有利」になるに決まっています。


 なので、覚える効率の良し悪しなどは多少あるとしても、「覚える情報の絶対量」と「練習した時間の絶対量」に、基本的には学力は比例します。


 だから環境さえゆるせば、誰でも賢くなれるし、よい大学には入れます。


 こういうことを高校生までの学校では「学力」であり、「学歴」だと捉えています。







 大学に入ると、学力の意味合いはすこし変化します。

 ここからお話することはちょっとだけ理想論ですが、大学では『新しい発見をすること』を勉強の意義としています。

 つまり、大学は学問の場なので、「昔の人たちが発見したことに追加して、若者達がさらなる発見をして人類に貢献すること」を期待しています。


 しかし、とある学生が「これは自分が発見した新しい技術や知識だ!」と思ったものが、本当に新しい発見なのかどうかを確認するためには、どうしたらいいのでしょうか?


 そのためには「先人がすでに発見した知識や情報をすべて調べてチェックすること」が必要になるでしょう。


 ですから、大学では、「先人が何を発見したか」を調べる方法を教えます。


 これが大学教育の究極の方法論です。







  そうです。大学で卒論を書くということは、そのジャンルにおける先行研究を踏まえて、「新規参入者である私は、なんとこんなことを新たに発見しちゃいました!」ということを提示する作業なのです。


 そうすると、大学という研究の場で、次々に新しい発見という成果が生まれるわけです。



 でも、これは理想論。


 実際には、大学で学生達がやっているのは、「新しい発見を目指して頑張る」目標は同じなのですが、「そこへ至るまでにいろいろタイムオーバーや、限界を迎える」ことが実態となっています。



 思い出してください。中学校や高校の授業でも、教科書のすべてのページを1年間で授業で扱うことはできませんでしたよね?だいたい先生が飛ばし飛ばしで単元を教えるか、日本史や世界史は、後ろの近現代が残ったまま3学期になっちゃう、というのが普通だったと思います。


 そう!全部はできないので、途中までになってしまうのです。



 それとおんなじで、たいていの大学生の勉強や卒論は「先人の発見したことをなぞった」ぐらいのところで終わってしまい、なかなか新しい発見にまでは辿りつかないものなのです。


 もちろん、「新しい発見」なんぞできなくても、その分野についての専門性は高まりますので、その若者がその大学を出たことは、無価値ではなく、一定の価値あるものと捉えることはできます。









 さて、ここから大学を卒業して、社会に出て企業人となったとしましょう。

 社会に出ると、研究職に就かない限りは、「既に発見されたこと」を使いこなして業務を行うことを要求されます。


  ここがすごく大事です。


 そう!たいていのことは「既に発見されている」ので、若者はそれを実行することを求められるわけです。


 わかりやすい例を挙げましょう!


 「チラシをまいて、それが成約に繋がる率」


なんてものは、既に発見されていて、 センミツなんて言われるように、0.3%以下なんですね。



 ということは、「チラシ1000枚撒いてこい!話はそれからだ!」 という事実がすでに分かっているわけですから、大学を卒業した若者は、まず先輩や上司から


「チラシ1000枚撒いてこい!電話1000件かけてこい!1000社訪問してこい!」


と言われるのです。



 ここで、大学を出た若者たちは、衝撃を受けるのです。大学までは「どうしたらチラシの成約率が上がるのか」という新しい発見をするために研究していたのですが、上司からは



「そんな発見はしなくていいから、もう率はわかってるんだから早く1000件撒いてこい!」



と言われるわけです。(勤務時間内にそれをやるか、ブラックで残業までしてそれをやるかはこの際別問題)


 ここで、若者は悶々としますよね?絶対に。



「どうして上司や会社は、新しい発見や取り組みをさせてくれないんだ!」「新しい方法や時代にあった新しいことが見つかるはずなのに、どうしてそれに取り組もうとしないんだ!」


と若者は思うのです。


 しかし、仮にそれを提案しても、上司や先輩はこういいます。



「それを考えるのは俺たちの仕事であって、キミらの仕事は1000枚チラシを撒くことだ」


と。


 これは、若者からみれば理不尽ですが、実は先輩や上司がこう言うのは一理あるのです。


 なぜなら、彼らも「先に新しいことを見つけたいと思って学んできた過去があって、先に卒業して就職したけれどそれはさせてもらえず、ようやく今それができる立場が回ってきたからです。



 彼らから見ると、それは電車の扉が開くのを整然と待つサラリーマンと同じで、



「自分たちもその順番待ちをしていたのだから、お前たちも待て」



と言いたいのです!




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 ところが、これらの論理は、先輩や上司の論理、大学で学ぶシステムも含めて全部、「セカイが右肩上がりの発展」を遂げているからこそ成立していました。


 現代は右肩下がりなので、これまでの「こうすれば売れるとか、こうすれば伸びるというこれまでの発見」では通用しなくなってきたのです。


 なので、求められているのは


「さらに新しい発見」とか「いっそう新しい発見」


なのですが、 若者は、ついこの間までその最先端にいたので



「自分になら、さらに新しい発見ができる!」「自分ならいっそう新しい発見ができるのに!」


という誤解にまみれています。



 ええ、それは誤解です。間違っています。



 なぜそれが誤解かと言うと、先に説明したとおり、「昔の若者も、今の若者も、実は先行者の後追いをしていただけで、たいていの学生は新しい発見なんてできずに終わっている」からです。



 実は、新しい発見をできる人材というのは、一部に限られているのです。


 そういう人たちは、これまでは大学へ進学できる率が少なかったので、大卒者のごく一部として主に企業や組織の中でたしかに「新しい発見」をしてきました。



 日亜化学に在籍していた中村先生が、青色LEDを発明した



なんてのは、その典型的な事例だと思います。




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 しかし、新しい発見ができる人材が一定数しかもともと存在しないのであれば、大学へ行って企業へ入って「順番待ち」をすることに意味がないと気付くこともできるわけで、わざわざ待たなくても、


「自分で早く発見したい!」


と思う者が出てきてもおかしくありませんよね?


 それが、昨今でいうところの「ベンチャー」や「起業」といったスタイルなのです。




 ところが、面白いことに、普通の人から見るとそうした「能力ある人材」が、新しい発見をしていることがカッコいいので、


「俺にもできる」


と勘違いするのですね。ですから、企業人としては、電車の列に割り込むような行為(先輩や上司に文句垂れる)をやってしまって嫌われたり、あるいは起業なんかしちゃったりして自滅するわけです。


 これはその行為の良し悪しを言っているわけではなく、そういうことが起きている、ということを示しているに過ぎません。




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 成長社会であれば、企業に入って「チラシを撒くだけの期間」を与えられても、いつかは順番が回ってきたので、後半では楽しく「自分なりの発見」をしながら企業人として生きてゆくことができました。


 ところが、衰退社会ですから、若者だって「これはチラシ配りだけで終わってしまいそうだ」ということもなんとなく気付いています。


 そういう難しい時代に突入したことは、これまた良し悪しに関係なく、そういうことが起きているという事実でもあります。



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 しかし、ここで最初のテーマに戻りましょう。


「学力・学歴・知識とは何か」


という重大問題について振り返るときがやってきました。



 いずれにしても「新しい発見」をしないと生きていくのはつらそうだ、ということはわかると思います。


  その「新しい発見」とは、具体的には、



「この難しい時代に、モノを売る方法」


だったり


「この売れない時代に売れるモノを発明発見すること」


だったり


「縮小する社会に抗って成長拡大するネタを発見すること」


だったりするわけです。


 いずれも、センミツのような「これまでにわかっている解」ではなく、それを乗り越えることが求められている難問です。正解はありません。



 もう一度、大学についての説明を思い出してください。



 新しい発見をするためには「先人がやったことを後追いして、なぞる」ことが必須でした。


 ある日ある朝、天から「新しい発見」が降りてくるわけではなく、そこに至るまでの知識を吸収しまくらなくては、新しいものなど見えてこないのです。




 だ・か・ら




「学歴や学力は、実は新しい発見をするためのスタートラインに過ぎない」




のです。どんないい大学を出ても、このセカイで生きていくのが大変なのは、その力を「新しい発見」に繋げていないからです。


 いいですか?学歴あるみなさんに警告しておきます。


「あなたがいかに勉強好きでも、いかにいい大学を出ても、大学院にまで行ったとしても、新しい発見をすることに気付かず、ただいつまでも”先人の成果を後追いするだけ”、”それを学ぶことだけで満足してしまっているだけ”であれば、永遠に学歴のないものと同じ扱いを受ける」


ということを肝に命じてください。ショックを受けてください。


 学歴に逃げても、何も新しい発見は生まれません。


 成果を出すのは、発見をするのはあなた自身の役目だからです。




【勝手じゃない人生相談】努力しない人を許せません!心がざわめきます! ~学歴コンプレックスを克服するためのヒント~



 こんにちは、あなたの解脱者武庫川散歩です。


 このブログではずーっと「勝手に人生相談シリーズ」と言って、誰にも何にも頼まれていないのに人生相談の回答をエキセントリックに放出するという荒行をやっているのですが、そのせいで


 リアルでマジな人生相談


が寄せられることも増えてきました。


 ちなみに、「放出」をなぜ「ハナテン」と読むかというと、なんと


 弥生時代の言葉の名残!


