2019年12月23日月曜日

救われる技術 ~幸せを掴むための技法~


 まいどおなじみ稀代の解脱者、あ・な・た・の武庫川散歩です。


 2019年の年の瀬も近くなっておりまして、本業の仕事は、です。営業マンがそんなことを言っていてはいけないのかもしれませんが、なんといっても消費増税後の冬場ですから、うちの業界に限らず、どこもかしこもひどい状況ですね。


 こんなときは一休み御休憩は3980円から、と一休さんも言っています。


  あわてない、あわてない。じらさない、じらさない。





・・・・・・とまあ、あいかわらずエロいことを言っていますが、落語のまくらのようなものでございまして、このブログではお約束のネタですから、平にご容赦ください。


 本人はいたってまじめにやっております。



 さて、しばらくほったらかしにしていた、twitterでの、特に宗教2世の人たちについて考えよう、のコーナーをしばらくやっておりまして。


 私がそのむかーしむかし、あるところでやっておりましたエホバの証人の2世の方々が、いろいろ苦労なさっている様子を見ていると、ささやかながら手助けできることがあればいいなあ、と思う次第です。


 そんな中で




 宗教2世をやめるのは早い方がいい。

 10代でやめたらほとんどその後の影響なく幸せになれる 

 20代だとちょっと時間がかかったり周囲に恵まれたら大丈夫 

 30代だと恨みつらみのほうが多くなり復活に時間がかなりかかかる





みたいなことを呟きましたら、かなり反響がありました。



 宗教2世の方々には思うところがあったのでしょうか。


 それと同時に、経済力がないと親から離れにくいとか、そういったリアルな問題もいろいろ出てきたわけですが。




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 ツイッターでは140字しかなくて、あんまり誤解を招いてはいけないので書いていないのですが、実は


「救われる」


ということは、平等でもないし、意外と大変なことだったりしますので、今日はそのお話をしておきたいと思います。


 
 上のツイートでもそうですが、これをぱっと読んで性格の悪い人だと


「なんじゃい。アフラフォーだともう助からんっちゅうんかい!」


と激怒なさるかもしれません。 はっきりとは回答しませんが、ええまあ、そういう部分もあるんですね。



 仮に何かの宗教にどっぷり使っていて、60歳になって放り出されても、どうしようもないでしょう、ということです。ほんとにそうなんですよ。



  救急救命では「トリアージ」という概念がありまして、要するに助かる可能性のある人から、選別して差別して治療に優先順位をつけるということです。


 

  宗教からの脱却も同じで、60歳の人を救うより、10代の子を救ったほうが、未来があるなんてことになってしまいます。つまり、



 救いは平等ではない



のです。



 救われる、ということは、ブッダやイエスではない人間の世界においては、「平等ではない」ということを覚えておくことは重要です。


 それがわからないと、救われるほうも


「あいつはあんなに救われてるのに、あたしはこれだけしか救われていないからずっこいわ」


という感覚に支配されてしまい、本当ならあなたも救われているのに、それをきちんと認められない、というマイナスが生じてしまうのです。


 救われるのに差異があり、差別があるかもしれないということは、「手に入れられる幸せにも、人によって違いや差異や差別がある」ということでもあります。




 これまた同じ話で、「人が得られる幸せは、平等ではない」のです。これも大事です。
 
 


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 救われたり、幸せを手に入れる際、それが平等ではないとすると、実は


「救われる技術」「救われる側の能力」


みたいなものがあるんだ、ということも知っておいて損はないと思います。


  こういうことを書くと、また「そんなん差があるのはずっこいわ!」と言い出す人がいるんですが、まあそういう人は


「救われない」


ので、そっとしておきましょう。とても悲しいことですが、ずっこいずっこい言っている人は、なかなか救われないし、幸せになれないのですね。




 なんでそうなってしまうかと言うと、幸せや救いというのは、



「自分が何を得ているか」「自分が何をプラスとして受け取ったか」


なので、 自分が手にしたラッキーやハッピーなことに対して、素直に喜ぶことができる人は、それらを積み上げてゆくことができるわけです。



 小さな喜びや救いを積み上げると、いずれ大きな幸福へと繋がります。



 ところが、自分に対して天からのギフトがあったり、なんらかの救いがあったにも関わらず、他人のほうがずっこいわ、ずいずいずっこいわ!としか思えないと、せっかくのギフトは加算されてゆきません。


 むしろ、不満ばかりが積みあがってゆくので、ちっとも幸せにはなれないのです。




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 つまり、救われる技術、幸せになる技術というのは、自分の身の周りに落ちている小さな砂粒のような「よきこと」を見つけて、拾って、貯めておける技術ということになるでしょう。



  宗教2世が若くして離反するほうがいいのは、毎日わたしたちは何かを得てゆくわけなので、宗教から得るものよりも、自分の明るい未来に向かって外界から何かを得るほうがいいに決まっているからなのですが、年齢が進むにつれて


「自分が受けてきた恨みつらみ」


がどんどん積みあがってゆきますから、それをカウントしている間は幸せにはなれないのです。



 
 宗教2世さんのツイートなどを拝読していると、けっこうこのパターンは多くて、


「自分が受けてきた宗教的仕打ちを、今も昔も恨みに思っている」


人はたくさんおられます。かなしいことですね。



 それをずーっと、ずーっと、ずーっと思ったり考えたり、ツイートしたりラジバンダリしておられる方が多いのですが、きっと明日もあさっても、永遠にそうなのかもしれません。



 それを不幸と呼ぶわけですね。




 そうした恨みつらみや苦悩が、今は最大値・最大限吐き出していても、次第にそれが減って、1年後にはすっかり外の世界のお話に染まりましたとさ!


というのは、幸せです。


 


 もちろん、受けた仕打ちや体験と言うのは、時間や期間にも連動するので、大変な目にあった時間が長ければ、そこから立ち直るのにも時間がかかることでしょう。



 武庫川の私的計算では、



「うけた仕打ちの期間の分だけ、復活には時間がかかる」



と思っています。 ちょうどおなじくらいの期間が、救いには必要だったりするのです。



 ということは、40年間ひどい思いをしてきたり、40年間なんらかの宗教に染まってきた場合は、そこから抜ける頃には下手すりゃ死んでる、ということにもなりかねません。


 だから、離反するにしても、幸せを見つけるにしても早ければ早いほうがいいのですね。



  この文章をみて絶望する人もいるかもしれませんが、それでも今日気付いて生き方を修正するほうが、明日気付くよりも絶対によいので、あえて書いちゃいました。



 てへぺろ。


 

 



 

2019年12月16日月曜日

宗教2世や毒親に育てられた子を救う方法。 その2 ~あなたが救われる魔法のヒントがあった~



 前回は、家庭内の問題が、外部からはとても支援しにくいものであることをお話しました。


 そして、宗教2世や、毒親に育てられた人や、あるいはネグレクトにあっているような子供達が、そのために


 なかなか救われていない


事情についてお話しましたね。




 では、そうした子供たちや人たちについて、外部の人間である私達には何ができるのか、という現実的な話に入ろうと思います。



 解脱者・武庫川の場合は、出家女子が家にやってきた場合は、ほとんどの場合、これを意識的、無意識的にやっています。


 そうして、1人、また1人と巣立ってゆき、自分の人生を歩んで幸せを探しにゆくわけです。



 他者が「問題を抱えた人」に対してまずできうる


 一番最初の段階で、一番基礎的なこと


というのは、



「無条件で肯定すること」


「無条件で受け止めること」


 です。


 特に宗教2世や、毒親に育てられた子供というのは、ある一定の


「親側の視点である教理によってねじまげられたモラル(善)によって、その子が受容されるかどうかを判定されてきている」


ことが多いです。


 難しい言い回しになりましたが、簡単に言えばこどもたちは


「親が思う、条件付の愛情をうけて育ってきている」


ということです。



 ですから、もし外部からの支援者が、支援者が思う「善悪」に基づいて、そのこどもを再判定するようなことがあれば、


やってることは親といっしょ


になるので、支援は難しくなるのです。




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 赤ちゃんというのは、善悪がわかりませんので、騒音を上げて泣くし、糞尿をそこらじゅうに漏らすし、してはいけないことも積極的にします。


 しかし、それでもまるごと親がそれを受容して、肯定してきたからこそ、その後の成長に従って「これはダメ、あれはダメ」と制限するようになっても、


「自分はまるごと肯定されているのだ」


という部分はゆらぎない自信になるので、アイデンティティが正しく形成されてゆきます。



 毒親育ちの子や、宗教2世の子は、その部分がズレています。教義によって、あるいは親の独善によってゆがめられた善悪という条件において


「愛されるのか、叱責されるのかが変わる」


という経験をしてきているので、そもそも「まるごと肯定される」ということを知らない場合もあります。



 ですから、仮にその子が18歳になっていて、倫理的に間違っている部分をもちながら育っていても、それでも第一段階は、


「まるごときちんと肯定する」


ことが大切です。



 たとえば、その子が


「あんな親ぶっころしてやる!」


とか


「クラスの連中などどうなってもいいんだ」


といった、一般論として悪に染まった物言いをしたとしても、



「よし!それでも私はあなたの味方だ!」


と肯定することが大事です。



 そして、もし支援者であるあなたが、そうした「善悪のモノ言い」「表現」に慣れていなければ、技術として


「善悪の話は感情の話に置き換える」


というワザを武庫川から伝授しておきましょう。



 たとえば、「親なんてぶっ殺してやる!」については、通常だと「殺すなんてダメだ」と善悪で判定したくなりますが、そうではなく、


「そんな気持ちになっているあなたを見ていると、心がきゅうううってなるわ!つらいなあ」


と感情にズラして置き換えるわけです。テクです。


「他人なんてどうなってもかまわない」については、これも通常だと「そんなことを言ってはいけない」とやりがちですが、



「私も他人はどうでもいいけれど、”あなた”が傷ついたりしたら、いやだ!」


と置き換えます。



 こうした言葉のあやのような技術を使ってでも、「あなたを肯定するんだ」という姿勢を示すことは大事です。



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 もちろん、肯定することと「隷属すること」「わがままを何でも聞くこと」は異なります。


