2019年8月10日土曜日

解脱者・ムコガワ散歩はデカルトの生まれ変わりか?



 輪廻転生とか、生まれ変わりとか、前前前世とか、そういうものは別にどうだっていいと思っている稀代の解脱者、ムコガワ散歩です。


 こにゃにゃちは。


 そろそろお盆休みですね。あの世から祖霊が戻ってくると言われている盂蘭盆会でございますが、そういうのも別にどうだっていいと思っている解脱者でもあります。


 大文字焼き、見に行きたいなあ。



 ・・・さてさて。前回はAPUの学長でもある出口治明さんの新著の話をしました。すると、ツイッターで出口さんにフォローされてしまい、かなり恐悦至極に存じているところでありますが、どんどんいつもの調子で参ります。



 その出口治明さんのインタビューの続きが、ダイヤモンドオンラインさんに掲載されているのですが、これまた面白かったのでメモしておきます。


哲学と宗教を学ぶのに絶対外せない3冊
https://diamond.jp/articles/-/210384



 人生において、絶対外せないものを3つあげろ!と言われれば


俺とお前と大五郎


とつい答えてしまうムコガワですが、北海道民はここで爆笑するところです。(焼酎のCM)


 出口さんは、「デカルト」と「クルアーン」と「悲しき熱帯」 を上げておられますが、まちがっても


 淋しい熱帯魚


ではありません。それはWinkです。 ジョークにしないで~。




 もとい。さてデカルトさんですが、かなり面白い。その考え方を読んでいると、もはやほぼ武庫川散歩なのではないか、あるいはわたしはデカルトの生まれ変わりなのではないか?と思えるほどです(笑)



 残念ながら、武庫川は大学は文学部日本文学専攻に進んだので、哲学科ではありませんでした。そのため哲学の歴史についてはあっさりとしか知らないので、もっと勉強すべきです。

 精進いたします。


 デカルトさんの何が面白いか、というと、出口さんも紹介しておられますが、


”人間の精神や意識と、物体としての人間の肉体は別のものであるとデカルトは述べています。精神や意識は、努力したり勉強したりすれば完成度を高くすることが可能だけれど、肉体は不変である。人間はこのように精神と身体の2つに分かれている。これがデカルトの説く「心身二元論」です。”


というところ。もっと詳しく言えば、デカルトは、人間の肉体は「機械」だと捉えました。


 機械の肉体に、精神が乗っかっているような感じですね。



この話、ちょうどこの前ブログに書きました。


新しい哲学のスタート 人間の世界は2つの層でできている
https://satori-awake.blogspot.com/2019/08/blog-post.html



 新しい!とか言っちゃってるわりには、すでにデカルトさんに言われてしまっているので、今更何をいうとんねんですが。


ウィキペディアを読めば、デカルトさんの思考はおおむねよくわかります。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88



■ 人間も動物も機械みたいなもの

■ その上に人間は精神が別に乗っかっている

■ 宇宙から地上まで、すべての法則はぐるぐるしている(渦動説)

■ デカルトの神は科学の一部であって、信仰する対象ではない



 ぐるぐるの話は、前回も書きましたが、言っていることはまさに同じ。


 神様というのは科学の一部で、意思を持たないので信仰するような対象ではないという視点も同じです。



 なあんだ、武庫川散歩の言っていることはデカルトとおんなじじゃないか!



 というわけで、ある人は「武庫川散歩なんて、デカルトの焼き直しだ」と言うかもしれませんが、逆に言えば、


「デカルトを知らずに、デカルトと同じことを考える武庫川は、なんてすごいんだ!ほぼ現代のデカルトだ!」


という人もいるでしょう。わはははは。


 いやいや、解脱者はそんなことはどうでもいいので、デカルトさんがもし生きていたら、LINEで話したいと思うくらいで、このセカイの事実は誰が読み取っても同じなので、たいしたことではありません。



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 さて、お盆といえば盆踊り!