だそうですから驚きです。


 もともとは「はなちで」と読んだこの文字。その字の通り、水を放って出すところだったので「放出」なのですが、弥生時代の実際の発音は


「ぱなてぃんで」


に近かったようです。あとで「で」が消えていったんですね。


 専門的な話をすると、古代のH音(エッチな音じゃないぞ!!!)は、 P音だったので、


「はなてぃんで」となるところは、古代では「ぱなてぃんで」になる


のですね。



 有名な平安時代のなぞなぞに「母には二回会うけれど、父には合わないものなーんだ」というのがあります。


 答えは「唇」なのですが、昔は「母」という文字を(haha)P音で発音していたので「パパ(papa・phapha)」と口にしていたのですね。


 だから、母の時は唇が2回くっつくけれど、父は一度もくっつかない、というタネあかしです。



 それよりも



 平安時代には、ママはパパだったんだね!



ということのほうが、衝撃的ですマツコも知らない世界!




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 さて。そもそも放出をハナテンと呼ぶとか、8710ハナテン中古車センターがビッグモーターだとか、



関西人にしか分からないネタ



をぶちこみまして、たいへん申し訳ございません。 今度イトウのハトヤの話でもしますから関東方面の人は待っていてください(爆笑)4126ヨイフロ。




 もとい。



 今日の人生相談です。


Q 『私は小さい頃から勉強を頑張ってきました。でも、体調を崩したり、DVな彼氏とつきあったせいで今は不本意なレベルのところで仕事をしているのですが、そのチームの中で私がすべて発案したプロジェクトの成果を全部別の人たちの手柄として取られてしまうようなことがあって、悶々としています。
 彼女たちは、ふだんから努力をしないというか、要領の良さで立ち回ったりしているところがあって、重要な業務は私に任せているくせに、いざとなるとその責務も私だけに負わそうとしたりします。
  学力の低い人たちというか、レベルの低い人たちと相容れないこの感覚に苦しんでいます』



 (リアルガチ相談ですから、話の内容を改変しています)



A 『手柄など、ほしけりゃくれてやれ!それとはまったく別の問題として、あなたの心をまず解きほぐしてやらねばならんな』



 ややこしいのですが、この相談にはいくつかのテーマが隠れています。それは


【1】 レベルが上な人(学力が高い人?)と低い人がいるということの事実と認知の問題

【2】 成果を出すということや、何かを生み出すということの価値について

【3】 学歴を誇る気持ちと、アンビバレントなコンプレックスの問題



という3つくらいのお話です。これらが複雑に絡み合っているので、相談者の彼女も心がざわめかざるを得ないのですが、解脱者である武庫川がじっくりと解き明かしていこうと思います。






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 まず、”人間にレベルの上下はあるのか?!”ということについてお答えしましょう。


 共産主義者と左曲がりの人は眉をひそめるかもしれませんが、”レベル”に何を当てはめるかは別にして、それらの上下は確実に存在します。


 「足の早い人と遅い人」がいるのと同じように、「勉強が出来る人と出来ない人」もいるし、「職務遂行能力がある人とない人」もいるし、「コミュニケーションが上手な人と苦手な人」がいたりします。



 そういう意味では、おなじ仕事をしていたり、おなじチームにいたりしても、「できるし、やろうとする人」もいれば「できないし、かつ恐ろしいことにやろうとしない人」も存在する、ということは、忘れてはなりません。




 この時、往々ににしてよく起こりがちなパターンは


「あたしは頑張っているのに、どうしてあの人たちは頑張ろうとしないの!」


とか、


「あたしはこつこつ努力しているのに、あの人たちは上手くやってるのが許せない」


という怒りが生まれることです。



 まず、こうした感情については、その根本原因はたった一つです。それは、実は他人の文句を言っているように見えて、それらはすべて「自分のこと」に目が行っているということにまず気付きましょう。


 つまり、この怒り主は


「あたしが評価されるべきだ」とか「あたしに成果があるべきだ」とか、「あたしが褒め称えられたい」


という根っこの感情の表出として、そうした怒りを覚えているということなのです。



 解脱者からすれば、このセカイは存在しないに等しいので

基本的には他人のことは全くもってどうでもよく関知しません。


  レベルの高い人がいようが、低い人がいようが、あるいは「自分がどのレベルにいるのか」も含めて、そんなことはどうでもいいのです。


 無常なるこのセカイで、レベルなるものに囚われて感情を乱すバカ


になる必要はないのですから。



 しかし、このセカイの人たちは、解脱していないので、その説は通用しないため、別の理由付けが必要になります。


 一番いいのは


「キミが頑張っているのは、ボクがちゃんと知っているから、気にしちゃだめだよベイビー」


と言ってもらえることなのでしょうが、私がアドバイスしたのは



「おなじ土俵の上に乗るな」



ということでした。


 同じ土俵で比較対照をし続ける人生は、愚かです。そして、その土俵で評価されなかったり、損をするというのであれば、その土俵で戦わないことを選択すべきです。


 自らをストイックに鍛え上げた全裸の戦士がいて、本人は努力せず全自動アーマーに頼っている戦士と戦うとすれば


「おいおい!そりゃまてよ!あっちはずるいだろう!」


とか思うのは当然ですが、そもそもそこで戦いのリングに入らないことが最善なのです。


 ですから、ムキになってその土俵で「レベルの低いとあなたが見下げがちな人たち」と戦わない方法をチョイスすれば、直近の問題は解決するでしょう。




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 さあ、そこで2番目の問題です。そうはいっても、仕事や組織に属していれば、それらの活動や行動が評価されるので、


「自分の手柄を(無能な人たちに)横取りされるのは許せない」


と思うことは自然なことです。しかし、現実世界ではそうしたことは良くあるし、そのことで心を痛めるくらいなら、解脱者は


「手柄などくれてやれ」


と思うのです。



 さて、話は一見大きく変わりますが、武庫川はどうしても「ブルセラ」というものが解せません。


 どうして女子高生のブルマやセーラー服に興奮するのかまったくもって理解不能です。


 なぜなら、それは女子高生の○×△ではないからです!バババーン!

  女子高生の○×△に興奮するというのならわかります。それは哲学的にいえば実存だからです。


 しかし、ブルマもセーラー服も、単なる汚れた衣服以上の何ものでもないのです。




 さて。(真顔)



 なぜ、こんな話をしたかというと、依頼者の彼女が作り上げた成果というのは、解脱者から見れば単なる


「ブルマ」


に過ぎないということです。


 偉いのは、あるいは凄いのは成果ではなく、それを生み出した彼女の存在そのものです。


 価値があるのは、成果物ではなく、彼女そのものなのです。



 なので、私が評価者なら、成果物ではなく彼女そのものを評価するでしょうし、彼女であればそれと同じくらいの成果は



 これからなんぼでも出せる



ことは自明です。だから一つの手柄なんて、どうせ使いこなせない”きゃつら”にくれてやって、ほって置けばいいと言ったのです。



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 さて、いよいよ最後の問題に入りましょう。



 論理的に積み上げてゆけば、有能なる彼女にとって、周囲を気にすることなく、もっと伸び伸びと生きてくれればよいということだけなのですが、彼女がそうしたことを


「敏感に察して、かつイライラする」


のは、根底にある「学歴コンプレックス」が原因なのではないでしょうか。



 学歴コンプレックスというのはやっかいなもので、学歴がない人にはコンプレックスがありません。



 さらっと言ってますが、めっちゃ重要なので、繰り返します。


「アホは、もともと学歴に価値を感じないので、コンプレックスにならない」


「えーうちら、学歴とかそういうの。わかんなーい。マヂウケル~」




ということです。



 わかります?学歴コンプレックスというのは



「学歴があるもの、勉強ができるものだけがかかる病」


だという衝撃の事実!!!!