 そこは間違ってはいけません。


 「じゃあ!○○してよ!」


みたいな無理難題を投げかけられたとしましょう。 その言葉に無条件に従え、ということではないのです。


「本気であなたもそうしたいと思っているなら、私も命をかけてそうするけれど、私自身はいま、心がそれはイヤだと思っている。二人がどちらも「ぜひそうしよう!」と思うなら進んでやりたいけれど、あなたが無理強いするのなら、私は悲しい。めっちゃへこむ」


と、


■ 自分の気持ちには正直であること


■ 自分の感情、感覚も素直に表出すること



を心がけて、答えると、グレているだけの子はかならず引き下がります。




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 無条件で肯定する、ということは、実は相手についてもそうですが、支援者であるあなたにとってもそうなのです。


 あなたが望まないことは、しなくていいし、あなた自身を無条件で肯定してよいのです。




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 ブログの記事ですから、どうしてももっとも簡単な部分についてしか説明できませんでしたが、この「無条件の肯定」という気持ち、意識を持てば、失敗をしながらでも支援することができたり、あるいは、こうした気持ちを持っている人がそばにいるだけで救われることが沢山あります。


 かならず事態は好転しますので、もし助けが欲しい場合はいつでも言ってください。















宗教2世や毒親に育てられた子を救う方法。 その1 ~なぜあなたを誰も助けてくれないのか~



 親子関係における問題というのは、それが近しい間柄で起きるがゆえに、難しい要素をたくさん抱えているものですが、今日はちょっと


 ギョッ


とする記事をみつけてしまいました。



元事務次官息子殺害事件 DV対応の現実(アゴラ)
 http://agora-web.jp/archives/2043239.html



 引きこもりで、家庭内暴力であった息子を、めちゃくちゃ偉い人だったお父さんが殺してしまった事件についての話ですが、つい先日裁判の判決が出たところです。



 その判決の内容や、その家族が「どうすればよかったのか」「どうできたのか」について考察した記事ですが、結論をズバリと言えば、



 どこも誰も助けてはくれない



というオチなのではないかと戦慄しています。戦慄かなの。



 家庭内に問題があれば、それを誰か外に助けを求めたほうがいいというのはよくわかります。


 しかし、実態としては


■ 助けを求めても、高確率で、誰も助けてくれない


というのが現実なのだ、ということがさりげなく書かれているので、この話は恐ろしいのです。



 この話は、別に今回のようにとりわけ凶悪な



 『家庭内暴力を起こしている息子をどうしたらいいか』


に限りません。どこの家庭でも、おなじような



孤立無援


の状況は起きています。たとえば


 『親にネグレクトされている子供はどうしたらいいか』


でも同じですし、


 『毒親から逃れたい子供はどうしたらいいか』


でもおなじです。


 『宗教2世で、親にすべてを制限されている』


でもいっしょですね。



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 結論からいえば、こうした事態からあなたやあなたの家族を救ってくれる公的機関というのは、


ほとんど存在していないし、存在していてもあまり役にはたってくれない


というのがオチでしょう。それがなんとなく、あなたにも伝わっているし、気付いているから、事態はいっこうに好転しないわけなのです。




 わたくし、解脱者・武庫川散歩は、その昔高校教諭をしていたので、児童福祉施設の運営や内部についても知っているし、「虐待されていた生徒」を警察などと協力して救出したこともあります。


 そうした時に、実際の事件として感じたのもまた、「公的機関はあっても、そこに積極的に介入しようとする第三者の動き」がないと、何も進まない、ということでした。




 ツイッターなどを見ていると、興味深いつぶやきが漏れ聞こえてくることがあります。たとえば、


Q「宗教2世の悩みについて、学校の先生はそれを打ち明けたら、解決の糸口になってくれるのだろうか」


といったものがありました。


 それに対しての私の回答は、


A「理解を示してくれる教師もいるだろうが、保護者の権限は強大なので、そこから公的な立場で救い出すことはできない」


というものでした。ええ、物理的な虐待や育児放棄などがあれば、また別ですが、思想信条は自由なので、保護者の親権がある間は、それとは異なる思想信条で教師が動くことはできないわけです。




 ですから、仮に、


「うちの親は毒親だから逃げ出したい」


と思っていても、公的機関でその逃げ場になってくれるところは皆無だとわかります。ええ、まったくないのです。




 そうなると、家出女子は、ネットで知り合った見知らぬおっさんの家に、肉体関係と引き換えに居候するぐらいしか、生きてゆく術がないわけです。


 これで、1人の人生が、大きくさらに狂ってゆくことになるのですね。




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 この日本社会では、毒親に育てられたり、ネグレクトにあったり、あるいは宗教2世が救われる機関、というのはありません。


 少なくとも、18歳もしくは20歳を迎えるまでは、強力な親権にガードされていて、なかなかそれを打ち破ることはできないわけです。


 親がどれだけ間違っていたり、その考え方が問題であったとしてもです。




 解脱者・武庫川の場合は、一時的に出家女子がわが家に避難してくることがありますが、その場合でもかならず、その女子の親の了解を取り付けています。了解なく出家女子が出家してくることはありません。


 幸か不幸か、武庫川一家の家庭は、そうした問題を抱えた子供たちの私的な受け皿になっていることがあるのですが、可能であるならば、こうしたシステムを何がしかの公的な制度で実現できないものか、とも思いますが、まあ無理でしょう。



~~~~~~~~~


 というわけで、まず、これを読んでいる「今、宗教二世問題や、毒親問題で困っている若者」であるみなさんにとっては、第一段階としては厳しいものになりますが、


「自分の親や、現在の環境が、自然に解決することはないし、親はよい方向に変わってくれたりはしない」


ということを頭の片隅に置いておく必要はあるでしょう。


 そして、


「公的機関や、なにがしかの救いの手が自分を助けてくれることもない」


ということが、さらにきつい第二段階としての事実であることも、わかっておくことが大切です。



 この時、あなたが「したたかな」子であれば、とにかく18歳、もしくは20歳になるまで、経済的に自立できるまで「忍耐をしながら、あるいはやりすごす」という選択をすると思います。


 あるいは、「メンタルが強い」子であれば、その時期が来るまでに、自分に力を養い、技量・力量両面で、家を脱出して自活する計画を建てるかもしれません。




 幸せなのは、少なくとも成人して親の権限から離れることのできる未来が、その時期が


確実にやってくる


ことです。16歳なら2年後、もしくは4年後には、そのチャンスが必ず訪れますから、時間はたっぷりあると言えるかもしれません。




 ところが、したたかではなく、強い心を持っていない子供の場合は、この期間に


「打ちのめされ、苦悩し、希望を失い、なげやりになってしまう」


ことが往々にしてあります。こうした経緯で、生き方を見失ったり、暴力に走ったりしてしまうわけですね。



~~~~~~~~~~



 残念なことに、これらの子供たちは、自力で自分を救済することはできません。


  第三段階の事実は、


「事態は自分ひとりの力では解決できない」



というものです。これもえげつないほど冷酷な事実です。



 3つ揃って、とんでもない事態です。


■ 親は変わらない

■ 外部から助けはない

■ 自分ひとりでは解決できない


の三重奏ですから、


「わたしに氏ネというのか!」


とすべてをぶっ壊したくなるのも当然というものです。





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 でも、心配はいりません。


 たしかに、親も公的機関も、自分にも力がないことを知ると打ちのめされてしまうかもしれませんが、


ここに私がいます!


 そうした状況である、ということをしっかり理解していて、かつあなたを応援したいと感じている私がここにいるので大丈夫です。


  私はあなたの味方ですから、あなたが助かる方法について、真剣に考えています。この難しい包囲網を突破して、あなたが無事に


 ひとり立ちして、のびのびと生きてゆく


方法を一緒に考えることができます。





 そして、もしこれを読んでいるあなたが、今はひとり立ちしてしっかり生きていることができている大人であるのならば、




 そうしたこどもたちを応援する




ことを、ぜひはじめて欲しいと思います。



 親は変われないし、一人では救われないのだけれど、


 外部からの助けに”あなたがなる”ことは可能です。




 海賊王に、俺はなる!



くらいの勢いで、なってください。



 
  次回は、ではどうやって実際に助けになることができるのかをお話しましょう。
















2019年12月13日金曜日

なぜ武庫川散歩(解脱者)は匿名で活動するのか。



 ネットの世界では、「リアルな世界ではあまり露出しないけれど、電脳かいわいでは多くのファンを持つインフルエンサー」という人がけっこうおられます。


 そんな中の1人である「フミコフミオ」さんが、どうして匿名で活動しているのかについて記事を書いていて、そういえば


 わたくし、あなたの武庫川散歩です


も、ずっとへんてこりんな匿名で活動しているなあ、とふと思ったので筆を取りました。いや、筆ではなくキーボードを叩いているのだけれど。



 ちなみに本家の記事はこちら↓



 なぜ匿名ブログは実名より読んでいて楽しいのか
 https://president.jp/articles/-/31371

(プレジデントオンライン)



 ちなみに、フミコフミオ氏の元ネタはあの「藤子不二雄」大先生で、わたくし武庫川散歩の元ネタは


 江戸川乱歩 大先生


ですから、発想は似たようなものです。どうやら彼も私も1974年生まれのおない年のようだし。



 その江戸川乱歩大先生だって、エドガー・アラン・ポーのもじりなのですから、まあいいじゃありませんか。


 ちゃーらーちゃっちゃらー

 ちゃーらーちゃっちゃらー

 ちゃらーちゃっちゃらー

 ちゃちゃちゃらん ♪


 (↑テキストで表現した、江戸川コナンくんのテーマ)




==========



 さて、本題です。


 実は、わたくしは、武庫川散歩という芸名よりも、それに付随するある「表現」をけっこうわざと使用しているのですが、お気づきになられますでしょうか。



 そう!