 突然話が変わりますが、兵庫県には全国に名の知られた盆踊りとそのミュージックがあって、それを人呼んで


「デカンショ節」


といいます。そーれそ~れデッカンショ!



 このデカンショ節、ルーツがかなり不明でいろんな説がありますが、その中の一説に


「デカンショとはデカルト・カント・ショーペンハウエルの略だ」


というまさにデカルトなお話があるわけで。なぜ、デカンショ節が全国で知られるようになったかというと、旧制中学などの学生歌として東京の学生との交流の中で広まっていったからなのです。




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 さて、そんな余談も挟みながら、デカルトさんと武庫川さんの決定的な違いをここで解説いたしましょう。


 結論から言えば、デカルトさんはわたしの前前前世ではないということですね。


 デカルトは、肉体を機械としながらも精神を切り離して別のもの、別の次元のものと捉えました。

 
 もちろん、完全に切り離れたものではなく、相互に関係があると考えてはいたのですが、基本的には別のものと捉えています。



 しかし、武庫川は、どちらかといえば完全機械論者なので、「心身の機能や精神は、ぶっちゃけ化学反応によって生み出された物理現象の範疇を超えていない」と考えます。

 つまり、精神などというものは、単なる物理現象の複雑な発現でしかないというわけです。



  武庫川はそもそも、精神や意識というものが、物理や科学の「上位」の概念だとは思っていません。

 人間はアホなので、動物よりも精神や意識をもつ人間のほうが「上」でより進化しているみたいに考えますが、「上」も「下」もないのが本当です。


 たとえば、精神の表現である「正義」なんてのは、「どちらが正義で誤りでないか」なんてことは、かなり状況によってブレが生じますが、科学や物理はブレたり結果が変わったりはしません。


 つまり、精神や意識は、人間が勝手に「上位の、野獣の本能よりすごいものだ」と考えているだけで、もしかすると野獣の本能のほうがブレがなく、「いつでも正しい」かもしれないわけです。


 となると「命を大切にする」という考えよりも、「いつでも自己中心的」のほうが、理にかなっていることだってあるかもしれないわけで。←極論の一例ですよ。


 となると、少なくとも野獣の生き方がいつでも科学的にひとつの解を結ぶかどうかは別にしても、科学や物理は誤りが起きない、というのであれば、


誤りが起きないほうが神に近い(つまり、そっちのほうが上位なんじゃない?)


ということだって言えるわけですね。


 だから、上下の概念など無意味だというのです。




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 まあ。このあたりは心身問題として哲学では有名な問いだそうなので、みなさんもいろいろ考えてみてはいかがでしょうか。



 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E8%BA%AB%E5%95%8F%E9%A1%8C




 (補足) 心身問題は主に「脳」があって「意識」があるというふたつの状態について考えるわけですが、武庫川の場合は、脳は物理法則と化学反応そのものなので、別に「脳」がなくても意識は作り出せるんじゃない?と考えています。


 コンピュータのプログラムは、「打ち込まずとも、紙の上でも存在するのであれば、想像するだけでプログラムは存在するか」という問いを武庫川はいつもやってますが、だとすれば物質さえも意識には不用、ということもありえます。


 





2019年8月6日火曜日

拝啓 出口治明さま  人類は何のために生きているのか



 ライフネット生命の出口さんという方とは、ごくごく薄いながらもご縁があって、ひとつは彼は現在APUという大学の学長をしているのだけれども、わたくしムコガワも、その系列の大学の卒業生である。

 うっすいなあ!