 これを押さえておきましょう。




 この問題はすごいことに、「あるほう、持っているほうが悩んでいて、ないほう、もっていないほうは悩んでいない」という逆転現象が起きているのです。


 だから「悩むのはあほらしいからやめましょう」と結論づけるのは簡単なのですが、それでは解脱者的になーんにも救っていないので、ここから武庫川がきちんと救ってお持ち帰りします。



 学歴を持つ人が、学歴を誇る気持ちと、より学歴がある者を妬んだり、学歴がない者をさげすんだりするアンビバレントなもやもやした感情をもつ原因ははっきりしています。



 それは、その人たちが



「それしか、自分で自分が認められるものがない」


からです。


 あなた、というものを構成する要素や、あなたが「あなたらしく、あなたである」ということを主張するものを一つずつ出そうとした時に、



「学歴ぐらいしか、あなたたらしめているものがない」



から、そうなるのです。



 このことの寂しさ!悲しさ!苦しさ!。



 自分を誇れるものが学歴しかないというあさましさ!



 それに人はおののき、感情を乱すのです。




 私は、よく、弟子たちに「あなたは今は何者でもないが、何者かになることはできる」ということをよく話します。


 しかし、幼稚園から大学まで、子ども達が楽に「何者かに近づく」軌道に乗れるのは


「学力かスポーツ」


ぐらいしかありません。


  これは学校教育の弊害なのですが、ようは勉強と部活ぐらいしか、「自分たらしめることができる要素」が見つからないのです。かわいそうなことですが。



 ちなみに、ワシは小学生からエホバの証人でしたから



「神に認められた預言者である」


と思ってましたので(オイ)、子どもたちをつかまえてはジャングルジムの下に座らせ、その上から天を指し示しながらキリストの教えを布教していたので、



「武庫川を武庫川たらしめているのは、神と信仰である」


と本気で思っているので、



何者にも惑わされない



半ズボン小学生でした。どうだ参ったかジハード少年をみくびるなよ(笑)




 それは冗談ですが、武庫川は小学生入学前に、ちょっとしたことでマスコミに取り上げられたりしていて、(別に預言者としてではない)メディアでもちょくちょく触れていただいていたので、


「学校や勉強以外に価値が存在する」


ということは肌で感じていました。要するに、学校外で認められていたので、価値には幅広さがあることに気付いていたので苦しむことはなかったのです。



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 学歴コンプレックスがあるすべての人にお伝えしたいことがあります。


 勉強で成果が出せるのは、学校の間だけです。


 仕事や社会生活においては、努力しても成果がでないことだらけで、むしろ、ダメなことのほうが大半です。


 だとすれば、あなたが生きている価値は、学力以外の何かにあるのです。


 それを見つけるのが、卒業後の人生の修行でもあります。早くそのことに気付いてほしいのです。



 もちろん、あなたの学力は、すばらしい基礎体力であることは間違いありません。


 ではその土台の上に、どんな花を咲かせるのでしょうか?




 それを解脱者は楽しみにしております。



  



 










 


 

2016年10月11日火曜日

解脱者は高橋まつりさんを救うことができたのか ~電通過労死事件を考える~




 ふだん解脱者というエキセントリックなラベルを自らに貼り付けて、このセカイのありようについて(わりと)真面目に考えている武庫川散歩ですが、



 電通過労死事件の高橋まつりさん (事件概要)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161007-00000116-asahi-soci


のことを思うと、夜も寝られません。



 事件の概要は報道でもネットでもずいぶんと言及されているので、ご存知の方も多いと思いますが、24歳の新入社員だった高橋さんが月100時間を越える残業と、会社の上司や同僚からの体育会系圧力に屈して自死なさったというものでした。




 この出来事については、武庫川個人としては、24歳という若さで命を絶ってしまった高橋さんが追い詰められていたことを思うと気の毒で仕方ないのと、



 解脱者を名乗っている以上、おまえなら高橋さんをなんとかできたのか!



という自問を繰り返さずにはいられないのです。



 ”もし、解脱者武庫川散歩が彼女の知り合いだったなら、私は彼女を救えただろうか?”



 これが、私が私に突きつけている究極の問いなのです。




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 この事件を巡っては、いろいろな識者たる人たちが、多角的にすでにコメントを出しておられるし、分析なさっていますが、


■ 電通という会社の特異的な雰囲気を責めるもの



■ 労働基準が大企業・中小企業ともに守られていない実態を嘆くもの


や、逆に


■ ”ガンバリズム”や”24時間戦えますか”に耐えられない若者と、バブル時代の武勇伝なおっさんたちの対立


を描くものなどもありました。




 そのほかにも



電通「過労自殺」事件に見る労働生産性の低さ(アゴラ・池田信夫)
http://agora-web.jp/archives/2021985.html




「スーパーエリートが過労死する国は子どもたちの夢を砕く」(BLOGOS・田中俊英)
http://blogos.com/article/193547/


などの記事は、日本の会社システムの問題をいかに正すべきか、という視点で描かれています。




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 しかし、これらのたくさんの記事をいくら集めてもおそらくは


高橋まつりさんは帰ってこない


し、


今、過酷な労働に苦しんでいる24歳の女子を救うことはできない


でしょう。



 私は、たくさんの記事主さんを否定したり、批判したりしているのではなく、それは


「戦争をなくすにはどうしたらいいかとみんなが真剣に考えているんだけれど、今どこかで撃たれているあの娘を助けられていない」


という問題と似ているということを思って、泣いているのです。




 良いことか悪いことかわかりませんが、解脱者は悟りを開いてしまったので、このセカイのシステムからは降りてしまっているし、悪い言い方をすれば「逃げてしまっている」とも言えるでしょう。


 ですので、これまた良くも悪くも、「社会や会社システムをどうすればいいか」については、識者のみなさんの議論に任さざるを得ないし、このセカイシステムから降りたが故に、


「横からわけわからんこと言ってんじゃねえよ、解脱者(世捨て人)のくせに」


と言われれば、反論の余地はないのです。


 なんせセカイは無常だ!とふだんは言ってるわけですから。




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 似たようなことがつい最近に2つもあって、一つは、このブログでも紹介したニャートさんがそれこそ「一橋大学を出て、過労で仕事を失った」件と、そこからなんとか復活しようと頑張っておられることについて、私は



 (ただ、それしかできないんだけれども)
 
 『私はあなたの味方をする』



と宣言したことを思い出しています。




※ この経緯は


生きづらさを抱えた人たちに、何ができるのか。 〜解脱者、セカイを救う〜
http://satori-awake.blogspot.jp/2016/09/blog-post_19.html


に書いてあるので、参照あれ。




 だとすれば、私は、もし高橋まつりさんの知り合いであれば、全力で味方できただろう、とは思います。しかし、だからと言って



「彼女が、私を含めた誰かに救いを求めてくれたか」


ということは、全くの別問題であって、それは意外と大きなハードルであるに違いないとも考えるのです。




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 奇しくも、つい先日「レンタル救世主」というテレビドラマをやっていて、志田未来ちゃん演じる良家の娘(ただし、コンプレックスまみれ)



「助けてと言いたくてもいえない」



人が実はたくさん存在する、ということをくちゃくちゃの泣き顔で表現していました




※言っておきますが武庫川は「女王の教室」の時から志田未来ちゃんのファンです。解脱してこの世のものに執着はないのですが
 
 志田未来ちゃんのファン


です!