 それよ、それそれ!



 すでに、多くの武庫川ファンが、いろいろと妄想をめぐらしながら「あの人物はいったいまともなのだろうか、それともアブないヤツなんだろうか」と一番きがかりな


 そこ


です。


 解脱者、というパワーワードですね。




 ふつうの人間が、「自称・解脱者」なる人間に触れると、まあたいていは眉をひそめるか、顔をしかめるか、「キモッ」と思うのが通常の反応というものでしょう。


 そうなってしまったのは、わたくしの前に「解脱者」を自称した人物が、とっても悪行三昧で、 日本史上に残る強烈な人物だったせいです。



 少なくとも、あのシトが出てくるまでは、「解脱者」というのは、どちらかというと「崇敬されるべき存在」のニュアンスだったのですが、あのシト(ヴォルデーモートか!)が、とんでもない人物だったので、俗世の人々の印象が、まったく


 悪い方向へ定まってしまった


というのはあるでしょう。




 さて、もともとブッダの教えである仏教においては「誰でもどこでも簡単に」解脱できると教えているわけですから、 敬虔な仏教徒、あるいは、仏の教えを心から信じるものであれば、


解脱者


はすぐ隣にいるんだよ。夜中迎えにくるんだよ♪


ということくらいは自明のはずなのですが、 もう誰もそんなことは言えない雰囲気になっているので、わたくしくらいは



 誰でもどこでもお手軽簡単に解脱できちゃうよ



くらいのことをほざいてもよいのではないかと思って活動しています。




(解脱がもっとフランクでわかりやすいものだということを知りたい人は


 
仏教思想のゼロポイント―「悟り」とは何か― 魚川祐司

<新潮社さんより>


がおすすめ)



 それでもまあ、「オマエみたいな偽・解脱者が何を言っているのだ」とからんでくる人もいるでしょうから、ふだん使いの方便としては



ええ、わたくし毎朝パンツが解脱してますねん★



ということを声を大にして言っています。




~~~~~~~~~


 でもまあ、「わたしは解脱者だ!」と明言しているおっさんがそこにいるものですから、そりゃあ、読者としては気になったりビビったり、マハーポーシャを思い出したり、ラジバンダリすることは間違いないわけで。


 むしろ、そういう「気付き」を得てほしいなあ。


 なにか「悟りや解脱やいきざま」について、思いをめぐらせてほしいなあ。


という狙いはずっこんばっこんハマッっていると言えるでしょう。


(擬音がおかしいのは、きっとそちらのWiFi電波状態が悪いのでしょう)




  それでも最近、マーケティング的には、実名や別名で活動している「お金になるやつ」とリンクさせたほうが、わたしという人間性について



 信頼度が増す



のだろうなあ、ということはうすうす気がついているのですが、なんかそういう



どやさ!


というのも、アレなので、今のスタイルのほうが性分にあっているのかもしれません。まあ、武庫川のコアなファンという方も、俗世には一定数おられるようなので、その方々が楽しんでくださればそれでいいのかな、という気もします。




 最近、この方もネットかいわいでは有名人ですが、「やまもといちろう」さんも、3行ぐらい文章を読むと


あ、これ書き手はやまもといちろう氏だな


とわかるようになってきましたね。すばらしいです。そういう文体をわたくしも目指したい!


と素直に思っております。




 今回は、エロが少なくて、すまんこ。








 

2019年12月4日水曜日

善人なおもて悪人をや ~うつ病になるのは、善人だからではない~



 最初に断っておくが、解脱者であるワタクシ武庫川散歩(45)は、



 この世には善も悪もない


ということを常々語っている。


 善と悪というのは、あくまでも一側面からみた瞬間の話であって、反対側からみればまた別の様相を呈するものなのだから、そんなもんを単純に信じちゃあ、いけませんぜダンナということである。



 なので善と悪に関わる話を取り上げるのは、浅はかで思慮の足りない、簡単に言えば「バカとアホ」には誤解を受けやすいので本当はやりたくないのだが、それでも私の内心がうずうず「やりたい」「取り上げたい」「書いちゃってしまいたい」と欲しているので、ちょびっとだけ書いてみようと思う。


 このブログを読んでいるあなたは、とても賢明で思慮深い、カシコで、天才、秀才に違いないから、きっと誤解せずに読み取ってくれるに違いないと期待している。



 とまあ、ちょっとややこしい書き出しをしてしまってもうしわけないが、今回は話のマクラのエロはないのでごめんね。





~~~~~~~~~




 善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや


というのは

歎異抄

に出てくる親鸞の弟子「唯円」のことばである。

 もう、このへんから知的ではない人をふるい落とそうとしている私の技術なのだが、それは脇へ置いといて。


 この意味、簡単にいえば



 善人であれば往生できるのですから、悪人ならなおさら往生できるでしょう



ということになる。 浄土真宗の屋台骨にかかわる考え方で、言ってみれば


「修行してよき人であろうと努力できる者は仏によって救われるでしょうが、それができない境遇にある人だからこそ、仏は慈悲の力で救うのですよ」


ということになるだろう。オーイエイ。バカでも救われそうで、助かるぜ。



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 とまあ、善人と悪人ということば一つとっても、一般的に言われてる意味とは異なり、微妙にそのニュアンスに差があることには気付いてもらえたと思うが、今から書く話はそういう


 ニュアンスの、受け止め方の違い


によって、たいへん危険度があるため、気をつけて丁寧に書こうと思う。




 それはこんなお話だ。


エクセルにスクリーンショットを貼り付ける仕事でうつ病になった話



という記事がはてなに挙がっていて、ちょっとした話題になった。


 かいつまんでまとめると、理系の数学科で学んで大学院まで出た人が、エクセルにスクリーンショットを貼り付ける仕事を3年間して、うつ病になったという話である。



まあ、そのままやがな、と言えばそのままやがな。



 なぜこの人がうつ病になったかというのは、ごく単純である。


「自分の能力に見合っていない作業をさせられたので、うつ病になった」


ということなのだが、ここで一つの大きなニュアンスの違いが登場する。




 たとえば、誰かがとても酷い目に合わされたり、過重な労働をさせられたり、苦しい仕事をさせられたりして、そのせいでうつ病になるのは、理解しやすいだろう。


「善人が、悪行によって、苦しめられてうつ病になる」


というイメージだ。このパターンだと、誰もが共感できて、わかりやすく、理解しやすい。誤解もほとんど招かない。



 ところが逆はどうだろう。


 誰かがとても優秀なのだけれど、切手を延々と貼り続ける仕事をさせられてうつ病になった。


というのはいかがかな。

 
 これもなんか、リストラ対象の人が、「どうでもいい仕事をさせられてわざと苦しめられている感がある」ので


「善人が、悪行によって、苦しめられてうつ病になる」


パターンになるので、まだギリギリわかりやすいだろう。



 ところが、この人の場合は、


「理系の大学院まで出て、エクセルの仕事をさせられている。ただし、その仕事はそれなりに大事で、それできちんと対価がもらえるまっとうな仕事である。別にわざと変な仕事を与えられているわけではない」


ということが起きている。


 なので、コメント欄をみてもらえばわかるのだが、この人に対する善悪の評価がまっぷたつに分かれるのだ。



■ 「優秀な善人が、その才能を生かせない仕事をしていることは、職場が悪である」


という派閥と


■ 「自分には才能があると思い込んでいる悪人が、通常の善なる職場をバカにして見下している」


という派閥に分かれるのだ。



 もちろん、私は事実がどちらなのかは明言しない。それは、本人にしかわからないことだし、たぶん本人もわかっていないことだろうからだ。
 
 