 さて、ふたつめは、わたくしムコガワが世を忍ぶ仮の姿で某NHKの番組に出た時に、ゲストコメンテーターをしていたのが出口さんだったように思う。記憶も薄いけれど。


 残念ながらワタクシ武庫川のほうは、VTR出演で、出口さんのほうは、スタジオ収録だったので、直接お会いしたことは全然ないので、これまたうっすい縁なのだが、それでもご縁があると思えば、そこにはご縁があるというのものだ。


 いやいや、うっすいけど、ごめんなさいね。
 

 その出口さんが、とても興味深い本を出版なさったという。それは宗教と哲学に関するもので、出口さんと言えば60歳を過ぎてからライフネット生命を立ち上げたというビジネス畑の方なのだが、とても博識で、いろいろなことに精通なさっているという学者肌の方にもお見受けする。


 さて、出口さんがこの本についてインタビューに答えておられるのが、大変おもしろい。

 まさに、ふだんから不肖ムコガワ散歩が、このブログで宗教と哲学と科学について、うんち(く)を垂れていることとたいへん関わりがある話なので、ぜひ紹介しておきたい。





自然科学は哲学や宗教を無用化するのか(ダイヤモンドオンライン)
https://diamond.jp/articles/-/210371




 人類の究極の問いとは、結論から言えばひとつか二つしかなく、それは出口さんもおっしゃっているように


『世界はどうしてできたのか、また世界は何でできているのか?』

『人間はどこからきて、どこへ行くのか、何のために生きているのか?』


という単純で簡潔なものである。 


 古今東西の科学者や哲学者、あるいは宗教家というのは、これに対する答えを自分なりに出したり、あるいはそれを周囲に納得してもらえるように証拠を集めたりしてきたということになるだろう。



 21世紀ともなると、科学の集合知により、これらの答えはある程度明確になってきている。 


■  世界は物質とエネルギーがビッグバンによって出来た。そして宇宙は広がっている。

■  宇宙を構成する物質とわたしたちの住む世界や地球を構成しているものは同じ。

■   太陽が膨張してなくなれば、結局人類も地球の生命も滅ぶ

■  なので、人が生きている理由は、地球が滅ぶまでの間、いのちを繋いで子孫を残すこと



 まあ、ほれ、うーんと。

 細かな表現の差異はあるかもしれないが、結局のところだいたいこんなもんだ、というのが問いへの答えである。




 解脱者としての立場から言うことが許されるのであれば、


「どうせみんな最後は滅びるのだから、セカイにも人生にもあまり意味はない」


という方便も可能なのだが、 実際には我々人類は


「喜怒哀楽を感じながら、今ナウこの時点においては生きているのだから、それを十二分に感じて、ビビビと生きてゆくしかない」


という言い方も逆説的には言えるだろう。


 これはまた言い方を変えれば、個人においても


「人生80~100でどうせ死ぬんだから」


という大前提の上で


「だから、人生はどっちでもいいわ」となるのか

「だから、生きている期間を充実させて楽しもうぜ!」となるのか


の2択の考え方ができるというわけである。


 ブッダが前者のように無常と解脱を定義したのだとすれば、私は後者のように定義するだけなので、まあ、それも含めてどっちでも好きなほうでいいとは思う。



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 しかし、どうせセカイは滅ぶし、人は死ぬのに、なぜその期間を充実させたいと思うのかといえば、これは出口さんも言っているが


「よりよく生きたい」と「死ぬ恐怖から逃れるため」


の2つが明解な答えなのだと思う。 つまり、生きてしまっている限りは、その中で最善を尽くしたい、ということでもあり、その中で恐ろしい死に方はしたくない、という不安でもあるということなのだろう。



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 出口さん流に解釈すると


1)  自然科学は、このセカイのなりたちについて、解明してしまった。それはある種の無常なものである。

2) しかし、セカイが無常であるがゆえに、私達は人類社会も、個人の生活ももうすこし「有意義」なものにしたいと考えている。だから、そのためにどうしたらいいかを考えるのが哲学と宗教である。

3) 哲学と宗教はかなり近しい分野・領域だが、あえてわけるとすれば、哲学は「起きている現象をどのように解釈すればよりよく生きる正解に近づくか」という方向性で、宗教は「ある一定の理想形(神)やシステム(教義)を提示して、それに準拠してゆけばよりよく生きる正解に近づくか」という方向性とでもいえようか。