 助けてと言いたくてもいえないのは、プライドのせいだといえばそれまでです。しかし、そのプライドには


■ 自分の弱さを認めたくないという感情


もあれば


■ 他人に迷惑をかけなくても自分でなんとかしたいという感情


もあるでしょう。あるいは親御さんに対しては


■ 心配をかけたくないという感情


だってあるに違いありません。



 そうしたものが入り混じって、感情がぐるぐる回って、何も言えなくなる瞬間が



 誰にだってある



のではないか、そう解脱者は思うのです。



 ニャートさんの場合は、記事を読む限りでは「お父さん」が一定の支えになっていたことが伺えます。

父が全能で、100%助けてくれたわけではないでしょうが、父という存在そのものが、ニャートさんの救いの一部分であっただろうことは、記事から想像できます。


(高橋さんの場合は母子家庭であったそうなので、よけいに母親に心労をかけたくないと感じておられたのでしょうか。推測だからあまりここから先は口にしません。)




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  さて、もう一つの話が残っていましたね。


 実は不肖な解脱者である武庫川の弟子、女子大生さんが、いよいよ就職が決まって来春から社会人になろうというのですが、彼女がこれから働くところが、



「ブラックかどうかはわからないが、たぶん8時から5時の勤務では仕事が終わらない会社」



である可能性が高い、ということがわかっているわけです。もちろん、他にもいろんな要素があるでしょう。



 このことをもって「そりゃ、どこの会社でもそんなもんだろう」とか「仮にそこが多少のサービス残業があるとしても、うちだってそうだ」といった議論をしてほしいわけではありません。



 それこそ、電通に限らず日本中のたいていの会社がそういう傾向なのだったら、今度の電通の事件をもって日本中が正されるように識者が吼え、監督署が仕事をすればよいのです。




 今、師匠である武庫川が問題にしたいのは、愛する弟子である女子大生が、 もし万一、就職先がブラック企業であったり、上司がセクハラ親父であったり、お局がパワハラ女子だったりした時に、



「助けて」



とちゃんと言えるのかどうか、を気にしているということなのです。



 私は、弟子に確認したわけではないので、もし本当にそうなったら、親御さんか、恋人か、あるいは最終手段としての師匠である私にかはわかりませんが、彼女が


「助けて」


と言えるかどうかは、実際にはわかりません。




 しかし、いよいよ本当に切羽つまったら、彼女はきっと私にレスキューを要請するはずだ、と私は思っています。


  なぜか?


 その時にこそ、「助けて」と言える、「困っている」と言えるだけの姿勢を(武庫川が)示しておくことが、



「私はあなたの味方をする」



という言葉の真の意味だと思うからです。



※事実、女子大生は、これまで数回、マジで困ったことがあった時には私がそれを「助けられるかどうかは関係なく」連絡をよこしてきました。


 そして、武庫川のこれまでの経験上、いろんな人たちに関わってきた経緯においては、彼らはかならず「助けて」を言えたのです。だから、こちらが受け止める体勢を持っていれば、かならず「助けて」は言える、と確信しています。




 女子大生には、確信があるのです。



 武庫川はかならず、私の味方をしてくれる



という確信が。



 大事なのは、実際にちゃんと救えるかどうか、ではありません。


 実際に救われる方法は、実は山ほどあるのです。


 高橋さんであれば、うつ病になって仕事にいけなくなるという体の反応も起こり得たでしょうし、休職したり、辞めてしまったり、あるいは無断欠勤だってできるし、逆ギレだってできたでしょう。


 その救われる方法の細部が問題なのではなく、



「私は、救われる」



という希望があることこそが、救いなのではないでしょうか。




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 その意味では、宗教はさすがです。


 「私には神がついている」


という思いだけで、そこに救いの希望があるからです。浄土系の佛教でも


「南無阿弥陀仏」


と唱えるだけで救われる、という確信がそこにあります。



 しかし、現代の日本では、そこまで確信できるような救いはまだ確立されていません。



 それを確立するのが、武庫川の使命なのかもしれませんが、あるいは



現代の駆け込み寺



のようなシステムが、本当は求められているのかもしれません。



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 ※ 本当は高橋さんだけではないのですが


「そこまで追い詰められないために、このセカイをちゃんと見つめるための軸足」


とか


「お金とか立場とか仕事とかに振り回されないための、本当の軸足」


とか、そういうものを身に着ければ、苦しみが削減されると解脱者は考えています。


 今日はそこまで話を深めると論点がずれるので、とりあえずここまで。


 軸足についてはまた別の機会に話します。





 








 

 


 





 

2016年10月10日月曜日

あなたが「人類最後の希望」だと言えるのは何故か。 〜あなたが愛されるべき理由〜




 前回の記事では、人の寿命がどれだけ頑張っても125歳くらいまでしか伸びないことをお話しました。


 なぜ、そうなるのかと言えば、たとえ細胞が再生産されようとも、生物に自己修復機能があったとしても、永遠に再生産、修復し続けるわけにはいかず


「うまく再生できなかったり、間違った再生が起きたり、バグのようなものが貯ってくる」


からだという訳でした。


 工業製品などでもそうなのですが、「正しい形」をした製品をいくつも生産するには、


「そもそもの金型を修正し、最後には新しい金型に替えなくてはいけない」


ということなのです。生物や遺伝子においてもそれと同じで、次の世代が生まれることで、


「もとの金型に近いものを再び一から作り上げる」


訳ですね。



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 しかし、たくさんの人類がいる中で、


「どうしてわたしが、人類の最後の希望だなんて言えるのか!」


と反発を覚える人も多いことでしょう。


「代わりの人類なんて山ほどいるのに、私が愛されるべき理由には当たらない」


と。


 確かに、おっしゃる通り、地球上には山ほど人類がいて、日本人だけでも1億3千万人もいるわけですから、まさに「代わりはいくらでもいる」と一見思ってしまうのも致し方ありません。


 ところが、ヒトという生き物を神様の目線のように外から見るならば、たしかに私たちは「数千匹もいる蟻の巣の中の、たった一匹のアリ」のように見えるかもしれませんが、 もう少し個人の事情に目を向けると、そうではないことが浮かびあがってくるのです。




 たとえば、あなたのご先祖さまの「とある一人のおじいちゃんやおばあちゃん」を思い起こしてみてください。


 きっと「うちの先祖にはこんな人がいて…」といった話がどの家にも伝わっていて、あなたはその人に逢ったことはないけれど、


「へえ、そんな人がいたんだ」


くらいには思ったことがあるでしょう。




 実は、ある人が存在していたとして、その人が何か「歴史的な功績や建造物を残したりしなかった」としたら、


 その人物が生きていた証を知っているのは、その人の子孫だけ


だと言えば、あなたはどう感じるでしょうか。



 大阪城があるから「豊臣秀吉」というおっさんがいたらしい、と誰もが理解しますが、そんな偉業を達成しなかった「平凡なおじいちゃんやおばあちゃん」がいたとすれば、彼らが生きた証を受け継ぐのは、実は子孫だけなのです。



「そんなことはないでしょう。同じ会社の部下とか、学校の後輩とか、その人のことを知っている人や覚えている人は、他にも山ほどいるんじゃないの?」


と思うかもしれませんが、それはせいぜい数十年間の話であって、2世代も離れれば、それらの情報はまったく消えてしまうのです。


 それが証拠に、あなたはあなたのおじいちゃんやおばあちゃんの同級生のことなど


全く知らない


はずです。知っているのは、直接の先祖に当たる人のことだけ。それはどこの家庭でもほぼ同じなのです。



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 北朝鮮では、何か悪事をして犯罪者(主に政治犯の場合が多い)が処刑される際に「一族全員皆殺し」という刑を執行することがよくあるそうです。


 これは古代中国に端を発する処刑の仕方で、本来は



”族誅(三族/九族皆殺し)”



というスタイルです。






 日本でも、同様の刑罰が戦国時代や江戸時代の初期に実行されたことがありますが、なぜそんなことをするかと言えば、


「関係者全員が、恨まないように=つまり、その事自体を忘れるように」


全員を殺してしまう訳です。




参考)

古代中国ではなぜ「九族皆殺し」の刑が採用されていたのか?


 http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=43992





 
 つまり、子孫がいなくなるということは、


「その人物やその家系が存在しなくなる」


ということと同義ですから、存在そのものを抹消されることと変わらないのです。



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 人類全体で言えば、代わりはいくらでもいるように感じますが、


「あなたとあなたの一族、あなたの家系」


の視点で見てゆくと、あなたはたしかに「あなたの家系における、最後の希望」となるかもしれません。


 そして、どの家においても、その子孫が「家系における最後の希望」であるのならば、それは人類全体で見ても、やっぱり「子孫は最後の希望」であることには間違いありません。



 ちなみに、父母、祖父母、曾祖父母と世代を遡っていくと、どれくらいの人が、


「あなた一人を形作るのに存在しているか」


わかるでしょうか?