 この悩みに対するアドバイスとして、ひとつだけとても面白くて、たぶん役に立つ回答があったので、紹介しておこう。


「筋トレが全てを解決する」


↑筋肉バカ。



でも、これは正しい。たぶんこれでその悩みはふっとぶ。そういう風に人はできているからだ。






~~~~~~~~






 ほんとうの真実がどちらにせよ、起きている事実は


「その人がうつ病になっている」


ということだ。これはたいへん(同情すべきかどうかは保留にしても)、本人にとってはとても大変なことで、本人はつらいことに違いない。


(ただ、まあ、それを半分の人はざまあみろ、という視点でみていて、半分の人は共感してみている、ということが今起きている)




 つまりは


「善人が周囲の悪行によってうつ病になる」


というわかりやすい事例もたしかに起こるが、


「悪人が、周囲はふつうに善なのに自分勝手な気持ちでうつ病になる」


ということは起きるということである。


 こう書くと、私がブログ主を「悪人」だと思っている、と解釈するアホでバカでマヌケが飛び出してくるので、そうじゃない!と明言しておく。


 その人のことはその人の問題だから、実際はどうであるかは他人は口出しできない。ただ、そういうふうに善人という解釈と悪人という解釈の2つに分かれる、という話である。



 むしろ、悪人でアホでバカでマヌケだと私が思っているのは、そういう風に間違った解釈をするそこのオマエである。わかったかこの野郎。


 ↑と、けん制も入れておこう。こうすれば炎上しないかもしれない。




 よいか!この世の中には、「悪人であって、自分勝手が通らないからうつ病になるやつ」は存在するのだ。


  たとえば、女の子と3股をかけていて、そのうちの1人にこっぴどく振られたので、いとしさとせつなさと心弱さのせいでうつ病になったというヤツだっているのだ。


・・・俺だ。俺のことだ。


・・・・・・それは俺のことなんじゃあああああ!!!!!



(今、ここで、それは”ざまあみろ”であって、ちっとも同情できないと思ったあなたは正しい)


 
 
 

  さて、こうしたうつ病や心の病の原因というのは、悪行によって苦しめられたから発症するものではない。


 ごく簡単にいえば



「自分が理想であろう、これが良い方向であろうと思っている状態と違っていると、心は病む」


ということだ。


 ブログの人の場合は、数学の見識を使って仕事がしたいという理想像と、自分がしている仕事がそうと受け止められないという状態が相反しているので、うつ病になったわけである。


 解決方法は、この「思っている理想」と「事実の受け止め方」をすり合わせるか、それが合致するところへ移動するかしかないので、


■ おなじ会社にいたいなら、エクセル作業の価値を見出し、受け止める




■ 自分の理想に近い職場を探す


の二つしかないのである。



 ところが、いずれにせよ自分だけで帰結せず、相手がいることなので、大変である。今の会社にせよ、次の会社にせよ、「他社との擦りあわせ」はどうしても生じる。

 それは人の世なのでどうしようもないことだ。


 僕だって、「女の子3人とは同時に付き合えない。せめて2人にしておきなさい」という擦りあわせが必要だった、ということになる。


 ↑バカ




 ええ、一番のバカで悪人は、あっしだったってことで、お開きでやんす。




 


 







 

エホバの証人告白本を書いた話



 このブログでもしばしばバシバシ書いているように、もともとワタクシ武庫川散歩は、エホバの証人という新興宗教の2世信者でありました。

 このエホバの証人の世界も、私が現役であった時代からはもう随分と経っているので、今は3世信者もいるらしいと聞きます。

(あ、もちろん、日本でね。本家アメリカだともっといるかもしれないし、わからないけれど)


 世代を経ると、第一世代は自分で好んで入信したのだけれど、その子供たちはよくわからないまま「入信させられていた」ということが起きるので、そうした子供達が脱会すると、その事情を告白したり、暴露する情報が表に出てくるようになってきました。

 近年、ちょっとしたエホバブームが起きていて、



「よく宗教勧誘に来る人の家に生まれた子の話」 いしいさや
http://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000052387


「カルト宗教信じてました」 たもさん
https://www.saiz.co.jp/saizhtml/bookisbn.php?i=4-8013-0300-3



あたりは漫画でわかりやすいこともあって、メディアでもよく取り上げられていたように思います。




 こうした告白本のよいところは、現役の信者の方で実はいろいろ教義や自身の生き方について悩みや迷いがある人にとっては、とてもよい「共感」のための手助けになることです。


「自分だけが苦しんでいたわけではない」


ということに気付くと、そうした方には大きな力になることと思います。



~~~~~~


 ところがどんどこしょ。


 うちの場合は、もちろん他の家庭同様「エホバの証人による崩壊家庭」にはなってしまったわけですが、いろいろとその経緯が面白いというか、イカれているというか、


 他のおうちの方には、もしかするとまったく参考にならないかもしれない


ので、 そこらへんをあえて記録として残しておこうと思って書いた次第です。


 たぶん、今の信者の誰もが、


 ちっとも共感できない


新しいタイプの、むしろ悲劇と言うより「喜劇」に近いお話をまとめてみたわけですね。




 というわけで、もしかするとこの世に存在するかもしれないコアなマニア向けに、自身のエホバの証人体験本、告白本を書き上げました。


 書籍ではなくnoteというしくみを利用しています。序章以外は100円いただいておりますが


 なんじゃい!有料なのか!


とご立腹なさる方もおられることは承知でお値段以上、ニトリになっております。



 これには理由があって、まあ、身内の恥をつらつらと無料で世にさらすのもどうなのか、というところもありますが、


 その昔、ものみの塔とめざめよ!を100円で売りまくってたやろがい!


という現役エホバの証人と元エホバの証人に対するアンチテーゼでもあります。


 他人に100円で冊子売ってたのに、100円くらい出せへんのかーい!


というギャグです。



 まあ、お金のことなどどうでもよろしいのですが。



 
 というわけでCM。


「ワッチタワー ~オカンと僕とそれからエホバ~」


パクッてる?



はじまります。


https://note.com/mukogawa_sanpo/n/n1fa9685cf3cc




 初回はもちろん、無料よ。









2019年8月10日土曜日

解脱者・ムコガワ散歩はデカルトの生まれ変わりか?



 輪廻転生とか、生まれ変わりとか、前前前世とか、そういうものは別にどうだっていいと思っている稀代の解脱者、ムコガワ散歩です。


 こにゃにゃちは。


 そろそろお盆休みですね。あの世から祖霊が戻ってくると言われている盂蘭盆会でございますが、そういうのも別にどうだっていいと思っている解脱者でもあります。


 大文字焼き、見に行きたいなあ。



 ・・・さてさて。前回はAPUの学長でもある出口治明さんの新著の話をしました。すると、ツイッターで出口さんにフォローされてしまい、かなり恐悦至極に存じているところでありますが、どんどんいつもの調子で参ります。



 その出口治明さんのインタビューの続きが、ダイヤモンドオンラインさんに掲載されているのですが、これまた面白かったのでメモしておきます。


哲学と宗教を学ぶのに絶対外せない3冊
https://diamond.jp/articles/-/210384



 人生において、絶対外せないものを3つあげろ!と言われれば


俺とお前と大五郎


とつい答えてしまうムコガワですが、北海道民はここで爆笑するところです。(焼酎のCM)


 出口さんは、「デカルト」と「クルアーン」と「悲しき熱帯」 を上げておられますが、まちがっても


 淋しい熱帯魚


ではありません。それはWinkです。 ジョークにしないで~。




 もとい。さてデカルトさんですが、かなり面白い。その考え方を読んでいると、もはやほぼ武庫川散歩なのではないか、あるいはわたしはデカルトの生まれ変わりなのではないか?と思えるほどです(笑)



 残念ながら、武庫川は大学は文学部日本文学専攻に進んだので、哲学科ではありませんでした。そのため哲学の歴史についてはあっさりとしか知らないので、もっと勉強すべきです。

 精進いたします。


 デカルトさんの何が面白いか、というと、出口さんも紹介しておられますが、


”人間の精神や意識と、物体としての人間の肉体は別のものであるとデカルトは述べています。精神や意識は、努力したり勉強したりすれば完成度を高くすることが可能だけれど、肉体は不変である。人間はこのように精神と身体の2つに分かれている。これがデカルトの説く「心身二元論」です。”


というところ。もっと詳しく言えば、デカルトは、人間の肉体は「機械」だと捉えました。


 機械の肉体に、精神が乗っかっているような感じですね。



この話、ちょうどこの前ブログに書きました。


新しい哲学のスタート 人間の世界は2つの層でできている
https://satori-awake.blogspot.com/2019/08/blog-post.html



 新しい!とか言っちゃってるわりには、すでにデカルトさんに言われてしまっているので、今更何をいうとんねんですが。


ウィキペディアを読めば、デカルトさんの思考はおおむねよくわかります。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88



■ 人間も動物も機械みたいなもの

■ その上に人間は精神が別に乗っかっている

■ 宇宙から地上まで、すべての法則はぐるぐるしている(渦動説)

■ デカルトの神は科学の一部であって、信仰する対象ではない



 ぐるぐるの話は、前回も書きましたが、言っていることはまさに同じ。


 神様というのは科学の一部で、意思を持たないので信仰するような対象ではないという視点も同じです。



 なあんだ、武庫川散歩の言っていることはデカルトとおんなじじゃないか!



 というわけで、ある人は「武庫川散歩なんて、デカルトの焼き直しだ」と言うかもしれませんが、逆に言えば、


「デカルトを知らずに、デカルトと同じことを考える武庫川は、なんてすごいんだ!ほぼ現代のデカルトだ!」


という人もいるでしょう。わはははは。


 いやいや、解脱者はそんなことはどうでもいいので、デカルトさんがもし生きていたら、LINEで話したいと思うくらいで、このセカイの事実は誰が読み取っても同じなので、たいしたことではありません。



~~~~~~~~


 さて、お盆といえば盆踊り!


 突然話が変わりますが、兵庫県には全国に名の知られた盆踊りとそのミュージックがあって、それを人呼んで


「デカンショ節」


といいます。そーれそ~れデッカンショ!



 このデカンショ節、ルーツがかなり不明でいろんな説がありますが、その中の一説に


「デカンショとはデカルト・カント・ショーペンハウエルの略だ」


というまさにデカルトなお話があるわけで。なぜ、デカンショ節が全国で知られるようになったかというと、旧制中学などの学生歌として東京の学生との交流の中で広まっていったからなのです。




~~~~~~~~




 さて、そんな余談も挟みながら、デカルトさんと武庫川さんの決定的な違いをここで解説いたしましょう。


 結論から言えば、デカルトさんはわたしの前前前世ではないということですね。


 デカルトは、肉体を機械としながらも精神を切り離して別のもの、別の次元のものと捉えました。

 
 もちろん、完全に切り離れたものではなく、相互に関係があると考えてはいたのですが、基本的には別のものと捉えています。



 しかし、武庫川は、どちらかといえば完全機械論者なので、「心身の機能や精神は、ぶっちゃけ化学反応によって生み出された物理現象の範疇を超えていない」と考えます。

 つまり、精神などというものは、単なる物理現象の複雑な発現でしかないというわけです。



  武庫川はそもそも、精神や意識というものが、物理や科学の「上位」の概念だとは思っていません。

 人間はアホなので、動物よりも精神や意識をもつ人間のほうが「上」でより進化しているみたいに考えますが、「上」も「下」もないのが本当です。


 たとえば、精神の表現である「正義」なんてのは、「どちらが正義で誤りでないか」なんてことは、かなり状況によってブレが生じますが、科学や物理はブレたり結果が変わったりはしません。


 つまり、精神や意識は、人間が勝手に「上位の、野獣の本能よりすごいものだ」と考えているだけで、もしかすると野獣の本能のほうがブレがなく、「いつでも正しい」かもしれないわけです。


 となると「命を大切にする」という考えよりも、「いつでも自己中心的」のほうが、理にかなっていることだってあるかもしれないわけで。←極論の一例ですよ。


 となると、少なくとも野獣の生き方がいつでも科学的にひとつの解を結ぶかどうかは別にしても、科学や物理は誤りが起きない、というのであれば、


誤りが起きないほうが神に近い(つまり、そっちのほうが上位なんじゃない?)