という感じになるのかもしれない。



~~~~~~~~



 まあ、このへんのことは、おおむねこのブログの一連の記事でもずっと書いてきたことなので、結局誰が考えても、「答えは同じ」なのだろう。少なくとも21世紀ともなれば、このセカイのなりたちについては、ほぼ解明されちゃったに等しいので、もはや、



 そのことについてじたばたしてもはじまらない



のである。



 しかしまあ、せっかくなので、人生の大先輩である出口さんに敬意を抱きながら、この不肖の若者がおなじ結論の上でどんなことを考えているかをちょびっとだけでも書かせていただくチャンスがあるとすれば、それはとてもうれしい時間になるだろう。




<この世界について>


  我々の世界は、星のかけら(物質とエネルギー)で出来いて、ビッグバン以来膨張している。そこまでは全然OK。

 さて、その物質とエネルギーは、我々の側から見ているからモノがあるように感じているのであって、実は外側からみれば記号のような「物質を伴わない論理的に組み合わさることのできる何か」がなんらかの法則性によってユニットごとに合体しながら複雑なものを組み上げているのではないか?

 たとえば、コンピュータゲームの中の世界が、複雑なプログラムで出来ていると思いがちだが、実際には0と1の組み合わせのみで動かせるような、そんな記号的なものが、物質の本当の姿なのではないか?


 そうなると、論理的なプログラムが実際にはハードウエアがなくても存在できるように、我々が物質に依拠していると思っているこの世界も、物質なんて実はなくても成立するのではないか?


という考え方がムコガワ流この世界なのだが、残念なことに「セカイの外側」の話をすると科学では解明できないので、これは哲学のジャンルにならざるを得ないわけである。

 さらに、「じゃあ、そのプログラムはどうやってできたんだ。このセカイの外側を作った、あるいは出来た理由はなんなんだ」となると、これはいわゆる「神」の領域だから宗教のジャンルにもならざるを得ないわけである。


 ああ、こまったなあ。というのが不肖な若者の気持ちである。科学で解き明かしたいなあ。







<人類が生きていることについて>


  どうせみんな滅びるのに、なぜ子孫を残さなくてはならないのか。


 これってすごい問いである。どうせ最後は滅びるんだから、みんな単体で死んでしまえばいいのではないか?と普通なら誰も思う。

 ムダだし、コスパが悪い(苦笑)


 滅びるとわかっていて、あがき続けるのが生命や人類なのだとすれば、そりゃもう仏教的な「業(ごう)」の世界みたいになってしまう。


 賽の河原で、ひとつ積んでは父のため、ふたつ積んでは母のため、と石ころを積み上げてゆくのを、鬼がやってきて全部壊しちゃうみたいな、そういう業(ごう)のような苦しみである。


 
 ところが、たぶんそういうことではなくて、我々が思っている世界における自分たちの流れの軸みたいなものが、根底から見誤っているのではないか?と解脱者は考える。


 つまり、過去があって現在があって、未来があって、という時間経緯の中に我々を置くと、「過去から遺伝子を受け継いで、それを未来に渡して、命を繋いでゆくのだ」みたいな考え方になってしまうので、当然「最後はどうなるのか→滅び」を想定せざるを得ないのだが、たぶんそこが間違っているのだ。



 そうではなくて、時間軸は過去から未来への矢印ではなく、どちらかというとランダムにバラバラの方向を向いているか、ぐるぐる回っているというほうが正しいかもしれない。



 たとえば、コップの中に水が入っているとして、その水は実は


「水分子として、うようよしている」

「Hが遊離して0と合体しようとしている」

「また別のOがHを探してくっつこうとしている」


のような、いろいろな様態があり、かつブラウン運動で水分子はぐるぐる動き回っているのである。


 こういう時間軸が、コップの中の水の「現在」であって、その動きを見ている限りにおいては、それらの分子の「過去・現在・未来」はたぶんどうでもいいことである。


 なんせ、過去から一直線ではなく、ぐるぐるしているということだ。