 祖父母は、あなたからみて4人存在します。あなた一人のDNAを形成するのに、4人のDNAが必要だということです。


 曾祖父母は8人です。


 九族皆殺しでは前後に9世代遡ったり、下ったりするのですが、ちなみに9世代全部遡ると何人が存在していたか計算してみましょう。


2の9乗ですから、 512人です。


 あなたが死ぬと、512人もの先祖の命が断たれることになるわけです。


 20歳くらいで子供を残すと考えると、9世代は9×20年=180年くらいです。


 ちょうど江戸時代、伊勢参りが流行したり、大塩平八郎の乱くらいに生きていたあなたの先祖の遺伝子が、あなたが今生き残っていることでなんとか繋がっているわけです。




 もう少し遡って、24世代くらいを見てみましょう。24×20年として、480年前です。

 その間までのあなたの先祖は、


 2の24乗で、16777216人


存在します。

(コンピュータ好きな人は、2の乗数は得意でしょう。1677万色・フルカラーの数字はここから来ています)


 480年前頃は、フランシスコザビエルが日本に来たり、斎藤道三の娘が信長に嫁いだりしている時です。


 織田信成くんは、信長の子孫ということになっていますが、信長の子孫であると同時に、



1677万人の子孫



でもある、ということです。


 信長は有名人なので、誰でも知っていますが、残りの1677万7215人の記憶は、信成君の遺伝子の中に記録されているのです。



 織田信成くんが生きていることは、1677万人の最後の希望だという意味が、わかってくることと思います。




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 戦国時代ですら、この数字なのですから、縄文時代やら弥生時代の先祖、あるいは、まだ霊長類になる前の先祖から考えると、



 あなたは人類という生命の最後の希望



であると言って間違いありません。



 そして、すべての人類が、均しくそうなのです。




 これが、解脱者武庫川が、キリスト教の神を排して出した結論です。



 あなたは神の被造物だから尊いのではなく、これまでに生きてきたすべての生命の子孫だから尊いのです。


 彼らの生き様や、彼らが本当に生きていたんだという証が、あなたのDNAに書き込まれているからこそ、あなたの命は重いのです。


























2016年10月8日土曜日

あなたには「生きている価値」がある理由。 ~キミは”人類の最後の希望”なんだ!~




 先日の自己肯定感の話から始まって、前回は「母子がまったく別の人格である」というところまではお話しました。


 もともとの話のスタートは「自己肯定感を持つには」というところからだったのですが、キリスト教文化圏では



「神様から与えられた尊い命だから、すなわちあなたには生きている絶対的な価値があるんだ」



というイメージが存在するよね、ということもお話した通りです。



 しかし、私たちは日本人で、「キリスト教文化」に接している人はごくわずかです。解脱者武庫川は、その昔親がエホバの証人だったので、そうした思考を知ってはいるのですが、普通の人にとってはキリスト教の信仰の根幹なんか知ったこっちゃありません。


 では、もしキリスト教色を排除したら、


 人が生きている理由


を明確に定義することは可能なのでしょうか?





 世界中で、飢餓や戦争が起きていて、何万人もの人が簡単に死んだり殺されたりしている中で、


「命は大事です」


と言葉で口にするのは簡単だけれども、それが上滑りしていることは、誰だって心の中で気付いているはずなのです。



 そこで今日は、



 それでもあなたには生きている価値がある。


 君は、人類の最後の希望なのだ!



ということを、きちんと説明してみようと思います。




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 そのヒントになるニュースが、ちょうど数日前に入ってきました。


“125歳超えは無理 人間の寿命に限界” 米研究グループ

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161006/k10010719721000.html



科学雑誌ネイチャーに掲載されたという研究報告で、人類は125歳が物理的に限界だろう、ということが示されたわけですが、(実際の最高齢は122歳)今後医療が発達しても


 人の命には限界がある


ということは間違いなさそうです。



 ちなみに、この研究は2つのポイントで理解したほうがいいでしょう。


「へー、人間って125歳までは生きられないんだって」


という素直な理解が一つ目のポイントですが、もう一つ大事なことが隠れています。



  それは、この研究の詳細な内容を知るとよくわかります。


 研究グループは実は「どれだけ寿命が延びるか」を見ているのではないのです。


 彼らは、「世界の寿命がどのように延びてきたかを、カウントする」ということをまずやっているのです。


 これは、とっても面白い視点で、結果は驚くべきものでした。



「人の寿命が、昔に比べて延びてきたと誰もが思っているが、最近まで伸び続けているのではなく、1980~90年代くらいで、頂点までいきついてしまった」


ということです。


 ということはむしろ、直近の今は寿命が縮んでいたり、もう伸びしろがなかったり、頭打ちだったりしているということなのです!



 武庫川は以前のブログ記事で


現代は、人類史上最も幸せな時代である 
http://satori-awake.blogspot.jp/2016/08/blog-post_18.html
 


 文化的・経済的に人類の進化はピークを過ぎてしまったことに言及しましたが、まさか生物的にもピークが終わっていたことには驚きを隠せません。




~~~~~~~~~~




 わたくし武庫川は解脱者ですが、解脱者だからこそ気付いたことがあります。


 
 世界にはたくさんの宗教があり、信仰があるでしょう。そこではどれほどすばらしい教えが説かれているかは知りません。


 しかし、ひとつだけ真実があって、それは



 キリストもブッダもムハンマドも皆死んだ



ということです。どれが真実の宗教であったとしても、どれほど尊い教祖であったとしても




 みんな死んじゃう



ということからは逃れられない!という事実です。



 未だかつて、「いつまでも死なない人」が存在しない以上、



「死とは、受け入れるべきもの」



であるはずなのです。




~~~~~~~~~~



 では、どうして人は死なねばならないのでしょうか?


 どうして125歳までしか生きていられないのでしょうか?




 基本的には、エントロピーの法則の通り、ということができるでしょう。



 エントロピーの法則(熱力学の第二法則)においては、


「閉じた世界(外部とのエネルギーや物質の出入りがない空間)においては、エントロピーは減少せず、むしろ増大する」


ということは有名です。


 これをもっと平たく言えば、


「モノは、一ヶ所に集まったり、何かを形作ったりしているよりは、均一にバラバラになりたがる」


ということになります。



 つまり、すべての生き物は、最終的にはバラバラになり、聖書的に言えば「塵に返る」のですが、そうならないように生き物は一生懸命ごはんを食べ、エネルギーを外部から取り込むことで


