2015年2月18日水曜日

<16>究極の宗教とは ~何を信じれば救われるのか~

 このブログでは、時におおいに冗談を交えながら、


信仰するとはどういうことか

悟りを得るとはどういうことか

どのように宗教と向き合えばよいのか


などについて考察を深めてきました。


 世界にはさまざまな宗教があり、いろんな信仰や生き方があって、それらを信じる人たちはそれでいいと思いますが、ただ、苦しみの中にあって、


できれば真実の宗教に出会いたい

究極の信仰によって救われたい


と思う人には、これまで登場したすべての宗教にはいろいろと課題もあることだと思います。


 そこで、今回は、「究極の宗教」とはどのようなものかを考えてみることにしましょう。


 もしかすれば、これまで何をしても満たされなかったあなたへの真の答えになるかもしれませんから。


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 究極の宗教について考える際に、分岐点やポイントとなることがいくつかあります。


 それらは細かく言い出せばきりがないのですが、あなたが真実に到達する上では避けては通れない関門でもあります。



<究極の宗教をめぐる関門①>
 創造主という存在を定義するかどうか

  これは、簡単にいえば、この世界を作った神様のようなものを設定するかどうかです。誰かがこの世界を作ったのだとすれば、誰かが絶対的な力を持っています。あるいはその誰かに従うことが、人間界の善悪は別にしても神目線での正義ということになるでしょう。

 そういう意味では、この世界がどうやってできたかを考えるのは大事なことです。




<究極の宗教をめぐる関門②>
 死後の世界を定義するかどうか


 死んだらどうなるのでしょう。 死後の世界にもあなたが何らかの形で存在するというのか、それとも死んだらアジャパー、ちゃんちゃん!だと考えるのかによって大きく話は異なります。

 死後の世界があるのならば、私たちはその世界で幸福に生きるために現世を生きていることになります。

 死後の世界がないのならば、この世界を最大限幸福に生きたほうがいいことになるでしょう。



 <究極の宗教をめぐる関門③>
 体の働き・心の働きを認めるかどうか


  人には感情があります。ものを考えたり、何か行動を起こすことができます。そうした心や体の働きをどのように認めるかで、宗教の姿が大きく変化してきます。

 人の心と体の働きを制限する方向に進めば、人が行うことは基本悪だと考えられます。

 心と体の働きが実際に存在するのだから、それらはすべてOKだとすれば、殺人だって許されます。

  あるいは、心と体の働きを「いいこと」「だめなこと」に分類してゆく方向もあります。それらは、ほとんどすべての宗教で「善と悪」に分類されて提示されていますね。


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 こうして分類した際、たとえば「仏教という宗教の核心部分」は


 創造主とかよくわからんから考えてない。死後の世界はあるから、基本的に現世はあっち側にいったときに幸福が最大になるようにしよう。心も体も捨てちゃえYO!


という宗教だとわかります。


  「キリスト教の核心部分」は

 創造主がいるんだからそれに従おうよ。従ったら来世は幸せだよ。人間は基本罪なので、間違った方向へいくから、神がOKと言ったことを守ろうよ


という宗教ですね。

 そういう意味では、実はキリスト教もユダヤ教も、イスラム教も基本路線は同じです。


 「神道の核心部分」は

 創造主はいる。来世とか、ないし死んだら黄泉の国。していいこととか悪いこととか、あんまりとやかく言わないけど、神がバックについてたらうまくいくはず。うまくいかなかったら神が望んでなかったからかな。



 みたいな感じです。


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 ざあ、こうしたヒントをバックグラウンドに持ちながら、どのような宗教を考えればいいのでしょう。