ということだって言えるわけですね。


 だから、上下の概念など無意味だというのです。




 ~~~~~~~~


 まあ。このあたりは心身問題として哲学では有名な問いだそうなので、みなさんもいろいろ考えてみてはいかがでしょうか。



 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E8%BA%AB%E5%95%8F%E9%A1%8C




 (補足) 心身問題は主に「脳」があって「意識」があるというふたつの状態について考えるわけですが、武庫川の場合は、脳は物理法則と化学反応そのものなので、別に「脳」がなくても意識は作り出せるんじゃない?と考えています。


 コンピュータのプログラムは、「打ち込まずとも、紙の上でも存在するのであれば、想像するだけでプログラムは存在するか」という問いを武庫川はいつもやってますが、だとすれば物質さえも意識には不用、ということもありえます。


 





2019年8月6日火曜日

拝啓 出口治明さま  人類は何のために生きているのか



 ライフネット生命の出口さんという方とは、ごくごく薄いながらもご縁があって、ひとつは彼は現在APUという大学の学長をしているのだけれども、わたくしムコガワも、その系列の大学の卒業生である。

 うっすいなあ!



 さて、ふたつめは、わたくしムコガワが世を忍ぶ仮の姿で某NHKの番組に出た時に、ゲストコメンテーターをしていたのが出口さんだったように思う。記憶も薄いけれど。


 残念ながらワタクシ武庫川のほうは、VTR出演で、出口さんのほうは、スタジオ収録だったので、直接お会いしたことは全然ないので、これまたうっすい縁なのだが、それでもご縁があると思えば、そこにはご縁があるというのものだ。


 いやいや、うっすいけど、ごめんなさいね。
 

 その出口さんが、とても興味深い本を出版なさったという。それは宗教と哲学に関するもので、出口さんと言えば60歳を過ぎてからライフネット生命を立ち上げたというビジネス畑の方なのだが、とても博識で、いろいろなことに精通なさっているという学者肌の方にもお見受けする。


 さて、出口さんがこの本についてインタビューに答えておられるのが、大変おもしろい。

 まさに、ふだんから不肖ムコガワ散歩が、このブログで宗教と哲学と科学について、うんち(く)を垂れていることとたいへん関わりがある話なので、ぜひ紹介しておきたい。





自然科学は哲学や宗教を無用化するのか(ダイヤモンドオンライン)
https://diamond.jp/articles/-/210371




 人類の究極の問いとは、結論から言えばひとつか二つしかなく、それは出口さんもおっしゃっているように


『世界はどうしてできたのか、また世界は何でできているのか?』

『人間はどこからきて、どこへ行くのか、何のために生きているのか?』


という単純で簡潔なものである。 


 古今東西の科学者や哲学者、あるいは宗教家というのは、これに対する答えを自分なりに出したり、あるいはそれを周囲に納得してもらえるように証拠を集めたりしてきたということになるだろう。



 21世紀ともなると、科学の集合知により、これらの答えはある程度明確になってきている。 


■  世界は物質とエネルギーがビッグバンによって出来た。そして宇宙は広がっている。

■  宇宙を構成する物質とわたしたちの住む世界や地球を構成しているものは同じ。

■   太陽が膨張してなくなれば、結局人類も地球の生命も滅ぶ

■  なので、人が生きている理由は、地球が滅ぶまでの間、いのちを繋いで子孫を残すこと



 まあ、ほれ、うーんと。

 細かな表現の差異はあるかもしれないが、結局のところだいたいこんなもんだ、というのが問いへの答えである。




 解脱者としての立場から言うことが許されるのであれば、


「どうせみんな最後は滅びるのだから、セカイにも人生にもあまり意味はない」


という方便も可能なのだが、 実際には我々人類は


「喜怒哀楽を感じながら、今ナウこの時点においては生きているのだから、それを十二分に感じて、ビビビと生きてゆくしかない」


という言い方も逆説的には言えるだろう。


 これはまた言い方を変えれば、個人においても


「人生80~100でどうせ死ぬんだから」


という大前提の上で


「だから、人生はどっちでもいいわ」となるのか

「だから、生きている期間を充実させて楽しもうぜ!」となるのか


の2択の考え方ができるというわけである。


 ブッダが前者のように無常と解脱を定義したのだとすれば、私は後者のように定義するだけなので、まあ、それも含めてどっちでも好きなほうでいいとは思う。



 ~~~~~~~~~~



 しかし、どうせセカイは滅ぶし、人は死ぬのに、なぜその期間を充実させたいと思うのかといえば、これは出口さんも言っているが


「よりよく生きたい」と「死ぬ恐怖から逃れるため」


の2つが明解な答えなのだと思う。 つまり、生きてしまっている限りは、その中で最善を尽くしたい、ということでもあり、その中で恐ろしい死に方はしたくない、という不安でもあるということなのだろう。



~~~~~~~~~~~~



 出口さん流に解釈すると


1)  自然科学は、このセカイのなりたちについて、解明してしまった。それはある種の無常なものである。

2) しかし、セカイが無常であるがゆえに、私達は人類社会も、個人の生活ももうすこし「有意義」なものにしたいと考えている。だから、そのためにどうしたらいいかを考えるのが哲学と宗教である。

3) 哲学と宗教はかなり近しい分野・領域だが、あえてわけるとすれば、哲学は「起きている現象をどのように解釈すればよりよく生きる正解に近づくか」という方向性で、宗教は「ある一定の理想形(神)やシステム(教義)を提示して、それに準拠してゆけばよりよく生きる正解に近づくか」という方向性とでもいえようか。


という感じになるのかもしれない。



~~~~~~~~



 まあ、このへんのことは、おおむねこのブログの一連の記事でもずっと書いてきたことなので、結局誰が考えても、「答えは同じ」なのだろう。少なくとも21世紀ともなれば、このセカイのなりたちについては、ほぼ解明されちゃったに等しいので、もはや、



 そのことについてじたばたしてもはじまらない



のである。



 しかしまあ、せっかくなので、人生の大先輩である出口さんに敬意を抱きながら、この不肖の若者がおなじ結論の上でどんなことを考えているかをちょびっとだけでも書かせていただくチャンスがあるとすれば、それはとてもうれしい時間になるだろう。




<この世界について>


  我々の世界は、星のかけら(物質とエネルギー)で出来いて、ビッグバン以来膨張している。そこまでは全然OK。

 さて、その物質とエネルギーは、我々の側から見ているからモノがあるように感じているのであって、実は外側からみれば記号のような「物質を伴わない論理的に組み合わさることのできる何か」がなんらかの法則性によってユニットごとに合体しながら複雑なものを組み上げているのではないか?

 たとえば、コンピュータゲームの中の世界が、複雑なプログラムで出来ていると思いがちだが、実際には0と1の組み合わせのみで動かせるような、そんな記号的なものが、物質の本当の姿なのではないか?


 そうなると、論理的なプログラムが実際にはハードウエアがなくても存在できるように、我々が物質に依拠していると思っているこの世界も、物質なんて実はなくても成立するのではないか?


という考え方がムコガワ流この世界なのだが、残念なことに「セカイの外側」の話をすると科学では解明できないので、これは哲学のジャンルにならざるを得ないわけである。

 さらに、「じゃあ、そのプログラムはどうやってできたんだ。このセカイの外側を作った、あるいは出来た理由はなんなんだ」となると、これはいわゆる「神」の領域だから宗教のジャンルにもならざるを得ないわけである。


 ああ、こまったなあ。というのが不肖な若者の気持ちである。科学で解き明かしたいなあ。







<人類が生きていることについて>


  どうせみんな滅びるのに、なぜ子孫を残さなくてはならないのか。


 これってすごい問いである。どうせ最後は滅びるんだから、みんな単体で死んでしまえばいいのではないか?と普通なら誰も思う。

 ムダだし、コスパが悪い(苦笑)


 滅びるとわかっていて、あがき続けるのが生命や人類なのだとすれば、そりゃもう仏教的な「業(ごう)」の世界みたいになってしまう。


 賽の河原で、ひとつ積んでは父のため、ふたつ積んでは母のため、と石ころを積み上げてゆくのを、鬼がやってきて全部壊しちゃうみたいな、そういう業(ごう)のような苦しみである。


 
 ところが、たぶんそういうことではなくて、我々が思っている世界における自分たちの流れの軸みたいなものが、根底から見誤っているのではないか?と解脱者は考える。


 つまり、過去があって現在があって、未来があって、という時間経緯の中に我々を置くと、「過去から遺伝子を受け継いで、それを未来に渡して、命を繋いでゆくのだ」みたいな考え方になってしまうので、当然「最後はどうなるのか→滅び」を想定せざるを得ないのだが、たぶんそこが間違っているのだ。