 人類や生命もこれと同じで、卑弥呼がいて、源頼朝がいて、織田信長がいて、という歴史の流れは、我々がそう捉えているだけで、実は


「卑弥呼を構成していた原子は、きみの体の一部になっている」

とか

「頼朝を構成していた元素は、関東人の100万人の体に分散して今日も存在している」

 とか

「信長の原子は、京都の草花たちに吸い上げられていて、明日あたり京野菜として出荷される。これで8000回目」


とか、そういうことなのだ。これが「ぐるぐる」回る時間軸である。




 だから、原子や元素レベルでみれば、地球の総質量は基本的にずっと変わらないのだから、ぐるぐる回っているだけで、過去も未来もなく、コップの中の水のように



「地球の中でブラウン運動をしているだけ」



である。 仮に、水分子がブラウン運動をしなくなるということは、それはコップの中の水が崩壊してゆくということだろう。つまり、水という存在が死滅してゆく方向性である。分子は崩壊し、原子から元素へ戻ろうとするだろう。



 それと同じで、生命や人類が遺伝子を受け継ぐことを辞めてしまえば、「生命」というジャンルが崩壊し、細胞をやめてしまい、分子をやめてしまい、原子をやめてしまうような、そういうことが起きる。


 それでも元素としては、地球の総量は変わらない。


 そして、さらに大きい話をすれば、地球の内部で物質や遺伝子がぐるぐる回ることをやめても、宇宙全体でみれば、たいしたことはないのだ。



 大変興味深いことに、「神様は、まだブラウン運動を停止させていない」し「分子のぐるぐるをやめさせてはいない」から宇宙は存在している。


 だとすれば「神様は、まだ生命活動を停止させていない」し「遺伝子のぐるぐるをやめさせてはいない」から生命は存在しているのだ。


 だ・か・ら。


だから人類は子孫を残すのだ。それは望むと望まざるとに関わらず、宇宙や地球や分子といっしょにこのセカイで活動しているというひとつの証であるからだ。


 もちろん、子孫を残せなくても、分子や元素の形でぐるぐるに参画はできるから、それほど心配するほどのものではないのだけれど。


 でも、子孫を残すことは、人類というレベル、生命というレベルでは、如実に宇宙のぐるぐるシステムに参加するアクティビティなのである。


 
  だから人類は子孫を残したいと思っている。そのぐるぐるが終了する、太陽が爆発するその日までは。


 しかし、もし太陽が爆発しても、我々を構成していた原子は宇宙をまたぐるぐるできる。


 その時には、我々には意思というものはないかもしれないが、まだ我々は活動には参加できているので、”生きている”とはいえるかもしれない。



 なーんてね。





2019年8月3日土曜日

新しい哲学のスタート  人間の世界は2つの層で出来ている。 ~肉体と論理~



 解脱者になれぬ人間が、少なくともこのセカイの真実とやらをある程度理解して、その上で一種の「悟り」を開いて生きてゆくにはどうしたらよいのか、ということについてですが、簡単な方法として


 エビデンス主義


を挙げることができるでしょう。


 平たく言えば、「ごちゃごちゃ言ってても仕方がないので、このセカイはこうなっているよ、という証拠が示されれば、もうどうしようもないじゃん」ということです。


 結果として、解脱したのと同じような諦念に包まれながら生きていくことができます。





 解脱者ムコガワは、ちょっと前までは評論家の呉智英さんが好きだったのですが、彼の場合は


「あだ討ちを復活させろ」


とか、なかなか面白い主張が多いので、ある意味・観念的なところがあるので、好き嫌いが分かれるかもしれません。


 
 それに対して、ここ数年で一気にメジャー論者になってきたのが橘玲さんです。彼の場合は「言ってはいけない」シリーズなどで「不都合な真実」について証拠仕立てで攻めてきますから、読み手としては


感情的には嫌だとしても、ぐうの音も出ない


ということが多いのが特徴です。



 その橘玲さんの論考ですが、基本的にはムコガワもおなじ論調です。


「取り残された男たちのテロ」 (橘玲)
https://wpb.shueisha.co.jp/news/society/2019/08/03/109452/