「エントロピーの増大に歯向かっている」


のが、人生なのです。



 もちろん、なぜ「老化」が起きるのかにはさまざまな説がありますが、基本はすべて同じだと考えてください。



 ① 生き物は、元素を一生懸命集めて、命を形成している。


 ② ほっとけば崩れそうになるのを成長機能や自己修復機能でなんとか頑張っている。


 ③ そもそも、無理やり形成しているので、その中にはエラーやらミスもある。


 ④ どんどん失敗が溜まってきて、どうしようもなくなる。


 ⑤ その最大年数をカウントすると、125年ぐらいで修復が不可能になる。



ということです。




~~~~~~~~~




 125年経って、エントロピーが増大しまくりなので、いよいよ人生は終わりになりそうです。


 そして、私たちは永遠に「土に還る」のですが、それでも生き物たちはあがきます。



「なんとか、未来への希望はないものか」



と。



 そこで、生き物は、自分たちを形作るための「設計図」と、最小限の「設計図どおりに組み立てるプログラム」を作って、小さなカプセルに封じ込めて外に出すことにしたのです。



 それが、卵ちゃんなのですね。




 だから、すべての人には生きている価値がある。



 あなたは、死んでいったすべての人類の最後のあがきなのです。


 だからこそ、この世に生を受け、もう一度命を再結成する使命を帯びているのです。




 しかし、それを言うなら、今生きているすべての人はみな「人類の最後のあがき」なんだから、



別にあたしが生きていようが、一人くらい死のうがどうってことないじゃない



とグレたことを抜かしてけつかる女子がいるかもしれません。


 そういうややこしい女子は



 抱きしめるぞこのやろう!



と思うのですが、それは一旦置いておいて。



 次回は、そうではなく、「やっぱりキミは最後の希望なんだよ」ということを説明したいと思います。



 こうご期待。


















 









 

2016年10月7日金曜日

親子、とくに母子が「他人」であることを証明する。 ~なぜ、母はおなかを痛めて産んだ子を虐待できるのか~



 前回の記事で、ちょっとだけ毒親の話が出ました。



 大半の人にとっては「両親というものは、基本的には子どもに愛情を持って接するものである」というざっくりとした当たり前が存在すると思いますが、実は以外にそうではなくて



”どうしても子どもを愛せない”



とか



”子どもが好きになれない”



とか



”そもそも欲しくなかった”


とか、そういう事例は多々あります。



 で、そういう親たちは「でも、親たるものは子どもを愛するべきなんでしょ?」という当たり前と実感との間のギャップに悩み、なんとなくモヤモヤが募り


 また子どもをドツキかましてしまう


のが毎日だったりします。



 というわけで、今回の解脱者のありがたいお言葉は、



「子どもなんて、所詮っていうか、マジで他人」



であることを、まずは証明するところから、荒んだ親たちの心をほぐしてゆきたいと思うわけです。





~~~~~~~~~~



 最初に断っておきますが、ワタクシ武庫川は、虐待をする親とか、毒親とかモンスターペアレントを擁護するつもりは一切ありません。


 ただ、「時に、子どもを愛するべきという『べき論』と自分の気持ちのギャップに迷ってしまうことがある」という美人のヤングママに、


 ちょっとだけ気持ちを楽にする事実を伝えよう


というだけです。そこのところは誤解なきように。




 さて、ではなぜ武庫川は、



「親子は他人、母子であっても親子は繋がっていない」


と喝破するのでしょうか。



 そこには、上でも述べましたが、


「お腹を痛めて生んだ我が子が可愛くないはずがない」


とか


「子どもがお腹から出てくる以上、母子は一体であったはずだ」


という、一種の幻想的理想論が渦巻いていることで、それが


「そう実感できない母たちを苦しめている」


ことを、いったん取り除こうと考えるからに他なりません。



 しかし、何度も言いますが



「母子は一体でもないし、最初から最後まで隔絶たる他者であり、ぶっちゃけ、エイリアンがチューチューするみたいな寄生獣である!」



ということを知っておくのも、悪くないかもしれないのです。



 では、まず、妊娠と出産のしくみをおさらいしましょう。


誰もが知っているこの図は、お母さんの卵巣から卵子が出てきて卵管に入り、一方お父さんの精子がやってきて受精するさまを描いています。


 ここで大事なのは、当然、父親と母親からそれぞれ半分ずつDNAを受け継いだ受精卵が出来上がることと、その受精卵は



 独立して、卵管の中をふわふわしている



ということです。



 で、そのふわふわしていた受精卵は、子宮の内膜にピタっとくっつきます。これを着床というのですが、母側の粘膜に、独立した受精卵がくっつくわけですから、



 おかんの世界(母体)とこどもの世界(受精卵)は、膜二枚くらいを境目にくっついている



ということがわかると思います。膜二枚というのは、おかん側の膜とこども側の膜です。



 さて、



  これを図式化すると、おかんの世界とこどもの世界が、実はおなかの中だけれども切り離れているんだ、ということがわかると思います。



 しかし、このままでは、別個の存在が2つあるだけなので、こどもは成長できません。そこで、




 こどもはおなかから「エイリアン」みたいなのをうにょーっっと出してきて、母体の子宮に



 かぶりつく



わけですね。これが胎盤。チューチューするのが役目です。



 そして神様はそれでもうまいこと設計していて、胎盤にあるこども側の血管と、母体の血管はけして混じらないように、やっぱり膜で隔てられているわけです。



 うちの奥さんが子どもを生むときに、ワタクシ武庫川は付き添ったのですが、待っている間、



「ところで、胎盤っておかあさん側の器官なんですか?それとも赤ちゃん側の器官なんですか?」


と尋ねたことがあります。


・・・なんと!看護婦さんは全員答えられませんでした!


  一体としての胎盤と母子の絵や図は何度も見ているのだけれど、それがどちらに属するものなのかは、プロでもあまり意識していないのです。


 もちろん、産婦人科医は、理解しているでしょう。


 ちなみに、ウィキペディアに良い説明があります。


”胎児から見ると胎盤は羊膜の外側にあるが、胎児側の臓器とも言える。”


ということです。




 なので、形はエグいけれど、二人は最初から最後まで



 別個の人体であり、別個の人格



だということがわかると思います。





 というわけで、おかあさんという生き物は、お腹の中に赤ちゃんという寄生獣を抱えてチューチューされながら、それでも健気に頑張っているわけですが、一連の解説で分かるとおり、


「母子は、ある意味、けして交わらないし、相容れない存在である」


ということも言えるわけです。





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 さて、そうはいうものの、母のDNAも貰いながら、父のDNAも貰いながら子どもは存在します。


 DNAを残すという意味では、妊娠と出産ほど尊いものはありません。


 できることなら、父親にもチューチューできるように赤ちゃんが進化してくれたら公平なのですが、今のところはそうはなっていないので、これは神様に恨み言を言うくらいしかできません。



 意外と知られていないのですが、


 カンガルーと赤ちゃん


にも似たような事実があって、カンガルーはおなかの袋の中で出産されるんじゃないって知ってますか?



 カンガルーは、母体の外側にいったん産み落とされた後、



「自力でおかんの腹を登っていって、なんとかかんとか袋を見つけて勝手にその中に入る」



のです。これなんか、カンガルーの母子が、明らかに別個体であることを意味しますね。




 というわけで、DNAこそ共通なものの、母と子はイメージされるような一体感はなく、



 完全に別人



ですから、DNAが共通なきょうだいでもケンカしたりいがみ合ったり遺産争いをするように、



 母子がわかりあえない



のも、納得! というわけです。



 しかし、解脱者ムコガワは、



 わかりあえないままで良い



とは言ってません。



 別人である男と女が出会って、結婚したり家族を作るのと同じように、別人である子どもと共に



 これまた親子関係を(ある程度努力したりもして)構築してゆくものなのだね



ということを言いたいわけです。



 というわけで、お父さんもおかあさんも、こどもたちもガンバレー!






