 そうではなくて、時間軸は過去から未来への矢印ではなく、どちらかというとランダムにバラバラの方向を向いているか、ぐるぐる回っているというほうが正しいかもしれない。



 たとえば、コップの中に水が入っているとして、その水は実は


「水分子として、うようよしている」

「Hが遊離して0と合体しようとしている」

「また別のOがHを探してくっつこうとしている」


のような、いろいろな様態があり、かつブラウン運動で水分子はぐるぐる動き回っているのである。


 こういう時間軸が、コップの中の水の「現在」であって、その動きを見ている限りにおいては、それらの分子の「過去・現在・未来」はたぶんどうでもいいことである。


 なんせ、過去から一直線ではなく、ぐるぐるしているということだ。




 人類や生命もこれと同じで、卑弥呼がいて、源頼朝がいて、織田信長がいて、という歴史の流れは、我々がそう捉えているだけで、実は


「卑弥呼を構成していた原子は、きみの体の一部になっている」

とか

「頼朝を構成していた元素は、関東人の100万人の体に分散して今日も存在している」

 とか

「信長の原子は、京都の草花たちに吸い上げられていて、明日あたり京野菜として出荷される。これで8000回目」


とか、そういうことなのだ。これが「ぐるぐる」回る時間軸である。




 だから、原子や元素レベルでみれば、地球の総質量は基本的にずっと変わらないのだから、ぐるぐる回っているだけで、過去も未来もなく、コップの中の水のように



「地球の中でブラウン運動をしているだけ」



である。 仮に、水分子がブラウン運動をしなくなるということは、それはコップの中の水が崩壊してゆくということだろう。つまり、水という存在が死滅してゆく方向性である。分子は崩壊し、原子から元素へ戻ろうとするだろう。



 それと同じで、生命や人類が遺伝子を受け継ぐことを辞めてしまえば、「生命」というジャンルが崩壊し、細胞をやめてしまい、分子をやめてしまい、原子をやめてしまうような、そういうことが起きる。


 それでも元素としては、地球の総量は変わらない。


 そして、さらに大きい話をすれば、地球の内部で物質や遺伝子がぐるぐる回ることをやめても、宇宙全体でみれば、たいしたことはないのだ。



 大変興味深いことに、「神様は、まだブラウン運動を停止させていない」し「分子のぐるぐるをやめさせてはいない」から宇宙は存在している。


 だとすれば「神様は、まだ生命活動を停止させていない」し「遺伝子のぐるぐるをやめさせてはいない」から生命は存在しているのだ。


 だ・か・ら。


だから人類は子孫を残すのだ。それは望むと望まざるとに関わらず、宇宙や地球や分子といっしょにこのセカイで活動しているというひとつの証であるからだ。


 もちろん、子孫を残せなくても、分子や元素の形でぐるぐるに参画はできるから、それほど心配するほどのものではないのだけれど。


 でも、子孫を残すことは、人類というレベル、生命というレベルでは、如実に宇宙のぐるぐるシステムに参加するアクティビティなのである。


 
  だから人類は子孫を残したいと思っている。そのぐるぐるが終了する、太陽が爆発するその日までは。


 しかし、もし太陽が爆発しても、我々を構成していた原子は宇宙をまたぐるぐるできる。


 その時には、我々には意思というものはないかもしれないが、まだ我々は活動には参加できているので、”生きている”とはいえるかもしれない。



 なーんてね。





2019年8月3日土曜日

新しい哲学のスタート  人間の世界は2つの層で出来ている。 ~肉体と論理~



 解脱者になれぬ人間が、少なくともこのセカイの真実とやらをある程度理解して、その上で一種の「悟り」を開いて生きてゆくにはどうしたらよいのか、ということについてですが、簡単な方法として


 エビデンス主義


を挙げることができるでしょう。


 平たく言えば、「ごちゃごちゃ言ってても仕方がないので、このセカイはこうなっているよ、という証拠が示されれば、もうどうしようもないじゃん」ということです。


 結果として、解脱したのと同じような諦念に包まれながら生きていくことができます。





 解脱者ムコガワは、ちょっと前までは評論家の呉智英さんが好きだったのですが、彼の場合は


「あだ討ちを復活させろ」


とか、なかなか面白い主張が多いので、ある意味・観念的なところがあるので、好き嫌いが分かれるかもしれません。


 
 それに対して、ここ数年で一気にメジャー論者になってきたのが橘玲さんです。彼の場合は「言ってはいけない」シリーズなどで「不都合な真実」について証拠仕立てで攻めてきますから、読み手としては


感情的には嫌だとしても、ぐうの音も出ない


ということが多いのが特徴です。



 その橘玲さんの論考ですが、基本的にはムコガワもおなじ論調です。


「取り残された男たちのテロ」 (橘玲)
https://wpb.shueisha.co.jp/news/society/2019/08/03/109452/


  今回の週プレさんのインタビューもなかなか面白いです。



~~~~~~~~




 今回の橘さんの記事では、「テロを引き起こすのは若い男性が多い」点について言及がありました。

 同じことを、このブログでも書いています。


引きこもり男性と無差別殺人の相関 (武庫川散歩)
https://satori-awake.blogspot.com/2019/05/blog-post_28.html



 また、女性と男性を比較すると、女性のほうが優劣のばらつきが少ない点も、橘さんの論考を一歩進めて武庫川は仮説を立てています。



男性優位社会が出来上がった理由 (武庫川散歩)
https://satori-awake.blogspot.com/2019/01/blog-post_23.html



 さらに、犯行を犯す彼らは「正義」だと信じてそれを行っている点も、このブログで言及しました。


ストーカーは正義である(武庫川散歩)
https://satori-awake.blogspot.com/2016/05/blog-post_27.html


日本人には理解できないテロの論理 (武庫川散歩)
https://satori-awake.blogspot.com/2016/07/blog-post_8.html




 武庫川の場合は、体験、体感をベースにしながら仮説を立ててゆくのですが、橘さんはそれに冷徹な証拠やデータを付け加えることで、いっそうの説得力を持つお話を次々に繰り出しておられます。



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 さて、ここからが今日の本題。これまでの哲学と、これからの哲学がエビデンス主義によって変化するとするならば、そのポイントはある焦点に集約されてくるように思います。



 それは、「物理的肉体層」としての人間のお話と、そこから上の「論理的存在層」としての人間のお話ということになるでしょう。


 ああ、ちょっとわかりにくいですね。もう少し平たく言いましょう。



 どうしてこのセカイでは問題がたくさん起こったり、政治や社会がうまくいかないのか、ということの原因は


「肉体としての人間」と「論理としての人間」


がどんどん乖離しているからに他なりません。



 実は、人間の体が2層になっていることは脳科学者にとっては当たり前のことなのですが、脳科学の世界では


「ヒトが生命体として生きてゆく部分を司る、脳幹などを中心とした古い脳」





「知能や言語、文化や論理といった社会やセカイを構築する大脳新皮質などを中心とした新しい脳」


があると言われています。


 ポーン・マクリーンという学者は、2つではなく3つに分け


■ 「反射脳」 脳幹・爬虫類脳

■ 「情動脳」 大脳辺縁系・哺乳類脳

■ 「理性脳」 大脳新皮質・ヒト脳



という分類をしました。いずれにしても、脳は層になっていて、進化の発展の中で継ぎ足されるように新しい機能が生まれる、と考えられているわけです。



 マクリーンは、「人間の苦悩というのは、この異なる層が存在するゆえにあるのだ」と考えたそうですが、私も同じように考えます。



  ムコガワ的には、脳の機能に限定してというよりも、現代社会のヒトは、



「肉体、ボディ」としての層





「論理、理性」としての層


が実は遊離したり乖離したり、合致していないのではないか?と推理します。





~~~~~~~~~~~


 ムコガワは、セカイはコンピュータのように「論理構成」だけでできていると唱える「セカイは存在しない」論者です。


 最初の仕事では、同僚と一緒にLANケーブルを這わせてネットワークを構築したり、そんなことばかりやってましたが、LANとインターネットのセカイには


TCP/IP


という階層別のプロトコルがあります。(苦手な人はパスしてOK)


  OSI参照モデル、という現代のコンピュータとネットワークの基礎になっている通信機能の考え方では


「物理層」「データリンク層」・・・と最後の「アプリケーション層」まで


7つの階層を持って規格化しています。



 こんな話はわかりにくいので、要するに、簡単に言えば


「物理的な階層」レベルでネットを繋ぐ →  LANケーブルが規格にあっているか。ハブはどうか。


「論理的な階層」レベルでネットを繋ぐ → データをそれぞれの言語や規格が理解し合えているか。


というように2つのレベルがある、と考えてよいでしょう。実際には7段階に分かれるけれども。



  なので、通信をしようと思えば、物理的なIPアドレスがそれぞれに割り振られていることも大事だし、ケーブルのカテゴリも大事だし、ハブがどこまでのスピードに合っているかも大事だし、そして、その上に流れるデータも大事だよ、ということなのですが、