  今回の週プレさんのインタビューもなかなか面白いです。



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 今回の橘さんの記事では、「テロを引き起こすのは若い男性が多い」点について言及がありました。

 同じことを、このブログでも書いています。


引きこもり男性と無差別殺人の相関 (武庫川散歩)
https://satori-awake.blogspot.com/2019/05/blog-post_28.html



 また、女性と男性を比較すると、女性のほうが優劣のばらつきが少ない点も、橘さんの論考を一歩進めて武庫川は仮説を立てています。



男性優位社会が出来上がった理由 (武庫川散歩)
https://satori-awake.blogspot.com/2019/01/blog-post_23.html



 さらに、犯行を犯す彼らは「正義」だと信じてそれを行っている点も、このブログで言及しました。


ストーカーは正義である(武庫川散歩)
https://satori-awake.blogspot.com/2016/05/blog-post_27.html


日本人には理解できないテロの論理 (武庫川散歩)
https://satori-awake.blogspot.com/2016/07/blog-post_8.html




 武庫川の場合は、体験、体感をベースにしながら仮説を立ててゆくのですが、橘さんはそれに冷徹な証拠やデータを付け加えることで、いっそうの説得力を持つお話を次々に繰り出しておられます。



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 さて、ここからが今日の本題。これまでの哲学と、これからの哲学がエビデンス主義によって変化するとするならば、そのポイントはある焦点に集約されてくるように思います。



 それは、「物理的肉体層」としての人間のお話と、そこから上の「論理的存在層」としての人間のお話ということになるでしょう。


 ああ、ちょっとわかりにくいですね。もう少し平たく言いましょう。



 どうしてこのセカイでは問題がたくさん起こったり、政治や社会がうまくいかないのか、ということの原因は


「肉体としての人間」と「論理としての人間」


がどんどん乖離しているからに他なりません。



 実は、人間の体が2層になっていることは脳科学者にとっては当たり前のことなのですが、脳科学の世界では


「ヒトが生命体として生きてゆく部分を司る、脳幹などを中心とした古い脳」





「知能や言語、文化や論理といった社会やセカイを構築する大脳新皮質などを中心とした新しい脳」


があると言われています。


 ポーン・マクリーンという学者は、2つではなく3つに分け


■ 「反射脳」 脳幹・爬虫類脳

■ 「情動脳」 大脳辺縁系・哺乳類脳

■ 「理性脳」 大脳新皮質・ヒト脳



という分類をしました。いずれにしても、脳は層になっていて、進化の発展の中で継ぎ足されるように新しい機能が生まれる、と考えられているわけです。



 マクリーンは、「人間の苦悩というのは、この異なる層が存在するゆえにあるのだ」と考えたそうですが、私も同じように考えます。



  ムコガワ的には、脳の機能に限定してというよりも、現代社会のヒトは、



「肉体、ボディ」としての層





「論理、理性」としての層


が実は遊離したり乖離したり、合致していないのではないか?と推理します。





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 ムコガワは、セカイはコンピュータのように「論理構成」だけでできていると唱える「セカイは存在しない」論者です。


 最初の仕事では、同僚と一緒にLANケーブルを這わせてネットワークを構築したり、そんなことばかりやってましたが、LANとインターネットのセカイには


TCP/IP


という階層別のプロトコルがあります。(苦手な人はパスしてOK)


  OSI参照モデル、という現代のコンピュータとネットワークの基礎になっている通信機能の考え方では