<究極の宗教案その1>

 創造主はいる。死後の世界はある。そして、創造主が好きなように人間を作ったんだから、時に人殺しをしてしまう人間っておちゃめだけど全然Ok!なんでもあり。

という宗教はいかがでしょう。これまでにないパターンです。

 つまり、何をしてもOK、あなたは神の子なので好きにすれば死後の世界で好き勝手できる!現世でも来世で好き勝手OK。という究極な信仰です。


・・・・しかし、もしそんな神がいるのだとすれば、きっとそんな世界を作った神も


人間以上に好き勝手するヤツに違いない


ので、きっとあなたがた人類は、もう好きなように振り回されてしまうことでしょう。現世も来世も。




 <究極の宗教案その2>

 創造主なんかいない。この世界はあるんだかどうだかわかんない。死後の世界なんてあるわけないじゃん。心の働きも体の働きも単なる化学反応に過ぎないじゃん。


 これは全部なかったことにするほうです。まるで仕事なんてどうでもいいと嘯くニートみたいですが、全部否定するとこうなります。

 しかし、これだとこの世界を全否定してしまいますから、苦しみもない代わりに喜びもないことになります。

 何にもないので、既に死んでるのとあんまり変わりません。

 

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 私が支持しているのはこの<その2>で


何にもないようなことが幸せだったと思う~♪


な世界観です。 もう、だって何にもないんだもん。


 このように、一見むちゃくちゃですが、仏教でいう「すべてを捨て去った境地=解脱」には似ています。

 そう!すでに一切の苦しみから解放されているのですから。


すべての苦しみは、化学反応に過ぎない、と喝破しているわけです。


 ・・・じゃあ、喜びがないじゃん。救われないじゃん。と思っている人。そうですね。確かにその通り。

 しかし、完全に解脱してしまえば、喜びがないことなんか既に問題ではないので、結果的にそんなもんなくても最大限に幸福なのです。

  これはおそらくブッダが到達した境地とおなじです。


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 じゃあ、ブッダのはじめた仏教と究極の宗教案その2がどう違うかについてだけ最後に説明しておきましょう。


■仏教はヒンズー教の影響を受けているが、究極の宗教はヒンズー教を無視する。

 ブッダは解脱の際に、梵天というヒンズー教の神によってサポートされています。ということは、ブッダの宗教は「ヒンズー教の影響下」にあるということです。

 輪廻転生も基本ヒンズー教の概念なので、ブッダはヒンズー教を半分乗り越えたものの、半分は乗り越えられませんでした。

 それは、現代のように科学技術が発展せず、世界をきちんと見ることができなかったブッダの残念なところ、限界でありましょう。


■仏教は創造主をあえて見ないことにしたが、究極の宗教案その2は、そこから逃げない。

 ブッダは、世界の成り立ちをヒンズーの神々で説明しようとしています。そのため「この世界の世界観」をヒンズー教に任せることで、自分ではなぜこの世界があるのかについては言及しませんでした。

 究極の宗教案2では、この世界の成り立ちを科学法則の面から直視します。その結果、創造主がいようがいまいが、どちらにしてもそいつは「意識をもった神ではない」ということを証明しているのです。

 相手は意識を持った神ではないので、信仰する必要はありません。創造主は敬ったり祈ったりする必要は全く無く、逆に向こうもわれわれに何かしてくれることは一切ないのです。

 だから、仮に創造主がいても全く存在しないのと同じです。


 
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 とまあ、「究極の宗教案その2」とまろやかに書いていますが、これはすなわち武庫川散歩の悟りのことです。

 信じたかったら信じたらいいし、そうじゃなかったらどうでもいいです。笑ってやってください。

 だって世界はもともとどうでもいいんだもん(笑)


  もし、万一、武庫川散歩の到達した「サイバーパンク解脱」っていうか、名前もどうだっていい代物に興味があり、それによって自分も救われるかもしれない、という変な気持ちになった人は、ぜひこのブログを最初から最後まで読んでみてください。


 真実は常にひとつ!じっちゃんの名にかけて!


と金田一少年も言っているくらいです。きっとあなたの心に究極の平安が訪れるでしょう。














2015年2月12日木曜日

『うつ病を解決する魔法の理論』 ~そしてボクは全ての悩みから開放された~

 ふだん、私のブログをずっと読んでくださっている読者の方にとっては「また、はじまった(笑)」とついつい苦笑なさっている顔が浮かぶようですが、そうです。その通りです。


 当ブログではよくある”「うつ病」とボク”ネタシリーズです。


 21世紀の最弱解脱者と自称している武庫川散歩が、その昔”うつ病”を罹患しそこから無事に生還したお話はこのブログのいろんなところに散りばめられているのですが、その内容があまりに