2016年10月6日木曜日

自己肯定感を持つにはどうすればいいのか ~幸せな人生送るための方法~



 いわゆる先進国における「民主主義」とか「個人主義」の理論的源泉が、キリスト教にあることは、何度かこのブログでもチラチラ書いていますが、このことは実はとっても重要なので、知らなかった人は覚えておきましょう。



 簡単にこの理屈を説明すると


「あなたは神様から命をもらったので、誰がなんと言おうと最初から神様からの贈りものなので尊い存在なのですよ」


ということです。これに関連して「才能」のことを英語で「ギフト(贈り物)」と言ったり、めっちゃ天才みたいな子を「ギフテッド」と呼ぶのも同じ理屈ですね。



 さて、この理屈で行くと、私たちは神様の被造物であり、神の子なので尊重されるべきであり、また


「生まれながらの権利(人権)やら、政治政策にコミットするだけの理由やら、幸せになるべき義務」


みたいなものが最初から備わっていると考えるのが、民主主義やら個人主義のルーツということになるわけです。



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 で、上の説明を読んでから、




自己肯定感と子どもについての話(けっこう毛だらけ猫愛だらけさんのブログ)
http://nenesan0102.hatenablog.com/entry/2016/09/28/054353




を読んでいくと、いろいろ興味深い観点が浮かび上がってくると思います。

(上記記事はニャートさんの紹介で知りました)



 まず、一番最初に気付くポイントは



■ 自己肯定感がある、あるいは早い段階で肯定感を持つと、その後の人生においてポジティブに生きられたり、あるいは成功感覚を持って生きられる可能性が高い。



ということでしょう。


 それから、記事やらそのネタ元になっているもう一つのポイント



■ 自己肯定感がないということは、親に愛情を注がれずに育った場合が多く、そのためまた自分が子どもを持つ際にも、愛情を持てなくなる可能性がある。



ということも見えてきます。



 本来この2つは全く別の問題なので、一緒くたに考えるとごっちゃになってややこしいのですが、この問題を考えるにあたっては、いくつかのバラバラの事象を寄せ集めながら検討してみようと思います。



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 さて、学校教育の究極の目的、というのは、意外と知られていないのですが、実は「知識を与える」とか「人間関係を学ばせる」とかではなくて、本筋本論は


”成功体験をさせる”


ということにあります。


  勉強すら、この大きな目的の中にある小項目に過ぎない、と言ってもいいくらい、この成功体験というのは大事なことです。



 たとえば、小さなドリルを3問とか5問とか解いて、センセイに花丸をもらうという作業がわかりやすいのですが、これは



「やってみる、わかる、とける、できる」


という成功体験をさせる一つの方法論に当たります。



 逆上がりができるようになる、とか、みんなで組み体操をするとか、夏休みに工作をさせて完成品を提出させる、とか、すべては


「成功体験」


のためにやっていると言っても過言ではありません。


 なぜ、成功体験が重要かといえば、先の話とおんなじで「成功体験の積み重ねが、自己肯定感を後から生じさせる効果的な方法である」ということを教育者は知っているからです。



 しかし、余談ですが、成功体験ばかり与えても「失敗」を知らないと、その子どもは天狗になるか、いつかポキンと折れてしまいますので、実は、成功体験の中は


「難易度の高いもの(成功しなくてもOKなもの)」


を混ぜておくことが効果的だったりします。




 なので、特に勉強ばっかりやってきて、その分野では「成功を重ねてきた人」がいても、人間関係やら、他の分野で壁にぶち当たるとメンタルになってしまうことが起きるのは、失敗体験をうまく重ねていないからでもあるわけです。



 このへんの匙加減が難しいことは、覚えておく必要があるでしょう。




 ちなみになぜ成功体験が教育上重要かというと


「困難に出会っても、成功体験のベースがあるから耐えられたり、乗り越えられたりできる」


からです。


「前もできたから、これもやれそうだ。やれる!」


ということが何よりも力を持つのです。





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 さて、またこの話を踏まえながら組み立ててゆきますが、


■ 家庭環境に問題があることによって、自己肯定感を育みにくい子どもが存在することはあり得るだろう。



ということが最初の話。けれども、



■ 家庭以外の学校などの場で自己肯定感を育むことは可能で、つまり後から自己肯定感をアップさせることは出来うる。



ということも理解できると思います。




 で、ここで気付いてほしいのですが、いっちばん最初の「神様からのギフト」とかキリスト教的な観念との比較において


「神から与えられた(先天的に設定されたもの)としての自己肯定」


という概念がある一方で、実は


「親に刷り込まれたり、学校で学んだりと、後天的に後から自己肯定を生じさせること」


が可能なんだ!という点が、今日の話の一番のミソということになるのです。




 まだ、わかりにくいので噛み砕きますね。




 神さまが自己肯定に繋がる何かを天界から与えてくれた、という説はたしかに心地よいし、なんか凄そうなのですが、実は神様なんかいなかったり、キリスト教を信じていなかったり、進化論主義者だったりしたら



「天から与えられた自己肯定なんか、そもそも存在しない」


ということに気付かざるを得ません。



 だとすれば、自己肯定を生み出す手段は全部



「親がそう言ったからそれを信じた、とか。宗教がそう言ってるからそのつもりになってた、とか。学校の勉強やら部活の試合に勝って身に着けた、とか」

 =

”すべて後から形成された感覚である!”



  ということになるわけです。



 このへんはアドラー心理学にも通じる話で、アドラーは


「トラウマなんか存在せーへんのじゃ!いつまでもグチグチ言い訳しやがって!」
 
(かなり、意図的に改悪した口調)


と言っている通り、 仮に毒親に何かを刷り込まれたとしても




「幸せなる自己肯定感は、後からいくらでも育むことができる」



という救いに繋がると思うのです。





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 さあ、ここからです。


 証明したとおり、「自己肯定感とそこから生まれる幸せ」は後からいくらでも育むことができる!ということは確かに朗報ですが、 その手法が、



『たとえば学校教育のネタで説明されたように、成功体験がその秘訣なのだったら、ボクやワタシはこれから成功を積み重ねるなんてたぶんできないだろう』



と、自己否定感の強いメンタルちゃんは、確実に萎える!ことが予想されます。



 その成功体験に向かって、「頑張る気力」すら湧いてこないかもしれません。



 ★たぶん、このあたりが引きこもりやニートを生じさせる原因に繋がるのでしょうね。




 しかし、安心してください!


 解脱者は何も、「成功体験の積み重ねだけが自己肯定を生む」とは言っていません。



 なんとそのヒントは最初に出しているのです!!



 もう、わかりましたね?



 キリスト教と同じように



「あなたは自己肯定するべき愛される存在である」



ということを、他者が宣言するだけでも、(実際に神様なんていなくても)効果があるということが判明しているのですから、これは



使える!!!



はずではありませんか?



 この実例は多々あります。



 グレていた不良が、熱心な先生に出会って変化したとか、恋人が誠意を込めて接してくれたことで変わったとか、メンターに出会ったとか、みつをみたいな言葉に衝撃を受けたとか。



 「後から自己肯定は育むことができる」



という説明どおりのことが実際に起きているわけです。



 ただ、唯一の難点は、


「自分で自分を自己肯定する作業はとても難しく、他者からの援助があったほうが、はるかに即効性があり、効果も高い」



ということでしょうか。



 だから引きこもりやニートは、自己解決が難しくなってゆくのです。




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 というわけで、武庫川散歩は、この技術を応用して「自己肯定感を育む」プログラムを開発しようと思います。


 で、キリスト教の素地のない日本人にもすんなり入るような



「だからあなたはこのセカイで生きている価値がある」



という実のある言葉をみなさんにお届けしようと思っています。



 内緒ですが、既に一部では実験的にこの取り組みをやっているのですが、今のところ



「目からうろこが落ちた」


とか

 
「人生観が変わった」


と、好評を頂いています!




 ご興味のある方は、ぜひ武庫川までメールをください。




★ 武庫川経由の方は無料でやりますが、別の名義ではちょっと切り口を変えてビジネスとしてやってますので1000円だけ貰ってます(笑)


 1000円で人生観が変わるなら、安いもんでしょ?









































 

 



2016年10月3日月曜日

占いやら、スピリチュアルやら。 解脱者にとって霊的なものとは?!



 悟りや解脱、という一見非科学的な話を扱っているワタクシ武庫川散歩ですが、実はいわゆる



 霊的なもの、とかスピリチュアルなもの



に対して、ほとんどどーでもいいという卑劣な態度を取っている不埒な輩だったりします。



 どうも、あなたの心の恋人、武庫川散歩です。







 以前もこのブログのどこかに書いたかもしれないし、書いていないかもしれませんが、武庫川は解脱者なのに


「心霊現象は、脳がイカれたせいで見える幻影みたいなもんだ」


と常に喝破しています。


 あるいは、ホンマに霊がいるんだったら、交通事故で死んだかわいそうな女の子の霊のとなりには、火山の噴火で死んだピテカントロプス達の霊がウンババしてるはずだとか、ネアンデルタール人と戦国武将の霊が鬨の声を上げながら走り回っているはずだとか、もう数億ぐらいの霊達がひしめきあっていて、

「ちょっとどいてよ!狭いじゃないの」

とか言い争っているはずだ、と言ってます。


 そうそう都合よく、男に騙されて死んだミヨちゃんの霊だけが見えるもんじゃありません。



 同様に、スピリチュアルなものについても、基本的には武庫川は「どうでもいい」感を貫いています。

 超自然とか波動とか、霊の気とか、天使様とか女神とかそういうものに魅かれたり、恐れたりする暇があったら



 となりのゴミ屋敷の捨て猫おばはん


のほうがよっぽど恐ろしい!と思うのですが、いかがでしょうか?