「物理層」「データリンク層」・・・と最後の「アプリケーション層」まで


7つの階層を持って規格化しています。



 こんな話はわかりにくいので、要するに、簡単に言えば


「物理的な階層」レベルでネットを繋ぐ →  LANケーブルが規格にあっているか。ハブはどうか。


「論理的な階層」レベルでネットを繋ぐ → データをそれぞれの言語や規格が理解し合えているか。


というように2つのレベルがある、と考えてよいでしょう。実際には7段階に分かれるけれども。



  なので、通信をしようと思えば、物理的なIPアドレスがそれぞれに割り振られていることも大事だし、ケーブルのカテゴリも大事だし、ハブがどこまでのスピードに合っているかも大事だし、そして、その上に流れるデータも大事だよ、ということなのですが、


「物理層の機能が限定的だと、いくら論理的には速く通信できても、実際のスピードは出ない」


なんてことが起きます。



 これが、ヒトの世界にも起きています。




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 どういうことでしょうか。これも分かりやすく言いましょう。


 日本人は、勉学に励んで、智恵や知識を身につけ、自己実現をして、社会にその力を還元させながらお金をいただいて、文化的な生活をするのが理想です、という論理的な生き方が示されていますが、


 実際には、女性などは、そのために10代後半から20代前半を学問に費やし、そこから社会のために仕事をしようとしたら、子供が産めない、という制限を受けてしまいます。


 
 簡単に言えば、論理層の生き方は理想的ですが、物理層の肉体のことを考えると制限を受けてしまうのです。




 こんなことは、世界中で山のようにあります。今回の橘さんの話にも出てきますが、



「理想の上では高学歴、高収入、リア充」



 でありたいのに、


「肉体はチビデブで非モテで、派遣社員の非リア充のおっさん」



なんて人は山ほどいます。こうした「論理層が満たされない肉体層が脆弱なヒト」というのは、苦しむ以外にはありません。



 ※余談ですが、「論理想が脆弱で、肉体層が壮健な若者」は、パリピとしてモテ傾向にあったり、地元でマイルドヤンキーとして子沢山だったりします。

 なので、それなりに幸せです。リア充なので。



 ずっと言ってるかもしれませんが、私の元恋人で、筑波大学を出て公務員として年収700万円もらっているエッチなHちゃんは、45歳独身女子で子供もなく、子孫は絶滅するでしょう。


 論理層がいくら満たされても、肉体層の限界には、どうしようもないし、その結果は遺伝子の絶滅以外にないのです。





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 橘さんのインタビューでは、「じゃあ、どうすればよりよい社会に出来るんだ?」という問いに対しての答えはない、ということになっています。


  解脱者が説明すると、「よりよい社会とは結局、論理層をよりグレードアップさせてゆくだけの話なので、どんどん物理層とは乖離が広がるから、社会はよくならない」という結論になるでしょう。


  より高収入で、より公平で、よりモノが潤沢にあって、人々がより安心して暮らせる社会を追い求めることは「論理的にはどんどん追求できる」けれども、実際の肉体層、物理層は、そんな理想論とは真逆のところで動いているからです。



 真逆とはつまり、オスはメスとまぐわうことだけを考えていて、その日暮らしの狩猟採集のような形で、「掴まえる・食べる・排泄する・寝る・まぐわう」の繰り返しが物理層のあるべき姿であり、立ち位置やポジションを求めて熾烈に争いあい、相手を殺してしまうようなマウント合戦こそが肉体の現実なんだ、ということです。




 そうすると、これからのエビデンスに基づく哲学とは


「物理層と論理層をいかにすり合わせて、落としどころで我慢するか」


ということを提唱していく以外にはないということです。


 誰もがちょうどよく不満足な社会、誰もがちょうどよくやや優しい社会の微妙なラインをせめぎ合うのが幸せの本質であるということになるのでしょう。