 ひどい


ので、みなさん読後にポッカーンと口を半開きにして黙って去ってゆかれるのがいつものことです。


 なので、今回はあまり冗談を言わず、全体的に真面目なテイストでお送りしたいと思います。


 心に迷いがある人、苦しみを抱えた人はあっさりとおつきあいください。


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 このブログの「アドラー心理学の回」でもちょっと話をしようとしていたのですが、のびのびになっていたことがあります。


 http://satori-awake.blogspot.jp/2014/10/blog-post_26.html



 それは、「正義のゆらぎ」という言葉についてです。



 多くの人が「うつ病」になったり、「心の病」を抱えたり、あるいは「ひきこもり」になったり、と心と体に問題を抱えるようになる原因の多くに、私はこの



正義のゆらぎ」状態を経験すること



という大変特徴的な体験があると考えています。


 正義のゆらぎ、という言葉は、まだ一般的ではないし、誰もほとんど使っている用語ではないのですが、私武庫川散歩はこの概念をとても重要視しています。


 さて、では「正義のゆらぎ」とはどういう状態を示すのでしょうか。



 まず、重要なのは、ここでいう「正義」という言葉は、世間一般で言うところの


「道徳的に正しいこと」や「一般的に悪ではないこと」

という意味ではない、ということを覚えておいてください。



 ちょっと難しいですが、世間的な「正しいこと」というニュアンスよりも、



自分やあなたにとって正しい状態・理想的な状態・どちらかといえばそっちが望ましい状態



のことを「正義」だと捉えることがふさわしいように思います。



 
 たとえば、ある人にとっては、「大学に合格している自分が正しい状態・望ましい状態」だとしましょう。それはその人にとって「正義」に近い感覚だと思います。


 また、ある人にとっては、「クレーマーな顧客が、限度を越えた文句を言わなくなること」が正義の感覚かもしれません。


 また、ある人にとっては、「上司が問題に対して解決できないまでも、相談に乗ってくれること」が理想的な状態かもしれません。



 頭の硬い人や理想主義者に近い人だと、そうした「よい状態」を「こうあるべきだ」とよりガチガチに正義だと捉えるかもしれませんし、そこまで頑固でない人だと「そっちのほうがいいよね」くらいでおさまるかもしれません。


 しかし、大きなベクトルとして「このほうが、よさそうだ」「このほうが正しそうだ」というイメージが誰にでもあって、それに沿っている状態を「正義」だと捉えるのは当たり前のことのように見えるでしょう。



 いずれにしても、すべての人にはそうした「正義・正しいこと・そうあるべきだし、そうあってほしい状態」というのが存在します。それをここでは”正義”と呼んでいるわけです。



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 しかし、現実には私たちはそうした理想的な世界とはうらはらに、「そうではない状況」に置かれたり、置かれ続けることに直面します。



 これが、正義のゆらぎ状態です。



 先ほどの例で言えば、「大学に合格できない状態」とか「顧客が責め続ける」とか「上司が全く丸投げでサポートしない」ような状況です。


 この状況が、その人の限度を越えるまで継続し、まったく改善されない場合に、「心と体の問題」は頭をもたげてくるようになるわけです。


 こうしたことは、たとえば単純な身体についても当てはまります。適切な休養を取らねばならないのに、激務が続いて休みがとれていない状態も「身体的な正義」からは外れた状態です。


 こうした「自分の望む姿と現実の差・違い」というのは、心理学的には「認知的不協和」と言ったりもするのですが、認知的不協和とのちょっとした違いがあります。


 それは、「認知的不協和」の場合は、人は「思っていたことと実際が違うと不快」なので、実際のほうを否定してなんとか心の中を丸く収めようとするのですが、「正義ゆらぎ」の場合は、


 実際のほう(現実のほう)を否定することが難しい


のでパンクを起こしてしまうわけです。ここで、心と体に逃げ道がない状態に陥ります。


 心理学の用語としては「認知的不協和」のほかにも「ダブルバインド」といった状況や現象もあるのですが、これらは専門のサイトを参照してください。ここではあまり詳しく述べません。