「物理層の機能が限定的だと、いくら論理的には速く通信できても、実際のスピードは出ない」


なんてことが起きます。



 これが、ヒトの世界にも起きています。




~~~~~~~~~~




 どういうことでしょうか。これも分かりやすく言いましょう。


 日本人は、勉学に励んで、智恵や知識を身につけ、自己実現をして、社会にその力を還元させながらお金をいただいて、文化的な生活をするのが理想です、という論理的な生き方が示されていますが、


 実際には、女性などは、そのために10代後半から20代前半を学問に費やし、そこから社会のために仕事をしようとしたら、子供が産めない、という制限を受けてしまいます。


 
 簡単に言えば、論理層の生き方は理想的ですが、物理層の肉体のことを考えると制限を受けてしまうのです。




 こんなことは、世界中で山のようにあります。今回の橘さんの話にも出てきますが、



「理想の上では高学歴、高収入、リア充」



 でありたいのに、


「肉体はチビデブで非モテで、派遣社員の非リア充のおっさん」



なんて人は山ほどいます。こうした「論理層が満たされない肉体層が脆弱なヒト」というのは、苦しむ以外にはありません。



 ※余談ですが、「論理想が脆弱で、肉体層が壮健な若者」は、パリピとしてモテ傾向にあったり、地元でマイルドヤンキーとして子沢山だったりします。

 なので、それなりに幸せです。リア充なので。



 ずっと言ってるかもしれませんが、私の元恋人で、筑波大学を出て公務員として年収700万円もらっているエッチなHちゃんは、45歳独身女子で子供もなく、子孫は絶滅するでしょう。


 論理層がいくら満たされても、肉体層の限界には、どうしようもないし、その結果は遺伝子の絶滅以外にないのです。





===========


 橘さんのインタビューでは、「じゃあ、どうすればよりよい社会に出来るんだ?」という問いに対しての答えはない、ということになっています。


  解脱者が説明すると、「よりよい社会とは結局、論理層をよりグレードアップさせてゆくだけの話なので、どんどん物理層とは乖離が広がるから、社会はよくならない」という結論になるでしょう。


  より高収入で、より公平で、よりモノが潤沢にあって、人々がより安心して暮らせる社会を追い求めることは「論理的にはどんどん追求できる」けれども、実際の肉体層、物理層は、そんな理想論とは真逆のところで動いているからです。



 真逆とはつまり、オスはメスとまぐわうことだけを考えていて、その日暮らしの狩猟採集のような形で、「掴まえる・食べる・排泄する・寝る・まぐわう」の繰り返しが物理層のあるべき姿であり、立ち位置やポジションを求めて熾烈に争いあい、相手を殺してしまうようなマウント合戦こそが肉体の現実なんだ、ということです。




 そうすると、これからのエビデンスに基づく哲学とは


「物理層と論理層をいかにすり合わせて、落としどころで我慢するか」


ということを提唱していく以外にはないということです。


 誰もがちょうどよく不満足な社会、誰もがちょうどよくやや優しい社会の微妙なラインをせめぎ合うのが幸せの本質であるということになるのでしょう。






2019年7月19日金曜日

■京アニを放火した男は「火あぶりの刑」が妥当か?



 解脱者でも、心がわさわさする時というのはあって、それが昨日の京アニでの火事の件でした。


 究極的には、解脱するということは諸行無常なのだけれど、それでもこの俗世において、(現時点で)33人もの人の命が、一人の人間によって奪われるということが起きてしまうこのセカイは一体なんなんだ!と強く思うわけです。



 京都アニメーションという会社の凄さも知っているし、そこに集ってきた若者たちの命が奪われたということも、これはもう



 令和が始まって、いきなりとんでもない事件が起こった



という気持ちは隠すことができません。



 犠牲になられた方々、いまも傷を抱えておられるすべての関係者に哀悼の気持ちをもっております。





=========



 この事件、解脱者的、あるいは哲学者的に考えても、いろいろな課題を秘めています。



◆ 1人の犯人の命と33人の人たちの命は同じ重みなのか、違うのか。




 ◆ あるいは1人の犯人の命も、33人の人たちの命も、どちらも重みなど比べられないものなのか。




 たったこれだけの簡単な問いに、哲学は明確な答えを出すことはできないでしょう。


 あるいは釈迦なら、どちらも無価値だとでも言うのでありましょうか。




==========


 現代の日本の司法ですら、この問題に対して明確な答えが出せません。これは司法と日本という国家の限界点でしょう。



◆ 33人の命を奪った犯人1人を死刑にさえすれば、この話は落とし前がつくとでも言うのか。


◆ 1人の死刑が33人分の命の価値を担保するか



という問いかけは、現代の司法では納得のゆく解決を生みません。



 どこかの国では、300年くらいの終身刑を申し渡すことがあるそうですが、今回の事件で、



「33回死刑にすれば、命の価値は同等である」


とでも言えるのでしょうか。




=========



 哲学的に考えて、もし1人の命の価値が同等であるなら、犯人が1人で、被害者が33人であるということは、33回の死刑を申し渡すことが妥当です。


 しかし、妥当ではあるが、実現不可能なことは、納得がゆくものではありません。


 では、33倍の刑罰を科すというのではどうでしょう。



 江戸時代であれば、犯人は


 火あぶりの刑


に処せられたかもしれません。


 一般的に、火というのは1000度から1200度くらいの熱さがあります。それを思うと、今回犠牲になった方々の苦しみ、痛みを思わずにはいられないのですが、



33倍の業火で攻め立てれば


なんとか命の価値が担保できるかもしれません。



ウィキペディアに温度の比較というのがあります。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A9%E5%BA%A6%E3%81%AE%E6%AF%94%E8%BC%83



ここで比較して、ちょうど1000度の33倍である3万3千度、という温度になるものはないのですが、




広島型原爆で3000度


太陽で5000度


シリウスの表面温度が3万2千度


広島型原爆の爆発の瞬間で10万度



といったところです。



 ざっと考えて、犯人を原子爆弾で爆破すれば、33人の命の重みが詰まった火あぶりに相当するということになるでしょう。




 =========


 こうして考えると、江戸時代に打ち首や火あぶり、あるいは石川五右衛門の釜ゆでがあったり、あるいは北朝鮮における銃殺刑やマシンガンで粉々という刑罰が存在することには、ある程度の


「意味合い」


があることがわかります。



 北朝鮮が政治犯を銃殺することが妥当かどうかは別の問題として、


「大きな犯罪を犯した者に対するジャッジメントとして、庶民が理解できる限りの妥当な量刑を、考えられる限りにおいて提示する


ということは、政府が納得のゆく落とし前をつけられるかどうかと密接に関係するというわけです。




  33人を焼き殺した犯人がもし存在していて、その人物をただ単に絞首刑にして、それで刑罰が成立したと公的にされてしまったら、


「そんなジャッジメントは、この日本という社会で受け入れられるのか、それでよしとする裁判や行政や政府を庶民は『それでOKである』と納得するのか」


ということが明らかになってしまうわけですね。




 ですから江戸幕府は、それに対して可能な限り「理解しやすい」「納得を得やすい」量刑を生み出した、というわけです。



 それが火あぶりや打ち首獄門であった



ということになります。




 評論家の呉智英さんは、こうした量刑問題に対して



「あだ討ちを復活させよ」



と主張する人ですが、33人のあだ討ちが行われても、実は命の重みは等しくならないような気もします。


 ましてや、犯人を原子爆弾で爆破しても、それで等しくなったとはいえないでしょう。



 どうすればいいのかわかりませんが、せめて庶民感覚では、



「火あぶりには火あぶりを」


というハムラビ法典の復活が、「理解しやすい、わかりやすい」ところかもしれません。




1人殺しても死刑にはならない。


2人殺したら死刑になる。


33人殺しても、2人殺したのと同じ刑罰である。



ということを、現代の司法はジャッジメントとして成立させられるのか、それともそれは限界なのか。


 考えさせられる出来事だと思います。











 

2019年6月14日金曜日

「1人で死ね論」は是か非か ~明解な最終結論を教えよう~




 50歳のひきこもりが無差別殺傷を起こしたと思ったら、つい先日、兵庫県の川西では、80歳の老人が刃物を持って小学校へ乱入したそうです。



 8050問題というのが引きこもり界隈では有名だそうですが、え?それって、「80歳も50歳も無差別殺傷を起こす」という意味ではないのですか?違うの?



 わたくし武庫川散歩は、解脱者で悟りを開いたものですから、引きこもりの人たちが心から満足して生きてゆく方法をもちろん知っています。


 知足(ちそく)=足ることを知る


というのは解脱と悟りの根幹です。


「おとうさん、おかあさん、今日も俗世の悪縁を避けてこうして、粗末な草庵の中でささやかに生かしてくれてありがとう。そのためのわずかな備えを、ワタクシのようなもののために、使ってくれて本当に感謝してやみません。ありがたやありがたや。肩でもお揉みいたしましょう」


と毎日両親に手を合わせながら、神仏に真摯に祈りを込めながら、世界平和を願って6畳ばかりの庵の中でささやかに生きてゆく、というのは



 これぞ、まさに仏道の理想的いきざま



ではありませんか。


 まるで方丈記の鴨長明のようです。



そしてそのまま両親が亡くなり、蓄えも少しずつ減らしながら、いつかは自分もその草庵の中で即身成仏するというのもまた、



 御仏のお導き



以外にはありますまい。



 だからとても簡単なことです。引きこもりは、現在「引きこもって命を繋げていることを衆生と両親に感謝しながら、念仏を唱えて生きてゆけば」よいのです。それ以上でもそれ以下でもありません。


 それをなまじっか


「自力で再就職をして、失われた20代、30代を取り戻そう」


なんて欲深い強欲の固まりになったり、あるいは、ちっぽけで尊大な自尊心のために親に逆ギレしたりするから犯罪を犯すわけで、


 感謝の念と知足の気持ち


とともに生きてゆけば、いつかは地獄か極楽か往生が待っています。






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 さて、冗談とも本気ともつかぬ老僧のつれづれなる言葉は脇へ置いておいて、いまをときめく


「1人で死ね」


という言説が良いのか悪いのか、という問題に、今回はわたくし解脱者ムコガワが、



 ズバッと一刀両断


に明解な答えを述べたいと思います。



  この問題、死にたい人に対して「1人で死ね」というのはどうなの?ということですが、解脱者ムコガワがはっきり言います。



「この世界の誰であっても、誰かと一緒に道連れに死んだり、死なせたりするようなことはあってはならぬものだ!」


ということが結論です。



 殉死を認めたり、要求するような社会は、あってはなりません。



 人は一人で生まれ、一人で死ぬのです。(双子ちゃんは除く)




  どんな状況や、どんな人物であっても、誰かの死に際して道連れが必要であったり、あるいは道連れがやむをえない状況なんてことは、あるはずがないし、あってはならないのです。





  それが、ヤマト朝廷の王であっても!!!!!