 絶対に女神に敵視されるより、おばはんの目の敵にされるほうが霊障が強いと思うのですが。





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 さて、占いについてですが、ワタクシ別名義で、いろいろな人の過去を調べるという調査をやっているのですが(何者?)、よく占い師さんからも依頼があって、


「うちの●●を調べてください!」


と、お願いされるので、やってます。


 そんな時はほとんど心の中で「占い師やったら、自分で占ったらええやないか」と思っているのですが、 どうも占い師の方は、そういう調査はまったく不得手のようで、いつもきちんと武庫川が調査報告を出してあげると




「専門家の方に聞いてほんとうに良かったです!」



と何かを流しながら喜んでくださいます。


 だいたい、占いやらカウンセラーやら「人の役に立ちたい」と思う人の心の源泉は、ほぼほぼ「いじめられた経験」とか「弱った経験」とか「メンタルが」とか、そういう体験が元になっていることがほとんどなので、


「ワシ、人生小学校からうまく行っているので、この幸せをみんなに分けてあげたいねん!」


とか


「みんなもわたくしのように美しくなってほしいし、お金持ちになってほしいの!」


という理由で援助者の仕事を選ぶ人は



い ・ ま ・ せ ・ ん



のであしからず。



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 さて、そんな解脱者武庫川が、とっても感銘をうけた占い師の方の記事があったので、ご紹介しておきます。


 その方は、酒井日香さんという方なのですが、


 酒井日香の「占い死ね死ね」ブログ
 http://ameblo.jp/sakainichika/



 なんか、ブログの文体が武庫川に似てますが、偶然の一致です(^^;





※そもそも、武庫川のブログ文体も、一時から流行したスタイルなので、オリジナルではございません。

 文字がでっかくなったり、行間をやたらとったりという「ブログ体(仮称)」というスタイルなのです。




 この方、元占い師さんで、占い界の裏事情をいろいろお教えくださっているので、そっちの世界に興味がある方は必見だと思います。






 特に、武庫川のお勧めは、


 占いと霊能力~承認欲求の源泉~
http://ncode.syosetu.com/n7247de/



という公開されている文章です。



★例のごとく、すばらしい文章なので酒井さんには勝手に、なんの断りもなく紹介してます。





 日本における占星術分野の歴史的な流れ、のようなものを概観できることと、「占いの本質」については、


 業界の内部暴露


に近い形で書いてくださっているので、多いに参考になるでしょう。



 武庫川もよくやってますが、既存の宗教をベースにした周辺分野の解説もついているので、理解が深まると思います。



 ただ、全体のテイストとしては、客観的な事象を中心にするというよりは、酒井さんの個人的な体験がベースになっている部分が多いので、ちょっと差っぴいて読んだほうがいいかもしれません。





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 占い師や霊能者がやっている「リーディング(読み取る作業)」については、最近ではメンタリストの

うぃっしゅ!DaiGo


さんが、仕組みを解説したり、科学的側面からの啓蒙活動をやってますが、その前には



「にゅるっとぬるっとお見通しだ!」(←なんか違う)


で有名なTVドラマシリーズ「TRICK」がネタばらしを取り入れたりしてましたね。




 私も一時期そういう(どういう?)仕事をしていたので、他人の表情からその時の心の動きを読み取ったり、ある程度、自分の思い通りの方向へ誘導したりすることはできます。




 占いはやったことありませんが、カウンセリング的なことは、仕事でもやっとりましたので、専門的な教育は最低限のことだけ受けてたりするわけで。




  そんなワタクシ武庫川散歩が、いつも愛する女性たちにかける最終的なことばがあるのですが、それは酒井さんが上の文章のあとがきで書いておられることと、究極的には合致してくるのだろうな、と思います。



 私と出会ったことがあるすべての女性は、武庫川がよくこんなことを言うのを思い出すことでしょう。



「で、あなたは、本当はどうしたいの?」



と。すべてはそこからはじまるのです。


















2016年10月1日土曜日

人生は3万日しかない。 ~3万円があっという間になくなるように、人生は短い~



 今日、解脱者は誕生日であった。


 そりゃもう偉大な解脱者が誕生したのだから、クリスマスくらいには祝ってくれてもいいのだが、東方三賢者もやってこないし、星も降ってはこないようだ。




 かのブッダが生まれた時には三歩歩いて、



「天上TENGA唯我独尊」
 (R18です)



と言ったらしいが、ワシは幼子の時からよーしゃべっていたので、


「あんたは口から先に生まれたような子やな」


と客人に言われた瞬間、


「ちがうで、おかんのピー(R18)から生まれてきたんやで」


と言ったという伝説を持っている。





 ・・・どうや!!!






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 はい、どーも。のっけから懐かしい18禁モードではじまりました、武庫川散歩の悟っちゃお!ですが、ココから口調変わります。パーソナリティの武庫川散歩でーす!


 というわけでいよいよ40代も半ばにさしかかろうとしている武庫川ですが、今日は人生の折り返し地点であることを踏まえて



「人生は3万日しかない」


というお話をしたいと思います。 



 孫正義さんが、「禿げてるんじゃない、私が髪よりも一歩先へ行ってるんだ」と言ったとか言わないとか、えらい人には


 深ーい名言



がつきものですが、DropBoxのCEOであるドリュー・ヒューストンさんが気付いたのは、


「人生が3万日しかない」


ということ! 365日×80歳=29200日、85歳=31025日ですから、まあ、3万日というのはいい線です。




人生が3万日しかないことに気付き、完璧主義を捨てた男
http://getnews.jp/archives/685156



 ヒューストン氏は、3万日しかないのだから、完璧主義をやめて冒険しよう!と言ってますが、




 だから●●しよう




の部分は、自分なりにビビビと来るものがあれば、それでいいと思います。


武庫川は、そういう意味ではもう


 15000日、半分切ったやんけ!


という状況ですから、人生の後半戦をどう生きるか、思うところがいろいろあります。



 あるいは私の実父なんかは、60歳代で死んでしまいましたので、その換算だと



残り20年、どう生きるか


ということでもあります。


 やりたいことはたくさんあります。





 武庫川は解脱者ですが、ふだんは俗世にまみれた仮の姿で生活していますから、



 俗世にまみれた、ビジネスマンとしてもやりたいことはまだあるし


 俗世にまみれた、ミュージシャンとしてもまだまだやらねばならんことがあるし


 俗世にまみれた、物書きとしても書きたいことは山ほどあるし、


 俗世にまみれた、研究家として究明したいことだってあります。



 それらすべてを毎日、ポケモンGOをする間も惜しんで頑張っているというわけです。




 アップルのスティーブ・ジョブズは、


「明日死ぬとしたら今日どう生きるか」


をモットーにしていましたが、その気持ちがよくよくわかります。


 武庫川散歩としても、書きたいことを書き残して死ぬなんて残念ですから、今もこうやって書きまくっているし、昨日は音楽関係の原稿を書いてズビズバ依頼元に送ったし、本当は、



  一刻も早く、まだ見ぬ君に出会って抱きしめたい



のです。ああ、早く!早く抱きしめたい!



 3万円があっという間になくなるように、3万日もあっという間に過ぎてゆくことでしょう。


 そしてできることなら、3万日以内にこのセカイのすべてを解明して、このブログに書いてしまいたい!とも思います。


 孔子の言葉にあるように



 四十にして惑わず



とありたいものです。


 精進精進、村上ショージ。