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 「認知的不協和」や「ダブルバインド」と異なり、「正義のゆらぎ」がややこしいのは、ただ単純に二つの相反する状況がぶつかりあっているだけではなく、


「一方が正義というベールをまとっている」


点にあります。ここが話をややこしくします。


 認知的不協和の場合は 


Aという状況とBという相反する状況があって、その人はAだと思っていたのに現実がBだったりすると、「そういう場合もあるかもしれないけど、それは特殊だ」とか事実をゆがめようとする


わけで、また、ダブルバインドの場合は


Aという状況とBという相反する状況があって、それを同時に提示されると人は困惑して心に問題を抱える可能性がある


というものでした。


 これらは単純な相反するAとBのせめぎあいでしたが、「正義のゆらぎ」の場合は



「絶対Aのほうが正しいであろうと想定できるのに、事実はBである」


という正義の価値判断が盛り込まれているところです。ここに問題の中枢があります。



 人は文化的生活を送る中で、周囲や自分で築いてきた「正義の価値判断」があります。
 
 そこが「大きくぐらぐらと揺れつづけ、真逆の方向に倒れこもうとするのを見ると、人は機能停止に陥る」わけです。




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 さて、ここからは解決編に入りましょう。


 うつ病などに代表される心と体の病に罹患してしまったとき、心理学的には


「認知療法」


というものが試されたりします。


 認知療法では、上の例でいえば、たとえば


「Aという状態」「Bという状態」のどちらも客観的に見つめ、捉えなおすことで自分自身を変革する


とか、


そもそも状況を捉えている考え方に誤解や拡大解釈・思い込みなどがないか振り返ってみる



とか、そういう方法で解決しようとします。具体例で話をすれば、


 クレーマーや上司が、背景にどんな問題を抱えていてそうした言動を取るのかを想像し、彼らを単に批難しない。(もしかしたら、苦しみや彼ら自身の問題が隠れているのかも、など)


などの方法が認知療法の対応に似ていると言えるでしょう。



 しかし、こうした認知(考え方)の転換で捉え方をスッキリさせることができる人は健康なわけで、中にはどうしても


「それでも、こうした方向のほうが正義のはずだ、正しいはずだ」


と認知を変えることができない人がたくさんいるわけで、それが問題を拡大させていることは否めません。



 ですから、ここで、解脱者として一言ズバリともの申させていただけるとすれば、


 そもそも、正義は存在しない!


とキッパリ明言しておきたいわけです。

 
 認知を変えるとすれば、根底からひっくり返しておくのです。



 正義もクソもないんだ!クソ野郎!!!!


とガツンとあなたの胸倉を掴んで叫んで差し上げたい。


 これが、ブッダがたどりついた境地です。「これがよい状態であろう」と想像すること、「これが正義であろう」と想像することは、実は108つの煩悩のようなもので、それを捨てれば、そもそも


「正義は、ゆらがない」


のです。


 大学に入れない? そうだ!俺はアホなんだ!悪いかクソ野郎!



 クレーマーもクソだ!俺もクソだ!クソ同士好きなようにやっちまえばいいんだ!



 上司はクソだ!俺もクソだ!みんなクソ野郎だ!今日も明日も快便だ!



 ぐらいに、ケツの穴をしめていけば、何も恐れるものはないのです。クソがいやなら


「どうせこの世は無常なんだ!俺もお前も知ったこっちゃねえ!」


と腹をくくることです。


 本当にこの境地に到達すれば、何も怖くはないし、すべて解決します。



 なんなら客にガツンと言い放って、首にするならすればいいさと覚悟してみてください。


 上司に「なんでアンタは手助けひとつもできねえんだ!」と言い放ち、全力であなたが立ち向かってみてください。


 覚悟があれば、来年大学にチャレンジしてみてください。



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 うつ病の人に、「頑張れ」というのは禁句だとよく言います。私はあなたに頑張れとはいいません。



 頑張らなくていいように、一瞬の覚悟を決めろ!



とだけ言いたい。すべては一瞬でケリがつきます。あなたが覚悟を決めさえすれば。あなたの悩みは、すべて一瞬で吹き飛ぶのです。