 ・・・・・古墳時代のこと、今からはるか昔の日本人でさえ、「誰かと道連れに誰かが死ぬのはおかしい」と気づいていた人物がいました。


 その人物の名は 



野見宿禰 (のみのすくね)



といいます。 日本最初の相撲取りでもあった彼は、ある皇族の死の際に、



「殉死をやめて、埴輪にしよう!!!」



ということを提案し、それ以降天皇のための殉死はなくなり、埴輪が埋められるようになりました。



 すばらしいことではありませんか!!!



 「たとえ天皇であっても、誰かのために道連れで人が死ぬことはあってはならない」



という理念は、すでに古墳の時代から当たり前のことです。



 そう、相手が天皇であっても


「一人でみまかられよ」


というのが、日本の国体です。それをはっきり言える人物がいたというのも、凄いことですね。


 

 ましてやささやかなる庶民が、「一人で死ね」と言われて文句があるとは、なんたる傲慢でありましょうか。



 そこで、今日の商品です。


 一人で死にたくないあなたのために、特別なハニワを多数ご用意いたしました。


 人型、馬型、犬型なんかもあります。



 え?ハニワと一緒に死ぬのはいやだ?



 では、そんなあなたのために、今度は特別な



フ、フィギュア・・・・。(はあと)



をご用意しております。ソフビ製からレジン製まで、取り揃えておりますので、ぜひご一緒に




 みまかられよ。





























2019年5月28日火曜日

引きこもり男性と無差別殺人の相関に関わるエビデンス ~法務省は見た!~



 引きこもり男性(のようなもの)が、無差別(のような)殺人を犯したというニュースが今日も俗世をおののかせています。

 実際には、まだまだ事件の背景が明らかにされていないので、



 引きこもり人間は、殺人を犯す!


とか、そういう安易な決め付けはよくないと私も当然考えています。



 では、引きこもりのおっさんは本当に危険なのかどうか、ここはひとつ、正確なエビデンスに基づいて考えてみることにしましょう。



  そう!今をときめく橘玲さんもびっくりのエビデンス(証拠)主義で、



 引きこもりと無差別殺人についての相関係数


をはじき出そうという魂胆です。




 よし、それなら古今東西の無差別殺傷事件について、その 犯人像を調べてみようと思ったら、もうありました。


 そう、あったの。



 法務省が、すでに調べていたのです。



無差別殺傷事犯に関する研究

http://www.moj.go.jp/housouken/housouken03_00068.html

 (法務省)



 というわけで、これ以上にないほどの正確な法務省のデータから、犯人の属性を洗い出してみました。(原文は長いので、犯人像に関わるところだけでも読めます)




 無差別殺傷犯人の実態
http://www.moj.go.jp/content/000112400.pdf


◆ 平成12年3月末日から22年3月末日までの間に裁判が確定した無差別殺傷事件

◆  対象者は52名

◆ 犯人像   男性51名 女性1名  (男性率 98%)

◆ 自分の配偶者や子と同居している犯人 2人

  自分の親や親戚と同居している犯人 28人

  独身一人身の犯人  26人

◆ 婚姻歴なし 43人  (非婚率82.7%かつ男)

◆  犯行時に彼女がいない犯人  45人  (非リア充率88.2%)


◆ 就労経験の有無  あり 47人  (90.4%)


◆  犯行時の就労   就労あり  10人  無職 15人  (無職が60%)


◆ 生計     月収なし 31人  (約60%が無収入)




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 まだまだ項目は続きますが、もう一目瞭然ですな。



 「一度就職はしたものの、社会でうまくやれず仕事がなかったり収入がない男性で、かつ彼女がおらず非婚であり、1人暮らしもしくは親と同居している人物」


は、無差別殺人と相関がある、ということです。





 ただし、必要条件と十分条件の問題があるので、そこははっきりしておきましょう!



 正確には



★ 無差別殺人を犯す犯人は、おそらく9割方が、非リア充彼女なし、引きこもり的男性である



そして



★ 非リア充彼女なし、引きこもり的男性の中から、無差別殺人犯は、ごくごくごくわずかな率で発生する



と言えるのです。


 え?必要条件と十分条件がいい加減すぎるって?。てへぺろ。



 しかし、これを逆に言い換えれば、興味深いことが言えます。



◆  女性の98%は無差別殺人を犯さない。そして、彼氏や彼女がいて、妻や子供たちに囲まれている男性も無差別殺人を犯さない。



 そう!女性とリア充と頑張るお父さんは無差別殺人を犯さないのです。

 



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 では、


「無差別殺人を犯す非モテ引きこもりおっさん」





「無差別殺人を犯さない非モテ引きこもりおっさん」


との違いはどこにあるというのでしょうか。



 その答えも法務省のデータにあります。



 犯人の心の闇、つまり動機の部分ではこうなっています。



◆ 自分の境遇への不満 22人 (43%)

◆ 特定の者への不満 10人 (19.2%)

◆ 刑務所への逃避 9人 (17.3%)

◆ 自殺願望 6人 (11.5%)

◆ 殺人への興味 5人 (9.6%)

◆ 不明  9人 (17.3%)



 とにかく、周囲に対して不満を持っている非モテおっさんは、無差別殺人に走るのです。



 これだけで6割です。それに


「どうせなら俺も死ぬ!」


が加わるともはや7割を超えてきます。




 これで、無差別殺人を犯す可能性のある非モテおっさんの傾向がわかりました。



「一度就職はしたものの、社会でうまくやれず仕事がなかったり収入がない男性で、かつ彼女がおらず非婚であり、1人暮らしもしくは親と同居している人物が、周囲に対して不満を抱えていると、自分も死んで周りを殺そうと考える可能性がある」



ということが結論です。



 あなたの周りにも、こんな人がいたら要注意です。


 ぜひ、


◆ 仕事に就くか

◆ 彼女ができるか結婚するか

◆ 不労でも収入があるか

◆ 満ち足りた気持ちになれるか



してもらわないと、何かが起きるかもしれません。


 しかし、上のどれか一つでも満たされれば、事件は起きないかもしれないのです。



2019年5月27日月曜日

弟子にお金を貸して絶縁するかどうか不明な話。



 おひさしぶりでございます。


 私は元気です。


 ちょっと最近、緑内障のせいで目が見えづらいのですが


 「目が、目がああああ!!!!」


とムスカ大佐の真似をする余裕があるくらいには元気です。


 そうそう、 ムスカ大佐といえば、


 ムスカ大佐のサングラス


が発売されたそうで!


https://www.cinematoday.jp/news/N0108788


 私も度入りグラサンは4つほど持っていますが、ムスカモデルには興味しんしんです。





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 さて。はてな界隈では、


「お金を貸して絶縁するだけの話」
https://yashio.hatenablog.com/entry/20190524/1558709259


というのがちょっと盛り上がっていて、


『そうだよね~、友達にお金を貸したら、絶対トラブルになるよね~』


というのはもはやこの世では定説以外の何ものでもありますまい。



 ついでにそれを受けて、シロクマ先生もコメントを書いておられたので、お好きな方はどうぞ。



「ほとんどの人は『友人にカネを貸してはいけない』を理解する必要なんてない」
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20190528/1559023935





 まあ、そんなこんなで



 友達にお金を貸すと大変なことが起きるぞ



というのは、よくある話なのですが、わたくし、稀代の解脱者・武庫川散歩には友達がほとんどいないので、お金を貸すというトラブルはおそらく皆無でしょうし、保証人になってくれという友達もほとんどいないので、その心配はなさそうです。



 ええ、友達は少ないほうですが、何か?




 ・・・。・・・・・・。 (沈黙)





 さて。



 友達はほんの一握り(右手で)ぐらいしかいないのですが、弟子は解脱前、解脱後といろいろいるので、先日、



「師匠(元)!お金を貸してください!」


という弟子が現れたので、5万貸しました。はい。



 その人物は元々、解脱前の俗世にいるときの弟子で、3年間ぐらい毎日顔を合わせながら人生のあれやこれやについて指導鞭撻した時代の可愛い女の子なのですが、もはや三十路をとうに過ぎた



オバハ・・・ピー♪


のようなものなので、腐れ縁の1人です。


 おまけに、すでに人妻で、 よくよく話を聞くと、しがないこの世の片隅で、世をしのぶサラリーマンをしている武庫川よりも



「おまえのだんなのほうが給料もらっとるやないけ!!!!」



という つっこみどころ満載 な状況だったのですが、これもブログのネタにするには安いものだ、と考えを改めなおして、



 心やさしく、5万貸しました。




 さあ、この5万。人妻から無事帰ってくるのか、こないのか!



 さあ!はったはった!




 ・・・。もとい。




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 ところで、この人妻とは浅からぬ縁がありまして、人妻の1年後輩がいて、彼女もまた、武庫川伝説ではおなじみの



「出家女子第一号」


だったのであります。ちなみに、この後輩出家女子も、今は人妻です。




 人妻が好きなわけではありません!!!!


 女子がなぜかみんな人妻になってゆくのです!!!!




( 余談ですが、当ブログではおなじみの「ハガネちゃん」こと出家女子第二号は、まだ未婚です。)




 さて、そういえば出家女子第一号となった後輩女子には、わたくし武庫川優しいので、



 21万1000円



貸しましたね。その昔。このお金はきちんと戻ってきました。




 というわけで、後輩女子に21万も貸して、先輩女子に5万すら貸せないというのは道義に反するので、お貸ししたのですが、とりあえず今のところ少しずつは返済していただいております。


 一安心。



 そういえば思い出しますね。解脱前のある日、その後輩女子から電話がかかってきて、


「師匠、いまどこにいるんですか!も、もしや先輩女子と一緒なんじゃ!」

「ぎ、ぎくり。どうして分かった!」



なんてこともありました。


 若かりしころの思い出です。


 

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 そういえば、しばらくブログを更新していなかったのは本業が忙しかったせいで、旧事務員さんが引退したりして、1人で会社を回していたので、ブログをかく暇すらなかったのですが、いよいよちょっとだけ余裕が出てきました。


 ええ、新しい事務員さんが投入されてよかったです。



 で、ちなみにといえば。あんまりにも他人をほったらかしにしていたので、出家女子第二号のハガネちゃんから



「生きてますか?!連絡がないから心配していました!」


というLINEが来たりして、 いやいや、「たよりがないのはよい便り」と俗世では言うではないか。



 大丈夫です。



 落ち込んだりもしたけれど、わたしは元気です。


 
 本日二回目のジブリネタぶっこみ、でございました。おあとがよろしいようで。